特別老人施設
その実態
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母親は、平成19年9月に突然山形徳洲会病院から深夜私か帰った後に、後見人弁護士が妹夫婦に命じて、
山形市内表東1番地
地域密着型介護老人福祉施設(特別老人ホーム)
やすらぎの里 金井
に搬送され、入居させられた。
私は、翌日何時ものように病院へ行ったらベットには母親の姿が無かった。
驚いて、看護師に聴くと弁護士からの手紙を渡された。
母親が「ケムシ」「マムシ」と妹を罵り痛い爪の剥された足の親指を業と触って虐待して帰っていた妹・・・その夫婦に、この搬送を深夜突然黙って後見人弁護士が搬送させていた。
母親は、私に警護されて夕食を終えて安らかに寝ていた時の出来事でさぞ驚いたことだろう。
母親と妹の関係を私は、裁判所を通して報告していたのに・・・このような精神的な虐待行為を堂々と妹夫婦を使って搬送させていたのだった。
母親は、この時のことを私に涙を流しながら語った。
「真夜中に、突然来たので如何したかと思ったら、何にも言わずに抱かかえられ車椅子に載せられた。」
「何処へ連れて行くのだ!!」と聴いても一言も言わずに運ばれて車に乗せられた。
「このまま何処かに連れて行かれて殺されると本当に思った。」
「着いたところが真っ暗で何処か判らないが、凄く恐ろしくて朝まで寝られなかった。」
「朝が明けても、老人ホームと判って落ち着くまで恐怖で脅えていた。」
と私に訴えた。
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広大な敷地に
建てられた
たった29名だけの
特別老人施設
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有り余るスペースに
29名の入居者が
多くの介護士や看護婦が
登録されて交替で介護され
ている。
しかし、実際の内容は
少数で賄い高額な入居費を
取られ国からの補助を
受けていた。
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二箇所の入り口が有って、通常は正面の中央玄関から
特別老人施設に入る。
玄関に入ると正面に、事務所が有って事務員が必ず
対応し、誰に面会するのかを記載し署名する。
その後、母親の場合は、真っ直ぐに伸びた廊下を進むと
第一回目の施錠してある扉が有って、更に次の第二回目
の施錠してある扉に出会う。
そして、更に進むと第三回目の施錠してある扉に出会う。
何れも扉は、自動施錠装置で一連に施錠が開くように
なっている。
中からも外からも暗証番号を機器に入力しなければ
出入り出来ない状態になっている。
従って、勝手に入居者を出入りさせたり外部から
出入りは、一切出来ない状態であった。
各扉に向かう手前には、それぞれの施設への
廊下の通路になっていた。
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母親の部屋は、約6畳の洋間で入り口の左手に
直ぐ、トイレが有り、突き当たりには窓が一つ
設置されていた。
その窓に添って母親がベットで寝せられていた。
先月から虐待していた娘の○○○が液晶テレビを買って
措いてあった。
私が補聴器や目薬などを措いて帰ったら必ず妹が
来た時には、業と枕元の洋タンスに隠されていた。
ラジオを母親に聴かそうとして帰ったら必ず
片付けられていた。
テレビが有っても母親は、自分で立ち上がれない
自由にテレビは観られない。
ただの飾りであった。
母親は、まだ確りしているが以前より
物忘れが多くなっていた。
妹は、出来るだけ孤立させて母親が
早くボケるのをただ待っているだけだ。
・・・・・・・
母親は、「札幌から土地売りに山形へ出掛けたのが
間違いだった。」と後悔していた。
(撮影月日 平成20年07月09日午後2時10分ころ )
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私が通うのにもより遠い山形市から寒河江へ向かう途中の金井と言う場所に特別老人施設は有った。
まだ新しく新築されたばかりの施設で、たった29名の入居者に対して数十名の職員が交替で働いていた。
母親も含めて全ての入居者は、カプセル型と称する個室に入居していた。
母親の部屋に入ると母親が、「亨か・・・来てくれて良かった。」と涙を流した。
「○○○の野郎が勝手に真夜中来て病院から、ここに居れて連絡取れないと思った。」と怒って言った。
「助けてくれと騒いでも誰も助けてくれなかった。」と話が止まらなかった。
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この老人施設では、病院と違って母親を食堂に運ぶのにも職員二名が来て運ぶので勝手にしないで下さいと初めから忠告された。
二人での車椅子へ載せる作業は、両側から患者を掴むので逆に不安定になって負担を掛けていた。
私の方法は、患者を前から抱かかえて患者の又に右足を差し込んで膝にお尻を乗せて車椅子まで移動し乗せる方法で一般的な方法である。
すべての介護動作が私から観て矛盾していた。
私は、この事からも暫くどんな扱いをしているのかと思って毎日通った。
食事は、病院の食事から観たら全般的にお金をあまり掛けていないことが判った。
魚などのミールも少なく母親は、「ただ生かされているだけの同じ食べ物だ。」と言った。
介護の担当職員も年齢的に若く看護師らしき人だけが少し年齢を重ねていた。
食事以外は、母親に関しては他の入居者と異なり何時もベットに寝せられていた。
やっぱり病院と同じで食事も係りの介護士は、手を貸すこともなくボロボロと零して食べていた。
ここでも人件費の節約で手が足りなかった。
裕福なお金持ちの老人を相手利用して少数の人員で多額の営利を得ている企業としか思えない。
ここも設備だけは、ご立派でも扱う人間に人の心が無かった。
母親は、「亨の扱いが一番柔らかい扱いで上手だけれども、荒い扱いは病院も
ここも同じだよ。」と言った。
ただ、この施設で安心なのは、妹夫婦が来ても必ず出入りの記載が必要で勝手に出入りが出来ないことであった。
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平成20年6月26日午後3時20分
撮影
母親は、6畳一間の洋間で
テレビやラジオが備えられても
操作できないことから、ただ一人
毎日食事以外寝させられている。
娘の私の妹が一週間に二度
程度顔を出すが、「帰れ。」と言って
怒ると
「まだ死なないのか、生きているだけ
ありがたいと思え。」と
言って直ぐ帰って行くと話す。
この日も刑務所に入れられているのと
変わりないと言い涙を流している。 |
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何か母親にあったらどんな細かい事でも連絡して欲しいし、母親からの伝言は必ず連絡して欲しいと私か何度頼んでも一切の連絡が無い。
母親からの話では、私の電話連絡も一切伝えて貰っていないと話している。
そして、娘の○○○の意向で勝手に外出などは許可しているらしく母親の話から「何処か事務所のようなところへ連れて行かれたことがあったが、一円だってお前には遣らない。」と言って来たと言う。
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孤独な個室の余生を過ごす母親
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