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天声人語

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2008年7月17日(木)付

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 作家の太宰治は、創設されたばかりの芥川賞を、のどから手が出るほど欲しがった。名誉というより、賞金500円が魅力だったらしい。だが、第1回の受賞は石川達三の『蒼氓(そうぼう)』に決まる▼あきらめきれず、選考委員だった佐藤春夫に手紙を送った。「お笑いにならずに、私を助けて下さい」。だが2回目も3回目も選にもれた。太宰は佐藤の家でさめざめと泣いたそうだ(『芥川賞の研究』)▼ついにこの賞に縁のなかった太宰は、時の移り変わりに驚いているだろう。73年の歴史で初めて、日本語が母語ではない外国人が賞を射止めた。中国人女性の楊逸(ヤン・イー)さん(44)は、22歳で来日して日本語を学び始めた▼受賞作『時が滲(にじ)む朝』は3作目だ。民主化運動で挫折した青年が天安門事件後に日本に移住し、悩みつつ生きる姿を描く。「国境を越えて来なければ見えないものが書かれている」と選考委員に買われた。新しい眼(め)を持つ日本語作家の誕生である▼言葉は生き物だ。国や民族の文化、精神性に深く根ざし、さまざまな陰影をまとっている。よそから来た者が操るのは楽ではない。まして小説を書くなど難行苦行に近かろう。それを楊さんは、「泳げないのに泳ごうとして、体が浮くように感じる楽しみがある」と軽やかに話す▼〈文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければならぬ〉と、賞に名を残す芥川龍之介は言っている。時を超えた励ましだろう。さらに言葉をみがいて、外国人による「日本語文学」を引っ張る活躍を楽しみにしたい。

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