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私たちの食卓に直結する問題だ。無関心ではいられない。燃料の高騰に苦しむ全国の漁船20万隻が、初めて一斉休漁を決行した。
漁師たちの窮状はよく分かる。漁業の生産コストに占める燃料費は3〜4割。運輸業界が1割程度だから、原油高ショックの大きさは他産業の比ではない。燃料を多く使う遠洋漁業だけでなく、近海漁業でも大半の漁船が赤字に追い込まれている。
売値に少しでも転嫁したいところだが、魚は市場での競りで決まるから、工業製品のように卸先との交渉による値上げができない。価格決定をリードするようになったスーパーなどの量販店も、消費者の魚離れがこわいから仕入れ値を抑えようとする。そうでなくても、魚介類の消費量はこの10年で1割減っているのだ。
深刻なのは、この原油高が一過性ではない点だ。新興大国の急成長による需要増が将来にわたって見込まれており、世界規模で新価格体系への移行が起きていると覚悟せざるをえまい。だとすれば、原油高のもとでも続けられる産業へと体質を変えていく以外に、漁業を守る道はない。
漁業団体は「燃油高騰分を政府が直接補填(ほてん)してほしい」と要望している。燃油高を受け、欧州連合や韓国も漁業への助成を拡大している。しかし、いつまでも補填してはいられないのだから、一時の痛み止めにしかならない。
むしろ政府や自治体は、漁業の体質転換につながるように各種の対策や支援を組み合わせ、漁協などもこれに協力していくことが大切だ。
まず、漁船を省エネ型へ切り替え、電力消費が少ない発光ダイオード式の集魚灯を導入するなど、油依存の体質を改めていくことだ。
売値を上げるためには、漁獲を抑えて需給を変えることも避けられないだろう。たしかに魚離れが心配だが、穀物の高騰からすべての食料品が値上がり傾向にあるので、それとの競争だ。日本近海では乱獲が指摘されており、水産資源を守ることにつながる面もある。そのための休漁や減船は、補償などで支援したらどうか。
漁業者も魚を市場で量販店ルートへ流すだけでなく、質のいい魚を利益のでる値で売れるよう自ら販路を開拓する。流通段階を短縮して中間コストを減らす。そういう努力が必要だ。
いまや魚消費の4割を輸入に頼っている。原油高という苦境は世界のどこの漁業でも同じだ。日本食ブームもあり世界的に魚需要が増えているから、輸入価格も上がっていくだろう。
日本は排他的経済水域の面積が世界6位と水産資源に恵まれている。この自然の恵みを生かし、これからの時代に合った魚食文化を育んでいきたい。漁業の構造転換がその土台となる。
22歳で日本の土を踏んだ時、頭に入っていた日本語は「こんにちは」だけだった。エッセーでそう書く44歳の中国人作家、楊逸(ヤン・イー)さんの小説「時が滲(にじ)む朝」が、芥川賞に決まった。
70年を超す芥川賞の歴史で、日本語を母語としない受賞者は初めてだ。
世界では、生まれた国を離れて活動する作家は珍しくない。
「ロリータ」で知られるロシア出身のナボコフは米国に渡り、英語で作品を著した。「存在の耐えられない軽さ」のクンデラはチェコから亡命したフランスで活躍し、ハンガリー出身のアゴタ・クリストフはフランス語で「悪童日記」を書いた。日本でもよく知られる作家たちだ。
しかし日本の文学は長い間、日本人か、幼少期から日本語を使う環境で育った外国人によって書かれてきた。外国人にとって日本語の壁は高かったのだろう。
しかし、この十数年、成長してから日本語を学んだ欧米出身の作家、詩人が高い評価を受けている。外からやって来た書き手たちは、日本の文学に新しい風を吹かせ、その奥行きを広げている。そこに楊さんも加わった。
楊さんの小説は、現代史のうねりや社会の激動に揺さぶられながらもたくましく生きる人間を、太い描線で浮かび上がらせる。
受賞作の主人公は中国人の青年だ。理想に燃えて大学に進むが、民主化運動に身を投じて挫折。中国残留孤児の娘と結婚し、日本に移住する。その後の本国への思いや、在外中国人たちの人生などを描いた。
物語の転機となる89年の天安門事件は、楊さんにとっても「国家と個人の関係などを考えるきっかけになった、一番影響を受けた出来事」だという。
こうした実感に裏付けられた作品は、現代人の閉塞(へいそく)感や、人間関係の葛藤(かっとう)などを繊細に書く傾向が強い日本の文学状況の中で、異彩を放っている。
日本で暮らす外国人は急増し、215万人にのぼる。中でも中国人は60万人を超えた。留学などで来日する高学歴の人も多い。楊さんのような表現者が現れるのは当然の流れだろう。
「越境する作家」の先駆者ともいえるリービ英雄さんは、「文化の本質であるコトバ」はそれを身につけて表現しようとする人を差別しない、と書いた。人種や民族に結びつけて考えられがちな日本文化だが、翻訳を介さずに作品を発表することでその壁は乗り越えられる、という指摘に読める。
国境を越えてやって来た作家たちは、外からの視線で日本の文学に多彩で豊かな実りをもたらす。同時に、読者にも、国や民族をどう見つめるか、改めて考える機会を与えてくれる。
こうした文学者の活躍に大いに期待しよう。