映画新聞(1998年8月1日号)

「映画新聞語」

映画新聞のコラム[映画新聞語]に、毎日新聞の憂楽帳虚報問題が掲載されました。同紙と執筆者の許可を得ましたので、以下に掲載します。
改行位置および、文字化けの原因となりうるいくつかの機種依存文字などを適当な文字に変更した箇所があります。


 いささか古い話ではあるが、ことは重大と思い、ここに取り上げたい。毎日新聞の虚報事件のことである。
 今年2月4日夕刊のコラム「憂楽帳」で「ナヌムの家」と題した佐藤由紀記者の署名記事が掲載された。そこには「先月14日、東京・BOX東中野で開かれた」『ナヌムの家・パート2』の試写会で、客席の男性2人組がやじを飛ばし騒然となったが、「会場にいた元慰安婦の女性がすくっと立ち上がって、身の上話を始め」ると、彼らはいたたまれず会場を出て行ったと書かれていた。身の上話とは、「日本軍に連行される前からもつらい暮らし」で、「父親は酒乱で、よそに女性がいて母親を顧み」ず、「たまに帰宅すると子供たちに暴力をふるった」・・・という話で、それを聞いて「場内は水を打ったように静まりかえった」とある。この話を「友人が『ちょっと感動的でね』と教えてくれた」と結んでいた。
 そのまま読むといい話なのであるが、驚くことに、このコラムはすべて事実無根の代物だった。まず(1)先月14日に試写会などなかった (2)タイトルの間違い、『ナヌムの家II』が正しい (3)かりに試写日が間違っていたとしても(1月22日に開かれている)試写会場に元従軍慰安婦はいなかった (4)よって身の上話とはどこにも存在しない (5)その身の上話のような内容は『ナヌムの家II』の中にも出てこない、このコラムが映画の異なった認識を読者に与える。以上でっちあげ以外の何物でもない。いやあ、友人から聞いたというのが仮に事実としても、何もウラを取らずよくぞ書いたものだ。
 抗議を受け、毎日新聞は翌日の夕刊で訂正記事を掲載。そこで「一昨年の別の試写会での出来事でした」「身の上を語ったとあるのは、映画の中のことでした」とし、「認識不足のため関係者にご迷惑をかけたことをおわびします」と書いた。ところが映画の中に「身の上」話なぞ出てこない。訂正でさらに嘘を重ねることに。「認識不足」という次元ではないにもかかわらず、またウラも取らず、虚報に虚報を重ねるとは報道機関としての体質を問われるところである。
 さらに抗議や申入書でのやりとりの果て、5月8日付け毎日夕刊で奥武則学芸部長の署名記事「『ナヌムの家』に生きる元従軍慰安婦たちー『憂楽帳』とその『訂正』をめぐって」と題するコラムが掲載された。そこではこの事件の経緯を書き記しながら、非をすべて認める内容だった。しかし、でっちあげ記事がなぜ生まれたのか、社としてこの事件をどう受け止めているのかについてはまったく言及されていなかった。
 おそらく問題の記事を書いた佐藤記者も「訂正」記事を書いたデスク(?)も、せっかく善意で映画を紹介してやったのにという意識があったのではないか。善意だったらすべて許されるというのか。それこそ記者の傲慢そのものである。社会の硬直化という体質の断片をここに見る思いだ。
 前号では右翼によるスクリーン切り付け事件を書いた。大変な問題であるが、あれはあれでわかりやすい(しかし、やり方の陰湿さなど問題は多い)。この毎日新聞捏造事件には、何か根っ子の部分での気持ち悪さを感じてしまう。
 『ナヌムの家II』は興行的には残念な数字しか残らなかった。社会の元従軍慰安婦への関心がまったく後退したのと重なるような成績だった。しかし、映画は「問題」を書いたのではなく、その人がどう生き、どう死んでいったかを描いたドキュメントそのものだった。毎日の記事がすべてを規定したとはいわない。しかし、「元従軍慰安婦の映画」とだけにくくられるきっかけのひとつになったことは間違いない。
 善意が人や何かを殺すことだってある。人と真に係わることを拒否したら何も生まれてはこない。
  問題は根深い。あえて取り上げる所以である。(理)