2005年11月15日

「不平等」を認められない弱さ

「封印される不平等」 橘木俊詔編著 苅谷剛彦+斉藤貴男 佐藤俊樹 東洋経済

苅谷先生を除く著者達の主張はあまり支持できないのですが、下記の「社会的な「上」「下」を問わず「不平等」を認められない弱さがある」という指摘は当たっていると思います。

少なくとも、私個人には、社会的に「下」の人々が「不平等」を認められない理由が、ずばり当て嵌まっています(泣)

(佐藤俊樹) 不平等がすぐそこに存在するのに気がつかない、というより、見たくない、逃げたいという衝動があるように思うのです。それが場面によっては「憎悪」になり、場面によっては「鈍さ」になるのかもしれません。その不思議な真空状態というか、さわりたくなさ、見たくなさがとても気になります。

結果の平等と機会の平等は原理として違うのだけど、データで見ると、つまり現実の社会の仕組みの上では、少なくともここ50年くらいは、機会の不平等度と結果の不平等度がほぼ歩調をあわせて推移している。ところが、ある種の不平等への態度というか、語られ方を見ていくと、この2つが原理の上でしばしば混同されている。たとえば、「結果の悪平等はよくない」という話がしばしば「機会の悪平等はよくない」にすりかわってしまう。その一方で、実際の社会の仕組みの上ではこの2つがリンクしてきたことは忘れられている。それこそ現実問題としては結果の不平等度の改善が結果の不平等度の改善につながってきた、という事実を見ようとしない。

この不平等の実態と語られ方のずれ、そして理念の奇妙な混同と現実の強引な切り離し。今はその辺りのねじれが一番気になっています。(15ページ)

(佐藤俊樹) 最近の不平等の語られ方を見ていると、「上」の人たちが見たくないんだなあと強く感じます。知識や対人コミュニケーション能力、たとえば高学歴ホワイトカラーに要求される「マネジメント力」もこの2つと密接に関係していますが、そういう力で社会的な「上」「下」が決まってしまう、しかもそれらを習得するために必要な勉強や意欲が家庭環境に大きく影響されている。そういう状況になってしまうと、言葉を操る方の人たちにとって、そこに機会の不平等があるとはっきりみとめてしまうと、今の自分の恵まれた状況がまさにその不平等の上に成り立っていると認め、それを是正するように迫られることになります。

これはとてもつらいです。だから、そんな問題はできるだけ認識したくない。「上」になれなかったのは、あなたの努力やあなた自身の力が足りなかったからなんだよ、というふうに処理したくなる。

(斉藤貴男) 自分が恵まれていたから今の自分があるというふうに思いたくない。

(佐藤俊樹) そうです。恵まれていたから「上」になれたのだ、と認めるのがつらい。言い換えれば、そう認めるだけの強さを持っていない人、弱い人が多い。状況自体がつらいだけでなく、そのつらさに耐える強さが失われている。それがもう1つの理由です。(23−24ページ)

(佐藤俊樹) 先ほど社会の「上」の方にいる人たちがなぜ機会の不平等問題をさけたがるのか、について話しましたが、もう一つ、「下」のほうの人たち、今の社会の流れに上手く乗れない人たちにも、別の形でこの不平等の問題を見たくなくさせる力が働いているように思います。

社会学者の宮台真司さんが以前「学生の階層性(学生の中での上下みたいなこと)が何によって決まるか」について研究したことがあって、そこで彼は対人コミュニケーション能力に注目しています。簡単にいえば、1980年代後半ぐらいから、対人コミュニケーション能力が若者層における良い/悪い、上/下をわける尺度になっているのではないか、という仮説を立てた。対人コミュニケーション能力は客観的に測定するのが難しいし、それがさらに別の何かによって決まっている可能性ももちろんありますが、少なくとも日常的な生活感覚の上ではかなり的を得ている仮説ではないかと私は思っています。

この対人コミュニケーション能力は、不平等という観点から見ると、きわめてやっかいな性質を持っています。自分がいじめられた、不当に恵まれなかったと感じると、この能力は損なわれやすい。不当に何かを奪われたという自己認識を持つと、強い自己不安を抱えたり、他人に対する攻撃性を持ってしまう。優しさとか、人当たりのよさを身につけにくいのです。だから、優しさや人当たりのよさを重視する集団からは排除されやすい。今の若者言葉を使えば、とても「イタい人」として嫌がられ、人格的に評価されなくなるわけです。

つまり、自分が何かを不当に奪われているとか、社会からはじき出されていると思うことが、それ自体で何かをさらに失ったり、はじき出される原因になってしまう。たとえ恵まれていないと感じても、それを他人のせいだ、社会のせいだと考えるより、運だと考えてしまうほうが、一人ひとりの人生設計としては合理的なんです。だから、構造的につぶされている人であればあるほど・・・。

(斉藤貴男) 運だと思わないとやっていけない。

(佐藤俊樹) ええ。「もっと」やっていけなくなる。それが、構造的に不利な立場にある人まで含めて、運だ、チャンスだというふうに認識せざるをえないもう1つの理由だと思います。

これはすごくやっかいな事態です。恵まれてきた人が本当に、対人コミュニケーション能力を持ちやすいとすれば、何か是正措置がとられないかぎり、対人コミュニケーション能力の高い人の多くは恵まれた環境に育った人になってしまう。「マネジメント力」みたいなものも環境によって左右されてしまうわけです。でも、それを環境のせいだと考えると、考えた当人はもっと不利な立場に追いやられる。だから、極力そう考えまいとする。そんなメカニズムが考えられるのではないでしょうか。(49−51ページ)
posted by のびた at 14:42| Comment(2) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
うーん、しゃれにならないくらい私も当てはまるのですが・・・(引きつった笑い)。しかもこの本は最近読んだばかりでして、よりによってこのくだりは鮮明に記憶していて、トラウマがよみがえりますた。たしかに後半の「コミュニケーション能力の欠損」によって今の境遇(!)があるという思いが強いです。しかしそのことを考えれば考えるほど鬱に沈んでいってやってられないので、出来るだけ関係ない方面に関心を向けるわけですよ。確かに運だと思わないとやってられない、これ禿げしく同意・・。(涙)
Posted by すなふきん at 2005年11月17日 20:31
ほんと、運だと思わないとやってられないですね(涙)

ヒルズ族は、会社せどり≒敵対的企業買収もしくは資産面で割安な会社の株式への投資で大儲けしてるというのに、私のような社会の「下」の者は、ブックオフで古本のせどりを(以下略)
Posted by のびた at 2005年11月18日 01:15
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