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〈チベット流浪:上〉非暴力の陰に闘争の歩み

2008年7月2日

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写真亡命チベット人による平和の祈りは、3月の騒乱後、毎日続けられている=インド・ダラムサラ、武石写す

写真ゲリラに参加した後、チベット青年会議議長を務めたラサン・ツェリンさん=インド・ダラムサラ、武石写す

写真米国コロラド州のCIA基地で訓練を受けた当時の様子を語るブサンさん=インド・ダラムサラ、武石写す

表※クリックすると、拡大します

 「どうか私たちを止めないでください」

 インド・ダラムサラに亡命中のチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世(72)の元に、中国国内のチベット人からこんなメッセージが届いた。「今こそ武器を取って戦うべきです」と涙ながらに懇願してきた若者もいるという。

 3月のチベット騒乱後相次ぐ訴えに、ダライ・ラマは自制を求める発言を続ける。

 「暴力に訴えれば、チベット人が傷つくだけだ。暴力は自殺行為だ」「中国人に憎しみを抱いてはいけない。友人として一緒に生きるのだ」

 ダライ・ラマの歩みはチベットの現代史そのものだ。だが、チベット社会には、その「非暴力・穏健路線」と一線を画し、ほとんど語られてこなかった裏面史がある。70年代まで続いたゲリラ闘争だ。あくまで「独立」を求めるその精神は、形を変えて今も受け継がれている。

    *   *

 ダラムサラの僧院で暮らすブサンさん(78)は、米中央情報局(CIA)の軍事訓練を受けた元ゲリラの数少ない生き残りだ。

 沖縄経由の軍用機で米コロラド州の訓練キャンプに降り立ったのは、ダライ・ラマが亡命したチベット動乱から9カ月後、59年12月。チベット人は一時、100人を超えた。銃の扱い方、爆弾の仕掛け方、モールス信号の打ち方……。「教わったのは、要するに戦争のやり方だった」

 当時は東西対立の真っただ中で、朝鮮半島は分断され、ベトナム情勢も悪化の一途だった。CIAの支援を取り付けたのはダライ・ラマの実兄ギャロ・トンドゥプ氏。動乱でインド東部カリンポンへ逃れていたブサンさんらを勧誘し、米国へ送り込んだ。

 前線へ送り出されたのは61年3月。タイの基地で米軍機に乗り込み、チベット東部マルカム近郊の森に仲間7人とパラシュート降下。チベット僧らのゲリラに合流した。

 ゲリラ戦は1カ月ほどしか続かなかった。部隊は100人余り。中国兵は7万人もいた。最後の戦闘は夜明けとともに始まり、正午ごろ終わった。弾薬が尽きたからだ。9割以上は戦死した。

 ブサンさんは白兵戦で頭を銃底で殴られ意識を失い、政治犯としてラサの刑務所に入れられた。釈放されたのは78年。18年近くがたっていた。

 「若い頃は戦うことしか考えなかった。今はダライ・ラマが言うように、戦って独立しようとするのは間違いだと信じている」

    *   *

 ダラムサラで書店を営むラサン・ツェリンさん(57)はゲリラ最後の世代だ。70年代初頭に高校を卒業すると同時にゲリラに身を投じた。

 追いつめられたゲリラはネパール領内のムスタンに拠点を移していた。ヒマラヤ山脈北側の辺境の地。「国境を越え、攻撃を仕掛けるのはそれほど難しくなかった。ただ、戦いはあまりに不毛だった」

 攻撃のあと、近くの村が報復で消された。国境の向こうは荒野で、意味のある攻撃対象などはなかった。

 絶望的な戦いに幕を引いたのは国際情勢の急変だ。72年2月、ニクソン米大統領が訪中し、CIAの支援が止まった。やがてダライ・ラマの肉声テープが届く。「武器を置いて、ネパールに投降せよ」。司令官の中には、自らの信念とダライ・ラマへの忠誠心の間で引き裂かれ、自ら命を絶つ者もいたという。

 文化大革命が終わると、最高指導者となったトウ小平が79年、「独立以外ならすべての問題が議論できる」と秋波を送った。ダライ・ラマは88年、それまでの独立要求から「中国の枠内で高度な自治を求める」方針へと転換した。

 中国への不信は根深く、新方針は波紋を呼んだ。「非現実的で受け入れられない」。亡命チベット人の組織「チベット青年会議」の代表となっていたツェリンさんは、異例とも言える異議を表明した。その後も、亡命政府での一切の公職を拒み続けている。

 「漢族の入植は進み、チベットの破壊は進む。もはや交渉している場合ではない。経済活動を妨害してでも、中国の支配に抵抗するべきだ」

 穏健路線に不満なお

 「騒乱の黒幕」「アルカイダと同類」。青年会議は今、亡命社会最大の民間組織となり、中国から目の敵にされる。世界各地で中国大使館への抗議デモや北京五輪聖火リレーの阻止行動を主導。非暴力の旗は掲げつつも、ダライ・ラマの方針に反して「命がけで完全独立を達成する」という目標を変えないからだ。

 ツェワン・リグジン現代表(37)は「チベットで人々が命がけで独立を求めて叫んでいる。同じことを言っているにすぎない」と主張する。

 一方、ダライ・ラマは、徹底した現実路線を説く。

 「いまの国際情勢では、亡命政府が独立を求めると言った瞬間から、欧米の支援を得るのは困難になるだろう。独立を言うのはたやすいが、ではどうやったら独立できるのか。答えはないのだ」

 チベットの人々が抱くダライ・ラマへの崇敬は絶大だが、その政治路線までが一枚岩というわけではない。そこに、チベット社会を束ねるダライ・ラマの苦悩がある。(ダラムサラ=武石英史郎)

     ◇

 ダライ・ラマとともに故郷を離れた約15万人のチベット難民の亡命生活は、まもなく半世紀。中国の締めつけが強まるなか、中国国内の同胞とのつながりの道を探る。

◆キーワード

 <ダライ・ラマと亡命社会> ダライ・ラマ14世は59年、武装蜂起したラサ市民が中国軍に弾圧されたチベット動乱を機にインドへ亡命。政治・宗教の最高指導者として武力使用の放棄や普通選挙の実施、信教の自由などを定めた「亡命チベット人憲章」をつくり、北部ダラムサラを中心に内閣、議会、裁判所を備えた亡命社会を築いた。世界に約15万人いる難民からの納税と、国際社会からの寄付などが財源。

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