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小室直樹  『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』 4
 インフレによる破天荒なアノミー まず、高度成長による物質的インパクトの社会的効果が比較を絶して大きなものであることが理解されなければならない。すでに紹介したデュルケム的分析によっても知られるように、急激な生活水準の上昇に伴う新環境への適応の必要は、それだけでひとを自殺に追いやりかねない単純アノミーを生む。
 アノミーにおいて人間は、「石が流れて木の葉が沈む」感に悩まされ、人間は、「この宇宙の中で身をおく場所を見出すことに困難を感ずる」ようになるであろう。人間は、このような心理状態に永く耐えることはできない。ときに、自殺に追い込まれるであろう。当時のフランスに比べて、現在日本における生活水準の上昇は比較を絶して急速である。これだけでも、アノミー状況の深刻さは十分に理解できよう。しかし、さらにそれを深刻ならしめる理由として、生活変化における非対称的二重構造に注意しなければならない。一方では自動車、カラーテレビなど十数年前には高嶺の花であった商品が容易に入手できるようになるほど生活水準のある側面が上昇する反面、他の側面は、住宅不足、公害、交通地獄などによって、シビル・ミニマムの維持すら困難になるほど下落しているのである。このような生活水準の構造的変化に際しては、ひとはこれを消費生活の上昇と感ずべきかどうかとまどい、心理的不安は著しいものとなる。また、インフレによる物価上昇もこのような二重構造を有するため、実際の物価上昇以上に痛切に感じられることになる。たとえば、高級ウイスキーやカセットテープが値上げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、たとえ物価指数計算の上で両者がバランスしたとしても、人びとの感覚においては、前者は後者の埋合せになるとは感じられないであろう。この理由によってインフレは、「生活水準」を全体としては下落させない場合においてすら、生活そのものに対する挑戦と受け取られることになり、本能的拒否反応と心理的不安を生む。これらの意味において、「生活の上昇」による新環境への適応は、想像にあまる困難なものとならざるをえない。
 以上が現代わが国にいける単純アノミーの分析である。われわれが対決を迫られている構造的アノミーは、単純アノミーの段階においてすら、非対称的二重構造に裏打ちされて、右のように史上類例をみないような特異なものとなっていることに注意されなければならない。ところが構造的アノミーは、これにとどまるような生易しいものではない。
 現在日本におけるアノミー状況たるや、これのみにても知るべきである。しかも最大の問題は、このアノミー状況が存在することではなく、それが不断に拡大再生産されるプロセスが作動していることである。

 破局へのデモンストレーション
 高度成長の結果、経済財の意味が根本的に変わる。すなわち、生活水準が低い間は、経済財は、もっぱら、物的欲望達成のために求められる。しかし、生活水準が高まるにつれ、物的欲望の比重は低下し、社会的欲望の重要性が増大し、経済財といえども、その物的欲望のゆえにではなく、社会的欲望のゆえに求められる。この場合には、デモンストレーション効果が中心的役割を演ずる。
 金持と貧乏人との間に、衣食住のような基本的欲求充足の程度に大きな差異はみられるのは、所得水準が比較的低い国においてである。現在アメリカでは、については、貧乏人も、かなりの大金持もほとんど差がないといえるであろう。スーパーマーケットで買ってきて、簡単な加工をするだけという食生活のタイプは、所得の高低にかかわりなく、かなり一般的になっている。服装を見ても、金持か貧乏人かよくわからないことが多い。住居についてはもちろん大きな差異がみられるが、家もある程度以上になると、住みごこちのよさ(residential comfortability)よりも威信(prestige)のような社会的欲望によって求められる比重が大きくなるであろう。
 さて、以上はアメリカの話であるが、近い将来、日本も高度成長の結果このようになるであろう。すなわち、経済財は主に、社会的欲望によって求められるようになる。そうすると、デモンストレーション効果(demonstration effect)が中心的役割を演ずるようになる。このことは、電気洗濯機、テレビ、自動車などの耐久消費財の普及過程を思い出すと容易に理解できるであろう。周知のように、隣人、知人などが買ったという理由が、この場合、最大の購買動機になっている。このことは、自動車のモデルチェンジ、衣服における流行などを考えても容易に理解されようが、この傾向が極端にまで進むと、財はすべてそのデモンストレーション効果のゆえに求められるようになる。
 アメリカでこんな話がある。無現金社会(キャッシュレス・ソサイアティ)になってしまったので、泥棒も現金は狙えない。そこで宝石ということになるのだが、宝石も模造技術が発達してきた。専門家が十分に検査しなければわからないような模造品が本物の千分の一くらいの価格で出回っている。そこで、本物は銀行の金庫の中に入れておいて、そっくりの模造品を身につけて社交場に現れるわけであるが、もちろん素人に判別はできない。それならば、いっそのこと、本物は不要になりそうだが、そうはいかない。もし、某夫人、某令嬢が金庫の中に本物を持たず、模造品をつけて社交場を闊歩しているなどと知れたら大変である。つまり、彼女らは、かかるデモンストレーションのためだけに、莫大な金額を支払っているのである。
 現在にあっては、効用関数は所与ではなく、コミュニケーションによって改造され、創作される。現在の消費者は、商品のイメージを消費するといわれるが、商品そのものの品質によりも、イメージがより重要視されるようになってきた。つまり、はじめに効用ありき、という伝統的思考法にかわって、効用はイメージによって創出されるとの思考法によらなければ現実は説明しがたくなりつつある。ここにも従来の経済理論は限界を見出し修正を迫られている。イメージの創出過程とイメージによる効用決定過程を分析しえない経済理論は、現在ではあまり意味がない。
 すでにデモンストレーション効果や、ラチェット効果(ratchet effect)――過去の最高消費水準によって、現在の効用の高いか低いかが左右されること――の重視は、経済理論の内部においてみられたが、現在ではむしろこれらの効果こそ、消費を決定する中心的要因なのであって、これらを伝統的思考法に対する修正因子とみるには、あまりにもその重要性が増加している。
 この目覚しい成長にもかかわらず、その高度成長の歪みが、国民のより大きな関心をあつめてから相当の時間が経過した。公害、都市問題、過疎問題、大学問題、物価上昇など、どれをとってみても高度成長に根ざさないものはない。しかし、立ち入って分析してみると、高度成長の副作用は、歪みなどという生易しい問題ではなく、日本の社会構造の根本に根ざし、社会組織に全面的変革をもたらす一大変動が発生しつつあるのである。では、この変動はいかなるものか、前節までの議論を準備として考えてみよう。
 まず強調すべきことは、この現象を分析するにあたっては、経済学ではあまり役立たないことである。少なくとも、従来の伝統的経済理論だけでは不足である。高度成長の副作用は、経済理論のみをもってしては分析しえない。たとえば、高度成長の副作用のうち最も端的な形で現れているのが、大都市、とくに東京周辺への人口の過度の集中であろう。これによって住宅問題、公害問題をはじめとする多くの弊害が発生、拡大され、いまや大都市周辺は、人間の生息を困難とするほどの悪循環になってしまった。
 しかし、伝統的経済理論に即した思考に立つ以上、なんらの問題はありえない。つまり、農村から大都市への移住者は、農村における好循環と各種便益の不十分という組合せに対して、大都市における悪循環と(大都市が与える)各種便益の十分という組合せ(いずれも選択できる可能性があったにもかかわらず)を選択した(revealed to bepreferred)のであるから、より高い選択水準に到達したことになる。このことは、一般に農村から大都市への移住者についていえるだけでなく、仮設的移動を考えれば、大都市既住者についてもいえる。つまり大都市における環境の悪化にもかかわらず農村に移動しないのは、やはりこの意味で、大都市居住が住が選択されるからにほかならない。
 このように、極大行動の分析のみを中心とする既存の経済理論をもってしては、公害問題をはじめとする高度成長の副作用の問題の核心には迫りえない。極大行動そのものの絶対的高さが、社会的要件との連関において、いかなるものであるかを分析しうるような社会理論の出現が要請されるのである。
 このように、デモンストレーション効果こそ、先進資本主義諸国において決定的役割を演ずる。しかも、それが固有の共同体構造を持つ日本経済の作動過程に投入されると、独特の自己運動を開始することになる。

 無限に拡大再生産されるアノミー
 デモンストレーション効果も、アメリカの場合には、零次の同次性を持つといわれている。つまり、各人の効用の高さは、自分の消費だけ(絶対的消費水準)によって決まるのではなく、他人の消費との間の相対比によって決まるのであるが、零次の同次性が成立する場合には、自分より高い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用が低められる半面、より低い消費水準の人びとの生活をみることによって自分の効用は高められる。
 しかし、日本独特の共同体構造は、このような対称性をもたらさない。共同体の内外は峻別されるから、共同体外にどんな消費水準の低い人があっても比較の対象にはならない。他方、機能集団としての共同体は、各成員の人格すべてを吸収しつくしてしまっているから、共同体内における人間関係は全人格的なものとならざるをえない。したがって、共同体的基準が要求する最低の消費水準は、共同体内での地位を維持するため不可欠である。それどころか、共同体における地位を離れて社会的存在はありえないから、このことは、社会的存在維持のための不可欠の条件でもある。ところで、極度に発達したマスコミによって理念化された高水準の消費は、繰り返し宣伝されることによって比較の基準となり達成目標を与えることになる。
 このように、日本におけるデモンストレーション効果は非対称的なものであり、下にガッチリと歯止めが付されている半面、上には歯止めはなく、上限は常に上昇の可能性を含む。消費水準上昇の必然的傾向は、構造的に内包されているといえよう。そして、この下の歯止めと上方における比較の基準とは、双方とも、高度成長の結果、不断に上昇する。
 このようにして、常に加速化されつつある高水準の消費は、一種の社会的義務となり、たえず遂行を迫られる。この恒常的に上昇する消費生活を維持するため、日本人は必死になって働かなければならない。この必死の労働への要請は、泥沼のようなアノミー状況と日本経済の共同体的特性のもとにおいては、容易に無限の献身に転化する。深刻なアノミー状況において、「宇宙の中で失われた自己の位置」を再発見する一つの有力な方法は、すべてを忘れてガムシャラに馬車馬のごとく働くことである。
 そもそも、欧米型の資本主義社会においては、労働力は商品である。労働者はそれを最も有利な取引において売っただけのことである。したがって、生活水準が高まり、レジャーが上級財となれば、労働力の供給は減少する。しかし、労働力が共同体に丸ごと召し抱えられた日本においては、事情は根本的に異なる。労働と労働力とは分化せず、企業共同体の支配は、従業員の全人格に及ぶ。しかもこの「全人格」は、共同体に吸収されつくしているから、共同体の組織的要請はまさに根本規範である。たとえば、現代日本においては、レジャーさえも一種の義務のごとく、ステレオ化された集団行動によって費やされるから、労働とレジャーとの境界は明確ではない。
 かくて、企業の側における組織的要請が従業員の側における必死の労働への要請と合致するとき、それは直ちに、無限の献身への要求に転化する。このようにしてエコノミック・アニマルが誕生する。それが、欧米型資本主義社会における労働者の理想像とどれほどかけはなれているかは明らかであろう。必死になって働いて、車も買った、ゴルフ用具も買った、モーターボートも買った。しかし、これらをどう楽しんでよいのか用途もわからない。これは、マンガというよりも、見事にエコノミック・アニマルの本質を衝いている。
 このようにして、高度成長による消費水準の上昇は、さらにいっそうの上昇への衝動を生むだけであって、なんら満足度の上昇を生まない。働いても働いても生活は楽にならないという感覚は、急激な消費水準の上昇にもかかわらず、というよりも、それによってますます拡大再生産される。もっとわるいことに、消費の変化は、単純な上昇ではなく、前述のように非対称的である。(つまり、他面における下落を伴う。ひとは、従来享受してきた製品に新製品享受の可能性が加わるとき、消費水準の上昇を実感するであろう。そうでなく、享受可能性そのものが根本的に変化した場合には、これを消費水準の上昇とみなすべきであるかどうか、とまどうであろう)。物価上昇も、このタイプであることにより、物価指数の上昇以上に痛切に感じられる。(すなわち、クーラーや高級ウイスキーが値下げになっても、豆腐や風呂代が値上がりするとき、人びとの感覚においては、前者は後者の埋合せになるとは感じられないであろう)。
 かくて、アノミー状況は、高度成長と互いに育成しあいつつ、無限に拡大再生産される。ゆえに、新環境に対する最適応と新規範の受容という困難な作業は、すべての人びとに強制される。しかもこの強制は、一度だけでなく、繰り返し何度でも、定常的に行われることになる。
 ところで、右に述べた単純アノミーの拡大再生産は、急性アノミーから脱出するために形成された共同体的機能集団、すなわち「機能集団としての共同体」の自己運動の展開によって形成されたものである。つまり、日本人にとって、ここも安住の地ではなく、それは、機能集団であると同時に共同体であるという相反する二重の契機の矛盾によって解体を迫られることになる。ここにおいて日本人は、前門の虎と後門の狼との間で(Between Scylla and charybde)進退ここにきわまらざるをえない。アノミー状況は慢性的となり、常に新たな装を凝らしつつ、繰り返し定常的に何回でもわれわれに襲いかかる。かくして、断層は、すべての集団、すべての年齢層に普遍的に蔓延し、断絶は絶望的となり、破壊衝動は、爆発のためのチャンスを待ちつつ、深く潜行する。
 このように、高度成長がゆきづまったからといって、それは止めるに止められるものではない。ここにおいて破局の到来は差し迫ったものとならざるをえない。われわれは、その兆候を幾つかの事件においてみた。
 デュルケムが分析したように、アノミーからの帰結の一つは自殺である。しかし、別の帰結もある。破壊衝動である。ひとは、アノミーによって生ずる恐ろしい心理的混乱から逃れるため、爆発的破壊衝動を発動せしめる。現在日本に普遍的に蔓延する不気味な破壊衝動は、深刻なアノミー状況を雄弁に物語る。それはいつ爆発するかしれず、点火を待っている。たとえば、大学紛争における全共闘の指導者はいうまでもなく、赤軍派のハイジャックにせよ、京浜安保の闘士にせよ、ほとんど、「小市民的家庭に育った、真面目な青年」である。この人びとを、「ナチスや軍国主義者も行わなかった」行為に駆り立てるとは、なんという社会であろう。

 複合アノミーと原子アノミーによる社会の解体

 複合アノミーによる責任の真空地帯 以上述べた構造的アノミーの拡大再生産過程は、現代日本における独特な規範状況によって、複合(コンプレクス)アノミーと連動することになる。では、複合アノミーとは何か。それは、次の論理展開過程において示されるであろう。
 現代日本における規範状況の特徴は、多くの規範システムが併存して体系化されず、それらの断片(パーツ)がバラバラのままに放置されていることにある。たとえば、同じく「デモクラシー」といっても、西欧型のそれと社会主義型のそれとの間には幾つかの重要な相違があり、いずれにも多くの変種(ヴァリエーション)があるが、日本では、それらの基礎を構成する諸規範は、まとまったシステムとして構造化されていない。そのほか、明治国家的、儒教的、封建的な諸規範も、システムとしては解体されながらも、多くの断片として、いまなお大きく日本人の行動を規定している。
 この規範状況からの第一の帰結は、規範的行動における非対称性である。規範がまとまったシステムとして構造化されている場合には、必ずカウンター・バランスするようなサブシステムが発生する。たとえば、親分子分の関係において、子分の側において「白いものを黒い」といわれても服従することが要求される反面には、親分も親分として地位が危ないのである。そのほか、西欧における権利と義務、貴族社会におけるノブレス・オブリッジなど、このカウンター・バランスの例である。これがあってはじめて規範は社会において有効に機能しうる。ところが、各規範が断片としてのみ存在している場合には、ひとは「自分に都合のよい」断片のみを享受し、これとカウンター・バランスするサブシステムを棄ててかえりみないことになる。かくて、子分に無理のみを要求して立場や気持など思いやってくれない親分、義務を忘れ権利のみ主張する若者、特権のみを享受して責務を引き受けようとしないエリートなどが群生するようになる。このことからの必然の帰結として、巨大な「責任の真空地帯(ノーマンズランド)」が発生する。それは、だれかがなさなければならないことであるが、だれの責任であるか明確でない領域である。この場合には、責任のなすりあいすら不可能である。その理由は、この責任領域の対極にある社会的利益を保証する規範の断片はあまりにも多種多様であるため、どれがどれに対応するか識別不可能であるからである。
 かくて人びとは、自己においてはこの巨大な責任の一端をも引き受けることを拒否するとともに、「どこか間違った人びとの大海」にかこまれているような疎外感にさいなまれることになる。たとえば、佐藤栄作氏は、現代日本のありさまを評して、「大変に間違っている。なんとかしないととんでもないことになる」といったそうであるが、七年も政権を独占した人に不可能であったことを、だれにやれというのであろうか。
 このことから、さらに次の第二の帰結が導かれる。それは、一般的正当化の可能性である。すなわち人びとは、各規範の断片を適当につなぎ合わせることによって、いかなる行動をも正当化しうるようになる。しかも一般に、かかる行動は、共同体の機能的要請から発せられ、独自のサブカルチャーに心情的根拠を有するために、行動者にとってはあまりにも自明であると同時に、外部の者にとっては了解不可能なものである。ゆえに、この「規範の断片のつなぎ合わせ」は、当事者にとっては疑う余地のないほど正当にみえるにもかかわらず、他人には想像を絶するデタラメにみえてくる。これは、単なる断層などという生易しいものではない。お互いにとってそれぞれの相手は、一方では、明確に存在する断層を認めようとしないだけでなく、他方では、断層とはとてもいえないものを「超えがたい断層である」として騒ぎ回っている奇妙な人種にみえてくるからである。そして、この相手は、自明のことすら理解しえないだけでなく、こちらとしては絶対に容認できない不合理な主張をなんべんでも繰り返して押しつけてくる“言語道断な暴力人間”にみえてくるであろう。こうなれば、人びとの疎外感は、「この宇宙の中に身のおき場所がなくなる」どころではなく、宇宙そのものの消滅感となって迫ってくるであろう。このようなディスコミュニケーションによる規範の錯綜を、複合(コンプレクス)アノミーという。とくに既述の共同体的規範状況、すなわち客観的判定基準を有せず、情緒を通じて無限の恣意性の流入が可能であるような規範状況において複合アノミーが作動するとき、情緒を共有しない人びとの間においては、相手の行動はお互いに全くナンセンスにみえてくる。たとえば、大学紛争の団交において、教授の言は学生には全くナンセンスであったが、学生の主張もまた教授たちにはナンセンスであった。このようにして、規範的正当性は、きわめて不安定な情緒の大海の中にことごとく見失われてしまうことになる。

小室直樹  『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』  5

by huttonde | 2005-06-25 00:57 | 小室・日下・曽野本 | Trackback | Comments(0)
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