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第五章 危機の構造
すでに論じた(第二章参照)ように、この構造的アノミーこそがナチスや軍国主義者を生んだアノミーよりもはるかに強力で破壊的なエネルギーを内に秘めるものであり、落伍者(デイクラツセ)や無法者(アウトロー)のような社会の底辺に住む人びとの中だけでなく、社会の中枢ともいうべきエリートや善良な市民(リスペクタブル・シティズン)の中にまで侵入してきているのである。それであればこそ「やりそうもないやつに限って」無差別爆破や銃撃戦の展開などをやりだすことになる。 構造的アノミーの前提条件 ここにおいてわれわれは、気がとおくなるような状況に直面していることに気づく。第二章において三点に要約した盲目的予定調和説的行動が日本的行動様式の構造的特徴であるとすれば、あなたもわたしも例外ではないはずである。いつか、あるとき、善良な市民であるあなたやわたしが、正気で誠心誠意行動しつつ、赤軍派に共鳴し、加盟して、総括したりされたりすることはないであろうか。忠実な官僚またはビジネスマンであるわれわれの家族や友人が、職務熱心のあまり道徳的殺人を犯したりすることはないであろうか。一夜明ければ、スキャンダル事件に連座して逮捕されているということはないであろうか。 すなわち、前章で論じたような構造的特徴をもつ行動が、現代日本独自の共同体的条件のもとで作動するとき、個人の人格や意図とは全く独立な恐るべき社会法則が働き、破局に向かってまっしぐらに驀進する策動過程が生まれるのである。これこそ、本稿がテーマとする構造的アノミーと呼ばれる過程であるが、それについて論ずるために、幾つかの分析用具が必要である。 共同体的機能集団とアノミー しばしば論じてきたように、現代日本においては、企業や官庁や学校などという機能集団が同時に共同体となる。これこそ現代日本最大の組織的特徴であり、また、現代日本社会の「機軸」であるといえる。 年功序列や企業間移動の困難さなど、日本社会の構造的特徴だと思っている人が多い。だが、社会学的に分析してみると、決してそうではないことがわかる。戦前においては、これらのことは、現在ほど一般的でなかったし、明治時代においては、いっそう一般性は低かった。年功序列を無視して若くて有能な人がどんどん抜擢されていたし、企業間移動も現在よりはずっと自由であった。 年功序列や企業間移動の困難さなどが顕著になってきたのは、戦後もかなり最近に近い時期である。 というのは、この時期になってはじめて、企業などの機能集団が共同体的性格を帯びてくるのである。その証拠に、現在といえども、共同体的性格を帯びないような職業(土木関係の労務者、行商人、左官・大工など)に従事する人びとにおいては、職業移動はわりあいに自由なのである。 そもそも、年功序列や企業間移動の困難さなどは、共同体の特徴であって、日本社会の特徴ではない。アメリカであろうとどこであろうと、共同体においては、これらの特徴はみられるのである。 しかし、一般的にいって、アメリカなどの近代社会においては、普通、機能集団と共同体とは分化する傾向がみられる。つまり、宗教共同体、人権共同体、地域共同体などが、企業などの機能集団と重なることはなくなってゆく傾向が一般的である。 ところが、戦後の日本においては、これと正反対の現象がみられる。つまり、企業、官庁、学校などという機能集団が、そのまま、共同体を形成するようになってきたのである。 なぜ、このような奇妙な現象がみられるようになったのだろう。現在日本社会を理解する鍵がひそむ。 その発端になったのが、戦後日本における全面的急性(アキュート)アノミーである。 ゆえに、われわれは、共同体的機能集団について語るにさきだって、まず、アノミー(anomie)について述べていきたい。 アノミーとは、無規範(状態)あるいは無規制と訳されることが多いが、直訳ではなくて意訳してみると、むしろ、無連帯(状態)とでも訳すべきか。いずれにせよ、このような社会的状態だけでなく、それによって生ずる心理的危機をもあわせ意味するのが従来の用語法における慣用である。アノミー概念は、社会学の始祖デュルケムによって提案されたものであり、その後多くの社会科学者によって展開せしめられ、現在では、政治学および社会学における最も有効な分析用具となっている。その後の展開のうち、ディグレイジァによるそれが注目に値しよう。彼は、規範の全面的解体を意味する急性(アキュート)アノミーと、規範の葛藤を意味する単純(シンプル)アノミーとを区別した。これらは、それぞれ、次のようなものである。 (1) 単純(シンプル)アノミー。これは、すでにデュルケムによって定式化されている。かつて、デュルケムは自殺について研究した。まず彼は、経済恐慌時(パニック)のように、急激に生活が悪化したときに自殺率が上昇することを確認した。このことを説明することは容易であろう。しかし経済繁栄時のように、急激に生活が向上したときにも自殺率が上昇することが発見された。この思いがけない発見について、彼は次のように説明する。すなわち、急激な生活の変化に適応することは、それが生活向上の場合でさえも、著しく困難であるからである、と。その理由について彼は、さらに次のように論ずる。一般に、人間の欲望は無限であるにもかかわらず、常に有限の充足しか得られないから、社会的歯止めが必要となる。この歯止めの機能を果たすのが規範である。規範により無限の欲望は制約を課せられ、人は足るを知るようになる。この意味で規範は、心理的安定の条件である。ところで、経済の繁栄によって生活水準が上昇すれば、さらに高い生活水準が要求されるようになり、その充足の困難性はますます増大するであろう。他方、生活水準の上昇は新環境への適応を要求する。しかも、各水準の生活はそれぞれのレヴェルにおいて欲望を制御する規範を有し、異なるレヴェルの生活に対応する規範は、それぞれ内容を異にする。ゆえに、新生活水準によって規定される新環境への適応は新規範の受容を必要とするが、この新規範は旧生活水準における旧規範とは内容を異にするであろう。かくて、新旧両規範の間の葛藤は不可避となる。 これが、デュルケムによって示された単純(シンプル)アノミーの発生過程である。ところが、この規範葛藤は、激しい心理的緊張を生む。人間はこのような心理的緊張に永く耐えることはできない。精神病、破壊行動の全面化からさらに、自殺に追い込まれることもありうる。 (2) 急性(アキュート)アノミー。これは、簡単にいえば、信頼しきっていた者に裏切られることによって生ずる致命的打撃を原因しとし、これによる心理的パニックが全体社会的規模で現れることにより、社会における規範が全面的に解体した状態をいう。このことを、体系的に説明すると次のようになる。社会において権威ある権力が成立し、秩序が保たれるためには、実力的威嚇のほかに、情緒的保護にによる心理的安定が保たれなければならない。とくに重要なのは後者である。この心理的安定が保たれるためには、心理的関係として、「権力者とその支持者との間にいわば双務契約」がなければならない。すなわち、「服従する側では、権力の定めるルールにかなった畏敬と服従とを提供し、これに対して、権力の側では、秩序を維持し生存を可能に――あるいは豊かに――して与える、というのが双務契約の内容である。もし服従する側がこの契約に違反すれば、服従する側の心理に『唯一の正しい秩序』の崩壊、宇宙の秩序と宇宙の中における自分の正当なあり場所との喪失、という混乱感が生まれる」のである。このことの帰結としての規範の全面的解体を急性(アキュート)アノミーという。ひとは、このような状態に永く耐えることは不可能であり、急性アノミーは、自殺、精神病、破壊性の奔出のような形で収拾されざるをえない。 (3) 複合(コンプレクス)アノミーと原子(アトミスティック)アノミー。単純アノミーと急性アノミーとは、すでに従来の社会科学において定式化されたものである。これら両概念は、本稿においても重要な分析的役割を演ずるが、現代日本における危機的状況を十分に分析するためには、これら両者のみでは不十分である。十分な分析を行うために案出されたのが表記の二概念である。複合(コンプレクス)アノミーとは、現代日本のように、多くの規範システムが構造化されず、それぞれの断片としてのみ存在している場合に、かかる状況における情報効果によって生ずるアノミーである。また、原子(アトミスティック)アノミーとは、複合(コンプレクス)アノミーを前提とし、これが日本社会のように、「所有(ポゼション)」が社会的文脈(ソーシャル・コンテクスト)から分解不能(ディコンポーザブル)であることによって生ずるアノミーである。なお、これら両者については、後に詳論する。 構造アノミー 右にとくに重要な四つのアノミー概念について論じたが、その発生源については触れなかった。それらは社会システムの外から侵入することもあろうし、社会システムの中にその原因を見出すこともあろう。とくに動学的に重要であると思われるのは、社会構造がアノミーを再生産するような作動過程の原理を内包している場合である。このような原理によって造出されるアノミーを構造的アノミーという。 現代日本における急性アノミー さて、右の諸概念を用いて、現代日本の危機の構造を分析しよう。 現代日本における急性アノミーは、社会を根底からくつがえす契機を内包しているが、その源泉は、①天皇の人間宣言、②デモクラシー神話の崩壊、③共産主義神話の崩壊、の三者である。もとより、最も致命的であるのは①であり、②も③も、①の原形をたどりつつ急性アノミーに導かれたことに注目されるべきである。つまり、戦後デモクラシーも共産主義も、天皇の人間宣言によって「失われた秩序の再確立」を目指したものではあったが、そのために必要な条件が満たされず、同様な過程をたどりつつ(逆コース。スターリン批判および中ソ論争)崩壊したと思われる(本稿では、この点に関する分析省略)。ゆえに、以下では①に焦点を合わせて分析を進める。 戦前の日本において、「象徴としての『天皇』は、或は、『神』として宗教的倫理の領域に高昇して価値の絶対的実体として超出し、或は又、温情に溢れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒(ゲミュート)の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する。しかし又その間にあって、『天皇』は政治的主権者として万能の『君権』を意味していた」のである。ゆえに、天皇の人間宣言は根本規範(グルントノルム)の否定であり、全宇宙の秩序の崩壊である。このことによって生じた急性アノミーは致命的なものにならざるをえない。そこで、頂点における天皇シンボルの崩壊によって、「国民の国家意識は、・・・・・・・・その古巣へ、つまり社会構造の底辺をなす家族・村落・地方的小集団のなかに還流」(丸山真男『増補版・現代政治の思想と行動』未来社、1964年 166~167ページ)することになる。このことによってのみ、致命的な急性アノミーによって生じた「孤立感と無力感を癒し」、「大衆の心理空白を充たす」(同)ことが可能であるからである。いかにも、村落共同体(およびそれを原形としてつくられた集団)こそ、底辺から天皇制を支えた日本の基底であった。 ところが、村落共同体もまた安住の地ではありえない。すでに村落共同体は、身分秩序と共同体的生産様式に内在する矛盾の展開により解体の危機に直面していたが、終戦とともに、確実に解体を開始する。そして、この解体過程を全面的なものとし決定的に加速化したものこそ、高度経済成長のスタートである。 共同体的機能集団への再編 解体した村落共同体にかわって、組織とくに機能集団が運命共同体的性格を帯びることになる。これを、共同体的機能集団と呼ぶ。このことこそ、現代日本の最大の組織的特徴であり、現代の危機の構造も、かかる社会科学的特徴をもった共同体的機能集団の独特な運動法則によって規定される。 この、共同体的機能集団こそ、大日本帝国の組織的特徴たる頂点における天皇制的官僚機構と、底辺における(村落)共同体的構造を再編し、一つに統合するものである。 丸山真男教授は、「日本の近代国家発展のダイナミズムは、一方、中央を起動とする近代化が地方と下層に波及・下降して行くプロセスと、他方、右のような『むら』あるいは『郷党社会』をモデルとする人間関係と制裁様式・・・・・が底辺から立ちのぼってあらゆる国家機関や社会組織の内部に転位して行くプロセスと、この両方向の無限の往復から成っている」(同)とし、大日本帝国の特徴を、頂点おける天皇制官僚機構と、底辺における共同体的構造をその社会的媒介としての共同体を基礎とする地主=名望家支配としてモデル化し、意識的にその結合をイデオロギー化したのが、いわゆる家族国家観であるとする。なお、このような大日本帝国は、「官僚国家としての身分秩序と資本主義経済という相互に矛盾した契機の微妙な均衡を基礎」(丸山真男『日本の思想』(岩波新書 1961年)100~101ページ)としつつ存立しえたものといえよう。 現在においては、共同体的身分秩序と資本主義的機能集団(としての要請)という相互に矛盾した契機の微妙な均衡は、この共同体的機能集団という同一の手段に基礎をおくことになる。 官庁、学校、企業などの機能集団は、同時に生活共同体であり運命共同体である。各成員は、あたかも「新しく生まれたかのごとく」この共同体に加入し、ひとたび加入した以上、他の共同体に移住することは著しく困難である。しかも、彼らは、この共同体を離れては生活の資が得られないだけでなく、社会的生活を営むことすら困難である。かくて、共同体は、各成員の全人格を吸収しつくし、個人の析出は、著しく困難なものとならざるをえなくなる。 このような共同体的機能集団が、日本的社会構造の所産というよりも、むしろ現在の組織的特徴を表すものであるということは、戦前・戦後(というより、あるいは高度経済成長の前後)の推理小説を比較することだけによっても、容易に理解されよう。前者を代表する江戸川乱歩や横溝正史のストーリーにおけるテーマは、(村落)共同体における人間関係である。だから、あのおどろおどろしい雰囲気が生まれたのだろう。だが、主人公が会社において、どんな人間関係に悩んでいるかに関しては、ほとんど語られていない。まるで、真空の中で生活しているみたいである。この戦前の巨匠によって看過された点こそ、実に、松本清張、森村誠一などのいわゆる社会派のテーマとなってくる。彼らのストーリーの視座は、企業における人間関係を中心にすえられている。これは、好みの違いというよりも、社会組織の根本的変化の反映とみるべきではなかろうか。 このような共同体構成からくる社会学的帰結は、第一には、二重規範の形成であり、第二は、共同体が自然現象のごとく所与なものとみえてくることである。このことこそ実に、既述の盲目的予定調和説的行動を生んだ社会的基盤であるとともに、後に論ずるように、両者は相互に補強しあいつつ、特殊日本的行動様式の構造的特徴を再生産するものであると思われる。 すでに述べたように、内外が峻別され共同体が各成員のパースナリティを吸収しつくすことにより、共同体的独自のサブカルチャーはますます深化し、彼らのパースナリティ構成までこのサブカルチャーによって再編されることになる。かくて、共同体とのコミュニケーションは、マスコミの介在により外面的(オウヴァートリィ)には頻繁でありながら、その内実(コウヴァートリィ)においては、ますます無意味なものとなる。このようにして、外部に対する鋭い関心を喪失することに比例して、各成員の主要関心は共同体内部にのみ集中し、共同体組織は天然現象ののごとく所与不動のものとみえてくる。そして、このことからの当然の結果として、共同体における規範、慣行、前例などは、もはや意識的改正の対象とはみなされず、あたかも神聖なるもののごとく無批判の遵守が要求されるようになる。とくに共同体の機能的必要は絶対視され、その達成のために全成員の無条件の献身が要求されるようになる。 批判拒否的体質 このような社会学的背景において、前述の盲目的予定調和説的行動が作動するとき、それは直ちに技術信仰に結びつく。すなわち、自己が所属する海軍、通産省、企業、赤軍などの共同体の機能的要請は絶対視され、それを達成するための技術は、社会分業における役割遂行のための手段とはみなされず、日本国存立(革命達成)のための条件として物神的に崇拝されるにいたる。したがってこの技術発揚という神聖なる任務遂行を妨害する徒輩は、許すべからざる国賊(人民の敵)であるということになり、彼らの批判に対して向けられるのは、反批判ではなく「反逆者への怒り」である。このようなセンスから批判拒否症的体質まではまさに一歩である。暴力か少なくとも実力(リアル・パワー)を伴わない批判はナンセンス以上のものではありえない。「独善的」官僚、「治外法権的」大学から東南アジアの日本人集団にいたるまで、かかる批判拒否症こそ、現代日本の組織的共通項である。 無責任体制が生む破局への驀進 ところで、右に述べたような技術を信仰する人びとは、いかなる意味においても、自らを権威(オーソリティ)とする決断主体ではありえない。ゆえに、彼らがリーダーとして決断を迫られれば当惑せざるをえない。このとき救いとなるのは、彼らが所属する共同体の機能的要請である。その達成は神聖なる任務ではなかったか。ゆえに、彼にとって、この神聖なる任務を遂行する以外に、いかなる決断を下しえようか。かくて、決断の責任が漠然とした使命感の中に解消するとともに、この決断がいかに特殊なものであり、多くの選択肢の中の一つの選択にすぎないことが意識にのぼらなくなる。したがって、この選択に対する責任が背後に押しやられ、ついに鋭く意識化されなくなることによって、この神聖なる所与に向けられた批判に対しては、本能的な全身をつらぬく「聖なる怒り」が向けられることになる。このようにして、いわば体質的であった批判拒否症は、規範性を獲得しついに宗教的正当性を具有するまでに高められるのである。ところで、この「規範性」は、共同体の機能的要請に依拠することからも明らかなように、客観的な判定基準を有せず、きわめて状況的、流動的である。ゆえにそれは、合理的制御の可能性を有せず、情緒を通じての無限の恣意性の流入を阻止しえない。 この、規範への情緒を通じての無限の恣意性の流入こそ、赤軍派の森・永田「裁判」の既述のような特性を規定するものであり、また、気の向くままに兵士たちを屠殺してもこれに少しも責任を感じようとはしない彼らの心的傾向を生んだものでもあった。 このようにして、全面的な無責任体制が出現し、それがさらに、人びとの意図と努力のすべてに反して、まっしぐらに破局へ向かって驀進するメカニズムを生むのである。 構造的アノミーの拡大再生産 われわれは、現在日本のアノミー状況は、ナチズムやファシズムを育成した状況よりも、はるかに深刻であることを指摘した。それが破局に導かれないのは、微妙な社会的バランスの所産であり、点火のチャンスが少ないだけのことである。しかも、最大の問題は、このアノミー状況が存在することではなく、不断に拡大再生産するようなプロセスが作動していることである。このようなメカニズムによって再生産されるアノミーを構造的アノミーということはすでに述べた。 止むに止まれぬ高度成長 右のような、特殊日本的組織状況における急性アノミーによって生成され育成された現代の危機は、高度経済成長によって生み出される単純アノミーと相互に増幅しあいつつ、アノミーの拡大再生産過程を展開する。 六〇年安保によって生じた国民的統合の喪失を回復するために導入されたことからも明らかなように、高度成長は、すぐれて政治的現象でもある。そして、それは、「敗戦後における経済的窮乏とそれに伴う個人的規模の経済的緩衝装置の壊滅」とに由来する経済的危機感という日本人の戦後における「幼児体験」に裏打ちされて、万人の同意がほとんど当然であるような国家目標となった。 ところが、日本国民が、永年、このように手塩にかけて育て上げた高度成長というペットは、かつての軍国主義がそうであったように、主人さえもかみ殺しかねないほどの一大怪獣にまで成長してしまった。日本国民はようやく高度成長が必ずしも幸福に結びつかないことに気づきはじめた。高度成長こそいわば「諸悪の根源」であって、公害、人間疎外をはじめ、現在の難問題はめぐりめぐって結局は高度成長に帰着する。では、そんなに悪ければ止めてしまえばよいではないか。そうすれば、「諸悪の根源」は取り除かれ、昔の美しい日本が帰ってくるではないか。だが、高度成長は、止めるに止められないところに問題がある。また、強いて止めるとすれば、はかりしれないほど大きな後遺症を生む。このことは、石油危機とそれ以後の諸ショックによって高度成長がほとんどストップしたにもかかわらず、それによって生じた弊害は少しも改まることもなく、日本国民は空前のスタグフレーションに悩まされていることをみただけで明らかであろう。いかにも、高度成長は、現代日本の社会過程の作動様式(ワーキング・メカニズム)が生み出した産出物(アウトプット)なのであり、単なる政策の所産にとどまらないのである。ゆえに、対症療法的処理はほとんど無意味なのである。有効な対策が発見されるためには、まずこの作動過程がいかなる社会学的特徴を有するかが知られなければならない。 小室直樹 『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』 4
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