『日本書紀』安閑天皇2年(533年)の条に、こんな勅(みことのり)したとあります(参照:6月22日付記事〈大阪〉古代・大阪のチーズの味は?)。
「牛を難破(なには)の大隅嶋(おほすみのしま)と媛嶋(ひめしま)の松原(まつばら)に放て」
大隈、姫島とも淀川右岸に位置した島ですが、現在、大隅は東淀川区、姫島は下流の西淀川区にあります。姫島の「姫島神社」の境内に、万葉歌碑があります。
ほかの写真を見る
「妹が名は 千代に流れん 姫島の 小松がうれに こけむすまでに」
岩波古典文学大系には、大意として
「おとめの名は千年の後までも伝わってゆくであろう。おとめにふさわしい名の姫島の小松のこずえに苔がむす、その世までも」
と書いてあります。この歌の詞書に
「和銅4年歳次辛亥、河邊宮人(かはべのみやひと)姫島(ひめしま)の松原に孃子(をとめ)の屍(かばね)を見て悲しび歎(なげ)きて作る歌二首」
と書かれています。これはそのうちの一首(228)で、もう一首は
「難波潟(なにはがた)潮干(しほひ)なありそね 沈みにし 妹が光儀(すがた)を 見まく苦しも」(229)
です。
和銅4年は711年、奈良時代の初めごろで、姫島の松原に牛を放って178年後のことです。その松原の小松が大きく育って老松になり、苔がむすまでおとめの名が残るようにという鎮魂の歌です。
「千代に」と「苔のむすまで」は、よく聞かれるフレーズですね。そう、「君が代」の歌詞です。「君が代」の本歌が『古今和歌集』(巻7)の詠み人知らず
「我が君は千代にましませ さざれ石の巌となりて苔のむすまで」
であることは広く知られています。
ところが、この『古今和歌集』の歌の本歌が、『万葉集』228番の歌であることは、余り知られていません。
そのことについて詳しく書かれた本があります。それは『「君が代」の起源―「君が代」の本歌は挽歌だった』(明石書店)です。
中心的な著者は藤田友治さんで、1995年に発行された『天皇陵を発掘せよ』(正・続、三一新書)で、お名前は存じていました。2002年に初めてお会いして、それ以来、2006年に早世されるまで、短い間ながら古代史講義を受けていました。講義は刺激的でした。歴史の常識が、考古学的発見と文献研究によって覆されていきます。すべてに納得するわけではありませんが、緻密(ちみつ)な研究姿勢には信頼がおけました。
さて、『「君が代」の起源』のサブタイトルにいう「本歌」は、姫島神社に置かれた万葉歌碑の歌です。「苔のむすまで」についても、万葉3227の歌
「神なびの みむろの山に 斎(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 苔むすまでに」
を例として、古代の「苔むすまでに」は「永遠に」を意味すると書かれています。
また、「苔の下」とは、「草葉の陰、墓の下」の意味で使われます。例えば『新古今和歌集』の藤原定家の歌
「まれに来る 夜半も悲しき 松風を 絶えずや苔の下に聞くらん」
は、定家の母が亡くなり、墓の近くに泊まって詠んだ歌です。墓の中の母の眠りが、永遠に安らかであることを祈っています。
挽歌というのは、柩(ひつぎ)を挽(ひ)くときにが歌った歌から来た言葉で、万葉集は、相聞(そうもん)歌・雑歌(ぞうか)・挽歌の三大部立てになっています。君が代の本歌の本歌が挽歌であった、とは、目のうろこが取れる思いです。
戦争で亡くなった、膨大な死者への哀悼歌として、「君が代」ほどふさわしい歌はないのかもしれません。
(記者:塩川 慶子)
【関連記事】
・
塩川 慶子さんの他の記事を読む
・
〈大阪〉古代・大阪のチーズの味は?
【関連キーワード】
・さざれ石