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ハンセン病証言・資料編 青木氏書簡を発見 差別の惨禍今に伝える2006年5月10日

1930年代の沖縄のハンセン病患者を取り巻く状況などを伝えた青木恵哉氏の手紙=名護市の沖縄愛楽園

 ハンセン病患者の救済に人生をささげ、現在の沖縄愛楽園となる療養所の建設に尽力した青木恵哉(けいさい)氏(1893―1969年)が、1932年から35年にかけて、岡山の療養所・長島愛生園の知人に送った手紙の原本14通がこのほど、愛生園で見つかった。患者らに対する住民の襲撃事件や、発症した子どもとの別離に苦しんだ母親が悶死(もんし)した様子、水もない無人島での患者らの生活など、当時の沖縄で患者らが置かれていた壮絶な状況を生々しく伝えている。

 間もなく発刊予定の「沖縄県ハンセン病証言集―資料編」の資料収集のため2005年9月、長島愛生園を訪れた琉球大学の森川恭剛助教授と証言集編集事務局の研究員らが確認した。森川助教授は「戦後の著書にもない事実もあり、時代の息遣いを感じる貴重な資料」と説明。「青木氏がどのように差別と闘おうとしたのか、療養所の将来構想が問われている今だからこそ知らねばならない歴史だ」と強調した。
 長島愛生園の事務官だった宮川量氏にあてた手紙が中心。32年10月の手紙には、病気が発症した家が周囲から「交際絶交となり孤立の状態」にあることや、病気の娘が島の海岸に隔離させられることに苦しんだ母親が「酒を(呑の)みサイダー瓶にて己(おの)が胸を滅多(めった)打ちに打ち遂(つい)に悶死して仕舞(しま)った」という出来事を伝え、「全島の病者の言葉となって戦はねばならぬと決心して居ります」と、患者救済への決意が記されている。
 34年の手紙では、患者らと過ごしていた家が周辺部落に住む50人の青年に襲撃され、「夜着を奪ひ丸裸として其(そ)れを海の潮にひたして患者に投げつけるなど暴行の限りをつくして」いた状況などを伝え、「全く戦争の様でありました」と書かれている。
 森川助教授は、自らもハンセン病を患った青木氏が、患者が安心して人間らしく生きるために建設を望んだ療養所と、国が隔離政策の一環で建設した療養所の実態には、大きな隔たりがあったと指摘し、「青木氏自身も愛楽園で大きな矛盾を抱えていた。どこに間違いがあったのか、今しっかり見詰め直す必要がある。その意味でも当時の様子を記した手紙は重要な資料だ」と語った。


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