1930年代の沖縄のハンセン病患者を取り巻く状況などを伝えた青木恵哉氏の手紙=名護市の沖縄愛楽園
ハンセン病患者の救済に人生をささげ、現在の沖縄愛楽園となる療養所の建設に尽力した青木恵哉(けいさい)氏(1893―1969年)が、1932年から35年にかけて、岡山の療養所・長島愛生園の知人に送った手紙の原本14通がこのほど、愛生園で見つかった。患者らに対する住民の襲撃事件や、発症した子どもとの別離に苦しんだ母親が悶死(もんし)した様子、水もない無人島での患者らの生活など、当時の沖縄で患者らが置かれていた壮絶な状況を生々しく伝えている。
間もなく発刊予定の「沖縄県ハンセン病証言集―資料編」の資料収集のため2005年9月、長島愛生園を訪れた琉球大学の森川恭剛助教授と証言集編集事務局の研究員らが確認した。森川助教授は「戦後の著書にもない事実もあり、時代の息遣いを感じる貴重な資料」と説明。「青木氏がどのように差別と闘おうとしたのか、療養所の将来構想が問われている今だからこそ知らねばならない歴史だ」と強調した。
長島愛生園の事務官だった宮川量氏にあてた手紙が中心。32年10月の手紙には、病気が発症した家が周囲から「交際絶交となり孤立の状態」にあることや、病気の娘が島の海岸に隔離させられることに苦しんだ母親が「酒を(呑の)みサイダー瓶にて己(おの)が胸を滅多(めった)打ちに打ち遂(つい)に悶死して仕舞(しま)った」という出来事を伝え、「全島の病者の言葉となって戦はねばならぬと決心して居ります」と、患者救済への決意が記されている。
34年の手紙では、患者らと過ごしていた家が周辺部落に住む50人の青年に襲撃され、「夜着を奪ひ丸裸として其(そ)れを海の潮にひたして患者に投げつけるなど暴行の限りをつくして」いた状況などを伝え、「全く戦争の様でありました」と書かれている。
森川助教授は、自らもハンセン病を患った青木氏が、患者が安心して人間らしく生きるために建設を望んだ療養所と、国が隔離政策の一環で建設した療養所の実態には、大きな隔たりがあったと指摘し、「青木氏自身も愛楽園で大きな矛盾を抱えていた。どこに間違いがあったのか、今しっかり見詰め直す必要がある。その意味でも当時の様子を記した手紙は重要な資料だ」と語った。
次の記事:キャンプハンセン共同使用「反対貫く」...>>
今日の記事一覧>>
Photo History
琉球新報掲載写真でつづるオキナワの歴史
しんぽう囲碁サロン
世界中の囲碁ファン会員と対局
ライブカメラ
琉球新報泉崎ビルに設置したライブカメラ
りゅうちゃん商店
ウェブサイトからも購入可能に!
ちょBit
新報パーソナルアド
ウイークリー1
沖縄県内・県外就職・求人情報ニュースサイト
新報カルチャーセンター
あなたの力引き出す一流講師陣
琉球新報の本
琉球新報の本がネットでも購入できます
琉球新報開発
広告、チラシ、保険、留学のことなら
週刊レキオ
生活情報満載の副読紙。毎週木曜お届け
うちなぁぐち配信中
紙面のコラムをうちなぁぐちで
新報ローカルブログ
ミニコミ誌連動のローカル情報
〒900-8525
沖縄県那覇市天久905
©The Ryukyu Shimpo
本ウェブサイト内に掲載の記事・写真の無断転用は一切禁じます。すべての著作権は琉球新報社または情報提供者にあります。