●大学進学で東京に生活を移すわけですが、東京に出てきた時に何か大阪とのカルチャー・ショックはありましたか?
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言葉が違うんだっていうことに初めて気がついて、すごいカルチャー・ショックでしたね(笑)。大阪にいる時は、標準語と大阪弁の違いをそんなに気づいていなかったんですよ(笑)。変なんですけど。何でそうだったのかわからないんですが。
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●でも大阪もテレビのニュースなどは標準語ですよね。
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そうなんですよね。でも大阪弁で流れてるテレビもありますし。標準語をテレビ語ぐらいにしかとっていなかったんでしょうね。
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●「女言葉みたいだ」とか関西の方は言いますよね。最初は違和感があるんですか?
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すごいありましたね。羽田に降りてモノレールに乗った瞬間に「それでさぁ」。え?「さぁ」とか言ってるよ、って(笑)。すごい抵抗がありましたねぇ。私の言葉は直ってる方だと言われますが、標準語に抵抗がすごいあったので、直さなきゃっていうのがなおさら強かったのでしょうね。そうじゃなかったらそのまま大阪弁喋っていたかもしれないですけど。
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●何10年東京にいても関西弁を直さない人はたくさんいますよね。
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そうですね。わりと関西人は直さない人が多いですよね。
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●そう言えば、全然大阪弁ではないですね。
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出るときは出るんですけどね。怒ると出るらしいです。自分では気づきませんが(笑)。 |
●大学生時代はオン・ザ・ラインの西さん同様、明治学院のプロデュース研究会でご活躍をされていたそうですが、どのような学生時代だったのでしょうか?
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高校3年生の時に、自分は事業家になると決めたので、事業家になるのに大学に行く必要はないんじゃないか、とも思いました。でも何の事業をやるかっていうのを自分の中でだいたいまとめたいという気持ちと、もうひとつは自分には経営者としてやはり資質的に足りない部分があって、そういった部分を補わなければならない。だから、大学4年間は自分に与えられた経営者になるまでの猶予期間という意識でやっていこうと思いました。
当時“11PM”というテレビ番組で、東京では学生企業が華やかにやっているというのを見たんですよ。ディスコを貸し切ってパーティをやったり、企業とイベントをやったり。そういうことは大阪にはなかったので、最近の大学生は進んでいるんだなぁと思いましたね。何かそういうビジネスに近いことをやりたかったのと、もうひとつは将来自分が事業家になって、ひとつの組織を取りまとめていくために、その“組織”を学びたかったんです。それでサークルに入りました。まず最初に明治学院のプロデュース研究会に入って、それ以外にも複合サークルという団体をやったりしていました。
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●学生時代のプロデュース研究会などの活動で、思い出に残っている「これは大成功した」というようなイベントはありますか?
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それぞれに楽しかったんですが、思い出に残ってるっていうのは“キャンパス・サミット”ですかね。
明学と立教のプロデュース研究会で一緒に“東京プランナーズネットワーク”という、プロ研仲間みたいな団体を作ったんです。ほかにも当時はメディア系と言ってたんですが、放送研究会や広告研究会の連盟などの団体を更に合体させて、“キャンパス・リーダース・ソサイエティ”というのをやっていました。年に1回、名刺を持ってる学生をとにかく全国から集めて、大規模な“キャンパス・サミット”を開くんですよ。企業から協賛金を調達してニューオータニの大きなフロアを貸し切って、名古屋や大阪からバスを出して、すごい数の学生を集めるんです。そういうイベントは組織を取りまとめていくいい経験になりましたし、「ここまで大きくなったんだな」という達成感もありましたね。それの親分をやっていたのが西川りゅうじんさんで、彼の先輩だったのが田中康夫さんでした。
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●明治学院に入学した時にはもうプロデュース研究会はあったんですか?
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いえ、私が入学した1年生の時に4年生の先輩が作ったんです。本間さんっていう人が西さんと友達で、本間さんが西さんを誘って始まったのが、そのプロデュース研究会ですね。私は初代会員です(笑)。3年生はいませんでしたね。4年生と2年生が何人かいて、1年生がほとんどでした。
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●プロデュース研究会に入られたのも、最終的には事業家になるという目的のためにでしょうか?
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そうですね。
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●それではリクルートに入社したのも事業家になるうえでの選択で、組織を学びたかったということですか?
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そうなりますね。
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