2008.7.12

■ 靖国神社みたままつり ■

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 ◎ 靖国神社の変質を生んだ〈みたままつり〉 ◎

 【靖国神社の時代適応への努力】

 ① 靖国神社の歴史的な本質

 昨日〔7月11日〕通勤(正確には通学)の途中,電車のなかである吊り広告,それも靖国神社みたままつり:7月13日から17日」というものを目にした。

 この〈みたままつり〉の漢字は「御祭り」である。靖国神社はかつて,大日本帝国「陸軍省・海軍省直属の宗教的な施設」として,この「帝政国家のために死んだ人びとを祀る国営神社」だった。しかし,この性格は敗戦直後,占領軍:GHQによって強制的にかえさせられ「一宗教法人」となっていた。

 そこで「靖国神社」は,戦前・戦中と同じ精神をこめるつもりで,いいかえれば,自社の国家宗教的性格を維持・発展させることを意図した一般庶民向けの行事:「お祭り」を企画・実行しており,毎年この時期になるとこの「みたままつり」を開催している。

 靖国神社が1947〔昭和22〕年から始めたこの「庶民向けのお祭り」=「みたままつり」を理解する鍵は,やはり「英霊」にみいだせる。靖国は過去,国家のために命を捧げた人びとを慰霊するためにではなく,帝国主義路線を発揚・推進するために必要な「人的資源:将兵」の〈死〉を督励する神聖な宗教精神的な場所,すなわち「日本帝国臣民としての意識徹底=洗脳作業」をおこなうために設けられた場所である。

 ② 靖国神社の歴史的な本質からみた「みたままつり」

 靖国神社のホームページは「みたままつり」をこう解説している。

みたままつり 7月13日~16日

  日本古来の盆行事に因み昭和22年に始まった「みたままつり」は,今日,東京の夏の風物詩として親しまれ,毎年30万人の参拝者で賑わいます。

 期間中,境内には大小3万を超える提灯や,各界名士の揮毫による懸雪洞が掲げられて九段の夜空を美しく彩り,本殿では毎夜,英霊をお慰めする祭儀が執り行われます。

 また,みこし振りや青森ねぶた,特別献華展,各種芸能などの奉納行事が繰り広げられるほか,光に包まれた参道で催される都内で一番早い盆踊りや,軒を連ねる夜店の光景は,昔懐かしい縁日の風情を今に伝えています。

 祭儀日程
  前夜祭      7月13日 午後 6時
  第一夜祭   7月14日 午後 6時
  第二夜祭   7月15日 午後 6時
  第三夜祭   7月16日 午後 6時

 昇殿参拝
   7月13日~16日   午前9時~午後8時

 (みたままつり期間中の社頭参拝は、午前6時から午後10時までとなります。)
献灯のご案内

 みたままつりの献灯は,英霊への感謝と平和な世の実現を願って掲げられるもので,どなたでも申し込むことができます。 

 このように説明される「みたままつり」は,最後のほうで,さりげなく「平和な世が実現できれば」無用となるほかない「英霊」の存在:機能に触れている。つまり,その「みたま=御霊」とは「英霊」を意味し,靖国でなければ存在しえない〈ミタマ〉のための「祭り」=「みたままつり」であることを,そこできちんと断わっているのである。

 戦前・戦中の靖国神社が英霊を祀る行事を開催する期日において,境内に出店や屋台を出させたという話は聞かない。ところが,戦後に急遽開催されはじめた靖国の「みたままつり」は,在来の神社・仏閣の開催する〈ふつうの縁日〉とまったく同じに,世俗宗教的な光景を許している。

 しかし,いまではそのなかにおいてこそ「英霊」という靖国本来の「ミタマ」庶民に参拝させようとする工夫をこらしているわけである。
 
 したがって,国家神道(神社神道)の宗教施設だった靖国神社を,日本古来の神道式の各種神社と「いきなり併置・共存させる」ような説明の方法は,誤導的なのである。実は「日本古来の盆行事に因み」ながらも「英霊」を祀り,靖国本来の国家宗教的な精神を庶民に浸透させるためにこそ,「みたま=御霊=英霊」祭りは毎年開催されているのである。

 もちろん,靖国関係者は,戦前・戦中と完全に同じ靖国神社でありえないことはよく認識・承知している。しかし,この神社が〈戦争の時代〉に果たしてきた「督戦的な機能・役割」を,依然まじめに期待している政治勢力や社会集団もたしかに存在する。だから「みたままつり」という宗教的な行事においては「同床異夢」的な含意が多様に発揮されている。
 
 註記)
写真は,http://www.dentan.jp/yasukuni/yasuku16.html


 ③ 靖国神社の今日的な存在様式

 ある日本庶民のホームページは,靖国神社「みたままつり」をこう描写している。

 靖国神社 夏の風物詩 “みたままつり” が開催中の参道には,全国各地から寄贈された黄色い提灯が両脇に飾られるとともに,屋台が出店され参拝者で賑わっています。

 また,大村益次郎の銅像の周りには,盆踊り場が作られています。

 註記)http://www.dentan.jp/yasukuni/yasuku16.html

 ここに表現されている靖国の祭事模様は,「その他の一般の」神社とかわるところがない昔懐かしい縁日の風情である。ところが,またほかの一般庶民は,こうも靖国をとらえている。

みたま祭り
毎年,必ず行っているお祭りです。

そもそも,「みたままつり」とは,
靖国神社がお盆にちなんで戦歿者246万6千余柱の「みたま」を慰めるため,
戦後の昭和22年から始めたものです。

場所は靖国神社で7月13,14,15,16日で午後6時からです。
詳細は,靖国神社みたま祭りをどうぞ。

歩き疲れたら,本堂のちょうど後ろに池とベンチがあるんで,
そこで休むと良いでしょう。

ときどきカップルがいますが,かなり穴場です。

 
註記)http://www.yashok.com/~yashok/oth/ode/ode_mitama.shtml

 こうなると靖国神社境内はもはや,かっこうのデート・スポットである。はたして,彼と彼女は「英霊」の意味を「しるやしらぬや」。ともかく,この文章はそれにきちんと触れている。これを読んだ靖国関係者はきっと「してやったり」の気分である。

 靖国神社は自社の性格=本質を,もともとこう解説していた。

 多くの方々の御霊が,身分・勲功・男女の区別なく,祖国に殉じられた尊い神霊(靖国の大神)として一律平等に祀られているのは,靖国神社の目的が唯一,国家のために一命を捧げられた方々を慰霊顕彰すること」にあるからです。つまり,靖国神社に祀られている246万6千余柱の神霊は,「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の御霊」であるという一点において共通しているのです。

 だから,一般庶民がこの九段の神社が主催する「みたままつり」にデートがてらでも遊びにいくとしても,実際は,靖国の精神=「公務:国家の宗教性」に賛同する人びとになるのである。もっとも,その境内に出店や屋台を置くのは「目的のためには手段を選ばず」の譬えを示しておけばよい。

 靖国神社は「我が国には今も,死者の御霊を神として祀り崇敬の対象とする文化・伝統が残されています」といいつつ,「日本人は家庭という共同体に限らず,地域社会や国家という共同体にとって大切な働きをした死者の御霊を,地域社会や国家の守り神(神霊)と考え大切にしてきました。靖国神社や全国にある護国神社は,そうした日本固有の文化実例の一つということができるでしょう」ともいう。

 だが,靖国は明治中期に創設された国営の神社神道であり,それも日本帝国路線を強引に展開していくための国家宗教イデオロギーを,帝国臣民の意識構造のなかに植えつけるためのものであった。だから,戦後における靖国の立場としては,ひたすら上段のように,牽強付会・我田引水・ご都合主義の解釈を披露するほかないのである。靖国の理屈でいえば,明治以来創られた日本のなにもかもが,先験的に「昔懐かしい」「日本固有の文化実例の一つ」といえなくもないからである。つまり「靖国=明治」の等式・限定を念頭に置いて話を聞く余地がある。

 ④ 国家神道の靖国神社ちまたの神道の各種神社

 靖国神社(その支社にあたる各地の護国神社--国家繁栄のために臣民・国民に「無条件に命を捧げろ」と,宗教精神的に強要・洗脳しようとする「迷惑な神社」である。明治以来,国策的に創設されてきた神社である。陸軍省・海軍省が国家組織として張りついていた国営の宗教施設であった。帝国臣民は「この宗教ならざる宗教」を拒否することなど,とうていできなかった。外地の戦場に出向く将兵が靖国に参拝する写真があるが,象徴的・・・。

 「町々にある各様の神社」--庶民の抱く〈各種の御利益〉→金運良縁子孫繁栄無病息災商売繁盛合格祈願などを願うための諸神社であり,けっして「国のために命を喜んで捨てろ(!)」などとヤボなことはいわない,ありがたい神社である。大昔から日本全国津々浦々に存在する。そこで,息子を戦争にとられたお母さんたちは深夜,こうした神社に裸足でなんどもお百度参りをして,戦場では「うちの息子だけには弾が当たらないで」「生きて帰れる」ことを願ったりしていたのである。

 --そ もそも,靖国神社のような「国家の宗祀」観が,それまで個々の共同体で神社を管理し,自治的な組織で祭祀を営んできた多くの国民が共有できるものであった か否か,という問題がある。個々の神社と皇祖・皇宗や国家をむすびつけるような靖国信仰が,はたして国民のものであったかどうか,ということである。その 点で,国家も神職たちも,国民の意識のありかたに分けいって,みずからの正当性の根拠をたずねようとする意識は,はじめから欠落していたのであるこの段落は,小澤 浩『民衆宗教と国家神道』山川出版社,2004年,53-54頁)

 
1945〔昭和20〕年敗戦を境に,靖国神社は,表相的にはその「基本性格=国家の立場」を緩和せざるをえなくなった。その事由はあまりにも明白である。第2次世界大戦〔大東亜・太平洋戦争〕で大日本帝国は,自国民だけで310万人もの戦争犠牲者を数えた

 靖国神社は,戦争に駆り出された庶民の生命を救う御利益はもたらさず,むしろ逆であった。「御国のために死ね」という宗教的観念を,臣民に強制する国家の機関であった。かといって,無数の庶民の
そうした犠牲=「死」の蓄積の代わりに手に入れようとした「国家目的」は達成できず,もののみごとに失敗していた。

  “大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん” (甘粕正彦,1945年8月 敗戦直後

 敗戦後の日本国は逆に,アメリカ〔帝国〕の支配・従属下,戦争をしない〔できない〕国家になったからこそ「経済大国」になれた。戦前・戦中の日本帝国は軍事的に〈大東亜の覇者〉になることによって,この国の臣民を豊かにしようともしていたはずである。ところが,そうしようとして,完全に失敗した。『戦争平和』。いったい,なにが・どこか根本的にちがうのか。小学生にでもわかる理屈である。

 以上,靖国神社が敗戦後その性格をいくらかかえざるをえなくなった事情を論述した。

 【参考文献】
   山中 恒『すっきりわかる「靖国神社」』小学館,2003年。
   歴史教育者協議会編『Q&A もっと知りたい靖国神社』大月書店,2002年。


Posted by B B G at 09:19:08 | コメント (0) | リンク (0)