CONTENTS

エッセイ

大歳卓麻(日本IBM 代表取締役社長)イノベーションに挑み続ける
前田晃伸(みずほフィナンシャルグループ 代表取締役社長)メガバンク復権は本物か?
鈴木謙介 サブカルチャーとしての「ニート」
山崎康司 実際に書くことでピラミッド原則がしっかり身につく
保田健治 最強のチームをつくる リーダーの人間力
竹田和彦 企業に高付加価値をもたらすバランスのとれた知財戦略へ
大楽祐二 訳者が語る……『プライベートバンク 本当の使い方』お金持ちへの第一歩を踏み出そう
菊池英博 著者が語る……『増税が日本を破壊する』本当は「財政危機ではない」これだけの理由

連 載

川勝平太 比較経済史の方法について(4)
松井宏夫 ビジネスマンのための健康ラボ【アルコール対策に「ゴマ」】
安土 敏 小説 「後継者」
佐和隆光 ポスト京都議定書の枠組み作り
上田惇生 著者と翻訳者の絆
池内ひろ美 健全な精神は健全な性欲から
西村ヤスロウ 美人のもと(5)
田中秀征 一つの決断がもたらした大政局
武田双雲 瞬間の贅沢
編集後記

◎――――巻頭エッセイ

イノベーションに挑み続ける

大歳卓麻

Otoshi Takuma
1948年広島県生まれ。日本アイ・ビー・エム代表取締役社長。

 現在の日本経済および企業経営のキーワードとして、「イノベーション」にあらためて関心が集まっています。戦後六〇年が経ち、日本経済は従来の延長線上ではなく、新たな変革が必要な時期にきていると、多くの方が感じているからです。
 株価や企業の収益動向から、日本経済は回復基調と見られていますが、業界ごとの一律的な成長傾向ではなく、企業変革の成否による差が顕著になっています。苦しい時に積極的な変革を推し進めた成果が表れているのです。
 ただ、変化の激しい時代では、たとえ企業変革の成果が出てきていても「これでよし」と思った瞬間から取り残されてしまいます。また、業績が悪い時は経営課題が顕在化し、打つべき手も分かりやすいのですが、業績が良くなった途端に、現在の課題は隠れて見えにくくなってしまいます。
 業績が厳しい時は、その危機感が企業変革の原動力になります。しかし、業績が回復した時に、さらなる変革を推し進めることはたやすいことではありません。それでも変革を進められるかどうかは、その企業のなかで変革が根づいているかどうか、イノベーションを自社の強みとして常に推進しているかどうかにかかっています。
 IBMは九〇年代初頭に数十億ドル規模の赤字を出す厳しい状況にありましたが、社外から招聘したルイス・V・ガースナー前会長兼CEOの変革を通じて業績を回復しました。しかし、IBMの変革はそれで終わりではなく、復活を遂げたと言われてからもなお、続いています。むしろ、イノベーションを企業価値と考えるようになり、一段と積極的に、そしてより困難な変革に取り組んでいます。
 企業が生き残る唯一の方法は、経営環境の変化に対応し、終わりなきイノベーションに挑み続けることではないでしょうか。進化論で有名なチャールズ・ダーウィンも語っています。曰く、「最も強いものが生き残るのではなく、最も賢いものが生き残るのでもない。唯一生き残るのは変化に対応できるものだけである」。
 二〇〇六年度からの科学技術基本計画案に、イノベーションの強化が盛り込まれました。日本がイノベーション立国として世界をリードしていくためには、技術だけでなく、技術とビジネスを融合した社会的なイノベーションが重要です。
 イノベーションを生み出す仕組みづくりを推進し、イノベーションへの挑戦を奨励する風土を醸成し、日本を挙げてイノベーションに取り組んでいくことが求められています。

◎――――エッセイ

中間決算は「過去最高益」
メガバンク復権は本物か?

前田晃伸

Maeda Terunobu
みずほフィナンシャルグループ社長。一九四五年生まれ。東京大学法学部卒業後、六八年に富士銀行入行。二〇〇二年、富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行の三行統合で誕生した、みずほホールディングス社長に就任。〇三年一月より現職。

 二〇〇五年九月中間決算における当社の連結当期利益は三三八五億円。上半期だけで昨年度一年分を稼ぎ、過去最高益となりましたが、まったく実感が湧きませんね。新聞ではトヨタ自動車と比較されたりもしますが、(トヨタに対して)失礼な話だと思いますよ。トヨタはきちんと税金を払っている。当社は、不良債権処理に伴う過去の赤字繰り越しがあるために税金を払っていない。税金を払ったと仮定すれば、当期利益は三三八五億円の半分強しかないんです。
 しかも、当社はいまだに公的資金返済に追われている。ようやく全体の八割は返したけれど、まだ六〇〇〇億円残っているわけです。したがって、個人的には、やっと「半人前」にはなったかな、という印象ですね。中間決算の数字は、実力相応とは言えない。
 もっとも、不良債権処理は本当に終わったし、来年度には公的資金完済の目途もついた。その意味で「出口」ははっきりと見えてきている。三年前に「いつ、この苦境から脱出できるのか」と聞かれて、私は答えることができなかったけれど、今は違う。
 振り返ってみれば、みずほの分水嶺は二〇〇二年度だったと思うんです。統合当初からシステム障害でつまづき、社会的問題にまでなった。正直言って、私は死んだかと思った。加えて、二兆円強の不良債権を一括処理し、巨額の最終赤字を計上した結果、自己資本は裸同然にまで減少しました。あの時に一兆円の増資が成功しなければ、疑いなく今日のみずほはなかった。
 一兆円増資が成功した時が、みずほの株価のボトムで五万八七〇〇円(五〇円額面換算で五八・七円)にまで下落したんですよ。でも、今だから言えるけれど、私はこの瞬間に、みずほの再生を確信しましたね。一兆円という金額は、不良債権処理を小刻みに先送りにせず一年で全部けりをつけるという前提で逆算された金額だったんです。これだけ不良債権処理を完璧にやれば、次の年度は絶対に黒字浮上できるという自信があったし、だからこそ株価もこれ以上は絶対に下がらないと思っていた。
 現時点(二〇〇五年一二月下旬)で株価は九四万円前後まで回復しました。ボトムと比較すれば約一六倍に上昇したわけです。三年前、あえて不良債権処理の一括処理をやらなければ、株価は五万八七〇〇円にまで下落することはなかったけれど、逆に九四万円に回復することもなかったでしょうね。今にして思えば、あっという間の三年間だったけれど、本当に苦しかった。
 その苦しい時代、我々はお客さんに助けていただいたわけです。一兆円増資を通じて、みずほの顧客基盤の強さ、有り難みを肌で感じました。だから、企業経営のステークホルダーのなかで、私があえて優先順位をつけるとすれば、一位は「お客さん」ですよ。病み上がりの身ではあるけれど、やっと業績も回復してきた今、お客さんに少しでもお返ししていくことこそが、経営者としての責務だと思うんです。
 これまでだって、苦しい時代を通じて、お客さんのために新しい商品を開発してきた実績はある。一例を挙げれば、「シンジケートローン」(銀行団による協調融資。複数の銀行融資を一本化することで仲介手数料を得る)。最初は、うまくいくはずがないなどとさんざん酷評されたものですが、今では二〇兆円のマーケットにまでなった。三年前の窮地がなければ、ここまでお客さんの立場に立って新商品開発に取り組むことはなかった。これで終わりではありません。統合で得られたメリットを、もっとお客さんに還元していきたい。
 そのためには、他のメガバンクの真似をしていては駄目なんです。たとえば、みずほグループには二つの基幹銀行があって、「みずほコーポレート銀行」は大企業取引、「みずほ銀行」は中堅中小企業・個人取引に特化しています。メガバンクのなかでは、みずほにしかないビジネスモデルで、その真価は、これから出てくる。人真似から独自の発想は生まれない。今も昔も、私は「横を見るな」と言い続けている。縮小する一方だった海外事業も再攻勢に転じますよ。とりわけ中国、インドといった成長市場では、みずほの存在感を高めていきたい。
 考えてみれば、銀行のみならず、この三年間は産業界にとっても相当に苦しい時期だったと思うんです。しかし、銀行のみならず、産業界も苦しい時代を乗り越えて「日本再生」の目途がついてきた。
減損会計導入に象徴される荒療治もあったけれど、それを乗り越える強さを身につけた。日本企業のあり方は、明らかに一昔前とは違った姿に進化しているように感じます。
「失われた一〇年」という言葉がありますが、私はそうは思わない。「体質改善の一〇年」と言ったほうが、しっくりくるのではないでしょうか。「体質改善の一〇年」を経て、日本企業は一度は失った競争力を少しずつ取り戻してきている。
苦しい時代を耐えて耐え抜いた自信が萌している。銀行は「資本主義の動脈」と呼ばれます。産業界の復活なくして、銀行の復活もありえない。
 銀行決算は現時点での実力を表しているとは思いません。が、日本経済復活に向けた転換点の一つの示唆ではあると感じています。 (談)

◎――――連載

ドラッカーと私 第1回

著者と翻訳者の絆

上田惇生

Ueda Atsuo
ものつくり大学名誉教授。ドラッカー学会代表。一九三八年生まれ。一九六一年サウスジョージア大学経営学科、六四年慶応義塾大学経済学部卒業後、経団連事務局入局。同会長秘書、国際経済部次長、広報部長、経済広報センター常務理事、ものつくり大学教授(マネジメント、社会論)を経て、現職。ドラッカー著作のほとんどを翻訳。


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『ビジネスウィーク』二〇〇五年一一月二八日号のカバーストーリーは、「マネジメントを発明した男――ピーター・ドラッカーはなぜ重要な存在であり続けるのか」と題して、逝去を悼みつつ今日的意味を論じた。
その追悼記事の結びがドラッカー本人の言葉の引用、「いいですか。私自身はそれほど面白くないですよ。文筆家ですから。文筆家というものは、それほど面白い人生を送ってはいません。私の本つまり仕事の方は面白いかもしれません。でも人生は別物です」だった。
ドラッカーは、時として極端に謙遜家となる。だがこのドラッカーの言葉にいくばくかの真理があるとするならば、文筆家の言葉を言い直すだけの存在である翻訳家の人生が、たとえドラッカーとのかかわりにおいてでさえ、面白かろうはずはない。
当然私としては、たとえ、ドラッカーのおかげで人生や事業が変わったという本物のドラッカリアンの方々の前座としてでも、今日この頃でさえ、やがて出されるべき生誕一〇〇年記念出版に備えて一日一二時間はただひたすらにドラッカーの書いたものの再訳に過ごしているだけという者の、さして面白くもないこれまでの歩みを記すには、相当の神経を要する。

『現代の経営』を読み
はじめてドラッカーを知る

翻訳に関係のある経験といえば、中学のときの一日一冊という読書の習慣と、高一のときの喀血に続く二年間のサナトリウム生活での俳句の趣味ぐらいのもの。ただし、これがかなり深くその後のドラッカー翻訳に関係している。
ところが逆に、ものの考え方としては、ドラッカーとは正反対の、厭あーなデカルトの弟子、つまりは何でも理屈でわかるはずとの、近代合理主義としてのモダンの申し子。この過去があるからこその、その後のドラッカーへの傾倒だったともいえる。
肝心のドラッカーとの最初の出会いは、大学一年生のときに読んだ『現代の経営』である。読み終わってすぐにしたことが、恐れ多くも、「こんな本を自分も書きたい」との資料集めだった。
ところが二年生になって、肺病もろくろく治っていないのに、急にアメリカへ行きたくなり、「泊めてくれれば日本の産業と文化について講演します」との手紙をアメリカ各地の大学二五〇校に出した。返事をもらった五〇校からの「ぜひいらっしゃい」との手紙をつけて渡航審査会へ外貨申請。関係省庁を回っての根回し。そうこうするうちに『現代の経営日本版』の資料と書きかけの原稿は、押入れの奥深くで行方不明になってしまった。

『抄訳マネジメント』の企画を
ドラッカー本人に提案

アメリカでの大陸往復無銭旅行から帰って復学、やがて経団連に就職した。わずか一か月で任された『カンボジア』という雑誌に高名な外交官の一寸だけだが変な文章をそのまま掲載して、「わからないことは机の前を通すな」と珍しく出勤してきた病気がちの部次長にこっぴどく叱られる。爾来頑なに、わからないものは目の前を通さないことにした。しかし、やがてこれがドラッカーとの関係の決め手となったのである。
経済団体に入ったからには経済についての英語の本を翻訳して勉強せよと先輩に言われて、翻訳チームに入れてもらって最初に訳した本が、後にドラッカーが『創造する経営者』で推奨していたことを知る『危機に立つ大企業』という本。これが出版されて一か月後に、編集者の方が今度は一人で訳してみませんかと持って来られたものが、『若き経営エリートたち』という本だった。何とその本に推薦の言葉を書いていたのが、ドラッカーである。
その後何冊か出した後、ちょうど経団連で時の会長植村甲午郎さんの調査秘書をしていた頃、「ドラッカーが厚い本を書いたのでチームで訳す。入らないか」と言われて、野田一夫先生をヘッドにするチームへ飛び離れた若年者として入れていただいた。これが、原書八〇〇ページ訳書一三〇〇ページという『マネジメント――課題、責任、実践』だった。この本が出て間もなく、再び恐れ多くも、あろうことか今度はドラッカー本人に、「あの本は厚い、重複もある、中身をさほど変えずに薄くできる、英語で薄くしたものをお見せする、よければ訳させてほしい」と書いた。こうしてできあがったものが、今も大学の教科書に使われている『マネジメント【エッセンシャル版】』の前身『抄訳マネジメント』だった。
わからないものは目の前を通さない。ところが、あの厚い本はわからない所だらけ。しかし、わからないところが一〇箇所あれば、八箇所は私の読解力のせいとしても、二箇所ぐらいはドラッカーの書き方に問題ありということだった。ここまで丁寧に見てくれているのかという信頼と、盛田昭夫さんほかドラッカーの友人方の、英語よりわかりやすいと言ってくれた太鼓判のおかげで、その後三〇年を超える事実上の専属の関係が生じたのだった。しかも経団連事務局の先輩同僚との翻訳チームが、チーム全員の仕事の忙しさをカバーした。
仕事のほうでも、ドラッカーの影響を受けて、政治家と官僚相手だけでは駄目、世論に直接働きかけよと生意気なことを「自己申告」して、それならお前やれと、それまで実質出版部だった広報部へ配置転換。専門の広報機関の設立まで命じられて作ったものが今でも健在の(財)経済広報センターである。もうその頃は、センターの設立から新聞記者さんへのレクまで、知る人ぞ知る、どっぷりドラッカーに浸ってのものだった。つまるところ一九八〇年頃のドラッカーは、日本企業だけでなく財界からの発信内容にまで影響を与えていたことになる。その頃の経団連会長が土光敏夫さん。
経済広報センターでの年季が明けて経団連で戻った先が国際経済部。誠にありがたいことに、ちょうどその頃が、ドラッカーが国際経済について大いに健筆をふるっていた頃だった。欧米相手の二国間、多国間の会議、交渉、ロビイングを担当し、ドラッカーの洞察を参考にしつつも、どうしてドラッカーはこれほどまでに最新の動きを知り、かつ行方まで知っているのかと思ったものだった。
その後再び広報の世界に戻って、平岩外四さんが会長時代の経団連広報部長。新著を訳しては、読んでもらうだけでなくレクもさせてもらった。これはその後の豊田章一郎さんの時代まで続いた。各紙論説の方々との懇談も種本はいつもドラッカーだったし、皆さんの方も、それを承知で論説のテーマ探しにやって来られた。

三人から受けた
同じ質問がきっかけで
「はじめて読むドラッカー」を編集

ドラッカー選書の発行が始まったのが一九九五年。次から次へと出てくる新著の翻訳に加え、昔出たものの新訳まで始めてしまった。そして『「経済人」の終わり』。私のドラッカー翻訳の日本語の基本が定まったのが、遅ればせながらこの本を訳したとき、私の定年の前年一九九七年のことだった。
そしてその頃、定年後はドラッカーを教えることになるかと思っていたとき、どうせならば大学を作るところからやらないかと言っていただき、国際技能工芸大学設立準備財団入り。寄付集めは、経済広報センターの設立で昔取った杵柄。大学はその後総長に就任の哲学者梅原猛さんの命名でものつくり大学、英文名は元アメリカ技術史学会の会長でもあるドラッカーの命名でインスティチュート・オブ・テクノロジストとなった。
一九九八年、私が六〇歳になったときのドラッカーからの誕生祝いのファックスが、「面白いのは六〇からだよ、生産性が上がるのも六〇からだ」だった。事実、『明日を支配するもの』が出た直後のあるレセプションで、私は立て続けに三人の方から、「あの本は面白かった。他のも読みたいのだが、何を読んだらいいか」と聞かれたのだった。早速報告したところ、ドラッカーもよく聞かれて返答に困るとのことだった。そこでドラッカーの世界の地図を作ることになった。
社会編とマネジメント編の二冊ということになったが、すぐにドラッカーの著作には若い人へのメッセージに相当するものがかなりあり、それらのものを独立させて自己実現編として三部作にしようということになった。嬉しいことに、この「はじめて読むドラッカー」シリーズの『プロフェッショナルの条件』で自分の学生生活やサラリーマン人生が変わったという若い人は多い。このシリーズはそのまま三部作として世界中で翻訳発行されたが、英語圏だけは版権の関係で、『エッセンシャル・ドラッカー』と『ファンクショニング・ソサエティ』の二部作として発行された。こうしてドラッカーと私の編集で本になった半日本発の著作は名言集シリーズなど一〇作にのぼる。

人それぞれの
ドラッカーがある

前々から何人かの方と相談してきたドラッカー学会(http://drucker-ws.org)設立の準備が軌道に乗り、一一月一九日の九六歳の誕生日を設立日とし、本人もそれを率直に大喜びしていたというのに、その八日前の一一日に亡くなられてしまった。ちょうどドラッカーの生涯を運命づけた第一次世界大戦の終戦の日だった。
ドラッカーと私との間の七〇〇枚を優に超えるファックスのコピーは、ドラッカー論を執筆中の作家エリザベス・ハース・イーダスハイム博士が、わざわざ日本まで取材に来て持ち帰った。
ドラッカーとは、それぞれのドラッカーである。誰もが自分のために書いていてくれたことを知る。しかし私は、もしかすると、ドラッカーは日本と日本人のために書いてくれていたのではないかと思う。それを彼女が発見し、解き明かしてくれるのではないかと思っている。

◎――――連載

球域の文明史 第30回

比較経済史の方法について(4)

川勝平太

Kawakatsu Heita 
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など

 経済史は経済学でもあるが、歴史学の一領域でもあり、社会の変化を跡づける作業は不可欠である。社会の変化をみるには歴史観がいる。歴史観として、経済史において一世紀以上にわたって支配的であったのは、マルクスの「唯物史観(史的唯物論)」である。
 今日では経済史家にマルクス主義者は少なくなった。それは必ずしも唯物史観が破綻したからというわけではない。ソ連・東欧社会主義圏が自壊し、中国が社会主義とは名ばかりの市場経済へ移行し、北朝鮮が専制国家と化して国民が飢餓状態になっているなど、二〇世紀に生まれた社会主義体制が破綻したことによるものである。マルクス主義は、未来を切り開く歴史観としての影響力をすっかり消失した。
 だが、過去を説明するときには相変わらず、唯物史観の図式(奴隷制→封建制→資本主義)に依拠している学者が多い。あるいは、過去一〇年ほどの経済史関係の専門誌をみる限り、みずからの依拠する歴史観を問わずに、従来からのテーマに寄り添うようにして、実証にいそしむ専門家が多くなっているのが実情である。
 唯物史観の図式は、ヨーロッパの歴史から帰納されたものなので、ヨーロッパ社会に妥当するところがあるのは当然である。ギリシャ・ローマの時代は奴隷制、中世は封建制であり、封建社会の崩壊とともに資本主義社会が出現した。これは大多数の学者の認めるところである。
 しかし、奴隷制→封建制→資本主義の歴史変化を非ヨーロッパ圏でも同じように起こったと思い込むのは、二重の意味で問題がある、というより、誤りである。
 第一に、「非ヨーロッパ圏はどの地域であれ、ヨーロッパと自然・社会・文化が異なる」という、子供にでも分かる理屈による。インドネシアの高校生に「バリ島は日本の北海道と同じ歴史を歩んできた」といえば、笑われるだろう。蛇足で一例を挙げれば、食べ物が違う。食べ物が違えば、それが採れる場所も、食材をつくったり採ったりする道具も方法も、加工技術も、ことごとに異なってくる。食べ物は言語・風俗・慣習をはじめ、政治・経済・社会・文化のあらゆる生活領域とかかわっているからである。相互に異なる地域における歴史の歩みにおいて、もし同じようなことが同時並行的に起こったとすれば(ありうるが)、それは「世界史の法則」(これがマルクス主義経済史家の常套句であり、多数の文献がある)というより、珍しい偶然に帰せしめるべきことである。ヨーロッパ社会と同じように日本社会が変化してきた、という思い込みが通念になったのは、ヨーロッパへの憧れという非合理的な特別視が共有されてきたからである。
 第二に、さらに重要なことであるが、まず、ヨーロッパの奴隷制→封建制の変化には、ヨーロッパ社会内部の自生的要因だけでなく、外部地域からの決定的影響があったことが分かっているからである。「サラセン(イスラム勢力)」の地中海地域への侵入という外部要因である。
 古典古代末期の地中海世界と中世初期のヨーロッパ世界との関係を明らかにした第一級の歴史家にベルギーのアンリ・ピレンヌがいる。ピレンヌの有名なフレイズを借りるならば「シャルルマーニュをつくったのはマホメットである」。古代における地中海の統一世界が断絶し、破壊されたのはイスラムの侵入によるものであり、ヨーロッパは農耕中心の封建制に変質せざるをえなかったのだ、とピレンヌは論じたのである。封建制は、地中海を奪われたヨーロッパ人が農耕に経済基盤を見出さざるをえなかったことによって成立した。ピレンヌ・テーゼの背景にあるのは「ヨーロッパとは何か」という本質的な問いかけであり、その答えとしてピレンヌが出したのが、端的にいえば「ヨーロッパをつくったのはヨーロッパでない、イスラムだ」というメッセージである。ヨーロッパはイスラム世界の出現によってヨーロッパという文化的統一体になった。言い換えるとヨーロッパのキリスト教世界と中東のイスラム教世界とは相互作用のある一体のものとして捉えなければならない。全体を見る目がいるのである。
 封建制から資本主義への移行においても、同様のことがいえる。ヨーロッパ中世は、一四世紀中葉の黒死病(ペスト)の大流行で前期と後期に二分される。黒死病で失われた人口は二五〇〇万人ともいわれ、それは当時のヨーロッパの推定人口七〇〇〇〜八〇〇〇万人の三分の一にあたる。黒死病はヨーロッパで流行する前にクリミア半島で大流行しており、中東でも人口の三分の一が失われていた。しかし中東が起源ではなく、さらにその東方の中国から伝染してきたものであることが知られている(McEvedy & Jones Atlas of World Population History, Penguins,一九七八/マクニール著『疫病と世界史』新潮社刊 )。
 この疫病にヨーロッパ人は対処しなければならなかった。疫病の治療薬・予防薬と信じられていたのが胡椒・香辛料を代表とする東方の物産である。その大産地は南アジア・東南アジアであった。それら胡椒・香辛料は中東を媒介にして地中海に運ばれた。それが中世後期にヴェニスの東方貿易がさかえた理由である。また、ヴェニスとの東方貿易の競争に敗れたジェノヴァの商人たちがポルトガルに投資をし、「ジェノヴァ人のコロンブス」が、ヴェニスの商人による中東との貿易独占に対抗するために、東方との直接接触をはかろうとしたことが、航海を決断することになった背景である。
 ヨーロッパ諸国がこぞって東インド(=アジア)貿易に乗り出したのはヨーロッパのどの国も疫病対策として胡椒・香辛料を必要としたからである。そこから始まる「大航海時代」が土地に経済基盤を置いた封建制からの離脱を促し、資本主義社会を産み落とすことになった。ちなみに、東南アジアを中核にした西側の南アジアと東側の東アジアは一六〜一八世紀においては「東インド」と呼ばれた。「東インド」の呼称は、コロンブスの到達した南北アメリカ大陸を「西インド」と呼んで区別するためである。
 ヨーロッパの資本主義が、一国資本主義レヴェルではなく、当初から「世界資本主義」として成立したことは角山栄氏ら戦後の京都の学者たちによって早くから指摘されていたが、最近ではウォーラーステインのいう「近代世界システム」として出現したことが共通理解となっている。そこにはヨーロッパ地域以外の地域をとりこむ姿勢がある。
 資本主義社会は、その経済政策において重商主義→自由主義→帝国主義という三段階、資本蓄積の形式において商人資本→産業資本→金融資本という三段階に区別できる。すなわち、資本主義は、それが勃興してくるときに貿易を本質としており、輸入と輸出との貿易差額から利潤を獲得する商人(商人資本)を国家的規模で援助すること(重商主義)から始まったのである。輸入も輸出もヨーロッパ域内では閉じていない。
 ヨーロッパの資本主義を、貿易品となった代表的物産で時代区分すると、一七世紀は胡椒・香辛料、一八世紀は砂糖、一九世紀は木綿である。胡椒・香辛料は「東インド」から輸入され、砂糖は「西インド」から輸入された。木綿は原料が「西インド」から輸入され「東インド」へ輸出された。封建制から資本主義への移行にはアジアとアメリカとが密接不離の形で関係していた。
 このように、ヨーロッパにおける奴隷制から封建制への社会の変化にはイスラム世界がかかわり、封建制から資本主義への社会の変化には「東インド(アジア)」と「西インド(アメリカ)」の両地域がかかわっていた。
 この明白な事実を捨象して、ヨーロッパ社会における奴隷制→封建制→資本主義という変化を、非ヨーロッパ圏の社会でも同じように起こる変化だと思うのは、誤りである。ヨーロッパ社会の変化と他地域との関連を捉えて、社会の時代区分をするべきである。言い換えると、一国史(たとえばイギリス)の時代区分を他国に適用する(たとえばスターリンがソヴィエト・ロシアに適用した)のは誤りであり、一地域(たとえば西ヨーロッパ)の時代区分を他地域に適用する(たとえばヴェラ・ザスーリチがそうしようとした)のも誤りである。
 ところが、日本を見れば、奴隷制→封建制→資本主義という唯物史観の図式は、権威のある各種の日本史の講座ものやシリーズものに根強く残っている。日本の歴史学界においては、社会の変化をみる歴史観として「唯物史観の公式」が別のものに取って代わられたわけではない。それは鎖国史観であり、しかもヨーロッパの歴史(それも他地域との関係を無視してつくられた歴史観)を自国をみる歴史観にしている点で自立性に欠ける。日本史学(日本経済史を含む)の開国が待たれるのである。
 もうひとつ、唯物史観には、「唯物史観」という名称自体の問題もある。
「唯物」といいながら、人間中心主義なのである。マルクスがみずからの経済学研究の「導きの糸」として定式化した「唯物史観の公式」(『経済学批判』序言)に「物」はない。羊頭狗肉というべきで、この点については本連載の第三回(二〇〇三年一〇月号)と第四回(同一一月号)で説明した。その際は、ヨーロッパの学説の流れに従って、社会変化をみる方法論として、マルクスの学説よりシュンペーターの学説に軍配をあげるべき理由を、本連載の第一三回(二〇〇四年八月号)から第二〇回(二〇〇五年三月号)において縷々説明した。

真正の唯物史観、「格物史観」

 西洋社会では、『聖書』の「創世記」の記述の影響が大きい。そこには「神のみずからの姿に似せて人間を創造した。神は祝福して言った。生めよ、増やせよ、地に満てよ。地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治めよ」とある。そのような文化風土があるために、マルクスにせよシュンペーターにせよ、社会観が人間中心主義になるのはやむをえない側面がある。
 物と、その歴史的な伝播とが、社会に及ぼす影響を重視するのが、われわれの立場である。これが「唯物史観」という言葉の正しい意味である。同じく「唯物」といいながら、内容的には「ヒト・階級」を論じるのは「似非の唯物史観」であろう。しかしながら、唯物史観の正統争いは非生産的である。
 そこで、世にはびこる似非の唯物史観と区別し、真正の唯物史観を、「格物史観」となづける。英語にすれば、唯物史観も格物史観もhistorical materialismであるが、内容に即していえば唯物史観はhuman-centered historical materialismであり、格物史観はculture centered historical materialismである。あるいは前者はsocial-class centered historical materialism後者はsocial-culture centered historical materialismと言い表せる。格物史観にもとづく社会変容のテーゼについては、唯物史観と比較できるように『経済史入門』(日経文庫)で詳論した。

◎――――連載

ガンバレ!男たち 第24回

健全な精神は健全な性欲から

池内ひろ美

Ikeuchi Hiromi
1961年岡山県生まれ。一女を連れて離婚後、96年にみずからの体験をベースに『リストラ離婚』を著し話題となる。97年、夫婦・家族問題を考える「東京家族ラボ」を設立、主宰する。hiromi@ikeuchi.com
ブログ「池内ひろ美の考察の日々」を始めました。http://ikeuchihiromi.cocolog-nifty.com/
サイト「東京家族ラボ」 http://www.ikeuchi.com/

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 英国のコンドーム・メーカーであるデュレックスが二〇〇五年、世界四一ヶ国を対象に行ったセックスに関する調査によると、セックスの頻度が高いベスト3は、ギリシャ、クロアチア、セルビアとモンテネグロ(同率)。一位のギリシャは年間一三八回もセックスをしている。日本は世界最低の年四五回。四〇位のシンガポールは七三回。中国は九六回で三二位。前回調査で一位だったフランスは一二〇回で今回は五位に転落。世界平均は一〇三回。

「セックスしろってうるさいんですよ。でも、正直言って妻とする気にはならないんです。子どもがいて、さっきまで母親だった人間が、子どもが寝た瞬間に女の顔をされても、僕はついていけませんよ。僕にとっての妻は、可愛い娘の優しい母親であって、欲情するメスではないわけです」
 そう語るのは、三〇代半ばのサラリーマン男性。某企業の本社マーケティング部勤務。いわゆる頭脳労働者である。
「僕の周りでも、妻とセックスしている人間はいません。部長なんか、結婚してから俺が女房とセックスしたのは三回だけで子どもが二人いる、立派だろう? って自慢してますから。まあ、同期の営業には妻と週三回ってヤツがいますが、そいつはみんなから尊敬され、呆れられていますよ」
 たしかに、そのようだ。日本の企業社会では、妻とはセックスしないのが普通なのか。しかし、女性の三〇代はもちろん、五〇代にだって性欲はある。しかも、一般的な女性はまだまだ貞操観念もあるし、精神的な満足を求める傾向も男性より強いため夫との関係を求めることになる。しかし、その気がない夫を相手に妻は不満を抱え、結果として彼女たちの浮気願望だけが肥大することになる。
 世の夫たちは妻をもっと愛してやれと言いたいが、話はそれほど単純ではない。近年の日本人男性はもっと根本的な問題を抱えているのである。
 昔から日本の男性社会では、結婚したら女房とはやらないとか、仕事とセックスは家庭に持ち込まない、などと戯れ言があったのだが、これはまだ、外ではセックスするぞ、若いお姉ちゃんにはまだまだチャレンジするぞと言っていることであり、性欲は旺盛だったのである。
 しかし、いつのころからか戯れ言すら聞かれなくなった。まるでバブル崩壊による日本経済の縮小とともに、男性も縮小し、性欲はどんどん減退してしまったかに思える。
 夫婦のセックスレスよりも男性の性欲減退のほうが大きな問題だ。なぜなら、健全な性欲があってこそ、健全な精神を保てると感じるからだ。不健全な性欲の持ち主で、健全な印象を与える男性など見たことはない。
 そういえば、映画「オールド・ボーイ」の原作者・土屋ガロン氏が他の作品の中で、性欲に蓋をするヤツはいつか自分の性欲に復讐されると語っていたが、いまや蓋をするほどの性欲を持たなくなったのが現代日本男性の現状でもある。
 前述のデュレックス調査では、四一ヶ国中四〇位のシンガポールでも年間七三回セックスをしている。三九位のインドは七五回。日本は四五回である。つまり、ダントツの最下位だ。一位のギリシャでは日本の三倍もセックスしている。日本人男性は世界でも稀に見る淡泊な人種なのである。ダントツに性欲の薄いヤツ、それが日本男児の実態である。
 しかし、私はここで、日本の男性に対してもっとセックスを増やせと言いたいわけでもない。セックスは回数をこなせばよいというものでもないからだ。
 夫婦のセックスはイマジネーションである。そして、日本人は性に対するイマジネーションが豊かな民族である。だからこそ、世界で最も性欲が薄いわりに、世界でも類をみない多種多様な性風俗文化を生み出しているのだろう。
 そして、性に対するイマジネーションは経済も牽引する。戦後、最も求愛文化が花開いたのはバブルのころだっただろう。若いのに女性にもてたいと思わない男性は、生活文化全般が貧弱なものになる。結果、経済は浮上しない。
 経済戦士のみなさんは、性のイマジネーションを豊かにして欲しい。まずは、いちばん身近な愛の対象、あなたの奥さんとのセックスを豊かにしてみよう。若い愛人を作るのはその後のこと。奥さんを大切にしている男性こそが、実はカッコいいのだと理解してほしい。

◎――――エッセイ

美人のもと 第5回

美人のもと

西村ヤスロウ

Nishimura Yasuro
1962年生まれ。株式会社博報堂 プランナー。趣味は人間観察。著書に『Are You Yellow Monkey?』『しぐさの解読 彼女はなぜフグになるのか』など。

*メール

 美人はメールでわかる。ほとんど当たる。美人のメールは美しいからだ。とても簡潔でわかりやすい。そして余計なことが書かれていない。シンプルで凛としている感じ。
 長々と書かれていて、わけのわからない文字がたくさん出てくるメールを書く人は、とても危険だ。メールをヘンに装飾している瞬間に「美人のもと」は消えていくのだろう。時間をかけてかわらしい文章を書いているのに、それがかわいらしさを減らしていく。なんて悲しいことなのだろう。
 ファンシーなメールに美人なし。
 口語で書くのはいい。それには意味があるから。しかし、「だよ〜〜〜ん」とか見ると、「〜〜〜」の瞬間に大事なものを失っていくことにこちらが悲しくなる。余計なことをしている暇があるのなら、もっと自分を磨きなさい。
 ただ文字を連ねるのではなく、できるだけ簡潔にまとめる工夫をしてみよう。美しいメールが仕上がる。
 そして、それは「美人のもと」をつくっていく。美人のメールは短く、中身が濃い。
 しかし、今日も知らないところから迷惑メールがやってくる。「げんきぃ???ワ、タ、シ……」もう真似る気もなくなるような、バカなメール。そんなもので「あ、このメールかわいい」とでも思うと考えているのか。そんなものにだまされている男もいるのだろうか。
 そんな疑問を日々募らせながら電車に乗る。
 なぜか満員電車でも人に見えるような位置でメールを狂ったように打つ女性がいる。ものすごい勢いで打つ。見たくもないのに、メールの文章が見える。
 もちろん、そういう無頓着な女性のメールのメールはファンシーだ。「頼む。振り返るな」なぜか私の心が叫ぶ。
 もうわかっているのだ。キミからはかなりの「美人のもと」がなくなっている。
 立ってメールを打っているキミの姿、かなりおかしいです。なぜ、そんなに力んでいるのでしょう。もう、その姿がすでに失格である。「マジ、ウケたぁ」と打ちながら、鼻をふくらませながら、怒り顔になっているはずだ。どうせなら笑いなさい。
 力を抜いて、シンプルに。そうすれば、「メール代高い」と怒ることもなくなっていく。

*拍手

 人は拍手が好きだ。いろんな瞬間に拍手をする。ひとつの重要な表現である。しかし、その拍手は同じようで、実に個性があるものだ。左右対称に叩く人もいれば、ソフトバンク・ホークスの王監督のように手を上下にして叩く人もいる。その音も様々だ。いい音、悪い音がある。拍手好きの人間としては、できればいい音を出す人生を過ごしたい。
 美人の拍手は音がきれいである。大きすぎず、小さすぎず。しかし、音が通る。ひとつひとつの音の間隔も絶妙だ。きれいな音を出すことが上手なのだ。そしてTPOに応じて使い分ける。
 なぜ、美人は拍手が上手なのか。
 それは拍手をする回数が圧倒的に多いからであろう。多く叩くことで、そのワザは向上していったのではないだろうか。きれいな拍手は「美人のもと」を育てていくようだ。
 では、なぜ回数が多いのか。
 まずは拍手する機会がやってくることが多いこと。活動的で、あちこちに出かけたり、いろんな人たちと会ったりする。そのなかで感動したり、喜んだりしてそれを拍手にする。拍手がある場に積極的に動いてしまっているのだ。
 次に小さなことでも拍手をしたがる体質。ちょっとした喜びにも反応し、その気持を拍手に変える。レストランでおいしそうなものが出てきても拍手してしまう。おもしろい話をきいてもすぐ拍手。気持ちに素直に反応するのだ。
 そして、拍手そのものが長い。美人はいつまでも拍手している傾向にある。気持ちを表現することが自然と身についている。
 そうしているうちに、拍手は洗練されていき、美しい音を奏でる。しかも、拍手の瞬間の顔もきちんと自己表現できている。
 さて、もうおわかりだろう。「美人のもと」を育てるために拍手をたくさんしよう。叩く回数を増やしていこう。ためしに今拍手をしてみよう。
 音はきれいだろうか。たまにチェックしてみるとよい。「美人のもと」を測定できる。

◎――――エッセイ

サブカルチャーとしての
「ニート」

鈴木謙介

Suzuki Kensuke
一九七六年生まれ。国際大学グローバルコミュニケーションセンター研究員。理論社会学専攻。社会学や政治哲学の見地から、
インターネットや若者文化を鋭く論評する。著書に『暴走するインターネット』『カーニヴァル化する社会』等がある。

 若者の雇用に関する本が売れています。いちいち書名を挙げることはしませんが、ろくに働きもしない若者が増えている、けしからん、といったものから、学齢期のお子さんを抱えた親御さんに向けられた育て方本、社会的、経済的な要因から若者の心理を分析した本など、その内容は多岐にわたっています。
 むろんその背景には、二〇〇四年以降、「ニート」という言葉がマスコミで大きく取り上げられ、若年雇用が社会的問題として認知されたことがあります。いまや奥様の井戸端会議から、オジサマの飲み屋談義にまで「ニート」という言葉は普通に登場するようになりました。

日本の「ニート」は意味がずれている

 ただ困ったことに、ニートという言葉がこれだけ普及すると、その本来の意味とは無関係な使われ方も目立つようになります。ニート(NEET)という言葉はもともと、「Not in Employment, Education, or Training(働いておらず、学校にも通わず、就職のトレーニングもしていない状態)」の略語として、イギリスの労働政策の中で用いられた専門用語です。ただし、いま日本で「ニート」というと、その定義は必ずしも本来のものとは一致しません。ヨーロッパでは二〇年以上前から、職に就けない若者が問題となっており、その背景として若年差別や階層問題などが指摘されていますが、日本の場合、ニートが生まれる要因がはっきりしません。そもそも「正規雇用に就かない若者」を指す言葉としては「フリーター」があり、「社会関係を絶つ若者」を指す「ひきこもり」という言葉も、以前からありました。こうした言葉の定義からもこぼれてしまう若者を指す用語として、「NEET」は海外から持ち込まれ、「日本版ニート」として再定義されたのです。
 そのためでしょうか、「ニート」という言葉は、「フリーター」や「ひきこもり」と同じような種類の若者を、十把一絡げにして論じるときによく用いられるようです。さらにこれらの用語は、社会経済的な状態を指すカテゴリーというより、ある種のパーソナリティを指す言葉として使われる例が目立ちます。ありていに言えば「やる気のない奴」を指す言葉として、ひきこもりとか、ニートとか呼ぶようになっているということです。
 実は、こうした「ネガティブなキャラクター」を表現する言葉は、一九九〇年代以降に多数登場しています。たとえば「AC」という言葉もそうでしょう。ACはもともと「アダルト・チルドレン」の略で、親の愛情を十分に受けられずに育ったために、自己評価が低くなり、社会生活に支障を来すようになった人を指す心理学・精神医学系の用語でした。ですがこの言葉が一般に流通するときには「俺、ACだから」といった形で、単に自分に自信のない人を指す言葉として、(ときに自嘲的な意味で)使用されました。少し毛色は違いますが、最近の言葉で言えば「負け犬」というのも、同じような使われ方をした語だと思います。

努力・成功・自己責任の時代

 こうした言葉が九〇年代の半ば以降に相次いで登場した要因は、いくつか考えられます。その中でも大きいのは、若者たちの間に「やる気」や「自己責任」を強調する価値観が広がったため、そうした価値に同調できないネガティブな若者たちが、自己肯定を求めて様々なカテゴリーを利用したということでしょう。
 当時の小学生が、「尊敬する人」の一位に、安室奈美恵やSPEEDといった芸能人を挙げたことがありました。その理由は「努力して成功した人だから」だったと記憶しています。「自己責任」という言葉がマスコミで使われる頻度が増加するのは九〇年代の後半以降ですが、それとほぼ同時期に、若者たちの中で、「何でも社会が悪いという考え方には納得できない」「失敗するのはその人の努力が足りないからだ」といった価値観が広がっていました。バブル崩壊、震災、オウムを経て、社会の見通しが急速に悪くなり、「最後に頼れるのは自分だけ」という感覚が、いわば「時代の空気」的に共有されていったのだと思います。

ネガティブに「肯定」する言葉

 こういう空気の中では、たとえやむを得ない理由によって不利な状況に置かれていたのだとしても、その人の「努力」や「やる気」が原因であると(本人さえも)思いこみがちです。しかしそれでは「悪いのは自分なんだ」と、気持ちは沈んでしまうばかり。そのときに、「AC」や「ひきこもり」や「ニート」という、ネガティブな状態を指す言葉が登場するとどうなるか。おそらく彼らにとっては、現在の自分を“ネガティブに”肯定する言葉として、これらの語は映るのではないでしょうか。精神科医の斉藤環さんが「『負けた教』の信者」という絶妙な言い回しをしていますが、自分がネガティブな状況にあるという意識だけは強固な若者が、ある種の「ことば」によって安心感を得てしまうところに、この現象の本質がある気がします。
 私は「ニート」のような問題を、単なる社会経済的な問題としてだけでなく、社会意識や文化の側面からも捉えていく必要があると思っています。どれだけ若者に手当てをしようとも、この「サブカルチャーとしてのニート」を消費する若者の心性が理解されない限り、若者が恒常的に「脱ニート」の状態を維持する解決策を見いだすのは難しいのではないでしょうか。

◎――――エッセイ

実際に書くことで
ピラミッド原則が
しっかり身につく

山崎康司

Koji Yamasaki
隗コンサルティング代表。経営戦略、販売流通戦略の専門家としてさまざまな経営コンサルティング活動に従事する傍ら、ロジカル思考・ロジカル表現や営業マーケティングなどの企業向け教育研修活動に従事。著書に『オブジェクティブ&ゴール』(講談社)、『P&Gに見るECR革命』、訳書に『考える技術・書く技術』『正しいこと』(以上ダイヤモンド社)など。一九七六年東京大学建築学科卒業、八〇年ペンシルベニア大学ウォートン・スクール卒業、経営学修士(MBA)。福岡県出身。

 ロング・ベストセラー『考える技術・書く技術』に待望のワークブックが登場しました。原著者のバーバラ・ミント女史は、経営コンサルティング会社マッキンゼー・アンド・カンパニー初の女性プロフェッショナルとして、同社コンサルタントを対象にレポート・ライティングの指導に携わってきました。独立後、その考え方と手法をまとめたものが『考える技術・書く技術』(原題Pyramid Principle:ピラミッド原則)です。
 同書は、一九七〇年代後半に初版発行されて以来、マッキンゼーを初めとする文字通りすべての一流経営コンサルティング会社にて基礎教材として採用されています。いまや、世界中の経営コンサルタントで“ピラミッド原則”を知らないものはなく、プロのコンサルタントの間では“ライティングの古典”として知られています。現在約一〇カ国語に翻訳され、コンサルティング業界のみならず、広く一般ビジネスのレポート・ライティング手法として定着しています。
 日本でも、九五年に日本語訳『考える技術・書く技術』が発刊されて以来、旧版と新版を合わせて二五万部を突破、企業内でライティングやプレゼンテーションに携わる人の必携本として、幅広い読者の支持を得ています。
 本コンセプトでは、わかりやすい説得力あるレポートを書くための最重要ポイントとして考えの構成を強調し、その具体的な方法論としてピラミッド原則を提案しています。レポート・ライティングにおいて最も大切で、かつ最も難しいのは、「てにをは」などの表現ではなく、メッセージをどのように構成するかにあるという考えです。そしてこれこそが、グローバルにこのコンセプトが受け入れられている所以でもあります。
 さらに、見過ごされがちですが、読み手重視の姿勢も本コンセプトの特徴として挙げられます。レポート・ライティングとは書き手のためのものではなく、読み手のためのものという基本原則に従い、読み手の関心や疑問に向かって書く技術を指導します。読み手のことをほとんど配慮していない自分勝手なライティングが氾濫するなか、極めて実践的な手法を伝授します。
 今回、発刊となるのは、同書を補う目的で開発された自習用ワークブックです。同書の第T部「書く技術」と第U部「考える技術」に絞り、基礎を独学でマスターできるよう、豊富な演習と簡潔な説明を提供しています。徐々に演習内容がレベルアップしていきますので、簡単な説明を読み、演習をこなし、見本解答を参考に理解度チェックを繰り返していくうちに、自然とピラミッド原則に慣れていくことができます。
 残念ながら、考えを構成する技術、書く技術は、本を読むだけではなかなか身につきません。たとえ理解したと思っても、いざ紙に向かうとうまくいきません。このような技術は、実際に紙に書くなどの具体的な表現行為を通じて初めて、習得できたかどうかの確認ができるからです。このワークブックは、そのような貴重な確認の場を提供します。
 レポート・ライティングと聞いて「起承転結」を思い浮かべる大きな誤解を持たれている方、いままでレポート・ライティングの教育など一切受けたことがないという方にとって、『考える技術・書く技術』は目から鱗のコンセプトであり、また、同書のコンセプトは理解したが、実践に向けてもう一歩前進させたいと願う方にとっても、このワークブックはまさに大きな助けになるでしょう。


書籍

◎――――連載

気になるキーワードを徹底研究
ビジネスマンのための健康ラボ 第5回

【アルコール対策に「ゴマ」】

話し手 松井宏夫

 年末年始は何かとお酒を飲む機会が続いたことだろう。適量のアルコールはストレス発散になるが、過度の飲酒は悪酔いや二日酔いになるだけでなく身体の機能を弱め健康を害する原因となる。
「二日酔いにはシジミの味噌汁」といわれる。柿やウコンもアルコール対策として一般的だ。シジミにはタウリンという成分が含まれており、アルコール摂取時に体内で増加する毒素・アセトアルデヒドの分解を促進する。柿は、タンニンが胃の粘膜に働きかけアルコールの吸収を穏やかにする。ウコンは胆汁の分泌を促進し、肝機能を強化するので日常的に摂ったほうがよいといわれている。
 さて、アルコール分解に効く成分として近年関心が高まっているのが、ゴマに含まれるセサミンだ。二日酔いや悪酔いの原因となるアセトアルデヒドは、肝臓で各種酵素によって分解され体外に排出される。セサミンはこの酵素に対し遺伝子レベルで働きかけ、分解効果を高めることが近年の研究でわかってきたという*。
 もともとゴマは美容や老化防止に効くとして、古くはインド医学書アーユルヴェーダにも登場している。ビタミンEなど様々な有効成分が含まれているが、活性酸素を退治する抗酸化物質であるセサミンは特に貴重な成分だ。人間が活動する際に発生する活性酸素は細胞を傷つけ、老化の原因となる。身体の代謝工場である肝臓は活性酸素をもっとも多く発生させている。抗酸化物質にはいくつか種類があるが、血液中で弱体化せずに肝臓に直接働きかけるのはセサミン固有の特徴だという。つまり、アルコール分解酵素に働きかけると同時に、活性酸素を効率よく除去することで肝臓自体の機能も高めているのだ。
 ゴマ大さじ一杯程度(約一〇g)を毎日摂ると効果的。硬い殻に覆われておりそのままでは栄養素を吸収できないため、すって食べるか、サプリメントなどを活用して上手に摂取したい。

●ご意見・ご感想はこちらまで…healthy@diamond.co.jp

*研究発表:サントリー株式会社健康科学研究所
 URL http://www.suntory.co.jp/news/2003/8604.html


イラスト

◎――――エッセイ

最強のチームをつくる
リーダーの人間力

保田健治

Yasuda Kenji
株式会社グローバルマネジメントコンサルティング代表取締役。神戸大学大学院 経営学研究科修了。グローバル製薬メーカー人事部門マネジャー、総合化学会社取締役を経て現職。大学、大学院の講師、ADおよび東証一部上場企業を中心に組織変革、業績向上、成果を出すリーダーシップ、次世代リーダーの育成、営業チームマネジメント等、経営の理論と統合がコアな活動である。

「メンバーの強みや改善点をあまり理解できていない」……六七パーセント。
「メンバーの仕事の悩みや状況を理解できていない」……五〇パーセント。
「メンバーとともに仕事の進捗状況を確認し、次の行動につなげることができていない」……七六パーセント。
「的確に質問を行うことで、仕事のアイデアやメンバーの意見を引き出すことができていない」……八〇パーセント。

 これは、先日、八三〇名のビジネス・リーダーを対象に「あなたの職場のメンバーの強み、弱み、また、仕事の状況や悩み」についてアンケートを調査を行ったときの結果である。
 日本企業の、いわゆる管理職の方々が、いかにメンバー(部員)の気持ちをつかみあぐねているか、メンバーの強みや弱み、あるいは悩みを理解することができていない実態が浮き彫りになった格好である。
 組織で仕事をすることの意味は、複数の人間が互いに補完しあい、相互に支援し合いながら、組織の創造性を発揮することで、個々人の力の総和以上のアウトプットを出していくことであろう。
 チームはこうした協働(コラボレーション)を発揮する最小単位の組織である。チームを効果的にマネジメントすることによって、チームメンバーが本来有している自律的に協働する能力と強みを引き出し、相乗効果を生み出すことができる。筆者が考える「最強のチーム」とは、一人ではできないがチームならばできる課題に取り組み、相乗効果を発揮できるチームである。
 あなたは、チームメンバーの潜在的なパワーを引き出し、チームメンバーの協働(コラボレーション)を促進し、相乗効果を引き出せているだろうか。
 残念ながら、多くのリーダーは、チームを機能させ、成果を出すことに成功してはいない。チームのメリットは「顧客ニーズへの迅速な対応」「市場情報の共有」「多様な意見・発想の取り込み」「相互支援」「知識、スキルの補完・向上」「相乗効果」を果たすことなのである。

メンバーの気持ちになってよく聴くこと

 チームを機能させるための第一歩が、メンバーをよく知ること、すなわち、メンバーとのコミュニケーションをとることだと、筆者は考えている。リーダーとして、メンバーとの信頼関係をつくるにはまず、メンバーをよく知る必要がある。それは、成果を達成するために、メンバーの強みに基づいて、チームにおける「最適な役割責任分担」を考えるためである。また、メンバーの特定の能力、知識、経験上の改善点を理解し、チームで相互に補完しあい、チーム全体の「仕事のリズムとスピード」をつくり出すためである。
 リーダーは、結果だけではなく、プロセスにも関心を持たなくてはならない。メンバーの仕事が高度になればなるほど、プロセスにおける問題点や進捗状況、改善点をともに考え、支援しなければならない。それが次の成果を生み出すスピードの向上につながる。
 メンバーのやる気を引き出し、気づきを与えるためのコミュニケーションの基本は「傾聴」である。まず、メンバーの話をよく聴いて、置かれている状況や問題の所在、悩みについて、本音レベルで話をさせる。そのことによって、メンバーがどのような問題を抱えているのか具体的にどのように支援すれば、状況を打開できるのかが見えてくる。
 往々にして、自分に自信のあるリーダーほど、頭ごなしにメンバーを怒ってしまったり、事情を確認するためと言いながら、質問が詰問になり、メンバーを追い詰めてしまうことがある。これでは、メンバーは事情を話すことも、本音の悩みを打ち明けることもできず、リーダーが問題の核心を把握することはできない。
 リーダーの一方的な思い込みと決めつけによる叱責では、メンバーを萎縮させるだけで、チーム内の具体的な情報を得ることにはつながらないし、メンバーに考えを整理させたり、次の行動に向けた気づきを促すことにもつながらないのである。
 もう一つ重要なのは、メンバーに自分が共感を持っていることを示しながら、メンバーが話しやすいような質問を投げかけてあげることだ。これは、「はい」「いいえ」で答えるような質問ではなく、たとえば、「どんなふうに進めているんだ」「これまでどんな活動をしてきたんだ」「顧客の反応はどうだ」といった、オープンエンドの質問である。
 こうした質問によって、メンバー自身が考え、課題や打開策に気づくきっかけとなる、あるいは、メンバーの意見を引き出すことができる。メンバーを責める前に、何がネックか、どこに難しさがあるのかをメンバーとともに考えなければいけない。リーダーがネガティブなコメントばかりしていては、メンバーは説明しようという気持ちが失せてしまう。リーダーは、短期的な成果を早急に求めるのではなくチームにおいて議論を掘り下げ、情報の質を高められるように心がけるべきだ。
「What(How)+次の行動」を考える質問を投げかければ、メンバーにとっては、その質問が考えるきっかけとなり、双方向の議論のやり取りから自らの考えを整理することができ、新しいアイデアや意見を引き出し、発展させることが可能となるのだ。
 リーダーとして的確に状況を把握し、必要な助言・対策を行うためにも、メンバーの明日の行動につなげる「質問」は重要なコミュニケーションスキルなのだ。今の問題状況を責めるのではなく、解決に向けてアイデアを出し合っていこうという姿勢が重要なのである。
 このとき「そうか、なかなか大変なんだな。どんなところで苦労しているのか聞かせてくれないか」というように、相手が話しやすく、考えやすい雰囲気をつくることもリーダーとして大切な気配りである。
 リーダーには、メンバーを理解し、能力を引き出し、チーム力の向上にまい進する一方で、メンバーの状況や心の持ちように気を配り、必要に応じて支援することが求められているのだ。

リーダーの役割とは何か

「最強のチーム」とは、リーダーがすべてのことを行うのではなく、全員で役割責任分担を果たし、一人ひとりが自律的に行動できるチームである。
 このようなチームにおけるリーダーの役割とは次のようなものだ。
(1)チームのビジョンや方針、戦略などをメンバーに植えつける。
(2)自律的に考え、行動するメンバーを育てる。
(3)必要に応じて支援する。
(4)チームプラットフォームを機能させる。

 チームが、チームとしての相乗効果を発揮するためには、多様な個性を生かし、それぞれの知恵を蓄積して、組織知なるものを高めていくしかない。チームの個人個人の働きを高め、かつチームというプラットフォームを通して、各人の獲得した情報や知恵をチームに共有していく努力をする必要がある。
 最強のチームは最初から存在するのではない。それは、チームメンバーとして互いを仲間として認め、一緒にうまくやっていくための意見交換や討議のスキルを全員で学習し、チームのなりたい姿に向かって「育み」実践した結果なのである。
 そのためにリーダーは、ときには率先垂範し、ときには触媒となり、また、よき相談相手となり、うるさがられずに必要なときに頼りになる。そんな存在とならなければいけないのだ。

◎――――エッセイ

企業に高付加価値をもたらす
バランスのとれた知財戦略へ

竹田和彦

kazuhiko takeda
弁理士。日本工業所有権法学会会員。一九四五年名古屋大学法学部卒業後、日本化薬株式会社入社。同社取締役部長、新事業開発室長、常務取締役を経て、代表取締役社長ならびに相談役を務める。この間、日本特許協会副理事長、日本化学工業協会税制委員長、化成品工業協会会長、日本製薬工業協会理事、経団連常任理事、日本火薬工業会副会長などを歴任。おもな著書に『特許の知識』『特許がわかる12章』『特許はだれのものか』(ともにダイヤモンド社)などがある。

 知の価値が経済を動かす

 知的資産を企業の中核に据える知的資産経営が叫ばれる中、高付加価値企業を目指す経営者やマネジャー、技術者、研究者の方々にとって、知財戦略は不可欠なものとなっています。中でもその中核をなる特許の問題は、ソフトウェア、遺伝子など、従来の特許の枠組みを超えるあらたな無形資産の登場や、社員の発明の高額賠償金をめぐる紛争などを通じて、身近でかつ重要な問題として多くの関心を集めることとなりました。
 このたび発行された拙著『特許がわかる12章[第6版]』は、特許に関する諸問題をできるだけ平易に興味を持っていただけるよう解説したものです。本書を通読していただければ、プロ・パテント(特許重視)や知的財産基本法(二〇〇二年十一月制定)の潮流の下で起こっているいろいろな事件や変化が、基礎から理解いただけるのではないかと思います。
 歳月が流れるのは早いもので、本書の初版刊行から二五年が経ち、「特許入門の定番書」とのありがたい評価をいただくまでに至りましたが、この間の特許をはじめとした知的財産権をめぐる変化は、実に目まぐるしいものがありました。
 特に一九八〇年代から「知恵の値打ち」「知恵の価値」が急速に高まり、それまでは製品を安いコストで大量に生産するという生産中心の時代だったのが、知恵がソフトとして評価されたり、知恵を製品に乗せて取引きされるようになりました。企業では、アジア諸国から追い上げを受けている規格品の大量生産よりも他社製品との違いを主張できる製品、すなわち製品の差別化が重要になり、知恵が欠かせないものとなりました。
 この状況は「知価革命」(堺屋太一氏)とも呼ばれ、八〇年代は地価高騰の時代でもあると同時に、知価高騰の時代でもあったわけです。収穫逓増の原理が働くハイテク産業では、この傾向はさらに顕著になりました。マサチューセッツ工科大学のレスター・サロー教授は、「マイクロソフトのような大企業は、知識以外には何も価値あるものを所有していない」(『富のピラミッド』TBSブリタニカ、一九九九年)とまで語っています。知恵が経済を動かすようになったのです。
 知的財産権の存在意義が改めて再確認されるようになったのは言うまでもありません。それだけでなく、従来から対象とされてきた技術的創作である発明や商品の標識である商標だけでなく、カバーする対象の範囲も複雑化し拡大するようになりました。コンピュータプログラム、ビジネスモデル、数学的アルゴリズム、生命体、遺伝子などのバイオテクノロジー関連発明、半導体集積回路のレイアウト、タイプフェース、キャラクター、トレード・シークレット(企業秘密)、サービスマークなどに関する保護や侵害が毎日の新聞紙面を賑わせています。
 知的財産権の保護の対象はますます拡大されつつありますが、どこまで対象を拡大すべきか、どの程度強く保護すべきか、種々の問題をはらんでいます。

 プロパー・パテントの時代

 知的財産権を重視する政策はプロ・パテント(特許権者びいきの意)と呼ばれています。この言葉が一躍有名になったのは米国の産業競争力に関する委員会の報告「ヤング・レポート」(一九八五年)からですが、わが国でも一九九七年頃から、特許庁が明確にプロ・パテントを打ち出しています。
 日本企業が生き残る道は、自社にあって他者にないユニークな中核的な力(コア・コンピタンス)を定め、高付加価値企業を目指すことであると思いますが、このために特許などの知的財産権は欠くことのできないものであり、プロ・パテントは時機にかなった政策といえます。しかし、そのための法整備や税制などのインフラ整備を刻々と進める米国と比較して、わが国では「強い保護、広い保護」という権利の面だけが強調されすぎたきらいがあるように思います。プロ・パテント政策がインフラの構築を忘れた権利の強化だけのものになると、諸外国の利益の擁護にだけ役立つおそれがあります。
 一方、二〇〇三年、米国連邦公正取引委員会(FTC)は、米国の特許制度は競争政策と特許政策の適切なバランスとをとるうえで、いくつかの見直しが必要だと発表しました。特に、質の低い特許または特許性に疑惑のある特許が技術革新を抑止したりコストを増加させていること、および技術革新が進む産業で特許による防衛やライセンスの複雑化をもたらし、技術革新を阻害している点を挙げています。わが国でも同様で、地裁判決で巨額の損害賠償が認められ話題になった特許のほとんどが数年後無効と判断される事態が生じていて、特許の品質の確保が緊急の課題となっています。
 そうかと言って、特許のレベルを高くしすぎて発明を特許保護から締め出しては元も子もありません。バランスのとれた権利付与によって研究開発が促進するよう、地道な努力を積み重ねるべきです。プロ・パテントよりもむしろ、プロパー・パテント(適切な権利付与)が提唱されるべきでしょう。


書籍

竹田和彦 著
●定価2520円(税込み)●4-478-14029-4

◎……著者が語る

『増税が日本を破壊する』
本当は「財政危機ではない」これだけの理由

書籍

菊池英博 著
●1680円(税込み)●4-478-23138-9

増税は小泉改革失敗のツケだ!

 私が本書で一番主張したいことは、経済や財政に関して巷間言われていることには事実に反することが余りにも多いので、これらを是正し、日本にとってこの異常な時期(日本の文化大革命か?)の本当の記録を残したいということである。
「日本の増税は避けられないのではないか」と思っている人が多いようだが、これこそマインドコントロールにかけられているからであり、こういう人に本書を読んでいただければ、目から鱗が落ちる思いをされるであろう。
 日本では、国は大変な財政危機で、いまにも財政が破綻するような論調が蔓延している。政府(財務省)が財政危機をはやし、テレビや新聞がこうした雰囲気を醸し出すからだ。しかし、債券市場では、日本の国債は優良銘柄として売買されており、危機感などまったくない。また、アメリカには日本が財政危機だと思っている識者はいない。日本政府が「粗債務」(借り入れとそのほかの債務)だけで財政事情を判断しようとするのに対して、欧米では一国の債務を「純債務」(粗債務から金融資産を控除した金額)でみるのが一般的だからである。そこで、本書では「純債務でみれば日本は財政危機ではない」ことを明確に示した。
 デフレ経済のもとで、このまま緊縮財政を継続していけば、財政赤字が拡大し政府債務が増加していく。二〇〇一年度からの小泉構造改革は典型的なデフレ政策であり、その結果、税収が激減し、政府債務が増加した。しかも過去数年間で、時価会計と減損会計の導入、銀行への自己資本比率規制の採用、ペイオフの導入など、デフレのもとでは絶対に行うべきではないアメリカ流の手法を強行に導入したために、日本の伝統的な経済構造が破壊され、これが税収を激減させた。
 つまり、増税は小泉構造改革が失敗したことのツケである。ここで増税をすれば、間違いなく景気は失速し、増税による税収の増加分は景気後退で減額され、かえって政府債務を増加させる。
 また、日本は産業空洞化が進んでおり、製造業の海外シフトが著しい。これを防ぐには財政政策を活用し、先端技術を対象とした投資減税(五〇兆円)と、国土保全と新エネルギーを中心とする開発投資(五〇兆円)を毎年一〇兆円、一〇年間(計一〇〇兆円)継続する政策を取るべきである。日本は投資不足であり、産業空洞化を防ぐ意味からも、これは極めて重要である。この政策で名目GDPの成長率を年率四〜五%に引き上げれば、政府債務は減少し、赤字国債は解消する。民間任せだけでは、名目GDPはほとんど伸びないであろう。

◎……訳者が語る

『プライベートバンク 本当の使い方』

書籍

オーレン・ロース著 大楽祐二訳
●1890円(税五%)●4-478-62070-9

大楽祐二
出版社勤務を経て、オーストラリアに移住。現在はグローバルネットワークコンサルティング事務総長、及び豪州支局長。シドニー在住。訳書に『億万長者だけが知っている 雨の日の傘の借り方』、『個人投資の楽園 オフショア入門 完全マニュアル』(いずれもオーレン・ロース著、講談社)。

お金持ちへの第一歩を踏み出そう

「お金持ちになりたい」とは誰もが抱く願いかも知れません。でも、本当にリッチになったら、どうやってそのお金を「守る」のか、実際に知っている人は多くありません。これではさかなを釣ってからバケツを探すようなもので、バケツを探している間に、さかなはどんどん逃げ出してしまいます。
 お金が入ったと消費に走れば、豪華旅行、高級車、別荘、毛皮や宝石、そして自家用ヘリコプターやクルーザー、カジノ……。お金はあっという間になくなるでしょう。
 では資産を運用しようとしても、日本では定期預金の利率はほぼゼロ。すでにペイオフも実施されており、金融機関に預けること自体が不安です。とはいえ、家の金庫に入れておくだけではいつ空き巣に入られるか分かりません。
 結局、お金持ちになりたいと思っても、受け入れる準備が出来ていないと、いつまでたってもお金が貯まりません。
 まずは「お金を守るための資産哲学」を勉強すること、これがお金持ちへの第一歩です。
 第一歩を踏み出して歩き始めるとき、目的地がなければ歩き出せません。どこの方向にどこまで歩くのか、ゴールを設定することなく私たちはスタートできません。
 そこでぜひ、スイスのプライベートバンク(PB)を知っていただきたいと思います。
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 ちなみにPBには「最低預け入れ金額」があります。口座開設のためには、これくらいの金額から始めてください、と銀行がおおまかに定めている数字です。
「スイス銀行」と聞きますと、なんだか秘密めいたところのように感じられる方も多くいらっしゃると思います。ドアが閉ざされているシアターは、内側の様子がまったく分かりませんから、中を覗くのは勇気が要ります。でも「正しいドアから正しい入り方」をすれば、きっとあなたも素晴らしい演劇を鑑賞できます。入ってみればすでに劇場は満席に近く、やがて心地よい演奏が優しく聴こえてくることでしょう。
 プライベートバンクの有効な使い方や、プライベートバンカーとの良好な関係を保つコツが本書にはまとめられています。ぜひお読みいただければ幸いです。

◎――――エッセイ

判断力と決断力 第4回

一つの決断がもたらした大政局

田中秀征

Tanaka Shusei
1940年生まれ。東京大学文学部、北海道大学法学部卒業。93年、新党さきがけを結成、代表代行。首相特別補佐、経済企画庁長官等を歴任。現在、福山大学教授。著書に『日本リベラルと石橋湛山』など多数ある。

政治家にとって不可欠な“判断力”と“決断力”。本連載は、この二つの能力の有無が運命を変えた事例を取り上げ、政治家に必要な資質を探る『判断力と決断力』〈二〇〇六年刊行予定〉の一部を先行してご紹介するものです。各回のつづきは同書に収録されます。

 決断は通常それによる効果を意識してなされるものだ。
 しかし、ときにはその人の意図とは異なる思いがけない展開を遂げる場合もある。また、ちょっとした決断が、当人の予想をはるかに超える結果をもたらすこともある。
 私も、一九九三年六月一八日の自民党離党から、八月九日の細川護熙内閣の成立に至るまでの間にそれを身を持って経験した。
 このことは当時から既にそう推察されていたことだが、数年後に渦中にあった当事者の証言によって明白な事実として確認された。それは、新党さきがけを結成したわれわれに一足遅れて自民党を離党した小沢一郎氏たちは、実は離党するつもりがなかったということ。
 小沢氏の懐刀といわれた平野貞夫参議院議員は、四年後の一九九七年、雑誌『官界』のインタビューに応えてこう言っている。
「あのとき私たちは自民党を出るつもりはなかったんです。平成五年、新生党をつくった人たちは宮沢内閣不信任案を賛成したわけですが、実は反対であったいわゆるさきがけの人たちが党を出て政党をつくられたものですから、賛成した人間は論理的に党内におれなくなりましてね」
 そして、こうも続けている。
「あのとき私たちは党内にいて、国政選挙で国民に公約したことを実行しなかった執行部の人たちを党規違反で党規委員会にかける、提訴する、党内の改革をやるのが先だ、という議論を戦わせているところにさきがけが出たということで、『これはおれんな』というのが事実なんですよ」
 そして、聞き手が「つまり、不信任案に反対したさきがけが出たから、……結果として引きずられてしまった」と尋ねると、それにはこう応じている。
「さきがけは半年ぐらい前から政党をつくる準備をしているわけですよ。新生党のグループは政党なんかつくるつもりないですから、何の準備もないんです」
 われわれの投票行動がもたらした大きな展開を平野氏は「政治の大きな流れのとどのつまりは人知を越えた力」と総括し、「大きな力が働いて、それが偶然に見えたりなんなりしますが、そういうものによって歴史が引っ張られている感じがしますね」と述べている。
 おそらく、新生党を結成した小沢グループの離党がなければ、九三年の政局はあのように大きな注目を集めなかったであろう。したがって自民党の政権からの転落も、細川政権の成立もなかった可能性が高かった。われわれの不信任案への反対票は、思いがけなくも一つの時代の終局を告げる決定的な役割を果たしてしまったのだ。

政治の筋を通す反対票

 私は、宮沢内閣への不信任案には反対することを当初から離党する仲間たちに公言していた。しかし、もちろん他の同志たちに同調を求めるつもりはなかった。それぞれが信念に従って行動すればよいのであって、無理に一致して行動する必要もない。そう私は思っていた。
 私の考えはこうであった。われわれには、宮沢喜一首相を首班指名選挙で選んだ責任がある。そして与党として支えてきた責任がある。宮沢首相を選んだわけではない野党が提出した不信任案に、立場の違うわれわれが同調して賛成するのはおかしい。もしも、宮沢内閣を信任しないというなら、みずから不信任案を提出すべきだ。また、自民党内でまず?総裁不信任?の行動を起こすことが筋道だ。
 その上、私には他のメンバーといささか違う事情もあった。
 それは、私が宮沢派に所属していたばかりか、若輩にもかかわらず宮沢首相のごく近くで政務を手伝ってきたからである。その宮沢首相が最も困難なときに離党することは実につらいこと。宮沢首相にしても、ごく身近にいる政治家が突然離党することになれば、大きな衝撃も受けるだろうし、また深い傷を負うかもしれない。それは私にとっては耐え難いことであった。

自民党離党への決断

「秀征さん、不信任案に賛成しようじゃないか。考え直してくれないか」
 不信任案を採決する国会に向かう車の中で、武村正義氏は私にそう言った。「ちょっと話したいことがあるから一緒に行こう」と言われたので、私は武村氏の車に同乗していたのだ。
 当初から武村氏には不信任案賛成の意向が強かった。武村氏ばかりか他のメンバーもそう考える人が多かったようだ。
「そのほうが有権者にわかりやすいし、選挙になれば有利だと思う」
 穏やかな口調だが真剣そのものであった。私はこれが?最後の説得?なのだと思った。「他の人たちがみんな賛成してもいい。しかし、申しわけないけど、僕は一人でも反対させてもらう。有権者がわかりやすいかどうかということより、自分が納得できる行動をしたい」
 武村氏が憮然としている間に、車は国会の正門を入ってしまっていた。その夜の国会議事堂はいつもと違って、まるで誰も知らないわれわれの離党行動を知っているかのように緊迫感を漂わせていたのを覚えている。
「お世話になった家から家出をするんだから、スリッパぐらいは揃えて出たい」
 私はそういう心境であったし、武村氏にもそう言いながら本会議場に向かった。
 ところが、不信任案の投票が行われると、ほとんどのメンバーが、私と同じように反対票を投じた。なんと武村氏も不信任案に反対したのである。
 おそらく武村氏は、私と異なった行動をとれば、離党した人たちが結束していないという印象を与えるのではないかと心配したのだろう。そうなら、ここは多少わかりにくくても頑固な私と同調するほうがましだと判断したのだと思う。
 しかし、前述したように、この投票行動をきっかけに“大政局”が始まったのである。
 少なくとも私と武村氏の間には“離党の動機”にズレがあった。彼は、自民党内で小選挙区制の導入による政治改革の実現に懸命な努力を続けてきていた。そして自民党ではそれができないと絶望したことが何よりの動機であった。だから同様の立場にあった小沢一郎氏などとほぼ同じ気持ちであった。さきがけに結集した一〇人の中にはそういう人が多く、実際、不信任案に賛成票を投じた人もいたのである。
 だから、もしも私が説得に応じて賛成することにしたら、大勢は小沢グループと同様の投票行動を示すことになったはずである。
 仮にそうなったとしたら、小沢グループは「論理的に党におれなくなる」ことはなかったから、党内にとどまったはずだ。
 家の中で親に敵対していた人たちが居残って、そうではない人たちが静かに家出をした。「これはおれんな」と思うのは当然だ。要するに、政治の筋に見事にはまっている。
 それでもなお小沢グループが党内に残ったとしたら、政治的迫力はないに等しいほど減衰しただろう。その辺のことは政治家なら肌でわかるはずである。
 こうして小沢グループは六月一八日のわれわれの離党に遅れること五日、六月二三日四四人の多数で自民党を離党して新生党を結成、そのまま総選挙に突入した。そして、新党さきがけや日本新党とともに空前の”新党ブーム”を巻き起こして、自民党を過半数割れに追い込んだのである。

政策的距離と政治的距離

 不信任案に反対するという、ほんのささやかな決断が、いわゆる五五年体制の崩壊を招くほどの大きな展開をもたらしたのだ。平野氏が言うように、「歴史が引っ張られる感じ」は私とて同じであった。
 小沢グループの四四人は羽田孜代表、小沢一郎代表幹事の布陣で新生党を結成したが、その政治的衝撃は大きかった。もしわれわれ一〇人だけなら、おそらく”離党”の域を出なかったが、有力集団四四人の離党によって、自民党は”分裂”と受け取られたからである。
 また、小沢グループが飛び出して”反自民”の姿勢を鮮明にしたため、相対的に新党さきがけの反自民的な色合いが薄められた。それが翌年の自社さ政権の素地ともなったのである。すなわち、いわゆる非自民の諸政党の中で、新生党が自民党から最も遠い存在となり、われわれは相対的に自民党との距離が近い印象を与えることになった。それがまた、細川政権の基盤を二極化することにもなった。もちろん、それは政策的な遠近というより、敵か見方かの次元の政治的な距離についての話である。
 その後、複雑な政党の離合集散を経て、一九九九年一月、小沢氏率いる自由党は、小渕内閣で”自自連立”として手を結ぶことになった。それまでに共産党を除くすべての政党が与野党を体験し、連立の組み合わせもほとんど経験した。だが、小沢グループと自民党との組み合わせだけは最後まで出現しなかった。それほど小沢グループは自民党とは政治的に距離を置いていたのである。
 前述の平野証言は、おそらく”自自連立”へ向かう流れに対する批判をあらかじめかわす意味があったのだろう。「離党するつもりはなかった」のであれば、自自連立はごく自然に受け取られることになるからである。政治的な距離より、政策的な距離の近さを強調したかったのかもしれない。当時は、他の雑誌にも同様の証言が載せられていたから、”自自連立”を正当化するためのキャンペーンの一環のようであった。
 さて、総選挙は実に劇的な結果で終わった。自民党は二二三議席とほぼ横ばいを維持したものの、五〇人を超す離党者が抜けた穴はそのままだった。社会党は七〇議席と惨敗。この自社両党の退潮は多くの人に五五年体制の終焉を印象づけたのである。

◎――――連載

小説 「後継者」第21回

第9章 疑心暗鬼(1)

安土 敏

Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先の大手スーパー・プログレスを訪問した帰り、車中で謎の言葉を残し急逝した。プログレスの裏切りに続き、山田会長から持ち出されたプログレス傘下にフジシロが入るという提案に対して専務の浩介は、独自路線を貫くことを決めた。翌日、プログレスの山田会長からの連絡を受けホテルで会う。山田会長の理路整然とした説得に、浩介はまた大きく揺れ始める。そのとき、浩介の携帯が鳴り出す。相手は流通論が専門の大学教授・佐藤詠美であった。詠美の話を聞き、浩介は山田会長への即答を回避しようとするが、山田会長はそれを許さない。その対応に腹を決めた浩介は、提携の提案をきっぱりと断り、ホテルの部屋を後にする。



 詠美が「しんと静まりかえっている」と表現した本部オフィスに、藤代浩介は戻ってきた。建物裏の空き地に設けられた専用駐車場にブルーのBMWを置いて、浩介は、裏階段からそっと2階の自室を目指した。自分が社長になった会社に忍び込むように入る。
 建物は3階建て、1階は店舗、2階・3階がオフィスである。営業本部長でもある浩介の部屋は、営業関係各部のデスクの島が並んだ2階の大部屋の奥にあるのだが、商談カウンター前の通路を通って、そのまま部屋に行こうとして、浩介は考え直した。3階、つまり非営業部門のフロアを覗いてみようと考えたのである。ゴルフ場に比べて、どうもオフィスが身体に馴染んでいない。そのうえ、そこに自分を拒絶しかねない何かの動きがあるというのだから、浩介としては、冷水に浸かる前のように身体を慣らす必要があったのである。
「あっ、専務、じゃない、社長、おめでとうございます」
 そんな浩介に、3階への階段を上りきったところで、いきなり大きな声を掛けてきたのは、経理担当常務の葦原修作である。トイレから出てきたらしい。声が大きいうえに早口なので、五月蠅い感じがする。だから、だれにでも昆虫の渾名をつける重成に「ガチャガチャ」と名付けられた。
「ああ、いや何」と浩介は口ごもった。それどころじゃないだろう、という気持ちである。
「いよいよお力を発揮されることになりました。早速、社長ご就任祝いのパーティーをやりましょう」
「いいよ。そんなことに気を遣ってくれなくても」
「あ、そうだ。専務、じゃない社長の場合は、社長ご就任祝いゴルフコンペです。一杯飲むのは、その夜にしましょう」
「ありがとう。また、後にしてくれ」
 葦原の大声に辟易しながらも、浩介は事務室内を見回した。景色はいつもと同じで、特に変わった様子はない。
 3階のフロアにあるのは、総務部、人事部、開発部、経理部、情報室で、役員としては、いま出会った葦原常務のほかにあと3人、総務人事担当常務の小笠原誠一(カマキリ)、開発担当取締役の堀越充三(テントウムシ)、情報室担当の坂本隆嗣(オケラ)がいる。坂本隆嗣は、いまデスクで部下と話している姿が見えたが、浩介の姿は坂本の目に入っていないようである。
 開発担当の堀越は書類を読んでいたが、遠くから浩介を視認したらしくデスクから立ち上がるのが見えた。浩介は、何となくそのあたりに佐藤詠美がいるのではないかという気がして、ちょっとの間注意してみたが、見あたらなかった。3階には社長室、つまり、いまは社長を更迭され顧問となった守田哲夫の部屋もあるので、その入り口を見たが、ドアは閉まっていた。
 浩介は、いま来た道を通って2階に降りた。
 2階のフロアは、すべて営業部隊である。生鮮食品担当取締役狭山周一(アメンボ)、グロサリー担当取締役花崎徹(ニガ虫)、販売促進担当取締役間宮輝男(ナナフシ)、店舗担当常務安井達夫(ハナタカハナアブ)のデスクがあるのだが、見えたのは、花崎と間宮のふたりで、どちらも浩介には気づかなかったようである。狭山と安井は見あたらなかった。
 浩介は、そのまま自室に入った。持っていた鞄をデスク脇に置き、上着をロッカーにしまったときに、ドアのチャイムが鳴った。来訪者をチェックする画面に堀越の顔が映った。後を追うようにやってきたのだろう。
「どうぞ」
「失礼します」と言いながら、堀越が入ってきた。「社長ご就任、おめでとうございます」
「さあ、おめでたいことかどうか分からん」
 浩介は、皮肉な調子でそう言ったが、心の中で、まったくそのとおりだと木霊が返った。
「プログレスの山田会長にお会いになったそうですね。いかがでしたか」
「また、提携しろと口説かれた。でも、断ったよ。佐藤先生が、いいタイミングで電話を掛けてくれた」
「佐藤先生は、先ほどまで社内にいました。いまはちょっと見あたりませんが、だれか役員のところにでも行っているのでしょうか。あるいは、店を見ているのかも知れない。探せばすぐに分かります。お呼びしましょうか」
「いや、いい。そのうち、先生のほうから現れるだろう。ところで、佐藤先生が、社内の雰囲気が静まりかえっていて気がかりだというようなことを言っていたが、堀越さん、あなたはどう思う?」
「そうですねえ。そういうふうに思えばそうとも言えます。でも、普段とあまり変わらないと言えば、そうとも思えます。とにかく守田さんは、部屋に籠もったきりです」
「がっかりしたのかも知れないな。いきなり社長を辞めさせられたのだからね」
 浩介は、まるで自分とはかかわりのないことを評論しているような言い方である。
 そのとき、また、ドアのチャイムが鳴った。
「小笠原常務です。ここに来るように言っておいたのです」
 その言葉どおり、小笠原がカマキリのような細身の身体でドアをすり抜けるように入って来て、「社長ご就任、おめでとうございます」とカサカサ声で言い、深々と頭を下げた。
「ありがとう」
 浩介も社長就任を祝う挨拶にも徐々に慣れて、お礼の言葉が出るようになった。
「まあ、座ってください」
 3人は、室内の応接セットに座った。
「早急に作戦を立てる必要があります」
 言い出したのは、堀越である。 
「作戦?」
「小笠原常務とも話し合ったのですが、守田さんに同調して会社を裏切り、プログレス側についている役員たちをはっきり識別して、それに応じたやり方をしないといけません」
「識別って、どうしてそんなことができるのだ」
「そこを工夫する必要があります」
「それに応じたやり方とは、どういうことだ」
「情報漏洩を防がなければなりません。提携を断った以上、我が社の中央店は間もなく、プログレス上町店と激しい競合関係に入ることになります。プログレス側に、我が社の情報が筒抜けになってはまずいでしょう」
「それはそうだが」
 浩介は考え込んだ。
「決してやりたいことではありませんが、電話内容を録音して調べれば、だれがプログレスとつながっているかが分かります」と小笠原が言った。「この会社に来る前に私が働いていた会社で、会社の金を使い込んでいた奴がいました。その動かぬ証拠を掴むために、電話機に録音機をつけました。それが見事に的中して、その男を挙げることができました」
「電話の盗聴? 駄目だ。そんなこと、絶対に駄目だ」
 浩介が慌ててそのアイデアを否定した。
「小笠原常務、それはほとんど効果がありませんよ。だって、いまは携帯電話というものがあります。機密の連絡は、当然、携帯を使います」
「あっ」と浩介が小声を上げた。「分かった」
「何が分かったのですか」と堀越が尋ねた。
「携帯で連絡を取り合っているんだ。守田さんが部屋に籠もりっきりなのに、社長室にはだれも役員が入っていかない。堀越さんが変だと言っていた、そのことの謎解きだ。彼らは、携帯で連絡しあっているのだ。社内電話の内線を使って話していたら、周囲の人に聞こえるし、目立つからね」
「そうですね。その可能性が大ですね。メールも使えますし」
「となると、携帯の通話記録やメール記録を読むしかしようがないな」と小笠原が言った。「それをやってみましょうか」
「ちょっと、待て」
 浩介は、たったいま自分が言ったことを取り消したいと感じていた。部屋に閉じ籠もっている守田が、プログレスに通じた役員たちと、携帯電話で連絡を取り合っていると考えることは、守田の裏切りを肯定しているだけでなく、他の役員たちの裏切りも肯定し、さらに彼らが、共同で何かを策謀しているということを認めていることである。
 危ない、と浩介は感じた。と同時に、あることを思い出した。
 あれはもう10年以上も前のこと、戸高カントリーの選手権で、マッチプレーの勝負をした相手に、ひどいルール違反をやる男がいた。グリーンのうえで、マークした場所から5センチほどもホールに近づけて球を置く。ラフでショットをするときに、球の手前の芝をさりげなくクラブで押しつぶす。いわゆるライの改善(ルール違反)である。スコア数の申告そのもののゴマカシがあったかどうかは分からなかったが、他人の目がないところでは何をするか分からない以上、見ていなかったプレーについては、保証できない。
 前半9ホールで2ダウンと不利な状況になった後、当の相手とふたりで押し黙って、食堂で不愉快な食事をとっているとき、浩介に、あるひらめきがあった。
 相手がフェアなプレーヤーでないことは確かである。だが、自分はそのことに気を取られ過ぎていないだろうか。相手の一挙手一投足が気になって、自分のプレーに気を配ることがおろそかになっているのでは。
 後半、浩介は考えを変え、調子を取り戻した。最初の3ホールでイーブン(対スコア)に戻し、最後2ホールを残して3差をつけて勝った。相手は、それから程なくクラブ競技の不正が原因でクラブを去っていったが、いま、浩介はそのことを思い出したのである。
「だれがプログレス側についているとか、守田さんと連絡を取り合っているとか、そういうことを気にし過ぎないようにしよう」と浩介は宣言した。
「それはそうですが」と小笠原が言いかけたときに、ドアのチャイムが鳴った。



 やってきたのは佐藤詠美だった。ビジネスライクな紺のブレザーだが、詠美が着ると、どこか粋である。
「先生、先ほどはありがとうございました。山田会長の誘惑を断る勇気が出ました」
 浩介が言うのを、詠美は笑顔で受けながら、勧められたソファに腰掛けた。
「探したのですが、どこにおられるか分かりませんでした」
「守田顧問のお部屋です」
 3人が揃って、えっという表情になったのを見て、詠美はおかしそうに微笑んだ。
「私は、フジシロさんのなかのどなたのところにでも気楽に行ける立場です。ですから、ちょっとご挨拶にということで、お訪ねしたのです」
「それで、守田さんの様子はどうでした」
「私が入っていくと、ちょっと戸惑われた感じでしたが、すぐに快活になられました」
「快活?」
 何となくここではふさわしくない言葉だった。
「今回、突然、社長を解任されたことを慨嘆されていました。当然のことだと思います。でも、私には、そのことは、はじめに少しおっしゃっただけです。私は個人的に特に親しいわけではありませんから」
 詠美が訪ねていくと、守田は歓迎してくれた。席を勧め、秘書にコーヒーを淹れさせた。
 話してみると、守田が大変な読書家だと分かってきた。経営学者のP.ドラッカーの本はほとんど読んでいて、それを大いに語る。話題は移って、最近読んだ本のことになった。
「ラース・ビハリ・ボースって、先生はご存じですか」
「チャンドラ・ボースなら知っていますが」
「チャンドラ・ボースと同じインドの革命家ですが、日本に亡命してきて新宿中村屋にインドカリーの作り方を教えた人です」
「中村屋のカリー? そういえば、そういうインド人の話を聞いたことがあります」
「最近、そのボースについて書かれた本が出たので読んでみたら、大変おもしろかった。戦前の日本が、アジアの人々をどういうプロセスで裏切っていったかがよく分かるんですよ。いわば、アジア人の立場から見た日本戦前史です。そういう視点は大変に珍しい」
 守田は、そんな話を次々に披露した。中国で「阿片王」と呼ばれた里見甫に関する本。浅田次郎の『蒼穹の昴』の話など、詠美が驚くほどの読書量と博識である。
「守田さんとお話しするのは、はじめてでしたけれど、読書家なのでびっくりしました」
「学者が驚くというのだから、相当なものだね」と浩介が言った。
「我々には、そんな話をしたこともない。やはり、相手を見て話すんだね」
 浩介は、詠美が入ってきてから、すっかりご機嫌である。
「守田さんは、社長を解任されたプロセスについては非常に不満を感じているようでしたが、社長を辞めること自体については、むしろ歓迎しているように見えました。一日も早く楽隠居になって、自費出版でもいいから、アジア現代史についての本を書いて出したいなんて言っていました」
「もともと社長になるなんて思っていなかった人だからね」
「いろいろ話しましたが、私には、あの方はプログレスと結んで何かをたくらむような方だとは思えないのですが」
「うーむ。おっしゃることも分かるが、そう決めつけるわけにはいかないでしょう」
「女の直感です」
「先生」と堀越が口を挟んだ。「読書家でも、インテリでも、欲に目がくらむという話はありますから、やはり用心しないといけません」
「それはそうね」と、詠美はあっさりと意見を撤回して、「とにかく、社長になられたところですから、ちょうどいい、全役員と面接をされてはいかがですか。そうすれば、きっと、ご自身で何かを掴めるでしょう」
「そうだな」
「それから、中央店での戦いには絶対に勝たねばなりません。プログレスに対する競合対策に完璧を期すべきです。それを、私に手伝わせてください」
「それは大歓迎だ。よろしくお願いします」と浩介が救われたように言った。
 これには、残りのふたりも異存はなさそうだった。
(つづく)

◎――――連載

●連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート 第49回

ポスト京都議定書の
枠組み作り

佐和隆光

Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。

クリントン演説の衝撃

 気候変動枠組条約第一一回締約国会議(COP11)と京都議定書第一回締約国会議(COP/MOP1)が、二〇〇五年一一月二八日から一二月九日にかけて、カナダのモントリオールで同時開催された。同年二月一六日に「発効」した京都議定書を批准した国の数は、京都会議に参加した一八九カ国中一五八カ国にものぼるのだが、議定書の発効条件のひとつである「附属書T国のうち、批准した国々の排出量が、附属書T国全体の排出量の五五%以上を占める」を満たすまでには、二〇〇四年一一月一六日のロシアの批准を待たねばならなかった。
 二〇〇一年三月二八日、ブッシュ大統領は京都議定書からアメリカが「離脱」することを宣言した。今回のCOP/MOP1の最終日に、クリントン前大統領がカナダ政府の秘かな招きに応じて登壇し、ブッシュ大統領を批判する熱のこもった演説をし、満場の喝采を浴びた。その演説の内容を要約しておこう。
 クリントンは、「地球温暖化対策の温室効果ガス削減が、アメリカ経済に打撃を与える可能性がある」とするブッシュ政権の主張は「明らかに間違っている」としたうえで、省エネ技術の開発に「真剣に取り組む」ことは、アメリカ経済を弱体化させるどころか、かえって強くするはずである、と述べた。温暖化による気候変動が、私たちの目の前で現に起きており、その勢いは加速しつつある。しかも、その原因である二酸化炭素排出量の増加が、人間の活動に由来することには、もはや疑いの余地がない。取り返しのつかないほどまで気候変動が深刻化するのがいつになるかは予断を許さないけれども、だからといって「早期の対策」を否定するのは誤りである、と。
 クリントン前大統領は、みずからの政権時代に合意した議定書を強く支持している。一九九七年一二月、京都で開催されたCOP3の閣僚会議が始まる日の午前中、橋本龍太郎首相(当時)に次いで、京都国際会館大ホールの壇上に上がったアル・ゴア米副大統領(当時)の、次のような趣旨の演説を聴き、私は深い感銘を受けた。「私はここでアメリカ代表団に対して次のように言いたい。市場メカニズムを活用する措置を導入することを前提に、アメリカ代表団により柔軟になってもらいたい」と。この演説を聴いた私は、なるほど排出量取引の導入を条件に、アメリカは相当な削減率を呑む用意があるのだと思った。副大統領になる前のアル・ゴア上院議員が、地球環境問題に関する著書(『地球の掟』)もある、無類の環境派議員であったことは、周知のとおりである。

京都会議の政治力学

 京都会議の始まる約一カ月前、クリントン大統領(当時)は、欧州連合(EU)諸国が、二〇一〇年の二酸化炭素排出量を、一九九〇年比一五%削減することを先進各国に義務づけるべきだと表明していたのに対し、〇%(九〇年の水準に安定化させること)をアメリカ合衆国の提案として公式に表明した。EU提案を批判していた日本の産業界も通産省(当時)も、アメリカの消極的な提案にもろ手を挙げて賛同した。しかし、実のところ、クリントン大統領の提案には、次のような裏があったのを見落としていたのではなかったろうか。
 アメリカには、共和党を支持する保守派と、民主党を支持するリベラル派が、ほぼ半々の割合でいる。それゆえ、議会ないし大統領がいかなる決断を下そうとも、国民の約半数の反発を買うこと必至なのである。それゆえ、その意向を表明するに当たって、大統領は最大限の注意を払わなければならない。京都会議の直前にも、アメリカの気候変動問題専門家は、EU諸国に同調する「早期の対策」(early actions)派と「ゆっくりした対策」(delayed actions)派に分かれて、激しい論争を繰り広げていた。
 クリントンが、大方の予想に反して、〇%と言わざるを得なかったのは、保守派とりわけ石油資本への気兼ねの結果だと見ることもできる。しかし、ゴアが先のような演説を京都会議の場で行ったのは、排出量取引などの市場メカニズムを活用する措置を導入すること、そして、日本六%、アメリカ七%、EU諸国八%を落としどころとすることについて、アメリカとEUのあいだで合意が形成されていたからではなかったろうか。だからこそ、〇%という数字が出てきたのだと私は推察する。一方の極にEUの一五%があることを前提にすれば、他方の極に〇%を持ってきて、その中間で落とすという「足して二で割る」方式の、ある意味では、素朴な交渉戦略が講じられたのである。

ポスト京都の国際枠組み

 今回のモントリオールでの締約国会議では、京都議定書に反発するブッシュ政権のかたくなな姿勢に対して、あからさまな非難が浴びせられた。会議に出席した各国代表の多数派は、ポスト京都議定書の枠組み作りに対して難色を示すアメリカを積み残してでも、二〇〇八年から一二年にかけての第一コミットメントピリオド終了後の、新たな枠組み作りについて議論を開始するべきだと主張した。「京都議定書に反対しているのはブッシュ政権であって、アメリカ人ではない」というクリントン前大統領の演説は、締約国会議での最大の見せ場であったと同時に、非締約国であるアメリカ抜きの枠組み作りを、見切り発車で推進しようとする立場に立つ国々を大いに勇気づけた。
 アメリカ政府代表団が、クリントン前大統領の演説に不快感を催したことは、もとよりいうまでもあるまい。しかし、少なくとも表向き、アメリカ代表団長のポーラ・ドブリャンスキー国務次官は、クリントン前大統領の演説に対して「地球の気候変動に関する、さまざまな意見が聞ける有益な機会だ」との、舌足らずではあるが、好意的ともとれる声明を発表したと報じられている。
 ポスト京都議定書の枠組み作りが、モントリオール会議の最大の課題であった。第一期の終了年である二〇一二年の七年前に第二期の削減率の交渉を開始すべきであることが議定書に明記されているからである。とはいえ、先進国(附属書T国)の削減率について云々する前に、アメリカと発展途上諸国(特に排出量世界二位の中国と同五位のインド)の参加・不参加について決着を図らねばならない。少なくとも建前上、途上諸国は「二期目も先進国だけで」という主張を崩そうとはしない。また、アメリカは歩み寄りの姿勢をいささかも見せようとはしない。
 アメリカが歩み寄る可能性は、ブッシュ政権下では、まずゼロと断じて差し支えあるまい。アメリカの参加・不参加は、結局のところ、二〇〇八年の大統領選挙の結果次第なのではないだろうか。途上国については、参加のインセンティブをどう仕掛けるかが問題となる。キャップ・アンド・トレードという言葉があるように、排出量取引市場に参入するには、キャップをかぶる、すなわち削減ないし抑制義務を負わねばならない。途上諸国に削減義務を課すべきだという人はまずいまい。途上国には、さらなる経済発展を追求する権利があるのだから、削減ではなく抑制が義務づけられることになろう。
 仮に途上諸国にとっての基準年次を二〇〇〇年とし、第二期(二〇一三年から一七年)の年平均排出量を二〇〇〇年比プラスX%以下に抑制することが義務づけられるとすれば、Xの値が程々に大きければ、途上諸国に参加のインセンティブが与えられることになる。なぜなら途上諸国は、排出量取引市場での売り手となるべく、省エネルギーに努めるだろうからである。たとえていえば、「ゆるいキャップをかぶせる」こと、すなわち余剰排出量を売ることによる利得(外貨収入)を獲得する可能性が、途上諸国の参加のインセンティブとして働く。また、参加国にのみ適用される共同実施もまた、途上国の参加のインセンティブとして働く。議定書により与えられる排出量の一部と引き換えに、二酸化炭素の排出削減に資する投資を先進国から引き出せるからである。

モントリオール会議の成果

 途上諸国が不参加のままなら、また、アメリカが第二期にも参加を拒むなら、次善の策として、次のような提案はいかがなものだろうか。
 先進国全体での削減率を高めに設定し、不足する排出量を補うべく、先進国政府および企業が、途上国に投資して削減した二酸化炭素排出量を自国の削減量とみなす、クリーン開発メカニズム(CDM)に積極的に取り組むインセンティブを仕掛けるのである。排出量取引市場における排出量の価格が高くなることが、CDMのインセンティブとして働く。価格を高くするためには、先進各国の削減率を高めに設定するしかない。
 モントリオール会議での議論は、最終日に至るまで、平行線をたどったままで推移したが、最終日になってようやく、先進国(アメリカを除く)が二期目の目標をつくると約束することを前提に、アメリカや途上国も加わった特別委員会を設置するまでにこぎつけた。アメリカや途上国の主張に配慮して、この特別委では交渉ではなく対話(ダイアローグ)を行うものとし、「二期目の交渉にはつなげない」という文言まで書き込まれた。
 日本のマスコミは「二期目をめぐる議論の場ができたことは前進だ」との評価を下しているが、いささかならず物足りない思いをするのは、私のみではあるまい。アメリカの世論調査によると、ブッシュ大統領の支持率が急降下しているようだが、イラク戦争の泥沼化への責任追及もさることながら、気候変動問題へのブッシュ政権の無関心ぶりへの責任追及が、アメリカ国内で顕在化することを期待したい。アメリカ市民のだれもが、気温上昇や、ハリケーン「カトリーナ」に代表される異常気象の頻発を肌身で実感しているはずなのだから。

◎――――連載

瞬間の贅沢 第11回

武田双雲

Takeda Souun
1975年熊本県生まれ。書道家。
http://www.fudemojiya.com/futaba-mori/souun.htm


書



偽善と言われてもいい。

今 無性に 心の底から
人の為に何かをしたい。

感謝が溢れて仕方がないのだ。

◎――――編集後記

編集室より………

▼函館の高校時代、僕は山にこだわっていた。3年間だけ、なぜそんな苦しいことをしていたのか皆目思い出せないが、きっと何かを思い立ったのだろう。
 3年生の1月2日、仲間4人と近くの雪山にでかけた。両側がブッシュの狭い道を登り、1時間ほど登ったとき、先頭がふと立ち止まった。何してんだと文句を言い、その先を見た瞬間、頭が白くなった。足元から筋肉が硬直して動けなくなるのが分かる。いつ現れたのか、ヒグマが10mくらい先からじっとこちらを見つめていたのである。
 冬眠を中断した熊は空腹に決まっているし、狂暴極まりない。殴られれば、人の首くらい簡単に飛ぶ。背中なら大半をえぐられる。逃げようにも一本道だし、熊は時速60kmで走るし、木だって登る。進退窮まって、僕は、そういえば、地元の人が出るかもしれんぞと言っていたなあ、本当に出くわしちまったなあ、などとぼんやり思い出していた。恐怖は臨界点を超えると、認識できないものなのだ。
 10秒か20秒か、覚えていない。ヒグマはゆっくりと向きを変え、ブッシュに消えた。それからまた10秒か20秒か。正気に戻った僕たちは、走った。必死に走った。何度も転倒して、雪と血にまみれた。下山してへたり込んだ。しばしの放心状態の後、一人がもぞもぞし始めた。何か、ぼそぼそ呟いている。見れば、股間が濡れている。雪ではない。臭気が立ち上っている。
 高校生は、残酷である。自らのみっともなさを棚に上げて、失禁男と命名し、学校中に触れ回った。あまつさえ僕は、大学入試の面接でこの話を臨場感たっぷりに話し、大うけした。だが、誰にも言っていないが、正月になると必ずといっていいほど、この夢を見る。そして目が覚めて、布団を確かめ、ほっと安心するのである。 (辻広)

▼新年明けましておめでとうございます。
 年末ジャンボ、有馬記念、ジェイコム株、皆さんの懐具合はいかがでしたでしょうか。弊社は株高の影響を受け書籍、雑誌ともに好調な売れ行きのまま二〇〇五年を締めくくることができました。
今年も活況に沸く株式市場と共に株のダイヤモンド社として頑張って参ります。さてダイヤモンド社には好調な株本だけでなく『一番売れてる海外旅行ガイド』地球の歩き方があることもお忘れなく。今春には「行ってから読むか、読んでから行くか」と題し二〇〇六春地球の歩き方フェスタを実施致します。このキャンペーンは地球の歩き方の編集者がお勧めする小説、エッセイ、ノフィクションなどと地球の歩き方を併売して頂くユニークな企画です。開催書店様は地球の歩き方HPでご紹介させて頂きますので、ぜひ一度覗いて見て下さい。 (磯崎)

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