CONTENTS

エッセイ

大前研一 本当のプロフェッショナル
相場英雄 「ダイヤモンド経済小説大賞」受賞インタビュー
望月 衛 優れた投資家に共通する習慣
小堺桂悦郎 ワタシだって不安です
大津広一 企業価値を創造する会計指標の役割
ニック・ウィリアムソン 著者が語る……『たった40パターンで英会話!』

連 載

川勝平太 比較経済史の方法について
松井宏夫 ビジネスマンのための健康ラボ(2)【PET検診】
安土 敏 小説 「後継者」
佐和隆光 思考停止をもたらすパソコンと携帯道」
飯田泰之 佐藤雅美×飯田泰之 特別対談【前編】
池内ひろ美 夫婦の2007年問題とは?
西村ヤスロウ 美人のもと(2)
田中秀征 二人の首相の判断力(1)
武田双雲 瞬間の贅沢
編集後記

◎――――エッセイ

本当のプロフェッショナル

大前研一

Ohmae Kenichi
ビジネス・ブレークスルー大学院大学学長。早稲田大学理工学部卒業、マサチューセッツ工科大学にて工学博士号を取得。著書に『企業参謀』『新・資本論』『考える技術』など多数。

 ビジネスマンの間には「もう国や会社はあてにならない」という健全な危機感が広がり、自分自身の価値を高めようという機運が芽生えました。同時に、「プロフェッショナル」という、一見かっこよい言葉が頻繁に使われるようになりました。

 自分自身の市場価値を再認識し、高次元の世界を目指してみずからを鼓舞するうえで、プロフェッショナルという言葉は一種のブースターの役割を果たしてきたと思います。ところが、あまりに安易に使われたせいで、どうもその核心から遠ざかっているように思えてなりません。

 一般にプロフェッショナルの定義としては、医師や弁護士、会計士、あるいは大学の教授など、いわゆる国家資格を取得した人々が認識されています。ところがこのような有資格者には、プロフェッショナルの医師や弁護士もいれば、単に国家資格を持つだけのアマチュアもいるのが現実です。
 そこで、私の考えるプロフェッショナルを定義しましょう。最も重要な視点は、顧客に対するコミットメントです。
 プロフェッショナルの定義のほとんどが、「顧客」という存在をなおざりにしたまま、その知識や技能に焦点を当てています。私が「核心から遠ざかっている」と感じた理由は、ここにあります。
 たとえば、「顧客の顧客」にまで目を配っているプレーヤーは皆無に近いのではないでしょうか。「顧客の顧客」について考えることで、既存の方法を見直すきっかけとなって、直接の顧客にユニークな価値を提供するチャンスに発展する可能性が生まれるはずなのです。
 二一世紀の経済社会は「見えない空間」との戦いです。顧客といっても「触れる」顧客ではないかもしれません。現在の顧客も変質し、想像もつかないような顧客が不特定多数出現するかもしれません。プロフェッショナルに要求される「顧客」への理解というのは、そのレベルの理解なのです。
 プロフェッショナルは、道なき道、ルールのない世界でも、状況を読みながら正しい判断をもって組織を動かし、顧客を導いていかなければなりません。それが顧客に最高の価値を届け、その成長に貢献するということなのです。
 それには、見えないものを見る力、構想力、分析する力、インテグレート(合成する)力、そして何よりも二一世紀経済に対する正しい理解と洞察が必要です。このようなスキルは、やり方次第でいくらでも身につくものです。あなたも『ザ・プロフェッショナル』を読んで、チャレンジを始めてみてください。


書籍

大前研一 著
●定価1575円(税込み)●4-478-37501-1 ●244ページ

◎――――Interview

ダイヤモンド経済小説大賞受賞インタビュー
“金融セレブ”の
腐敗の構造を描きたかった

相場英雄

Hideo Aiba
経済ジャーナリスト。一九六七年、新潟県生まれ。

―― 第二回ダイヤモンド経済小説大賞を受賞した『デフォルト[債務不履行]』では、日銀、財務省、金融庁、大手都市銀行がつくる腐敗の構造を抉るように描いています。

相場(以下同) バブル崩壊の後、「失われた一〇年」ということがしきりに言われた。じゃあ、一〇年間、いったいみんなは何をやっていたんだよ、という思いが強烈にあった。特に、この国の金融システムをつくっている政、官、財のなかにいる人間をしっかり見てみたかった。

―― 相場さんは、?金融セレブ?という言い方をされています。

 もちろん、日銀にも、財務省、金融庁にも、問題意識を持って、日々組織と格闘している方もいらっしゃる。しかし、組織の上層部に行けば行くほど、誰に向かって仕事をしているのか分からない、人間味のないエリートが幅を利かせている。金融業界のみならず金融行政を取り仕切る人たちのなかに、既得権を守る腐敗の構造があるために、金融業は日本で最も後れた業界になってしまったのだと思う。本書でも書いたが、現場を取材していると、不良債権問題だって、まだ終わったとはとうてい言えない。

―― 自浄能力はありますか?

 繰り返しになるが、意識が高く、日々現実と格闘している人は少なくない。そうした人の多くが、オフレコを前提にさまざまな情報を提供してくれる。今回の執筆に関しても、このテーマに共鳴して、相当の幹部クラスの方が、取材の枠を超えてネタを提供してくれた。ただし、問題意識の高い多くの人たちは恵まれたポジションにいるとは言えず、組織としての自浄能力という点では、まだまだ心もとない。

―― ノンフィクションではなく小説でやってみようと、思ったわけは?

 ジャーナリストとして、ノンフィクションの仕事では、オフレコのしばりが多くて書けないことが多い。書いてしまったら、出入り禁止になってしまうという面と、迂闊なことを書いて信用不安を惹起してはまずい、という面がある。特に金融の場合、書くべきことと書くべきでないことの判断が非常に難しい。
 フィクションに落とし込んでしまえば、そうしたジレンマからは開放される。また、制約を外して自由に書くことで、ジャーナリストにはつかんでいても書けないこともある、ということを知ってもらいたかった。

―― 精緻なプロットと金融市場を舞台にした巧妙なトリックが、審査員の方々から最高の評価を得ました。

「ダイハード3」という映画でニューヨークの連銀の金庫が破られるという設定をみたとき、これを日銀に置き換えたらどうなるだろう、と考えたのがそもそもの始まりかな。金融市場のトリックに関しては、実際にあったできごとをベースにデフォルメしてつくった。

―― 経済ジャーナリストとして一〇年以上金融の世界を見ていっらしゃいました。どこに面白さがありますか?

 まず、この一〇年でいえば、金融の世界にいる人はみんな崖っぷちにいた。政策当局の方も、銀行や証券会社の方、半径一メートル、お互いの後ろが断崖絶壁という狭い土俵のなかで相撲をとっているような感じだった。いつ連鎖破綻が起こるか分からない。銀行の崩壊は、貸し剥がし、企業の倒産を招き、それが庶民の生活まで脅かして社会不安につながる。
 我々ジャーナリストもへたなことは書けないが、かといって、真実を伝えて少しでも事態を改善したいという思いは強い。当局や銀行、証券の担当者は書かれまいとする。強烈な攻防と駆け引きに、陶酔感すらあった。
 特に、金融業界が絶頂から地獄を見てきたこの一〇年は尋常ではなかった。政府は薄明かりが見えている、などと言っているが、負の遺産はそうそう簡単に片がつくわけはない。

―― 金融業界にからむ登場人物が非常に特徴的に描かれていて、かつリアリティに富んでいます。

 お金がからむと、誰でも人間性が露骨に出る。金融業界に身を置いている人や金融システムの番人であるはずの人ですら、お金に翻弄されてしまうこともある。本当のエリートか、単なる偏差値秀才かも見えてしまう。

―― 次回作の構想は?

 引き続き、金融をテーマに書いていきたい。?相場操縦?が次回のキーワードで、すでに細部の詰めに入っている。乞ご期待。


書籍

相場英雄 著
●近日発売

◎――――連載

歴史が教えるマネーの理論 第16回

●佐藤雅美×飯田泰之 特別対談…【前編】

江戸時代に見る、
景気と貨幣のメカニズム

飯田泰之

Iida Yasuyuki
一九七五年東京生まれ。駒澤大学経済学部専任講師。著書に『経済学思考の技術――論理・経済理論・データで考える』(ダイヤモンド社)、『昭和恐慌の研究』(共著・東洋経済新報社)などがある。

佐藤雅美

Masayoshi Satou
一九四一年兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。一九八五年『大君の通貨』で第四回新田次郎賞を受賞。九四年『恵比寿屋喜兵衛手控え』で第一一〇回直木賞を受賞。

撮影/石郷友仁

●佐藤雅美×飯田泰之 特別対談…【前編】
江戸時代に見る、
景気と貨幣のメカニズム

本連載では、さまざまな国や時代の歴史を振り返ることで、経済理論を紐解くという試みを行ってきた。今号と次号では、特別企画として『大君の通貨』『開国』などの著者・小説家の佐藤雅美氏との対談を掲載。経済歴史小説家と経済学者から見た、江戸時代の経済政策、そして現在の日本経済や官僚たちの姿とは……。

「やくざもの」が跋扈できる時代

飯田  江戸時代、中でも文政期の話が佐藤先生の小説にはよく出てきます。まず、そのあたりの時代の経済状況について伺いたいのですが。この頃、通貨の供給量が増えますが、その割に物価はたいして上がっていません。実質経済が成長していないと、帳尻が合わないと思うのですが、実際のところはどうだったのでしょうか。
佐藤  経済に関していえば、通貨の供給量に対して、経済もスケールアップしていると思います。江戸だけではなく、関東近県の経済もスケールアップしています。例えば、利根川を中心とする水運の発達、上州などの絹の生産といった地方経済が活発化しているんです。地方経済の拡大に伴い江戸の経済も発展し、通貨の供給量と同じくらいの規模で経済も拡大したから、そう物価の上昇がなかったのではないかと思います。

飯田  先生の著書には、「やくざもの」が登場しますよね。経済が豊かでなければ、やくざものが活動できないと思いますが。

佐藤  そうですよね。やくざものがいつ頃から出現してきたのか非常に興味がありまして、いろいろと調べていますが、やくざを意味する「通り者」という言葉が出現したのは、だいたい宝暦から明和くらいにかけてです。

飯田  田沼(意次)の頃ですか?

佐藤  その少し前ぐらいからです。それも最初の頃の「通り者」というイメージは、やくざというよりももう少し粋で男気のある人物というイメージでした。それが田沼期を過ぎたあたりから、俄然凶暴性を帯びてきました。寛政に入ってからは、今のやくざと変わりなくなり、文政に入ると活動がより凶暴になります。


飯田

インフレは善か悪か?

飯田  幕府は何度か貨幣改鋳で通貨量を増やし、インフレを起こしましたよね。インフレで、米価が上がるので武士も潤う。ところが文政期は、ほとんど米価が動きません。一石一両で横ばいです。ただ、商品経済はインフレぎみになりました。相対的に商工業者はどんどん金持ちになっていく一方で、武士はずっとそのまま、もしくは物価が上がった分損しています。こうなってくると、文化文政の頃は、徳川吉宗の頃の時代に比べると、米の持つ意味も違ってきたのだろうと思いますが。
佐藤  武士や百姓が相当苦しい生活を強いられていたかというと、必ずしもそうではないような気がします。旗本では、石高は200石、300石といった具合に、全部土地でもらっています。土地でもらっている人は、それぞれ自分の土地で年貢を取りたてるのですが、「泣く子と地頭(旗本)には勝てない」という言葉のとおり、かなり無理を言います。

飯田  無理に小作農から、搾り取ることもできるということでしょうか。

佐藤  「無理に絞る」というよりも、「とにかく無理を言う」というニュアンスでしょう。村の百姓は5年分を前渡しさせられるとか。それでも村は村でやりくりがついてますからね。必ずしも、百姓の首を締めるような相当な無茶を言っているというわけでもないんです。彼らも、そこそこの暮らしはしていますから。
 小栗上野介忠順という、江戸末期の優秀な官僚がいまして、小栗家の家計簿が現在も残っています。その家計簿によると、2000石で現金収入が年間700両くらいなのだそうです。まあまあの収入といえます。その上、お百姓さんたちを交代交代で江戸に呼び寄せて壁の修理だとか、何かとこき使っております。
 ただ、江戸時代というのは、かなりの規模の消費社会ですから、お殿様も結構あおられて買い物したり、良い晴れ着を着たりしていたようです。ですから小栗のように、しっかり帳面をつけない無駄遣いばかりしているお殿様は、借金で火の車という状態でした。

飯田  借金をしてまで消費をしていたのですよね。

佐藤  借金といえば、武家には直参なら直参専用の金融機関というものが3つばかりあったようです。あまり金利も高くなかったようで、小栗家もよく利用していました。
 松平定信が向柳原(現在の東京・浅草橋付近)に設けた町会所の七分積金(※1)。これが文政の11年に46万両も貯まり、うち28万両が貸し付けに回りました。この利率が4、5%程度。もちろん担保は必要ですが。当時公定金利は15%、一般の人たちはとてもそんな高い金利では借りられません。でもこういったところから、結構安く借りていたんですね。


佐藤

出目をとるのは、民の膏血を搾り取るようなもの?

飯田  一昔前の江戸研究では、こうしたインフレ的な経済状況に関しては、批判的な記述がされています。例えば田沼意次が典型ですが、とにかく田沼は悪いやつだという批判が多くなされていました。あの田沼批判は、どこかの層が何らかの不満を持っていたからでしょうか。

佐藤  新井白石以来の伝統で、通貨の供給量および通貨を改鋳して出目(改鋳益金)をとるということは、基本的に悪だということになっているからではないでしょうか。「通貨の供給量を増やすことで経済が活性化する」という利点を見ていません。とくに当時の学者、それも一生懸命勉強した人たちが皆「貴穀賎金」、という考えにとらわれておりました。典型が新井白石です。

飯田  「金のみが唯一重要な貨幣である」という考えは、洋の東西をまったく問わないのですね。1920年代くらいまで、この「金の足かせ」は世界中にあったようです。江戸時代の場合は金の含有量、もっと後の時代になると兌換紙幣と金との交換率をどんどん上げていき、貨幣(量)を絞ってデフレを起こすと、何かいいことがある。こういった信仰に近いものが強固にありました。どの経済理論にもない話ですし、現実にもそんなことは起こったことがないのに……。

佐藤  モラルになっているからでしょう。通貨から出目をとるのは、民の膏血を搾り取るようなものだ。だから、そのようなことをやってはいけないと。言ってみれば「正しい」んですが……。そういう「正しい」考え方をする官僚が、幕末の最後の最後まで続きました。川路聖謨(日露和親条約を調印時の勘定奉行)も「貨幣の改鋳なんて良くない」と主張した1人です。
 明治時代の学者には松平定信が好きな人がいて、彼を評価するたびに、「正しい経済政策はこうあらねばならない」「通貨をいじくってはいけない。それは間違いだ」という話が出てきます。最近の経済学者の中には違った考えの方も多くいると思いますが。
飯田  今でもまだ少数派のように思います。貨幣をいじるという「不真面目なこと」をやらない、という政策が良いというのが伝統的な日本の考えかもしれません。
 話は戻りますが、インフレというのは、ほぼ(国民)全員に負担を強いるので悪いという反面、非常に公平であるとも言えます。全員が平らに負担をするので歪みが少ないという人もいる。田沼意知(田沼意次の嫡男)あたりが考えていた全国課税という考え方は、先進的なものだったと思いますが実施には至らなかった。多少姑息ではあるんですが、インフレになると、数%ずつサイフからお金が抜き取られます。その意味では、文政・天保期というのは、うまい具合に出目で全国課税を行った点が、非常に巧妙だったと思います。


飯田

政府に信用があれば、瓦も通貨になる

佐藤  そうですね。荻原重秀が「瓦礫でも官府の印を刻めば、通貨である(政府に信用があれば、瓦でも石ころでも通貨になる)」と言ったという話がありますよね。私は勝手に「官府の印理論」と言っています。明和に入って二朱銀を作りましたが、あれは出目をとるつもりはなくて、少額貨幣がなかったのと、定量貨幣がなかったのと、金が本当になくなってしまったという3つの理由から、銀貨なのに「これは金貨ですよ」というハンコを押して発行しました(※2)。これを私は「銀の金貨化」と名づけています。
 松平定信の倹約の政治が30年も続きました。11代目徳川家斉が15歳で将軍になり、45歳までの間続いたということです。遊びたい盛りに、倹約、倹約で何もできない。あの時代の予算の記録も残っているんですが、支出も収入源も120万両ぐらいで30年もほとんど動かないのです。家斉は50人以上子供を作りましたが、そのくらいしかすることがなかったのでしょう。やがて松平定信の息のかかった松平信明も死ぬと、家斉は水野忠成に「何とか金を作って贅沢させてくれ」という。その時に彼が知ってか知らずか、「官府の印理論」と「銀の金貨化」をミックスしたんですね。それから幕府の財政は潤いました。ただ、あまりに巧妙にやったものですから……。
飯田  誰も知らなかった。

佐藤  そう、幕末期の老中・阿部正弘から勘定奉行全員、誰もニセモノの通貨と気づかないくらい、巧妙にやってのけたんです。しかも、徳川吉宗のように財政が潤っても使わずに握ったまま蓄えるなどしないで、どんどん使った。おかげで市中に金が回り、景気も良くなりました。一口に文化・文政と言いますが、文政以後は景気に裏打ちされた文化だったのです。あの時代は、世界史上まれにみる画期的なことをやっていたと思いますね。

飯田  そう思います。経済学者の間で官府の印理論は、「貨幣とは法律または権力が決める」という貨幣法制説といって、「貨幣それ自体が何らかの価値を持っている」という貨幣商品説に比べて常にずっとブが悪い理論でした。その意味でも、開国期に海外の使節団でさえ理解できなかったというのはわかる気がします。18世紀末くらいに、ようやく「貨幣は刷ったお札でいいのではないか」「ハンコが押してあればいいのではないか」と言われ始めてきます。
 それまで世界に不換紙幣が全くなかったわけではなかったのですが、ことごとく失敗していました。失敗から、「官府の印理論」が間違っていたんだと。やがて、理論が間違っていたのではなく、政権に永続性がないと、ハンコが通じないということが分かってきました。今の1万円札は20円ほどで刷っているといわれていますが、私たちは誰もそのことを変だと思いません。ただ100年前だと異常事態だという意識があったようです。インフレ的好景気の理由が何か、わからなかった。その状態を、江戸時代ではある意味人為的に作り出していたということが驚きです。


佐藤

※1 江戸の地主階級が負担する町費である「町入用」。七分積金とは、その節減額の7/10の積金を指す。
※2 明和9年(1772)には、「明和南鐐(なんりょう)二朱銀」という金貨単位の計数銀貨が発行された。二朱銀の表面には「8枚をもって(小判)1両に替える」とある。

【次号に続く】

◎――――連載

球域の文明史 第27回

比較経済史の方法について

川勝平太

Kawakatsu Heita 
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など

 ここで寄り道をして「比較」を軸にした経済史の方法について、論じておきたい。比較経済史については、本連載の第一回目にすこし触れたが、ここでは、比較の方法論とからめて補っておこう。
 経済史に限らず「比較」は学問の方法の一つである。大学によっては「比較文学」「比較文化」といった学科のあるところもあり、「比較文明」「比較法制」などは学会の名称にもなっている。研究する際に、帰納、演繹、下向法、上向法、類推、仮説、実証など、さまざまな方法のなかでどれをとるかは学問の生命ともいえるものであるが、「比較」は多くの方法の一つである。学問の前提は、分野を問わず、分析対象(何を研究するか?)を定めることだが、その対象にどう迫るかは、方法によって規定される。対象が二つ以上になると、比較という方法が有効になる。
 明治以後の日本の学問の主流は「洋学(西洋の学問)」の受容であった。洋学を移入することから始まり、洋学を自家薬籠中の物にする過程がこれまでの学問の流れであった。洋学の一部である社会科学(経済学・法学・政治学など)の分析対象は、当然ながら、もともとは西洋社会であった。日本の学者の多くは、西洋起源の社会科学を受容して、その分析対象を、西洋とはまったく異なった場(時空間)である日本社会に定めることになったのであるが、西洋社会との比較は避けがたいものであったといえる。
 経済史学は社会科学の一分野であり、日本では西洋経済史の理解を基礎に発達した。それゆえ、経済史を西洋から導入した当初から、あたかも当たり前のように(無反省にも)西洋社会を基準にして、日本社会と比較してきたのである。ヨーロッパでは、特に西ヨーロッパのオランダ、イギリス、フランス、ドイツなどとの比較がさかんに試みられてきた。マルクス主義の隆盛した戦前から戦後にかけてはヨーロッパをモデルなり基準にすることが多く、近代化論の流行した戦後のある時期にはアメリカ合衆国の近代化が主なモデルになった。
「イギリスでは」「フランスでは」「アメリカでは」などと、ことあるごとに「……では」を連発し「それに比べて、いまだに日本では……」といった論法で、西洋諸国を基準に据える「デハノカミ」たちの学説が横行したのである。西ヨーロッパやアメリカ合衆国の社会については、プラスの価値である「先進性」「範型(モデル)」「普遍性」などを付加し、日本社会についてはマイナスの価値である「後進性」「ゆがみ」「特殊性」などのように否定的に浮き彫りにする比較が長らくなされてきた。
 だが、さすがにソ連・東欧圏が崩壊してからは、マルクス主義に立脚した社会科学は目に見えて凋落した。日本のみならず、東北アジア三国、東南アジア地域が勃興するようになってからは、ヨーロッパ・アメリカを比較のモデルや基準にする西洋中心主義的傾向はほぼ払拭されたといってよい。西洋社会を見る目においてプラスの価値は減じたが、対等に見る目が育った。いや、ときには逆に、日本中心主義やアジア中心主義と誤解されてもしかたないようなような傾向も出てくるまでになった。とはいえ、西洋諸国との比較はまださかんである。
 日本の経済史学界では、山田盛太郎氏、大塚久雄氏のような、幾人ものすぐれた「デハノカミ」の比較経済史家を輩出してきた。実は、私も比較経済史が専門だと標榜している。かといって、どこかの国や地域を基準にしているわけではない。世界各地すなわち地球的視野のもとで、日本の歴史的位置を見定めるという構えをとっている。一日本人であるという偶然の理由によって、日本を視野に収める立場は変えないが、イギリスを比較基準にした山田理論や、オランダやイギリスを比較基準にした大塚史学に代表される比較経済史、あるいは、前回にとりあげたトマス・C・スミス氏、速水融氏、斎藤修氏らのような前近代成長の日・欧の比較分析などとは無縁である(そこで、あえて「私の比較経済史」という言葉を使うのを、ご海容願います)。
 かならずしも明示的にしてきたわけではないが、私の比較経済史を支えるキー・コンセプトは「分化」「相似」「相異」である。こう述べただけですでに、おそらく、私の比較経済史が既成の比較経済史のすべてと無縁であることの証になるだろうと思う。既存・現存の比較経済史家のなかで、経済史の方法論の基礎に「分化」「相似」「相異」といった概念を据えている人は、管見の限り、誰も、また、世界のどこにもいないからである。何のことなのか、といぶかしがる向きさえあるだろう。
 ことは認識論にかかわる。
 この世の事象は、永久不変のものはない。言い換えれば無常である。無常の世界に生起する事象に、完全な終わりがあるかどうかは措くとして、始まりはある。それが原因で、何がしかの結果を生む。それゆえ、因果の系列をたどることができる。ただ、同じ原因が同じ結果を生むとは限らない。というより、世界は無常であるから、同じ原因が、同じままであることはないからである。原因となったものもまた、変わるのである。あたかも、同じ両親から同じ子供は生まれないように。原因は同じように見えても、実際は、原因になるものも変化しており、それにともなって結果も変わるのである。
 ともあれ、何事にも原因と結果があり、因果の系列を追うことができる。この連載でシュンペーターを論じた際、因果の系列を生成↓発展↓衰退という「循環」のコンセプトで説明したが、根本は「無常」である。
 では、「無常なる歴史」の本質をどう見るのか。私はそれを「分化」だと見ている。そして、分化する事象を「相似」「相異」の二つの概念で捉えるのである。
 分化・相似・相異といったキー・コンセプトは経済学や隣接の社会科学から得たものではない。今西錦司(一九〇二〜九二年)の「自然学」から得たものである。そこで、ついでにこの点についても解説しておきたい。
 今西の「自然学」の原論というべき書物は『生物の世界』(講談社文庫)である。その序文の冒頭に「この小書を、私は科学論文あるいは科学書のつもりで書いたのではない。それはそこから私の科学論文が生れ出ずるべき源泉であり、その意味でそれは私自身であり、私の自画像である」とあることから分かるように、この書は、生物についての解説ではなく、今西の世界観を開陳したものである。そして、私もその世界観を共有しており、今西が彼の自然学をこの世界観によって基礎づけたように、私も私の比較経済史を基礎づけているのである。
 ニュートンの主著『自然哲学の数学的基礎』が哲学から物理学への道をつけたように、今西錦司の主著『生物の世界』は「哲学(西田哲学)から生物学への道をつけた」と、哲学者の上山春平氏が評したことがある。その表現を借りれば、続いて、生物学――今西自身は晩年に自分の学問を総括して「自然学」と称したので、生物学というより「自然学」というほうが適切かもしれない――自然学から人間学への道もつけねばならない。今西の「自然学」は「棲み分け」の発見によって生物の世界なり自然の認識に寄与する画期的業績を残した。だが、ついに人間学にまでは達しなかった。自然学から人間学への道をつけることが、私が自らに課した課題である。人間の経済生活の歴史分析という領域において、自然学から人間学への道をつけることを課題にしてきたのである。
 ところで、『生物の世界』は全体で五章(第一章相似と相異、第二章構造、第三章環境、第四章社会、第五章歴史)からなる。「相似と相異」と名づけられた第一章が全編の要をなす。今西はそこで、世界を「分化」の相のもとに捉える認識論を開陳している。今西はこう述べている――
「世界は実にいろいろなものから成り立っている。それらのものはお互いの間を、大なり小なり何らかの関係で結ばれている。この世界――といっても私のいわゆる世界は元来地球中心主義的な世界なのであるが――を構成しているいろいろなものが、お互いに何らかの関係で結ばれていなければならないという根拠が、単にこの世界が構造を有し機能を有するというばかりでなく、かかる構造も機能も要するにもとは一つのものから分化し、生成したものである。その意味で無生物といい生物というも、あるいは動物といい植物というも、そのもとを糾(ただ)せばみな同じ一つのものに由来するというところに、それらのものの間の根本関係を認めようというのである。」
『生物の世界』が執筆された一九四一年当時、宇宙の歴史も、地球の歴史も、知られていなかった。しかし、今日では世界を「分化」として捉える認識は確証されてきた。現代の惑星物理学の知見によれば、一五〇億年前のビッグバンで宇宙が誕生し、膨張し、冷却しつつ、衝突などを繰り返すうちに、無数の星が生まれ、四六億年前には地球を一部とする太陽系が誕生した。そして、古生物学や考古学の知見によれば、その地球に生命が誕生し、単純な生物から複雑な高等生命が分岐し、人類の祖先はゴリラやチンパンジーから分岐して五〜六〇〇万年前に生まれた。また、蓋然性の高い進化の系統樹(種が異なる種に分化していく図)が描かれており、遺伝学によって、すべての生物は、植物・動物によらず、二重らせん構造をもつDNAによって支配されてきたことも分かっている。
 この全過程を貫いているのは、万物は一つのものから分化してきた、ということである。実存するものは、元は一つのものから、関係をもちながら、分化してきた。分化とは、ある構造・機能・形をもつものが、別の構造・機能・形をもつものに分かれることをいう。
 分化するとは、この世界には厳密に同じものは二つとないことを意味する。一つのものに占有されたその同じ空間を、他のいかなるものも絶対に占有できないからである。空間の分割は、ものの存在を規定するとともに、もの同士の相異を生む根本原因である。ただ、元は同じなので、分化して別のものになっても、どこか相似ているところがある。また、元は同じであるとはいえ、そこから分かれてきたので、どこか相異なるところがある。「分化」は「相似たところのあるものへの分化」と「相異なるものへの分化」という二つの相のもとに捉えることができるのである。
 いわば細胞分裂のように、世界は全体と部分という関係にあり、関係しながら、相似たもの、相異なるものへと分化してきた。分化したもの同士はなにがしかの類縁の関係にある。その類縁を発見する方法が「類推」である。部分をいくら精緻に分析しても全体像は得られない。部分同士の全体にしめる類縁関係を見抜くことが課題である。
 すべての部分は、いわば全体の自己分裂の帰結とでもいうべきもので、全体と不可分の関係にある。部分同士の類縁は「相似」「相異」という概念を適用して類推できる。類推の合理化が私の比較経済史の方法である。

◎――――連載

ガンバレ!男たち 第21回

夫婦の2007年問題とは?

池内ひろ美

Ikeuchi Hiromi
1961年岡山県生まれ。一女を連れて離婚後、96年にみずからの体験をベースに『リストラ離婚』を著し話題となる。97年、夫婦・家族問題を考える「東京家族ラボ」を設立、主宰する。hiromi@ikeuchi.com
ブログ「池内ひろ美の考察の日々」を始めました。http://ikeuchihiromi.cocolog-nifty.com/
サイト「東京家族ラボ」 http://www.ikeuchi.com/

写真

 厚生労働省統計情報部の発表によると、一九八八年から毎年一万件平均で右肩上がりだった離婚件数が二〇〇二年度の総数二八万九八三六件をピークとして減少を始めた。離婚件数増加の原因でもあった熟年離婚の増加が減少へと転じた。なかでも結婚期間二〇年以上の夫婦による離婚が約四万五〇〇〇件から四万二〇〇〇件へと激減した背景には、新設され二〇〇七年四月に施行される離婚時の年金分割制度と二〇〇八年四月からの第三号分割制度待ちの熟年妻たちがいる。

「再来年に離婚しようと思ったら、いつから離婚の話し合いとか調停を始めたらいいのかしらねぇ」
 五七歳専業主婦の妻は頬づえを突いて空を見る。彼女は一歳年上の夫と一〇年近く前から会話がなくなったのが寂しくて、二〇〇七年四月一日から施行される「離婚時の年金分割」のタイミングに合わせて離婚を行いたいと望んでいる。
 離婚の話し合いは彼女の心配通りかなりの時間がかかるため、一年半前のこの時期からタイミングを計るのは間違いとはいえない。相談を受けている実感では、夫婦の話し合いだけで離婚届に署名押印して役所へ届ける協議離婚には一年から三年を要する。その間に業を煮やして夫婦いずれかが第三者の介入を求めて家庭裁判所へ離婚調停を申し立てた場合、ほぼ月一回開かれる調停は離婚成立までに六回から八回行われて決着することが常であるため、盆暮れの調停休み期間を含めると一年近くかかる計算となる。
 さらに会社員の夫は二〇〇七年に定年退職を迎える。彼女は財産分与として夫の退職金半分を請求する予定でもある。
 これが「夫婦の二〇〇七年問題」だ。
 熟年妻たちが団塊世代の夫たちが定年退職する時期と年金分割新法の施行を視野に入れ、いや、明確にその時期を狙って離婚計画を練り始めたのは二〇〇四年の年金改正から始まっていた。個別の離婚相談だけでなく、離婚の学校講座の中でも度々質問を受け回答してきたため、いつの間にか年金問題に詳しくなってしまった。
 離婚時の年金分割の基本的な仕組みを復習しておこう。
・離婚当事者の婚姻期間中の厚生年金(共済組合)の保険料納付記録を、離婚時に限って当事者間で分割が認められる。
・施行日以降に成立した離婚が対象。ただし、施行日以前の婚姻期間中の厚生年金の保険料納付記録も分割対象。
・分割割合は二分の一が上限。
・離婚当事者の協議で分割割合について合意のうえ、厚生年金の分割を社会保険事務所に請求する(共済組合期間は各共済組合)。ただし、合意がまとまらない場合には離婚当事者の一方の求めにより裁判所が分割割合を定めることができる。
 これが二〇〇八年四月からはさらに「第三号分割」として双方の合意は不要のまま会社員等の第二号被保険者から専業主婦である第三号被保険者への保険料納付記録の二分の一を離婚時に限って分割することができる。
 これを聞いて相談者の顔が明るくなる。
「あらまあ、じゃ、再来年の離婚じゃなくて、もうあと一年待ったほうがお得かしら」。なるほど、彼女は退職金と年金の一挙両得を望んでいる。ところが私は、熟年離婚を一度は止めてさしあげることにしている。毎月約八〇人の相談を行うなかで、離婚を勧めることも止めることもせず、ただその人自身が決めることのできるよう問題点の整理を行い必要と思われる情報を渡し決定を促し待つことのみを行うが、熟年離婚だけは情報を渡した後、一度は止めてさしあげる。
 熟年離婚なんて妻たちが憧れるほど素敵なものではない。さらにいえば、彼女が望むようなお得感はない。さも専業主婦の味方という顔をしている離婚時の年金分割は、基礎年金ではなく報酬比例部分の二分の一が上限である。二〇〇八年まで待ったところで、同年四月以降に納付した保険料が対象であるから現在の熟年妻には無関係な話だ。
 もしもあなたの妻が年金分割を目当てに離婚を望んでいるなら、社会保険労務士事務所で離婚時の年金分割額を尋ねるようアドバイスしてほしい。予想していたより少ない金額の提示に彼女たちはがく然とするだろう。
 そのうえで「遺族年金」の説明もしてあげよう。離婚裁判をしたって年金分割は二分の一だけど、遺族年金は争わなくても四分の三が受け取れるんだよと優しく伝えてほしい。

◎――――エッセイ

美人のもと 第2回

美人のもと

西村ヤスロウ

Nishimura Yasuro
1962年生まれ。株式会社博報堂 プランナー。趣味は人間観察。著書に『Are You Yellow Monkey?』『しぐさの解読 彼女はなぜフグになるのか』など。

*テーブルの下

 レストランで周囲を見渡すと、「美人のもと」が減っている瞬間を目撃することが多い。雰囲気のいいレストラン、おいしそうな料理、一定のドレスコード……。それなのに、そこで「美人のもと」が減っていく。
 食事というのはとても本能的なものであり、人間が人間らしく振舞う時だ。だからこそ、好きな人と一緒がうれしい。そして、今日も今頃どこかの男が「食事でもどう?」と誘っているはずだ。
 その本能的な時こそ、自分というものが出てきて、油断すると「美人のもと」が減っていく。だが、緊張することはない。本能に従い、食べ物を口に運べばいいだけである。料理と向き合っていればいいのだ。そして会話を楽しめばいいのだ。
 ところがどうも料理と向き合っていないし、会話を楽しんでいない雰囲気の人が多くいる。何がその雰囲気をつくっているのだろう。それは姿勢だ。妙にテーブルから距離があって、前のめりになっている人、カラダが半身になっている人、不自然に傾いている人。
 たとえば、今やってみてほしい。前のめりになって口を開ける。閉じる。それを繰り返す。なぜかあごが出て、餌をほしがる魚のような顔になっていることに気づくはずだ。魚を食べているキミが魚になってどうする。
 なぜ、そんなに姿勢が悪くなるのか。テーブルの下にそのヒントがあるようだ。魚女はたいてい足を組んでいる。一瞬一本足に見えるのだ。一本足魚。怖い。足を組んでいるから、その分テーブルからの距離が出てしまうのだろうか。
 一本足になっていない人でも、足癖の悪い人は多い。なぜか片足だけ靴を脱いでいる。食事時をしながら、靴を蹴って遊んでいる人。靴をぶらぶらさせている人。そういう人はほとんどテーブルの上に見える姿勢も悪くなる。
 気をつけましょう、と言いたいが、別に気をつけないでいい。普通に座って普通に食事をする。それだけでいいと思う。本能に正直な姿は美しいはずだから。

*自転車

 前回、走り方を見て人が嫌いになることがある、という話を書いた。走り方以上にがっかりすることが多いのが自転車だ。自転車は「美人のもと」を吸い取る危険な乗り物なのかもしれない。一気に美人のもとが減っていき、10%以下になってしまったヒトケタさんになる可能性もある。
 美人は自転車に乗らないのだろうか。たしかにその危険を察知して、乗らないようにしている人もいるようだが、実際には颯爽と自転車に乗る美人は街で多く見かける。
 自転車の乗り方ひとつで「美人のもと」を守る、もしくは増やすことができるのだからきちんと乗りたい。そう、きちんと乗ればいいのだ。それだけだ。
 自転車にもきちんと向き合いたい。別に高い自転車に乗れと言っているのではない。安い自転車でも素敵なものはたくさんあると思う。問題は自転車のようなありがたいものを適当に扱っていないかということだ。あなたの自転車汚くないですか。まるでどこかで盗んだもののように。自転車は油断すると汚れてしまうのだ。たまにはきれいにしてあげてほしい。
 そして、きちんと調整してほしい。一番重要なのはサドルだ。あなた、サドルの位置、デフォルトではないですか。売られていた時の高さでしょ、それ。
 自転車は売られている時、たいていサドルは低い位置にある。やさしい自転車屋さんなら、きちんと合わせてくれるのだが、そのままの場合が多い。それを調整していれば、自転車は「美人のもと」を吸い取ったりしなくなるのだ。
 ヒトケタさんの自転車はサドルが低い。調整にも気をつけてほしい。せっかく調整するのだから、乗りやすい位置にしよう。あくまでも乗りやすいだ。座りやすいではない。座りやすい位置は安定を求めて、下へむかってしまう。それは乗っている姿を台無しにする。低いと漕いでいるときに膝が苦しいくらいに曲がりっぱなしになり、それでも漕ぐから「必死」な足になる。一方、美人の自転車は足が自然に回っているように見える。 
 クルマばかりに頼らず、自転車に乗ろう。健康になる。そして乗る前に、サドルの位置を確認しよう。できるだけ、上へ、上へ。

◎――――エッセイ

優れた投資家に
共通する習慣

望月 衛

Mochizuki Mamoru
京都大学経済学部卒業、コロンビア大学ビジネス・スクール修了。大和證券(株)を経て、現在大和証券投資信託委託(株)審査部で投資信託のリスク管理、パフォーマンス評価、およびデリバティブの評価・分析等に従事。CFA、CIIA。
訳書に『クレジット・デリバティブ』(東洋経済新報社)、『バブル学』(日本経済新聞社)、共訳に『大投資家ジム・ロジャーズが語る商品の時代』(日本経済新聞社)、『天才数学者、株にハマる』(ダイヤモンド社)等がある。

 世の中には人物評のうまい人という人種が存在する。タイプはいろいろであり、印象的なキャッチフレーズ一つで周囲を頷かせる人もいれば、評価対象の人の言動から彼(女)の頭の中を流れる風景を詳細に説明してみせ、さらに彼(女)の思想なり習性なりが生じた原因を生まれ育ちにまでさかのぼって語る人もいる。何事かを理解しようというとき、そうした「評論家」族の人たちはしばしば役に立つ。本書の著者マーク・ティアーはそういう形で「人様のお役に立つ」人種に属するようだ。

戦略と手法の背後にある
共通の要素に注目

 ティアーは香港在住のオーストラリア人で、長年投資助言やコンサルティングを生業としてきた人である。本書でティアーは、ほぼ誰もが同意する現代最高の投資家二人、ウォーレン・バフェットとジョージ・ソロスを取り上げ、両者を比較することで、投資を成功させるために必要な要素を抽出している。
 通常、こうした「偉大な投資家の話」は、多くの人物のエピソードをそれぞれ大まかに取り上げるか、あるいは一人だけを詳細に論じるかのどちらかだが、本書の切り口はそのどちらとも違うユニークなものである。つまり、一見タイプのまったく異なるバフェット(バリュー投資家)とソロス(トレーダー)の、それぞれ互いに大きく異なる投資戦略や投資手法よりもさらに背後にある共通の要素は何かをテーマとしているのである。

成功の鍵は何か

 また、優れた投資家やトレーダーについて述べた投資本は、通常、彼らの成功を?やり口と?才能のどちらかに帰して語ることが多い。?の場合、具体的な取引戦略が成功の鍵だということになる。たとえばバフェットなら「バリュー投資」がキーワードだ。言い換えれば、この種の投資本の主張が正しいのならば、バリュー投資をちゃんとやれれば誰でも成功できる、はずである。一方、?のタイプの本は、いわゆる「えらいひとのおはなし」であって、突き詰めれば生い立ちや家系が成功の鍵ということになる。この場合、本を読んでも「えらく」はなれない。
 本書におけるティアーの立場はそのどちらとも異なっている。人にはそれぞれ合ったやり方というものがあり、それをどうやって見つけるか、そしてその自分に合ったやり方に正しく固執できるかが成功の鍵であるという。さらに、自分のやり方に固執するためには具体的な手続きが必要であり、本書はそれを「習慣」と呼ぶ。

優れた投資家の習慣を身につける

 科学と科学でないものの区別は、反証可能性だとする立場がある。本書でもソロスを論じる際にたびたび登場するカール・ポパーが打ち立てた考え方だ。たとえば物理学などで何らかの発見が発表されると、他の研究者が同じ実験を行っても同じ結果が得られるかどうかを見る追試が行われる。投資の世界で言えば、これは「言う通りにやれば言う通りの結果が得られるか」という問題に相当する。つまり、優れたパフォーマンスを上げている投資家がいたとして、もし、他の人もその投資家がやっている通りのことがやれて、その投資家同様の優れたパフォーマンスを上げることができるならば、それは追試を行った結果、(本書でも使われている表現を用いるなら)仮説が追認されたということであり、また、そういった手続きが行えるならば投資は科学だということになる。その意味で、本書の立場は「投資は科学だ」である。

バイブルを読めば
ジーザスになれるか

 同様の問題に「バイブルを読めばジーザスになれるか、あるいは仏教経典を読めばシッタルダになれるか」がある。つまり、自然科学の場合、偉大なる先人の業績を学び、彼らの研究結果なり論証過程なりを理解できれば、その先人の到達点から自分の研究を始めることができるが、それは他の分野、たとえば投資(なり宗教なり)でも可能かということだ。
 著者の答えは先に述べたように「イエス」だが、あとがきによれば、これはNLP(神経言語プログラミング)の考え方に基づくものであるようだ。訳者は著者がマスターしているというNLPについてほとんど何も知らないが、部分的には「誰か人間がやっていることならそれを体系化することができる」、かつ「体系化できるならばそれを他人が用いることもできる」という主張をしているように思える。
 前述の?の場合に、それじゃ一般投資家たる読者は人生をやり直さないと成功できないのか、という感想をしばしば得るが、本書の場合そうした身も蓋もなさはない。「宗教」とは違うわけだ。なぞらえて言うなら、ティアーの主張は「自分に合ったやり方で正しく神を称えよ」である。
 以上のような本書の切り口は投資や金融に関する限りあまり例を見ない。日常生活ではやりたいことをやりたいように、とか好きこそものの云々といった「思想」がよく語られているが、投資のやり方として「自分がよく知っているものに投資しろ」以上の形で語られることは少ないし、ましてやそのために手続きが必要だというのはユニークな視点である。バフェット・ファン、ソロス・ファンならずとも楽しめる内容になっていると思う。


書籍

マーク・ティアー 著 望月衛 訳
●定価1890円(税込み)●4-478-63110-7 ●364ページ

◎――――エッセイ

ワタシだって
不安なんです

小堺桂悦郎

Kozakai Keietsuro
資金繰りコンサルタント。金融機関の融資係、税理士事務所勤務を経て、
(有)小堺コンサルティング事務所を設立。著書に「借金バンザイ!」など。

初めての告白

 正直に告白しよう。これまで決して口に出して言ったことはないし、こうして文字にしたこともない率直なワタシの告白である。
 ワタシはコンサルタントをしている。その分野は資金繰り。つまり、お金のやり繰り、もっと言うと、銀行からお金を借りる相談だ。
 はっきりいって重たい相談である。そりゃそうだ。一歩間違うと、「倒産」の二文字が脳裏をかすめてしまうような経営状態の場合が多い。
 その相談の甲斐があり、無事に銀行から融資がOKされた場合の相談者からの声というのにはなんともいえないものがある。
「おかげさまで借りられました!」とか、あるいは「やっと(融資が)出ました!」といったある種、感極まった声がよせられる。
 その際のワタシの対応はいたって淡々としたものである。そりゃこのワタシがコンサルしたんですから当然じゃないですか…。別に驚くようなことじゃありませんよ…。まるでそう言わんばかり落ち着いた応対をする。
 でも、相談者の方からそういう安堵の電話をいただいたときの本当の心境は違う。
(ハァー…よかったぁ…)か、(ウソ! マジ? ほんとに出たの?)である。
 だってそうでしょう。別にワタシが銀行の審査をしているわけじゃないし、ワタシが何か推薦状でも書いて、それを銀行に持っていくと融資が出る取り決めでもあるわけじゃない。
 実は、ワタシは金融界ではフィクサーか何か裏側の世界で超有名人で、電話一本で融資が出る、ってわけではもちろんない。

債務超過どころじゃない!

 それにそもそも、相談にくる会社の決算書を見れば、これまで倒産しなかったのが不思議なくらい悪い業績だし、債務超過なんてキレイな言葉じゃ表現が足りないくらいの借金の多さなのである。
 おそらく少しでも経理の心得のある人が見たら、皆さじを投げ出したくなる状態だ。当然、顧問の税理士さんにも見放されているか、あるいは相談できない状態だ。でなきゃ、わざわざワタシの著書を読み、電話をかけて、あるいは直接足を運んで相談にくる理由がない。
 そういう理論上はとうに倒産した状態でありながらも、そこからまたさらに借りるか、あるいは返すのを待ってもらうかをしなければならない。
 なのに、だ。いったん相談された案件は、ほとんどすべて結果を出している。ほとんどすべてというのならば失敗もあるのか? 聞き返したくなるでしょう? 失敗、つまり銀行交渉がうまくいかなった場合、それはある。でもその理由は、相談者が途中であきらめたケースに限られるのではないか?
 ワタシはもう何年もこういうコンサルだけをやり続けている。毎回、新たな相談がくるたびに、ハラハラドキドキしている。
 そして、うまくいったという報告を受けてワタシも安堵するわけだが、そのたびに内心思う。よく銀行に通ったよな〜、と。
 確かに、相談者の人も資金繰りや計画を書いたりして頑張った。
 だけども、だ。どれほど資料を作ったところで、過去の数字だけで判断したら、融資が通るわけはないのである。もっというと、そもそもそこまで貸してくれてたのは銀行なのである。

よくぞ貸してくれました

 イヤな言い方かもしれないが、「よくぞ銀行さん、そこまで貸してくれましたよね」というくらい貸してくれていた。
 ワタシの新刊「借金の王道」というのは、そういったワタシの率直な感想が実はベースになっている。こうすれば借りられるから! みたいにふだんは強気に言ってはいるものの、内心はワタシだって不安なのである。
 では、なんとか倒産の危機を乗り越えることができた相談者の方と、ワタシ、そして銀行、そこにいったい何があったのかを書きしるしたのがその「借金の王道」である。
 ただし、一応、ビジネス書ではあるので、理屈っぽく書いてますが…。ホントはおっかなびっくり相談に乗ってることは内緒にしておいてください。


書籍

小堺桂悦郎 著
●定価1500円(税込み)●4-478-47077-4 ●320ページ

◎――――連載

気になるキーワードを徹底研究
ビジネスマンのための健康ラボ 第2回

【PET検診】

話し手 松井宏夫

Matsui Hiroo
取材協力
株式会社メソッズ http://www.methods.jp

がんの早期発見のための検診が増加

 八月に出された厚生労働省研究班による?健康診断の効果?についての報告書は、X線撮影に肺がん発見の有効性はないなど、厳しい判断を示した。そこで注目されるのが、PET検診によるがんの早期発見だ。
 PETとは、ポジトロン・エミッション・トモグラフィー(陽電子放射断層撮影)の略で、がん細胞が正常細胞より多量のブドウ糖を摂取する特性を利用した検査だ。ブドウ糖に放射性物質を合成した薬剤をあらかじめ注射し、一時間後にPETカメラで撮影すると、がん細胞はブドウ糖を盛んに取り込むため、その部分が放射性物質の反応によって光って写し出される。一センチ前後の小さながんも確実に捉えるので、がんの早期発見に役立つ。
 日本では、二〇〇二年にがん診断などに保険の適用が認められてから、PETを設置する病院・施設が増えてきた。PET施設の立ち上げと運営の支援を行っている株式会社メソッズによると、二〇〇〇年には数施設でしか行われていなかったPETの一般検診が、現在では五〇カ所の施設で実施されているという。
 一般検診では保険が適用されないので、検査料はPET検査のみでも八万円前後とかなり高額になるが、苦痛なく一度に全身を検査でき、がん発見の成績もよいということから、利用する人が増えている。「PET検診沖縄ツアー」などと銘打ったツアーが、旅行会社各社によって企画されるほど注目度が高くなっている。
 年間一〇〇万例が実施されている先進国アメリカでは、術前のがんの進行度チェックや化学療法の効果判定、再発のフォローアップなど、臨床現場でPET検査が使われることが多い。日本も今後、がん検診としてのPET検査とともに、がん治療でもPETの利用が増えていくものと思われる。

●ご意見・ご感想はこちらまで…healthy@diamond.co.jp


書籍

◎――――エッセイ

企業価値を創造する
会計指標の役割

大津広一

Otsu Koichi
一九八九年慶應義塾大学卒業。米国ロチェスター大学経営学修士(MBA)。富士銀行、バークレイズ・キャピタル証券、ベンチャーキャピタル等を経て、株式会社オオツ・インターナショナル代表。米国公認会計士。グロービス・マネジメント・スクール講師。

「企業価値」の本質を議論する

 二〇〇五年二月にライブドアがニッポン放送株を約三五%取得したことに始まる、フジサンケイグループとライブドアの株式取得合戦は、結局わずか二ヵ月後の四月一八日に両社和解で決着しました。一連の騒動についての賛否は分かれるところですが、この騒動のひとつの肯定的な評価として、日本企業や投資家の「企業価値」への関心が高まったと言われています。
 しかし、本当にそうでしょうか。高まったのは、企業価値を奪われないための様々な買収防衛策の議論だけの気がします。いわば戦略なき戦術、しかも企業価値を向上するための戦術ではなく、企業価値を奪われないための小手先の対処策が先行しています。
 企業価値とは一体何でしょうか(=WHAT)。なぜ企業は企業価値を高める必要があるのでしょうか(=WHY)。企業価値が向上すると何が良いのでしょうか(=SO WHAT)。そして、企業価値を高めるために、各企業は具体的に何を目標として企業活動を行っていくべきなのでしょうか(=HOW)。少なくともこの四つの視点について明確に議論されることなく、やみくもに「企業価値の向上」という言葉が使われている現在は、あまり健全な姿とは思えません。
 企業価値を高めることが企業経営に不可欠ならば、それが声高に叫ばれるのは間違ったことではありません。しかし、企業価値という言葉は、一般には抽象的であり、また難解なものです。こうした言葉が先行するほど、大切な中身の議論が曖昧になるばかりか、本当に企業価値が向上したか否かの判断すら難しくなってしまいます。
 では、企業はいかにして企業価値を高めていけばよいのでしょうか。その判断基準となる代替指標として何を用いればよいのでしょうか。この役割を担うのが、会計指標です。
 会計指標は「企業価値向上」のベンチマークとなります。株価に比べて、景気動向に大きく左右されず、企業が十分にコントロールできる指標です。企業は適切な会計指標を目標に掲げることで、自社の向かうべき道筋を明らかにできます。一方、投資家をはじめとするステークホルダーも、その企業が何を目標としているのか、目標水準は妥当なのか、その実現によって本当に企業価値が向上するのかを、具体的に検証する足がかりを得ることができます。

会計指標を経営の視点から捉える

 本書は、会計指標を経営の視点から理解し、活用していくことを目的としています。通常の会計書では、会計指標の解説の後で同業他社との比較を行い、その意味合いについて考察するのが一般的です。しかし、経営の視点から会計指標をとらえるならば、着目すべき会計指標を選択する段階で、すでに十分な考察が必要となるはずです。会計指標を選んだ後も、目標をどの水準に設定するか、その目標を達成するためにどんな方策を取るか、など企業側の課題は多いものです。これを裏付けるように、各企業は中期計画の中で特定の会計指標を選択して経営目標に掲げ、ステークホルダーに公約し、その達成に向けて企業活動を行っています。このように、会計指標ありきではなく、企業ありきの視点から会計指標を考察することで、企業の実態をつかむことも可能となります。
 本書では、多くの企業が経営目標として採用している一〇の会計指標を詳しく紹介しています。各指標の算出方法、読み方、日米企業の指標推移、その指標を目標に掲げる意義、そして分析のフレームワークまで、実務と経営分析に必要とされる知識を体系的に収載するように努めました。また、武田薬品工業、日産自動車、ウォルマート、花王など、日米の有名企業をケーススタディに取り上げることにより、具体的な企業を介して会計指標を理解できるように心がけました。
 著者は長らく社会人のマネジメント教育に携わり、これまで数千名におよぶビジネスパーソンに対して、会計、財務に関わる講義を行なってきました。本書の執筆に際しては、実際のクラスという場で受講者と交わしてきた数多くの議論を思い起こしながら、会計指標について読者が本当に知りたいところを、余すところなく書き上げたつもりです。単なる「会計指標の学習書」ではなく、会計と経営のつながりを分かりやすく、楽しく学ぶ機会を提供できるものと自負しています。

掲載指標とケーススタディ企業

ROE(武田薬品工業・トヨタ自動車)
ROA(ウォルマート)
ROIC(日産自動車)
売上高営業利益率(ソニー)
EBITDAマージン(NTTドコモ)フリー・キャッシュフロー(アマゾン・ドットコム)
株主資本比率(東京急行電鉄)
売上高成長率(GE)
EPS成長率(花王)
EVA(松下電器産業)


書籍

大津広一 著
●定価3780円(税込み)●4-478-47076-6 ●376ページ

◎……著者が語る

『たった40パターンで英会話!』

書籍

ニック・ウィリアムソン 著
●一五〇〇円(税込み)●4-478-98080-2

ニック・ウィリアムソン

Nic Williamson
オーストラリアのシドニー出身。いくつかの英会話スクールや大学、企業研修を掛け持ちし、独特の教え方と説明の分かりやすさで英語ファンの心をつかむカリスマ講師として活躍中。

口から英語があふれ出てくる!

 私は中学から日本語を学び始めました。高校二年生の時に修学旅行で二週間来日した経験から外国語を学ぶ大変さを知り、そしてその習得のコツを完璧につかんだことから語学教育に興味を抱き、シドニー大学で心理学を専攻しました。大学で言葉を覚えるメカニズムなどを学んだ後、来日。以来、英会話スクールで英語を教えています。
 その経験を通して日本人に英語を教えるコツを覚え、集大成としてまとめた初の著作が、この本です。
 あなたがもし「中学英語の単語」を知っていて、本書で紹介する40のパターンを覚えれば、必ず「短期間で英語がペラペラ」になります。信じられないような話ですが、冗談ではありません。ダマされたと思って、まずは本書を楽しみながら読むことから始めてみてください。
 私の友人はみんな?単語を山のように暗記し、?多くの英語本を購入し、?英語関連の試験を何度も受験し、「ネイティブのように話したい!」と言いながら、涙ぐましい努力を続けています。そんな友人たちが、決まって「ネイティブと話していると、言いたいことがなかなか出てこなくて……」と言うのです。
 彼らへの私の答えはシンプル。
「それは英語の基本ができていないからだよ」
 ならば、どうすれば英語の基本ができるのか? それは簡単。
「基本パターン40を覚えて、あとはそれを使いまわす」
 英語がペラペラになるためのコツはたったこれだけです。パターンが頭に入っていれば、連鎖的にいろいろな表現が「あふれるように」口から出てきます。「言いたいことが出てこない」病があっという間に治ることでしょう。
 この本には、アメリカやイギリスの二〇〇本以上の映画の台本を分析して、一番よく出てくるフレーズや決まり文句を集めました。ここでご紹介するフレーズを覚えてそのまま使えば、あなたも「超ネイティブ英語」で日常会話ができるようになります。


著者近影

◎――――エッセイ

判断力と決断力 第1回

二人の首相の判断力(1)

田中秀征

Tanaka Shusei
1940年生まれ。東京大学文学部、北海道大学法学部卒業。93年、新党さきがけを結成、代表代行。首相特別補佐、経済企画庁長官等を歴任。現在、福山大学教授。著書に『日本リベラルと石橋湛山』など多数ある。

政治家にとって不可欠な“判断力”と“決断力”。本連載は、この二つの能力の有無が運命を変えた事例を取り上げ、政治家に必要な資質を探る『判断力と決断力』〈二〇〇六年刊行予定〉の一部を先行してご紹介するものです。各回のつづきは同書に収録されます。

 第二次世界大戦は一九三九年九月一日、ドイツ軍の電撃的なポーランド侵攻により始まったとされている。その二日後、イギリス、フランス両国は、ヒトラーのドイツに対して宣戦を布告した。
 一九四五年に終結するこの大戦は、アジアとヨーロッパで約五五〇〇万人のおびただしい犠牲者を出した。しかもその犠牲者はアメリカなど一部の国を除けば、ほとんどの国で兵士より婦女子など一般市民の数が上回るものであった。
 大戦期にイギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルは、後にこの大戦を“無用の戦い”と断じている。
「先の戦争(第一次大戦)を経てもこの世界にまだ残っていたものを破滅させてしまったこの戦争くらい、押しとどめるのが容易だった戦争はかつてなかった」
 チャーチルは大戦回顧録の中でそう悔んでいる。彼のこの言葉は、開戦前のさまざまな危機的局面に居合せた指導者たちの無能ぶりとその責任をあらためて問うものだ。とりわけチャーチルの矛先きは、最終局面でのイギリス首相チェンバレンとフランス首相ダラディエに向けられていると言ってよい。

歴史を変えた四人の指導者

 ナチス・ドイツのポーランド侵攻のちょうど一年前の一九三八年九月二九日。ヒトラー(独)、チェンバレン(英)、ダラディエ(仏)、ムッソリーニ(伊)の四カ国首脳がドイツのミュンヘンで会談した。チェコスロバキアのドイツ人居住地区(ズデーテン地方)のドイツへの割譲を要求してきたヒトラーが、ついに一〇月一日という期限つきで、戦争か割譲かの二者択一を迫ったためである。それによって、英仏のみならず、ヨーロッパ全体に戦争必至の緊迫した空気が漲っていた。そのチェコスロバキア問題を打開するため急拠設けられた会談であった。
 だらだら続いた会談の末、翌九月三〇日の午前一時過ぎ、ドイツの“最後の領土要求”という言葉を信じ、四首脳はズデーテン地方の割譲を認める“ミュンヘン協定”に署名した。ドイツ軍は協定により、翌一〇月一日進駐を開始し、戦火を交えることなくズデーテン地方を占領した。
 このミュンヘン会談は、その後の大戦への流れを押しとどめる最後のチャンスであった。すでに、戦争か平和かの選択は無理であったが、大きな戦争か小さな戦争かの選択は充分に可能であった。大火事かボヤかの帰趨はこのミュンヘンで決まったのである。
 ミュンヘン会談の舞台の主役になった四人の指導者の判断と決断は、その後の世界史の流れに決定的な影響を与えた。特に、ヒトラーに翻弄され、なす術もなく屈服したダラディエ仏首相とチェンバレン英首相の政治家としての資質は、今もって歴史の厳しい審判にさらされている。

ダラディエの苦悩

 会談後ミュンヘンで仮眠したダラディエは、午後三時半には空路パリへ向かった。ミュンヘン協定の重大な意味を理解していたダラディエにとっては、帰らなくてもよければ帰らないですませたいような気の進まない帰途であった。
 ダラディエを乗せた飛行機が、ル・ブルジェの空港に着陸しようとしたとき、眼下に大群集が待ち構えている光景が目に入った。これに驚いたダラディエは着陸をためらい、とっさに上空をしばらく旋回するよう操縦士に命じた。
 彼らは怒り狂っている。ダラディエを叩きのめすために待っている。そう彼は受け取った。街頭に操り出し空港や沿道を埋め尽くした数十万人の人々。彼らはダラディエが署名したミュンヘン協定に猛然と反発し、その抗議のため立ち上がった――当然のように彼はそう理解した。そしてその大群集の怒りを少しでもなだめようと、上空の機内で弁明のためのメッセージを書き始めた。
 ところが何回も上空を旋回するうちに、彼は機内から見下ろす群集の様子がおかしいことに気づく。明るい笑顔、飛行機に向かって打ち振られる手。どうみても敵意や怒りの表現ではない。それどころか、歓迎、それも熱狂的な歓迎を示すものに違いないのだ。
 意外なことに、大群集は、ダラディエのミュンヘンでの仕事の結果に、彼の予想とは正反対の反応を示したのだ。
 安堵したダラディエは、弁明文の起草を中止し、直ちに着陸を命じた。そしてフランスの宰相としての威信を取り戻して空港に降り立つと、弁明ではなく自讃のメッセージを発した。
「私は、この協定はヨーロッパの平和にとって欠くべからざるものであるとの深い確信をもって帰ってきた。われわれは互譲と緊密な協力の精神をもってこれを達成した」
 空港からパリ市街への帰り道。これで平和が保障されたと狂喜乱舞する沿道の大群集。冷めた目でそれを見やりながら、彼は随行者にこうつぶやいた。
「馬鹿どもが、彼らは何のために歓呼しているのか知らんのだ」
 彼はミュンヘンでのヒトラーとの合意が決して平和の到来を意味するものではなく、逆に大戦争への起点になることを知っていた。
 その後の歴史の経過は、彼の判断の正しさを証明して余りある。
 ミュンヘン会談の“成果”を見誤ったのは、街頭に溢れた一般市民ばかりではない。政府も議会も新聞もことごとくミュンヘン会談の“成功”に酔いしれた。
 ダラディエ帰国の四日後。一〇月四日にフランスの下院は、賛成五三五対反対七五の圧倒的多数でミュンヘン協定を承認。反対は共産党の七三名と他に二名であった。
 新聞各紙もミュンヘン会談の偉大な成果を讃え、競ってダラディエやチェンバレンを歴史的英雄に仕立て上げようとした。
 前首相のレオン・ブルムまでが新聞紙上でこう語っている。
「フランスには、ネビル・チェンバレンとエヅアール・ダラディエに、彼らの当然受けるべき感謝の言葉を与えることを拒む男女は一人としていないだろう。われわれは戦争を免れた。災厄は後退した。生活は再び自然に戻れる。人々は再び働きかつ眠れるようになる。秋の陽光の美しさを楽しむことができる」
 しかし実は、このとき災厄は避けがたいものとなり、平和は風前の灯と化しつつあったのだ。

判断力を欠くチェンバレン

 チェンバレン首相の帰国を迎えたイギリス国民の反応も同じであった。ただ、チェンバレンとダラディエの決定的な違いは、チェンバレンがミュンヘン協定による平和の確保を信じて疑わなかったこと。おのれの判断の正しさを確信していたのだ。
 だからチェンバレンは、ダラディエと違って一刻も早くイギリスに帰りたかっただろう。上空を旋回するなぞもっての他。着陸前に歓迎の渦の中に飛び降りたい心境だったかも知れない。
 ロンドンで彼を熱狂的に迎えた数十万人の群集に向かって、彼は「私は名誉ある平和を土産にして帰った」と高らかに宣言した。
 そして、チェンバレンは、ミュンヘン協定に加えて、もう一つの“”大きな成果”も持ち帰っていた。それを示す一つの文書を彼はもったいぶって群集に見せびらかしたのである。
 彼は、ミュンヘン協定に署名後、数時間の睡眠を経てミュンヘンの私邸にいたヒトラーを探し出して会談した。彼はそこで用意してきた文書をヒトラーに示して賛同を得た。その”英独協定”こそ、チェンバレンの自慢の文書であった。
「私たち、ドイツ国総統兼宰相と英国首相は、本日重ねて会談し、英独関係の問題は、両国とヨーロッパにとって第一の重要性を持つことを認めることにおいて意見が一致した。
 私たちは昨夜署名された協定と英独海軍協定を、再び断じて相互に戦争に訴えないという両国民の希求の象徴と認める。
 私たちは協議の方法が、われわれ両国に関するその他いっさいの問題を扱うにあたって採用されるべき方法であることに合意し、意思対立の根源となり得るものを除去する努力を続け、そうすることによってヨーロッパの平和確保に貢献する決意である」
 この英独協定によって、もはやヒトラーは侵略はしない。したがって戦争はない。そうチェンバレンは確信したのである。
 この文書に署名するとき、ヒトラーは一瞬躊躇したかに見えた。ヒトラーは喜びを押し殺し、チェンバレンに押し切られたような印象を与えることが得策だと考えたのだろう。こんな文書ならいくらでもサインしてやる。それにしても愚かな男だ。ヒトラーのチェンバレンへの軽侮の念は決定的になった。
 後に明らかになることだが、このときすでにヒトラーとムッソリーニは、やがて時期が到来すれば、イギリスとフランスに対して共に戦うことを約束していたのである。
 チェンバレンが空港で高々と掲げたヒトラーとのこの合意文書は、彼の歴史的業績の記念碑となるどころか、逆に彼の歴史的大罪の動かぬ証拠となったのだ。
 チェンバレンが空港から首相官邸に到着すると、「素敵な良い男のために」という歌が鳴り響いた。彼が窓から姿を見せると群集が大喝采で迎える。彼は微笑を浮かべ、おうように見渡すと威厳に満ちた口調で演説をした。
「わが友よ、ドイツからダウニング街に名誉が戻ってきた。われわれの時代の平和は確保された」
 イギリス国民のミュンヘン協定に対する熱狂的歓迎はフランスと同様であった。老婦人たちは政府に対してこんな要請もしたという。
「チェンバレンの傘を小さく切って、その断片を聖遺物として買い求められるようにしてほしい」
 イギリスの下院は一〇月三日、三六六票対一四四票でミュンヘン協定を承認。チェンバレンは議会でヒトラーの真心と善意について感謝の辞を表明した。
 マスコミの論調もフランスと変わらない。ザ・タイムスも最大級の讃辞を呈した。
「いかなる勝利者といえども、(チェンバレン)より高貴な月桂冠で飾られて戦場から帰還しただろうか?」
 確かなことは、チェンバレン首相とイギリス国民の判断力は同一水準にあったということ。ただ、何も判断材料を持たない国民と違って、チェンバレンにはあり余る判断材料があった。そして、何よりも状況を切り開く圧倒的な権限があった。
 しかし、その後イギリス国民の熱狂は、チェンバレンより速く冷めていく。悪魔にチェコといういけにえの子羊を差し出して難を免れた。それに気づいた民衆はうしろめたさにさいなまれるようになったのである。

◎――――連載

小説 「後継者」第18回

第8章 カゲロウの本領(1)

安土 敏

Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先の大手スーパー・プログレスを訪問した帰り、車中で謎の言葉を残し急逝した。プログレスの裏切りに続き、山田会長から持ち出されたプログレス傘下にフジシロが入るという提案。フジシロの役員たちは揺れる。緊急役員会議が開かれ、プログレス傘下に入るか否かについて話し合われた。守田社長一派は、傘下に入るつもりである。だが、一度は意思決定会議において「フジシロが正しい評価額で買い取られるなら会議の決定に従う」と発言した浩介だったが、土壇場で意見を覆す。「経営者として、専務として、父の遺志を継ぐ者として」独立路線を貫くことに浩介は決めた。プログレスとの関係は今後どうなるのか。浩介は一体どうやってフジシロを守っていくのか。

1

 生まれて初めて仕事のうえで重大発言をした浩介は興奮していた。
 プログレスとの資本提携を拒否して、断固、独立路線を貫くと、緊急役員会で宣言して専務室に戻ってきたのだが、ひとりデスクについても、何となく落ち着かない。例えば、社員たちが部屋に歓声を上げながらなだれ込んでくるとか、役員たちがやってきて「専務、ありがとうございます」と涙を流すとか、何か、そんなことがあってもよさそうなのだが、何も起こらない。デスクの上の書類を取り出して、読んでみようともしたが気が入らない。室内に置いてあるテレビのスイッチをひねったら、九州地方で水害があったというニュースをやっている。これも何か遠い出来事のような気がする。
 あれだけ頼んでいたのだから堀越取締役ぐらいはやってきてもよさそうだと思うのだが、これも顔を出さない。舞台の上で大見得を切ったのに、拍手が湧かない感じだ。
 仕方なく、部屋を出てみようかと思ったときに、電話が鳴った。
「浩介か」
 声で伯父の太一だとすぐに分かった。小柄な体にみなぎっているあの貫禄が声にもある。
「はい」
「お前、大丈夫なのか」
「はっ、何のことでしょうか」
「何のことって、プログレスの申し出を断ってやっていけると思っているのか」
「はあ?」
「上町サイトを失うだけではない。2階・3階が空き家になった中央店で、どうやって、プログレスの上町店と戦うのだ」
「それは」
 浩介は言い澱んだ。
「すぐに私のところに来てもらいたい」
「はい。すぐに伺います」
 浩介は受話器を置いた。
 早い。会議が終わってから、まだ25分しか経っていない。それなのに、太一は、先刻の会議の全貌を知っているばかりか、プログレスとフジシロとの関係についても、詳細に理解しているようだ。
 浩介は、スーパーの経営に関して太一にまったく話したことはない。太一は、浩介に継ぐ大株主ではあるが、すべてを浩介に任せてくれている。事実、スーパーマーケット経営に関しては、いままで一度たりとも意見を言ってきたことはない。浩二郎が死んだときに、浩介に「当面は守田君に社長をやってもらい、浩介は専務になって経営の勉強をするのがいい」と言っただけだ。
 それが一体どういう風の吹き回しだ。
 そもそも、だれがプログレスの件を太一に伝えたのか。
 太一との関係は、当然のことだが、甥の自分が一番近い。それ以外では、母、つまり浩二郎未亡人の初子を通して、開発の堀越から情報が伝わっているということもあり得る。太一の家の改修工事などは、フジシロの開発部出入りの工務店が施工しているから、別に初子を通さず、堀越が直接コンタクトをとってもおかしくはない。
 しかし、太一の口調が気になる。プログレスからの申し出を拒否したことに対して否定的なニュアンスだった。堀越からの情報に基づいているなら、今日の会議の結論はプラスのこととして伝えられるはずである。
 守田社長か。
 浩介の推理は、当然、そこに至った。
 守田は浩二郎と同級生だった。当然、浩二郎の兄の太一とも古いなじみだ。守田から話がいっても不思議はないが、これまで両者がそういう関係だとは感じたことがない。思惑と違ってプログレスとの提携が拒絶されそうなので、追いつめられた守田が太一のところに駆け込んだのか。

2

 藤代リリースの本社は、スーパーフジシロから車で5分もあればいける。太一社長の部屋に入ったとたんに、浩介の疑問に答えが出た。そこに守田社長がいたからである。
 太一の部屋は、デスクと応接セットだけが置いてある、きわめて実用的な社長室である。部屋の壁に大きな亀の甲羅がかかっているのが唯一の装飾物で、それが不釣り合いである。仕事のうえで恩義を感じた後輩が贈ってくれたのだと、太一が、いつか言い訳がましく説明していた。
 浩介を見ると守田は丁寧に頭を下げたが、無言だった。
「まあ、座れ」
 浩介は、守田の隣、太一と向かい合わせの長いすに座った。
「守田社長は、プログレス抜きでは、フジシロは生き残れないと言っている」
 太一はいきなり本題に入った。
「大丈夫です」
 浩介は、断言した。想定内の質問だ。ここに来る道すがら、この質問を受けたときには、断固、そう答えようと思ってきた。
「ほう、えらい自信だな。一体、どうやって生き残るつもりだ? プログレスは、スーパーの域を超えて、デパ地下風の店作りに挑戦しようとしている。それでも、浩介は勝てるというのかね」
「デパ地下風の店などは怖くありません」
「怖くないはずはないだろう。うちの家内などは、デパ地下に夢中だ。食い物に払う金など高が知れている。それなら、少しでもおいしいものを求めるのが当たり前だ。デパ地下には、フジシロでは売っていない珍しい商品やおいしい商品がいっぱいある。何時間いても飽きないし、お金もたくさん使う気になる。フジシロで売っている商品では、本物のカレーも手作りケーキも作れないそうじゃないか」
 浩介は反論しようとしたが、適切な言葉が出てこなかった。
「いつだったか浩二郎が亡くなって間もないころ、定例の報告のときに、私は守田社長にそのことを言ったのだ。フジシロもいつまでもいまのままではダメだ。当たり前の商材ばかりを置いているようでは生き残れない。デパ地下を勉強して、高級化・上質化の路線をとるべきだとね」
「定例の報告? それは何ですか」
「この人は、実に律儀でね」と太一は守田にちらと目をやった。
「社長になって以来、毎月、定期的に、わざわざここまで来てフジシロの状況を説明してくれる。それだけでなく、毎週、売り上げ状況などを電話で説明してくれる。おかげで、浩二郎が社長だったときより、私はスーパーに詳しくなった」
「なるほど、デパ地下風の売り場というのは、太一伯父さんの発案でしたか」
「いや、そういうわけでもない。私は守田社長にその話をして、検討課題にしてもらったのだが、最近、プログレスから売り場をデパ地下風に変えていくという話があったそうだ。それで、守田社長も乗り気になった。まあ、良識ある人間の見るところは一致する」
「専務、考え直してください」と守田が浩介のほうに向き直って、哀願するように言った。「フジシロのオーナー、フジシロの経営者、フジシロの従業員、この三者すべてが、プログレスとの提携によって、幸せになります。こんないい話は、いまをおいてはありません。それどころか、フジシロがプログレスのスーパーマーケット部門として抜きんでれば、プログレスの全国店舗網に出店する形で、ナショナル・チェーンにまで成長する可能性もあります。スーパーマーケット(食品スーパー)のナショナル・チェーンは、まだ1社もないんです。山田会長がフジシロに期待するのもそれゆえです。GMS中心で発展してきたプログレスの生鮮食品売り場は弱体です。いわば、プログレスのアキレス腱だと言っていいでしょう。フジシロによって、そのアキレス腱が補強できる。いわば、内臓移植です。GMSの食品売り場は、どの企業も強力とは言い難い。だから、もしフジシロがプログレスの食品売り場として成功すれば、それはすなわちスーパーマーケット日本一の座がフジシロに転がり込むことでもあるのです」
「私は、そうは思わない」
 浩介は体勢を立て直した。
「スーパーマーケットが対象にするのは、普段の食生活です。デパ地下が対象にしているのは、特別な食生活です。デパートの地下売り場なら、特別の食を扱ってもいいでしょう。実際、それが消費者の求めるものでしょう。でも、フジシロのような普通の住宅地にあるスーパーマーケットは、普段の食に絞るべきです。デパ地下大好きの光恵伯母さん(太一の妻)でも、実際に消費している食材は、そのほとんどをフジシロでお求めになっているはずです」
 太一の表情がちょっと変わった。ふーむと感心するような雰囲気で、攻撃的な態度が一瞬ひるんだように見えた。どうやら、浩介の言葉を真っ正面から受け止めたようだ。
「私には、自信があります。スーパーマーケットをゴルフと同じように好きになって、頑張ってみたいのです」
「ほう」と太一が目を瞠った。「流通論の美人ゴルファーの影響力はすごいな」
 浩介の心臓が縮んだ。守田が詠美のことを話したのだろう。詠美が浩介をゴルフで叩きのめしたこと、そして詠美の流通論によれば、デパ地下はスーパーマーケットとはまったく違う業種であり、従ってフジシロとプログレスとは提携する必要がないばかりか、提携は有害でさえあることなども伝わっているのだろう。
「驚いた。女は人生を変えるというが本当だな」
「伯父さん、そういうことではないんです」
「じゃあ、どういうことだね。ゴルフと美女が結びついたのだ。浩介にとっては、地獄に仏というか女神出現というか」
 浩介は未婚時代、つまり、いまから15年ほど前、行きつけのクラブのホステスに捕まってしまった。フジシロの跡取りであり、ゴルフ焼けしたスポーツマンタイプの若い浩介は、クラブホステスの人気の的で、女はそのひとりだった。結局、浩二郎がうまく処理したのだが、その話は、藤代一族内では有名である。太一には、その印象が強く残っていて「ゴルフと女が浩介の弱点」、というイメージが消えていない。
「理屈はいろいろあるでしょうが、現実問題として、フジシロはプログレスに勝てません。私は一体どうしたらいいか分かりません」と守田が泣かんばかりに言った。「専務、もう一度役員会を開いて、プログレスとの提携を決めましょう」
「それはダメです」
 不思議なことに、プログレスと提携しないほうがいいということが、浩介の頭のなかで、ひとつの信念にまで高まりつつあった。
 守田が定期的に太一に報告に来ていた。太一がフジシロの経営について、浩介にではなく、守田に意見を言い、守田はそれに従っていた。つまり、フジシロの役員会も、浩介も関係なく、フジシロの重要方針が太一と守田の間で決まっていたということか。
 俺は何と迂闊だったのか。 
 守田が社長になって以来、守田と太一が、フジシロの経営を実質的に牛耳ってきたのだ。
 そう感じて、浩介は意地になった。
「断固、独立路線を貫きましょう。守田社長、私は全力で仕事をします。もう芝虫などと言わせない。いや、ゴルフをやめるわけではない。ゴルフと同じようにスーパーマーケットもやります」
「うーむ」太一は、腕を組んだ。「ちょっと考えたほうがよさそうだな」
「これ以上の議論は無駄です。プログレスとの資本提携は行わないということを、フジシロの役員会が決めたのです。我々3人で、それを変えるわけにはいきません」
「だから、もう一度役員会を開いて……」と守田が言いかけたが、「失礼します」と浩介は立ち上がった。

 その夜遅く浩介の家に、太一から電話が入った。
「おもしろいことを発見した」
「何でしょう」と警戒する浩介に、太一は「あれからすぐに家に帰って、うちの家内の家計簿を、1年分、調べてみた。日常の食は、圧倒的にフジシロで買っている。デパ地下での買い物は、彼女が言うほど多くはない。女は、口で言うことと実際にやることとが違うな」と言い、声を上げて笑った。「浩介、君が言うとおり、日常の食生活のほうが大切だ。フジシロは日常の食品に絞ったほうがプログレスに勝てる。もちろん、君がゴルフ並みに仕事をすることが条件だがね」
「ありがとうございます。スーパーマーケットの虫になります」
「それから、守田君には、気をつけたほうがいい。できるだけ早く君が社長になるべきだ。君さえ異存がなければ、明日にでも、私から守田君に言おう」
「それは……」と浩介が言いかけたが、太一は「ほかに選択肢はない。早くしないと危険だ」と言った。
「危険?」
「私の第六感だ。彼は、完全にプログレスに取り込まれている」
「そう感じますか」
「おそらく守田社長は、プログレスがフジシロを釣り上げたときの成功報酬を約束されている」
「まさか」
「どうして、まさかなんだね?」
 返す言葉がなかったので、浩介は沈黙していた。
「プログレスの傘下に入っても、社長の地位は保証する。その上で、かなりの金額の報奨金が支払われる。そんなところだ」
「太一伯父さんは、いつ、そのことを感じたのですか」
「ついさっきのことだ。私の家内も、実際に消費している食材は、そのほとんどをフジシロで買っていると、お前が言ったときだ」
「どうしてですか」
「どうして? それは分からないなあ。お前の言葉でハッとした」
「どうすべきでしょうか」
「このまま守田をフジシロに置いておくわけにはいかないだろう」
「おっしゃる通りプログレスに取り込まれているのなら、そういう人がフジシロにいては困ります。しかし、証拠もないのに、辞めろとは言えません」
「ははな」と太一は笑った。「浩介も、妙なところで戦後的な民主主義者だね。フジシロは、国でも官庁でもなく、まったくの民間会社だよ。会社は、株主とその委託を受けたトップが自由に動かすのだ。誰を経営陣に加えるのか、誰を排除するのかは、法に触れない限り浩介の思うままにすればいい。裁判にかかるわけでもないし、選挙があるわけでもない。証拠もいらないし、皆の賛成を得る必要もない。つまり、浩介の思い通りに動かせ。だから、浩介が守田はいないほうが会社の業績にプラスになると判断するなら、そうすればいい。その結果、業績が悪化すれば、浩介、君は会社と運命をともにするのだ」
 太一の言葉がどかんと、浩介の胸の中に飛び込んできた。
 フジシロは、中堅とはいえ店舗数30を数える企業である。パートタイマーまで入れると、数千人が働いている、地場での有力企業である。それを思い通りにしろという。浩介の気に入らない人間なら、証拠も何もなく辞めさせていいと言うのである。
 私企業とはそんなものか。戸高カントリークラブの会員にだって入会資格がある。ハンディキャップひとつ理事長が勝手に決めるわけにはいかない。
 浩介の目に、会社がそれまでとは違って見えてきた。
 不思議なのは、太一の第六感だ。このおかげで、太一は不動産バブルの被害をまったく受けなかったのだ。
(つづく)

◎――――連載

●連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート 第46回

思考停止をもたらす
パソコンと携帯

佐和隆光

Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。

加速された「活字離れ」

 パソコンと携帯電話が急速に普及したのは、一九九〇年代に入ってからのことである。かつて自動車の普及は、ライフスタイルのみならず「文化」のありようを様変わりさせた。同じように、パソコンと携帯電話もまた「文化」を見まがうばかりに塗り替えてしまった。これら二つの機器がもたらした文化の変容について見ていこう。
 第一に、人びとの「活字離れ」を加速させた。かつてテレビが活字離れの元凶であるかのように言われていたけれども、実のところ、テレビが本や新聞を不要にしたわけではなかった。テレビでのドラマ化により、原作である小説の売れゆきが増えることはあっても減ることはなかった。テレビはニュースの速報性という点で新聞をはるかにしのぐが、ニュースの内容をちゃんと知るには新聞を読まざるを得なかった。テレビと活字は代替関係というよりは、むしろ補完関係にあったのである。
 ところが、パソコンや携帯電話は本や新聞と代替関係にある傾きが強い。本を読まなくても、パソコンを使ってキーワードをインターネット検索するだけで、必要な情報を引き出すことができる。その結果、ネット検索で見つけた他人の書いたものをつぎはぎするだけで、大学生は一人前のレポートを書けるようになった。インターネットでは新聞も読めるため、当然のこと、新聞の定期購読者数は減った。ほぼ同じことが携帯電話でもできる。
 百科事典や大きな辞書などがパソコンや携帯電話に納まっているのだから、大きな事典や辞書は、もはやその役割を終えたと見てよい。それを「活字」というかどうかはとにかくとして、ポルノ小説やポルノ雑誌などもまた、パソコンの普及のおかげで売上部数が減っているにちがいあるまい。

理科離れと思考停止

 第二に、数学や物理の知識がなくてもパソコンはだれにでも使えるため、科学者や技術者に対する尊崇の念を、人びとは失ってしまった。もしコンピュータが大型のままだったとすれば、それを操作できるのは、特別の訓練を受けた専門家に限られる。コンピュータのパーソナル化は、専門家と素人とのあいだの垣根を取り払ってしまったのである。「理科離れ」ということが言われ始めて久しいけれども、皮肉なことに、パソコンの普及こそが子どもたちの「理科離れ」を促した最大の原因のように思えてならない。
 大型コンピュータの役割は「計算」することに限られていた。要するに、大型コンピュータは、あくまでも電子計算機だったのである。電子卓上計算機(電卓)だと二四時間かかる計算を数秒間で片付けてくれる電子計算機は、たしかに驚異の的であり、数々の不可能を可能にしてくれたが、「電脳」(コンピュータの中国語訳)というほどのものではなかった。しかし、コンピュータがデスクトップに、ラップトップに、そしてノートへと小型化するに伴い、コンピュータは次第に電脳に近づいたのである。いまやパソコンの主たる役割は、数値計算することではなく、文章を書くこと、Eメールを送受信すること、インターネットにアクセス(情報を収集)することとなった。
 第三に、パソコンの各種アプリケーションの発達で、統計解析の手法の委細についての知識がなくても、高級な分析手法をいとも簡単に使えるようになった。しかも、データを解析するためのあらゆる手法がパッケージ化されており、あっという間に、円グラフや棒グラフが自在に描けるようになった。便利といえば便利なのだが、データ解析が「不便」だった昔のように、分析の事前に「仮説」を案出し、事後に分析結果の意味について深く「考える」ことを怠るようになった。
 つまり、統計解析や図表の作成に要する時間が長ければ長いほど、途中で考える暇があり、その分、思いがけない発想が頭に浮かぶ公算が大なのである。たとえば、パソコンの普及と高度化が、計量経済分析のレベルを高め、日本経済に対する知見を深めたという事例を私は知らない。かつて手回しのタイガー計算機を使って日本経済の実証分析をやっていた一九五〇年代のほうが、現実の日本経済をめぐる論争が活発であり、内実に富んでいた。

話さなくなった日本人

 第四に、インターネットの検索やEメールの送受信に費やす時間が一日数時間にもなると、時間という貴重な資源が浪費されているように思えてならない。メールのおかげで、面と向かっての対話や議論などをほとんどしなくなった。それでなくても話下手で通る日本人が、面と向かってのディベートの機会を失った結果、ますます口下手の度合いを強めつつある。
 いまから二〇年以上も前のことだが、私がアメリカに住んでいたとき、お向かいに住む友人をパーティやディナーに誘う際にも、電話ではなく、葉書きを用いるべきだと忠告されたことがある。なぜなら、電話だと、「誘い」を断る先方の権利を侵害しかねないからである。これは、Eメールのなかった時代の話である。むろん、いまなら「電話ではなくEメールで」ということになるのだろう。
 これも、かつて私がアメリカの大学に勤務していたときの話だが、同じフロアに研究室を持つ二人の教授が、ある問題について意見を異にし、手紙のやりとりでけんかをしていた。言葉のやりとりによるけんかだと、後になって、「言った、言わなかった」のもめごとを引き起こしがちだし、手紙に自分の意見を書き、相手を批判するほうが、冷静に議論が進められる。手紙のやりとりによるけんかには、それなりの意味があることが、私にも理解できた。
 ところが、最近の日本では、面と向かって話せば簡単に片付くことまで、オフィスの同じフロアにいる同僚から、わざわざEメールで尋ねられたりする。話す、話し合う、議論する、という習慣が失われつつあることは、懸念すべきことではないだろうか。
 現代の若者がもっとも頻用するコミュニケーションの手段は、携帯電話のメールだそうである。電車の中などで若い乗客の半数近くが熱心に携帯電話の画面を眺めたり、メールを打ったりしている風景は、少なくとも私の目には異様に映る。

電気通信業界を襲う第二の戦国時代

 第五に、通信料金が格安になった。個人的体験を述べさせてもらえば、一九六〇年代はじめ、私が東京の大学に通っていたころ、京都の実家に電話をかけるなどというのは「もったいない」の一語に尽きた。京都に住む家族とはもっぱら手紙と葉書きを介してのコミュニケーションをしていた。七〇年代はじめ、アメリカの大学にいたころには、高価な国際電話をかけるなどというのは、年に数回程度、よほどの急用が生じた場合に限られていた。ともあれ、その他の物価に比べて、遠距離通話料金はとてつもなく高かったのである。
 ところが、九〇年代に入ると通信手段としてEメールが急速な勢いを駆って普及しはじめた。そして、距離の遠近、送受信の量(ビット数)、所要時間などとは無関係な定額制プロバイダーが次々と登場し、当初は、電話線を介して接続していたものが、光ファイバー等を通じて、直接、プロバイダーとつながるようになった。こうしてEメールにかかる費用は劇的に安くなった。また、つなぎっぱなしの定額制PHSも登場した。加えて、IP電話のサービス会社とインターネットで契約すれば、格安料金で国際・市外電話ができるようになった。
 家庭やオフィスの固定電話や公衆電話を利用する機会はめっきり少なくなり、ほとんどの通話を携帯電話ですませる人が多くなった。その携帯電話の電話番号が、二〇〇六年秋からポータブル化される(同じ電話番号のまま、電話会社を変えることができるようになる)。しかも、同じころ、ソフトバンクをはじめとする三社が携帯電話市場に新規参入してくる。私たち消費者にとっては幸いなことと言うべきなのかもしれないが、携帯電話市場は戦国時代を迎えることになる。料金、サービス、コンテンツについて熾烈な競争が展開されることになるだろう。
 八〇年代半ば、電気通信事業が自由化されたとき、民営化されたNTTに加えて三社が新規に参入し、電気通信事業は未来の花形産業だとだれもが思っていた。EメールやIP電話などの安価な通信手段が登場するとは、だれも考えなかったからである。有料の高速道路と並行して無料の高速道路が敷かれたに等しい。その後、業界再編成を経て、電気通信市場の競争も一段落したと思いきや、再度の戦国時代が訪れようとしている。それは、携帯電話市場に戦場を移してのことである。とはいえ、人口減少時代を迎えて、また三人に二台というほぼ飽和状態に近い普及率に達したいま、携帯電話の契約件数は頭打ちの状況を迎えつつある。料金値下げはやむを得まい。利用度数がこれ以上増えることもまた考えにくい。電話からメールへのシフトもまた、一台当たりの料金を引き下げる。

私たちにできること

 その半面、すでに述べたとおり、パソコンと携帯電話の普及に起因する「文化の変容」には、ひとかたならぬものがある。そこには正負両面があることは否めないが、総じて言えば、活字離れ、理科離れ、思考停止、時間の無駄づかい等々、「負」の効果のほうが勝っているように私には思えてならない。パソコンと携帯電話が本格的に普及を開始して以来、わずか一〇年を経たにすぎない。いまから一〇年後には、右に列挙した「文化の変容」はさらに深化しているにちがいあるまい。
 いかなる技術であれ、正と負の効果を併せ持っている。とはいえ、技術の進歩は非可逆的なのである。いったん登場した「便利」な技術が、負の効果を責められて姿を消したのは、DDT、睡眠薬としてのサリドマイド、フロン、アスベストなど、深刻な健康障害をもたらす化学物質に限られる。だとすれば、パソコンと携帯電話の普及を抗いがたい「潮の流れ」と認めたうえで、負の効果を最小限に食い止めるための方策を模索することが、私たちに課せられた重い課題なのである。

◎――――連載

瞬間の贅沢 第8回

武田双雲

Takeda Souun
1975年熊本県生まれ。書道家。
http://www.fudemojiya.com/futaba-mori/souun.htm


書籍



ずっと前にまいた種が
今頃になって
芽をふいた
もっと種をまこう
自分がここちよいと思える種だけを
未来にむかって。

◎――――編集後記

編集室より………

▼少し遅い夏休み、奈良を回って、飛鳥・天平の古仏像を拝んできました。
 渡来人から教わった彫刻技術を、瞬く間に本家を遥かにしのぐ独自の仏教芸術へと昇華させていった日本仏師の匠の技は、そのまま日本の近代、戦後の技術立国化の過程と重ね合わせることができます。仏像の細緻な造作に「職人国家」日本の原点を見た思いがしました。
 そこで気になったのが、『週刊ダイヤモンド』9/17号の「熱狂のインドへ」と題したインド経済特集です。シリコンバレーに比肩する高度なIT産業を核とし、経済躍進を続けるインドの発展は、やはり九九を22×20まで覚えさせるといった徹底した理数教育の賜物ということです。
 翻って昨今の日本は、IT長者なるマネーゲームに長けた「文系」起業家ばかりが持て囃され、若者たちの理想像ともなっているようですが、他人から奪うだけの錬金術では、社会全体の資産は増えようはずもありません。やはり産業社会の底を支えるのは「ものづくり」であり、海外との価格競争で疲弊する日本メーカーも、結局、最後に勝ち残るための競争力は、技術の優位性です。
 ドラッカーは『テクノロジストの条件』の中で、「テクノロジスト(技術者)こそが、先進国にとって唯一ともいうべき競争力要因でありつづける」と説きます。本誌今月号の佐和隆光氏も、コンピュータの大衆化が科学者・技術者への尊敬の念を喪失させたと、鋭く指摘していますが、「理数嫌い」が増え、「理系」への夢を語れないこの国では、20年後には「プロジェクトX」も成り立たないだろうな、などと思ってしまいました。
 さて今号より宣伝部が、書籍編集部と共同で「経」編集を担当しました。なかなか原稿が集まらず正直焦りましたが、なんとか校了。今後もより充実した誌面を目指し精進いたします。 (田上)

お知らせ………

▼今月号から始まった連載「判断力と決断力」は、古今東西の政治家=権力者が、歴史の分水嶺に立ったときに下した意思決定の数々を取り上げ、背景となった彼の判断力と決断力を膨大な史料と証言を元にして描くものです。現在、単行本のために執筆中ですが、本誌では章ごとにその導入部を連載します。第一回は「ミュンヘン協定」を舞台にした英仏首相の判断力の錯誤です。変則的な連載ですのでイントロダクションのみの紹介ですが、単行本が発売されたときに全てのナゾが解けることになります。
 著者の田中秀征さんは、細川内閣の首相補佐官、自民・社会・さきがけ連立政権では経済企画庁長官をつとめた知識人政治家として知られ、現在はいくつかの大学で政治学や政治史を講じています。本書では細川政権の内幕や小泉政権の現在まで登場します。ご期待ください。 (坪井)

「Kei」について

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