我々の住むこの地球は、宇宙でありふれた惑星の一つなのか、それとも唯一つしか存在しない、特殊な惑星なのか? そのような問いを研究のゴールとする学問がある。比較惑星学である。この問いは、我々の価値観を左右する、極めて本質的な問いの一つである。
ありふれた惑星の一つだとすれば、生命も、文明も、この宇宙には無数存在する可能性がある。そうだとすれば我々は、自らの存在も、その歴史も、あるいはこの世界に生起する現象も、全てを相対的に考えざるを得なくなる。一方で、もしそうでないとすれば、この世界を普遍的、絶対的に議論する根拠が生じる。もし仮に、絶対的な神がこの世界を作ったのだとすれば、論理的には後者でなければならないはずだが、果たしてどうか。
宇宙といっても広すぎる。また、現在の技術では、銀河系の中の我々のすぐ近くの星の周りの巨大ガス惑星しか観測できないから、ここではとりあえず最近の惑星探査の結果を基に、太陽系にもう一つの地球があるか考えてみよう。最近の惑星探査といえば、カッシーニ/ホイヘンスと呼ばれる、土星とリング、その衛星の探査である。なかでも、ホイヘンスによるタイタンの探査が、この問いに直接関係する。
タイタンは、土星の衛星の中で最大の衛星である。太陽系の衛星の中でも、ガニメデに次いで二番目に大きく、月よりも大きい。その特徴は地球と同じく、窒素の大気を持つことにある。大気圧も地表で1・5気圧だから、地球とほとんど変わらない。大気のみの比較では、地球とタイタンは同じ、すなわちもう一つの地球という言い方ができる。
タイタンの地表に降りたホイヘンスの探査によると、地表は氷の大陸とメタンあるいはエタンの海に覆われ、メタンの雲が湧き、メタンの雨が降り、その流れの跡が氷の大陸の上に川のように残っているという。我々は、大陸といえば岩石、海といえば水の海、雨といえば水の雨を思い浮かべるが、タイタンを構成する物質、地表温度を考えれば、それが上のように変わっても、そこに生起する物理現象は、全く同じと考えることができる。比較を環境にまで拡張しても、タイタンはもう一つの地球といえる。
問題は果たしてこの環境下に生命が存在するかである。それは現在までに蓄積された生物学の知識では考えることが難しい。物理や化学は、この宇宙で成立する普遍的な学問ということが確かめられているが、生物学はこの地球でしか成立しない特殊な学問だからである。タイタンの探査結果は、今我々が、普遍的な生物学(アストロバイオロジー)の構築に向けてスタートすることの必要性を、示唆している。
ライブドアによる敵対的企業買収が注目を浴びる中、「そんなこと、欧米では日常茶飯事だ」と思っている人も多いだろう。しかし、実際は、米国でも敵対的買収が起これば大ニュースとなる。八〇年代の米国では確かに敵対的買収が多発していたが、九〇年代以降はそれほど起こってはいない。「ポイズンピル」など敵対的買収に対する対抗手段が採られるようになったことや、経営者は従業員、地域住民などの利害関係者に対しても責任を負うことが多くの州で法律によって義務付けられ、敵対的買収に相当なコストがかかるようになったことも影響している。現在も多発している印象があるのは、多くの人が通常のM&Aと敵対的買収を混同しているからかもしれない。
それでは、経済学は敵対的買収をどのように位置付けているのだろうか。一つは、パフォーマンスの良くない企業の経営陣に対する規律付けとして、敵対的買収が重要な役割を果たしているとする、肯定的な見方である。経営陣が効率的な経営を怠っている企業の株価は低迷しやすい。その企業の活動分野に関心のある他の企業や投資家は、自分たちが経営するか、あるいはやり手の経営者を見つけて経営を任せれば、企業収益を高めることが可能だと考えるかもしれない。そして、その企業の株式を株式市場で買い取り、支配的な大株主になって、経営陣や取締役を入れ替え、株価上昇によるキャピタルゲインを得ようとするインセンティブが働く。このことが現在の企業経営者に対する規律付けとなる。つまり、企業から追い出されることを恐れる経営陣あるいは取締役会は、株主の利益を考えて、効率的な経営を行うようになるわけである。
一般に、米国や英国では、日本や大陸ヨーロッパ諸国に比べて株式の分散所有が相当進んでおり、企業経営者に対する規律付けは、(1)取締役会などの制度機構を使った経営者に対する直接的なコントロール、(2)経営者への報酬契約を使った間接的コントロールの二つを通じて行われている。しかし、これらが必ずしも常に機能するわけではなく、その場合の一つの対応策が、敵対的買収だと考えられているのである。
しかし、敵対的買収に対して、肯定的な意見ばかりでもない。市場メカニズムを重視し、血も涙もないと思われている経済学の世界でも、敵対的買収に対して懐疑的な見方もある。例えば、ハーバード大学のサマーズ教授らのトランスファー理論と呼ばれる仮説である。敵対的買収後、買収された企業の利益は拡大し、株価も上昇することが多い。しかし、それは経営の非効率性が正されて新たな付加価値が生み出された結果ではなく、従業員や社債保有者などのステークホルダーに帰属していた利益が、キャピタルゲインという形で企業買収者や株主に移転したものであるというのである。こうした富の再配分が、敵対的買収の大きな誘引になると考えられている。
とはいえ、昔の経営者が厳しい労使対決を避けて、無駄の多い労働慣行を容認していたのなら、敵対的買収後の賃金カットやリストラにも妥当性がある。買収以前は労働者と経営陣が株主の利益を不当に奪っていたことになるからである。しかし、サマーズらは、旧経営者が従業員に対して市場よりも高い賃金を支払ったのは、従業員が他社に転職しないで、長期的に真剣に働くことへの報酬であり、それによって高い生産性を期待していたからだと指摘している。そして、そのような旧経営者と労働者の信頼関係の上に成り立っていた「暗黙の契約」が、乗っ取り企業の敵対的買収によって突然反故にされたとしている。
八〇年代に米国で頻発した敵対的買収について、経済学界の評価は今でも分かれる。ただ、今になって振り返ると、八〇年代の米国は、産業構造が大きく変わった時代であった。跡形もなく消えてしまった大企業もあるし、存続している大企業でも事業内容を大幅に変えたところは多い。そして、相当数の工場が米国から出ていった。その過程で、経営者は、従業員への好待遇を諦めさせ、賃下げやリストラを飲ませるために、労働組合と全面対決しなければならなかった。そのタフな仕事を避けようとすれば、望ましい事業ポートフォリオへの変更は困難となる。そうした企業では、潤沢なキャッシュフローは新しい事業分野に向かうこともなく、株主への配当に向かうこともなく、低い収益しかもたらさない投資が続けられたであろう。
そこに敵対的買収(をはじめ様々なM&A)が起こって、既存の経営陣の代わりに、事業ポートフォリオの変更を可能にしたとも解釈できる。敵対的買収によって、労働者と企業の「暗黙の契約」が反故にされ、乗っ取り企業や株主に利益が転がり込むように見えても、それは時代の要請として避けられなかった出来事だったかもしれない。プリンストン大学のクルーグマン教授は、八〇年代の米国経済の構造変化は、効率性上昇と賃金引下げの両方のやり方で企業価値を高める機会を作り出したとする折衷的な解釈を行っている。ライブドア問題を含め、このところ、日本企業のガバナンス構造が変化しつつあるのも、産業構造が大きく変化していることと無縁ではないのだろう。
本連載では貨幣・物価間の基本的関係、その応用としての国際金融と為替の話題に言及してきました。今回からはこれらの話題をふまえて、金融政策について考えてみたいと思います。
金融政策に関しては、理論的なモデルから詳細な統計的検証まで膨大な研究が蓄積されているため、本連載の中で、それを転回させるような新理論を打ち出すことは不可能と言ってよいでしょう。そこで、演繹的な考察を積み上げるのではなく、歴史上の金融政策の事例に注目して、金融政策の果たす役割を見つけていくことにします。
金融政策への理解が深まることは、「貨幣とは何か」という本連載の根幹にかかわる議論を理解する上でも、大きな「導きの糸」となり得ると考えます。このように書くと、なかなか大仰な方針ですが、要するに、これまでと同様にさまざまな歴史的事例に触れながら、金融政策の紹介を経由して、貨幣の性質を帰納的に浮かび上がらせる試みです。
その第1回目として取り上げるのは、グレシャム(1519‐1579)による「悪貨が良貨を駆逐する(bad money drives out good)」という命題です。後にマクラウド(1821‐1902)によりグレシャムの法則と命名されるこの命題は、最も知名度の高い経済法則と言ってよいでしょう。しかしこの法則は、現在の日本では誤って理解されていることが少なくありません。
試しに「悪貨が良貨を駆逐する」を検索エンジンのGoogleなどで検索してみてください。経済学を主な話題にしているサイトを除くと、多くの場合に商品について、「粗悪な商品が出てくると本当の意味での良い商品が売れなくなってしまう……」といった意味で使われています。しかし、グレシャムの法則は貨幣に関する経済法則であり、財に関するそれではありません。
さらに、グレシャムの法則の論理は上記の商品の善悪に関する論法と、ある意味、正反対なのです。
先に結論を言いますと、グレシャムの法則は「皆が良貨を欲しがり悪貨を手放したがる」ことで生じます。
ある国の通貨は金貨のみで、一万円金貨には20gの金が、千円金貨には1gの金が含まれているとしましょう。一見してわかるように、この幣制は金本位制とは言い難いシステムです。千円金貨10枚を集めても金の総量は10g、その一方で一万円金貨にはその倍の金が含まれているのです。このとき、一万円金貨は良貨、千円金貨が悪貨です。
以上のように、人為的に固定されたレートの下で、人々はどのような行動を取るのでしょうか?
国内取引に使う上では、一万円金貨も千円金貨10枚も同じことです。しかし、それに含まれる金の価値を考えると、人々はできるだけ一万円金貨を手元に置いておきたいと思うでしょう。そして支払いの際には誰もが手元に置いておきたくない悪貨である、千円金貨が用いられます。
このように千円金貨のみが流通し、一万円金貨は退蔵されます。このとき自由鋳造が許可されていれば、貯め込まれた一万円金貨は千円金貨20枚に鋳直されるでしょうし、国際的な金の輸出入が認められていれば、品位の高い一万円金貨は海外への輸出に用いられるようになるでしょう。
グレシャムの法則は、「人々が良貨を欲しがるが故に良貨が消えてしまう」という逆説的な状況を表しているのです。これは、グレシャムの法則の今日的な用法(?)である「粗悪品が出回ると良い物が購入(欲求)されなくなる」とは全く異なる論理です。
前回の主な話題は、幕末開港期の金流出でした。日本と欧米諸国の為替交換は金銀両方についての同種同量交換で規定されました。その際により重視されていたのが、メキシコ銀と一分銀の交換レートについての規定です。これは、中国貿易の際のルールを援用したという理由のみならず、当時の日本の国内取引で中心的な役割を果たしていたのは一分銀であったためと言われます。日本に小判という金貨があることは欧米の外交官にも知られていたようですが、小判の、あまりの流通量の少なさに、記念通貨のようなものだと理解されていたのかもしれません。このような誤解が生じた理由は何でしょう? その答えを与えてくれるのがグレシャムの法則です。
江戸時代の貨幣制度というと「大坂の銀遣い、江戸の金遣い」という言葉が有名です。幕府の金銀の公定交換レートは1両=60匁でした(※1)。江戸中期の金貨である元文小判の金含有量は約8・5g、後に紹介する南鐐二朱銀以降にも流通した匁単位銀貨である文政丁銀60匁分に含まれる銀は約80gです。すると、「大坂の銀遣い、江戸の金遣い」という慣習に従っていた18世紀中頃の日本では、金銀の交換比率は1対9・5程度であったことがわかります。
しかし、明和9年(1772)に南鐐二朱銀(南鐐)が発行されると、大坂圏の貨幣単位も「両」を中心としたシステムに事実上吸収されていきます。南鐐は、発行当初は純銀に近い品位を持っていて、その意味では悪貨ではないのですが、問題は交換レートです。南鐐二朱銀の銀含有量は約10g、二朱銀8枚が1両ですから金銀の交換比率は1対8へと変化します。これまでよりも少ない銀が「1両」となったわけですから、南鐐は悪貨であったのです。文政年間には南鐐の品位はさらに落ち、天保8年(1837)の、天保一分銀の登場によって金銀の交換比率は前回の幕末開港期の金流出を引き起こした1対5へと向かいます。
余談ですが、『大君の通貨』の著者、佐藤雅美氏の手による「桑山十兵衛シリーズ」や「居眠り紋蔵シリーズ」では支払いの際に、しばしば南鐐が登場します。これも、もちろん取引の額として妥当だったためでしょうが、当時の貨幣の中では南鐐が(金属価値に比べ)最も過大評価された悪貨であったこともひとつの理由かもしれません。
このような金銀交換レートの人為的な操作はなぜ行われ、なぜ可能だったのでしょうか? 貨幣に含まれる金・銀含有量の低下の目的は、シニョリッジ(貨幣改鋳益・出目)であったことははっきりしています(参考までに、江戸時代の金貨・銀貨の改鋳状況を表にまとめました)。しかし、その中で銀貨のほうが悪鋳の度合いが大きかった理由ははっきりしません。シニョリッジについては回を改めて再考することとして、ここでは銀貨悪鋳により当時の相場とは異なった交換レートを設定することが可能であった理由について考えることにします。
幕末期の金流出の原因は、人為的に銀高に設定された江戸幕府の貨幣制度にあります。まず考えなければならないのは、「開港以前に日本国内で同様の事態に至らなかったのはなぜか」という問題です。
第一の理由は、幕府の貨幣鋳造技術は、当時の国内の水準としては高度であり、偽造が困難であったことが考えられます。大幅な過大評価をしている銀貨には、偽造防止の小花印(側面の刻印……五百円硬貨の側面の、原始的なものと考えてください)が打たれています。さらに金山・銀山が幕府の管理の下に運営され、さらに取引についても自由に行われていたわけではない点も大きな理由でしょう。
次に問題となるのは、「金属としてたいした価値を持たない銀貨が、額面価値で流通していたのはなぜか」という問題です。これは、非常にありきたりの回答ですが、「幕府がそう決めたから」に他なりません。二朱銀や一分銀がそれぞれ小判の1/8、1/4の価値があると幕府が認め、それに従った通貨の交換を保証している……そしてこの「約束事」を急に反故にしたりしないという信用が幕府にはあり、さらには江戸幕府政権が転覆する理由も、少なくとも天保年間(1830‐1843)頃まではほとんど見つからないのです。
このように考えると、(1)偽造が困難、(2)政権に信用がある、という2つの条件が満たされていたため、金属としての価値を上回る購買力を銀貨に付与することが可能であったとまとめられるでしょう。この条件を反芻するとふとあることに思い至ります。それは、この2つの条件は、不換紙幣・管理通貨制度の成立条件そのものであるという点です。
例えば、現在の日本の幣制を考えてみましょう。一万円札の製造原価は20円程度とのことです。20円の価値しかないものを1万円にカウントすることを強制(※2)し、かつそれが機能しているのです。言うまでもなく、現在の日本の幣制は金本位制に基づくものではなく、日本銀行券は不換紙幣です。
すると、江戸時代の貨幣は江戸幕府の信用に基づく管理通貨であり、その原料に金・銀を用いていただけだと解釈できます。これは当時の幕府官僚の中にも存在した認識です。
例えば、17世紀末に貨幣の改鋳を行った荻原重秀は「たとえ瓦礫のごときものなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしめなば、すなわち貨幣となるは当然なり。紙なおしかり」と、幕府の貨幣は当時既に「金属(商品貨幣)」ではなく、「信用(法貨)」であることを理解していたのです。この見解が幕末開港期の幕府官僚にも受け継がれていたことは前回紹介したとおりです。
したがって、幕末期の金流出の原因は、「信用通貨の原材料として金属を用いていたために、海外から金属本位通貨であると勘違いされたことである」とまとめることができるでしょう。これは再び現代の話に置き換えると「腑に落ちる」かと思います。
一万円札は1・2gほどの紙でできています。仮に同質の紙は1kg10ドル程度だとしたならば……円ドルレートは1ドル=10万円になることになります! これが異常な交換形態であることは、容易に理解できるでしょう。
江戸時代、そして幕末期の幕府幣制を考察することは貨幣とその役割、さらには金融政策について、さまざまなことを教えてくれます。さらに、今回登場した幕府幣制の存立条件は「貨幣とは何か?」に関する二大学説である、貨幣法定説と貨幣商品説を理解する上でも大きなヒントとなるでしょう。
二一世紀になって「グローバル・エコノミー」が現実のものとなリ、経済史家もその歴史的起源に深い関心をいだいている。
このきっかけになったものは何かと問えば、冷戦後の世界においてアメリカ合衆国が軍事的・経済的な圧倒的優位をもったことが一因であろう。アメリカニズムが一九九〇年代から「グローバリズム」の名のもとに世界を席巻した。冷戦の崩壊で米露両国に軍縮が促され、軍需産業に組み込まれていた情報産業(従事者)が民生用に転じた結果、いわゆる「IT(情報技術)革命」がおこり、世界各地のネットワーク化がすすんだ。ITは誰でも、どこからでもアクセスできる。それは「自由」と「民主主義」のアメリカ・イデオロギーと相性がよく、アメリカ中心のグローバル・エコノミーの下部構造となった側面もある。さらに、冷戦時代の大量生産・大量消費・大量廃棄によって環境問題がグローバル・イッシューとなり、一九九二年の国連環境開発会議(いわゆる地球サミット)を契機にして、誰もが環境問題を地球レベルで考えるようになった。いわば人類史における「地球発見」があったのも一因であろう。
「グローバル・エコノミー」は冷戦後の言葉であるが、「経済のグローバル化(ないし世界化)」には前史がある。前史のあるのは自明であるが、各国の経済史家が「世界(グローバル)経済」の形成過程を共通の研究課題に定めたのはそれほど古くはない。その取り組みがなされた画期的出来事が、一九八六年に開催された国際経済史大会での「世界経済の出現」というテーマの設定であり、その基調報告集の発行である。これ以後、経済史の潮流が「世界経済」なり「グローバル経済」をテーマにするようになった。その意味で大会自体と、その基調報告集『世界経済の出現 一五〇〇〜一九一四年』(全二巻、七五〇ページ)のもった意味は大きい。
この大会を契機に何が変わったのか、といえば、第一に、それまで経済史の主要テーマが西洋中心であったのが、西洋の経済史家のなかからも、西洋史を相対化する動きが出てきたことである。第二に、西洋を相対化する視点として、アジアが再び経済史の表舞台に登場してきたことである。これらの成果については順を追って紹介したいが、とりあえず、まず基調報告集の二巻本の目次を紹介しよう。
『第一巻 一五〇〇〜一八五〇年』は「総論」と一四本の論文からなる。
ウォルフラム・フィッシャー「総論」
(一)ユルゲン・シュナイダー「中世から十九世紀前半の世界市場の展開に定期市・貨幣市場・貴金属の果たした役割」
(二)デニス・フリン「近世における銀のマクロ経済学と東西貿易」
(三)K・N・チャウドリ「世界の銀の流通と国際経済の統合の推進力としての貨幣要因 一六五八〜一七五八年」
(四)オム・プラカシュ「アジアにおける貴金属の流通」
(五)フェメ・S・ガストラ「オランダ東インド会社と貴金属のアジア域内貿易」
(六)アルツール・アットマン「貴金属と国際貿易収支 一五〇〇〜一八〇〇年」
(七)ハンス・クリス・ヨハンセン「バルト貿易の決済」
(八)ユルゲン・シュナイダー、オスカー・シュバルツァー「国際為替相場――十七世紀から十九世紀のヨーロッパにおける決済の構造と趨勢」
(九)ヴィンフェルド・ライス「為替相場の歴史」
(一〇)アーノスト・クリマ「十六世紀から十八世紀におけるボヘミアの外国貿易」
(一一)フォン・マーティン・クッツ「外国貿易と戦争 一七八九〜一八一七年」
(一二)マリアン・ハルパーン・ペレイラ「十八世紀から十九世紀にかけてのポルトガルと世界市場の構造」
(一三)ジョゼ・ジョブソン、アンドラーデ・アルーダ「ブラジルの世界市場への統合」
(一四)フレデリック・マウロ「一七五〇〜一八五〇年のブラジル」
以上が一八五〇年までをあつかっている第一巻の内容である。
『第二巻 一八五〇〜一九一四年』の目次は以下のとおりである。
(一五)マーヴィン・マキニス「十九世紀後半期における世界経済の出現」
(一六)マルセロ・デ・セコ「貨幣制度の選択――国のジレンマ、国内的解決と超国家的解決 一八九〇〜一九一四年」
(一七)ジェイムズ・フォアマンペック、ラナルド・ミチー「十九世紀における国際金本位制の実体」
(一八)B・R・トムリンソン「銀相場の下落と経済発展――インドと銀本位制 一八七二〜一八九三年」
(一九)レンナルト・シェーン「十九世紀中葉における市場の発展と構造の変化――スウェーデンの事例」
(二〇)マイケル・エーデルシュタイン「フランスの外国投資と人口変動との関係 一八五〇〜一九一三年」
(二一)ドミニク・バジョット「公共事業目的の輸出市場におけるフランスの企業家 一八五七〜一九一四年」
(二二)ジョルマ・アーヴェナイネン「一八七〇〜一九一四年における国際電信の役割」
(二三)ルイス・フィッシャ、ヘルゲ・ノーディック「海上輸送と北太平洋経済の統合 一八五〇〜一九一四年」
(二四)ジーン・ヘッファー「アメリカの交易条件 一八六〇〜一九〇〇年」
(二五)カレル・ヴェラグタート「アントワープ港における船運の成長 一八五〇〜一九〇〇年」
(二六)ニック・ハーリー「十九世紀末における輸送、貿易、決済」
(二七)川勝平太「十九世紀末葉における木綿市場をめぐる国際競争――イギリス、英領インド、東アジア」
(二八)A・J・H・レイサム「一八六八年以後の米市場と小麦市場」
(二九)トマス・リンドブラド「国際貿易と植民地経済の成長――インドネシアの場合、一八七四〜一九一四年」
(三〇)杉原薫「世界経済へのアジアの編入パターン 一八八〇〜一九一三年」
(三一)シンシア・タフト・モリス、イルマ・アデルマン「十九世紀から二十世紀初期にかけての経済的従属と経済発展」
以上が目次であるが、基調報告集のとりまとめにあたったフィッシャーの「総論」の最初のパラグラフは、テーマの設定にいたる事情を簡潔に説明しているので訳出しておきたい。
「本書の内容は、一九八六年八月二四日から二九日に、ベルンで開催された第九回国際経済史学会の「討論と論争」をあつかうA3セクションに提出された論文である。「世界経済の出現」というテーマを選んだのは国際経済史学会の理事会である。どの時期を対象にするかについて、終期は一九一四年で一致した。しかし、始期については(理事会も)決め切れなかった。はっきりしているのは、集中的に議論するべきは十九世紀後半期だ、ということである。なぜなら、十九世紀後半期になって初めて文字通りの世界経済がイギリスの主導権のもとで展開したからである。しかし、そこにいたる前史は長期にわたるので、その始期をいつから論じるかについて確定するのは容易ではない。理事会の重鎮のアドヴァイスも考慮したが、われわれは独自の判断で長期的視野に立つことにした。ユルゲン・シュナイダーは十一〜十二世紀の十字軍から説き起こしている。ヨーロッパの海外発展の始まる時期にまでさかのぼっている論文もある。十七世紀、十八世紀にまでしかさかのぼっていない論文もある。第一巻では、貿易もあつかわれてはいるが、集中的に論じられているのは貨幣の問題である。アルーダとマウロのわずか二論文だけがアメリカについて論じているが、北アメリカは論及されていない。アメリカ(南米)産出の銀が西ヨーロッパ経済の出現に与えた影響については、これまでにもよく論じられてきた。だが(世界経済の出現と)銀の流通(とのかかわり)をめぐる論争で、ヨーロッパが主導権をにぎった、という主張はそれなりになされたとはいえ、銀の流通にかかわる最大の論点は、ヨーロッパからアジアに向けて銀が流出していたという事実をめぐるものであり、ほとんどすべての論文がこの銀の流れを中心テーマに据えている。貴金属が貨幣として使われていた時代に、貿易の決済がどのようになされていたのか、その構造を明らかにすることが、第一巻の中心テーマであるといってよい」
右のフッシャーの説明にあるように、第一巻は、一九世紀中葉以前をあつかうことは決めてあったが、始期については長期的視野に立つということ以外には決められなかった。にもかかわらず、第一巻が「一五〇〇〜一八五〇年」となっていることからお分かりになるように、世界経済のエキスパートが世界経済の前史を初めて正面からテーマにしたとき、一五〇〇年あたりにまではさかのぼらなければならないことが共通認識になったのである。
重要なのは銀の流れる方向である。一八五〇年以後のイギリス主導の世界経済において、イギリスがその富の源泉としたのはアジアであった。アジアからイギリスに銀が流れたのである。ところが、それ以前は、銀の流れる方向が「アメリカ↓ヨーロッパ↓アジア」であった。その流れの起点が一五〇〇年頃なのである。貨幣である銀の流れる先、つまり、支払いを受ける側はアジア(東洋)であった。アジアは貿易黒字であり、アメリカ・ヨーロッパ(西洋)は赤字であった。しかも、アジアは西洋(アメリカ・ヨーロッパ)に圧倒的な黒字であった。一九世紀後半期以後、アジアに黒字をもったイギリス経済が先進的であったとすれば、それ以前はどちらが先進的であったのか。答えはアジアである。研究者がアジアに着目せざるをえなくなったのである。
浜銀総合研究所が四月に発表した調査によれば、二〇〇三年のコンテンツ市場における「萌え」関連の市場規模は八八八億円。内訳はコミック関連が二七三億円、映像関連が一五五億円。ゲーム関連が四六〇億円。コンテンツ市場全体の規模は約一二兆円。一五〜一九歳人口は九〇年に比べ約三割減少。ボリューム層である団塊ジュニアは既に三〇代に突入しており、日本レコード協会の調べによれば、音楽のCD市場における三〇代以上の大人層のシェアは五〇%を超えた。
「もちろん女性からすればですね、気持ち悪いかもしれませんよ。でも、変態と言われるほどのものではないと思うのですよ。この趣味を家庭に持ち込んでるわけでもないし」
三〇代前半の団塊ジュニア世代、二歳の娘がある会社員。先日、妻が離婚を宣言し実家に帰ってしまったという。
少しだけアニメ好きで平凡なサラリーマンの彼が、数ヶ月前から帰宅が遅くなり、夜中にこそこそメールをし、休日に外出するようになった。浮気を疑った妻が探偵に依頼して調査したところ、夫はアキバ(秋葉原)のメイドカフェに通っていたのである。夜中のメールはメイド好きメーリング・リストへの投稿、休日の外出は同好の士の会だった。
妻にとっては浮気よりも不快だった。娘の父親である夫がメイドカフェに入り浸る。母親として生理的に耐えられないと娘を連れて実家に帰り、離婚を言い出したのだった。
「メイドカフェなんかに行く男はみんなロリコンで変態だと妻は言うんですよ。娘に対して変な欲望を持っているに違いないとまで言われました。でも、それは誤解です。そもそも幼児性愛のペドフィリアとロリコンの違いは……(以下略)」
彼の幼児性愛とロリコンおよびメイド趣味に関する講釈は勉強にはなったのだがここでは省略する。メイド喫茶とコスプレ喫茶の違いに関する考察も省略する。そこに言及するとキリがないし、本稿の主旨でもないからだが、この種の男性が増えていることは実感する。アイドル市場もその主軸は三〇代男性になっているようだし、ある事情から私も「モーニング娘。」ファングループに関わっていたことがあるが、そこのメンバーの半数は三〇代男性だった。
一般的にはロリコンやアイドル趣味の男性はデブで不細工、対人関係に難があり女性に縁がないと思われている。確かにそのようなオタク男性も多いが、かならずしもそうとばかりは限らない。結婚し子を持つメイド趣味の男性もいるし、わりとイケてる今風の青年が実はアイドル・オタクという例も多い。妻や恋人がいても風俗通いが好きな男性がいるように、彼らは単にメイドやアイドルが好きなだけだ。
このようなアイドルやメイドやアニメが好きな三〇代以上の男性が増えている。もともとオタクな人々は、自分の趣味に金をかける趣味エンゲル係数が異常に高いのだが、年齢が上がるにつれ使えるお金も増えている。「萌え」市場拡大の主要因でもあるだろう。オタク市場の拡大は日本の不況を救うかもしれない。アニメに代表されるオタク趣味は世界でも拡大しつつあり、コンテンツ輸出もさらに増大するだろう。
輸出産業はアニメ作品だけではない。たとえば、世界に名だたるブランド、ルイ・ヴィトンと日本のアーティスト村上隆のコラボレーションがある。ルイ・ヴィトンといえば茶色地に「L」「V」を組み合わせたモノグラムがシックでお洒落であり、私も大ファンである。
ところが村上隆のコラボレートによってモノグラムのパターンはカラフルに彩色され、パンダやチェリーのイラストがプリントされ、アートとして新鮮に生まれ変わった。
表参道のショップで、趣味の悪いアニメ・キャラにしか見えないあのパンダが巨大なオブジェとなってヴィトンのアンティーク・トランクの上に笑顔で立っているのを見たとき、「本当にこれでいいのか? ヴィトン!」と叫んだのは私だけではなかったはずだ。しかし、新作バッグは毎シーズン話題を呼びすごい勢いで売れている。母から娘へと受け継がれる伝統の姿は、いまはない。ヴィトンが消耗品に変わることを、ファンとして少し寂しく思うが、新しいマーケットを切り開いたことは確かだ。
というわけで、日本の基幹産業に成長しようかという萌え産業。三〇歳以上の大人のオタクたちには、日本の将来を背負う覚悟と自覚を持って、メイドカフェに通ってほしい。
欧米では昔から、「労せずして儲ける方法、リスクを上げないでリターンだけを高める方法」を“フリーランチ”と呼び、理想の投資スタイルとして追い求められてきました。これに習って、こうしたパラダイスのような運用術を徹底的に実践する投資家を「フリーランチ投資家」と名づけ、その生き方、考え方、投資の方法、具体的な運用の手順にまで詳しく言及したのが本書です。
けれども、パラダイスに専門知識は要りません。頭の痛くなるような投資理論などは全くありません。私自身の経験から、本当に大事なこと、必要なことのみに焦点を当て、すっきりとした答えを導き出しました。もちろん、全て実証的なデータを基にして。
すっきりとした答えを導き出すことは、既成概念を取り払うということでした。本当のことは、いつだって単純明快です。ところが世の中では、難しい言葉ばかりが氾濫し、そのくせ具体的なことは誰も何も教えてくれません。投資といえば「長期投資」と、あてにならない忍耐を強いられるか、そうでなければデイ・トレードを勧められるのが現実です。
本書では、「長期投資の長期とは何年の事を指すのか?」「本当にそれは有効なのか?」「短期投資との違いはどこにあるのか?」「分散効果は本当に存在するのか?」「リスク管理とは何なのか?」といった疑問の全てを実際の市場に即して分析し、明日からでも使えるように答えを導き出しました。でも、よくある理論・モデルの類は一切使っていません。「フリーランチ」とは考え方の問題であって、大事なことは、「時代」を見極める感性と寛容な態度であると、豊富な事例から検証しています。金額の多寡も関係ありません。
「時代」が変わろうとしています。詳しくは本書を読んでいただきたいのですが、リスクに限らずあらゆるものに対して寛容な姿勢が求められる「時代」が始まったとだけ、ここでは書きとどめておきます。資産が資産を生み出す時代が始まったのです。
あくせく働くのはやめて人生をエンジョイするために、あなたも「フリーランチ投資家」になってみませんか? お金は自分で稼いでくれるはずです。
岡崎良介 著
●定価1470円(税込み)●4-478-60044-9 ●248ページ
「科学離れ」の原因は、科学が面白くないためだとよく言われる。科学的方法はむずかしくて要点がわからないから、勉強してもつまらないというわけだ。しかし、我々は『フューチャー・イズ・ワイルド』(以下FIW)を通して、それとは異なる経験をしている。
私たちは、科学の美しさを教えるためにFIWに出てくる目を見張るようなワクワクする生物たちを紹介している。これこそが、科学の美しさを教える出発点だと考える。実際にその時代に存在した動物ではなく、私たちが考えた奇妙な未来生物を使って、進化と生態学について教えるのである。動物の姿形や生活様式がどのような要因により決まるかを話し合うことで、過去・現在の動物がどのような姿形と生活様式を発達させてきたかを学ぶことができる。
イギリスでは、FIWが実際に学校教育に使われている。理科(生物学、物理学)、数学(計算)、英語(作文)、外国語(作文)、音楽(作曲)、宗教学(予言の研究)、美術(絵、彫刻)など、2週間の授業プログラムが準備されている。その成果は大きく、子どもたちは一生心に残る経験をしている。
3月27日(日)には、新江ノ島水族館でFIWのプレゼンテーションを行った。この水族館ではFIWの展示を行っており、日本の子どもたちは、他の国と同様に創造力が豊かで非常にいい反応を示してくれた。キッズ・アカデミーという子ども向けイベントでは、子どもたちは科学的な考え方をすぐに理解し、主催者側の期待以上に楽しんでくれた。
空想の世界に遊ぶのは、時間の無駄ではない。「想像上のものではなく現実に存在するものについて勉強するべきだ」と考える人もいるだろう。しかし、我々はそうは思わない。創造力を働かせることによって科学に関する知識を増やせるし、そうすることによって科学的事実をより深く理解することができるからだ。
日本の子どもたちには創造力を大いに働かせてほしい。自分だけの未来生物を創造してほしい。現代の生物やその発達方法に関する知識に基づいて未来生物を考えることは、我々をとりまく世界の美しさと複雑さを理解するのに役立つに違いない。『フューチャー・イズ・ワイルド』が、そのきっかけになってくれることを願っている。
クレアー・パイ 著 疋田努:監修 土屋晶子:訳
●定価1995円(税込み)●4-478-86049-1 ●112ページ
人間の経済の歴史を繙くと、狩猟経済に始まり、やがて農業、そして工業、商業へと進んでいる。別の言い方をすれば、第一次産業から、第二次産業、そして第三次産業へのシフトが人類の進歩だともいえる。
教科書的にいえば、資本主義経済の発展は、第一次産業から第三次産業へと進み、現在の先進国は第三次産業時代を迎えている段階にある。金融・証券、情報産業など現代資本主義の基幹的部門は、いずれも第三次産業である。それでは資本主義の戦略は、第三次産業に向けられているのか。そう問いを立てれば、おかしな点に気づくはずである。
イラク戦争をアメリカが始めたとき、石油をめぐる国際的攻防が話題になった。この場合の石油は精製ではなく、たんに鉱物資源としての石油の確保である。現代資本主義も、鉱物資源や農業といった第一次産業を戦略の基点としていることに変わりはない。いやむしろ、その傾向は最近とみに増しつつあるのだ。
二一世紀の鍵を握るのがこの第一次産業だというのは、まんざらとっぴな話ではない。
それは第一次産業がすべての産業の基礎をなしているからではない。むしろ、第一次産業がわれわれの生命と密接に関係しているからである。
資本の最大の目標は生命を支配することであるといっても過言ではない。人間をいかに資本の支配下に配置するかが資本の関心事といってもよい。まず農業を考えてみよう。
遺伝子組み換え食品を中心とする農産物の種は、大資本の傘下に組み込まれている。農家は大資本の種なくして商品作物を作れなくなりつつある。その意味で、第一次産業たる農業は、資本にとってもっとも利益をあげられる産業である。
農業とのからみでいえば、水の確保も重要な戦略となっている。二一世紀最大の希少資源は水ともいわれている。水を制するものは世界を制する。もちろん空気もそうである。水と空気という生命維持にとってもっとも重要な資源を支配することは、生命を支配することである。
では、なぜ生命を支配したいのか。マルクスの述べたことでもっとも重要なことは、資本は生きた労働を支配することによってしか利潤をあげられないことである。資本とは過去の死んだ労働であり、この過去の労働が生きた労働を支配することによって資本主義経済が成り立っているということである。資本は生きた人間を支配下に置くことを望む。マルクスの用語では、労働者の包摂といわれている過程は、別の言葉でいえば支配である。
資本は生きた労働を、直接的には生産過程で搾取する。工場に押し込められた労働者の悲惨な状態を見れば一目瞭然である。工場での整然とした支配は、工場の外での整然とした支配が実行された後に効力をもつ。近代教育、軍事訓練などがそのために果たした役割は大きい。直接的な労働者の包摂の前には、再生産過程における長期にわたる包摂過程が必要である。
再生産過程は、労働者に滋養を供給し、体力をつける過程であり、資本が提供する財を消費する過程である。生きた労働への搾取が完成するかどうかは、この消費にかかっている。
その消費の重要な鍵を握るのが、生命を維持する食物や燃料資源である。この部門を支配することは労働者を完全に支配することでもある。農業や資源の不安定供給は、食物や燃料の高騰となり、実質的に賃金の上昇につながる。第三諸国の不安定な政治に依存する状態では、資本は安定した低賃金労働者を雇用できない。その意味で、資本主義は、農業や鉱業といった第一次産業部門を完全に支配下に置きたいのである。
最近のアメリカの戦略は、鉱物資源の確保、農業の促進、そのための軍事支出の拡張である。こうした戦略のために、当然、地政学的な戦略が必要となる。資源をめぐる攻防、農業をめぐる攻防は、まさに資本主義の生命線でもある。
中東での戦争は、宗教的原理主義の一面がある。アメリカの宗教的原理主義への回帰が、イラクなどへのアメリカ的価値の押し付けになったというのもまんざら否定できない。しかしながら、資本主義的地政学から考えれば、中東の鉱物資源や水資源の確保こそ緊急の課題であった。
生命への支配はネグリのいう生政治学である。しかし、生身の人間を支配することは難しい。可能な形態は、イデオロギーによる支配や社会規範による支配である。先進諸国で生身の人間を奴隷のように支配することは困難である。ところが、労賃の低い第三諸国では、支配は労働者への直接的支配の形態をとる。水や空気の支配、農業への支配をつうじた生命の危機すれすれの搾取である。
アフリカにおいて、なぜ人々は飢えで苦しまねばならないか。生政治学が直接的な形をとるからである。その意味で資本の恐怖を、身をもって体験しているのはアフリカの人々かもしれない。生政治的支配の暴力に鈍感な先進国の人々より、アフリカの人々のほうが資本主義の本質を射抜いているのだ。これから生命を賭けた闘いが始まるのかもしれない。
芸は身を助ける。株式投資はメダルを取れる。なんのこっちゃ? 早速ですが自己紹介を。私、昨年のアテネオリンピックの自転車競技で銀メダルを獲得しました二六歳の競輪選手、長塚智広です。どうぞ宜しく。早速ですが株式投資にまつわるエピソードを。
競輪選手はレースに行ってナンボ。当たり前ですがレースを走らないと収入はないのです。しかし、オリンピックへ向けて本番までの練習期間、同じように自転車に乗るとは言っても、日本の競輪レースとは全く違う種目のために、日本の競輪向けとは違う練習をしなくてはなりません。つまり国内競輪を走っていられるような状況ではなく、オリンピックの練習のみに徹しなくてはならないのです。
収入源である競輪ができなければ賞金は稼げない。しかしながら固定費、経費は変わらずにかかるわけで、収入の確保はオリンピックに行くにあたって何とかしなくてはならない課題でした。その経費の中にはスポーツマンとしての栄養費(良い物食わなきゃ良い筋肉は出来ません)、愛弟子二人にかかる経費、トレーナーさんにお支払いする給料、マッサージ費用等々があります。
そこで当時役に立ったのが「株式投資」による収益の確保です。「そもそも、なぜ株に興味を持ったの?」とよく聞かれます。それは、中学生の時に新聞紙の中の数字だけのページを見て「これは何?」と思い、父親に尋ねると「株価だよ」と一言。両親は株についての詳しい知識はなかったので、そのままダッシュで本屋に行き『株・入門!』なる本を買いました。その本で自分なりに研究を始め、チャートテクニカル、「信用取引とは何?」「逆日歩、ストップ高、東証、店頭?」等々興味津々で覚えていき、現在に至るわけです。
正直、学校の勉強よりも株の勉強の方が興味があったかもしれません(笑)。まさか、こんな形で株の知識が役に立つとは。他のメディアでもお話ししましたが、オリンピック開催期間中も市場は開いているので、朝一番で注文を出してからレース会場に出掛けました。当時は原油が高騰していたので、石油関連銘柄に買い注文を入れてました。
さてさて、投資が好きな方の中に、他人に「株をやっている」と言って「危ない!」とか、「ギャンブルでしょ?」と聞かれた方はいないでしょうか? 確かに運用方法を失敗すると資産を減らすばかりか、信用取引では全財産を失ってしまう人までいるでしょう。特にバブル崩壊を味わってきた世代の方達には、私の周りでも「株破産」をしてしまった人がいます。
でも、「しっかり勉強、研究をして株式投資をマスターすれば、株式投資は身を助ける」。これを目指して頂きたいものです。私自身、一応の結果を出したので言わせて頂きました。ではまた。
私が水商売を始めたのは約一〇年前。当時一八歳だった私も、立派に年増ホステスと呼ばれる年になりました。
本当は最低でも二三歳までに結婚して引退する予定でいたところを、神様の温かいご厚意でこの年まで水商売をするはめになったので、この際みなさまに水商売についていろいろ語りたいと思います。
まず、飲み屋でモテる男。
これ、本当に簡単すぎます。やばい、簡単すぎて、あと三行で終わる気がしてきた。
それはもう、お金しかないと思うんですよ。たいていのホステスがお金を稼ぐために働いていることと、たくさんお金を貰うためにはお客さんにお金を使ってもらわなくてはいけないというシステムがある以上、これが一番早いんです。
お金を使ってくれればホステスは喜びます。もちろん大好きにもなります。セット料金だけ払ってエロ話する客が10好きだとしたら、たくさんお金を払ってくれるお客さんなら、エロ話プラスちょこっと乳触られたとしても30は好き。もちろんなにもしないでたくさんお金を払ってくれるお客さんなら100好き。っていうか限界超えて150くらい好き。
お金を使いたくない気持ちはわかります。でも残念なことに、お客さんがお金を使いたくない気持ち以上にホステスはお金を使わせたい。いやもう、それは義務に近い。
誰でも、自分が喜ぶことをしてもらえばうれしいじゃないですか。それと同じように、ホステスだって自分の売り上げが上がれば喜びます。ちなみに私は素敵な男性を紹介されれば喜びます。うん、早く結婚したいの。
だから、まずは気持ちよくお金を使うことから始めてください。いいお客さんになれば、大切にしてもらえる。つまり、それだけ自分のために時間が使ってもらえるようになるので、チャンスが多くなります。
連絡もマメにくるし、ある程度のわがままもきいてもらえるようになる。もう、明らかに一括送信で送ったメールとか(天気の話とかまじどうでもいいんだけど)、ホステスが焦って間違えた自分じゃない名前入りのメール(ちょっと待って。俺は佐藤なんだ。鈴木じゃないんだ)を見て地の底まで落ち込むこともなくなるわけです。
そこまできたら、あとはひたすら自己アピール! あくまでも、スマートに。「俺、別に女の子が好きで飲みにきてるわけじゃないんだ」くらいの余裕がホステスを惹きつけます。あと大切なのは悪口を絶対に言わないこと。それが例え自分の席にいるホステスじゃなかったとしても人の悪口は言っちゃだめ。「あの子はどうしてあんなに面白いの? 主に顔が」とか、ちゃんと聞こえてるから! 言われたホステス(私とか)に妨害される上、女の子に嫌われるのは言うまでもありません。
不思議な現象を求めて世界を歩いている私は、中国で会った考古学者から大変なことを教わりました。運命は決まっているけれど、変えることができるというものです。
考古学者が古墳から発見したのは六爻占術という占いでした。三枚のコインを六回投げて占うのです。彼と知り合ったのは八年も前ですが、私は、にわかに信じることができませんでした。だってそうでしょう? コインの裏表に、未来が出るわけはありません。
ところが月日が経ち、私は億万長者になってしまいました。買った株が占いに「上がる」と出た日から上がりはじめ、半年で八倍になったのです。儲けたお金は土地の入札に充てました。すると僅かの差で勝ち、一等地に広い土地を手に入れました。
翌年を占うと、仕事がうまくいかず、年収は激減すると出ました。そしてその通りになってきました。私の経営する会社は、創業以来初めて赤字になろうとしていました。しかし運命は変えることもできたのです。私は占いに出たとおり、東南の角に羊と猿の置物を置きました。すると一週間後から売り上げが上がりはじめました。私の年収は減るどころか、五倍になってしまったのです。
考古学者のところに相談に来た中国人のサラリーマンがいました。
「窓のところに馬の置物を置きなさい。部屋の内側に向けて置きなさい。そうすればあなたは社長になれます」
その相談者は本当に社長になりました。でもある日、反対者が出て降格の話が持ち上がりました。その話を聞いて考古学者は言いました。
「もしかしたら馬の向きを変えていませんか?」
家政婦さんがお掃除のときに、馬の向きを変えていたのです。元に戻したら、反対者はいなくなりました。
六爻占術はまだ日本ではほとんど普及していません。体得するのも少し難しいです。でも、ごく簡単に未来を知る方法を教えましょう。
まず「問い」を持ちます。例えば「このプロジェクトはうまくいくか?」という問いを持ったとき、周りで笑い声が聞こえれば吉なのです。泣き声や怒鳴り声は凶です。だから笑い声が多い職場は、それだけで運を良くしています。
私は自分の部屋だけでなく洗面所にまで、自分の笑顔の写真を置いています。問いを持ってから写真をみれば良いからです。信じられないかも知れませんが、これだけで運命は変えられるのです。
このたびの編集部からの依頼は、「“団塊”呼ばれる世代が今後続々と定年を迎え、いわゆる第二の人生を歩むことになるわけですが、その現実を踏まえて、“生きる”ということについて何か一言を……」ということであります。
私はお寺に生まれ、禅宗である曹洞宗の僧侶の道を、今に至るまでずっと歩んでまいりました。読者の皆さんとはおそらく全く懸け離れた道を生きて来たわけですが、以下、禅の教えについて、思うところを若干お話しいたします。
北海道釧路市に定光寺という曹洞宗の僧堂(修行道場)があります。老衲は長い間その僧堂の堂長をしておりました。その頃から、大本山總持寺貫首となった現在に至るまで、老衲の何よりの楽しみは、修行僧とともに毎日を過ごすことであります。禅宗では修行道場のことを「叢林」と称します。いろいろな樹木が集まって、互いに生長している林のように、さまざまな個性を持った多くの修行僧が和合して一か所に住み、各々切磋琢磨して修行する様子を表現しています。
世間の人々と同じく修行僧も、それぞれが毎日種々の疑問、悩みを抱えて過ごしています。しかし、それらを叢林では、頭の中で解決しようとするのではありません。禅とはものの見方ではなく、自ら実践することであります。座禅を行じ、また日常の行・住・坐・臥の四威儀を古えより伝えられたとおりにきちんと行じてゆくうちに、身心が自然と整えられてゆきます。
曹洞宗両祖のおひとり、高祖道元禅師は、『正法眼蔵』「行持の巻」において、慧稜和尚という禅僧をほめたたえておられます。和尚は、自ら修行上の疑いの気持ちを常に抱えながらも、三十年間坐禅をひたすら行じ続け、遂に大悟した人です。道元禅師は、誰もがこの和尚の生き方を必ず見習うべきであると示しておられます。
また高祖さまは、『弁道話』において、一人ひとりの修行弁道がすなわち過去・現在・未来を通じて、絶え間なく人々を救済することになるのである、と示しておられます。
志を持って日々の行持を至心に実践してゆくことが、自らの知らないうちに、多くの人々の教化に、そして安心につながるのである、という教えです。一つひとつの威儀、起居進退を大切に行じてゆくことが、そのまま慈悲行に通じているということです。
禅というのは、頭にばかり頼るものではなく、また外にまなざしを向けて必死に追いかけてゆくものでもありません。いわば、自らの足もとに気をつけて、焦らずにしっかりと歩んでゆくことです。これを「脚下照顧」といいます。老衲の生きる上での依りどころです。
皆さんにも、よく味わっていただきたい言葉です。
岡本吏郎著
●一六八〇円(税五%)●4-478-73309-0
一応、私はお金の専門家らしい……。
自己認識では、「?」だけど、周りから言われるようになり、いつの間にかそうなってしまった。
その「お金の専門家」と思われている男の実体を、少しだけ……。
株は大学時代からやっている。でも、それほど大勝ちをしたことはない……。
若い頃は、ずいぶん売り買いもしたが、今はかなり保守的な投資だ。
まぁ、頭の体操レベルでやっている。偉そうに株について語る事なんてできない。
そもそも、私には株をやっている時間がない。仕事が忙しすぎてそんなことをしている時間がないのだ。だから、株を買ったらそのまま見ることもない。私にとって株はそんなものだ。
今となっては学生時代や20代の頃がなつかしい。あの頃は、本当に一つのことに集中できた。株を売買していても面白かった。
今、国は株式市場や投資信託への個人のお金の流入に必死だ。そのために税制も整えている。
田中角栄は「公営集団住宅に借家住まいさせたら、住人は共産化する。持ち家で住宅ローンを抱えれば。保守化するものだ」と言ったそうだ。そして、日本国民は借金をして家を建てた。東京でも7割の人が借家に住んでいた日本人が戦後の国の政策により持ち家志向になった。
同じようなカラクリは今回の国の政策にもある。まぁ、当時よりみんな頭が良くなっているから、それが何かはわかるだろう。
一応、私はお金の専門家らしい……。
自己認識では、「?」だけど、周りから言われるようになり、いつの間にかそうなってしまった。
しかし、今の私の話から「運用」の話が聞けないことはわかっていただけただろう。
これから私は「お金」の話を書いていくようだが、世間一般で言われている「運用」の話は出てこない可能性が高い。こんな言い方をしているのは、この本では書くことを決めずに書こうとしているから。今の私は、まだ書くことを決めていないのだ。
しかし、どんどん書かなくてはいけないから、まずは私と「お金」のつき合い方から書いていこう。それは、きっと世間の常識からは少し変わっているのではないかと思う。そして、私なりの「資本主義社会での生き方」の知恵をご披露したいと思う。
さて、その先は……。
それは読んでのお楽しみである。
(岡本吏郎氏の許可を得て、『お金の現実』「はじめに」より、編集部が抜粋しました)
連載の第二三回です。前回「政治システムとは何か」の前編をお話ししました。第一に、政治を集合的決定(社会成員全体を拘束する決定)だとするパーソンズの定義を紹介し、この拘束「を」可能にするもの、拘束「が」可能にするものが問題になると言いました。
第二に、拘束「を」可能にするものを討究するウェーバー的思考を紹介しました。それによれば、人々は第一に「権力」を通じて、第二に「正統性」を通じて拘束されます。ここでいう「権力」は、相手の抵抗を排して意思を貫徹する能力によって定義されています。
さらに「正統性」とは、ウェーバーによれば、決定への自発的服従契機の存在です。問題は自発性の中身ですが、彼は内包的にでなく外延的に記述していて、「カリスマがあるから/伝統だから/合法手続経由だから、自発的に従う」といった類型論を展開しています。
第三に、拘束をめぐるウェーバー的思考を洗練させる試みとして、宮台の予期理論的な権力理論を紹介しました。概括すると、選好構造と予期構造の組に由来する、回避選択への圧力が存在するとき、この圧力を体験する者を服従者とする権力が存在すると見做します。
ある人iが、自分の行為が招く相手jの行為(がもたらす社会状態)を予期し、理想的状態y(をもたらす行為)を断念して次善的状態x(をもたらす相手の行為を招く行為)に甘んじる場合、iは権力を体験しています。相手jが権力者で、自分iが服従者です。
iが理想的状態yを断念するのは、それをもたらす筈の行為(が招く相手の行為)が、次善的状態xよりも悪い社会状態(回避的状態z)をもたらすからです。回避的状態zを避けるために次善的状態xをもたらす選択に甘んじる選択を、「回避的選択」と言います。
宮台理論の特徴は、権力が服従者の了解(選好と予期)に即して定義されることです。了解の正しさは問われません。例えば、玩具の拳銃でも本物だと思い込めば権力を体験します。だから権力を行使したい者にとって、相手の了解を操縦することが重要になります。
服従者の了解に定位すると、他にもさまざまな了解操縦を問題にできます。例えば「権力主題」(服従者に与えられた行為選択肢群)の操縦です。図1の例ではjが権力者たらんとすれば、「勉強する/遊ぶ」以外の選択肢が存在しないとiに思い込ませることが大切です(「学校をやめる」など(1)ゲームから降りる(2)選択肢を主題化させないことが大切です)。
最も重要な了解操縦は「権力の人称性」です。図1の例では、及第基準が誰が作ったから分からない制度で決まっている場合、服従者iが被る「及第/落第」という体験の選択性は、jにも誰にも帰属できません。こうしたタイプの権力が「奪人称的権力」です。
また、直接にはjが「及第/落第」を選択したのだとしても、世間一般(任意の第三者)が選択を支持し、誰が教師でも同様に振る舞うだろうとiに予期される場合、あたかも世間が選択したかのように了解されます。これが「汎人称的権力」です。
奪人称的権力は抵抗の宛先を「消去する」ことで、汎人称的権力は抵抗の宛先を「分厚くする」ことで、権力の服従蓋然性を高めます。ウェーバーが自発的服従契機の存在として定義した「正統性」は、宮台理論では、権力の人称性をめぐる了解操縦だと記述されます。
合法的正統性(法だから従う)は権力の奪人称化の装置と見做せます。また伝統的正統性(皆がそう振る舞うから従う)は汎人称化の装置と見做せます。カリスマ的正統性は、心酔がある場合は選好構造自体が変わる(排するべき抵抗がない)ので権力でなく、心酔がない場合は伝統的正統性(皆がそう振る舞うから従う)と同じ汎人称化の装置と見做せます。
以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。
さて今回は「権力源泉の社会的配置」をめぐる話をします。権力を可能にする了解操縦のリソースを一括して「権力源泉」と呼びます。「権力源泉の調達コスト」と「服従がもらたすベネフィット」との相殺勘定が、権力動機を左右し、また権力の安定性を左右します。
権力源泉の調達コストを考察する場合、「権力連鎖」の形成戦略が要になります。権力連鎖とは三人以上を権力で結合することを言います。権力連鎖は「権力反射」と「権力接続」との組合せで形成されます。この形成仕方で権力源泉の調達コストが変わります。
権力反射とは、「Xがjに従うようにiに命じる」(iはXを恐れるがゆえにjに従う)場合です。これに対して、権力接続とは、「Xがiを従えるようにjに命じる」(jはXを恐れるがゆえにiに命じる)場合です。両者では、権力源泉の配置が全く異なります。
まず、権力反射を先の図1(権力的体験のマトリックス)を使って表現します(図2)。
左側は「iが体験するXからの権力」の図です。権力主題は「jに従うか否か」です。右側は「iが体験するjからの権力」の図です。この場合、iにおけるjからの権力の体験(右側)は、iがXからの権力を体験(左側)するからこそ、もたらされています。
権力反射の特徴は、第一に、権力源泉が全てXに集中しています(だからXが死んでしまえばjの権力は直ちに消滅します)。第二に、それゆえに、iとjの間の権力関係では権力主題が任意化されています(jが何を言っても従えとiはXに命じられています)。
権力主題が任意だといっても一定の限界があり、この任意性の範囲を(Xから与えられたjの)「権限」と言います。この権限の範囲内でjからiへの権力はXによって「正統化」されています(正統性の概念は、権力の継承線を指すこちらの用法がもともとです)。
こうした権力反射と対照的なのが、権力接続です。権力反射が「Xがjに従うようにiに命じる」(iはXを恐れるがゆえにjに従う)場合なのに対して、権力接続とは、「Xがiを従えるようにjに命じる」(jはXを恐れるがゆえにiに命じる)場合です。
権力接続には、第一に「権力を可能にする権力」の為の権力源泉という反射がなく、権力源泉の集中がない。Xはjに対して、jはiに対して、権力源泉を持たねばなりません。その結果、第二に、個々に分散した権力源泉ごとの性質に従って権力主題が制約されます。
権力反射も権力接続も、これを組合せて、より長大な権力連鎖を作り出せます。権力反射だけを要素とした権力連鎖を「権力反射鎖」と呼べます。権力反射鎖の形成仕方には、(1)求心的権力反射鎖、(2)直線的権力反射鎖、(3)委任的権力反射鎖、の三種があります。
求心的権力反射鎖は、そこに含まれる各権力反射が同一のメタ権力(X)を契機にします。同一頂点XがAに従うようBに命じ、Bに従うようCに命じ…という形で[A→B→C…]と決定が流れます。XがBに従うようC1とC2に命じれば流れは分岐します(図3)。権力源泉はXに集中しており、Xは人称的/奪人称的/汎人称的であり得ます。
直線的権力反射鎖は、一つの権力反射のオブジェクト権力における権力者が、別の権力反射のメタ権力を行使するもので、XがAに従うようBに命じ、AがBに従うようCに命じ、BがCに従うようDに命じ…という形で、[A→B→C…]と決定が流れます。頂点Xへの権力源泉の集中はなく、各権力者が権力源泉を持たねばなりません(図4)。
委任的権力反射鎖は、直線的権力反射鎖と形は同じですが、どの権力反射においても服従者が同一人物である場合です。XがAに従うようYに命じ、AがBに従うようYに命じ、BがCに従うようYに命じ…という形です。Yに命令する決定権限がX→A→B→C…と委任されますが、決定は流れません。この場合、権力源泉は頂点Xに集中します(図5)。
次に、権力接続だけを要素とした権力連鎖を「権力接続鎖」と呼びます。権力接続鎖の形成仕方には、?求心的権力接続鎖、?直線的権力接続鎖、?委任的権力接続鎖、の三通りがあります。先に述べた各権力反射鎖の分類と似た形です。
求心的権力接続鎖は、同一頂点Xが、Bを従えるようAに命じ、Cを従えるようBに命じ…という形。直線的権力接続鎖は、XがBを従えるようAに命じ、AがCを従えるようBに命じ…という形。委任的権力接続鎖は、XがYを従えるようAに命じ、AがYを従えるようBに命じ…という形。全てにおいて権力源泉は各権力者に分散します(図6〜8)。
これ以外に、権力反射と権力接続を混在させた権力連鎖や、図3〜8までの類型を連結した権力連鎖を考えられます。重要なのは、求心的権力反射鎖(図3)と委任的権力反射鎖(図5)だけを素材として用いた権力連鎖だけが、権力源泉を集中させられることです。権力連鎖において権力源泉が一カ所に集中していることを、「権力の公式性」と言います。
求心的権力反射鎖と委任的権力反射鎖だけの組合せは例えば以下のようです(図9)。
前回、政治とは社会成員全体を拘束する決定を生む機能だとした上で、拘束をもたらすものは「権力」と「正統性」だと言いました。今回を踏まえれば、問題の拘束は「権力連鎖の形成戦略」と「権力の人称性の操縦戦略」によってもたらされると言い直せます。
権力の人称性の操縦戦略では、人称的権力のアドホックさを回避すべく、権力の汎人称化/奪人称化の戦略が採られます。権力連鎖の形成戦略では、権力源泉の分散による決定の流れの阻害を回避すべく、権力の公式化(求心的/委任的権力反射鎖化)がなされます。
単純な原初的社会では、政治的機能の中核は、権力の人称性の操縦戦略によって担われます。複雑な社会になると、それに加えて権力連鎖の形成戦略が――従って組織の構成が――重要な位置を占めるようになります。そのようにして全域的な拘束がもたらされます。
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戸高カントリークラブの西コース1番ホールは、レギュラー・ティーからでも426ヤードある距離の長いパー4である。ティーグランドからかなり打ち下ろしになっているが、フェアウェイの左、ドライバーショットの落ちるあたりにバンカーがあるため、それを避けると少し右を狙う結果、その迂回分がちょうど打ち下ろし分と相殺になり、結局、420ヤード近くになる勘定だ。
ティーグランドのうえで、ティーを投げて打順を決めたあとで、浩介が詠美に近づいた。
「先生、ただプレーするのもつまらないから、何か、握りましょう。ハンデはどのくらい差し上げたらいいのかな。例えばエブリホールワン(すべてのホールで1打ずつ)ってところかな」
浩介は重成の意見を聞きたそうにその顔を見たが、詠美が、その答えを待たずに言った。
「スクラッチでやりましょう」
スクラッチとはハンデなし、つまり対等な条件という意味である。
「スクラッチだって。本当か」
浩介が目を剥いた。
「はい」
「先生、オフィシァル・ハンデ(公式に認められたハンデ)はいくつですか」
「私、オフィシァル・ハンデを持っていません」
「おい、それは無理だ。オフィシァル・ハンデも持たないレベルの人とスクラッチなんて、やってもしようがない」
「そうおっしゃらずに」
詠美は笑顔を湛えたまま静かに言った。
「うーむ」浩介は笑いをこらえるような仕草をしながら、考え込んだ。「まあ、いいでしょう。でも、賭けの賞品はどうしましょうか」
浩介は、ちょっと考えたが、少し意地悪な表情になった。
「もし先生が負けたら、これから流通問題を語るときにゴルフのたとえ話はしないことにしましょう。今後、ゴルフのたとえを使ったら、1回につき1000円の罰金をいただく。それから、もし先生が勝ったら、私は1年間ゴルフをやめる」
「本当ですか? いいでしょう」
詠美がはっきりと承諾した。
浩介は、ちょっとの間、怪訝な顔をしていたが、「さあ、やりましょう」と言った。負けて恥を掻きたいのなら、そうしたらいいだろうという感じだった。
まず、堀越が緊張してティーグランドに立った。
ポスチャー(姿勢)を決めるのにかなり時間を掛けたうえで堀越が打ったボールは、左に引っかけ気味に高く上がった。その方向にOB杭が見えたが、ボールはその手前に落ちた。「ああ、よかった」と胸をなでおろした堀越に向かって、「距離が出ないでよかったな」と浩介が冷やかした。
「いや、本当に」
堀越は、如才なく受けた。
次の重成はいきなり派手な空振りをして、「済みません」と謝った。
「頭が上がってまるでボールを見ていない」と浩介が解説した。「練習ということにしておく。マリガン・ルールってやつだ。最初の1打だけは、無罰で打ち直せる。つまり、いまのは素振りと解釈する。従って、続けて打っていい」
重成は、そのままもう一度打った。これは、ボールの頭を叩いた結果、ティーグランドすぐ先の斜面を低い弾道で落ちていき、フェアウェイまで届かずにラフに止まった。
3番目の浩介のショットはさすがだった。ややドロー気味の弾道を描いて、ボールは狙いどおりフェアウェイやや右目に止まる。残り150ヤードの目印の木の20ヤードほど手前にあるから、ドライバーの飛距離は250ヤードほどだっただろう。
「ナイスショット」とキャディーが言った。前のふたりのショットが悪かったせいか、安心したような声だ。浩介のことは、かねて、よく知っているらしい。
最後に、詠美がすっきりと背筋を伸ばした前傾姿勢でアドレスした。
浩介が、興味津々という顔で眺めている。
ゆっくりしたテークバックから打った。少しトップ気味にクラブが入ったのか、低めの弾道でボールが飛び出し、浩介のボールと同じ方向で、40〜50ヤード手前に止まった。
「ナイスボール」と浩介が言った。「なかなかいい球を打つなあ」
詠美は何も言わず、丁寧に礼をして、ティーグランドを後にした。
「まるでプロみたいだな。プロのなかには、最初のホールでは意識的にトップ気味に打つ人がいるんだよ。プロでも出だしはいやなものだそうで、まさかのリスクを避けるには、トップボールが安全だというんだな」
ティーグランドからの下り坂を歩きながら、浩介が重成に説明した。
「そうですか。やっぱりプロなんだ」と重成が言ったので、「ははは、『やっぱりプロ』はないだろう」と浩介は笑った。
重成は、それどころではない、自分のボールに走っていく。
フェアウェイには、柔らかい初夏の朝風が吹いている。
重成のボールは、坂道を下りきったところにある。
重成はボールを打ったが、これまたゴロに近く、ようやくフェアウェイに届いたという程度で、続けてまた、重成が打つ順番であった。
「私ばっかりやってて悪いですね」と訳の分からないことを呟きながら、重成は打ったが、これもひねたような変な当たりだった。
堀越は、右のOB杭の近くの斜面から、フェアウェイ中央、浩介の球の位置に近いところに、上手にボールを出した。このあたり、やりなれている。
詠美は2打目をウッドクラブで打った。ピンまで220ヤード程度だったろうか。ボールは、低い弾道で飛んで、いわゆる花道、つまりグリーンのすぐ手前に止まった。きわめていい当たりだったのに、グリーンまで届かなかったのは、詠美がグリーンの両サイド手前にあるバンカーを避けて、はじめからグリーンを狙わなかったのだと、堀越は感じた。
浩介は「やるな」というように、ちょっと怖い目を向けたが、アイアンクラブを使って打った。ボールは少しドロー気味にグリーンをとらえ、左目、ピンからかなり離れたところに乗った。
「ナイスオン」と堀越と重成が同時に叫んだが、詠美は何も言わなかった。
花道からの詠美のアプローチは40ヤード程度。ボールは低い弾道で飛び出した。
大きい、とだれもが思っただろう。しかし、ピンに向かって飛んでいったボールはバックスピンがかかり、急激にスピードを落とし、そのまま旗竿に当たってカップに入った。
「わっ。バーディーだ」と堀越が大声を上げた。
「ナイス・バーディー」と重成も叫んだが、言ったそばから、自分で「日本人はナイス・バーディーと言うつもりで、女性に対してナイス・ボディーと発音してしまってセクハラになることがあるそうです。注意しなきゃ」と付け加えた。
「君は余計なことを言う人だね」と顔をしかめた浩介だったが、この発言に影響されたのか、詠美のバーディーに煽られたのか、スライスラインの長いファースト・パットが打ち切れず、大きくショートし、3パットのボギーとなった。
次のティーグランドに向かいながら浩介は「ツキも実力のうちと言うからな」と悔しそうに呟いたが、すごいバーディーだったと大騒ぎする堀越と重成には聞こえなかった。堀越は6(ダブルボギー)、重成は11叩いていた。
3
2番ホールは、496ヤード、パー5。2つのフェアウェイ・バンカーの間を狙う。
詠美はナイスショットを放った。芯を食ったボールが、1番ホールのティーショットより高い弾道で距離も出て、2つのバンカーの中間、フェアウェイ中央に止まった。
浩介のショットは、今度もドローボールで、左のバンカーを越えたところまで飛んだ。堀越は、距離は出なかったがフェアウェイに落ち、重成は、2打目も浩介の第1打に届かず、その後もチョロチョロし続けた。
このホールのグリーンのうえで、ちょっとした事件があった。
堀越が打ったバンカーショットの跡をキャディーが直している間、重成が旗竿を持ってホールのところに立った。堀越、詠美、浩介と、それぞれかなり長いパットを打った。いずれも入らず、ホール周辺に3つのグリーンマーカーが置かれた。そこで、いよいよ自分がパットをする段になったのだが、そのとき、重成が騒ぎ出した。
「あれ、だれか、私のパターを知りませんか?」
キャディーも含めて、皆がグリーンのうえを見回したが、見つからない。
「私、置いてきたのかしら」とキャディーがカートのほうを振り返った。
「いえ、私は自分で持ってきました。絶対に間違いありません。はっきり記憶しています」
「おかしいな。なくなる場所なんかないぞ」と言った浩介が、「馬鹿ッ」と叫んで、重成のところに走り寄った。「自分で持っているじゃないか」
「あっ」と重成が言った。
見ると、重成が旗竿と一緒に、右手で自分のパターを握っていた。
「いい加減にしろ」
「済みません」
大爆笑となった。
「これは、よほど気をつけないと、集中力(コンセントレーション)が切れるぞ」と浩介も笑いをこらえている。そして、その言葉どおり、浩介のパー・パットは、危うくはずれそうになったが、運良くカップの縁をぐるりと回って入った。詠美は、きれいに2パットでパー。危なく連続ボギーになりそうだった浩介は、すっかり不機嫌な顔になった。
続く3番ホール。349ヤード、パー4。距離は短いが、フェアウェイは狭く上り坂になっているので、特に2打目のクラブ選択がむずかしい。ここで、浩介がティーショットを左に曲げて、林のなかに入れてしまい、ボギーとした。通算2オーバー。詠美は、2打目がきれいにグリーンをとらえ、バーディーこそ逃したが、パー。通算1アンダーで、浩介に3打差をつけている。堀越はボギーを続けているが、重成は、いくつか数えるのがむずかしいほど叩いている。
次の4番ホールは、ティーグランドの横に茶屋がある。
一同は茶屋のまえに来ていた。
「暑い。何か飲んでいこう」と言いかけた浩介が「おい。それは何だ?」と重成に向かって叫んだ。
皆が重成を見て、「あっ」と声を出した。重成が、まえのホールの旗を右手に、まるで軍旗でも捧げ持つようにして、そのままこのホールのところまで来てしまっていたのである。
「おい、早く返してこい。後ろの組がどこを狙っていいか分からないで困っているぞ」
「あら、気がつかなかったわ」と、キャディーが慌てて旗を戻しにいった。
「おい、もう君はスコアを数えなくていい。旗の面倒も見なくていい。ひたすら、皆の迷惑にならないよう、プレーを早くしなさい」と浩介が宣告した。たしかに、これまで11、9、13というスコアでは、数えるのが無駄というものだった。
「はい」
さすがの重成も、旗を持って歩いたのでは話にならない。叱られてしょんぼりとなった。
この4番ホールのティーショットでも、詠美はナイスショットを放った。
前半9ホールが終わったときには、浩介41、詠美38、堀越47。重成はノーカウントであった。詠美は浩介に対して圧勝である。
クラブハウスに戻ってくる道すがら、浩介の顔は、苦悩に歪んでいた。
浩介はひどく憔悴している。食堂に座っても、だれも口をきかない。詠美も気の毒そうに眺めているばかりである。
きまずい沈黙が5分も続いて、その間、男性3人はビールを飲み、詠美はウーロン茶を嘗めていた。やがて注文の食事が届く。
「済みません。私が変なミスばかりするものですから」と重成が恐縮し切って頭を下げた。
「俺も長くゴルフをやっているが、ああいう珍しいことが連発されるのは見たことがない。真剣な競技の最中だったら、失格だろうな」
「決してわざとじゃありません」
「当たり前だ」
浩介は苦笑したが、ようやく気を取り直したふうに詠美に目を向けて「一体、先生は何者ですか」と訊いた。「もしプロでなくても、それに近い。私はこれまで何度も女子プロとプレーをしたが、プロだとしても、これは相当レベルが高いほうだ」
「それは」と詠美が言い出したのを、重成が引き取った。
「許してください。そのとおりなんです。佐藤さんは、かつて、期待された女子プロの卵でした。でも、事情があって、その道に進みませんでした」
「やはりそうだったのか」
浩介は、じっとグラスを見つめていた。
「そこまでいい腕を持っていながら、どうしてプロにならなかったんですか」
「家庭の事情でそういうことをやっていられなくなったんです」
「結婚ですか」
「それも関係があります」
詠美は、その先を言おうか言うまいか考えている様子だった。
しかし浩介は、まったく別のことを考えていたらしい。それは次の発言で分かった。
「先生、そういうことなら、これからが決戦だ。これまでは身分を明かさなかったのだからノーカウント。後半で勝負。ベット(賭)の条件は同じ。いいですね」
「いいわ」と詠美が受けた。笑顔がなかった。
「専務、いいんですか」と言う重成を、浩介はじろっと睨んだ。
「君は自分のパターがどこにあるかを、いつも考えていなさい。また君は旗を次のティーグランドまで運んでいかないよう、かならずチェックしなさい。そして君は、ベラベラと余計なことを言って同伴競技者の心を乱さないよう心がけなさい」
「分かりました」と重成は神妙な顔をした。「今のお言葉を『モーゼの十戒』ならぬ『専務の三戒』として肝に銘じます」
「バカ、それが余計なことだ」
浩介は呆れた顔で苦笑した。
「さあ、行きましょう」詠美は静かに立ち上がった。
(つづく)
去る二月一六日の京都議定書発効を受けて、三月二九日、政府地球温暖化対策推進本部は、「京都議定書目標達成計画(案)」をとりまとめた。目標達成計画は、内閣府のホームページ上に公表され(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ondanka/pc/050330keikaku.html)、パブリック・ヒアリング(意見募集)が四月一三日に締め切られた。
二〇〇八年から二〇一二年にかけての第一約束期間内の、温室効果ガス(二酸化炭素[CO2]、メタン、一酸化二窒素、二種類の代替フロン、六フッ化硫黄の排出量に一定の係数をかけてCO2換算した値)の年平均排出量を、一九九〇年比、六%削減することを、京都議定書は日本に義務付けている。
二〇〇二年度の排出量が、一九九〇年比、七・六%増であることからすれば、「目標達成」は容易ではなさそうに思える。ただし、森林吸収量が九〇年の排出量の三・九%と見込まれている(ただし三・九%の見込みを達成するためには、間伐、下草取りなどの森林管理が十全に行われる必要があり、現状のままでは二・六%程度にとどまるであろうと推測されている)ため、実質的な必要排出削減率は二・一%にとどまる。加えて、京都メカニズム(排出量取引、共同実施、クリーン開発メカニズム)により、一・六%相当の「削減」を見込んでいるため、国内対策によって削減しなければならないのは、わずか〇・五%ということになる。
さらに、非エネルギー起源CO2で〇・三%、メタンで〇・四%、一酸化二窒素で〇・五%の削減が期待され、その他三ガスは合わせて〇・一%増と見込まれているので、エネルギー起源CO2は〇・六%増で目標は達成できる勘定になる。とはいえ、二〇〇二年度のCO2排出量が、九〇年比七・六%増というわけだから、目標を達成するためには七%のCO2排出削減が必要とされる。
以上のような目標を達成するには、いかなる対策を講じればよいのかを論じたのが、このたび公表された「目標達成計画(案)」なのである。
関係府省間の調整にもっとも手間取ったのは、対策のひとつとして「環境税」(炭素含有量に応じて化石燃料に課税する税制)を「計画」に書き込むか否かであった。
環境省が、省の威信を、環境税導入にかけていることは、もとより言うまでもあるまい。森林管理の予算増に環境税収を充てたいとする農林水産省は、環境税導入の推進派となり、環境省は強力な味方を得たことになった。日本経団連は環境税導入に一貫して反対しており、その意向を代弁せざるを得ない経済産業省は、環境税を「計画」に書き込むことに異論を唱えたそうである。結果的に、次のような文言を書き込むことで折り合いがついた。
二酸化炭素の排出量又は化石燃料の消費量に応じて課税するものとして関係審議会等において論議されている環境税は、経済的手法の一つであり、価格インセンティブを通じ幅広い主体に対して対策を促す効果や、二酸化炭素の排出削減対策、森林吸収源対策などを実施するための財源としての役割等を狙いとするものとして関係審議会等において様々な観点から検討が行われている。
環境税については、国民に広く負担を求めることになるため、関係審議会を始め各方面における地球温暖化対策に係る様々な政策的手法の検討に留意しつつ、地球温暖化対策全体の中での具体的な位置付け、その効果、国民経済や産業の国際競争力に与える影響、諸外国における取組の現状などを踏まえて、国民、事業者などの理解と協力を得るように努めながら、真摯に総合的な検討を進めていくべき課題である。
伝えられるところによると、最後までもん着が続いたのは、右の引用文の第二パラグラフの最後の文章に「早急に」という副詞句を挿入するか否かであったそうである。日本経団連は「早急に」と書くことに断固反対し続けたため、私の知る限り、官庁文書には登場したことのない「真摯に」という副詞句にそれを置き換えることにより、決着がついたそうである。
「真摯」という言葉は「まじめでひたむきなさま」(広辞苑)を意味し、「真摯な態度」という言い方をするけれども、「真摯に検討を進める」という言い方が、文法的に正しいのか否か、私にはわからない。
京都議定書の定める第一約束期間は、三年後の二〇〇八年に始まるのだから、「早急に」検討を進める必要のあることは、自明の理というべきだし、「まじめにひたむきに」検討を進めれば、早い時期に答えが出るのもまた、自明の理というべきである。その意味で、「目標達成計画(案)」は環境税導入を容認する内容となっている、と私には読める。
それはさておき、環境税ほど検討に検討を重ねられてきた税制は、他に類例を見ないはずだと私には思える。消費税導入の際にも、その経済影響についてほとんど議論がなされなかったし、環境税に近い石油石炭税の導入(二〇〇三年一〇月一日)に際しても、産業界からの強い反対の声は聞こえず、その経済影響についても新聞紙上で取り上げられるに足るだけの議論はなされなかった。
なぜ環境税についてのみ、いつまでたっても「検討が不十分」と言われるのか、どうにも私には理解しかねる。
また、前回の「温暖化対策推進大綱」(二〇〇二年三月)と同じく、今回の「目標達成計画(案)」にも、対策が列挙されるだけであって、それらに要する費用については、まったく触れられていない。なぜ費用について言及しないのか。その理由は次のとおりであろう。
第一に、費用を明記すれば、その財源として環境税が浮上することへの警戒。第二に、将来の予算案に対して制約を課するような「計画」への財務省の拒否反応。しかし、「合理的」な政府ならば、費用対効果にかんがみて、対策実施の優先順位を決めるはずだから、費用についてまったく触れられていないのは、「計画」の「合理性」への疑念を残すことになりかねない。
部門別の排出削減量については、次のように見込まれている。産業部門は八・六%減、民生部門は一〇・七%(業務部門は一五・〇%、家庭部門は六・〇%)増、運輸部門は一五・一%増、エネルギー転換部門の自家消費分は一六・一%減。
産業構造の転換(GDPに占める製造業の比率の低下、製造業内でも素材型から加工組立型への転換)を前提とすれば、産業部門の排出量減少は当然のこととしてうなずける。その半面、業務部門の増勢が著しいのもまた、製造業からサービス産業への産業構造の転換の必然的結果としてうなずける。家庭電化製品の普及がほぼ飽和状態に達したこと、そして家電製品の省電力化の進むことが、その増勢を緩やかにしているのであろう。
かねて私は、自動車保有税を「完全燃費比例型」に改めるべきであると主張してきたが、低燃費車の普及ほど「痛み」の少ない割に効果の大きい対策は他に類例を見ないであろう。運輸部門のCO2排出量は、一九九〇年から九七年にかけての七年間で二三・〇%(平均年率三・〇%)も増加した。乗用車が普及途上にあったこと、3ナンバーの高級車やレクリエーションビークル(RV)の普及などが乗用車の燃費効率を悪化させたこと、そしてトラック(宅配便)による物流が激増したことなどが、その理由として挙げられる。
ところが、九七年以降は、横ばい、ないし減少傾向をたどっている。八〇年代末のバブル経済期に「CIMA現象」と呼ばれていた高級車志向が「VITZ現象」と呼ばれる小型車志向へと転じたこと、各車種とも燃費効率の改善が進んだことなどが、その理由として挙げられる。
今後、自動車税制の改革等を通じて、消費者の低燃費車志向を高めることにより、さらなるCO2排出削減が期待される。また、京都のような観光都市にLRT(Light Rail Transit 次世代路面電車)を敷設して、市内に入る要所要所にパーク&ライドのための大規模駐車場を整備することにすればよい。
「市電」と呼ばれた昔の路面電車とはちがって、LRTは騒音はほとんどなく、郊外に出れば私鉄電車並みのスピードで走れるし、「低床」であるためベビーカーに子供を乗せたまま楽々乗降できる。しかも、工事費は地下鉄の約二〇分の一程度と圧倒的に安いばかりか、自治体は道路特定財源を原資とする補助金を受けられる。駐車場の心配なしに都心部に出かけられるようになるから、都心部の活性化にもつながる。通勤・通学にLRTを使うようになれば、そのCO2排出削減効果には目覚ましいものがあろう。すでにいくつかの自治体がLRTの敷設を計画しているが、費用対効果という点で、また、悪名高い道路財源の有効活用のためにも、最優先すべき対策のひとつではないだろうか。
物流の効率化によるCO2排出削減効果もまた大きい。貨物の搬送を自家用トラックから営業用トラックにシフトさせることの効果は大きい。なぜなら、自家用トラックの場合、積載率が低いし、空っぽで高速道路を走って帰ってこなければならない。営業用トラックの場合、多くの荷物を混載するため、積載率を高めることができるし、逆方向への荷物を積んで帰ってくることができる。物流の一定割合を、トラックから鉄道および海運にシフトさせることを企業に対して義務付けることの効果もまた大きい。
以上に概観したとおり、運輸部門の排出削減余地はきわめて大きいし、人びとの享受する利便性を対策が損なうことはほとんどないと言ってよい。燃料電池で走る自家用車を街のそこかしこで見かけるようになるのは、まだまだ先のことだろうけれども、ガソリン(または軽油)エンジンとモーターを組み合わせて走るハイブリッド型の大型乗用車やトラックの登場は間近いにちがいあるまい。
最後に一言付け加えておきたい。京都議定書のような国際条約には罰則規定がないのが普通であるが、仮に目標を達成できなければ、ロシアのホットエア(努力せずに使い残した排出権)を相手の言い値で買わざるを得なくなる羽目に陥るか、もしくは未達成分の一・四倍に等しいだけの排出削減分を、第二約束期間の削減義務分に上乗せしなければならない。第一約束期間の努力不足が、第二約束期間に持ち越されることを忘れてはならない。
雲
ゆったり風に身をまかせ
気まぐれに形変え
雄大に
美しく
流れてく
そんな雲に なってやる
▼『思考停止企業』。少々変わったタイトルのこの本は、架空の企業が舞台のドラマ仕立ての企業変革の実践書です。
隣の部門が何をしているのかわからない。組織は求心力を失ってバラバラ。社員に危機感が乏しい。売上が低迷、開発力が生まれない……これらを総称して「思考停止状態」と呼んでいます。
こうした症状の処方箋として、第一線で企業変革に取り組む著者グループがナレッジマネジメントを活用した解決策を提示したのがこの本です。
本書には実際の問題に取り組んでいる人だけがわかる、企業変革のリアルな現実が描き出されています。ご一読を。 (木山)
▼リチャード・ファインマン曰く、「数学や物理は、神様のやっているチェスを横から眺め、そこにどのようなルールや美しい法則があるかを探していくこと」だそうです。なるほど!
数学や物理のみならず、書籍市場もまた、気まぐれな本の神様たちが繰り広げるチェスのようです。予想外の本がベストセラーになったり、売れると思った本が売れなかったり。偶然なのか、それとも必然なのか。あまりにランダムなその動きにいつも翻弄されています。
最近では、ベストセラー『「株」で3000万円儲けた私の方法』が、いままでの法則を無視した売れ方で、日々うれしい悩みを与えてくれます。
ファインマンさん、はたして書籍市場にも美しい法則など存在するのでしょうか? いやいや、焦りは禁物。あきらめずにチェスを見続けること。それこそが重要なのかもしれませんね。 (大坪)
▼この四〇年ばかりの間、マーケターたちは、カスタマーは常に正しい、そのニーズに競合よりもより良く応えることがマーケティングで勝つ秘訣だ、そう叩き込まれてきました。経営者も「顧客志向」を掲げて安心したがっている。でも、マーケティングに精通し売る側に「もっと、もっと」と要求しておきながら次の瞬間には背を向けてしまう今の気紛れな消費者に日々接しているひとたちが、本当にそんなこと信じているでしょうか。もっともっともっと顧客志向に徹すればお客様は帰ってきてくれるのか? 競合に勝てるのか? 本当? いわゆるモダン・マーケティングはそういうジレンマの真っ只中にいます。そうした中で、心理学、社会学、人類学、生物学、複雑系科学などのさまざまな学問をとり入れて理論武装し、消費者行動を理解しようとする活動がポストモダン・マーケティングです。 (吉田)
「Kei」では、経済・経営に関する論文の投稿を受け付けております。字数は1000〜4000字。受け付けは電子メールのみです。冒頭に概要、氏名、略歴、住所、電話番号、電子メール・アドレスを添えてください。採否についてのお問い合わせには応じられません。採用の場合は編集室より電子メールでご連絡します。受け付けのアドレスは以下のとおり。
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