◎――――【巻頭エッセイ】
第二のキッシンジャーはいるか
野田宣雄
Noda Nobuo
1933年生まれ。京都大学名誉教授。専攻は西欧近代史。著書に『ヒトラーの時代』など。
二期目を迎えたブッシュ大統領にとって、最大の課題の一つは、なんといってもイラク問題に速やかに片をつけ、このところ低下している米国の国際的威信を回復することである。そのためには、第二期政権の補佐官・国務長官・国防長官等の人事を通じて、国際政治の現実をふまえた大胆な対外戦略を展開できる体制を整える必要がある。
かつてニクソン、フォードの両大統領は、キッシンジャーという有能な現実主義者を補佐官あるいは国務長官に就け、彼に対外政策をゆだねることによってベトナム戦争で傷ついた米国の国際的威信を回復し、ベトナム戦争から脱出することに成功した。イラク戦争とベトナム戦争では大きな違いがあるが、現在のブッシュ大統領が必要としているのが、キッシンジャーに匹敵する現実主義的な対外戦略家であり、その活動を支える政権内の安定した力関係であることは間違いない。
だが、この点にかんしては、すでに若干の不安をおぼえる事情がある。それは、このたびの大統領選挙でブッシュの勝利に大きく貢献したのが、福音派に代表される宗教右派とされることである。もしもブッシュがこの勢力にたいする負い目から宗教色や道徳臭の濃い人物に対外政策をゆだねるとすれば、中東情勢はますます混迷を深め、国際社会における米国の優位の回復も遅れることになろう。
冷戦後の米国は「民主主義と市場経済」を普遍的な理念として掲げ、欧州連合諸国・ロシア・中国・日本等を巧みに操って役割を分担させ、それによって「帝国」とも形容される米国中心の世界秩序を作り上げるかに見えた。ところが、ブッシュが大統領に就任して以後(とりわけ9・11事件以後)、宗教的原理主義に通ずる敵・味方の峻別が米国の対外政策に持ち込まれ、国際政治における米国の単独行動主義的な振舞いが目立つようになった。この傾向がそのまま二期目のブッシュ政権でも継続されるなら、米国は多くの兵士たちの生命を犠牲にしながら、かえって国際的地位を低下させてゆくことになろう。
そこで重要なのは、ブッシュ自身が国内における宗教右派の台頭と切り離した形で政権の対外政策担当者を選び、そのもとで米国が多分に一九世紀の英国のそれに通ずる現実主義的で狡猾な対外政策を展開できるか否かである。もしもブッシュがそうした冷徹な国内政治と対外政策との切り離しができず、また、キッシンジャーに匹敵する老獪な外交手腕の持ち主を見出しえないなら、米国の前途は必ずしも明るいものではないだろう。
◎――――エッセイ
ビジネススキル・ブームは本物か
山本真司
Yamamoto Shinji
慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修士課程修了(MBA with honors)。東京銀行、ボストン・コンサルティング・グループ勤務を経て、現在はA・T・カーニー株式会社ヴァイスプレジデント。著書に『儲かる銀行をつくる』『40歳からの仕事術』などがある。
なぜビジネススキルが持てはやされているのか
ここ2〜3年、欧米流ビジネススキルに関する執筆やスピーチを頼まれる機会が増えている。書籍、新聞、雑誌からテレビ、講演会など各種メディアからの依頼である。
これは、近時のビジネススキル本の出版点数の多さを見ても明らかであろう。ロジカル・シンキング、マーケティング、競争戦略などの欧米流の経済合理性を裏づけとしたものだけでなく、交渉術、プレゼン術、書く技術などの仕事術の領域にまで対象は拡大し、あらゆる媒体を通じ、あたかもメディア産業の新分野を確立せんとする勢いである。
筆者のような外資系経営コンサルティング会社に勤める者は、こうしたビジネススキルを商売のネタの一部としているので、これを一過性のブームと見るか、それともわが国に勃興し定着するべき新事業分野に成長すると見るかを考えておくことは重要である。また、現在大切な時間を使ってこうしたスキルを学んでいるビジネス・パーソンや、ビジネススキル事業周りの関連業界の方々にとっても等しく重要なテーマであろう。
筆者は、現在のビジネススキルの隆盛をあくまで一過性のブームと見ている。ブームであるから終焉する。少なくとも、今のような大きな盛り上がりを見せることはなくなり、一つの定番としてそこそこの規模で生き残るだけの分野になると考えている。
その理由を考えるためにもなぜ、現在のブームがもたらされたかを考えることは有用だろう。
ブームを生んだ三つの要因
ブームの要因は企業のニーズ、若手ビジネス・パーソンのニーズ、欧米流ビジネススキルの特性の三つに求められる。
第一に日本企業がこうした欧米流のビジネススキルを組織として身につけなければいけない状況に追い込まれた。日本経済の成長神話が本当に終わったと世界が見なした1990年代の半ばに、グローバル資本市場は、日本企業に正当な株主リターンを生み続ける経営を要請し始めた。
いわゆるグローバル・スタンダードという名の欧米流経済合理性に基づく経営哲学である。企業戦略、ファイナンス、マーケティングの分野でのより締まった経営を実行するスキルが求められるようになったのだ。
第二に、長期化する不景気のもと、バブル後に入社した20〜30歳代半ばの若手ビジネス・パーソンの間で個人間生き残り競争が激化したという事情がブームを生み出した。社会人生活の初期に相次ぐ大企業の破綻を目の当たりにした若手ビジネス・パーソンは、自立して競争を勝ち抜かなければならないという意識が強い。そして「勝ち組」の椅子を確保すべく、新しいパラダイムの象徴である欧米流ビジネススキルに殺到したと解釈できないだろうか。
しかし、若手が学習したいと殺到しても、なかなか身につかないスキルであればすぐに飽きられる。ブームになったのは、学びやすく、効果を実感しやすく、かといって少々は苦痛を伴う程度のスキル教育体系が存在したからであろう。
第三の理由は、ロジカル(論理的)というスキルの特性に由来する。論理の源流は科学にあり、それが社会科学に適用範囲を広げ経済学を女王とし、その一分派として経営学が成立した。源流は科学的合理主義の思想にある。
その本質は物質同様に人間社会の課題も、(1)いくつかの要素に分けることができ、(2)それら要素間には因果関係が成立し、この二つの方法論に基づいて客観的真理にたどり着くというものである。
したがって、明解な因果関係で大きな課題を分析(分け・因果関係をたどる)できるので、万人に受け入れられる、舌をかまない説明が可能になるのである。
ということは、一定の手順に従えば、誰でもある程度のスキルが身につくところに最大の特徴がある。訓練は必要だが、身につけようと思えば身につく。したがって、若手ビジネス・パーソンが飛びついたと解釈できる。
ビジネススキルだけで勝ち残れるか
では、今後はどうなるであろうか。わが国の企業経営から経済合理性やグローバル基準が外れるとは考えにくい。個人の勝ち残り競争も激しいままであろう。そうなるとブームは持続しそうに見える。
問題は第三のビジネススキル特性=科学的合理主義にあるだろう。極端に言えば、明解に誰でもわかるように課題を分析し原因を探るための技術がビジネススキルの根本だとすれば、ある程度のわが国のビジネス・パーソンがこうしたスキルを身につけてしまえば、これらを身につけたところで肝心の競争に勝てなくなる。そもそも科学体系は論理性が元になっているので伝播性が高いのだ。
筆者は、このことを欧米流ビジネススキルの大衆化と名づけている。大衆化した商品をコモディティ=日用品と言うが、コモディティはコスト以外に競争力をもてない。とすると、せっかく欧米流ビジネススキルを身につけても、競争相手のなかからコストでしか選ばれなくなる。
ではどうするか。こうした欧米流ビジネススキルをさっさと身につけ、差別化テーマを探す活動に自らの成長戦略の舵を切らなければならない。そこは、論理という定型化しやすい分野ではなく、感情、芸術、精神といったソフトの分野である可能性が高い。
一歩先のビジネス・パーソンの将来戦略を考えた場合、ブームを終えた安価なコモディティとしての欧米流ビジネススキルと、イノベーションを求めた新しい分野の学習といったかたちの自己成長戦略が必須の条件になるかもしれない。
またイノベーションは辺境から始まるとすれば、学習分野は広く拡散するはずである。それは右へならえのブームとは異質な世界である。ブームの時代が終わり、天邪鬼が勝つ時代。そんな時代の足音が筆者の耳には聞こえてきている。
◎――――エッセイ
「未来を過去にする男」の視点
増田俊男
Masuda Toshio
慶應義塾大学商学部卒業後、東急エージェンシーを経て、独立。一九七四年に渡米し、九五年帰国。現在、時事評論家として活躍。経済や市場の動きの予測には定評があり、「未来を過去にする男」と称されている。著書に『2005年超株高大景気』など多数ある。
8000ドル儲け損なった!?
「ブッシュの再選は過去の事実だ」と私が言ったのは、何も日本ばかりではありません。
本年二月、フランスの高級ワイン、バーガンディーの里ブイヨンに行った時もそうでした。
毎年世界から選ばれたVIPのために、フランスのシラク大統領任命のワイン博士が主催する「ワインシンポジューム」が一週間開かれます。幸運にも、私とワイフの眞理子が招待されたので、すべての約束をキャンセルして参加しました。アメリカの若きコンピューターキング、エンターテイメントキング、博物館キング、ギリシャの船主王(各自ご婦人同伴)にわれわれが加わり、総勢一〇名。ブイヨンの里から少し離れた一七世紀の古城にフランス一のシェフを呼んで、晩餐会が開かれました。
そこで出た話題が次期アメリカ大統領でした。全員ブッシュが嫌いなので、希望も含めてケリーの勝利だということになりました。私は「説明すると時間がかかるが、実はブッシュの勝利は決まっている。たとえ選挙に負けてもブッシュは勝つ」と訳のわからぬことを言ったのです。とそのとき、超富豪のエンターテイメントキングが、"Mr. Masuda, I wanna bet $1,000,000 on Kerry. Do you accept?"(私はケリーに100万ドル賭ける。増田さん受けますか?)と言ってきました。
私が勝つに決まっているものの、ちょっと考えました。ジョークにしても金額が大きすぎるので、" I'm quite sure that I win. But I have no idea how to spend $1,000,000 and so why don't we bet $1,000?"(私が勝つのは決っているのですが、いま100万ドルを使うあてがないので、1000ドルにしませんか)と答えました。すると、他の方々も夫婦そろって1000ドル賭けることになりました。
本日(11月8日)エンターテイメントキングからハワイに手紙が届き、「全員から賭け金を集めたのでお受け取りください」と書いてあり、8000ドルの小切手が同封されていました。さらに「年間いくら払ったら、わが社の投資部門のアドバイザーになってくれるか。できるだけ早く返事がほしい」とも書いてありました。
まさか本気とは思っていなかったので、今後のことを考えて返金しました。「友人からアドバイス代はとりません」とも書いておきました。
すべてはアメリカの国益で動いている
私はクリントンの時も、ブッシュの初戦の時も、アメリカ大統領選の予想ではずれたことは一度もありません。大統領だけでなく、9・11の同時多発テロもピタリと当てました。
ついでに言っておきましょう。
2009年以降のアメリカ大統領はヒラリー・クリントンです。彼女は2012年に起こる中台戦争(これも決まっています)で、かなり冷酷な戦争をするでしょう。
さて、なぜ私はまるでキングメーカーのようにアメリカ大統領を、そしてまた大事件を「予定」(予想ではない)できるのでしょうか。理由はいたって簡単。「アメリカ大統領も大事件も、決めるのはアメリカの国益だから」。もちろん選んだ大統領が邪魔になると暗殺することもあります。だからこそ、アメリカの国体と国民の存在が保証されているのです。国益音痴の人間が単なる人気だけでリーダーになるような国の国民は悲劇です。
クリントン時代、アメリカは世界の緊張を緩和して、世界中のマネーをデタラメなニューエコノミー論とITでさんざんかき集め終わったところで、ワールドコムやエンロンの不正を故意に暴露してバブルを崩壊させました。このため、世界のマネーが買ったアメリカの金融資産の大暴落で、世界は大損。その結果、アメリカは世界が損をした分だけ大儲け。
ブッシュ時代は、アメリカにまだ残っていた世界のマネーが逃げないようにするため、世界を緊張の渦に巻き込みました。アメリカからのマネーの里帰りにストップをかけたうえで、世界から「安全代金」を徴収。さらに実際にアメリカ経済を好況にするため、円高を演出して日本に為替介入資金名目で33兆円ほどをアメリカに払わせ、日銀の金融緩和と追加マネーサプライでできた余剰資金でアメリカの住宅抵当債券を買わせて住宅産業を伸ばしました。
その結果、アメリカ経済好況の基盤ができたのです。アメリカ経済の態勢が整うと、次は天文学的に膨れ上がったアメリカの財政赤字と対外債務を世界(他国)に払わせる番です。
したがって、今後のアメリカの国益とは、(1)世界の「経済の主食」(原油)を(取引だとコストがかかるから)武力で奪い、高値で世界に売ること、(2)ユーロに奪われた中東の原油取引におけるドルの支配力を取り戻すために、中東戦争をすること、(3)成長するアジア市場をドル圏にしてユーロと対決するため、邪魔になる共産中国を中台戦争に便乗して解体し、日本のような民主国家(アメリカの属国)にすることです。
世界の政治も経済も、このアメリカの基本的国益戦略に従います。いまアメリカの中東軍事予算が八兆円ほど増額になったので、円高にして日銀にもう五〜六兆円介入しろと要求しています(105〜106円で介入すれば、107〜108円になる)。日本や世界に起こるすべてのインパクトは、アメリカが国益を追求する仕方にかかっています。詳しくは拙著『2005年超株高大景気』をお読みください。
『2005年超株高大景気』
定価 一五七五円(税込)
◎――――連載
歴史が教えるマネーの理論 第6回
●為替の経済学…1
金属貨幣そして変動相場制下の通貨交換
―――為替レートのマネタリーアプローチ
飯田泰之
Iida Yasuyuki
一九七五年東京生まれ。駒澤大学経済学部専任講師、内閣府経済社会総合研究所客員研究員。著書に『経済学思考の技術――論理・経済理論・データで考える』(ダイヤモンド社)などがある。
1円の価値はどのくらいか?
連載当初より一貫して重視し、ときに批判してきたのが貨幣数量説です。その基本的な着想として、前号までくり返してきたもののひとつに「貨幣の価値(1円の価値)とは物価の逆数である」というものがありました。しかしながら、日常生活の中で「1円の価値はどのくらいですか」と問われて、「物価の逆数である」と答える人は稀でしょう。多くの場合、ある通貨の価値は他の通貨を単位にして理解されます。例えば「1ドルの価値は106円」であるといった具合です。
このように、貨幣の価値を考えるとき、最も私たちの生活実感に近い価値基準は「為替レート」です。日本の場合は「日本円」が比較的細かな計測単位のため、「1ドル=112円」のような“邦貨立て”表示が通常ですが、他の先進諸国の多くでは自国通貨1単位の価値を他の通貨で表示する“外貨建て”式が多く用いられています。私自身は、外貨建て表示のほうが「為替レート=円の価値」という意味をすぐ理解できるので便利だと思うのですが……。
為替レートとは、言うまでもなく、2つのマネー(通貨)間の交換比率を表したものです。前回まで説明してきたように、それぞれのマネーの価値はマネーの供給量とその将来の供給見込みに大きく左右されます。そして自由な交換の下では、同じ価値のもの同士が交換されるわけです。すると、為替レートの決定は、貨幣理論の応用問題としてとらえることができるでしょう。
金属本位制の世界における「裁定」とその消滅
為替レート決定の条件を考えるために、まずは最も単純な金属本位制の世界から考えていきましょう。F国、G国の2国は、共に金貨を中心とした貨幣制度を持つとしましょう。F国の主要通貨である1フラン金貨は5gの金を含んでいるのに対し、G国のマルク金貨は1gの金しか含んでいないとします。このとき、1フランは何マルクと交換されるでしょうか? 答えが1フラン=5マルクであることは言うまでもありません。
このように、両国で共通の貴金属が貨幣として用いられている場合、両国の為替レートは非常に単純な図式で決定されます。あまりにも当たり前の計算だと思われるかもしれませんが、ここであえて「なぜ1フラン=6マルクにはならないのか」を考えてみましょう。
1フラン=6マルクのとき、1フランを持っていれば、為替交換によって6マルクを得られます。そして6マルク分の金貨を鋳溶かすと、6gの金が手に入る……これはフラン換算すると1・2フランになります。つまりは、何のリスクも負うことなく0・2フランの利益が得られてしまうのです。もしこの状態が永続するのなら、誰もが同様の行動で億万長者になることでしょう。
もちろんこのような状態が持続することはありません。みながマルクを欲しがるのですからマルクの価値は上昇し、為替レートは1フラン=5マルクへと向かうことになります。
このように、価格調整が不完全であることを利用して儲けを得る方法を「裁定(arbitrage)」と言います。そして、裁定行動そのものによって裁定行動で儲けるチャンスは失われます。このような「裁定による裁定機会の消滅」というアイデアは為替理論はもとより、全ての経済理論の共通の基礎となっています。
応用問題としての購買力平価
「裁定」というアイデアを用いると、古典的な為替レートの決定理論である購買力平価説を導くことができます。
金属本位制の世界では、金貨の金含有量が「決め手」となって為替レートが導かれましたが、ここで再び「マネーの価値は、“それで何が買えるか”で決まる」という視点に戻ってみましょう。
金属本位制での考え方を念頭に置くと、J国では牛肉は1g=1円で取引されていて、A国では100g=1ドルで取引されているならば……両国の為替レートは1ドル=100円に向かって調整されると予想されます。
このように、2国間で「同一の商品」が「同一の価格」で取引されるような水準に為替レートが変化すると考えるのが、購買力平価説の中心的な考え方です。ここから、購買力平価説は国際的な一物一価法則のことだと解説されます。貿易可能な財が2国間で異なる価格で販売されているならば、そこに裁定機会が生じるため、裁定取引によって為替レートは変化します。したがって長期的な均衡レートは、このような裁定機会を生じさせない水準に定まるであろう、というわけです。
ただし、通貨と貴金属の交換比が固定されている金属本位の場合と異なり、「A国で牛肉を買い入れJ国で販売する」といった裁定行動が続く場合、A国内での牛肉価格が上昇するといったケースも十分考えられます。
これに対する標準的な理解は、さまざまな品目が(少量ずつ)取引される財市場に比べて、同種のものがくり返し大量に取引される為替市場の変化のほうがスピードが速いため、為替の方向性を知る上で、やはり購買力平価の発想は有用だというものです。実際、1970年以降の円ドルレートについても、購買力平価レートを20%以上超えた水準が継続して生じる例は観察されません。
経済誌等で各国の「購買力平価レート」を目にしたことのある読者も多いことでしょう。しかし、このような「購買力平価レート」を参考に為替レートの将来を占う際には、少々の注意が必要です。
経済理論上の購買力平価レートは貿易可能な財の間で、国を超えて「同一の商品」が「同一の価格」になるようなレートを指します。しかし、内外価格差、とくに日本のサービス価格が高いことを表すために計算された「購買力平価レート」は貿易財・非貿易財全ての財を含めて計算されていることが多いため、必ずしも「長期的に為替レートが落ち着く先」という意味合いを持っていない場合があります。
購買力平価説+貨幣数量説=?
ひとことでまとめると、裁定行動から導かれる購買力平価説は、「各国の物価水準が(為替換算すれば)同じになる」ように為替レートが決定されるという考え方です。一方、以前に紹介した原始的な貨幣数量説は、「物価水準はマネーの量に比例する」というものでした。これら2つをまとめると「為替レートは両国の貨幣供給量から決定される」と考えるのは不自然なことではありません。これが為替レートのマネタリーアプローチです。
購買力平価説に従うと、
A国の物価=長期的な均衡レート(e)×J国の物価 ……(1)
となります。以下為替レートeの上昇が円高、低下が円安を表す(J国から見ての)外貨建て表示であるとします。
次に、最も原始的な貨幣数量説に従うと、
X国の物価=定数×X国のマネーの量 ……(2)
です。(1)(2)をまとめると
長期的な為替レート=A国のマネーの量/J国のマネーの量
為替レートの変化=A国のマネーの変化‐J国のマネーの変化
となります。つまりはA国でマネーの量が増える、つまりは「A国でマネーが増えると円高ドル安」に、「J国でマネーの量が増えると円安ドル高」になるというわけです。為替レートは通貨の価値を表示する方法です。したがって、以上の関係は直観的に「量が増えたほうが安くなる」「量が少ないほうが高くなる」と、とらえることもできるでしょう。
単純なマネタリーアプローチでは、説明力がない!
しかし、一定の説明力を持つ購買力平価説とは異なり、先の「単純なマネタリーアプローチのパフォーマンスはあまり良いものではない」と言われます。特に、90年代の為替動向を説明する力はほとんどありません。
その理由は至って単純……前回までの連載でくり返してきたとおり、?式に代表される原始的な貨幣数量説が誤りだからです。
現在の物価水準は「将来のマネーの量(の予想)」に大きく左右されます。現時点でマネーの量が豊富でも、「将来マネーの量が不足する」と予想されるならば、物価は低下するのです。その意味で「将来のマネーの量(の予想)」を用いた広い意味でのマネタリーアプローチは、理論的にも実証的にも高い完成度を持つと考えられるでしょう。しかし、人々の将来予想に関するはっきりとしたデータはありません。
円ドルレートの80%を説明する「ソロスチャート」
このような予想の代理変数(為替を左右する要因)をいち早く発見できた者が、為替相場投機における勝者になるのです。
これは「後知恵」に過ぎませんが、90年代には「ベースマネー」が将来の金融政策とマネーの良好な代理変数でした。そして、それに気づいていたジョージ・ソロスは、円ドルレートを中心に大きく勝ち越したと言われます。このとき、ソロスが用いたと言われるのが、日米のベースマネーの比から円ドルレートを説明する「ソロスチャート」と言われる手法です。実際、ソロスチャートは90年代の円ドルレートの80%を説明するという驚異的な実績を残しています。
今回は、原始的な金属本位制、そして今日的な変動相場制の下での為替レートについて考えました。しかし、本連載が主な対象とする「歴史」の中では、単純な金属本位制でも変動相場制でもない国際通貨制度が中心です。次回からは、その中でも近世から近代の主要な通貨システムである金本位制・固定相場制における為替問題について考えることにしましょう。
※1 「物価そのもの」というデータはないため、本来はこのような計算はできません。そこで、購買力平価説の検証は、ある時点での為替レートを均衡レートであったと仮定して、その後の「為替レートの変化」と「両国の物価の変化」を比較することで行うのですが、ここでは割愛します
※2 実際には新古典派の貨幣数量説式である、PY=MVを用いることが多く、以下の式はもう少し複雑になりますが、「パフォーマンスが悪い」という点には変わりありません
※3 寺井晃・飯田泰之・浜田宏一(2004)「金融政策の波及チャンネルとしての為替レート」、浜田他編『長期不況の理論と実証』東洋経済新報社
◎――――連載
球域の文明史 第17回
「発展」を方法概念に用いた
シュンペーターの思想
川勝平太
Kawakatsu Heita
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など
シュンペーターの「発展」は価値と無関係
シュンペーターは、「発展」という概念を経済学の根幹に据えた最初の経済学者である。今回は、「発展」という言葉の内容について、いくつか確認しておきたい。
「発展」は『経済発展の理論』のドイツ語原書における Entwicklung の訳であり、英訳ではdevelopmentであるが、この言葉には価値が付着しやすい。同書の第二章は社会の発展を捉えるために経済発展を正面から論じているが、その最初のパラグラフにシュンペーターは「この言葉(発展)からの連想はあらゆる望ましくない方向にわれわれを迷い込ませることがある」と述べている。にもかかわらず、シュンペーターはあえてこの言葉を選んだ。「発展」について、シュンペーターは望ましくない方向に迷い込まない確固たる理論武装をしていた。
「発展」という言葉は、一見、肯定的意味合いがあるように聞こえるが、必ずしもそうとはいえない。21世紀の今日では「発展」という言葉にsustainableという形容語がつくのが通例である。「sustainable development(持続可能な発展ないし開発)」である。発展よりも、それを限定づける形容語のほうに力点がある。環境破壊を伴わない限りで開発を許容していこうという姿勢である。
一方、ついこの間まで「開発経済学」という経済学の分野が時代の寵児であった。development economicsの訳語であるが、同じ英語が、発展ではなく開発と訳されたのは、「発展」が自生的・自律的なニュアンスをもつのに対して、「開発」には他生的・他律的なニュアンスすなわち外からの援助(ノウハウ、技術、資金、人材)を排除しないという意味がこめられている。「開発」はプラスの価値であり、それと逆の低開発(underdevelopment)は克服されるべきマイナスの価値である、という評価が開発経済学者の暗黙の前提にあった。経済発展に乗り出せずにいる社会に対する処方箋を書くことが、開発経済学者の目的の一つであった。それが行き過ぎて、20世紀末からは「開発至上主義」「開発独裁」というレッテルまで貼られることになり、今ではマイナス評価と結びつくようになった。
このように「発展」には価値が付着しやすい。
まず、基本的に認識しておかなければならないのは、シュンペーターのいう「発展」は方法概念である、ということだ。つまり、特定の価値に結びついた言葉ではない。「価値からの自由」というウェーバーの問題提起を踏まえて、提起されているのである。シュンペーターが経済発展の理論を構築していたのは、社会科学の客観性をめぐって方法論争がもちあがった時期である。それは、新カント学派と総称される文化科学を哲学的に基礎づける哲学が、19世紀末から20世紀にかけてドイツ語圏を中心に論じられた時期とも重なる。18世紀末にカント(1724〜1804)が自然科学を哲学的に基礎づけたように、19世紀末には文化科学の哲学的基礎づけが課題になった(文化科学は自然科学との対比において使われ、そこには社会科学も入っている)。シュンペーターは思い込みや形而上学を排し、実証的にして客観的な方法を経済学の方法として樹立しようとしたが、それは時代の要請でもあったのだ。
それゆえ、シュンペーターが「発展」している経済を高く評価し、発展していない経済を低く評価していたと思うのは、単純な誤解である。シュンペーターのいう「発展」には、そういう価値評価は一切含んでいない。経済発展が良いか悪いかは「方法概念」にとってはさしあたり関係がなく、あくまで現実を分析するための道具なのである。
重要なのは「何に関心があるか」
もう少し言葉を補っておこう。たとえば、物の長さを測るのに道具が要る。日常生活では物差しが便利な道具であろう。長さを測るのに、物が長いほうがよいのか、あるいは、短いほうがよいのか、そうした物の長短についての評価は、物差しとは関係がない。道具である物差しは、物の長短をどう思うかという評価からは独立している。
方法概念の例として、今「物差し」といったが、ここに一本の木があるとする。その長さに関心があるときには、物差しは直線の形状をしていて、まっすぐ長さを計測できるので、とても便利な道具である。ところが、長さではなく、木の太さに関心があるときには、直線状の物差しでは役に立たない。幹の表面の曲線に沿って計測するには巻尺が要る。また、木の年輪に関心があるときには、物差しも巻尺も道具としては役に立たない。木を輪切りにしなければ年輪は分からない。そこで鋸という別の道具が要る。
このように、何に関心があるかで必要な道具は異なる。あえて繰り返せば、物差し、巻尺、鋸がそれぞれ木の長さ、太さ、年輪に対する価値評価とは無縁である、ということである。大事なことは「何に関心があるか」である。
シュンペーターの「発展」も、経済現象を分析するための道具である。経済学において、それはツールとか分析道具などと言い換えられる。それを硬くいえば「方法概念」ということになる。シュンペーターが「発展」という言葉を用いたからといって、「発展」のある状態とない状態との、どちらか一方に価値が置かれているわけではない。
どのような道具、すなわち方法概念を用いるかはきわめて重要である。それは、分析対象に対する関心から生まれる。「発展」という方法概念を用いることは、「経済学が発展のない静態的状態と、発展がおこっている動態的状態とを明確に区別できる道具を手に入れた」ということである。シュンペーターが、「発展のない経済を静態的状態、それを対象とした経済学を静学」と概括したとき、旧来の経済学者が発展を見るという目をもたないがゆえに、それに見合った方法概念ももたないという批判をはっきりと含んでいた。
何に関心があるか、すなわち研究者の関心の所在がどこにあるかという問題意識が、いかに大切か。それは、問題意識に応じて、道具が異なってくるからである。問題意識によって方法概念が異なってくる。価値が問われるのは、方法概念のレベルではなく、問題意識のレベルである。
「人間とは道具を使う動物(ホモ・ファーベル)である」というのは人間の本質を言い当てたものであるが、経済理論にとっての本質をなす道具が方法概念である。理論体系にとって方法概念は本質であり、その方法概念は研究者の問題意識によって決まる。問題意識は個人によって異なる。
問題意識のレベルでは、研究者としてのシュンペーターの人生観、価値観、世界観、歴史観など、主観にかかわる論点を問えるのである。問題意識のレベルでのみ、研究は価値観からは自由ではない。だからといって、それは、研究者独自の問題意識から生まれる方法概念が主観的であるということを意味するものでない。木の太さに関心があるというのは主観的な問題意識であるが、だからといって、その主観的な問題意識を解決するための、木の太さを計測する巻尺までもが主観的だというのは誤りである。巻尺は道具として、主観から独立しており、客観性をもつのである。
その人生観は「諸行無常の理」と通底
このような問題意識の根底にある人生観のレベルで、マルクスとシュンペーターとをくらべれば、同じく経済の構造転換を扱っていても、二人ではきわめて違う。
マルクスの人生における最大の関心は人間の「自由」であったといってよいだろう。人間が自然のくびきから自由になるのは、道具を発明したことによる。道具の発達は労働の生産性を高める。そこで彼は、「生産力」という方法概念を理論の根幹の一つに据えた。「生産力」という方法概念には、「人類は生産力の発展によって『自由の王国』にいたる」というマルクスの歴史観が反映している。「生産力」とは労働の生産性のことであるが、その方法概念は主観的ではない。たとえば、新式機械の導入などの前後で、単位労働時間でどれだけの生産高が上がるか、すなわち生産力の発展は客観的に計測できるからである。
マルクスは『資本論』を革命家に捧げたが、シュンペーターがその著作を唯一捧げたのは母親である。『理論経済学の本質と主要内容』の扉には「シュンペーター未亡人、ヨハナ・フォン・ケリー夫人に本書を捧ぐ」とある。シュンペーターは4歳のときに父親を亡くした。父親の名はアロイス・シュンペーター。シュンペーターのフルネイムはジョセフ・アロイス・シュンペーターであり、父親の名をそっくり自己の名前に入れている。未亡人になった母親は、ジョゼフが10歳のときに再婚した。シュンペーターをオーストリアのもっとも有名な学校にいれるためであったといわれる。その相手は、陸軍中将フォン・ケリーである。母親はヨハナ・フォン・ケリー夫人となった。だが、シュンペーターはついにフォン・ケリーとは名乗らなかった。
この事実を踏まえて、母親に捧げた書物の冒頭に「すべてを理解するとはすべてを許すことである。一層適切には、すべてを理解する人には、許すべきものは何もない」と書いたシュンペーターの人生観の吐露を改めて考えるとき、喪失感、哀しみ、怒りの感情を抑制して世の無常を見据えるシュンペーターの知性を感じないわけにはいかないであろう。彼の問題意識の根底には、人生への無常観がある。
世の中の無常といえば、悲観的に捉えがちだが、そうではない。無常とは、本来、楽観的であることにも、悲観的であることにも、どちらにも与する概念ではない。盛者必衰の歴史現象や諸行を無常という「理」(方法概念)において見るということである。
「発展という言葉が役割を演じているあらゆる軽率な、基礎薄弱な一般化から離れるとき、残るのは次の二つの事実。一つは歴史的状態が不断に変化するという事実。もう一つは、あらゆる歴史的状態はそれに先行する状態から適切に理解しうるということ」とシュンペーターは「発展」について説明した。その説明は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」という無常の説明とほとんど変わるところがない。
シュンペーターにおける発展には、肯定も否定もない。それは、無常が悲観も楽観も超越しているのと同じである。シュンペーターのいう発展とは、諸行無常の波なのだ。
◎――――エッセイ
節税は国民の当然の権利です
宝田健太郎
Takarada Kentaro
税理士、ファイナンシャル・プランナー。一九七四年生まれ。金融資産税務を専門分野とし、税務会計・資産管理業務を中心に、幅広い分野で活躍中。著書に『これ以上やさしく書けない! 新証券税制』(弊社)がある。
納税が国民の義務ならば、節税は国民の当然の権利である。私が『節税はこうしてやりなさい』という本を執筆していることを役人である友人Aに話したところ、私はAのひと言に大変驚いた。「ずいぶん過激なタイトルだね〜」
日本では、いまだに節税を悪とする風潮が残っていて、役人は日々、税金を集めることに躍起になっている。しかし、そもそも税金は税法に基づいて課税されているのだから、法律の範囲内で税金を減らそうとする行為(=節税)は、経済的に見ればお金を稼ぐのと全く同義の、ごく自然な行為だ。
欧米ではタックスロイヤーという法律家が活躍し、企業や資産家に様々な節税アドバイスを行っている。それにひきかえ、ここ日本では、納税者の知識が驚くほど少ない。給与天引きで税金を自動的に取られ、自分がいくら税金を払っているのかさえ知らない人がほとんどだ。
近年は増税傾向にある。高齢化社会へ対応すべき福祉財源・年金財源が大きく不足しているからだ。配偶者特別控除の縮小や年金課税の拡充、老年者控除の廃止と続き、さらには定率減税の縮小と消費税率アップも控えている。薄く広く課税する傾向があり、低中所得者層の負担増は必至だ。
そんな中でも、住宅や投資関係など特別に優遇されているものがある。これらは毎年のように改正されて年々有利になっているが、複雑すぎて一般の人には容易に理解し難い内容になっている。
給与天引きだからといって諦めてはいけない。田舎の両親に仕送りをしていても、泥棒に入られても税金は戻ってくるのだから。他にも、ちょっとの工夫で税金が戻ってくるケースがたくさんある。
夫婦間での収入や財産の配分方法を変えるだけで納税額は大幅に減るし、住宅を買ったりリフォームしたとき、賃貸マンション住まいでも節税ができる。
また、投資をする際にも、税金について少し注意すれば節税効果が得られ、利回りが驚くほどアップする。
節税の第一歩は、まず知ること。ちょっとしたコツを知ると知らないでは大違いだ。本書ではできるだけ専門用語は使わずに、実際に使える節税のポイントを分かりやすくまとめた。
節税はお金持ちだけの特権ではなく、誰もが得られる権利。税務署は「払い過ぎですよ」なんて教えてくれないのだから、自分で権利を行使するしかない。
◎――――連載
経済を読むキーワード 第14回 【危機管理】
なぜ誤った政策が
採られるのか?
若田部昌澄
Wakatabe Masazumi
1965年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科、トロント大学経済学大学院博士課程修了。早稲田大学政治経済学部助教授。著書に『経済学者たちの闘い』『昭和恐慌の研究』(共著)など。
現在と過去の経済危機
超大型台風、新潟県中越地震、BSE、イラク情勢と、残念ながら最近の日本は危機には事欠かないようだ。危機にあたって重要なのは危機管理である。もちろん危機が起きないようにするのが最大の危機管理である。しかし、危機は突発的で予測がつかないことが多い。また、危機対策は緊急を要する。危機管理が難しい原因である。
危機といえば、近年の日本経済が危機の渦中にあったことは疑いようがない。この危機は昨年からの景気回復によって過ぎ去ったかのようではある。財務省の為替介入と日銀の金融緩和のおかげでデフレ期待はある程度後退し、1%程度とわずかながらインフレ期待が醸成されているという見方もある(高橋洋一「ある日曜エコノミストの独り言」『ファイナンス』2004年9月号)。
しかし、財政面では個人所得税の定率減税の段階的廃止、消費税の将来における引き上げなど、すでに進行中の財政引き締めがさらに加速されそうな勢いだ。金融面では、日銀が2005年には消費者物価も「前年比で小幅のプラスに転じる」と強気の見通しを示しているものの(「経済・物価情勢の展望」2004四年10月)、その見通しをいかに確実に実現するかについては黙したままである。本当に日本経済は危機から脱したといえるのだろうか?
ところで、11月3日に発表された今年度の日経・経済図書文化賞の一つに『昭和恐慌の研究』(東洋経済新報社。以下、『研究』と略す)が選ばれた。この研究の末席に連なる幸運に恵まれた私としては、編者の岩田規久男先生をはじめ共同研究者と編集者の方々に深く感謝するほかない。
もちろん研究は絶えざる探求であり、今回の受賞は今後の研究への励ましとして受け取らなければならない。『研究』の目的は、近代日本がかつて経験した最大の経済危機、昭和恐慌から現代の危機に通じる教訓を学ぶことにあった。けれども、積み残したことも多い。『研究』は、今後の研究課題として経済学者、ジャーナリストの言論活動が昭和恐慌時の政策決定過程にどのような役割を果たしたのか、また現実の政策はいかに決定されたのかをあげている。
さらに『研究』の第?部「金解禁論争をめぐって」全体が示しているように、昭和恐慌前後の経済論戦と現代の論戦との類似性には驚くべきものがある。たとえばデフレからの脱却策を説いた石橋湛山らのリフレ派は、インフレを起こすことはできない、インフレはデフレ不況の解決策にはならない、一度インフレを起こすとその加速を止めることはできないといった、多くの批判にさらされた。これらの多くは現代のリフレ派に寄せられている批判とほとんど同じである。なぜ70年以上の時間を隔てた二つの経済論戦にこのような類似性が生じるのかも解明に値する。これらの問題について考察を進めてみるのが今回と次回の目的である。
政治経済学の発展
最近の経済学でもっとも活発に研究されている分野の一つが政治経済学であることは衆目の一致するところだろう(現在でも若干残っているように、マルクス経済学系がpolitical economyという用語を利用する傾向があるので、positive political economy あるいはnew political economyという呼称を用いて区別することがある)。その基本的な発想は政治を決める要因を説明することにある(専門的には政治の内生化endogeneizationという)。たとえば、政治制度にはどういう論理が働いて、現在あるような形になっているのだろうかという点である。
このような問題意識そのものは昔からあったといえる。多くの研究者はスウェーデンの生んだ偉大な経済学者クヌート・ヴィクセルを先駆者としてあげている。けれども、それが本格的に経済学の研究課題となるのは1950年代からといってよいであろう。ケネス・アローの社会選択についての研究(1951年)、アンソニー・ダウンズの『民主主義の経済理論』(1957年)などを経て、1960年代からは公共選択と呼ばれる領域が成立するようになる。その代表作は、ジェームズ・ブキャナンとゴードン・タロックの『公共選択の理論――合意の経済理論』(1962年)である。さらに70年代以降は、情報の経済学とゲーム理論の発展を受けて、産業組織論、国際貿易論の革新に活躍した理論家たち(J・ティロール、A・ディキシット)が大挙して参入し、現在では矢継ぎ早に研究論文が生産されている。このような経済学の発展は、政治学にも飛び火し、現在では経済学と同じようなモデルを利用した政治理論が発展しつつある。なお、ブキャナン教授は1986年にノーベル経済学賞を受賞している。
この政治経済学の基本は、合理的選択理論である。つまり、経済学が消費者や企業といった個別の経済主体の選択行動から出発するように、政治についても個別の主体の選択行動から出発しようとするものである。ここで合理的であるということは、制約条件をすべて検討した上で自らの利益を最大にするように行動することである。
ところで、危機の本質は予測の難しさ、突発性にある。このことと人々の行動が合理的であるということは矛盾しないのだろうか?
危機の本質は「無知」
この点を考察したのが、ブキャナン教授が所属し公共選択論の中心地として有名なジョージ・メイスン大学のロジャー・コングルトン教授の論文である(Roger D. Congleton (2004), "The Political Economy of Crisis Management: Rational Choice, Ignorance, and Haste in Political Decision Making," Mimeo.
http://rdc1.net/forthcoming/CRISISM4.pdf)。
合理的選択理論の枠内で危機を理解する鍵は知識、情報にある。もしも情報が完全ならば危機は起こりえない。情報が不完全であるからこそ危機の起きる余地がある。
ところで、情報の不完全性というときには利用可能なデータが限られているという意味だけでなく、もう一つの不完全性に注意すべきだというのがコングルトン教授の主張である。それは「無知」(ignorance)である。これは起こりうる可能性のうち一部にしか関心を払わないことを指す。たとえば、ディジタルTVを購入する場所としてデパートと量販店の二カ所があるとしよう。しかし、ある人がデパートしか知らないとしたらどうだろうか。量販店の価格が非常に安いとしたら、この人はデパートで買うことでせっかくの得する機会を失ってしまうことになる。
「無知」という考え方を使うと、大恐慌時の対応について次のように解釈することができる。当時、採るべきだった最善の政策は、金本位制からの離脱と財政金融政策の組み合わせだった。結局、日本で高橋是清と深井英五のコンビが行ったのはまさにこれだった。と同時に、ミクロの次元では極力経済に介入しないことであった。この政策はデータとしては存在していた。しかし、担当者の「無知」ゆえに、仮に最善の策があったとしてもそれを採用しなかったらどうなるだろうか。その場合にはカルテル化や、関税の引き上げといった「筋の悪い」政策が採られることもありうるだろう。無知ゆえに、危機の本質を認知するまでに時間的な遅れが生じた。また無知ゆえに危機に対する最善の政策対応が遅れてしまった。そして危機はさらに深刻化してしまった。
危機を歓迎する人々
ここで警戒すべきは、危機をチャンスととらえる人々の存在である。既存のエリートたちの対策が迷走するほど、その後を狙う新興エリートには都合がよい。昭和恐慌の日本では石原莞爾のような軍部や岸信介のような革新官僚、そしてある意味では社会主義者たちがそれであった(岸は新参の農商務省、後に商工省の官僚だった)。彼らにとって危機は深刻であればあるほど、そして対策が「根本的」であればあるほど都合がよかった(石橋湛山のようなリフレ派の提案は左右両翼からの攻撃を受けた)。このような人々によって経済危機が政治危機となり、国制、憲法(constitution)の危機に結びつくとき、危機は頂点に達する。
危機にいかに対応するか
危機の本質は予測の難しさにあるから、危機そのものをなくすことはできない。それでも危機の多くについては事前に準備をしておくことができる。それを可能にするのは歴史的経験からの学習である。たとえば、大地震のような天災がいつどこで起きるかはわからない。しかし、防災計画を立てて救援体制を整備しておくことはできる。そして経済危機に際しては、政府、中央銀行があらかじめ経済の先行きを見て準備をしておくことができる。
制度としては政権交代の可能性が重要である。大恐慌のころの政策転換は、ほぼ例外なく政権交代を通じて実現した。政策担当者が学習しないか、その学習が遅い場合には、すばやく学習できる別の人に交代してもらう必要がある。
このような政権交代が柔軟性を保証する一方で、危機によって国制が根本的な変革を迫られることに対する保険としては、ある種の硬直性が必要である。だからこそ、どこの国でも憲法は改正がきわめて難しい仕組みになっている。たとえば、今回のアメリカの大統領選挙で明らかになったように、アメリカの選挙制度にはかなり問題がある。しかし、これを改正する見込みは現状ではほぼゼロである。
とはいえ、停滞がかくも長期にわたった現代日本の事例を見るにつけても、政策担当者の危機管理能力に対してあまり楽観的になれないのも事実である。大恐慌のころも、危機管理に成功した国(英米)と、体制崩壊を招いた国(ドイツ)に明暗が分かれた。日本の場合、かなり早い時期に恐慌を脱出し成功を収めたかに見えたものの、軍部が国制への公然とした挑戦に成功した後は、歴史の歯車が狂いはじめた。
危機管理の最大の課題は政策担当者がいかに「無知」を克服するのかである。このことは合理的選択理論の合理性の意味をさらに問い直すことにつながる。それについては次回に論じることにしたい。
◎――――連載
ガンバレ!男たち 第11回
中年SEの危機を救うには?
池内ひろ美
30代専門職は自殺予備軍なのか? 独立行政法人労働者健康福祉機構が実施した「勤労者 心の電話相談」に寄せられた相談件数と相談内容(昨年4月から今年3月)のまとめが発表された。相談件数は1万2920件。前年度比56%の増加だ。内容面では、上司との人間関係、その他の人間関係の相談が多く、人間関係の悩みが多いことがハッキリした。「精神障害等」による労災認定者はSEや設計士など「専門技術職」、年代別では20代、30代の割合が高い。
「俺って子どものときから人付き合いが苦手だったんですよね。だからこそ、この仕事を選んだんですけど」
40代前半の男性はシステム・エンジニア(SE)。真面目そうである以外は、さして特徴はない。対人関係が苦手と自ら言うように、話し方も独特で少し聞き取りづらい。
「昔は良かったんです。取引先のコンピュータ室に何ヶ月も泊まり込んで、ひたすらシステム作って、いつも納期が迫っていて家にも帰らず、一日中コンピュータと向かい合って、疲れたら床で寝る。起きてまたプログラムを書くという生活で、性に合ってたんですよね。上司とか取引先の担当者の技術的な打合せだけが会話で、飲みに誘われることもないし。でも、いまはもう大型コンピュータの時代じゃないですから、そんな仕事もあんまりないし、ネットワークの時代だっていったって分かんないですよ。コミュニケーションの問題ですから、それって僕、苦手ですから。おまけに僕の年齢だと、SEでも営業みたいなこともやらされるんですよ」
彼の話は、この調子で延々と一方的に続く。相談に来所する人の中には、一方的に自分の話をする人も多いが、彼の場合は特に長く切れ目なく自分の話が続く。
「親は、早く結婚しろって言いますけど、あんまり女性に興味ないんですよ。それより、いまの仕事がいつまで続けられるか。SEとして年齢的にも限界だし、大型システムばかりやってきたからネットワーク技術もないし、営業も嫌。会社は僕のことをそろそろ首を切りたがっています。あ、俺、契約社員なんで、雇用の保障なんかないんですよ」
結婚の心配をしてる場合じゃない、という彼の認識はある意味で正しい。しかし、深刻なのは彼のような不安、心配が彼一人の問題ではなく、構造的なものだということだ。
いまは専門的な知識や技術がないと仕事ができない時代である。しかし、一方で専門職の職業寿命がどんどん短くなっている。多くの職業で、現役勝負できるのは40歳までだ。それ以上の年齢で仕事が続けられるのは、大企業の管理職や公務員のような組織に守られている人か、営業力のある人。弁護士や会計士などの有資格者、あるいは世界で認められた才能あるアーティストであっても営業力が必要となる。
しかし、もともと専門職につく人間は営業的なことが苦手でその職業につくことが多いため、30代後半になると、将来への不安から悩んだりするわけだ。30代は自殺の危機と言われているのも、このような理由からだ。
では、どうすればいいのか?
それには中高年オヤジ文化の構築しかないと私は考える。産業の興隆には文化的背景が必要で、車のある生活は幸せという文化的背景があってこそ、自動車は巨大産業になりえたのだ。ところがいまの若者は車に興味がない。これは、彼の車でドライブし苗場スキー場へ行くのが素敵という文化が廃れたせいである。その結果、リゾート系に閑古鳥が鳴き、西武グループは解体の危機にまでさらされている。
日本で男性が冷遇されているのは、いまだに若者市場や女性市場を重視する傾向があるからだ。若者や女性のことは中高年男性には分からないという理由で、仕事場がどんどん縮小されていった。しかし、男性のことを理解できるのは男性である。まずは男性市場を活性化させよう。可能性はある。事実、若者ではない女性の分野では、ヨン様ブームで巨大な韓国文化市場ができあがった。この市場はますます拡大し、いまや20代女性にも拡がっている。韓国語ができる人材は年齢など関係なく引っ張りだこである。
男性市場が興隆し、市場ができれば40歳を超えても働く場は生まれてくる。30代の人間にも希望が生まれ、そして自殺予備軍は激減する。後輩に希望を与えるのも先輩の役割だ。自信を持って自分たちの文化を作って欲しい。
◎――――エッセイ
U君、フォーエバー
小田原ドラゴン
Odawara Dragon
一九七〇年生まれ。二六歳の時に漫画家を志してから一年を待たずにデビュー、連載を獲得し、「童貞マンガのカリスマ」と呼ばれる地位を確立する。主な作品に『おやすみなさい』『妄想トラッカー8823』など。二〇〇一年、『コギャル寿司』で文春漫画賞を受賞。
世間では童貞というと「恥ずかしい」「ダメなヤツ」などと、ひとくくりにしてしまうが、どうだろう。
アダルトビデオ界には欠かせない汁男優という仕事があるのだが(どんな仕事かはここではあえて触れない)、このハードな仕事を担うのも、ほとんどが童貞であるといっても過言ではない。彼らは、一瞬のきらめきのために、撮影現場で何時間も待ち続ける。
オレのマンガの読者には、自分が生まれて初めて女性に告白しているところをテープに録って送ってきてくれた人もいる。もちろん童貞だ。
童貞が長かったオレ自身、悶々とした日々を過ごしていたのでわかるのだが、彼らは、基本的にはやっぱりダメな人たちだ。でも、どんなにダメでも、生きていかなければいけないから必死で頑張っている。
10年くらい前、引っ越し屋でバイトしていた時のこと。そこには、2歳年下のU君がいた。U君は、いつも自分の彼女の話をしていて、誰もがその彼女の存在を信じて疑わなかったのだが、実は、すべてがU君の妄想話だったということがある。
なぜわかったかというと、U君が妄想を膨らませすぎたあまり、「彼女とケンカをしたから仲直りするよう電話をしてほしい」とオレに頼んできたからだ。
電話すればスグにウソだとばれてしまうのに、なぜと思うだろうが、U君はオレは絶対に電話しないと踏んでいたようだ。なにせ、女が多いという理由で商業高校に入ったにもかかわらず、3年間で女と話した総時間約2分というこのオレが、女に電話できるなどと夢にも思わなかったのだろう。
結局、その彼女に電話してわかったのは、その彼女はU君がずっと片想いしていた相手だったということ。そして、U君はやっぱり童貞だった。
即座に、すべてをバイト先のヤツらに暴露したが、U君の壮大で緻密な妄想にすっかり騙されたヤツらは、オレの言葉をまったく信用してくれなかった。
童貞の持つ特徴のひとつに、「妄想のエロ体験話をする」というものがあるが、U君は妄想エロ話の達人だったのだ。
その後、聞いた話だと、U君は25歳の時に40歳のバツイチ子持ちの女性と結婚したらしい……。
U君に限らず、やっぱり童貞は多少恥ずかしい。でも、童貞だからって諦めてほしくない。童貞のみなさんには、もっともっと妄想してほしいと思う。そこから何かが生まれるかもしれないから。多分、生まれないとは思うけど……。
ちなみに、汁男優について知りたい人は、1月に出るコミック、『小田原ドラゴンくえすと!』を読んでください。
◎――――連載
M式社会学入門 第19回
「宗教システム」とは何か(下)
宮台真司
Miyadai Shinji
一九五九年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学人文学部社会学科助教授。著書に『権力の予期理論』『終わりなき日常を生きろ』『自由な新世紀・不自由なあなた』など。
「宗教システム」とは何か(下)
社会学の基礎概念を紹介する連載の第一九回です。前回に続いて「宗教システムとは何か」についてお話しします。前回は宗教定義論を扱いました。すなわち、宗教定義史を振り返り、改めて社会システム理論的な宗教定義を示しました。今回は宗教進化論を扱う段取りです。
復習しましょう。宗教の機能は「前提を欠いた偶発性を無害なものとして受け入れ可能にすること」です。一口で言えば「根源的偶発性処理の機能」です。偶発性とは、「別様でもありえたのにそうなっていること」を意味します。様相論理学上の可能&非必然です。
〈世界〉内の事象は基本的に偶発的ですが、大抵は事後的な前提挿入により馴致可能です。「病気に罹ったのは不摂生だったからだ」というとき、「自分だけ病気に罹る」という偶発性は「不摂生だった」という前提が持ち込まれることで、受容可能に加工されます。
ところが偶然の出会い・不慮の死等は、そうした前提挿入を以てしては納得不能な、前提を欠いたものとして現れえます。「個別の出来事」のみならず、なぜ「その」法則、「その」道徳が存するか、という具合に「一般的枠組」も前提を欠いたものとして現れえます。
前提を欠いた偶発性は、期待外れの衝撃を吸収困難にし、意味あるものに意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定にします。前提を欠いた偶発性は、何らかの形で受け入れ可能なものに馴致される必要があります。この馴致の機能を果たす社会的装置が宗教です。
前提を欠いた偶発性の現れ方は、社会システムのあり方に応じて変化します。また、受容可能なものへと馴致するメカニズムにも複数の選択肢があります。前提を欠いた偶発性の「現れ方」と「馴致メカニズム」の組み合わせが、宗教のバリエーションを構成します。
宗教進化の四象限図式
〜原初的・古代的・中世的・近代的〜
以上を踏まえ、前回の予告通り、現代に至るまでの宗教進化を図式的に描きます。原初的宗教では、前提を欠いた偶発性が共同体にとっての個別の出来事として問題になります。前提を欠いた偶発性は、共同体に対する個別の出来事として現れ、共同体が馴致しました。
まず天災・疾病・飢饉・狂気など日常の慣れ親しみ(自明性)を破る出来事が、共同体全体のパニックを招来します。次にこれに対処して聖俗二元図式を用いた一連の共同行為(儀式)による聖なる時間・空間への隔離(聖化)が行なわれます。「儀式化の段階」です。
古代的宗教になると、真偽・善悪・美醜等の二項対立により、期待外れに対する範疇が事前に準備され、範疇ごとに対処の仕方が先決されます。これを「否定の図式」と呼びます。結果、個別の出来事が期待外れによるパニックを引き起こすことは、滅多になくなります。
代わりに今度は、違背処理を先決する処理枠組自体が、前提を欠いた何ものかとして問題化し始めます。他でもありえるのに、なぜ「その」枠組なのか。そこに持ち出されるのが「神によって秘蹟化された戒律」という了解形式です。これが「戒律化の段階」です。
中世的宗教になると、階層分化により社会が複雑化し、処理枠組が、共同体より個人のものとして意識され始めます。社会内に異なる信仰を持つ者が増え、戒律を秘蹟化する唯一神も、個人の主観に対応するものだと理解され始めます。これが「信仰化の段階」です。
近代的宗教になると、再び個別の出来事が前提を欠いた偶発性を構成し始めます。但し原初的社会と違い、問題になるのは共同体でなく個人にとっての偶発的出来事。理不尽な左遷や突然の事故等「私だけを襲う不幸」が問題になります。「再出来事化の段階」です。
因みに前提を欠いた偶発性の再出来事化は脱呪術化と密接に関係します。脱呪術化とは、全体社会が宗教システムと無関連に作動するようになること。社会の流動性増大とブラックボックス化が、主観的枠組で全体を覆えるとの観念を非現実的にする事態に相即します。
日本の近代宗教の三類型
〜浮遊系・覚悟系・修養系〜
日本の近代宗教も、「私を訪れる相対的な不幸」を個人的に受容可能にする機能を持つ諸形式だと捉えられます。但し、日本の場合、前提を欠いた偶発性を処理する意味論的な問題設定が二種類に分岐しています。すなわち「個別的問題設定」と「縮約的問題設定」です。
個別的問題設定と縮約的問題設定の差異は伝統的宗教区分に対応します。前者は「世俗的=利益祈願型」、後者は「非世俗的=意味追求型」です。前者は「幸せになりたい!」に応える「行為系宗教」、後者は「ここはどこ? 私は誰?」に応える「体験系宗教」です。
行為系宗教は、行為で何かをもたらすことを目標とします。すなわち前述したような非現実的関係の因果律を、呪術的に操縦したがります。体験系宗教は、個別の偶発性を操縦するより、一般的な体験加工形式を用いて〈世界〉に対する自己の安定した構えを樹立します。
個別的問題設定とは何か。病気になった際「不摂生だった」という現実的関係を前提挿入できないと前提欠如が露呈します。このとき「水子の祟り」等の超現実的関係を代替的に挿入するのが個別的問題設定です。現実/超現実の混同ゆえに「浮遊系」宗教と呼べます。
これに対して、縮約的問題設定とは、自己と〈世界〉との関係一般に予め言及しておくことで、個別の出来事による期待外れに備えて、事前の免疫化を行うものです。これは、自己と〈世界〉をどのように一般的に関係づけるかによって、更に二種類に分けられます。
第一は「〈世界〉における包括」。〈世界〉の側を拡張することで自己と〈世界〉の関係を規定可能化するものです。〈世界〉は決められていて自己には極小の自由しかないとする把握です。教義学的には黙示録的で、覚悟を要求するので「覚悟系」宗教と呼べます。
第二は「自己における包括」。これは自己の側を拡張して自己と〈世界〉の関係を規定可能化します。何かが辛いのは、辛い出来事があるよりも、辛いと感じる境地があるだけとする把握です。教義学的には仏教的で、境地の操縦を目指す「修養系」宗教になります。
浮遊/覚悟/修養系という現代的宗教の類型で注意したいのは、これらが教団を類型化する図式ではないことです。個々の宗教は、これら機能的成分を多かれ少なかれ含みます。実際、教団には、教祖の神通力に惹かれる者も、彼が説く境地に惹かれる信者もいます。
他方、浮遊/覚悟/修養系のいずれの要素にどれだけ吸引されるかは社会成員ごとに明確に決まっています。拙著『制服少女たちの選択』第七章で述べた通り、対人能力に優れた人格システムは浮遊系、劣る人格システムは覚悟系または修養系の宗教性に吸引されます。
宗教システムのコミュニケーションメディア
〜信仰(超越/内在)〜
宗教学には、呪術と区別して、狭義の宗教を捉える伝統があります。日本の宗教学者の一部は、呪術を「世俗的=利益祈願型」として、また狭義の宗教を「非世俗的=意味追求型」として捉えますが、日本の近代宗教の内部区分に引き寄せられた誤った概念区分です。
呪術と狭義の宗教との区分は、宗教進化に結びつけられるべき概念です。先の図式で言うと、呪術は「原初的宗教」に、狭義の宗教は「中世的宗教」以降に、相当します。狭義の宗教の特徴は、超越/内在の二項図式を、コミュニケーションのコードとすることです。
超越とは〈世界〉の外。内在とは〈世界〉の内。ここで〈世界〉とはありとあらゆるものの全体、〈社会〉とはコミュニケーション可能なものの全体です。原初的社会では〈世界〉と〈社会〉が重なり、アニミズムに見られるように、万物がコミュニケーション可能です。
さて社会システムが複雑になると、〈社会〉は人間界に限定され、〈社会〉の外にコミュニケーション不能な事物からなる〈世界〉が拡がると見做され始めます。この段階で初めて「なぜ〈世界〉(万物)があるのか」との問いが生まれます。この問いは、逆説的です。
なぜなら、答えは、論理的に〈世界〉の外に存在しなければなりませんが(超越)、そもそも〈世界〉はありとあらゆる全体だから外はありえません(内在)。しかし「なぜ〈世界〉があるのか」という問いは意味を理解可能です。ここに超越論的な領域が開かれます。
超越論的とは、〈世界〉の外であるとも内であるとも言えない領域です。例えば造物主たる神。〈世界〉の内にいたら〈世界〉を造れないので、〈世界〉の外にいることになる。でも、万物を意味する〈世界〉に外があるのは変。仮にあっても認識や触知が不可能です。
だから観察者的には、造物主たる神は超越論的です。むろん当事者的には、造物主たる神は、〈世界〉の外=超越なる値と、認識や触知の対象=内在なる値を振動します。故に、超越論的存在への信仰で、コミュニケーションに、超越/内在の二項図式が刻印されます。
したがって近代社会における分化した宗教システムは、「信仰」というメディアが、超越/内在という二項図式を前提としつつ超越へと向けた動機形成と期待形成をなすことを通じてコミュニケーションを触媒することによる、コミュニケーションの閉じだと見做せます(前回参照)。
教会や神学のコミュニケーションはこの意味で、分化した宗教システム(の一角)を構成します。しかし先に述べた通り、日本では、黙示録的意味論を有する「覚悟系」宗教としてのキリスト教以外に、「浮遊系」や「修養系」宗教が、大きな比重を占めています。
したがって、日本について見る限り、前提を欠いた偶発性を無害なものとして受容可能にする機能的装置としての宗教は、西欧キリスト教文化圏とは違って、「信仰」というコミュニケーションメディアによって閉じた下位システムを構成しているとは、到底言えません。
◎――――エッセイ
信用取引はリスクを知って
上手に使おう!
阿部智沙子
Abe Chisako
大蔵省(現財務省)の外郭団体にて金融専門紙記者として勤務後、九二年よりフリーに。九七年、元大手証券会社の外国債券トレーダーとともに、(有)なでしこインベストメントを設立。マーケットの分析や売買手法の研究等を行う一方で、株式等のトレーディングに携わっている。主な著書に『オンライン投資家のための30万円からはじめる「信用取引」の本』(東洋経済新報社)などがある。
インターネットを使った株の売買が個人投資家の間で拡大しています。とくに、一日に何度も売買をしたり、数日程度の短い期間で売買を行うような、短期トレードをする方が増えているようです。
こうした状況に、眉をひそめる向きがあります。たとえば「株式投資はいいが、投機はよくない」といった論調です。
そもそも投機とはなんでしょうか。『広辞苑』によれば「損失の危険を冒しながら、大きな利益を狙ってする行為」「市価の変動を予想して、その差益を得るために行う売買取引」などとあります。株式の売買について「投機」という場合であれば、売買取引についての意味を述べている後者のほうが当てはまるでしょう。つまり、投機が悪いということは「市価の変動を予想して、差益を得るために売買行為を行うことが悪い」ということになります。だとしたら、市場での取引はおろか、あらゆる商取引が「悪」になってしまいます。
市場というものは、いろいろな考えに基づいて売買しようという人がたくさん参加することによって、取引価格も公正化されるものです。また、活発な売買が行われるからこそ、買いたいときに買える、売りたいときに売れるという流動性も確保できます。ですから、「短期売買はダメだ。株式投資はこうやるべし」みたいなやり方を全員がやったら、市場の、市場たる機能が死んでしまいます。
短期売買であれ、中長期投資であれ、マーケットは大歓迎します。一番大切なことは、取引する人自身が、「短期で売買するつもりなのか」「中長期的な投資をしたいのか」といった目的をはっきり自覚することです。そのうえで、目的を実現するためにより効率的なやり方、より有効なやり方を考えることが資産を増やす大きなポイントになります。
本書『信用取引のチャンスとリスクがわかる本』は、数日、数週間といった比較的短い期間で株式を売買して収益をあげたい、という方に向けて作成しました。信用取引というと、「危ない」「怪しい」というイメージをお持ちの方もいると思いますが、信用取引それ自体は、少なくとも今日においては危ないものでも、怪しいものでもありません。むしろ、短期のトレードの選択肢を広げてくれる道具です。そのことを理解していただくことによって、さらに市場に参加する方が増えてくれれば幸いに思います。
『信用取引のチャンスとリスクがわかる本』
定価 一五七五円(税込)
◎――――連載
メイクのカリスマが教える男前になる「ヒケツ」 最終回
今日のエネルギーは
今日使い切ろう!
かづきれいこ
Kazki Reiko
フェイシャルセラピスト。スタジオKAZKI主宰。傷ややけど痕などをカバーすることで心を癒す「リハビリメイク」の第一人者。知的障害者や老人ホームの方へのボランティア活動にも力を注ぐ。
男性でも女性でも、人をひきつける魅力の源は「健康」にある。私はそう思っています。
健康であるということは、エネルギーにあふれているということ。言いかえれば、他者のために使える力を持っているということです。いつも自分のことで精一杯、という雰囲気を漂わせている人よりも、まわりのために何かしてくれそうな感じのする人のほうが、異性にも同性にもモテるのは当然ですよね。
ここで申し上げておきたいのは、私は、生まれつき身体が弱い人や病気を持っている人に魅力がない、と言っているわけではないということです。
私の言う「健康」とは、元気さ、つまりエネルギーです。病気であっても、身体が不自由でも、エネルギーにあふれている元気な人はいます。本当の健康って、身体だけではなく、精神状態や生き方も含めた、その人全体の状態を言うんだと思うんです。
だからこそ、健康であるかどうかは顔や表情、動作に如実に現れます。それが、その人のかもし出す魅力となるのです。
では、そんな「本当の健康」をゲットするにはどうしたらいいのでしょうか。
世の中には健康法といわれるものが山ほどあります。でも、それらを実行して、たとえば検査の数値が改善されたり、体脂肪率が減ったとしても、エネルギーに満ちて他人をひきつける魅力的な人になれるとは限りません。
そんな人になるために私がアドバイスできることはただひとつ。「今日のエネルギーは今日使い切る」ということです。
これは、私自身がモットーとしていることでもあります。たとえば夜、寝床に入ってからメイクの新しいアイデアを思いついたら、起き出して紙を取り出し、スケッチするようにしています。「今日はもう遅いから、このまま寝てしまおう。明日、メモすればいいや」とは思いません。
たとえ仕事が終わってくたくたに疲れているときでも、しばらく会っていなかった人から食事の誘いの電話がかかってきたら、気持ちを切り替えて、会いに行きます。どんなに疲れていても、エネルギーが少しでも残っている限り、それを使い切ることにしているんです。
一瞬「しんどいなあ」と思ったとしても、そういうときに限って、ちょっとしたアイデアから新しいメイク法が生まれたり、会った人から新しい世界が広がる。不思議ですが、必ずといっていいほどそうなります。
今日のエネルギーを今日すべて使い切ることで、明日、新しいエネルギーがわいてくる。人間ってそういうものだと私は思っています。
大丈夫、あなたの中にあるエネルギーの容量は、あなたが思っているよりも、ずっとずっと大きいのです。出し惜しみばかりしていると、あなた自身が小さくなっていってしまいますよ。
学生時代に、100メートルを全力疾走した後の気持ちよさを思い出してください。持っている力を全部出し切るって、本当に気持ちがいいことです。
いつでも自分のエネルギーを、からっぽになるまで使い切って暮らすこと。それが、まわりの人にまで元気を与えるような、本当の魅力を身につけるための方法だと思います。
ILLUSTRAION BY ASAMO
◎――――連載
小説 「後継者」第8回
第4章 大店立地法届け出――(1)
安土 敏
Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先の大手スーパー・プログレスを訪問した帰り、車中で謎の言葉を残し急逝。浩二郎社長が残した謎の言葉と、プログレスの悪辣な乗っ取り話の数々を聞いた堀越取締役は、プログレスのフジシロ乗っ取りを疑う。その疑念は、故浩二郎社長派だった役員たちの態度の変貌により確信になりつつあった。さらに、プログレスが撒いた上町店開店の地元説明会案内チラシに、出店社としてフジシロが記載されていない事実を知る。プログレスの裏切りがはっきりした。スーパー・フジシロの運命は……。
2
午後5時少し過ぎに藤代浩介専務の部屋から出てきた堀越充三取締役の顔は暗く歪んでいた。そのままの表情を変えず、俯いた姿勢で階段を上り、1階上のフロアにある開発部に戻った。
「どうでしたか」と待っていた重成大五郎がデスクにやってきたが、堀越は絶望的な一瞥を与えただけで、首を横に振った。
「やはり駄目でしたか」
「駄目というか、要するに分かっていない。『このチラシを見れば、プログレスの意図は明白です。必ず資本参加を要求してきます』と言っても、ピンと来ていない。『そんなこと、山田会長の話を聞いてみなければ分からないじゃないか』なんて言っている。プログレスに支配されるということがどういうことか理解していないんだ。いまとあまり変わらないように感じているらしい」
重成は、堀越が差し出した「上町店に関する大店立地法の地元説明会」というプログレスのチラシを手に取った。
「それにしても、このチラシ、我が社は完全に無視されていますね」
重成は汚いものでも投げ捨てるようにチラシを堀越の机の上に置いた。
「そうだ。プログレスは最初からその気だったんだ。そんなチラシを出しておいて、その一方で社長と専務をゴルフに誘っている。君が言うとおり、握手をしながら背中には匕首をつきつけている」
「嘗められたものです」
「とにかく、浩介専務が分かってくれないと話にならない。守田社長が籠絡されてしまっている以上、プログレスの魔の手を逃れたとしても、その後のフジシロを引っ張っていくのは浩介専務以外にないからね」
「そのとおりです。芝虫ジュニア(浩介専務)に頑張ってもらうしか方法がありません」
「木曜日のゴルフのまえに浩介専務を説得しておかなければならない」
「そうです。プログレス菌に対する予防注射を打っておかなかったら、芝虫などひとたまりもありません」
「とにかく、明日、もう一度話し合ってみる。しかし、今日の調子では、なかなかむずかしいぞ。明日は君も専務室に連れていくから、プログレスの悪辣さについて、専務をよく教育してくれ」
「明日では遅すぎます。それに昼間の専務室では、ココロに訴える話はできません。今夜やりましょう。実は、そんなことだろうと思って、私が手を打っておきました」
堀越の顔を、重成がのぞき込んだ。離れた小さな目がきらきら輝いている。
「今夜、ジュニアを説得する時間がとれます」
「それは無理だ。私もそのことを考えて、浩介専務に、今夜時間をとってくれるよう頼んでみたんだが、予定があるから駄目だと言われた。明日も夜は取引先の問屋との会食があるそうだ」
「大丈夫です。今夜、かならず会って話ができます」
「えっ。どういうことだ?」
「芝虫の生態を知っていたら、その行く先が読めます。生物学を専攻した私には、とても簡単なことです。芝虫が好むものは決まっています」
「まさか、ゴルフでもあるまい」
「いい線いってますが、違います。ゴルフ場は、夜はやっていません。しかし、大都会には、夜でも、芝虫が好む場所があるんです」
「そうか。ゴルフ練習場か。それが専務の今夜の予定だったのか」
「そうです。芝虫ジュニアは、毎週、ゴルフのレッスンを受けています。今日がその日です。シングルハンデを維持するのには大変な努力が要ります。練習場の場所も分かっています」
「しかし、ゴルフ練習場まで追いかけていったりしたら、専務は気分を悪くして、かえってまずいんじゃないかな」
「大丈夫です。それも手を打ってあります」
「手を打った? 一体どんな手があるんだ」
「お楽しみに。とにかく行きましょう。ほら、もう芝虫ジュニアの表示ランプが消えています。会社を出たんです。急ぎましょう。レッスンは30分間で終わりですから」
3
本部前からタクシーで20分ほどのところに、そのゴルフ練習場はあった。界隈ではもっとも大きなもので、打席が2階建てになっている。
「虫の生態を知れば、その生息地はすぐに分かります。どこに隠れているかは、通り道に落ちてる糞や通り跡から推定できます。ほら、あれが芝虫の通った跡です」
駐車場の入り口近くに駐車してあるブルーのBMWを指さして、重成はニヤリと笑った。
1階の入り口に一番近い場所で、入り口に背を向けて、浩介がレッスンを受けていた。後ろに立っているのがゴルフの先生だろう。白髪の小柄な老人で、身体に似合わぬ大声でいろいろ指導している。
「駄目だよ。その打ち方ではドローボールになる。ドローを打つから、大叩きをやるようになるんだ」
「でも、やっぱり距離が欲しいんですよね」
「フェードボールはコントロールできるが、ドローボールはコントロールできない。だから、ドロー系の球筋で大成するプレーヤーはいない」
「そうでしょうか」
浩介専務は真剣な眼差しで先生を見た。会社でこれほど真剣な目をしたことはない。
「そうだよ。多少飛距離が落ちても、平均スコアはよくなる」
先生はふたりに気づいた様子だったが、何も言わず、またレッスンに戻った。
「ドローっていうのは、右利きの場合ボールが空中で落ち際に少し左に流れることだ。フェードっていうのは反対に右に流れる」と堀越が重成に解説した。
「そんなふうに打ち分けられるんですか」
「私には無理だが、浩介専務ならできるだろう。だからシングルだ」
「デパ地下とスーパーマーケットとの区別がつかなくても、ゴルフボールの飛び方は区別できるんですね」
「おい。声が大きいぞ」
その声が聞こえたのか、もう一度、先生がふたりのほうを見た。
「藤代さん、お知り合いではないかな」
浩介が振り返った。
「おお、君たちか」
ふたりは、頭を下げた。
「珍しいな。重成君がいよいよゴルフを始める気になったか」
「いいえ。そういうことではないんです」
「そうではない? じゃ、何だ」
「専務にちょっとお話があって、それで伺いました」と堀越が言った。
「話って、さっきの話の続きか。もういい加減にしてくれ」
たちまち浩介の顔つきが変わった。自分が大好きな世界にふたりが入り込んできたと思って機嫌がよかったものが、そうでないと知って反転したのだ。
「終わるまでお待ちします」
堀越が叫ぶように言ったが、その声も聞こえなかったように、浩介はふたたびボールに向かっていった。
「おい。やっぱりご機嫌斜めになった」
堀越が怯えたような顔になったが、「大丈夫ですよ」と重成は平然としている。先生がちらりとふたりを見たが、その顔が、堀越にはひどく意地悪そうに見えた。
「せっかくやってきたんだから、話だけは聞いてやる。しかし、30分以内だぞ。そこの喫茶でいいだろう」
レッスンを終えたとき、浩介専務は、そう宣言して、練習場の入り口にある待合室を兼ねた喫茶店を指さした。
(つづく)
◎――――連載
●連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート 第36回
政府のやるべきこと、
やるべからざること
佐和隆光
Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。
小泉総理の構造改革の究極の目標は、郵政民営化一本に絞り込まれてきたかのようだ。
私は、1990年から91年にかけて、臨時行政改革推進審議会に専門委員として参加した経験があるが、当時、行革審で審議すべき最大のテーマの一つが郵政民営化だった。まだまだバブル経済の余韻が冷めやらぬ、また銀行の債権が不良化する懸念も表沙汰とならなかったそのころ、全銀協(全国銀行協会)会長による自信満々の参考人意見陳述を聞く機会があった。その意見陳述の端々に垣間見られたのが、次のような全銀協の本音であった。すなわち、銀行、保険、証券などの民間金融機関は、大蔵省により(銀行の場合は日銀によっても)所管されていたのだが、郵便貯金や簡易保険は郵政省により所管されていたこと、言い換えれば、郵貯や簡保が大蔵省の傘の下にいないこと、これこそが全銀協からすれば由々しき問題なのである、と。
要するに、郵貯や簡保は、大蔵省を司令官とする「護送船団」の一翼ではなかったのである。したがって、郵貯や簡保は、銀行や生命保険会社とは歩調を合わそうとしないという意味で、実にうっとうしい存在だった。それゆえのことか否かは措くとして、個人金融資産残高に占める郵貯や簡保の比率が高まると、「官業が民業を圧迫する」との意識が銀行によって共有されるようになった。たしかに、郵貯や簡保の肥大化は特殊日本的現象であり、大卒の銀行員とは比べものにならないほど安月給の高卒の郵便局員が、自転車で走り回って貯金集めをする郵貯は、銀行にとって目障りきわまりない存在だったのである。
全銀協会長のヒアリングを受けたのち、私は次のような質問をした。「たしかに、郵貯の肥大化は目に余るものがある。しかし、銀行もまた大蔵省の庇護のもとに競争を怠っているのではありませんか」と。全銀協の会長がどう答えたのかは記憶にないが、その当時、いわゆるMOF(大蔵省)担と呼ばれるエリート銀行員は、大蔵省銀行局に日参し接待供応に明け暮れていた。「民業」を自称する銀行は、実のところ、大蔵省附属銀行にほかならず、民業というよりは「官業」そのものだったのである。
ともあれ、いまや郵政公社の民営化は、せき止めがたい潮の流れとなったようだ。しかし、どのような方式で民営化するのか、その落としどころのいかんについては、異論・反論が渦巻くことであろう。メガバンクにせよ地方銀行にせよ、貯金の対象を個人に限定され、金額についても1000万円以下に限られ、貯金の大半を国債や財投債の購入に充てることを事実上義務づけられるという、手枷足枷で縛られたままの郵政公社のほうが、はるかに与し易いのではなかろうか。貯金残高240兆円の「巨象」を野に放たれたのでは、たまったものではないだろう。郵政公社には資産運用のプロがいないとはいうけれども、いざとなれば、銀行からの引き抜きで十分対処できるはずである。
民営化のとりあえずの成功事例
郵政三事業に限らず、官業による民業の圧迫はけしからぬこと、そして、官から民への権限や事業の移行は望ましいことだと言われてきた。1980年代半ば、国鉄と電電公社が民営化されたが、いずれも民営化の成功事例といえるだろう。
国鉄は地域別のJR6社とJR貨物に分割民営化されたが、赤字路線の廃止により便益を損なわれた過疎地に住む人々を別にすれば、多数派の市民にとっては、乗務員のサービスが向上したこと、そして私鉄との運賃格差が縮小したことにより、便益は大いに向上した。
とはいえ、長距離輸送の新幹線に関する限り、高運賃の飛行機、運賃は安いが時間のかかる高速バスしか競争相手がいないため、その運賃は相対的に高めに設定されているようではある。
電電公社は分割されずにNTTとして丸ごと民営化されたが、民営化と同時に3社が市場にエントリーし、電気通信市場は当初から「競争的」となった。だが実態は、市内回線はNTTの占有物とされ、新規参入の3社は市外電話に特化するというものだった。たとえば京都市内の某所から東京都内の某所に電話する場合、第二電電(現KDDI)であれば、両都市の基地局間を無線通信し、基地局から某所までの通信料をNTTに支払うという、不平等な競争条件のもとで自由化はスタートしたのである。
その後、電気通信の市場は予期せぬ変化に見舞われた。予想を上回る携帯電話の普及、Eメールの登場、IP電話の登場等々。EメールとIP電話のおかげで、国際電話と市外電話の利用頻度は激減した。また、携帯電話の普及のおかげで、固定電話の利用頻度は激減したし、公衆電話も徐々に姿を消しつつある。ことほど左様に、電気通信市場の将来は、いささかならず不透明な昨今である。
ともあれ、国鉄と電電公社の民営化は、大部分の市民の便益を向上させたという意味で、「成功」と評して差し支えあるまい。
官から民という流れ
鉄道、通信、電力、高速道路、郵便などをネットワーク事業と総称することにすれば、ネットワーク事業は、国営企業としてスタートせざるを得ない。第一の理由は、ネットワークを全国くまなく張り巡らせるためには、膨大な初期投資が必要なこと。第二の理由は、ユニバーサル・サービスを原則としていること。送電線、鉄道輸送、郵便、道路、電話線のない地域があってはいけないというのが、いわゆるユニバーサル・サービスの原則である。人口密度の高い都市部にのみ電力を供給する、郵便を配達する、鉄道や道路を敷設するのは、大方の常識に照らして「不平等」と判定される。利潤追求を第一義とする「合理的」な民間企業にユニバーサル・サービスを期待するのは、どだい無理な注文というべきである。地域独占を保証することの代償として、10電力会社には、供給義務──いかなる僻地、離島であれ、人の住むところには必ず配電する義務──が課されてきた。
こうしたわけで、どこの国でも、当初、ネットワーク事業は国営で始まるのだが、「独占」の病魔にさいなまれたり、雇用が過剰になったり、総括原価主義による「非効率」が温存されたり、価格が高止まりしたりするなど、国営ゆえの弊害が次第にあらわになってくる。しかも、慢性的な赤字は、税により補てんされ続ける。
日本に関していえば、高度成長期には税収の高い伸び率が期待されたため、税で国鉄の赤字を補てんすることに文句を言う人は少なかった。ところが、オイルショック後、減速経済期を迎えるに伴い、税収の伸び率が鈍化したため、先進各国とも財政赤字にさいなまれるようになった。財政赤字の一因は国営企業の赤字補てんだということで、日本では国鉄にメスが入れられることとなった。赤字路線3000キロメートルを廃止し、次いで、過剰な労働者を解雇することが、国鉄の赤字解消のためには必要不可欠とされたのである。
だが、国営企業のままでは合理化のための大ナタを振るうわけにはゆかないし、経営母体である国に営業赤字を補てんする義務もあった。そのため、慢性的赤字を解消するには、民営化するしか他に手立てがなかったのである。民間企業が赤字決算を続ければ、倒産の憂き目に遭わざるを得ないからだ。
ただし、何事につけ、民が官に勝るわけではない。アメリカには、刑務所を民営化すべきだと主張する向きもあるが、受刑者の人権が蹂躙される可能性を否定できまい。また、イラクに派遣された軍隊の任務の一部は民間の傭兵会社が請け負っているという。軍隊までもが部分的に民営化されていることが、イラクの捕虜収容所で起きた捕虜虐待行為の原因の一つに数えられなければなるまい。かつてケインズがいみじくも言ったとおり、「政府のやるべきこと」と「政府のやるべからざること」を的確に峻別する作業がなされなければなるまい。
日本型の審議会を見直す必要性
大統領経済諮問委員会(CEA)という、経済政策の決定に応分の影響力を持つ組織がアメリカにはある。委員長と二人の委員のいずれもが経済学者であり、専門的な立場から政策を立案し評価するのが委員会の役割であるとされている。
日本にもCEA並みの権限を持つ経済財政諮問会議が設けられてはいるが、民間人委員のなかに財界の重鎮が名を連ねているのは、フェアネスを重んじるアメリカでは考えられないことである。日本では、各種審議会の構成員にも民間企業の役員が少なくない。アメリカの企業経営者が政策に影響力を発揮するのは、あくまでも裏舞台においてのことである。
国の政策は、行政当局が策定し、その是非について議会で審議するのが本来の代議制民主主義のはずなのに、なぜか日本では、担当官庁が指名する委員によって構成される審議会が、政策を評価し分析する役割を担っている。しかも、その構成員には、民間企業の役員のみならず、連合の幹部などの利益代表に加え、審議するテーマとはほとんど無縁な評論家やジャーナリスト、元官僚までもが入り混じっている。また政府は、審議会委員の30%を女性が占めることを目標に掲げている。
このように、必ずしも専門性を重視せずに委員を選出する結果、審議会の場では、利益代表としての我田引水的発言、あまりに素人臭すぎる発言、論じているテーマとは無関係な発言が飛び交うのが、偽らざる実情である。挙げ句の果てに「多方面の先生方のご意見を集約した結果、提言がまとまりました」ということで一件落着となる。
審議会に実質的な権限がどこまであるのかは必ずしも定かではない。だが仮に実質的な権限があるのなら、委員は選挙で選ばれたわけではないのだから、代議制民主主義のルールに違背する。仮に実質的な権限がないのなら、審議会の役割はお役所の意図するところを「正当化」することでしかなくなる。そろそろ審議会依存行政のあり方を見直す必要がありそうだ。
◎――――連載
疲れる前に休もう 最終回
泉ゆきを
Izumi yukio
1938年生まれ。コミックモーニングに「宅配猫の寅次郎」を掲載し注目を集める。第25回日本漫画家協会賞先行委員特別賞、第19回読売国際漫画大賞近藤日出造賞ほか多数受賞
編集後記
別冊週刊ダイヤモンド『セカンドライフの算盤勘定』
▼50歳代の方々に定年後を見据えて、新たな人生のスタートを考えてもらおうと企画した本誌。趣味に没頭している方、起業している方、海外へ移住している方……、50代、60代の方々への取材を進めてみると、それはリタイアではなく、まさに「第二の人生」です。そしてきっちりとセカンドライフに向けて計画を実行している方々は、実は30代、40代の時に、すでに意識していたことがわかりました。年金も期待できないこれからは、自分の力で将来を切り開くしかありません。いままで「老後」や「定年後」など無関係だと思っていた私もすでに40代。自分なりの「夢」を実現するにはそろそろ準備が必要です。もちろん50代から意識し、計画しても遅くはありません。そのための具体的な資金計画や、「夢」を叶える方法、すでに「夢」を叶えた方々の実例などが数多く掲載された本誌は、12月13日 月曜日に発売です。 (田代)
マーケティング局より………
▼先日、娘が6歳の誕生日を迎えました。そろそろ難しい絵本をと思い、『ごんぎつね』を読んで聞かせました。最初はつまらなさそうにしていたのですが、中程から絵本の世界に入り込み、結局、泣きながら眠りにつきました。私自身、久々に目を通したのですが、何度読んでもラストでは涙がこみあげてきます。翌朝、「気持ちを伝えるのは難しいけど、大切だよね」と話しました。
作者の新美南吉氏は、若くしてこの世を去りましたが、時代を超えて愛される作品を何点も残しています。弊社にも時代を超えて愛される本がたくさんあります。なかでも、いま相田みつを本がちょっとしたブームになっているのをご存知でしょうか? TBSのお馴染み「三年B組 金八先生」では、『生きていてよかった』が毎回授業のシーンで使われています。よい本はいつの時代も愛され、読みつがれていくのですよね。 (菊地)
編集室より………
▼小説仕立てのビジネス書が増えています。11月発行の『ザ・ファシリテーター』はビジネススキル・ストーリー、『なぜ中国で失敗するのか』は戦略ビジネス・ストーリー。今年から立ち上げた経済小説大賞関連のものを含め、12月には『虚飾のメディア』『社長解任動議』『生餌』『ハゲタカ』『ダブルプレイ』と小説が5本出版されます。小説のジャンル分けは悩みどころです。経済小説と企業小説、サラリーマン小説、恋愛小説と私小説、ミステリー小説、時代小説、昨今のプロ野球球団買収をテーマに、金融関連企業の確執を縦軸に、主人公であるサラリーマンの家族関係と不倫そして殺人を横軸に描く小説はどのジャンルに当てはまるのでしょうか。プライバシー問題も微妙です。架空企業名、架空人物名も小説の味付けに欠かせません。読者の逞しい想像力に応える小説は限りなく事実として読まれていきます。 (木田)
「Kei」について
「Kei」はダイヤモンド社の広報誌として全国主要書店でお配りしている小冊子「Kei」の電子版です。
論文の投稿を歓迎します
「Kei」では、経済・経営に関する論文の投稿を受け付けております。字数は1000〜4000字。受け付けは電子メールのみです。冒頭に概要、氏名、略歴、住所、電話番号、電子メール・アドレスを添えてください。採否についてのお問い合わせには応じられません。採用の場合は編集室より電子メールでご連絡します。受け付けのアドレスは以下のとおり。
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