いまの日本人は不幸だ。
これまでは完全に会社に依存する生活を送り、定年を迎えると依存するものがなくなって、極端な例では引きこもり老人になる人もいる。
かつては物質的に豊かではなく、高度経済成長とともに一所懸命働くことが幸せな時代であったが、いまは時代が変わって、必要なものはたいてい揃っている。もはや、がむしゃらに働くことだけが幸せだとは限らない。
しかし、仕事以外に、自分に幸せな場面を見つけているかというと、決してそうではない。それまで仕事を離れて、自分のやりたいことを考える機会がなかったから、新しい幸せの尺度が何かわからないのだ。
いま日本が迎えようとしている市民社会・高齢化社会では、自分の能力を活かして、社会の中でやりたいことを自由に行えることが基本にならねばならない。つまり、自分を活かす社会である。
もし仕事が生き甲斐だというのを変えられないのであれば、その人の能力に合った仕事を見つけられる社会にしていく必要がある。そのためには、企業も、年齢などではなく個人の能力ややり甲斐を基準に採用するように意識を変えねばならない。
仕事以外に楽しみを見出した人でも、やりたいことが自由にできるわけではない。年を取って体の自由がきかなくなってくると、好きなコンサートに行くのもままならない。
自分を活かす社会とは、他人に対してもやりたいことを認めることでもある。自分は自由にやって、まわりは知らないというのでは単なるエゴだ。自分の立場が強い人であればいいが、そうでない多くの人は、まわりの協力なしに自由に生きることはできない。お互いに助け合って、それぞれの人生を築いていく「共助」が必要になってくる。
これまでのように働くことが絶対の時代には、働くことは「自助」であり、働けなくなった後は年金などの「公助」を頼りにする。「自助」と「公助」だけの社会であった。これは人を働くか否かのみで分類する、あまりに経済偏重のギスギスした社会だ。
これからは、そうした線引きをしないで、誰もが助け、助けられる市民社会を考えなければいけない。もちろん自分のことは自分でやるのが基本だが、自分でやれないことがあったら、それをすべて政府に頼るのではなく、ボランティア活動のように助け合う「共助」の部分が必要だろう。
私がNTTで法人営業マンとして働いていた時、世はITブーム真っ盛りで、その勢いを日々体感していました。私にとってインターネットやシステムの普及は、世の中をひっくり返すのではないかと思うくらいの衝撃でした。でも、世の中が一気にシステム化の方向へ進んでいく中で、一つの疑問が湧いてきたのです。そして、仕事とはどこまでいっても人間同士の感情の交換だと思っていた私は、機械が苦手とする人間くさいアナログの部分に意識が向いていきました。
そんな頃、熊本の実家に帰った時に社会人としてはじめて、母の書道家としての姿を真正面から受け止める機会を得ました。私自身、母親が書道家だったということもあり、幼い頃から書道を始め趣味としてただ書を続けていましたが、母の作品に対して人々が様々な反応をしている光景を目にして、書に対する新たな視点が生まれたのです。書に興味を持つ人は予想以上に多いのではないかと。
そこで、書をインターネット上でビジネスとして展開できないかと考えました。ホームページを立ち上げたりしていくうちに、私は独立を決意したのです。そして、これからのビジネス展開に向けて鼻息荒く活動している時、運命を変える出逢いがありました。
横浜駅の路上で、あるサックスプレイヤー、坪山氏のストリート演奏に出くわしたのです。彼の演奏を聴いて多くの観客が優しい顔をしたり、涙したりする光景を目にして衝撃を受けました。ビジネスのことで頭がいっぱいだった私は、完全に打ち砕かれました。「何のために独立するのか」「何のために自分が存在しているのか」。そういうことを一から考え直すきっかけになりました。よい書を追求し、多くの人々が感動してくれる姿をイメージした瞬間、鳥肌が立ったのです。
その時から、「感動」を主軸においた私の書活動が始まりました。
それから一年後、一つの夢であった彼とのコラボレーションも実現しました。恵比寿ガーデンホールにて約一〇〇〇人の前で、彼の音楽が流れる中、大筆で七メートルの「夢」という字を書き上げました。このコラボレーションをきっかけにして、パフォーマンス書道家としての活動も始まりました。
今は、パフォーマンス書道、作品制作、書道教室の三つを軸にした活動をしています。いずれも、形は違えど「感動」をテーマにした活動です。これからも自分が感動できるような書を追求し、多くの人に感動を与える書活動を世界へ向けて展開していきたいと思います。
本連載では、開始以来マネーと物価の関係について考えてきました。そして、両者の関係についての最も基礎的な理論として、「貨幣量が増大すると物価は上昇する」という原始的な貨幣数量説を解説しました。しかし、この原始的な貨幣数量説は、貨幣と物価以外の「他の事情を一定として」という前提なしには成立しません。
前回はシュンペーターの『経済発展の理論』を取り上げながらマルクスとのかかわりについて指摘した。しかし本書の注目すべきところは、マルクスだけではなく、ウェーバーともかかわっていることである。今回はこの点について述べたい。
同書第一版が一九一二年に出版されたとき、この書物を「経済史に関する本」と受けとめる読者があり、シュンペーターは「誤解だ」とそれに強く反発した。その「誤解」をとくために、最終章におかれた「国民経済の全体像」が第二版から省かれた。そのため第一版では七章構成であったのが、第二版では六章構成に変わっている。
『経済発展の理論』が「経済史に関する書物」であるという誤解を与えたことに、私は改めて注目しておきたい。
ただ、シュンペーターは第二版の序文で「あらゆる他の経済理論と同じように、経済史とはなんの関係もない」と断り、「この書物(『経済発展の理論』)の内容を問題にしようとする専門家に対しては、今後この新版(第二版)のみを利用されることを希望する」と述べたことで、経済史家の関心を不当にそらせたのは残念である。
今日では、『経済発展の理論』を経済史の本と誤解する経済学者はいないだろう。それと同時に、経済史を理解する鍵を提供する内容をもっていることを否定する者もいないであろう。
経済史家にもっとも利用されてきた書物を一冊挙げるとすれば、日本では『資本論』であろう。さらにもう一冊挙げるとすれば、経済学の本ではないが、マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』であろう。
ウェーバーがマルクスを意識していたことは疑いない。前回紹介したように、シュンペーターもまたマルクスを意識していた。では、「シュンペーターはウェーバーを意識していたのか」と問えば、答えは「イエス」である。
シュンペーターはマルクスが死んだ一八八三年に生まれた。マックス・ウェーバー(一八六四―一九二〇)はマルクスより四六歳年下だが、シュンペーターよりは一九歳年長である。そして、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が出版されたのは、シュンペーターが二〇歳になってまもなくであった。
ウェーバーとシュンペーターが会見し火花を散らしたエピソードは紹介されることがあるが、シュンペーターは『経済発展の理論』では直接、ウェーバーに触れていない。しかし、注意深い読者ならば、シュンペーターがウェーバーとの方法論的相違について明確に意識した記述を探し出すことができる。それは同書の第二章におかれた注三(岩波文庫本、上巻、一七〇ページ)であろう。少し長いが引用しておこう。
「本書の第一版が受けた最も腹立たしい誤解の一つは、私の発展理論がただ一つの要因、すなわち企業者人格を除いて他のすべての歴史的変動要因を無視していることは非難すべきであるとされたことである。もし私の叙述が、このような批判において想定されているようなものを意図しているとすれば、それはたしかに無意味であろう。しかし、私の叙述はそもそも変動の要因を問題としたのではなくて、これらの要因がいかにして実現するか、すなわち変動の機構を取り扱ったのである。私の示した『企業者』というものですら、ここではけっして変動の要因ではなく、変動機構の担当者なのである。しかも私は単に一個の変動要因を考慮したのではなく、むしろいかなる要因をも考慮しなかったのである。そのうえ、われわれはここで、とくに経済組織、経済様式などの変動を説明する要因を問題としたのではない。これもまた別個の問題である」
成果主義の問題点を告発する本があちこちで話題だ。現在、日本の七割の企業が成果主義を導入しているそうだが、当初は、これでやっと日本もタダシイ競争社会になる、と考えられていたのだろう。しかし、いざ施行されてみると、オカシイ、何か違う、そんな風に経営者も社員もいら立ってきているに違いない。
そこで、筆者の専門である数理経済学の立場から、この「成果主義」へ批判的な視線を向けてみることにする。
ゲーム理論に「働きアリ・怠けアリゲーム」という面白いモデルがある。生物学での観察から、アリの集団が働きアリと怠けアリに一定比率で分かれていることが報告されている。これをゲーム理論の立場から数理的に説明したものである。
説明にはこんな寓話が使われる。アリたちの集団において、たまたま出会った二匹のアリがペアを組んで仕事をするとせよ。そのときアリの戦略は二つ、「熱心」か「怠け」である。もしも二匹とも「熱心」の戦略を取れば互いに3点ずつの得点を得る。二匹とも「怠け」なら0点ずつである。さらに一方が「熱心」で他方が「怠け」の場合には、「熱心」が1点、「怠け」が4点となる(労力に対するエサの量という意味から、この配分となる)。このとき、アリたちの選ぶ戦略はどうなるだろうか。
幸いにも、全部のアリが怠けることは生じない。そうなったらすべてのアリがエサにありつけないからだ。しかし、ほとんどのアリが「熱心」戦略を取る世界も実現されない。なぜだろう。それは、自分とペアを組む相手が高確率で「熱心」戦略だとわかるのなら、自分は「怠け」の方がオイシイからだ。こう気付いたアリが続々と自分の戦略を「怠け」に変えていき、やがてアリの集団が「熱心五割、怠け五割」の比率に分かれることで、つり合いが実現されることになる。
このとき、個々のアリがどちらの戦略に属すかは、偶然によって決まるにすぎない。個々のアリの性向が生来から二種類に分別されているわけではないのだ。
その証拠に、両タイプのアリがいる集団から働きアリだけを抜き出して精鋭部隊を作っても、五割は怠け出す。逆に怠けアリだけを取り出しても、五割がバリバリ働き始める。
さて、あるタイプの人間の職場も、アリの職場と似たゲーム構造を持っているとせよ。その場合、つり合いとして実現される社員の「実力」や「努力」は、個人にそもそも本来的に備わっていたものではなく、職場のゲーム構造下での経済合理性から、確率的に決まったものにすぎないだろう。
このような職場においては、「成果主義」は明らかに、その前提と根拠を失うはずである。
みなさん、こんにちは。ボクが本書の主人公、アレックスです。九月に発売された『駆け出しマネジャー アレックス リーダーシップを学ぶ』では、ご声援ありがとうございました。お蔭様で大好評につき、第二弾として再びお目にかかれることになりました。
今回の『コーチングに燃える』は、食品メーカーが舞台です。この会社に転職してきた当初は一介の平社員だったんですが、提案した企画が採用されたのを機に、プロジェクトのリーダー役を務めることになりました。初めて、部下を持つことになったんです。
最初の部下は、大学を出たてのゴードン。数字の分析が得意で筋は悪くない。でも、仕事の無駄が多いんです。どう助言していいのか悩みました。次の部下、トムとディックは犬猿の仲でチームの雰囲気は悪くなるばかり。これも手が焼けました。一番弱ったのが、採用
したばかりのアンガス。ボクが何をいっても馬耳東風で話を聞いてくれないんです。
いやはや、教えるのって、そう簡単じゃないんですね。でも、あと一歩が足りない部下も、少々問題のある部下も、ちゃんとコーチングすれば、うまく能力を引き出すことができるんです。本人にとってもチームにとっても、それが一番ハッピーだと思いました。
一方、ボク自身も教わる側としていろんな人のお世話になりました。直属の上司のボブ、マーケティング担当のシニア・マネジャーのサラ、CFO(最高財務責任者)のマイケル。効果的な助言の仕方など、コーチングの好例を我が身で受けて「目からウロコ」でした。
どうやら、コーチングにもツボがあるようです。本書ではボクの体験した物語を軸に、コーチングの秘訣をあますことなく紹介します。ぜひ、ご覧ください。
(主人公アレックス談)
『駆け出しマネジャーアレックス コーチングに燃える』
定価 一四七〇円(税込)
今回の夏季オリンピックは、予想を上回る日本人選手の活躍で日本人の大きな関心をひきつけた。深夜に及ぶ放映がもたらした生産性への影響(?)はともかくとして、エンターテインメントとしての価値は最高だったといえよう。
日本選手団の「成功」を論じる議論がこれまた面白い。いわく北島選手、泉選手といった一九八〇年代生まれの新世代台頭論、いわく前回のシドニー大会での「敗戦」を受けて組織が見直された成果とする組織改革論などなど、あたかも日本経済の復活論議をほうふつとさせる。あるいは納税者ならば、財政支出が全体として削減されているなか、オリンピックの全メダル総数における獲得率を一〇年間で三・五%まで倍増させるというJOCゴールドプランに対して予算増額があったことには注意を払うべきかもしれない(もちろん、このようなメダル獲得政策の正当性は別途考えなければならないだろう)。
ところで、オリンピックのメダル数といえば、大竹文雄教授は興味深い国際比較研究を紹介している。それによると前回大会までのメダル数の予測には人口、一人当たりGDPの両者がほとんど同じ程度に影響を与えるという。けれども、これだけではどちらの面でもドイツやフランスよりも大きい日本の低調さが説明できない。次にオリンピック開催国、旧・現共産圏といった要素を加えてみたものの、まだ日本の低調さは説明できない。そこで考慮したのが一つ前の大会のメダル数である。これでも日本の低調さは説明しきれないのだが、この変数は他の変数よりも説明力が高いという(「オリンピックの国別メダル予測」『産政研フォーラム』六三号、二〇〇四年七月三〇日、三九〜四一頁。http://www.iser.osaka-u.ac.jp/~ohtake/paper/sanseiken040731.pdf)。このような知見はオリンピックだけでなく日本経済の構造問題を考える上でも役に立つというのが今回の主題である。
独立行政法人労働者健康福祉機構が、昨年四月から今年三月までに受けた、勤労者およびその関係者からの相談件数は一万二九二〇件。対前年度比五六%増。相談内容は、上司との人間関係が一二一一件、その他の人間関係一一五四件と、人間関係についての悩み相談が目立つ。将来に対する不安、落ち着かない、不眠などの相談も多く、自殺願望があるという相談も四一四件。「精神障害等」による労災請求・認定件数は五四六件(請求四三八件、認定一〇八件)で過去最高。
「上司はアホだし部下はマヌケ。正しいのはいつだって私なんですよ。なのに、会社はそれを正当に評価してくれない。会社を辞めたいんですよ。でも今のご時世、転職したっていいことないのは分かっているので辞めませんけどね。でも、会社に行くのが嫌でしょうがない。まあ、サラリーマンなんてみんな同じ。好きで会社に行ってるヤツなんていないでしょうから私も続けますよ、アホな上司の下でね」
三〇代半ばの情報処理会社中間管理職の彼の話は、こんな調子にだらだらと続く。相談というより単なる愚痴だ。話のポイントも見えない。聞き手が心理カウンセラーであれば、こんな話が続くのを待つのも仕事だが、あいにく私はカウンセラーではなくコンサルタントだ。心を癒してあげる役割ではなく、彼が抱える問題解決の糸口や具体的な解決法を考える役割である。その結果、心が癒されることもあるだろう。まずは話のポイント整理から入るとしよう。すると彼は、それまで椅子から乗り出していた身を引きながら言う。
「池内さんって、女なのにけっこう強くてキツイですよね」
彼にとって女とは弱くて優しいものなのだろう。その女が物事の本質を明らかにしたり、彼自身の問題点を指摘すると不快感をあらわにする。彼の予測していることと異なる対応に怯えて自身の弱さを露呈したのは少し気の毒に思う。
いつの頃からか、日本人、特に男性は人間関係に「悩みを抱える」ようになった。人間関係に難があるというよりも、他人との関係性に非常に脆弱になった。中高生も仲間外れにされることを極端に恐れるあまり、非常に傷つきやすくなっている。引きこもりという、世界でも類を見ない日本独特の心の病も、人間関係の脆弱さが生み出したものだろう。
余談だが、引きこもりの子どもたちを韓国など外国に連れていき、一定期間住まわせると治ってしまうというケースが報告されており、なぜ治るのかについてはまだ結論が出ていないが、とにかく治ってしまう例が多いので注目もされているし、プログラムも組まれている。
このような話を聞くと、日本という国が、人を病むようにしてしまっているようにも思えるが、問題の責任を社会に押し付けても個人の解決にはならない。社会人は、人間関係でどれほど悩もうと、日々戦っていかなければならないからだ。上司や部下がいかにアホでマヌケであろうとも、任務は遂行しなければならないのである。では、人間関係に悩んでいる社会人はどのようにすればいいのか?
答えは簡単だ。「悩みを抱える」ことをしなければいい。驚きの回答だが、ここでピンときた人はすでに問題は解決されています。逆に、そうではない人、悩んでいるから苦しんでるのに、なんだ、その言い草は、と怒りを感じた人へ伝えます。言い方を変えましょう。ここから先は人間関係に悩まない、と決断することによって悩みは消えます。
あえてこんな伝え方をする理由は、今の日本男子に、強くなろうという意志が欠けているように思えるからだ。強い人間は最初から強いわけではない。望む自己イメージを高く持ち続け、いつの間にかまわりが強いと認めるだけだ。戦後女性が強くなったと言われるが、それは多くの女性がその意志を持ったからである。しかし、男性は少なくともここ二〇年ほど強くなろうとしてこなかったと思う。人の顔色を窺うのは日本人の特性だが、特に男性は人の思惑や評価ばかりに気を取られ、その結果、心がすっかり弱くなってしまった。
心が強くなったからといって嫌な上司を好きになるわけではないが、上司や部下を嫌と思うことと悩むことはまったく別問題である。嫌いな人であっても付き合わなければならないこともある、そのことを悩まないと決めることで楽になり仕事に集中できる。なにより、決断する男はカッコいい。女子社員の味方は確実に増え、あなたの見方も変わる。
世の中には成功する人と失敗する人が存在します。仕事でチャンスを得て、実績をつくり、評価される人もいる一方、そうでない人もいます。両者は分けるものは一体何でしょうか? 資格の有無? 学歴? キャリア? 一般的にはそれらが分岐点だと思われていますが、どうもそうではありません。では、仕事のスキル? けれど一通り仕事の流れが分かってキチンとこなしていても、それだけでは足りません。
一体何が足りないのでしょうか?
足りないことがあるのは分かっているのに、それが何か見当もつきません。けれどその“何か”を手にしている人たちが存在しているのも確かで、その“何か”を持っているかいないかの差が、そのまま社会生活やビジネスにおける優位性の差になってしまっていることに、私たちはウスウス気づいています。
その“何か”こそ、この本のテーマである“稼ぎ力”です。
現在私は、金融機関を中心としたコンサルティング、各種執筆活動、そして男子禁制の「女のたしなみマネー塾」「女のたしなみ やわキャリ塾」の運営という三本柱で活動を行ない、おかげさまで大きな反響をいただき、忙しい毎日を送っています。もちろん収入も増え、年収は八ケタ、時給六五〇円の頃の一〇倍以上になりました。
前回、塾で提供している「稼ぎ力ルネッサンス プログラム」のひとつ、「決算書読みこなし隊」を『あなたを変える稼ぎ力養成講座 決算書読みこなし編』として書籍化し、おかげさまでベストセラーとなりました。けれど同時に、「決算書を読みこなせるようになるだけで、本当に稼ぎがUPするのでしょうか?」といった質問も数多く寄せられました。
答えは当然NOです。決算書が読みこなせるようになった“だけ”で、稼ぎがUPしたら、世の中にはもっとお金持ちが増えているはずです。『あなたを変える稼ぎ力養成講座 決算書読みこなし編』は、「稼ぎ力ルネッサンス プログラム」の枝の部分でしかないのです。
「ならば幹の部分が知りたい」そういった声に応えて、今回この本を書きました。
この本は、稼ぎ力をつけたい男性・女性、女性の育成に悩むマネジメント層、コーチングの実践に悩むコーチ志望者、妻に稼ぎ力をつけて家計を助けて欲しい夫、仕事とは何かについて悩む学生や転職希望者、さらには自分が社会で無力なことに心を痛めている第二の渋井真帆のために書きました。
この本が、読者の皆さんの内に眠る“稼ぎ力の種”の存在に気づかせ、その種をビジネスの場で開花させ、稼ぎ力UPするきっかけになれば幸いです。
社会学の基礎概念を説明する連載の第一七回です。第一部(第一回〜第五回)では、社会システム概念自体の理解に必要な説明をしました。第二部(第六回〜第一六回)では、社会システム理論が分析用具とする個別概念を説明しました。今回からは、第三部です。
第一部は「社会とは何か」で始まり、第二部のラスト二回は「人格システムとは何か」「自由とは何か」で終わりました。慧眼な読者にはお分かりの通り、こうした順序は、社会学という学問の性質をご理解いただくために、それなりに考え抜かれた構成なのです。
社会とは、私たちのコミュニケーションを浸す暗黙の非自然的な前提の総体だと言いました。そうした社会を考察するべき理由は、自由について考察するときに浮き彫りになります。私たちが自分たちを自由だと思うことと、社会の中にあることとは、どんな関係にあるか。
拙著『サブカルチャー神話解体』(1993、石原英樹・大塚明子と共著)に記した通り、文学・漫画・映画・写真などの歴史を見ると、各人が能うる限り自由に表現した作品であっても、社会毎、時代毎に明確な型が刻印されます。当人は型を必ずしも意識していません。
かかる現象が起こる理由は、各人のコミュニケーションが暗黙の非自然的な前提によって条件づけられているからだと理解できます。こうした条件づけは、デュルケームが「契約の前契約的前提」(『社会分業論』)と称した問題を拡張したものに相当しています。
本人の目から見て端的に自由であるものが、傍目(観察者の目)から見て社会的に条件づけられていること。このことの意味を徹底的に考察し、それがどんな具体的現象を帰結するのかを徹底的に観察すること。これぞ、近代的学問としての社会学の学問目的です。
しかしそうした学問であるがゆえに、前回紹介したような誤解が生じがちなことにも留意すべきです。「本人が如何に自由だと思っても、傍目には社会的に条件づけられてある以上、結局のところ自由はありえない」とする思考です(自由を自己決定と置き換えてもOK)。
この種の誤解が社会学者――とりわけ共同体主義を主張する者――の間にさえも蔓延します。前回を復習すれば、カントの自由意思論(『実践理性批判』)が示すように、自由とは因果的な自己原因性ではありません。すなわち、因果帰属でなく選択帰属の問題なのです。
自己原因的でなくとも――社会的に規定されていても――意思が妨げられていない以上は別の行為を意思できた筈だと理解される。私たちが現にそう理解しているということです。その限りで当事者に意思の自由があると見做され、帰責が――倫理が――可能になります。
社会学を誤用して「社会的被規定性ゆえに自己決定はあり得ない」と称する自称共同体主義者がいますが、笑止千万。自己決定がありえないのなら、「自己決定はありえない」と“言論市場”で喚くのは無意味そのもの。共同体的言説もまた、“言論市場”で自己決定的に選ばれるのです。
むろん自己決定は社会的に規定されます。共同体や伝統によって浸されます。そのことの自覚は、自己決定の意図せざる結果を免疫化する意味で重要です。であればこそ「自己決定を伝統で縛れ」の自己矛盾と「自己決定で伝統を選べ」の再帰性との差異が重要です。
かかる差異は、「近代の限界」に対するに「近代の超克」を以てするか、「近代の徹底」を以てするかという伝統的対立をも帰結します。日本の共同体主義の嚆矢たる亜細亜主義者は大半、「近代の徹底」を以て「オルタナティブな近代」を構想する者の、謂いでした。
日本の右翼のルーツたる玄洋社が「民権派」であると同時に「亜細亜主義」を標榜したことが象徴的です。まさに国家の強制ならざる国民の自己決定において、流動性を前提にした収益価値よりも、多様性を前提にした共生価値を選ぶことを、断固賞揚したのです。
そのことに鑑みれば、今般目立つ「社会的被規定性を以て自己決定を否定する輩」「自己決定が共同性や伝統を破壊すると見做す輩」「自己決定が多様的近代ならざる流動的近代をのみ後押しすると看ずる輩」こそ、右翼の名に値せぬ唐変木だと断定して差支えありません。
生きるとは、どういうことなのだろう……。これは誰しもが人生で一度は問う問題ではないでしょうか。わたしはなぜ生まれてきたのだろう。何のために生きているのだろう、と。
オグ・マンディーノはこう答えます。人は与えられた可能性の最大限を生き、それを世に捧げるために生まれてきたのだと。誰しもその人生の使命でもある天賦の才能を持ってこの世に生まれ、それを最大限に使い、役立てなくてはいけない。自分がやってきたときよりも、去るときのほうがこの世が良くなるようにする義務がある。そうすることにより、人生は調和と満足と愛で満ち、「永遠の王国」での喜びが永遠に続くのだ、と。
では、どうやってそれを実現したらよいのでしょう。どうすれば自分の天命を生ききることができるのでしょう。
オグ・マンディーノは数多くの著作のなかで、その答えとなるいくつものきらめく宝石のような人生の法則を、心に染みる物語を通じて語ります。なかでも、ほぼどの作品にも一貫して見られる基本的な法則は、「決して、決して、決して、決して、あきらめてはいけない」というウィンストン・チャーチルの言葉に集約されています。この言葉は、とても力強く読者の心を揺さぶります。
人生には失敗や挫折がつきものです。でも、そこであきらめてはいけない。なぜなら、『星のアカバール』(原題・The Gift of Acabar 牧野・M・美枝訳 ダイヤモンド社より一〇月に刊行予定)の中で、アカバールは主人公に、
「逆境はわざわいではない。それは祝福なのだ」
と教えます。それは自分を鍛え、成長させる手助けとなり、さらには逆境によって「必死になることが、自分の能力を発揮するたった一つの方法」だからです。
さらに、『きっと飛べると信じてた』(原題・Mission:Success! 牧野・M・美枝訳 ダイヤモンド社)のなかでは、老婦人ウィニーが、
「……もうこれ以上わずかでも耐えられないと思うとき、そのときが決してあきらめてはいけないときです。なぜなら、それが物事の流れが変わるときであり場所だからです」
という言葉を引用しています。実際、あとになって状況が変わったことがわかり、あのとき、あきらめなければよかったという経験が誰にもあるのではないでしょうか。
これは神秘的な宇宙の法則のひとつです。私たちが前進しようとするとき、それをどれだけ望んでいるか、どれだけの覚悟があるか、何を大切にしているのかを試される瞬間でもあります。ですから、そこで断念してはいけないのです。
ところが、多くの人々はそうした逆境を迎えるとあきらめてしまいます。努力しつづけるよりやめてしまうほうが簡単だからです。そして、自分の失敗の言いわけばかりをして過ごす人のなんと多いことでしょう。マンディーノは人間のこんな状況を嘆きます。なぜなら、自らも人生をあきらめかけながら、そこから復帰した体験があるからです。
『きっと飛べると信じてた』
定価 一三六五円(税込)
岸 日本は知財立国を標榜していますが、アメリカからは大きく後れをとっていると言われます。
荒井 知財に関して、日本は「先進国ではない」という認識を持たなければならない。例えば特許が出願と同時に審査されるアメリカでは、特許が成立するまでにかかる期間は三年。それに比べて日本は出願後に審査請求が必要で、特許を取得するまでの期間は従来、平均で九年でした。だから国際競争を戦っている日本企業は「特許はアメリカで出願すればいい」と、日本の特許庁には出願しないケースも増えました。知財の「国内空洞化」現象です。ライセンスもビジネスの交渉もアメリカで完結して、アメリカン・スタンダードでビジネスゲームは進んでいるのが現実です。
岸 最近では中国も熱心に取り組んでいます。
荒井 中国はすでに一九九五年に大学に法人格を与えています。大学研究者の研究を事業化する素地がすでにできていたということです。日本は〇四年にようやく実現しました。また、弁護士の数で比べてみても、先進国のアメリカが一〇〇万人に対して、中国は現在約一三万人、日本は二万人と両国に比べて圧倒的に少ない。もはや「前門の虎・アメリカ」「後門の狼・中国」という状況ではなく、中国の方が進んでいる点もあります。
岸 発明報酬に関する議論も盛んですが、知財に関して日本企業の認識は変化していると思いますか。
荒井 いま、研究開発費が売上げの一〇%を占める企業も多いのですが、いざ研究開発で得た成果を守る知的財産に対する意識はまだまだ低い。同じお金をかけてつくった工場だったら、もっと設備効率やセキュリティに力を注ぐはずなのに、研究開発から得た技術やソフトウェアをどうやって使うか、守るかという「知恵づくり」の部分では、一層の努力が必要でしょう。
岸 私事になりますが、五年ほど前から知的財産権を軸に取材を続けてきました。その流れを追ううちに、二十一世紀の主役となるライフサイエンス産業の大きな転換点となったヒトゲノム解読史を、知財という視点を織り交ぜながら書き留めておきたいと思い、『ゲノム敗北』を執筆しました。
荒井 この著書は、日本の科学技術政策・知財戦略の歴史における「壮大な失敗学」のテキストだと思います。和田昭允さん(理化学研究所・前ゲノム科学総合研究センター所長)という主人公がいて、アメリカより五年も前に独創的なアイデアを生み出していたにもかかわらず、そのアイデアは生かされず、結果的にヒトゲノム解読完了(二〇〇三年四月)の時には日本の貢献度はわずか六%に終わった。この数字が国際ヒトゲノム計画における日本の敗北の象徴です。
岸 DNAの塩基配列を機械でいっぺんに読んでしまおうという、「DNA高速自動解読構想」は、和田さんの独創的なアイデアをうまく生かしたアメリカがシークエンサーというゲノム解読装置をつくり、国際ヒトゲノム計画の主導権を握っていきました。悲しいことに和田さんのアイデアは、日本の学界や官僚の縦割り構造の弊害と、科学技術政策や知財戦略におけるビジョンの欠如のために、潰されてしまいました。
荒井
本書では、そうした研究者たちの悲劇が縦軸にあり、横軸にはここ二〇年間の日本の科学技術政策がどう推移してきたかという政策論がある。しかもその背景として、日米貿易摩擦で日本が翻弄されてきた事実を書き込んでいる。
岸 荒井さんは通産省(現経済産業省)の官僚も経験されているから、貿易摩擦の件は感慨深いですか?
荒井 身につまされる思いです。貿易摩擦が研究用の機器開発にも影響を与えていて、それが日本の敗北につながっていくとは、当時は誰も想像しなかったでしょう。「バイ・アメリカン」をスローガンにして、外国の機器の購入を奨励した結果、まさかバイオの分野でこれほどまでに日本が負けるとは、私自身も思いませんでした。
岸 実は日本では、大学教授が発明したDNAの読取りの重要な技術が八三年に特許申請されていましたが、当時の科学技術庁(現文部科学省)が「大学の研究者たるものが国の税金で研究した成果を特許にするのはけしからん」と圧力をかけて、八四年には取り下げてしまう。惜しいことにそれがいま、世界に広がった基幹技術につながっています。
荒井 当時は大学人が産業に手を染める特許は「悪魔に魂を売り渡す行為」という雰囲気でしたから、知財というものが国家の技術や経済戦略にとって大事なものだという意識は誰も持っていなかったのでしょう。
岸 もっと早く手を打っていればという思いがありますか?
荒井 問題意識を持ってもっと早く政策を考えていれば、六%という負け方はしなかったでしょう。役人にも大学の研究者にも政治家にも、その問題意識がどこにもなかった。ゲノム敗北の歴史は日本の科学技術政策の遅れが如実に現れたケースだと思います。日本も総合科学技術会議ができて、ようやく国家戦略として「科学技術創造立国」を論じるようになってきました。資源のない日本の強みは、発明や創意工夫しかない。知財戦略で日本人の能力を発揮する仕組みづくりがますます重要になるでしょう。
先日、オーストラリアへ行ってきました。美しい町並み、雄大な自然……。出会った人たちも、とても素朴で人なつこく、親切でした。
ところで、オーストラリアでひとつ気がついたことがあります。それは、「どんな男の人も、堂々としていてカッコいい」ということです。
この地でも失業率は高く、成人男性で職に就いていない人がけっこういるそうです。また、現地の人に話を聞くと、リストラにあって、金融関係や商社など典型的なホワイトカラーだった人が、ガソリンスタンドやファストフードの店で働いているということも珍しくないのだそうです。
でも、たとえ失業中でも、身なりも態度もパリッとしていて、うちしおれた感じがありません。これは、日本と社会保障制度が違うことも関係しているのかもしれませんが、人間の「外観」と「心」の関係をテーマに研究している私にとっては、とても興味深いことでした。
オーストラリアで気がついたことは、ここの男性たちは、日本人男性に比べて、「仕事が外観を左右する」ということがあまりないのだな、ということでした。つまり、仕事人としての顔と、個人としての顔が別なんです。だから、たとえ仕事の方が不本意な状態であっても、個人としてのプライドまでも失ってしまうことはないのではないでしょうか。
もちろん、失業しても全く落ち込まないということはないでしょう。でも、少なくとも、それが外観に現れてしまうことはない。「どんな仕事をしていても、たとえ今は職がなくても、自分は自分」というプライドのありようが、外観(=表情やファッション、振る舞い方)にも現れているのです。
それに対して日本人の男性は、仕事が服を着て歩いているようなものだと思います。
職種によってファッションが決まってくる、というのはどこの国でもあることです。けれども日本ではそれだけでなく、その人の「地位」がファッションを決めてしまうように思います。もっと言うと、ファッションだけでなく、「顔つき」までも決めてしまうのです。
年を取れば取るほど、「おれは●●会社の部長なんだ」「おれの給料で家族を養っているんだ」というところからくる自信がその人の顔を作っているのが日本です。だからそれを失ってしまったとき、顔つきまでもが別人のように自信がなくなり、しなびたキュウリのようになってしまうのです。
仕事にしばられ、家庭にしばられ、会社帰りに飲む一杯のお酒だけが楽しみ……そんなお父さんは、家族にとっても魅力がないのではないでしょうか。「お父さんも自分の人生を後悔してほしくない、自分の人生をエンジョイしてほしい」と、家族も思っているはずです。
その一歩は、個人としての顔を持つことではないかと私は思います。それが、失業してもお給料が下がっても、ゆるがない自信を手に入れることにつながるのではないでしょうか。
といっても、難しいことを考えなくていいんです。背広以外に、自分の好きな服を着てみる。そこから始めたっていいと思います。「外観」は、他人に不快感を与えず、その場にふさわしくあることが確かに大切です。でも日本の男性は、そのことに重きを置きすぎているような気がします。
自分のこころを楽しませる服。自分を変えてくれる服。そんな服を選ぶことから、「自信」のあり方が変わってくるかもしれませんよ。
3
スーパー・フジシロ本部管理者の月例情報交換会で話す守田社長の声に力がこもった。
「プログレスとの共同出店に社運を賭けるとすると、我が社のこれからの店作りの方向が、従来と違ってくるべきであるということは、皆さん十分お分かりのことと思います」
守田の声は、この数ヶ月でもっとも自信に満ちている。表情にも、ついこの間までのどこか怯えたような様子がない。
「第1に、これからの我が社の店は、世間にどこにでもある平凡なスーパーマーケットであることは許されません。大型店プログレスの1階もしくは地下にあるということは、町の商業の中核になるということを意味します。『プログレスとともにあるフジシロ』には、いわば『都市中核のデパ地下』としての役割が期待されているのです」
50名ほどがロの字型に並んでいる。堀越のほぼ正面の席にいる重成が、呆れた顔をして自分を見つめているのが分かったが、あえて目を閉ざして守田のスピーチに耳を傾けていた。
「第2に、そのためにも我が社の特色、いわば『フジシロらしさ』を出さねばなりません。商品で、陳列で、従業員の制服や接客で、明らかに他店とは違う何かを提供することが大切です。全社一丸となって、そういう夢を実現しましょう」
守田は名演説の最後の締めのつもりか、全員への呼びかけ調で話を終えた。拍手が起こらなかったのがおかしいというほどの終わり方だった。
一瞬の静寂の後、出席者たちは、やがてひそひそと小声で話しながら会議室を出ていった。
「これを見てください。1週間前のものです」
会議室から戻るやいなや、重成が堀越の席に走るようにやってきてデスクの上に流通業界紙を広げた。山田会長のアップ写真が大きく出ていて「プログレスの全国制覇新戦略」という活字が黒々と踊っている。
「それがどうした?」
「山田会長のインタビュー記事です。いいですか、読みますよ。『プログレスの店舗は、地方都市の商業の中核としての役割を期待されています。我が社の売り場は、お客様が、ここはプログレスだと常に感じ続けることができるような特色、いわばプログレスらしさに満ちていなければなりません』。どうです。守田社長の言葉と、まるでそっくりじゃありませんか」
「多分、その記事を読んで影響されたんだろう」
「そうじゃないと思います。そもそも3週間前に共同出店の約束を確認しに行くことさえ嫌がった人が、プログレスとの提携に社運を賭けると言い出すなんて変ですよ。何かがあったんです」
「何かって、どんなことが考えられる?」
「それにあの自信たっぷりな言い方も気になります。カゲロウがまるでオニヤンマになったようです。カゲロウは影の人。ひとりでは優柔不断で何も決められないからカゲロウなんです。だからだれかが後ろについたんです。それでないとあれほど自信満々にはなれないはずです」
「だれかがついた? だれだ?」
「もちろん山田会長です」
「そんな馬鹿なことがあるか。君が言うとおり、僅か3週間前に山田会長に会いに行くことをあれほど強情に拒絶した人だ。いつ、どこで山田会長と接触したんだ」
「そこが不思議なんです」
「分かった。私が守田社長から直に聞いてくる。山田会長と会ったのかどうか。それに、プログレスとの共同出店で我が社がデパ地下の役割を担うとは、一体どういうことなのか。浩二郎社長は、我が社はデパ地下の方向に行ってはならないと、いつも言っていたじゃないか。プログレスとの提携の際も、その点を気にして、あくまでフジシロの路線を守ることで合意したはずだ。守田社長はその大方針を転換するつもりなのか。社長には説明責任がある。どういうつもりなのかを聞いてくる」
堀越は、そう言いながら席を立とうと腰を上げかけた。
「ちょっと待ってください」と、重成が両手を広げるようにして押さえた。
「その前に、確認できることがあります。それが先です」
重成は、何かを思いついた様子で、その場を離れ、同じフロアにある総務部の机の島に行って、折からそこにいた社長車運転手の中沢照彦と何かを話していたが、やがて中沢を伴って戻ってきた。
「予想どおりでした。守田社長は新橋の料亭で山田会長と会っています」
「料亭に行ったって、山田会長に会ったことにはならない。山田会長だと、どうして分かるんだ?」と堀越は中沢運転手に尋ねた。
「あの店では、待っている運転手に寿司を出してくれるんです。その席で、山田会長の運転手の辻村さんにはじめて会いました」
「辻村さん? 名前も知っているのか」
「何度かお会いしましたから。あの料亭に、もう一度行きましたし、プログレスの本部にも一度行きました。あそこは地下の駐車場に運転手控え室があって、私もそこで社長が出てこられるのを待ったんです。そこに辻村さんがいて、いろいろ話しました。とても話のおもしろい人なんですよ」
「信じられない」と、堀越は長嘆息した。
「それにしても守田社長は、なぜ我々に黙っているんだ。山田会長に会ったと言っても、何も問題ないじゃないか」
「問題はそこです。私たちに話すことのできない事情があるからだと考えられます」と重成は言った。謎を解いたシャーロック・ホームズもかくやと思うほど得意そうである。
「はじめに会ったときに、我々に黙って行ったから、いまさら言いにくいのかな」
「違います。守田社長は自ら進んで行ったのではありません。堀越部長が3週間前に、山田会長を訪問してくれと頼んだときには、嫌だと言った、その守田社長が出て行くには、それなりの理由があったのです」
「そうか。山田会長のほうから誘ったんだな。となると、今回の守田社長の変化の裏には、山田会長の意志が強く働いていると考えるべきだ」
「そうです。ですから守田社長と話す前に、他の役員などの態度に何か変化がないかどうかを探っておくべきです」
「君は大したものだ。そのとおりだ。すぐに調べてみる」
堀越は、オフィスの中央にある役員の在否を示すボードを見た。各役員が数字で暗号化されていて、そこにランプが点いていれば在社である。
商品部のフロアに下りていった堀越は、入り口の一番近くにいるグロサリー部長の花崎徹取締役の席に近づいた。だれにでも渾名をつける重成が「苦虫」と名付けた男である。実際にそんな虫がいるのかと、そのときの飲み仲間がからかったのだが、「架空の虫だが、花崎取締役を苦虫と呼ばないで、だれをそう呼ぶのか」と言って、重成は取り合わなかった。確かにこれほどおもしろくなさそうな顔はない。
花崎は、その顔を堀越に向けて、ちょっと微笑んだ。せっかく笑っても、あまり笑っているように見えないのが苦虫たるゆえんである。
「花崎さん、さっきの守田社長の話、どう感じましたか」
「守田社長も、ようやくやる気になってくれたかっていう感じでしたね」
「しかし『デパ地下』風の売り場を作ると言っていましたよね。それでいいんですか」
「そういう時代なんじゃないの」
「でも、浩二郎社長は、デパ地下の真似は絶対に駄目だと言っていましたね」と堀越は言ったが、苦虫はそれ以上興味がないような顔だった。
続いて、堀越は生鮮食品担当の狭山周一取締役の席に行った。
「『デパ地下』風なんて、私は好まないけど、社長がやると言うなら我々が反対するのはおかしいやね」
重成にアメンボと名付けられた狭山は、穏やかな小声で言った。アメンボは「甘えん坊」、つまり厳しさが足りないという意味だと、命名のとき重成は解説した。
「でも、浩二郎社長だったら絶対にイエスとは言わないでしょう」
「しかし、いま社長は守田さんだよ。いろいろ考え方はあるからね」
このふたりに対しては、すでに守田社長からの根回しが終わっている、と堀越は感じた。一体、何が起こるのか。堀越は、暗い気持ちであった。
(つづく)
今年の夏休み前半、私は、ジョン・ケネス・ガルブレイスの新著 The Economics of Innocent Fraud(邦題『悪意なき欺瞞』ダイヤモンド社刊)の翻訳に精魂こめて取り組んだ。本文わずか六二ページという小冊子の翻訳はわけないことだ、と思われる読者は少なくあるまい。そう思われる読者には、ぜひ原著をご一覧いただきたい。もともと平易で明快な文章を綴っていたはずのガルブレイスは、このたびの新著を、なぜこれほどまでと思われるほど難解な筆致で綴っている。その理由は、この新著が、四十余年来、数々の著書に表明されてきたガルブレイスの経済観、そして経済思想を凝縮した総まとめだからであろう。要するに、御年九六歳のガルブレイスが、渾身の力を振り絞って書き上げた、ガルブレイス経済思想の集大成のエッセンスが同書なのである。
今年一月、日本経済新聞紙上に掲載された「私の履歴書」の最終回に、ガルブレイスは次のように書いている。「最近新しい本(『悪意なき欺瞞』)を書き終えたばかりだが、私がいかに経済学を学ぶようになったかについても本を書きたいと思う。とはいえ、この年ではもう多くの本を書くことはできない。米国にはそのことを喜んでいる人もいるはずだ。保守派の面々である」と。
経済学界におけるリベラル派の泰斗ガルブレイスは、民主党の熱心な支持者である。それゆえ、二〇〇〇年の大統領選挙で共和党のジョージ・ブッシュ現大統領が僅差で民主党のアル・ゴア候補を破り、大統領に就任して後、二〇〇一年三月の京都議定書離脱に始まり、二〇〇三年三月のイラク派兵に至るまで、相次いで打ち出す一連の超保守主義(ネオコン)的政策に対して、ガルブレイスは強い憤りを感じ、いたたまれず、本書執筆にとりかかったのだろう。のみならず、エンロン、ワールドコムなどの「不正会計」の横行もまた、ガルブレイスに本書執筆を動機づけたようだ。反戦平和主義、そして公正、正義を信条とするガルブレイスにとって、今日のアメリカは空前の「危機」的状況に陥っているとの思いが募るのであろう。
それゆえ本書は、けっしてガルブレイスの「私の経済思想の履歴書」ではなく、ガルブレイスの経済思想に基づく現代政治経済の奥深い洞察なのである。言い換えれば、ブッシュ政権下のアメリカにおいて、過去半世紀間以上にわたってガルブレイスが打ち鳴らしてきた警鐘の的││大企業による市場支配、軍産複合体の存在、投機のユーフォリア、大企業経営者の破格の高給││が、いまもって健在であると同時に、ブッシュ政権を支える基盤としての役割を演じつつあることを、著者は懇々と説くのである。こうした現代経済社会の抱える病巣の淵源は、保守派経済学者が説く「悪意なき欺瞞」に辿られる、とガルブレイスは言うのである。
ガルブレイスは、数ある著作のほとんどが日本語に訳され、その多くがベストセラー入りしている、わが国内外で最も著名な経済学者の一人である。
彼は、経済学の専門誌に論文を書くことに専念し、学界という「小さな世界」での王者を目指すのではなく、ときには政府の役人、ときには大使、ときにはジャーナリストとして、あえて学界の外に身を置き、ときには民主党の支持者として政治運動に参画するといった具合に、実に多彩な活動を繰り広げてきた。
第二次大戦中、ガルブレイスは、ワシントンで物価管理局(OPA)に勤務する。第一次大戦中と戦後に起きたインフレの再燃を防ぐために設置された物価管理局には、あらゆる商品の上限価格を設定するという権限が与えられていた。「私の履歴書」によると、同局に勤務した二年間は「その後の四〇年分以上働いたのではないかと思うぐらい猛烈に働いた」そうである。そうした努力の甲斐もあって、アメリカは「戦時経済をインフレを起こすことなく乗り切る」ことができた。「私の人生で最大の業績は、このことに一行政官として貢献したことだと信じている」とガルブレイスは語っている。
しかし、戦時中は、物価統制に反対する産業界の凄まじい抵抗に遭ったばかりか、戦後、国務省に職を得るにあたっても「物価統制の責任者」ガルブレイスを採用して産業界から反発を買うことを懸念する声があったという。また、戦後間もなくドイツと日本を訪れ、軍需産業の生産拠点をねらったはずの空襲が、実のところ、町を瓦礫の山とし、多くの婦女子の殺戮という被害をもたらした半面、軍需産業の工場は無事であったという「事実」を正直に報告したがゆえに、ガルブレイスは空軍ににらまれるようになった。その挙げ句、一九四九年にハーバード大学教授に就任する際、空軍シンパ、共和党の政治家、大企業トップらの大学評議員の反対により、教授就任が正式に決まるまで丸一年もかかったそうである。
こうした経歴を持つガルブレイスが、日本で最も人気のある経済学者の一人であることに異論を差しはさむ人は一人としていまい。日本人のあいだでの「ガルブレイス人気」を物語る逸話が一つ「私の履歴書」に紹介されている。彼の生まれ故郷であるカナダのオンタリオ州アイオナ・ステーションという小さな町に、ガルブレイスの記念碑がつくられたそうだが、その理由が、なんとガルブレイスの生まれ故郷を見ようとやってくる、日本からの旅行者のためだという。日本人の物見高さのせいであるとはいえ、存命する経済学者で、その生まれ故郷を外国からの観光客が訪れるというのは、他に類例があるまい。
新著のタイトル『悪意なき欺瞞』は、大いに刺激的な響きを持つのではないだろうか。要するに、保守(新古典)派経済学の教科書に書かれていること、大学の経済学の授業で教わること、そして保守派経済学者がマスコミ等で喧伝することが、いかに「意図せざる欺瞞性」を帯びているのかを、痛烈に批判してみせたのがこの新著なのである。以下に、その内容を要約しておこう。
経済学者が創り出す「真理のバージョン」は、現実とはなはだしく乖離しているにもかかわらず、何らかの利益団体に意図せざるサービスを提供し、人々の「信仰」の対象となりやすいという意味で、「悪意なき欺瞞」と言わざるを得ない。その具体例として次に示すような「欺瞞」が存在する。
市場経済の主権は消費者にあるとする欺瞞。国内総生産(GDP)を経済社会の達成度を測る絶対的な物差しであるとする欺瞞。企業経営そのものが悪しき官僚主義の複製であるのに、官僚主義は政府の悪しき特性であるかのように言う欺瞞。企業は経営者の意のままに管理され株主は蚊帳の外に置かれっ放しであるにもかかわらず、あたかも株主が主権を持つかのように言う欺瞞。実際には民が官をコントロールしているにもかかわらず、官と民という二つのセクターが対峙しているかのように言う欺瞞。当たるはずのない経済予測が当たるかのように言う欺瞞。金融政策が有効であった先例はないにもかかわらず、それが有効であるかのように言う欺瞞。アメリカの外交政策や軍事政策が、事実上、軍産複合体によって牛耳られているにもかかわらず、それらが政府の手中にあるとする欺瞞……。
これらの欺瞞のおかげで、大企業とその経営者が巨富を得ているとガルブレイスは主張するのだ。
訳者の私自身もまったくそのとおりだと思う、ガルブレイスの指摘する「悪意なき欺瞞」を、日本のエコノミストの大部分は、そして日本の現政権は、あたかも「真理」であるかのように錯覚しているのではないだろうか。これは実に困ったことである。
国内での所得格差の拡大や公的教育・医療の荒廃は、それらが修復可能であるという意味で許容範囲に収まる。しかし、イラク戦争への参戦に至っては、戦争に関与していない幼い子どもや婦女の命を無差別的に奪ったという意味で、アメリカそしてわが国の保守派が犯した取り返しのつかない罪悪である。かつて元軍人で保守派のアイゼンハワー元米大統領が「軍産複合体」に対して警鐘を打ち鳴らした。今日なお、軍産複合体は健在であるばかりか、イラク戦争を引き起こした張本人であることを、ガルブレイスは厳しく非難する。イスラム文明圏を「異端」視し、異端を「排除」するためには武力行使をも辞さないアメリカ保守派の蛮行に、なにゆえに日本政府は安易に同調したのであろうか。
ガルブレイスは、「私の履歴書」を「人生を振り返って後悔しているのは、日本語を読むことができないということである」という一文で締めくくっている。日本の現政権がイラク戦争を容認し、派兵し、そしてアメリカの保守派政権に追従することに対して、仮にガルブレイスが日本語を読めれば、その実情の詳細を日本の新聞・雑誌等から知り、さぞかし心を痛めたことであろう。私は、白寿に近いガルブレイスの健康のために、彼が日本語を読めなかったことを「幸い」だったと思っている。
『悪意なき欺瞞』の出版が、過度に保守派に傾きつつある日本の経済学界、政界、経済界に対して、真摯な反省を促す契機となることを、私は心より念願するのである。
『悪意なき欺瞞』
定価 一六〇〇円(税込)
▼昨年の夏、アクションラーニング(以下AL)の権威、ジョージ・ワシントン大学、M・マーコード教授を招聘し、セミナーを開催、好評を得た。ALとは、企業の現実課題を、さまざまな視点から検討し、行動計画を実行するプロセスを通じて、解決していくための手法である。本年八月、同氏教授の著書『実践アクションラーニング入門』を上梓した。本書は、事例やチェックシートをまじえて、ALの基本事項から実践導入までを分りやすく解説している。組織開発に行詰まりを感じている方はぜひ参考にしていただきたい。なお、本書の訳者でマーコード教授の教え子でもある清宮普美代氏が代表を務めるGIAL(アクションラーニング国際機関)日本支部では、「ALコーチ養成コース」を開催している。詳しくは、案内ホームページ(http://www.dcbs.jp/gial/)または、人材開発事業部(TEL:03-5778-7229)まで。 (大迫)
▼家の近所で、二棟の介護付き老人ホームが軒を並べるように建設中です。お互い別資本ですが、それなりに経営が成り立つ成算があるのでしょう。
日下公人氏が、以前面白いことを書いていました。若者の人口比率の高い国家が戦争を起こす。戦前の日本しかり、ナポレオンのフランスしかり。社会的にも経済的にも、有り余る若いエナジーを抑え切れず、国外に解決を求めるという理屈です。
気がつけば日本は、世界有数の少子国です。たしかに今の日本に、自ら戦争を起こす気力も気概も皆無でしょうから、老熟した平和国家たり得たと喜んでいいのでしょう。ただ老人国家はその分、社会の活力も失います。隣国の生硬なナショナリズムに接するにつけ、壮年国の行く末に一抹の不安を感じます。我が子の世代が社会の中核を担う頃、世の中はさてどうなるのか。もちろんそれは出版文化の行く末も含めた不安なのですが。 (田上)
▼マイケル・ムーア監督の映画「華氏911」のヒットもあり、今回も盛り上がっていますね、大統領選。由々しき問題については報道陣に任せるとして、ウェブ上ではブッシュやケリーのおマヌケな一面に注目する動きが出ています。
とりわけフガフガ・ラボさん(『ブッシュ妄言録』の著者でもある)のサイトがイチオシ。前大統領選でのブッシュの失言・失態(ブッシズム)に釘付けになって以降、がっつり集められた「成果」がまとまってます。しかも、今キャンぺーンで日々量産されるブッシズムのスピードに追いつくため、ブログ(ウェブ日記)を始められた由。ブッシュのみならず、強烈キャラの娘たちまで登場し、思わず吹き出すネタが満載。
自分たちが世界の中心だと信じて疑わない?人々が繰り広げるドタバタ・コメディ。しこたま笑った後で、背筋が寒〜くなることも……。(ま)
「Kei」では、経済・経営に関する論文の投稿を受け付けております。字数は1000〜4000字。受け付けは電子メールのみです。冒頭に概要、氏名、略歴、住所、電話番号、電子メール・アドレスを添えてください。採否についてのお問い合わせには応じられません。採用の場合は編集室より電子メールでご連絡します。受け付けのアドレスは以下のとおり。
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