(cache) Kei2004年06月号
Kei2004年06月号
CONTENTS
藤巻幸夫
日本発・世界ブランドへ!
寺島実郎
時代と斬り結ぶ経済人、ジョージ・ソロス
佐和隆光
「思想」なき経済学者の悲喜劇
エッセイ
大塚将司 小平達也 石原 明 高橋裕子 浅井 隆
連 載
若田部昌澄 川勝平太 妹尾堅一郎 宮台真司 安土 敏 池内ひろ美 かづきれいこ 泉ゆきを
編集後記
◎――――エッセイ
【巻頭エッセイ】
藤巻幸夫
Fujimaki Yukio
1960年東京生まれ。福助株式会社代表取締役社長。上智大学卒。伊勢丹で「カリスマ・バイヤー」として活躍、(株)エス・テ・ス、(株)キタムラを経て現職。
日本発・世界ブランドへ!
二〇〇三年一〇月、私は老舗・福助の代表取締役社長に就任した。明治一五年、足袋装束商として創業以来、レッグウェアーのトップメーカーとして一二二年の歴史を持ちながら、時代の波に大きく遅れ経営破綻に陥った福助は、再生ファンドの支援を受け、新生福助として生まれ変わった。その再生のドラマの真っ只中に、いま私はいる。
大阪・堺市にある旧本社を訪れたときのことだ。普段は鍵がかけられている資料室には、じつに三〇〇〇体の福助人形が保存されていた。それぞれの時代に最先端をいっていたであろう広告類も数多く残されている。福助の輝ける歴史の証人たちが、誰も入ることのない部屋にただ置かれていた。いとおしく、思わず涙がこぼれそうになった。福助再生とは、一世紀以上に及ぶこの福助の伝統と、自分がこれまで蓄積してきた経験の、双方を新たな目標に向かって融合し再構成することだと強く思った。
まずロゴに関しては、古くから親しまれてきた福助マークを新鮮な形に変化させ、メインロゴとして復活させた。そして、高い知名度とは裏腹に足袋にしか使われていなかった「福助」という社名を冠した、新たな自社ブランドを開発した。これまで海外ブランドのライセンスビジネスに頼り、自社ブランドの育成を怠り、むしろ「福助」というイメージを古臭いものとして消し去ろうとしてきた。そこに価値観の倒錯があった。「福助」ブランドで勝負し、世界に出る――、多くの社員が“できない理由”を並べたが、私には何の迷いもなかった。福助にはその可能性が秘められている。
ただし、世界に向けての発信には必須条件がある。本社機能がファッションの中心地にあることだ。大阪・堺の地に一二〇年間根付いてきた福助を、その文化ごと移転することが簡単ではないことはわかっていたが、これは絶対に譲れない条件であった。果たしてこの思いは、私を福助再生プロジェクトに招き入れたMKSパートナーズ代表・川島隆明氏(福助会長)の巧みなリードによって実現した。
「ファッション業界で勝ち残るためには、ファッションの拠点に本社を構えなければならない。パリ、ミラノ、ニューヨーク、トーキョー、いずれかである。さて、皆さん、どこに出て行きましょうか」
旧社の経営陣を前に川島氏が放ったこの問いかけに、私は息をのんだ。その瞬間、本社の東京への移転が決まったのだ。老舗を磨き、世界に光彩を放つ日本ブランドを創る挑戦が、始まっている。
◎――――エッセイ
訳書紹介
寺島実郎
Terashima Jitsuro
一九四七年生まれ。日本総合研究所理事長、三井物産戦略研究所所長、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授。著書に『脅威のアメリカ 希望のアメリカ』(岩波書店)、『「正義の経済学」ふたたび』(日本経済新聞社)等がある。
時代と斬り結ぶ経済人、ジョージ・ソロス
ジョージ・ソロスといえば、九二年秋、イングランド銀行のポンド防衛を打ち破って巨額の利益を上げ、一躍勇名を馳せた人物である。ヘッジファンドの帝王と称される一方、カール・ポパーに師事した哲学者、さらには数十億ドルもの寄附を行なう慈善家の顔まで併せ持つ。
そのソロスが、今年初頭に新著を出版した。五月に私の監訳で日本語版が刊行された『ブッシュへの宣戦布告』(ダイヤモンド社)である。九・一一以降の暴走するアメリカを痛烈に批判し、来る大統領選挙でのブッシュ打倒を呼びかける内容は実にセンセーショナルだ。
ユダヤ人としてハンガリーに生まれた彼は、ナチスの迫害と共産主義の圧政に苦しむが、二十代半ばに移住したアメリカで、ようやく自らが理想とする「開かれた社会」と出会う。しかし現ブッシュ政権の単独覇権主義はそれを破壊するものであり、けっして許せないとソロスは本書で主張するのである。アメリカの価値を知り尽くした男の真摯な怒りは、読む者の心に強く訴えかけてくる。
だがこの本の魅力はそれにとどまらない。より重要なのは、資本主義社会に生きる経済人の時代との関わり方について、深く考えさせられる点だ。
ソロスは、グローバル金融市場で得た巨万の富を用いて、戦争や貧困といったさまざまな問題に取り組み、ついには超大国の権力とさえ戦うこととなった。もちろん、彼の行動を単純に称揚すべきかどうかは難しい問題だ。彼のいかがわしさを指摘する声は絶えないし、行なってきた投機活動が功罪相半ばするのも事実だろう。だが、ソロスが経済人として時代と真剣に斬り結んできたことだけは紛れもない事実なのである。
翻って我々自身はどうか。経済の現場に立つ者として、現代社会の問題にどのように関与してきただろう。経営者であれただのビジネスマンであれ、できることはある。では、自分はそのことを実践してきただろうか――本書はそんな問題意識を読者に鋭く突きつけてくる。
矛盾に満ちた世界を前進させる力の源は、結局は個々の人間の取り組みにしかない。それゆえ、一人でも多くの方に本書をお読みいただき、現代に生きる意味を考えて欲しいと思う。

◎――――エッセイ
大塚将司
Otsuka Syoji
一九五〇年生まれ。日本経済新聞の記者としてスクープを連発。「東京銀行・三菱銀行の合併」の記事で九五年度新聞協会賞を受賞。二〇〇三年には当時の日経・鶴田社長の専横を告発し同氏を退陣に追い込んだ。著書に『スクープ』『大銀行 黄金の世紀 男たちの闘い』等。
弱体化する新聞ジャーナリズム
新聞記者には、いくつかの能力が求められる。一つは「取材力」、もう一つは「文章力」である。人に話を聞いて、それを記事にして読者に伝えるのが新聞記者の仕事の基本だからである。そして、忘れてはいけないのが三つ目の能力、「想像力」である。最近の経済関係の新聞記事を読んでいて、この「想像力」が衰えているのではないか、と思えてならない。
四月二三日のことだ。インターネットで経済関係のニュースをチェックしていたら飛び込んできたのが「独ダイムラークライスラーが経営再建中の三菱自動車への増資計画に応じず、今後の財務支援も行わない」というニュースだった。夕刊各紙はこのニュースを一面トップに据え、記事には記者たちの驚愕の思いがにじみ出ていた。しかし、このニュースに驚愕していることが許されるのだろうか。もし丹念に情報収集をして、想像力を働かせれば、方針変更の端緒がつかめたに違いないからだ。
例を挙げよう。四月一八日の「朝日」朝刊にフランクフルト発の共同通信社電のベタ記事があった。ドイツの経済誌などの報道を元に作られたもので、見出しは「現代自動車と提携見送りも/ダイムラー」、内容は韓国最大手自動車メーカー、現代自動車との間で計画していたトラック合弁事業が暗礁に乗り上げているというものだった。記者に想像力があれば、三菱自動車への支援についてもダイムラーが方針を変更する可能性があると考えるはずである。
もう一つ、タイヤ脱落事故が与える影響だ。事故はトラックであり、乗用車ではないが、三菱ブランドのイメージダウンは計り知れず、その影響を受けるのは個人向けの乗用車である。ダイムラーとしては最も欲しかった三菱のトラック・バス部門を子会社化した以上、乗用車部門への関心が薄れ、あえて火中の栗を拾いたくないと考えてもおかしくない。事故についての刑事責任を追及する捜査が最終局面を迎えているときでもあり、その辺の事情を考えれば、アプリオリにダイムラーが三菱自動車を支援すると思い込むのは無理がある。
しかし、経済情報に最も強いはずの「日経」はダイムラーが支援打ち切りを表明する三日前の四月二〇日付け朝刊で「ダイムラー、支援を決定」と大々的に報じた。想像力の欠如は目を覆うばかりである。「取材力」と「文章力」は記者個人の問題だが、「想像力」は経験がものをいう。取材活動から離れた管理職が「想像力」を働かせて、記者を指導しなければならない。「想像力」の欠如は組織の問題なのである。
新聞社が巨大化すると、新聞記者はサラリーマン化する。それはやむをえないことだが、そのなかで、巨大新聞社がジャーナリズムとしての最低限の役割を果たし続けるにはひとえにその経営者と編集責任者がジャーナリストとしての想像力を持ち続けているかどうかにかかっている。
◎――――連載8
経済を読むキーワード 【出口戦略】
若田部昌澄
Wakatabe Masazumi
1965年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科、トロント大学経済学大学院博士課程修了。早稲田大学政治経済学部助教授。著書に『経済学者たちの闘い』『昭和恐慌の研究』(共著)など。
今、論ずべき出口戦略とは何か?
混乱する出口への認識
昨今の景気回復基調を受けて、日本経済がこのままデフレから脱却するのではないかという期待が高まっている。その一方で、マーケット関係者を中心に、政府・日銀の為替介入・金融政策の是非そのものを問う意見が台頭している。
そのためか、英『エコノミスト』誌が「世界最高の中央銀行総裁」とまで持ち上げた福井俊彦総裁の国内での評判はよくない(もっともこの評価には前任者が「おそらく世界最悪の中央銀行総裁」速水優氏であったことも影響していると考えられる)。ロイター通信が三月に市場関係者に実施したアンケートでは福井総裁を評価するとした国外関係者は八八%に上ったのに対して、国内では五八%にとどまった。低評価の理由には当座預金残高目標の引き上げのような「筋の通らない金融緩和に堕落してしまった」からという声もあったという(『読売新聞』二〇〇四年三月一三日)。
いわゆる「身内」からの反逆といえば須田美矢子日銀政策審議委員の論説も興味深い(「経済教室 量的緩和強化に副作用」『日本経済新聞』二〇〇四年四月五日)。量的緩和には問題企業の市場退出を遅らせたこと、短期金融市場の機能を犠牲にしてきたことなどの副作用があったとする須田氏は、景気回復のための低金利政策の実行が必要と述べながらも「実体経済の回復度合いに見合ったわずかな金利を現時点でも容認することが必要なのではないか」と示唆している。
それに対して、黒田東彦元財務官は財務省主導の為替介入政策を評価しつつ、デフレ解消以前の出口戦略についての議論を時期尚早と戒めている(「経済教室 量的緩和、出口議論は尚早」『日本経済新聞』二〇〇四年四月一四日)。他方、同じ政策を「大胆で独創的」と高く評価する竹森俊平氏は為替介入の「出口」ははっきりさせるべきとする。おそらく一年先くらいのFRBによる超低金利解消に合わせて介入をやめるべきだろうという(「政府・日銀の歴史的政策転換は正解である」『中央公論』二〇〇四年五月号)。
こうした評価の差が生じるのは、現状の景気回復の原因と金融政策の役割について論者の認識が異なるからだろう。景気回復に伴って、マクロ政策に関する経済論戦は現在封印されているかのように見える。しかし出口戦略の議論の混乱に見られるように、論戦は表に出てこないだけで依然として対立点は解消されていない。その一番大きな対立点は、目指すべき出口は何かをめぐるものである。
ゼロ金利解除の経験が語るもの
いわば「身内」からも批判されている当の日銀総裁福井氏は、出口を論じるのは時期尚早という立場を崩していない。景気が回復基調にあるとはいえ、いまだデフレが明確に終焉したわけではない(もちろん、期待インフレ率が上昇しているかもしれない兆候はないわけではない)。それにもかかわらず金利引き上げを示唆する須田氏のような議論には、なにか既視感がある。
今年出版されたジャーナリストによる二冊の本、軽部謙介『ドキュメント ゼロ金利:日銀vs政府 なぜ対立するのか』(岩波書店)と藤井良広『縛られた金融政策:検証日本銀行』(日本経済新聞社)は、まさにこの時期にこそ読まれるべき本である。
この二冊は速水総裁時代の日銀と金融政策の実態を生き生きと描いた好著である。前者は副題のとおり政府と日本銀行の関係に、後者は日銀内部の執行部と政策審議委員間の関係に力点があるものの、どちらもそのクライマックスは二〇〇〇年八月のゼロ金利解除に置かれている。
信念の人速水氏は政府、蔵相の根回し、説得にもかかわらず、ゼロ金利解除に並々ならぬ意欲を示す。結局、政府が議決延期請求決議案を提出し抵抗したものの、ゼロ金利解除は強行される。速水総裁の個性は大きな要因の一つだろう。しかし、それだけにとどまらない。解除の公式理由は「景気回復によりデフレ懸念が解消されたから」というものだった。その背景にはゼロ金利は「異常」であり、「正常な」出口は金利がプラスになる世界という発想がある。確かにゼロ金利は異常な事態である。しかし、そこにはほぼ一〇年に及ぶデフレの放置というもっと根本的な異常事態がある。デフレという原因を退治することなくして金利を正常にすることはできない。
その後、日本経済は不況に陥りゼロ金利解除は結局頓挫する。ある日銀幹部は「あと半年米国経済が持ちこたえてくれれば」と残念がる(軽部、二三二頁)。当時も景気回復は外需主導だったのである。ちなみに二〇〇三年三月一九日の日銀総裁退任記者会見で、速水前総裁は在任中の「一番忘れられないこと」として、ゼロ金利解除をあげた(藤井、二九〇頁)。一九二五年四月に旧平価による金本位制復帰を行った経済失政の最高責任者の一人、イングランド銀行総裁モンタギュ・ノーマンが、後に「今でもやはり同じことをしただろう」と回想した姿を髣髴(ほうふつ)とさせる。
七〇年前の歴史どころかわずか四年前の経験すら忘却している人がいるとしたら、ぜひともこの二冊を読まれることを薦める。
七〇年前の出口戦略
そして七〇年前の歴史といえば、相変わらず鋭いのは安達誠司氏の分析である(「『出口戦略』の歴史的教訓」『日本経済ウィークリー』二〇〇三年九月一九日号)。たとえデフレから脱出したとしても油断はならない。一九三六年、FRBはすでにデフレ不況を脱したとみて、「超過準備」の吸収を目的として預金準備率の段階的引き上げ、国債売りオペ、金の不胎化政策を実行した。これに再選を果たしたローズヴェルト大統領が緊縮財政に転じたことが重なり、大恐慌からいったんは回復した米国経済は再び激しいデフレに陥ってしまった。よくアメリカの大恐慌の終焉は戦争の勃発を待たなければならなかったという話がまことしやかに語られる。しかし、回復が遅れたのは、そもそも三七年に再び経済失政によって不況に陥ったことが大きい。
そして安達氏が別の機会に論じているように、たとえ日銀が戻りたくとも、旧来の短期名目金利を中心とする金融調節方式に戻ることはできないだろう(「出口政策のシナリオ」『日本経済ウィークリー』二〇〇四年二月一三日号)。すでに市中には膨大な余剰当座預金残高がある。これを国債売りオペ、あるいは預金準備率引き上げで解消するとしたら、その影響は甚大なものになる。短期名目金利を目標とする出口戦略はすでにして破綻している。
明確なリフレ政策こそが出口戦略
問題は現在の景気回復が持続的かどうかである。四月に発表されたIMF(国際通貨基金)のWorld Economic Outlookは、日本について「ついに持続的景気回復が進行中なのか」という見出しを掲げている(http://www.imf.org/external/pubs/ft/weo/2004/01/index.htm)。循環的な回復自体は、一九九一年以来二回ほどあった。そのいずれもが政府・日銀の経済失政によって短命に終わってしまったことは忘れてはならない。
このことが現在の景気回復をいかに評価するかに結びつく。これまでの回復との大きな違いは、為替介入を軸にして政府・日銀のスタンスに整合性が見られることである。
ただし、この整合性はそのまま現在の政策の注意点にもなる。第一に他の政策、とくに財政政策との整合性である。もしも現在の日銀が遅まきながら二〇〇〇年の教訓を学んだのだとしたら、財務省は九七年の教訓を忘れていないことが大事である。
第二に、デフレの危険性である。それゆえ先のIMF報告書はデフレを確実に終わらせることを強調している。しかし日銀が四月に発表した『経済・物価情勢の展望』では、デフレ脱却は二〇〇五年度以降と想定されている。福井総裁自身は、デフレ脱却は「論理的には今年度末にも期待できる」と楽観的な見通しすら匂わせているものの(五月二日、NHKでの発言)、しかし自然にそうなる可能性は高くないというべきであろう。
そもそも中央銀行がデフレ脱却を待つ必要は何もない。今こそ出口戦略を積極的に論じるべきである。ポール・クルーグマンが冗談交じりに「世界インタゲ陰謀団本拠地」というリフレ政策派の牙城、プリンストン大学のラース・スヴェンソン教授は、望ましいデフレ脱却政策として三つの要件をあげている。それは?将来の物価水準上昇に中央銀行がコミットすること、?中央銀行がコミットメントを示すべく具体的に行動すること、そして?「正常な」状態に戻る時期と方法を具体的に示すこと、すなわち出口戦略である("Escaping from a Liquidity Trap and Deflation," Journal of Economic Perspectives, Vol.17, No.4, 2003, pp.145-66)。
スヴェンソン教授やFRB理事のベン・バーナンキ氏は、これまで長年にわたって進行したデフレによって、日本経済には一種の「物価ギャップ」が生じているという(いわゆるGDPギャップに相当する)。このギャップを埋めるには、デフレが起こらなければ日本経済が到達していたはずの物価水準を目標としてデフレを速やかに脱却し、その後には物価上昇率目標を設定することが望ましいという。ここで物価水準を目標とするのは、一定の「物価ギャップ」を確実かつ速やかに埋めるためである。
スヴェンソン教授はさらに具体的に、一定の(円安の)為替水準にターゲットを定める名目為替水準目標政策を提唱してきた。きわめて好意的に考えるならば、現在の日銀の政策はその亜種である。事実現在の景気回復の起点は為替介入に端を発したベースマネーの増額にあるという研究もあるように、その効果はかなりあった。しかし、現在の政策はこれまでの(前任者の)政策よりはよいものの、デフレ脱却への明確なコミットメントという肝心の点では十分ではない。
日本経済にとって目指すべき出口は、短期名目金利の引き上げなどでは決してない。出口とはデフレからの脱却であり、デフレ脱却の筋道を明確に示すことこそが出口戦略である。今必要なのは、日本銀行が望ましい物価水準(ないしは上昇率)目標を達成期限とともに明確に掲げ、そして一層の金融緩和を進めてデフレの息の根を止めることではないだろうか。明確なリフレ政策こそ出口戦略である。
◎――――連載11
球域の文明史
川勝平太
Kawakatsu Heita
一九四八年生まれ。早稲田大学大学院経済学研究科修了。英国オックスフォード大学大学院博士課程修了後、早稲田大学政治経済学部教授を経て、国際日本文化研究センター教授。著書に『経済学入門シリーズ 経済史入門』『日本文明と近代西洋』『文明の海へ』『文明の海洋史観』など
日本の台頭は「アジア間競合」の帰結である
二回にわたって、日本がアジア最初の経済覇権国として台頭してくる一六世紀以後の歴史過程の特徴を概観(がいかん)してきたが、その狙いは江戸時代の日本の特質を同時代のヨーロッパ諸国と対比し、関連を示すことであった。
今回は、歴史的概観の締めくくりとして、日本の台頭は「アジア間競合」の帰結であることをまとめると同時に、一六世紀からの日本台頭の過程がアメリカの台頭とパラレル(平行的)であったことを示しておきたい。
ヨーロッパと好一対をなす日本の士民革命
江戸日本の際立った特徴は、鉄砲を放棄し、経営者の形成としての「士民革命」を経験したことにある。「士民」は「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」的な禁欲と、「国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべき物にはこれ無く候。人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれ無く候。国家人民のために立てたる君にして、君のために立てたる国家人民にはこれ無く候」(上杉鷹山)という見解に見られるように、公益の増大をめざす倫理規範としての武士道を確立した。このような先行条件のもとで、日本は明治維新以降に近代的な経済発展に乗り出したのである。
ヨーロッパ諸国の関係は「主権国家」同士のバランス・オブ・パワーであり、戦争を基調としており、交戦権をもつ各国は軍部を拡張した。それは「軍事革命」(ジェフリー・パーカーの名で知られる。なお、パーカーの書物は『長篠の合戦の世界史』〈同文館出版〉という書名で翻訳されているが、原題は『Military Revolution』すなわち「軍事革命」である)といわれる。また、労働者とあわせて資本家の形成過程を、マルクスは「原始的蓄積」と呼び、「市民(ブルジョア)革命」で成立した市民(ブルジョア)がその担い手になったのであるが、彼らは禁欲的でありながら私益の増殖をめざす「資本主義の精神」(マックス・ウェーバー)をもっていた。日本と好一対(こういっつい)をなすことは、一目瞭然であろう。
ヨーロッパの近代覇権国家は、商業活動だけでなく、ものづくり(生産)を基礎としている。日本とヨーロッパとの共通点は生産力の飛躍的発展である。通常、農業社会から工業社会への飛躍は「産業革命」の名称で知られる。だが私は、日本でも江戸時代にものづくりが社会の基礎になったことを踏まえて、日本とヨーロッパで一八世紀に起こったものづくり志向を「生産革命」と名づけている。
というのも、イギリスに典型的な産業革命だけが生産力の上昇の要因ではないからである。生産要素には「土地、労働、資本、経営」の四つがあり、その組み合わせによってさまざまなパターンを想定できるのである。
ヨーロッパにおいては、土地は制約条件ではなかった。制約条件は労働であり、そのために稀少な労働の効率的利用(搾取(さくしゅ))が追求され、資本が集約された。日本では労働は制約条件ではなくいくらでも投入できたが、鎖国下で各藩が他領を併合できないという事情があったので、土地が制約条件であった。そのため、稀少な土地の効率的利用が追求され、経営で知恵を絞るベクトルが働いたのである。
再言すれば、江戸時代の日本は「士民」の経営資質と「土地の生産力」の向上に努めたのに対して、同時代のヨーロッパ社会は「市民」の資本蓄積と「労働の生産力」を発展させたのである。一八世紀のイギリスで最初に起こったのは資本集約型・労働節約型の生産革命であり、それが産業革命(industrial revolution)である。それと対照的に、日本で起こったのは資本節約型・労働集約型の生産革命であり、それは今日では「一八世紀の勤勉革命」(速水融氏)の名で内外に知られるようになっている。
「資本集約型」のイギリスと「労働集約型」の日本
このような相違は、偶然に生まれたのではない。日本とヨーロッパとを囲む外部環境の違いの帰結である。それぞれにとって密接な外部環境が、両者の違いをもたらした。日本にとっての外部環境は、アジア、なかんずく中国的アジア文明圏であり、ヨーロッパにとっての外部環境はやはりアジアではあるが、イスラム的アジア文明圏であった。日本とヨーロッパの世界史における表舞台への登場は、主役であったアジアの複数の旧文明圏の退場と表裏をなしている。
江戸時代の日本の軍縮、士民(経営者)革命、勤勉革命などには先行モデルがある。また、そのままの継承ではなく、換骨奪胎したものであるが、ヨーロッパの産業革命は「アラブ農業革命」(A・ワトソン)、国際法はイスラムの国際観である「戦争の家と平和の家」など、その多くがイスラム的アジアの文明圏に淵源(えんげん)する。
日本の直接のモデルは、明中国(一三六八年建国)・李氏朝鮮(一三九二年建国)にある。鉄砲は元代中国で活用され、製造技術があるにもかかわらず、明中国・李氏朝鮮では軍事立国をしなかった。その理由はまだ確証されていないが、儒学を官製の学問としたことと無縁ではないだろう。明・清の中国、李氏朝鮮、江戸日本はヨーロッパの「パワー・ポリティックス(覇権主義)」に対して、「モラル・ポリティックス(徳治主義)」として際立っているのである。
日本の「士民」は、例外なく中国における重要古典であり、東北アジア(中国、朝鮮半島、日本)共通の古典である四書(『大学』『中庸』『論語』『孟子』)と五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)を読んだ。それ以外の文物の多くも中国もしくは朝鮮半島から日本に移植された。多肥・労働集約型の勤勉革命のモデルは「江南農法」(斯波義信氏)にある。さらに、鎖国のモデルも明中国・李氏朝鮮の「海禁」である。さらに参勤交代制も朝貢制の変形とも推測される。
東北アジアには独自の地域システムがあった
ここで強調したいのは、イスラム的アジアとヨーロッパとを一括して捉える目とともに、東北アジアには独自の地域システムが存在したとみるべき方法論的認識である。
東北アジアの地域システムをとらえる上では、東北アジア域内の競い合いという観点をとりたい。
ヨーロッパが一九世紀後半に帝国主義的性格を強め、世界の大半がヨーロッパ列強の従属国になったとき、東北アジアの三国はヨーロッパの植民地にはならなかった。東北アジアの域内の地域間のライバル関係を「アジア間競合」と名づけておこう。アジア間競合は、『隋書』にある「倭国の王・多利思比孤(たりしひこ)」すなわち聖徳太子が「海西の菩薩天子」とたたえた隋の煬帝に対して、「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす。つつがなきや」という一文を含む国書を送ったのに対して「帝、これを見て、よろこばず。蛮夷の書、礼無きものあり、またもって聞こゆるなかれ」と激怒させたことが、初期の事例であるが、競合は、経済競争のみではない。文化の競い合いという面も含まれる。
同じ『隋書』に「沙門数十人、(隋に)来たりて仏法を学ぶ」とあるように、日本は一方的に学ぶ立場だった。それは遣隋使、遣唐使の時代から室町幕府まで継続した。足利幕府の三代将軍義満は、中国の永楽帝に朝貢したほどである。
ところが、今や日本に留学する中国人学生は七万人(二〇〇三年)を超え、アメリカへの留学者数より多い。日本は中国の青年によって世界でもっとも学ばれる国になっているのである。これもアジア間競合の断面である。
アジア間競合において日本は江戸時代に初めて優位に立ったが、鎖国下で顕在化しなかった。競合における日本の優位は幕末開港後に思う存分に発揮され、朝鮮半島は日本の植民地となり、中国大陸は日本の市場となったのである。
日本が開港してから東北アジアで域内貿易が活発化したことが最近の学界の主要テーマになっているが、これは東北アジアの文物が共通しているために価格や品質が競合し、貿易が伸びたということなのである。
アジア間競合の最大のライバル関係は日中間にある。現代の中国は富国強兵に乗り出している。アメリカの覇権が頂点を越えた現在、日中のライバル関係が新しいシステムの出現を生む可能性はあるが、それが今後の世界に平和をもたらすかどうかは、共通の伝統である学徳のある「士民」主体の軍縮を再生できるかどうかにかかっていると予測しておきたい。
日米の歴史は対等というべき平行性がある
ここで、これまで触れなかったアメリカと日本との世界史的位置関係について概観しなければグローバルな構えにならない。そこで、一瞥(いちべつ)だけ加えておきたい。
二〇世紀末、アメリカは超大国に上りつめた。アメリカは第一次、第二次世界大戦で本土が戦場とならず、ほぼ無傷で戦勝し、冷戦ではソ連・東欧圏が自壊したのを受けてグローバリズムの潮流をつくり、一極支配を強めた。
その存在形態を「帝国」と呼ぶ人(ネグリ、ハート)もいるが、その最盛期は過ぎたとみなし、ポスト・アメリカを見越して「帝国以後」と呼ぶ識者(トッド)もいる。アメリカを継承しうる国があるとすれば、経済規模でアメリカに次ぐ日本は有力候補である。
日米の歴史には対等というべき平行性がある。
アメリカの歴史はコロンブスにはじまるが、実質的には一七世紀初期、ピルグリム・ファーザーズがメイフラワー号に乗り、北米のプリマスに上陸し、ニュー・イングランドに拠点を置いてからであり、それ以後、西部開拓に乗り出した。同じ時期、日本は江戸に拠点を置き、関八州すなわち東部開発に乗り出した。
一八世紀末から一九世紀にかけて、アメリカが旧世界のイギリスから独立し、モンロー宣言で孤立主義を打ち出したとき、日本は旧世界の中国の影響から脱して「鎖国」の語を初めて用い、鎖国主義を国策とした。
日本の開国直後、アメリカは南北戦争に突入、日本は東西戦争(東の徳川と西南雄藩との対立)に突入、ともに内乱を経て国内統一を成し遂げるや、イギリスを猛追した。
一九世紀末、アメリカは米西戦争で勝ち太平洋の旧スペイン領グアムとフィリピンを領有、日本は日清戦争で勝ち台湾を領有、ともに太平洋の新興帝国主義として台頭した。
二〇世紀初め、イギリスは日本を信任して日英同盟を締結したが、イギリス製品に保護関税をかけるアメリカとの経済対立を先鋭化させた。アメリカは大西洋と太平洋の両側からにらみをきかされた。第一次大戦後、太平洋の旧独領は日本の統治領となった。第二次大戦までは太平洋圏での存在感ではアメリカより日本に分があった。第二次大戦における日米戦争を「太平洋戦争」と名づけたのはアメリカである。日米対立はアメリカにとって、太平洋における劣勢の挽回であった。
敗戦した日本は奇跡の復興を遂げ、アメリカの繁栄を支えた繊維、造船、自動車、鉄鋼、家電等の基幹産業をことごとく空洞化する勢いで、猛追した。円高を決定づけた一九八五年のプラザ合意は、日本がアメリカと堂々と並んだことを承認した儀式である。それは祝うに値する。バブル経済はその祝祭ではなかったか。
◎――――エッセイ
小平達也
KODAIRA Tatsuya
株式会社パソナテック中国事業部コンサルタント。対中国ビジネスに挑戦する企業の人事課題にソリューションを提供する一方、来日海外ITエンジニアやグローバル人材に対しキャリアカウンセリング、コーチングを行なっている。
転職をめぐる日中キャリア事情
――キャリアフリーズ症候群と発展空間
技術の重視から人材重視へ
「とにかく人ですよ、人。ハイポテンシャルな人さえいればビジネスは拡大できます。人材不足がボトルネックになっているので、ぜひともよい人材の紹介をお願いします」。こう念を押すのは、世界でも五本の指に入る大手メーカーの人事部門を統括する執行役員である。
私は人材コンサルタントとして企業の経営者と会う機会が多いが、かつては「とにかく技術を!」と盛んに唱えていたメーカーが、最近は「とにかく人を!」に変わってきたことを日々実感している。
一方で、働く人間にとっては昇進・昇給の難易度が高くなり、気がつくとリストラの影におびえる日々である。入社以来ずっと会社の配属・配置転換に素直に応じてきたにもかかわらず(いや、むしろそのために)、自らの専門性を深めることもできず、世間一般で通用するようなキャリアも身につかない……。いわゆる「キャリアフリーズ症候群」である。せっかく人が重視される時代になったというのに、こうしたキャリアフリーズ症候群のビジネスパーソンが国内で増加している。
中国は契約社員が一般的
ところで、この対極に位置しキャリア形成に貪欲なのが、今世界中から注目を浴びている中国のビジネスパーソンである。中国では国営企業を除いて、基本的に終身雇用といったものはなく、一年、三年、五年などの期間契約社員が一般的である。日本とは違って、研修・配属・配置転換などのジョブローテーションも稀である。入社の際も企業に「就社」するというよりは、ある職務でスペシャリストとなるために入社契約をし、当たり前のように転職していく。文字通りの「就職」である。そもそも期間契約社員だから、契約満了時までに企業も本人も「契約延長」か「契約終了」かを決断することになる。本人としては必然的に、自らのキャリアパスを日常的に意識せざるをえない環境になっているのだ。
われわれが中国人の人材のカウンセリングをする際によく聞くのが「発展空間が重要だ」という言葉である。「発展空間」とは、日本流にいえば「キャリアの可能性」といったところだろうか。この言葉を裏づけるように、二〇〇二年に日本在外企業協会が日系企業に勤務する中国人ホワイトカラーを対象に意識調査をしたところ、「職業選択の際に重視するもの」のベスト3は次の通りだった。
?能力を活かす
?新しい技術・知識取得の機会がある
?先行きの展望がある
また、最下位(=もっとも重視しないもの)は「少ない拘束時間・多い休日」だった。
いかにして優秀な人材を定着させるか
少々意外かもしれないが、現在の中国では優秀な人物であればヘッドハンティングの誘いは当たり前である。上海だけでも実に三〇〇社以上の人材紹介会社があり、エンジニアのみならず管理職などのホワイトカラーは引く手あまたの状況である。そこで企業にとっては、いかにして優秀な人材を自社に定着させるかが重要な経営課題となっている。中国の大手家電メーカー、海爾(ハイアール)をはじめとして有名なのが「一〇・一〇システム」という人事評価制度である。これは優秀社員を定着させるために上位一〇%の社員を「模範社員」として優遇する一方、下位一〇%の社員を「定期的に淘汰(つまり雇用契約の解除もしくは継続せず)」するというものだ。
日系企業も高みの見物ではいられない。先ほどと同じ調査で、転職希望者のうち「次の転職先も日系企業を希望する」と回答したのは、たった七%というショッキングな結果だった。ちなみに「欧米企業を希望する」は六九%だから、日系企業の惨敗である。すでにこのような状況に対応している企業もあり、松下電器産業グループでは最近、中国で成果主義を重視した人事・賃金制度を本格導入している。従来一律だった給与が最大三倍の格差になるだけでなく、成績が下位五%の社員には退職を促す「五%ルール」を設けた。目的はもちろん「優秀人材の確保」である。「最後のフロンティア」といわれている中国には現在、三万社を超える日系企業が進出しているが、制度の硬直化した日本を横目に、このような人事制度上の地殻変動が起こっている。
中国の熱気を日本へ!
中国における日系企業が「発展空間」の最大化を目指す中国人の人材の獲得と定着に腐心しているのとは対照的に、国内に目を転じると企業には「キャリアフリーズ症候群」のビジネスパーソンが群れている。人の大切さが重視されている今、中国ビジネスパーソンの「発展空間」熱を日本に輸入して、「キャリアフリーズ」を解凍できないものだろうか。
◎――――連載5
ガンバレ!男たち
池内ひろ美
Ikeuchi Hiromi
1961年岡山県生まれ。一女を連れて離婚後、96年にみずからの体験をベースに『リストラ離婚』を著し話題となる。97年、夫婦・家族問題を考える「東京家族ラボ」を設立、主宰する。近著『勝てる!? 離婚調停』日本評論社刊(町村泰貴民事訴訟法教授と共著)。

夫の「こづかい」、適正額は?
「この不況にもかかわらず、うちの夫ったら毎月のこづかいを値上げしてほしいって言うんですよ」
相談室の一人がけソファから今にも起ち上がらんばかりに声をあらげる女性は四〇歳専業主婦、小学校五年生と四年生の二人の男の子を育てる母親である。
相談者の彼女だけでなく、「夫のこづかい」が夫婦間で問題として取り上げられることはよくある。それを問題視するのは妻の側だ。家計のやりくりを任せられている妻たちは、夫のこづかいが増えることによって、食費や雑費を細かく節約しなければならない、子どもにかけるお金が減ってしまうと憤慨する。
日本の夫たちのこづかい平均は三万六〇〇〇円、一番多いのは三万円台である。彼女の夫は年収九五〇万円で、一ヶ月のこづかいは四万円だという。
「平均より高いこづかいを与えているのに、夫は不満なんですよ。こづかいを上げなければ給与口座も自分で管理すると言いはじめています。いい加減にしてほしいわ」
夫の側もいい加減にしてほしいと思っているだろう。彼女は、多くの専業主婦世帯と同じように、夫の給与が振り込まれた銀行口座を妻が管理し、夫にこづかいを渡している。
「あげるわよ、って言っても、夫はありがとうも言わないの」
「そうですか。では、彼が働いたことに対して、あなたはありがとうとおっしゃるんですか?」
「男が働いて家族を養うのは当たり前でしょう? どうしてありがとうと言わなきゃいけないんですか」
彼女が管理している家計費は、家庭を運営するために預かっているものであって、彼女の持ち物ではない。それを夫に「こづかいをあげる」「与える」という表現を使う妻たちは驚くほど多い。正しくは「渡す」であると、今まで女性相談者に何度も伝えた。彼女たちは不機嫌になり、あなたは働いているから夫の味方をするのだと攻撃を受けることもある。
常々、夫たちのこづかいが少なすぎると私は感じている。こづかいを何に使うかといえば、毎日の昼食、喫茶、喫煙、飲み代、駅で週刊誌や新聞を買い、散髪をする。散髪代がなくて自分でハサミを当てる夫もいる。たまにタクシーで帰宅した料金はこづかいでまかなえなくて怖い顔をした妻に頭を下げて頼まなければならない。洋服や靴代は家計費から出るが、妻は「選んで」買うのではなく、これくらいのものを着ておくようにと「与える」ように買う。まったくひどい話だ。辛抱強い夫ほどひどく搾取されている。
かたや妻たちは、「私はこづかいなんかありません」と言いながら、家計費の中からホテルのケーキバイキング、ファミレス昼食、美容室やエステや日帰り旅行も楽しんでいるのだから、せめて感謝の言葉くらい伝えて当然だろう。働く夫のプライドを妻は傷つけないでほしい。もっと厳しく書きたいところだが、同じ女である私から見ても、やはり世の妻たちは恐ろしくて少し腰が引ける。が、勇気を持って、夫のこづかいが少なすぎたり妻の圧政下にあることは、その子どもたちにとって幸せなことではないと予言しておこう。
大人が定職に就いて労働しても、配偶者から感謝の言葉をもらえないどころか、働いた一部のお金を侮辱の言葉とともに受け取らなければならないことを子どもたちは見て取る。その失望から大人になることや結婚を否定しかねない。結果、増加したのがフリーターとパラサイトシングルでもある。
夫のこづかいの適正金額は、個別に家族の構成要素を鑑みなければ正確な算出はできないが、たとえばさっくりと「年収の一〇%」を提案したい。それは労働意欲にも繋がる。相談者の夫は年収九五〇万円だから、賞与も含めて月割りし、一ヶ月のこづかい七万九〇〇〇円。年収七〇〇万円の場合は五万八〇〇〇円、一〇〇〇万円の場合は八万三〇〇〇円。これは働く男のプライドを守るための金額でもある。自分を守る靴くらいは自分で買って、胸を張って歩いてほしい。

◎――――エッセイ
高橋裕子
Takahashi Yuko
奈良女子大学・大学院基盤生活科学講座教授。「インターネット・禁煙マラソン」(http://kinen-marathon.jp/)を主宰。著書に『完全禁煙マニュアル』『禁煙外来の子どもたち』など。
「メールで禁煙」しませんか
ニコチンパッチでニコチン切れ症状を軽減する。同時にメールによるサポートで記憶や習慣(心理的依存)に基づくタバコ欲しさを乗り越える。これが「パッチ&メール」と呼ばれる最新の禁煙方法である。この方法の強みは、その成功率の高さとともに、働き盛りの人にとって利用しやすい点にある。
「自分は好きで吸っているのだからほうっておいてくれ」というのが口癖だったTさんが、会社の禁煙プログラムに参加した例を紹介しよう。このプログラムは参加者の八〇%以上が一年後も禁煙している「禁煙マラソン」プログラムの携帯メール版で、企業単位での申し込みである。Tさんは効果については半信半疑のまま、勧められるままにニコチンパッチを受け取り携帯メールサポートに登録を依頼した。
翌日からニコチンパッチを貼っての禁煙がスタートした。ニコチンパッチはニコチン切れ症状を軽減して禁煙をスタートしやすくする貼り薬である。同時に携帯メール支援も始まった。「思ったより楽です。隣でタバコを吸われても大丈夫」と明るい報告メールを送っていたTさんの禁煙が突然ぐらついたのは、ニコチンパッチも終了して、もう禁煙が順調に進むと思われた一ヶ月目のことであった。
「息子が食卓に置いていったタバコをじっと見る。手が出そうになります。いつまでこんなことが続くのでしょう」すかさず先輩からの応援メールが入る。「私も最初の三ヶ月は同じような状況でした。でも手が出そうになるのと出さないのは大違い。よく堪えましたね」
その翌日にもまたSOSメールである。「駅の吸殻入れをじっと見ている自分に愕然(がくぜん)とします」先輩からのメールが届く。「長年吸ってきたのだから当然です。でも大丈夫、私も五〇年吸ってきて相当に未練がましいほうでしたが、禁煙して一年、今ではなんて臭いんだと思います。きっとこうなりますよ」
それから一年。Tさんの状況をみてみよう。「あの日以来、まったく吸っていません。パッチもよかったけどメールサポートはすごい! 昔だったら確実に吸っていた瞬間に先輩メールのおかげですっと喫煙要求を追い払うことができました。それ以降、私も後輩のみなさんに応援メールを送っています。やはり先輩としてアドバイスを送るとなると禁煙に対する意識も違ってきます。そして気がついたら吸いたくなくなっている自分がいました。禁煙の一番大きな収穫は『人は変わることができる』ということがわかったことでした」
記憶や習慣に基づく根強い喫煙要求を乗り越えることは容易ではないが、温かい人間関係の支えは乗り越える力を与えてくれる。支え、支えられる人間関係の中で人間のもつ可能性の大きさを知る。
Tさんのメールには「田舎の母親が何より喜んでくれた。禁煙は親孝行ですね。周囲にも優しくなったといわれます」と添えられていた。
◎――――連載18
知的技術本の古典を読む
『「知」のソフトウェア』立花隆(2)
妹尾堅一郎
Senoh Kenichiro
東京大学先端科学技術研究センター特任教授(知識創造マネジメント、知財ビジネス専門職育成ユニットプロジェクトリーダー)。研究領域は問題学・リスク論、コンセプトワーク論、ヴィジョン論、社会探索法他。著書に『考える力をつけるための「読む」技術』『研究計画書の考え方』など。
立花流「知のインプット」作法
〜「資料整理における分類」と「取材としての読書」〜

立花隆(たちばな・たかし)
1940年長崎県生まれ。東京大学仏文科卒業。フリーのジャーナリストとして幅広い執筆活動を展開。著書に『日本共産党の研究』『宇宙からの帰還』『サル学の現在』『臨死体験』(上下)『精神と物質』などがある。
資料収集の自己目的化を戒める
本書はジャーナリストの仕事の詳細をインプットとアウトプットの観点から整理している。ジャーナリストであるから、インプット業務の中核は、学者の「調査」とは異なり「取材」である。そこでは「資料収集」、「取材としての読書」、「インタビュー」といったものが基本となる。さらに、ジャーナリストは「アウトプット先行型」すなわち「知的生産型」なので、取材は明快な目的に即していなければならない。このことは、「インプット先行型」すなわち「知的生活型」が資料収集自体を目的とするのと対比されるだろう。
“資料収集・整理の自己目的化”を立花は強く戒める。「資料の収集整理という作業を一度組織的にはじめてしまうと、だんだんそのこと自体が自己目的化してしまって、かんじんの本来の目的(アウトプット)を忘れてしまう」(p.34)からである。これは多くの“知的技術愛好家”が陥る罠だ。本書では、資料整理に多大な時間を費やすがためにアウトプットを出す時間がなくなってしまった青年の話が例示されている。そもそもなぜ資料を収集・整理するのか、その目的を見失って、いくら知的技術本に紹介されている収集・整理手法を誠実に実行していっても何も生まれない。確かに収集家やコレクターといった類いの人にとっては資料収集・整理自体に意味がある。それはそれで結構なことだが、自己目的化した資料収集・整理は知的生産とは呼ばない。
ここで資料収集と資料整理とを区別して考えてみよう。テーマや目的に沿った資料収集はできるだけした方が良い。だが資料収集癖が高じると“おたく”化する。“おたく”の“おたく”たるゆえんは、活動が自己目的化する点にある。学者などはその典型であろう。ちなみに、以前ある講演会で「学者、学者と威張るな学者。学者、“おたく”のなれの果て」と戯れ言を言って、学者仲間に顰蹙を買ったのは、私である。
一方、資料整理もアウトプットを目指した仕事でないと成り立ち難い。確かに組織ならば、常に資料を整理された状態にするため手間暇をかけるかもしれない。しかし、個人としてはいかがなものか。立花は、資料整理で注意すべき点は、「費用対効果比」ではなく、むしろ「時間対効果比、手間対効果比」(p.29)であると喝破する。つまり、整理だけを目的にして時間をかけることは無駄の極致なのである。
静的分類と動的分類
資料の整理において「分類」は避けられない。だが、目的なく資料を分類するというのは実は矛盾した行為なのだ。なぜなら、「正しい分類は事後的に生まれるもの」(p.40)であるからだ。この立花の指摘に私は共鳴する。
そもそも知的生産の作業中の分類は、いわば試行錯誤状態であり、最終的にアウトプットを出せたときの分類が結果として「正しい」ことになるのである。いわんや最初から既存の枠組みで分類したのでは、何も「知的生産」を行なったことにはならない。
私は、知的生産の基本の一つは、分類軸あるいは分類枠の組み替えであると主張してきた。立花も、既存の分類枠を使用することを嫌う。こういった「機械的処理」は、「現実を既存の枠組の中に無理やり押し込むための処理である」(p.43)からだ。
現実の世界は既存の枠組みでは分類しにくい項目に満ちあふれている。それを何らかの整合的な枠組みに整理してみたいとするならば、思考の枠組み自体を見直さざるを得ない。だから、分類枠は常に点検すべきなのだ。たとえ実際に枠組みを変えられなくても、それを見直すことによって新たな発想が生まれる可能性がある。その意味で、分類行為は「知的生産行為」と言っても良い。立花は、「情報を保存し、管理しておくための静的な分類」と「思考と同時進行で発展していく動的分類」を対比する(p.44)。前者が従来枠組みによる分類行為であり、後者が分類枠自体を検討しながら行なう分類行為なのである。
観念的ではなく、素材に即した(つまり現実に即した)分類を行ない、その過程で目的を見つける。次にその目的に即した分類を行う……その際のコツとして、事象を既成の分類平面とは別の平面の上でとらえ直してみることを立花は薦めている(p.46)。これは、以前紹介した川喜田二郎『発想法』における「データをして語らしめる」ことと原理的に同じであろう。立花はKJ法に批判的なのだが、こういった点については川喜田と同様な点が興味深い。
同じ事象を踏まえたとしても、違う発想を導くことはできないだろうか。分類という範疇で言えば、例えば二項分類や三点分類、あるいは二軸四分類のボックスアプローチやマトリクスを活用すれば、新しい発想を喚起できる。また、それ以外にも様々な“議論と発想の誘発ツール”がある。私が長年やっている社会人教育の「コンセプトワーク」講座で強調しているのは、分類枠を見つけ出そうとする行為自体から発想が誘発される点である。その意味で、分類軸自体を吟味することこそが、実は知的生産の技術ではないか(と明言しているわけではないが)という立花の指摘に、私は深く共鳴するのである。
取材としての読書
さて、立花隆の仕事場は、黒い壁にネコの絵が描かれている三階建ての通称「ネコビル」にある。私は幸運にも、この「ネコビル」やいくつかの秘密の仕事場を何回か案内していただいたことがある。(http://www.ttbooks.com/)
なるほど、噂どおり、多岐にわたる連載毎に仕事場を分けて、それぞれに膨大な資料を抱えて執筆をしていることが分かる。その蔵書数たるや半端ではない。本人いわく四万五〇〇〇冊だが、それをゆうに超えているのではないかと私は睨んでいる。これらは単なる蔵書ではない。基本的には著作というアウトプットを出すための“資料”として読まれているはずである。
立花流読書の神髄は何か。少なくとも本書で言えば、それは“取材としての読書”と言えるだろう。「本を読む」のではなく、「本に当たる」のである。その際の技術的ポイントは何か。
第一は、本を選ぶときには、必ず書店巡りをすることだ。「本は現物を手にとってみなければ価値評価を下すことが絶対にできない」(p.92)からである。またその際、本を買う金は惜しむなという。良い仕事をするためには、良い情報を入手しなくてはならないのだ。「身を切る思いで出した金であればあるほど、より真剣にそのお金の価値ある使い方を考えるものである」(p.95)。
第二に、とはいえ、もし価値がないと判明したら、読むことをあきらめねばならない。集めた資料を全て整理するのではないのと同様に、集めた資料類に全て目を通す必要はない。せっかく買ったのだから雑誌や本を最初から最後まで読まなければもったいないと思ってはいけない。また、読む価値がないと分かったときは、潔く読まないようにすべきだ。「読む価値がないものを読んで時間を浪費するほうがはるかにもったいない」(p.51)。それは「お金を損した上、時間まで損する」(p.100)ことを避けるためである。
第三に、本は使うために買い・読む。だから、線を引いたり、ページを折ったりして「汚しながら読む」ことをためらってはならない。「本は消耗品と心得る」(p.102)べきなのだ(かといって消耗品だから読み終わったら捨てて良いというわけではないところが、立花流ではある)。
入門書の効用
“取材としての読書”の特徴は入門書の活用法にある。先端的なジャーナリストは、常に専門外の領域に踏み入らねばならない。つまり、入門書をひもとくことは「取材」における重要な第一歩なのだ。では、入門書活用のポイントは何か。
第一は、良い入門書を入手することである。良い入門書の条件を立花は四つ挙げる(p.96)。
・読みやすくわかりやすいこと。
・その世界の全体像が的確に伝えられていること。
・基礎概念、基礎的方法論などが整理されていること。
・中級、上級に進むためには、どう学んでいけばよいか、何を読めばよいかが示されていること。
第二に、入門書は複数買う(p.96)。一冊の入門書を繰り返して読むより、複数の入門書を一回ずつ読んだ方が役立つと、立花は言う。入門書によって共通している点と違う点を見極められるし、また異なる説明の仕方に接すると深く理解が進む可能性が増すといったことが、この方法の利点であろう。しかしこれらには異論があるかもしれない。加藤周一の『読書術』では、一冊の教科書を繰り返し読むことの効用が強調されていた。特に教科書の類いには同様のことが書かれているのだから、暗記できるくらいに一冊を繰り返し読めば、その方が理解を確実にするのである(この辺りに、同じ評論家という肩書きではあるものの、医学者であった加藤と編集者であった立花の出身の違いがうかがえる)。
また、立花は初級のものばかりでなく、定評や自分の好みとカンなどを頼りにして中級のものも何冊か入手し、さらに予算があれば、定評のある高度な専門書も一冊買うという。経済学で言えば、サミュエルソンやスティーグリッツの入門書を複数買って、さらにヘンダーソン・コントの類いの中級書を何冊か、といったところであろうか。高度な専門書を読むことの利点は、その分野に関する自分の理解度を知ることができると共に、「専門書ほど方法論がしっかりしており、また、方法論をよく解説してあるから、方法論を学ぶことができる」(p.99)ことにある。
第三に、入門書だからといって、全て分かる必要はない。分からないのは自分の頭のせいとは限らない。著者の説明の仕方が適切でない場合も少なくない。翻訳書も同様である。よく分からない場合は、誤訳もしくは悪訳(つまり日本語が下手!)を疑ってみる。だから、無理に分かろうと時間をかけるよりも、読み飛ばして先へ行った方が得策なのだ(この点は加藤も同様の指摘をしている)。
第四に、ノートやメモなどはとらない。重要なところは下線を引いておけば良いのであって、いちいちカードに書き写したり、ましてやパソコンに打ち込むなど無駄なことなのだ。そんな暇があったら他の本を読んだ方が良い……という立花流の議論は、実は人間の脳への信頼に基づいているようだ。立花は、大事なことは頭に残っているはずだ、と言う。また、読んだ時点で重要と思われたことでも、後になってそれほどでもなかったと気づくこともある。なので、最初から、書き写すような作業は無駄が多いのである。つまり、前述した資料整理と同様に、自己目的化しかねない読書カードづくりに批判的なのである。
通常の技術本は、記憶がアテにならないので、できるだけ外部装置に移せ、といった議論をする。一方、立花流は、人間の脳の不可思議な力を活用しろ、と議論する。この点を次回ご紹介しよう。
◎――――連載13
M式社会学入門
宮台真司
Miyadai Shinji
一九五九年生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。現在、東京都立大学人文学部社会学科助教授。著書に『権力の予期理論』『終わりなき日常を生きろ』『自由な新世紀・不自由なあなた』など。
「行為」とは何か
連載の第一三回です。前回は「社会統合とは何か」をお話ししました。例によって復習しましょう。社会統合の観念は、社会秩序の観念と同列に扱われがちです。しかし、秩序の「合意モデル」ではなく「信頼モデル」に立つ私たちは、両者を区別して扱うのでした。
秩序とは確率論的な非蓋然性(ありそうもなさ)です。正確には、ミクロ状態の差異によって区別される場合の数が相対的に小さなマクロ状態です。社会秩序という場合、行為の織りなす秩序のことを言います。ミクロ状態の差異が行為の分布によって定義されるわけです。
社会システム理論における社会秩序の観念は「あるべき社会」についての価値観からはニュートラルです。ですが社会学史を振り返ると、行為配列の単なる確率論的な非蓋然性を超えて、ある特殊な性質を持つ非蓋然性のみを社会秩序と称してきました。
そこには「あるべき社会」についての先入見が反映しています。そこで、社会システム理論家は、社会秩序とは別に社会統合の概念を以て、この先入見に対応する社会秩序観念を取り出そうとします。したがって、社会統合の概念は、社会秩序よりも特定された概念なのです。
「あるべき社会」についての先入見とは、連載で紹介した、社会秩序の「合意モデル」か「信頼モデル」かということです。社会統合の概念を導入することによって、「合意モデル」か「信頼モデルか」という択一は、社会統合概念の分岐に相当することになります。
合意モデルでは、人々が合意した価値や規範の内側でだけ行為が展開する場合、社会統合されていると見做(みな)します。信頼モデルでは、価値合意とは無関係になされる信頼(制度的予期)が、破られない範囲で行為が展開する場合、社会統合されていると見做します。
誤解を恐れず縮めて言えば、合意モデルは社会統合を「行為の統合」だと見做しますが、信頼モデルでは社会統合を「予期の統合」だと見做します。前者では逸脱行為を社会統合への紊乱(びんらん)だと見做しますが、後者では信頼が脅かされない限りは紊乱だとは見做しません。
因(ちな)みに信頼を見ると、単純な社会では、面識圏内での相互行為の履歴が形成する自明性(慣れ親しみ)が、信頼を与えますが、複雑な社会では、相互行為の履歴を負担免除し、かつ逸脱の可能性を先取りして免疫形成する、構造化された予期(制度)が、信頼を与えます。
その意味で、逸脱行為を脅威と見做す合意モデル的な社会統合観は、単純な社会ないし共同体的作法を色濃く残す社会に適合的であり、逸脱行為を必ずしも脅威と見做さない信頼モデル的な社会統合観は、複雑な社会ないし共同体的作法を頼らない社会に適合的です。
行為と社会システムの関係
社会秩序とは行為の配列が示すありそうもなさで、社会統合とはその中でも一定の条件を満たすありそうもなさを指すのだと言いました。さて、ここで言う「行為」とは何なのでしょうか。連載第五回で紹介した通り、行為の同一性は、物理的ではなく、意味的です。
私たちが野球する所に火星人が降り立って来て、私たちを観察します。火星人には個体の物理的行動や個体同士の行動連鎖が見えます。ある個体から球体が投げ出され、別の個体が棒状の物体で打ち返し……。でも火星人に私たちが野球をしていることは分かりません。
火星人が行動の「意味」を知らないからです。火星人が眼前の事象を野球として記述できるようになるには時間がかかります。言語習得と似たプロセスを辿り、プレイヤーの視点に立てるようになり、行為の意味を掴めるようになって、初めて野球の記述に至れます。
意味とは、刺激を反応に短絡せずに、反応可能性を潜在的な選択肢群としてプールし、選び直しを可能にする機能でした。これを踏まえると、行為の意味とは、行為の潜在的な選択接続の可能性の束によって与えられます。選択接続をコミュニケーションと呼びます。
例えば打撃行為は、投球行為を先行させうる限りにおいて、かつまた走塁行為を後続させうる限りにおいて打撃なのです。だから社会システムが行為からなるとは、潜在的に可能な選択接続(コミュニケーション)の総体の、一部が定常的に実現しているということです。
そして、その一部の実現の仕方が確率論的な非蓋然性を示す度合に応じて社会秩序があると称し、かつまた社会秩序が一定の条件を満たす場合を社会統合があると称します。かくして行為、意味、潜在的な選択接続、社会システムの概念的関係の、復習を終えました。
以上の概念的関係についての記述は、行為と社会システムとの間の関係に定位したものですが、私たちはまだ、行為と行為でないものとの関係について――例えば行為と体験との差異について――十分な知見を得ていません。そこで改めて「行為とは何か」を論じます。
行為と体験の差異をもたらす帰属処理
一つのヒントが、連載第五回で述べた、行為に備わる「出来事」的側面と「持続」的側面です。嘘をつくという行為は、某月某日何時何分の「出来事」ですが、物理的な「出来事」としては消滅しても、嘘をついたという事実は取り消せずに意味的に「持続」します。
「持続」するからこそ、「正直に告白」するとか「しらを切る」などの行為への選択接続の可能性が開かれ、それが開かれているがゆえに「嘘をつく」という行為の意味的同一性が与えられるのです。物理的な「出来事」性と意味的な「持続」性。これがヒントです。
「出来事」性を「持続」性へと回収する際に「帰属処理」が行われます。システムに生じた「出来事」がシステムの選択性へと帰属処理される場合がシステムの「行為」であり、そうでなく、システムの環境の選択性へと帰属処理される場合がシステムの「体験」です。
このように定義することで、個人の行為、企業の行為、国家の行為などを包括できます。すなわち「出来事」としては消滅しても、意味的な帰属処理を通じて、個人の行為、企業の行為、国家の行為とされるものが、取り消せない事実として意味的に「持続」するわけです。
帰属処理は、別様な帰属――システムに帰属せずに環境に帰属するとか別のシステムに帰属するとか――の潜在的可能性をプールした状態でなされるので、意味的である他ありません。行為としての帰属は、絶えず別様の帰属へと開かれた、それ自体が行為なのです。
法実務の場面を考えれば分かります。男Aの強盗行為と見えたものが、裁判過程を通じて、ボスBの脅迫行為によって「強盗させられる」という男Aの体験だったと分かり、罪を免じられることはよくある話。そこにあるのは、判事Cによる認定(帰属)行為です。
さらに判事Cの認定行為に見えたものが、後になって別の男Dの脅迫行為によって「認定させられる」という判事C体験だったと分かることもありえます。「分かる」と言いましたが、分かるという私の体験が、観察者の観点から行為として帰属処理されることもありえます。
つまり、何かが行為であるか否かはいつも議論の余地があると同時に、何かが行為であると言うときには必然的に「帰属処理されるシステム/帰属処理するシステム」のペアが前提とされていることになります。その際、帰属処理されることは体験で、帰属処理することは行為です。
「個人の行為」の位置づけと「社会的事実」
次に、帰属処理で成立した行為を見ると「帰属処理されたものを更に帰属処理する」という選択接続の結果である場合が見出されます。個人の行為「として」帰属処理されたものが部署の行為「として」帰属され、それがさらには会社の行為「として」帰属されます。
行為の帰属処理が織りなす選択接続の連なりゆえに、市民が会社の責任を問い、会社が部署の責任を問い、部署が個人の責任を問うという具合に、帰責の選択接続が生じえます。行為の帰属処理にとって個人は最終単位で、個人がさらに自分の無意識の責任を問うのは許されていません。
かくして行為の帰属処理は、場合によっては入れ子式にもなりうる選択接続のネットワークを示しますが、この帰属処理の最終単位としてのみ、「個人の行為」を問題にできます。言い換えれば、「行為と言えば個人の行為だ」などと短絡してはいけないということです。
こうした行為を支える帰属処理のネットワークを踏まえることで、私たちは初めて、「個人の行為」の成立条件を問うジョン・L・オースチン(1911-60)流の発話行為論Speech Act Theoryを、社会システム理論との関連で、正確に位置づけ直すことができるようになるのです。
そのことを前提として、今度は「個人の行為」の成立条件を一般的に問うてみましょう。「個人の行為」は、発話行為であれ非発話行為であれ、「文脈」を参照しつつ「何か」を「それ以上の何か」として意味処理するところに成り立ちます。これは、モノ一般と同じです。
「文脈」を参照しつつ「何か」を「それ以上の何か」として意味処理することを、社会学者アルフレッド・シュッツ(1899-1959)は「類型化」と呼びます。古くはマルチン・ハイデガー(1889-1976)が、モノ一般が「それ以上の何か」として現象する様を「として構造」と呼んで、問題にしています。
「それ以上の何か」以前を「何か/文脈」に分けるのは単なる便宜で、それ自体が類型化に過ぎません。ですが、こうした便宜によって隣接学説との接続を図ることができます。オースチンの発話行為論、ノアム・チョムスキー(1928-)の生成文法論、シュッツの有意性構造論などです。
発話行為論は、「何か」として「発語」を取り出し、それが「状況=文脈」次第で異なる行為(発話)を帰結する様を定式化しました。それに従えば、チョムスキーの生成文法論は、「文脈」とは無関連な「発語」のシンタックス(統語規則)を定式化したものです。
文法的であったりなかったりする「発語」が、「状況=文脈」次第で異なる「発話」となるというのは、「馬鹿だな、お前は」というセリフが、状況次第で「侮辱」にも「愛情表現」にもなるという例で理解できます。「発話」としての値を「遂行性」と言います。
発話には「カラスは黒い」みたいに真理値が問題になる事実確認的なものと、「約束するよ」みたいに真理値を問題にできない遂行的なものがあります。後者は(実は前者も)社会内に約束行為という事実(前者なら記述行為という事実)を作り出す機能を持ちます。
彼は約束した、彼女は記述した、という事実は取り消せません。発語という「出来事」は消滅しても、発話という事実は「持続」します。だから約束には遵守/違背という行為の接続可能性が開かれ、記述には訂正/再確認という行為の接続可能性が開かれています。
因みに「出来事」の生成消滅とは別に、社会の中で取り消せない事実として意味的に「持続」するものをエミール・デュルケーム(1858-1917)は「社会的事実」と呼びます。社会システム理論で言う行為は社会的事実であり、発話行為論は、発話の社会的事実性を問題にしたのだと言えます。
こうした構造は非発話的な身体行為にも見出されます。物理的には同一の身体的接触が、「状況=文脈」次第では医療行為にも痴漢行為にもなりうる、つまり全く異なる社会的事実を帰結しえます。このことは刑法の「猥褻物実体主義」を批判する観点からも重要です。
発話行為が発語の文法性という条件を要するように、非発話的な身体行為も身体挙動の形式性という条件を要します。音楽を演奏するにしても赤子をあやすにしても、そうです。かかる形式性を実現するコストを修練や道具によって軽減することを「技術」と呼びます。
さて今しがた、同一の身体的接触が「文脈」次第で医療行為にも猥褻行為にもなりうる、と言いました。発語や身体挙動の形式性を低コストで制御する手段が「技術」だと言いましたが、それでは「文脈」の制御可能性は、いったいどれほど開かれているのでしょうか。
実は文脈もまた社会的事実――取り消せない意味的「持続」――としての側面を持ちます(正確にはそれを文脈と呼びます)。社会的事実としての文脈の中で特に問題になるのが、猥褻の例に出てくる「医者だ、教師だ」という役割です。次回は「役割とは何か」です。
◎――――エッセイ
浅井 隆
Asai Takashi
一九五四年生まれ。毎日新聞社の写真記者を務める傍ら、経済ジャーナリストとして活躍。その後独立し、「第二海援隊」を設立。著書に『国家破産サバイバル読本』(上下)など多数ある。
日本人よ、規範を取り戻せ!
最近、日本経済が上向きはじめたとはしゃいでいる人がいるが、目先のことばかりを見ていては、その後の対応を見誤ることになる。
いま、日本の公的債務はとんでもないことになっている。中央政府と地方自治体の借金に加えて、財政投融資や隠れ借金を加えると、公的部門の債務はすでに一〇〇〇兆円を超えている。歴史上、これほどまでの借金をした国はどこにもないはずだ。
このまま進めば、日本の破産は免れない。誰も日本国債は安全だとは思わなくなり、国債は暴落する。金利が高騰すれば、日本経済は失速し、株価も下がる。さらに外国人投資家の日本売りが始まり、円安が加速。国債、株、円のトリプル安になるだろう。
とはいえ、いますぐ日本が破産するわけではない。日本にはまだまだ経済力が残っているため、あと数年はなんとかやっていけるかもしれない。だが、日本は確実に破滅への道を突き進んでいる。
なぜ日本はこうなってしまったのか。それは、日本人が昔から持っていた最低限の規範を失ってしまったからだ。例えば、かつての日本人は、人の金を当てにして放蕩するのを恥じ、稼ぎの範囲で暮らしていくことを美徳としていた。ところが、太平洋戦争で、この規範がすっかり失われてしまったのだ。アメリカのことをろくに研究もせず、いったん戦争が始まると、ひとつの御旗の下にすべてを戦争へと駆り立てた。限られた資源を勝ち目のない戦争に費やしてしまった。いまの日本政府は、返済のめどが立たない国債の大量発行というかたちで、同じことをやっているにすぎない。
現在の日本は中途半端に経済力があるために危機感はない。生活に窮してまで国を立て直そうという者もいない。このままでは日本を変革することは期待できない。ならば、規範を持った人材を育てて日本を変えていくしかない。
そこで私は、明治維新の志士たちを育てたような「私塾」を開こうと考えている。二〇三〇年頃、日本は大きな変革期を迎える。年金は完全に破綻し、国民の不満は大爆発、社会が大混乱するなか、日本をどうすべきか根本から考えられる人材がいなければ、日本国は消滅する。しかし、逆に考えれば、日本の既成体制がすべて崩壊したあと、新しい日本を築ける人材がいれば、日本は再び繁栄の時代を取り戻すことができる。そのためには、いま規範を持った日本人を育てなければならないのだ。
◎――――連載6
メイクのカリスマが教える
できる男の「仕事顔」
かづきれいこ
Kazki Reiko
フェイシャルセラピスト。スタジオKAZKI主宰。傷ややけど痕などをカバーすることで心を癒す「リハビリメイク」の第一人者。知的障害者や老人ホームの方へのボランティア活動にも力を注ぐ。
ILLUSTRAION BY ASAMO
休日に着物を着てみよう!
「日本人はやっぱりキモノだなぁ」
温泉に行くと、いつもそう感じます。
ちりちりパーマのオバサンも、浜崎あゆみメイクの女子高生も、浴衣姿だとなんだか可愛く見えます。
女性だけではありません。茶髪の若者も、お腹の出たオジサンも、浴衣を着れば不思議とそれなりに「決まる」のです。
私のような美容の専門家の目から見ても、日本人の着物姿は、全身のバランスからいっても、顔と衣装の調和からも、男女とも「なかなかいいじゃないの!」という感じです。これが洋服だと「やっぱり西洋人にはかなわないわ……」と思ってしまうのですが。
ちなみに女性の場合、着物のときは洋服と違うメイクをすることが多いのですが、洋服のときと同じ現代的なメイクでも、じゅうぶん似合います。上にどんな顔を持ってきても、下が着物なら、だいたいOKなのです。
実はこれ、男性の場合も同じなんですよ。ちょっと想像してみてください。「ヒゲ+着物」「ハゲ+着物」「メガネ+着物」……。ね? どれも結構しっくりくるでしょう? 「長髪+着物」というのもなかなか悪くありません(坂本竜馬スタイルですね)。
こう考えると、着物という衣装の懐の深さというか、伝統の力というか、そういうものを感じてしまいます。
「なで肩で顔が大きく、ずん胴で重心が低い」という日本人の体型に合うのは、やっぱり洋服ではなく着物なんです。ちなみにこの日本人体型、洋服だから不利なのであって、着物なら理想的です。民族衣装なのだから当たり前ですけど。
だから私は、日本人はもっともっと着物を着るべきだと思います。イベントのときだけでなく、普段着としても。
たとえば、日本人の男性の骨格には、本来は背広は難しいのかもしれません。でも、「ビジネスマン+背広」の組み合わせは「制服」みたいなものですから、私たちはすっかり見なれていますし、着こなしも、それなりにこなれてきています。だから別に変ではないんです。
でも、休日スタイルになると話は別。Tシャツ、ポロシャツ、ジーンズ、チノパン、そして悪名高きゴルフウェア……どれも、「似合ってる!」「カッコいい!」と思える男性はごくごく一部です。私のメイク教室の生徒でも、「上司の私服姿を見て、あまりのダサさにガクゼンとした」と言っているOLさんが多いんですよ。
着物姿の男性はカッコいい!
ここはひとつ、時々着物も取り入れてみてはいかがでしょう。女性と違って帯の結び方も簡単ですし、難しいルールもありません。一着の着物を長く着ることができて、経済的にも実はおトク。それに、これからの季節は、風通しがよくて涼しく、気持ちがいいんです。こうした実利的なメリットはいろいろあるのですが、私が着物を推す最大の理由は「日本人男性がカッコよく見えるから」ということに尽きます。
最近では、古き良き日本文化が見直されつつありますよね。大ヒットした映画「ラスト サムライ」に出てきた日本人を思い出してください。渡辺謙さんや真田広之さんだけじゃなくて、老いも若きも、みんな素敵に見えたでしょう?
今度のサミットでは、小泉首相にもぜひ着物を着てほしいと思っている私です。

◎――――連載2
小説「後継者」
安土 敏
Azuchi Satoshi
◆前回までのあらすじ
食品スーパー・フジシロの創業者社長・藤代浩二郎が、提携先である大手スーパー・プログレスを訪問した帰りの車中で亡くなった。突然の訃報にゴルフ場から呼び戻された息子であり、常務取締役の浩介は、社長が残した最期の言葉の意味を計りかね、疑念を抱く。ゴルフ三昧だった浩介が経営者として成長するまで専務の守田が社長に就任することになる。社長が残した最期の言葉に隠されていた真実とは、何か。
第2章 欲惚け――(1)
1
株式会社フジシロの新社長に専務の守田哲夫が昇格し、常務だった藤代浩介が専務取締役営業本部長に就任すると発表されたのは、浩二郎急逝の10日後、2週間先の社葬で新体制をアピールできるぎりぎりのタイミングであった。
その翌日、フジシロ取締役堀越充三(開発担当)に、故藤代浩二郎未亡人の初子から電話がかかってきた。相談と頼みがあるから自宅に来て欲しいと言う。
S市高級住宅街にある藤代邸を訪問して、初子夫人に会うのは、堀越にとって、浩二郎の生前から珍しいことではない。そもそも約20年前に、この家を新築したときに、その采配をふるったのが、当時開発部の店舗設計担当だった堀越であり、それ以来、堀越は初子夫人の厚い信頼を得ていた。いわば、藤代邸の設計監理と維持改善の総合責任者であり、庭の芝の張り替えから住宅のメンテナンスまで、そのすべてを堀越が取り仕切っていた。
オーナー社長とはいえ浩二郎は公私混同のない人物だったから、それらの費用はすべてきちんと個人の財布から支払われていたのだが、堀越が、浩二郎の「私」のために奉仕したことは否定できない。結果的に、それは堀越に対する初子夫人の信頼という形に結実している。
「この度はとんでもないことで、お悔やみ申し上げます。お慰めする言葉もありません」
玄関で、改めて深々と頭を下げる堀越を居間に招き入れて、初子は、「本当にびっくりしたけれど、あの日から、ただただ慌ただしくて、忙しくて、何が何だか分からないまま、今日まで来てしまったんです」と言った。「今朝、はじめて自分自身に戻ったような気がします。そうしたら、あの人がいないと気づいたんです」
気を許せる人に会ったせいか、初子の両目に涙がいっぱい浮かんだ。
「何なりとお役に立つことがありましたら、お申し付けください」
夫人の涙に当惑した堀越の目にも涙が溢れた。
「ありがとうございます。堀越さんには、これからも、いままで以上にお世話になりますので、くれぐれもよろしくお願いします」
初子は、白髪が目立ち始めてはいるがきちんとセットされた頭を深く下げた。ゆったりした感じを与える、目鼻立ちのはっきりとした女性である。身体も大柄である。商家の娘で実家で店の手伝いをしていたというだけあって、フジシロの創業時代には店頭での仕事も上手にこなしたし、一時期、経理の仕事を受け持っていたこともある。身体を使っても頭を使っても、有能な女性だ。
「今日お越しいただいたのは、お願いがひとつと、ご相談というか、そういうことがひとつです。まず、お願いのほうですが」
初子は、準備してあった急須でお茶を淹れた。
「何とか息子の浩介を一人前の社長に育ててやってください」
「何をおっしゃいます。私のような若輩にできることではありませんが、私たち役員一同、そのつもりです。ご心配なさらないでください。ですが、どうして、今回、社長になられなかったのですか」
「まだとても無理です。藤代リリースの義兄からも、そういう趣旨の電話がありました。私も賛成ですし、天国のあの人も同じ考えだと思います。何というか、やる気というか、根性というか、そういうものが足りないのです」
「そうでしょうか」
そのとおりですとは言えないので、曖昧に答えたが、堀越も心底から、浩介の奮起を期待している。ゴルフ上手ばかりが有名なのではしようがない。
「とにかく、できる限りのことをさせていただきます」
関連する話から、堀越は、初子が社長になった守田哲夫に何らかの不安を感じているらしいと感じた。初子もはっきりと言葉にして言ったわけではなかったから、それが具体的に何を指すのかは分からなかった。息子の浩介を社長にしたいための理由付けとも考えられるが、反対に、だから浩介を、一日でも早く立派な社長にしたいのだとも解釈できた。
「もうひとつの件は、あの人がプログレスからの帰りの車のなかで、『よくボケた』と言っていたという話についてです」
「それから、『悪魔がひとり』です」
「その悪魔のほうは分からないのですが、私は、その話を聞いたときに、初めの言葉は、『よくボケた』ではなく『欲惚けだ』じゃないかと思ったんです。この言葉、最近あまり使われませんが、商人の間では、昔よく使われた言葉で、特にあの人は、口癖みたいに『商人にとって一番みっともないのが、欲惚けだ』と言っていました。欲に目がくらんで儲けようとし過ぎて、判断を誤ることです。何か、そういうことがあったんじゃないでしょうか」
「欲に目がくらんで判断を誤ったこと?」
一体、主語はだれだ?
前後の事情から判断して、プログレスの山田会長か、浩二郎のどちらかだ。プログレスとフジシロとの間の懸案と言えば、共同出店の話だけだから、プログレスの山田会長が欲惚けしたというなら、共同出店の家賃を異常に高く設定してきたというようなことだ。しかし、それが浩二郎の脳出血を招くほどのショックだろうか。
浩二郎が共同出店に関して欲惚けしたというのなら、どういうことだ?
「おっしゃるとおり、欲惚けのほうが状況的にぴったりです。ただ、意味は分かりません。よく考えてみます。いろいろな可能性がありそうです。大変参考になりました」
堀越は、宿題をもらったような気になって、藤代邸を辞した。
2
夕方、会社に戻った堀越の席に、開発部の重成(しげなり)大五郎が忍び寄ってきた。重成は名前が冗談であるかのような小男で、目や鼻など顔の造作がそれぞれ独立しているような不思議な顔をしている。このユニークな外見が、飛び込みでサイト候補地の地主を口説くのに有利に働くようで、開発部にはなくてはならぬ人物だ。歩き方も独特で、猫のような忍び歩きをする。いまも、堀越の耳のすぐ近くで、いきなり声がした。
「守田社長になってから、物事が決まらなくて、皆、困っているようです」
「何だ。君か。当たり前だろう。ついこの間まで社長になるなんて思ってもいなかったのだから、いきなり、どんどん物を決めろと言われても無理だ」
堀越は重成をちらりと見て、不機嫌な声を投げ返した。
「確かに。まさか、カゲロウがオニヤンマになるとは思っていませんでしたものね」
「オニヤンマか」
堀越は苦笑いした。
今度社長になった守田哲夫は、重成の命名によってカゲロウと呼ばれている。創業者の藤代浩二郎のそばに侍(はべ)ること四十数年。永遠に陰の存在だから陰郎、つまりカゲロウのはずだった。それが浩二郎の突然の死によって、社長すなわちオニヤンマになった。本人はもとより、死んだ浩二郎だって、まさか守田が自分の跡を継いで社長になるとは想像もしていなかったに違いない。
「芝虫・ジュニアが社長になるよりはましでしょう」
「あまり大きな声を出すな」と堀越が声を潜めた。
芝虫とはゴルフ狂の意味である。
ただし、重成に言わせると、シバンムシという虫が実際にいるという。死番虫と書く。乾燥した植物を餌にしている甲虫の一種で、家の中にもよく住み着く。鉢植えの木が枯れたのをそのままにしておいたりすると、たくさん湧いてきたりする。名前の示すとおりあまり縁起のよくない虫だが、ゴルフ場の芝を餌にして生きている虫、つまり「芝ン虫」だと、これもまた、重成が藤代浩介につけた渾名(あだな)である。そんな虫のことはだれも知らなかったが、「芝虫」という語感が浩介にぴったりだということになって、使われるようになっている。
重成は、ある晩、本部のそばの飲み屋で仲間と一杯やっているうちに、本部の役職者たちを虫に譬(たと)え始めた。総務人事担当常務の小笠原誠一をカマキリと呼んだのが馬鹿受けしたので、調子に乗った。30分もするうちに、フジシロ本部の主要な管理職たちには、すべて虫の渾名がついた。ちなみに、創業者浩二郎はオニヤンマ、堀越はテントウムシだそうだ。益虫に譬えられた堀越は悪い気がしなかったから、人間の心理は不思議である。
重成は、私立大学で生物を学んだのだが、学校の専攻とはあまり関係のないスーパーフジシロに就職して十数年になる。いまは古手の課長というところだ。
「でもカゲロウが本当にオニヤンマになれるでしょうか。無理ですよね。芝虫よりましだと言っても、所詮、社長の器ではありません。フジシロも、これで終わりでしょう」
「いい加減にしろ」
小声だが強い口調で窘(たしな)めたが、堀越自身も、フジシロの明日が心配である。だが、それ以上に、当面、自分の担当している開発業務が、これからどういうふうになっていくのかがもっと気がかりだ。
開発業務、つまり、どこにどんな店を出すかということは、事実上、浩二郎社長の専決事項だった。手続き的には、月一度の役員会に付議されるのだが、それはすでに決定したあとの報告に過ぎず、すべて堀越が提案して浩二郎社長が決めてきた。だから、浩二郎の死は開発担当の堀越にとっては、仕事の中心を失ったようなショックだった。
実際、早速、問題が起こっていた。
浩二郎が死んだ翌日のことだ。N市中町の物件について、その日が、地主に意思表示をする期限だったので、堀越は、早速、どう仕事を進めたらいいかについて迷ってしまった。その時点で後継社長にだれがなるか分からなかったから、とりあえず社長を代行すると思われた守田専務に相談に行った。その守田がどうにも煮え切らないのである。
さんざん堀越の説明を聞いたうえで、「少し考えさせてくれ」と言う。
「今日、かならず最終決定を伝えると約束してあるんです」と堀越が説明したが、「そんなことを言っても、急には無理だ」と守田は言う。
「本件をお聞きになっていませんでしたか」と尋ねると、「藤代社長からは聞いていたよ」と言う。「それなら」と迫ると、「いや、一応説明は受けていたということだ。ちょっと考えさせてくれよ」と堂々巡りになる。
まさに、たったいま重成が言ったとおり、物事が決まらないのだ。
結局、地主には、創業者オーナーが急逝したからちょっと待って欲しいと言ったのだが、オーナーの死という事実と相まって、これは大きな失点だったように感じる。このサイトはスーパー・マルニシと激しい取り合いになっていたから、多分、これでフジシロの線はなくなってしまっただろう。(つづく)
◎――――エッセイ
石原 明
ISHIHARA Akira
経営コンサルタント。日本経営教育研究所代表として、講演活動、執筆、企業幹部教育などで活躍中。
著書に『営業マンは断ることを覚えなさい』『気絶するほど儲かる絶対法則』など多数。
会社を大きくするお金の使い方
――中小企業の成功法則
投資には順番がある
会社が成長していくためには、適切なところに適切なお金を使えるか、まとまったお金を投資できるかという経営者の決断がすごく重要です。
お金の使い方には順番があります。最初が宣伝広告、それから人の採用、最後がシステム化です。この順番でお金をきちんとかけると、会社は急激に大きくなります。
これがわかっている会社の社長は、六、七年で会社を大きくします。うまくいけば、上場手前ぐらいまでは会社をもっていくことができます。ところが、それがわかっていない社長はすごく真面目にやっていても、二五年ぐらいかけてようやくそこまでいけるかどうかです。その差は、お金の使い方のポイントがわかっているかどうかにあります。
お客の入口を探る――宣伝広告
なぜこの順番かというと、やはり会社は儲けなければなりません。そのためには、まずお客さんに来てもらわなければならないので、PRや集客のためにお金を使う必要があります。
宣伝広告の最初は、お客の入口を探すためにお金を使います。自社の商品を売りたいというときに、まずお客がどこにいるかを見つけなければなりません。たとえば、広告を打つ新聞の読者が自社のお客の対象かどうかを知るために、最初は探りを入れるような広告の出し方をするのです。もちろん広告自体の中身も、当たるか当たらないかわからないわけですから、ここはかなり重要です。
小さなお金で真剣にやっていきます。一〇万円かけたら、一〇万円以上回収できるような場所を探すわけです。一生懸命探していくと、そのうちどこかに入口が見つかるものです。たとえば一〇万円かけて一〇〇万円儲かったとか、予想以上にお客さんが来たとか、売上が上がったとなったら、入口がそこにあります。入口が見つかったら、そこに収益を全部注ぎ足していきます。儲かったら宣伝、また儲かったら宣伝。この繰り返しです。たとえば、あるキャッチコピーを使って効果があれば、そのキャッチを使って広告できるところをどんどん広げていって、収益を上げていく。この度胸が肝腎です。宣伝広告というのは面白いもので、三カ月前にうまくいった宣伝を、もう一回同じところへ出してもお客がいるかどうかはわからないので、速さが勝負です。
宣伝広告は、もうこれ以上お金をかけなくてもいいという段階に割と早く達してしまいます。この業界に対して売るんだったら、この雑誌とあの雑誌、あとはこの新聞に載せれば十分だということがわかってきます。
ここまで来れば、それらの媒体には宣伝広告を続けますが、新規の宣伝広告は打ち止めです。
新卒採用を三年続ける――人の採用
次に、儲かったお金をどこへ投資するかというと、人の採用です。人を採用するためには、人が来やすい組織をつくっておかないと人が集りません。ですから、まずは会社の環境整備をして、魅力的な形に会社を変えることが重要です。いま働いている人たちが働きやすい環境をつくらなくて、あとからいい人が来るわけがないのです。
そうしておいて、とくに採用については、お金をかけて新卒の採用に早く切り替えていく必要があります。三年続けて新卒を採用すれば、会社は変わります。中小企業にどうして優秀な新卒が来ないかというと、実は来ないと思い込んでしまっているのが大きな原因です。それに、学生に対して情報を出していないので、学生は知りようがありません。本来は、少なくとも学生が就職活動をしたときに、すでに認知されている一社になっていなければなりません。だからこそ、なるべく三年かけて、そこへ自社の位置をもっていくようなお金の使い方をすることが重要です。
参入障壁をつくる――システム化
最後はシステム化です。コンピュータのソフトと人も絡めたシステムに対して価値のある投資をどれぐらいできるか。他社が入ってこられない参入障壁をつくってしまうことを考えます。
システム化を設備投資だと考えられる社長は成功します。これは多額の投資となるため社長の決断が試されるものです。私の知っている運送会社、印刷会社の例では、数千万円を投じて新しいシステムを導入し、今やその市場では一人勝ちの状態のところがあります。
以上、会社のお金の使い方には三つの順番があることを説明してきましたが、仮にも自社が大きくなることで世の中のプラスになりたいというような目標を掲げている会社であれば、そうなるようなきちっとしたお金の使い方をされることをお勧めします。
◎――――連載30
●連載エッセイ ハードヘッド&ソフトハート
佐和隆光
Sawa Takamitsu
一九四二年生まれ。京都大学経済研究所所長。専攻は計量経済学、環境経済学。著書に『市場主義の終焉』等。
「思想」なき経済学者の悲喜劇
いち早く「制度化」されたケインズ経済学
「科学の制度化」という言葉がある。科学が職業化され、教科書化され、査読制度付きの専門誌が刊行され、そしてその有用性が社会的に認知されることが、「科学の制度化」のための必要条件である。私が経済学を学び始めたころ、すなわち一九六〇年代半ばごろまでの日本では、経済学は「制度化」に程遠い状況にあった。査読付きの専門誌は一誌しかなかったし、たとえば「経済理論」という科目の講義内容は、先生によってまちまちだった。言い換えれば、標準的教科書というものが存在しなかった。また、ほとんどの大学の経済学部の教員はマルクス経済学者だったため、政府にとって経済学は、有用どころか有害無益であった。
一九六四年、「所得倍増計画」の見直しのために「中期経済計画」が策定された。この計画策定に当たり、三二本の方程式から成る計量経済モデルが援用された。私の知るかぎり、経済学が「有用」であることが社会的に認知されたのは、これが最初のことだった。ちょうど大型・中型の電子計算機が出回り始めた時期に当たっていたこともあって、計量経済モデルの構築は、官庁、銀行、シンクタンクなどで大流行となった。経済企画庁(当時)に経済研究所が附置され、計量経済分析を主たる研究テーマに掲げるようになった。そして一九七〇年代末から八〇年代前半にかけて、経済企画庁経済研究所は世界モデルの構築という一大プロジェクトに取り組んだ。為替レートを予測するには、各国経済の相互依存関係を明らかにしなければならないという理由からだ。だが、当然といえば当然な話ではあったが、その後、世界モデルは戦艦大和さながらに沈没の憂き目を見た。
計量モデルに限らず、ケインズ主義的なマクロ経済学の有用性は、比較的早くから、社会的認知を授かっていた。マクロ経済のインプットである公共投資、公定歩合、税率などの政策変数を操作することにより、アウトプットとしての経済成長率、物価上昇率、失業率、貿易収支などを自在に操作する。こうした工学的発想は、日本人にとってとても馴染みやすかった。その半面、市場の力学を物理学のアナロジーとして解き明かそうとする新古典派ミクロ経済学の「有用性」が認知されるようになったのは、八〇年代に入ってからのことだった、と少なくとも私は考える。
水面上に浮かぶ「理論」と水面下に潜む「思想」
一九七〇年代後半に入ると、政府の各省庁、日本銀行、政府系金融機関なども、相次いで「経済研究所」を設けるようになった。実際問題として、これらの研究所は、所属省庁・企業の「弁護士事務所」の役割を果たすにすぎなかった。つまり、政府省庁が経済研究所を設置して、大学に所属する経済学者を「客員主任研究官」といった肩書きで雇い入れるのは、自省庁の政策を経済学者に「正当化」させようとのねらいのためであった。
もともと経済学とは、水面上に浮かぶ「理論」と水面下に潜む「思想」とが連動して成り立つ学問である。したがって、たとえば、市場を万能視する新古典派経済学と、市場は「不完全」なことを前提とするケインズ経済学は、どちらかが正しくて、どちらかが誤っているというのではない。ところが、それぞれの理論を前提に据えれば、ほとんどあらゆる経済問題に対して、ほぼ正反対の処方箋が書かれる。いかなる経済政策であれ、だれかを利し、だれかを害するのが常である。言い換えれば、すべての人をハッピーにする経済政策はあり得ないのだから、経済政策の選択、したがって経済学の選択は、「だれを利するのが望ましいのか」という、「思想」に基づく判断によって決まるのである。
日本の経済学者の多くは、経済学を客観的かつ普遍的な「科学」だと思い込んでいる。要するに、水面上の「理論」にしか関心がなく、水面下に潜む「思想」には無頓着なのである。各省庁が経済研究所を創設し、そこに経済学者を招じ入れるのは、都合の良い処方箋を書かせるためである。その意味では、経済学を水面下で支える「思想」の何たるかを、官僚たちのほうが、よくわきまえているというべきなのかもしれない。
二〇〇一年一月、森内閣のもとで経済財政諮問会議が設けられ、民間人委員のなかに二名の経済学者が加わった。それはそのまま同年四月に誕生した小泉内閣にも引き継がれた。少なくとも表向き、この会議はアメリカの大統領経済諮問委員会並みの力を持つはずなのだが、どうもこの二つは似て非なるもののようである。
アメリカの大統領経済諮問委員会は、一九四六年に創設された。大統領に経済政策に関わるアドバイスをすると同時に、「大統領経済白書」の取りまとめに当たる、委員長と委員二名で構成された権威ある委員会である。大統領が代われば、委員会のメンバーも変わる。ここで理解しておくべきことは、アメリカ人の経済学者の多くは、日本の経済学者のように、経済学を客観的かつ普遍的な「科学」だと信じ込んでいたりはしないということだ。共和党の支持者であれば、新古典派経済学ないしその亜流にくみしており、その結果、「小さな政府」を望ましいとする「思想」のもと、各種規制の緩和・撤廃、官業の民業への移管を唱導する。
さて、ケインズ経済学のエッセンスを要約すれば、市場は不完全(価格は硬直的であり、市場には摩擦がつきものであり、家計や企業の将来予測は誤ることが多い等々)なため、失業という不均衡、景気循環という不安定は避けがたい。不均衡を取り除き、経済を安定化させるためには、財政金融政策を弄しての政府の市場介入が必要にして不可欠である、となる。こうしたケインズの教えを真に受けたマクロ経済学者たちは、経済をあたかも「機械」になぞらえ、その操作可能性に絶大な信頼を置くようになった。まさに経済学は、「社会工学」と解されるようになったのである。
社会工学の実践のためには政府の歳出は増大せざるを得ない。「小さな政府」を目指す保守派経済学者にとってみれば、困ったことである。そこで、彼らの脳裏にふとひらめいたのは「市場が不完全だからこそ、政府は大きくならざるを得ないのだ」という、ケインズを逆手にとった命題だった。だとすれば、市場を「完全」なものに近づけてやれば、政府は小さくてすむはずだ。それでは、なぜ市場は不完全なのか。その最たる理由は、政府の規制である。たとえば、最低賃金法という法律が名目賃金の下方硬直性の原因である。その他、政府のやるべきでない(民間企業に委ねるほうが、費用対効果の観点から望ましい)ことを、政府はやりすぎている。――以上のような「思想」にくみする経済学者が、レーガン政権下のアメリカで、サッチャー政権下のイギリスで、そして小泉政権下の日本で重用された。
経済学者よ実務家の奴隷となるなかれ
経済社会の良し悪しを評価する際には、「効率」と「公正」という二つの価値規範がある。新古典派経済学者は、圧倒的に効率に重きを置く。民業は官業よりも効率的なのだから、プライバタイゼーション(民営化)を推し進めるべきだという。効率化を推し進めれば、経済成長は高まる。その恩恵は最貧層にもトリックル・ダウンする(滴り落ちる)のだから、公正をないがしろにするわけではない、と彼らはいう。また、生産性の低い(限界生産力が賃金に満たない)労働者には、働いてもらう必要がない。政府が用意するセーフティネット(安全網)の上で惰眠をむさぼってもらうほうが効率性という観点からは望ましい、とする。
公正を重んじるのは、ケインズ経済学者の側である。もともと彼らは、社会主義へのアンビバレンス(愛憎共存感情)の持ち主であり、それゆえに社会的弱者への思いやりの情が厚い。単純化していえば、彼らは累進所得税制と福祉による所得再分配を重んじ、また、財政金融政策を駆使しての政府の市場介入を必要不可欠だと考える。
一九七三年にオイルショックに襲われるまでの先進国経済は、いずれも成長率が高く、ゆえに税の自然増収が期待できたし、政府を自在に大きくすることができた。また、のちに公共事業のバラマキと批判されるようになる「国土の均衡ある発展」を批判する向きも少なかった。公共事業は国会議員の地元への利益誘導の方便とされるようになり、費用対効果、必要性の吟味などがおろそかにされていった。だが、高度成長期の終焉とともに、肥大化した政府の贅肉落としは不可避とされるようになり、ケインズ経済学に対して、四方八方から批判の刃が手向けられるようになった。
クリントン政権下で経済諮問委員会委員長を務めたプリンストン大学のアラン・ブラインダー教授は、今日的なケインズ主義者である。つまり、「思想」としてのケインズ主義を堅持しつつ、その政策においては、旧いケインズ主義の枠組みから抜け出している。欧州の中道左派政権を支持する経済学者もまた、「思想」としてのケインズ主義を堅持しつつ、財政の均衡に配慮した政策を、そして民営化のみならず、地方自治体やNPOへの権限委譲を図ることにより、費用対効果を高めることを唱導している。
日本の経済学者の多くは、「思想」から自由な「科学者」を自認しており、時の政権に重用される経済学者は、事実上、頭脳明晰な点で彼らを上回るキャリア官僚に牛耳られているのが偽らざる実状である。日本の行政の基本は「はじめに結論ありき」である。「結論」を決めるのは、与党政治家の圧力、産業界の圧力である。となると、政府が重用する経済学者は、「思想」なき「科学者」でなければならない。「思想」がないからこそ、どんな結論でも正当化することができるからだ。本来、結論の正当性を評価する際の基準となるのは「思想」なのである。言い換えれば、「理論」の導く結論は、必ずしも一義的ではなく多義的である。だからこそ、経済学者は何事をも正当化しうる弁護士の役割を果たせるのである。
かつてケインズは「どのような知的影響からも無縁だとみずから信じている実務家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である」と書いた。「理論」しか見ない「科学者」気取りの日本の経済学者は、実は政治家、官僚、産業界の「奴隷」なのである。
◎――――連載6
泉ゆきを
Izumi yukio
1938年生まれ。コミックモーニングに「宅配猫の寅次郎」を掲載し注目を集める。第25回日本漫画家協会賞先行委員特別賞、第19回読売国際漫画大賞近藤日出造賞ほか多数受賞
疲れる前に休もう

編集後記
キャリアアップを支援する情報誌が続々発売!
ダイヤモンド社が以前から力を入れている分野の一つに、キャリア開発情報があります。資格取得やリカレント教育、語学修得などに関する雑誌類を手がける部署が、弊社メディア開発編集部です。
現在発売中の「社会人の大学・大学院完全ガイド」(ダイヤモンド・セレクト7月号)の特集は、「仕事を辞めずに大学・大学院に行こう」です。先行き不安なこの時代に、会社を辞めて学校に入り直すのは覚悟が要りますが、最近の大学・大学院は社会人受け入れに積極的で、働きながらでも夜間と土曜の授業だけで修了できるコースが増えています。キャリアアップをお考えの方は、ぜひご一読を。
続く7月5日には「法科大学院合格ガイド」が発売。こちらは、会社勤めしながらという訳にはなかなかいかないようですが、社会人出身者が法科大学院入学者の約半数に及ぶのも事実です。一念発起、法曹の道を目指してみてはいかがですか。 (田上)
マーケティング局より……
自分の楽しみのために楽器を吹き始めて一〇年あまり。吹いているのは一八世紀のフルート(ただし、もちろんレプリカ)です。機械を用いての楽器製作技術が格段に上がった今日にあっても、当時、どのように作っていたのか想像すらできない精緻な楽器には吹く者の心を掴んで離さない不思議な魅力があります。案外、人の心は今も昔も大きく変わっていないのかもしれません。
桜が花開き始めて間もない今年の春分の日、都内のホールでは三一九年前のこの日に生を受けた音楽家の作品が奏でられました。三〇〇年もの時を超えて受け継がれ続ける美しい響きに心洗われる思いがしました。私共が日々お届けしている書籍・雑誌も多くの読者の皆様に読み継がれてきました。そして、これからも時代を超えて読み継がれ続けて欲しい。ホールに鳴り響いた美しい調べに思いを馳せつつの家路となりました。 (徳冨)
編集室より……
次号から編集長が木田康彦に代わります。創刊以来三二号、ありがとうございました。今後ともご愛読のほどを。
五月一〇日に経済史家の大石慎三郎さんが逝去されました。本誌にも二回登場し、近世経済史を斬新な角度から描いてくれました。一九九九年には連載をまとめた『江戸の奇跡』が小社より刊行されています。九三年に「週刊ダイヤモンド」へ連載していただくため、この碩学に学習院大学で初めてお目にかかって以来一一年間、精神的な恩師でありました。江戸のデフレ問題や金融市場の姿など、驚くべき史実を大石さんの著書で初めて読んだのは一七歳でしたから、三〇年以上の読者でもあります。今夜は名作『近世日本社会の市場構造』(岩波書店、七五年)を読み返しながら、ご葬儀も公開されず、静かに降壇した偉大な歴史家のご冥福をお祈りすることにします。 (坪井)
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