August 2006
August 27, 2006
成田空港の歴史(なつやすみ特別企画第二弾)
さて、今回は成田空港の歴史についてお話しましょう。
昭和30年代半ばごろ、そろそろジェット機が
旅客機の主役になってきた頃です。
羽田の東京国際空港だけでは、昭和45年ごろには
需要で満杯になってしまうとの報告がされました。
羽田空港の拡張は、当時の土木技術では難工事になること、
東京湾の船舶航路をふさぐ恐れなどが指摘され、
また拡張できたとしても、
今後さらに増加する需要には対応できないとされました。
そこで新空港を東京から100km圏内に建設することになりました。
新空港の規模は、滑走路を5本も有し、
当時最先端の航空機だったコンコルドが離発着できるよう
長さも4000m級が3本も予定されていました。
敷地面積は2300ヘクタール。
よく言う東京ドーム何個分、という表現だと、
500個は優に入ってしまう大きさになります。
現在の成田空港のほぼ倍の規模と言えばわかりやすいですね。
当時の運輸白書から、画像を拝借してみましょう。

…この規模はまるでアメリカ?とでも言いたくなります。
さて、候補地も絞られました。
管制空域や、敷地の関係で最終的に
千葉県浦安沖(当時まだディズニーリゾートのあたりは海)、
茨城県霞ヶ浦(今の阿見町〜美浦村近辺のようです)、
千葉県富里村周辺(現在の富里市。成田市の隣です)、
この3つが最後まで残りましたが、
富里案以外は羽田でも問題となった埋め立てを必要とし、
周辺の空港(浦安だと羽田、霞ヶ浦だと航空自衛隊百里基地)との
空域の干渉も問題となり、
富里案が現実的だとして動き始めました。
しかし住民に空港建設を打診したところ、猛反発。
まあそりゃ誰だって、「空港を作るから出て行け」と言われれば
怒って当然なのかもしれません。
しかもこの地域は戦後満州などからの引揚げ者が多く住んだ土地。
ようやく手に入れた安住の地を、脅かされてたまるかという
ごくごく当たり前の理由によるものでした。
仕方なく、当時皇室財産として持っていた、
「下総御料牧場」を中心とした、成田市三里塚近辺を予定地とし、
規模も当初の半分、1060ヘクタールで滑走路3本、
おおよそ現在の成田空港の原型がここに出来上がりました。
とにかく、大きさよりも空港の存在そして航空需要をさばくことが
最優先でしたから、仕方のない判断といえます。
昭和44年、用地買収が進む中での計画図です。

もう、ほとんど現在の成田空港の形になりました。
滑走路の話でお話したとおり、
成田の気象観測が行われ、滑走路の向きについては
風向きなどの気象条件を考慮して決められています。
季節風の方向にあわせた2本の滑走路と、
北東や南西の風にも対応できる横風滑走路から成り立ちます。
しかし、ここからがうまくいかなかったのです。
折りしも昭和40年代の日本は学生紛争に代表されるように、
保守的な考え方に反抗する左翼主義的なムードが漂っていました。
この成田空港建設もそんな運動家たちに目をつけられ、
やがて「非常時には米軍の基地となり、
日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」
「同じ地平を攻撃するための日本の軍事要塞化につながる」
「すなわち成田空港があると、日本は軍国主義化する」
根も葉もない彼らの言い分に農民も同調してしまいます。
土地買収に応じないのならば仕方ないのですが、
他の建設地の邪魔をしたり、
滑走路の延長上に鉄塔を作ってしまったりと、
実力行使に打って出てきたのです。
警備隊との衝突もたびたびで、
中には警備隊を待ち伏せして襲う事件も発生し、
さまざまな衝突の結果、警官3人、学生1人が亡くなっています。
結局、なんとか力ずくで1本目の滑走路を作るのが精一杯でした。
これでも、開港直前に反対派が管制塔に侵入、
機器を破壊するという騒ぎがあり、
開港が2ヶ月遅れ、世界にさらに恥をさらしてしまったのです。
開港は1978年(昭和53年)5月20日でした。
また、いくつかの問題も残っていました。
たとえば、航空燃料を輸送するパイプラインの問題です。
今は千葉港から伸びるパイプラインで燃料が運ばれていますが、
当時はJR(国鉄)を使い、千葉港や鹿島港から
成田市土屋の建設資材取卸し場まで運び、そこから空港までを
パイプラインで流すという無駄な方法がとられていました。
パイプラインを作る土地も確保できなかったのです。
ちなみに昭和58年にパイプラインは完成し、
土屋の取卸し場の広大な跡地には、
やがてイオンショッピングセンターが出来るなどしています。
そのほかに、旅客を運ぶ鉄道の問題がありました。
当時、空港への鉄道は京成鉄道のみ。
しかも駅は、現在の成田空港駅の位置ではなく、
現在「東成田駅」と呼ばれている、知る人ぞ知る駅です。
簡単に言うと、1期工事で完成した
第1ターミナルとは500m程度離れています。
不便でした。
「国鉄成田新幹線」を作る構想が別にありましたが、
千葉県内のみならず都内でも用地が買収できず、
計画が頓挫したのです。
この新幹線の名残が、現在のJR京葉線の東京駅地下ホームになり、
また、千葉ニュータウンへ伸びる北総鉄道になります。
現在も、北総鉄道の横には幅100m近く無駄な敷地があり、
新幹線が通るはずだったことを身近に感じさせます。

(写真は千葉ニュータウン中央駅周辺。
駅の北側の土地が空き地のままです。)
ちなみに、この新幹線のための線路を利用したのが、
今のJRや京成の空港第2ビル、および成田空港駅なのです。
1991年に利用開始となりましたが、開港からほぼ13年間、
京成の東成田を使わなければならなかったのです。
このとき、成田エクスプレスの運行も開始されました。
成田空港の不便さを見かねた当時運輸大臣の石原慎太郎氏の
鶴の一声で、成田新幹線は在来線に姿を変えました。
現在、成田新幹線の計画が完全に消滅したわけではなく、
北総線を延長して成田空港までつなぐ、
成田新高速鉄道線が予定されています。
2010年開業を目指し、現在工事が進んでいます。
完成すれば、京成スカイライナーがこちらを経由することになり、
最速で36分で上野から空港を結ぶとのことです。
さて、1期工事を完成した成田空港ですが、
その間にも航空需要はさらに増え、
2期工事を行い成田空港を完成させる必要がありました。
そこで2期工事が始まり、
現在の空港第2ターミナルや、B滑走路の建設を進めました。
ここでまた脱線になってしまいますが、
通常、このような公共施設の建設において、
土地の買収がうまくいかない場合、
土地収用法に基づいて、都道府県の収用委員会が、
適正な手続きで土地を収用します。
成田空港建設の際にもこれが機能していました。
しかし、1988(昭和63)年、左翼活動家たちが、
この収用委員会の会長を襲撃し、
会長が瀕死の重傷を負うという事件が発生。
収用委員会のメンバー全員が襲撃を恐れ辞めてしまい、
収用委員会が事実上機能しなくなってしまいました。
以後16年間、2004年12月まで千葉県には
収用委員会がない状態が続きました。
このため、成田空港の土地収用はもちろん、
高速道路や鉄道建設の際にも土地が収容できず、
千葉県の交通行政に大きな影を落としています。
一例としては東京外環道路の三郷〜市川間の未開通、
つくばエクスプレスなど鉄道建設の遅れがあります。
さて話を戻すと、
第2ターミナルは1992年に完成、開業し、
第1ターミナルは半分(北ウイング)を閉鎖して、
改良工事に入ります。
このため、ほとんどの航空会社は2タミを使うようになりました。
この時代、1タミを使ったことがない人がほとんどかと思います。
北ウイングの工事が終わると、
すぐに南ウイングが閉鎖、工事開始となりました。
また、二本目の滑走路建設も本格化します。
90年代には左翼活動も下火となり、
住民代表との円卓会議も成功。
買収できる土地が増えました。
おかげで二本目のB滑走路も、
2002年日韓ワールドカップにあわせようやく暫定的ですが完成。
第1ターミナルも、ショッピングモールを備えた中央ビルを
新たにオープンさせます。
2004年4月1日、新東京国際空港公団が民営化し、
成田空港株式会社に名称変更。
教科書で教える正式名称も、この日から
「成田国際空港」になりました。
(これ、以外に知られていない事実です)
そして皆さんご存知のとおり、
1タミの南ウイングも改良工事を終え、
2006年6月1日にオープン。
ANAをはじめとするスター・アライアンスの航空会社などは
いっせいに1タミへ移動しました。
今度は2タミが工事をする番というわけです。
(これは免税店のお話のときご紹介済みですね)
今後は、B滑走路の2500m化、そして横風用滑走路の完成を
目指すばかりとなりますが、
まだまだ未買収地は残っています。
また、今後更なる航空需要の拡大に対して、
成田空港の更なる拡張も必要となるかもしれませんし、
検討中の首都圏第三空港のこともあります。
今後成田空港はどういう方向へ向かうのか。
誰の目にもまだ見えないようです。
昭和30年代半ばごろ、そろそろジェット機が
旅客機の主役になってきた頃です。
羽田の東京国際空港だけでは、昭和45年ごろには
需要で満杯になってしまうとの報告がされました。
羽田空港の拡張は、当時の土木技術では難工事になること、
東京湾の船舶航路をふさぐ恐れなどが指摘され、
また拡張できたとしても、
今後さらに増加する需要には対応できないとされました。
そこで新空港を東京から100km圏内に建設することになりました。
新空港の規模は、滑走路を5本も有し、
当時最先端の航空機だったコンコルドが離発着できるよう
長さも4000m級が3本も予定されていました。
敷地面積は2300ヘクタール。
よく言う東京ドーム何個分、という表現だと、
500個は優に入ってしまう大きさになります。
現在の成田空港のほぼ倍の規模と言えばわかりやすいですね。
当時の運輸白書から、画像を拝借してみましょう。
…この規模はまるでアメリカ?とでも言いたくなります。
さて、候補地も絞られました。
管制空域や、敷地の関係で最終的に
千葉県浦安沖(当時まだディズニーリゾートのあたりは海)、
茨城県霞ヶ浦(今の阿見町〜美浦村近辺のようです)、
千葉県富里村周辺(現在の富里市。成田市の隣です)、
この3つが最後まで残りましたが、
富里案以外は羽田でも問題となった埋め立てを必要とし、
周辺の空港(浦安だと羽田、霞ヶ浦だと航空自衛隊百里基地)との
空域の干渉も問題となり、
富里案が現実的だとして動き始めました。
しかし住民に空港建設を打診したところ、猛反発。
まあそりゃ誰だって、「空港を作るから出て行け」と言われれば
怒って当然なのかもしれません。
しかもこの地域は戦後満州などからの引揚げ者が多く住んだ土地。
ようやく手に入れた安住の地を、脅かされてたまるかという
ごくごく当たり前の理由によるものでした。
仕方なく、当時皇室財産として持っていた、
「下総御料牧場」を中心とした、成田市三里塚近辺を予定地とし、
規模も当初の半分、1060ヘクタールで滑走路3本、
おおよそ現在の成田空港の原型がここに出来上がりました。
とにかく、大きさよりも空港の存在そして航空需要をさばくことが
最優先でしたから、仕方のない判断といえます。
昭和44年、用地買収が進む中での計画図です。
もう、ほとんど現在の成田空港の形になりました。
滑走路の話でお話したとおり、
成田の気象観測が行われ、滑走路の向きについては
風向きなどの気象条件を考慮して決められています。
季節風の方向にあわせた2本の滑走路と、
北東や南西の風にも対応できる横風滑走路から成り立ちます。
しかし、ここからがうまくいかなかったのです。
折りしも昭和40年代の日本は学生紛争に代表されるように、
保守的な考え方に反抗する左翼主義的なムードが漂っていました。
この成田空港建設もそんな運動家たちに目をつけられ、
やがて「非常時には米軍の基地となり、
日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」
「同じ地平を攻撃するための日本の軍事要塞化につながる」
「すなわち成田空港があると、日本は軍国主義化する」
根も葉もない彼らの言い分に農民も同調してしまいます。
土地買収に応じないのならば仕方ないのですが、
他の建設地の邪魔をしたり、
滑走路の延長上に鉄塔を作ってしまったりと、
実力行使に打って出てきたのです。
警備隊との衝突もたびたびで、
中には警備隊を待ち伏せして襲う事件も発生し、
さまざまな衝突の結果、警官3人、学生1人が亡くなっています。
結局、なんとか力ずくで1本目の滑走路を作るのが精一杯でした。
これでも、開港直前に反対派が管制塔に侵入、
機器を破壊するという騒ぎがあり、
開港が2ヶ月遅れ、世界にさらに恥をさらしてしまったのです。
開港は1978年(昭和53年)5月20日でした。
また、いくつかの問題も残っていました。
たとえば、航空燃料を輸送するパイプラインの問題です。
今は千葉港から伸びるパイプラインで燃料が運ばれていますが、
当時はJR(国鉄)を使い、千葉港や鹿島港から
成田市土屋の建設資材取卸し場まで運び、そこから空港までを
パイプラインで流すという無駄な方法がとられていました。
パイプラインを作る土地も確保できなかったのです。
ちなみに昭和58年にパイプラインは完成し、
土屋の取卸し場の広大な跡地には、
やがてイオンショッピングセンターが出来るなどしています。
そのほかに、旅客を運ぶ鉄道の問題がありました。
当時、空港への鉄道は京成鉄道のみ。
しかも駅は、現在の成田空港駅の位置ではなく、
現在「東成田駅」と呼ばれている、知る人ぞ知る駅です。
簡単に言うと、1期工事で完成した
第1ターミナルとは500m程度離れています。
不便でした。
「国鉄成田新幹線」を作る構想が別にありましたが、
千葉県内のみならず都内でも用地が買収できず、
計画が頓挫したのです。
この新幹線の名残が、現在のJR京葉線の東京駅地下ホームになり、
また、千葉ニュータウンへ伸びる北総鉄道になります。
現在も、北総鉄道の横には幅100m近く無駄な敷地があり、
新幹線が通るはずだったことを身近に感じさせます。
(写真は千葉ニュータウン中央駅周辺。
駅の北側の土地が空き地のままです。)
ちなみに、この新幹線のための線路を利用したのが、
今のJRや京成の空港第2ビル、および成田空港駅なのです。
1991年に利用開始となりましたが、開港からほぼ13年間、
京成の東成田を使わなければならなかったのです。
このとき、成田エクスプレスの運行も開始されました。
成田空港の不便さを見かねた当時運輸大臣の石原慎太郎氏の
鶴の一声で、成田新幹線は在来線に姿を変えました。
現在、成田新幹線の計画が完全に消滅したわけではなく、
北総線を延長して成田空港までつなぐ、
成田新高速鉄道線が予定されています。
2010年開業を目指し、現在工事が進んでいます。
完成すれば、京成スカイライナーがこちらを経由することになり、
最速で36分で上野から空港を結ぶとのことです。
さて、1期工事を完成した成田空港ですが、
その間にも航空需要はさらに増え、
2期工事を行い成田空港を完成させる必要がありました。
そこで2期工事が始まり、
現在の空港第2ターミナルや、B滑走路の建設を進めました。
ここでまた脱線になってしまいますが、
通常、このような公共施設の建設において、
土地の買収がうまくいかない場合、
土地収用法に基づいて、都道府県の収用委員会が、
適正な手続きで土地を収用します。
成田空港建設の際にもこれが機能していました。
しかし、1988(昭和63)年、左翼活動家たちが、
この収用委員会の会長を襲撃し、
会長が瀕死の重傷を負うという事件が発生。
収用委員会のメンバー全員が襲撃を恐れ辞めてしまい、
収用委員会が事実上機能しなくなってしまいました。
以後16年間、2004年12月まで千葉県には
収用委員会がない状態が続きました。
このため、成田空港の土地収用はもちろん、
高速道路や鉄道建設の際にも土地が収容できず、
千葉県の交通行政に大きな影を落としています。
一例としては東京外環道路の三郷〜市川間の未開通、
つくばエクスプレスなど鉄道建設の遅れがあります。
さて話を戻すと、
第2ターミナルは1992年に完成、開業し、
第1ターミナルは半分(北ウイング)を閉鎖して、
改良工事に入ります。
このため、ほとんどの航空会社は2タミを使うようになりました。
この時代、1タミを使ったことがない人がほとんどかと思います。
北ウイングの工事が終わると、
すぐに南ウイングが閉鎖、工事開始となりました。
また、二本目の滑走路建設も本格化します。
90年代には左翼活動も下火となり、
住民代表との円卓会議も成功。
買収できる土地が増えました。
おかげで二本目のB滑走路も、
2002年日韓ワールドカップにあわせようやく暫定的ですが完成。
第1ターミナルも、ショッピングモールを備えた中央ビルを
新たにオープンさせます。
2004年4月1日、新東京国際空港公団が民営化し、
成田空港株式会社に名称変更。
教科書で教える正式名称も、この日から
「成田国際空港」になりました。
(これ、以外に知られていない事実です)
そして皆さんご存知のとおり、
1タミの南ウイングも改良工事を終え、
2006年6月1日にオープン。
ANAをはじめとするスター・アライアンスの航空会社などは
いっせいに1タミへ移動しました。
今度は2タミが工事をする番というわけです。
(これは免税店のお話のときご紹介済みですね)
今後は、B滑走路の2500m化、そして横風用滑走路の完成を
目指すばかりとなりますが、
まだまだ未買収地は残っています。
また、今後更なる航空需要の拡大に対して、
成田空港の更なる拡張も必要となるかもしれませんし、
検討中の首都圏第三空港のこともあります。
今後成田空港はどういう方向へ向かうのか。
誰の目にもまだ見えないようです。
August 13, 2006
なつやすみ特別企画第一弾−日本の航空業界史−
さて、今回は日本の航空業界の歴史についてお話しましょう。
まずは戦前の航空業界。
まだ飛行機という乗り物が生まれたばかりの頃。
ライト兄弟が空へ向け初飛行したのが1903年、
それから10年ほどして、第一次世界大戦において兵器として
使用されるほどにまでになりました。
日本においても、新聞社が自社の知名度を上げたりするために、
不定期に飛行機を運航していました。
そして、当時の日本政府が航空の一元化を図るため、
1928年、「日本航空輸送株式会社」を設立し、
東京−大連間で運航を始めました。
当時東京の飛行場は羽田でなく立川の陸軍基地(現立川飛行場)、
大阪、福岡、蔚山(ウルサン)、京城(ソウル)、
そして平壌(ピョンヤン)を経由し、
大連まで二日がかりの旅でした。
機種もフォッカーというヨーロッパの会社のプロペラ機。
まだボーイングやエアバスなんていう旅客機はない時代です。
その後、満州事変に伴い満州にも路線を持ち、
そして1938年、「大日本航空株式会社」と改組され、
軍の輸送機がわりに、東南アジアのタイやインドネシア、
またパラオやサイパンといった南洋諸島にまで
定期路線を持っていました。
占領地の拡大に伴い、路線も拡大しました。
ニューギニアのラバウルにも路線を持ったこともあります。
しかし戦時中は、飛行中に敵軍に撃墜されてしまう、
という事態もあったようです。
そして終戦。
大日本航空はもちろん、日本において航空活動そのものが
GHQの指令により禁止となってしまいました。
運航はもちろん、製作・研究・教育にいたるまで徹底して
占領軍が接収してしまいました。
例えば戦前の日本の軍事航空機メーカー、中島飛行機でしょうか。
この会社は、戦争中は「隼」「月光」など
数々の軍用機を製作した会社です。
戦後すぐにGHQにより徹底的に解体され、
今は富士重工業(スバル)となっているのは有名な話です。
終戦から6年後、1951年、一部の航空活動が許可されました。
日本に乗り入れていたノースウエスト航空が運航・整備を行い、
日本人は営業活動でのみ採用するという条件でしたが、
大日本航空の母体を引き継ぐ形で、
「日本航空」が設立されるのです。
また、戦前戦後の航空において、大きく異なるものがありました。
航空管制の有無です。
戦前は、飛行機は重要な軍事施設の上空以外は
自由に飛行していました。
戦後は、アメリカ式の航空が持ち込まれ、夜間飛行や計器飛行が
できるようになった代わり、米軍による航空管制が行われました。
戦前からのパイロットは英語の勉強に苦心したそうですが、
「これでこそ航空機事故は防げるのだ」と感心したそうです。
そして1952年、サンフランシスコ平和条約の発効により、
日本は独立し、それに伴い、航空活動も解禁となりました。
すると、航空界は息を吹き返したかのように活気を帯びます。
青木航空、日本観光飛行協会(日東航空)、富士航空、
極東航空、日本ヘリコプター輸送、中日本航空、
北日本航空、東亜航空といった会社が相次いで設立されました。
戦前からそうでしたが、国営会社である
日本航空はあくまで国際線中心の路線網、
そうでない国内地方路線は他の民営会社に任せていたのです。
そして1954年、ついに日本航空は念願の国際線に就航しました。
機種はDC-6Bという4発のプロペラ機、
ウェーク島とハワイ(ホノルル)を経由して30時間かけて
サンフランシスコ行きの便でした。
今でも、サンフランシスコ路線がJAL1便の名を持っています。
しかしこの頃はまだ乗務員はほとんど外人でした。
また、1958年には相次いで出来た航空会社のうち、
日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、
日本の航空界の次男坊といわれた、
「全日本空輸」が設立されます。
両社とも、合言葉は「日航に追いつき、追い越せ」。
それが全日空にも引き継がれるのです。
ちなみに、全日空は3文字で表すと"ANA"ですが、2文字だと"NH"。
なぜかといえば…もとになった日本ヘリコプターにあるのです。
ちょっとしたトリビアでしょうか。
また、合併の流れは他社にも及びました。
全日空がその後、青木航空から社名変更した藤田航空を吸収合併。
また、日東航空、富士航空、北日本航空が合併し
「日本国内航空」が設立されます。
しかし、すでに国内幹線にはJALとANAがおり、
競争は熾烈を極めるものでした。
日本国内航空も、結局経営の悪化からやがて東亜航空と合併し
「東亜国内航空」、後の「日本エアシステム」となります。
このとき、政府主導による航空会社の棲み分けも行われました。
いわゆる45-47体制、航空憲法と言う異名すら持ちます。
(1)日本航空は従来どおり国内幹線と国際線を運営する。
(2)全日空は国内幹線と国内ローカル線ならびに
近距離国際チャーター輸送を運営する。
(3)東亜国内航空は国内ローカル線を従来どおり運営するほか
幹線への一部進出を認められる。
ところでこの頃、まだ日本は中国本土(中華人民共和国)とは
国交がありませんでした。
日本の航空会社は、
もっぱら台湾(中華民国)路線を運営していました。
しかし、中国との国交の回復に伴い、
台湾に対し日本の国営会社であるJALが乗り入れることに
中国が反発してきました。
このため、同じJALの系列の中に日本アジア航空(JAA)を設け、
台湾路線のために飛ばしたのです。
当時はヨーロッパの国営航空なども同じように別会社を
作ったのですが、ヨーロッパから台湾への需要が少なく、
すぐに廃れてしまいました。
ANAが国際線に進出してからは、ANAも台湾路線は遠慮して、
子会社のエアーニッポン(ANK)の路線として運航しています。
この頃はJALもANAも事故は起こしており、
また棲み分けもはっきりしていましたので、
現在のようにANAに偏った人気はありませんでした。
しかし、ある事故を機に例の45-47体制も変わります。
もともとこの体制、
言うまでもなく国内産業の保護政策であるため、
1978年に規制緩和に踏み切ったアメリカをはじめ、
外国からは強い批判に晒されていました。
そして1985年8月12日、羽田発伊丹行のJAL123便B747型機が
単独機として世界最悪の事故(死者520名)を起こします。
直接の原因はJAL側にあったとは言えないのですが、
(もとはボーイングの設計および修理ミスと言われています)
それでもJALの人気は急降下。
政府としてもJALを守りきれず、
1986年、ついに45-47体制は崩壊し、
ANAが念願の国際定期路線を持ちました。
東京−グアム線でした。(残念ながら現在は運休しています)
また1987年にはJALが完全民営化。
この頃には東亜国内航空(TDA)も日本エアシステム(JAS)となり、
再び航空会社同士の戦いが始まります。
特にここ10年は、
航空会社の設立に関しても規制緩和が図られたため、
スカイマークエアラインやエア・ドゥ、
スターフライヤーといった新興航空会社が
相次いで誕生しているのです。
そしてアメリカの同時多発テロ。
航空需要が一気に落ち込み、世界の名だたる航空会社も
一気に経営が傾きました。
そしてANAは徹底的な路線の合理化(非採算路線の撤退)、
JALとJASは相互の合併という道を選びます。
そして起きたJALの運航トラブル。
123便事故以後、マスコミを遮断してきたJALは
マスコミの敵とみなされており、
一連の運航トラブルでも、ANAと同じ内容のトラブルでも
ANAは報道されず、JALだけ報道されると言う事態になりました。
ANAは株主にマスコミがいることもあって、
マスコミも、持ち株の価値を上げるために
このような報道を繰り返したと言われています。
いずれにせよマスコミをうまく利用する形になったANAは
空前の高利益に沸いているわけです。
ただでさえ国のフラグシップ・キャリアとしての
プレッシャーがあり、非採算路線からなかなか撤退できず
もがいているJALをよそに、特需景気に沸くANA。
今後、世界的な航空会社同士の合併が本格化する中、
果たして「日本の翼」たりうる航空会社はどちらなのか?
このバトル、もう数十年は楽しめそうです。
次回は、成田空港の歴史についてです。
まずは戦前の航空業界。
まだ飛行機という乗り物が生まれたばかりの頃。
ライト兄弟が空へ向け初飛行したのが1903年、
それから10年ほどして、第一次世界大戦において兵器として
使用されるほどにまでになりました。
日本においても、新聞社が自社の知名度を上げたりするために、
不定期に飛行機を運航していました。
そして、当時の日本政府が航空の一元化を図るため、
1928年、「日本航空輸送株式会社」を設立し、
東京−大連間で運航を始めました。
当時東京の飛行場は羽田でなく立川の陸軍基地(現立川飛行場)、
大阪、福岡、蔚山(ウルサン)、京城(ソウル)、
そして平壌(ピョンヤン)を経由し、
大連まで二日がかりの旅でした。
機種もフォッカーというヨーロッパの会社のプロペラ機。
まだボーイングやエアバスなんていう旅客機はない時代です。
その後、満州事変に伴い満州にも路線を持ち、
そして1938年、「大日本航空株式会社」と改組され、
軍の輸送機がわりに、東南アジアのタイやインドネシア、
またパラオやサイパンといった南洋諸島にまで
定期路線を持っていました。
占領地の拡大に伴い、路線も拡大しました。
ニューギニアのラバウルにも路線を持ったこともあります。
しかし戦時中は、飛行中に敵軍に撃墜されてしまう、
という事態もあったようです。
そして終戦。
大日本航空はもちろん、日本において航空活動そのものが
GHQの指令により禁止となってしまいました。
運航はもちろん、製作・研究・教育にいたるまで徹底して
占領軍が接収してしまいました。
例えば戦前の日本の軍事航空機メーカー、中島飛行機でしょうか。
この会社は、戦争中は「隼」「月光」など
数々の軍用機を製作した会社です。
戦後すぐにGHQにより徹底的に解体され、
今は富士重工業(スバル)となっているのは有名な話です。
終戦から6年後、1951年、一部の航空活動が許可されました。
日本に乗り入れていたノースウエスト航空が運航・整備を行い、
日本人は営業活動でのみ採用するという条件でしたが、
大日本航空の母体を引き継ぐ形で、
「日本航空」が設立されるのです。
また、戦前戦後の航空において、大きく異なるものがありました。
航空管制の有無です。
戦前は、飛行機は重要な軍事施設の上空以外は
自由に飛行していました。
戦後は、アメリカ式の航空が持ち込まれ、夜間飛行や計器飛行が
できるようになった代わり、米軍による航空管制が行われました。
戦前からのパイロットは英語の勉強に苦心したそうですが、
「これでこそ航空機事故は防げるのだ」と感心したそうです。
そして1952年、サンフランシスコ平和条約の発効により、
日本は独立し、それに伴い、航空活動も解禁となりました。
すると、航空界は息を吹き返したかのように活気を帯びます。
青木航空、日本観光飛行協会(日東航空)、富士航空、
極東航空、日本ヘリコプター輸送、中日本航空、
北日本航空、東亜航空といった会社が相次いで設立されました。
戦前からそうでしたが、国営会社である
日本航空はあくまで国際線中心の路線網、
そうでない国内地方路線は他の民営会社に任せていたのです。
そして1954年、ついに日本航空は念願の国際線に就航しました。
機種はDC-6Bという4発のプロペラ機、
ウェーク島とハワイ(ホノルル)を経由して30時間かけて
サンフランシスコ行きの便でした。
今でも、サンフランシスコ路線がJAL1便の名を持っています。
しかしこの頃はまだ乗務員はほとんど外人でした。
また、1958年には相次いで出来た航空会社のうち、
日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、
日本の航空界の次男坊といわれた、
「全日本空輸」が設立されます。
両社とも、合言葉は「日航に追いつき、追い越せ」。
それが全日空にも引き継がれるのです。
ちなみに、全日空は3文字で表すと"ANA"ですが、2文字だと"NH"。
なぜかといえば…もとになった日本ヘリコプターにあるのです。
ちょっとしたトリビアでしょうか。
また、合併の流れは他社にも及びました。
全日空がその後、青木航空から社名変更した藤田航空を吸収合併。
また、日東航空、富士航空、北日本航空が合併し
「日本国内航空」が設立されます。
しかし、すでに国内幹線にはJALとANAがおり、
競争は熾烈を極めるものでした。
日本国内航空も、結局経営の悪化からやがて東亜航空と合併し
「東亜国内航空」、後の「日本エアシステム」となります。
このとき、政府主導による航空会社の棲み分けも行われました。
いわゆる45-47体制、航空憲法と言う異名すら持ちます。
(1)日本航空は従来どおり国内幹線と国際線を運営する。
(2)全日空は国内幹線と国内ローカル線ならびに
近距離国際チャーター輸送を運営する。
(3)東亜国内航空は国内ローカル線を従来どおり運営するほか
幹線への一部進出を認められる。
ところでこの頃、まだ日本は中国本土(中華人民共和国)とは
国交がありませんでした。
日本の航空会社は、
もっぱら台湾(中華民国)路線を運営していました。
しかし、中国との国交の回復に伴い、
台湾に対し日本の国営会社であるJALが乗り入れることに
中国が反発してきました。
このため、同じJALの系列の中に日本アジア航空(JAA)を設け、
台湾路線のために飛ばしたのです。
当時はヨーロッパの国営航空なども同じように別会社を
作ったのですが、ヨーロッパから台湾への需要が少なく、
すぐに廃れてしまいました。
ANAが国際線に進出してからは、ANAも台湾路線は遠慮して、
子会社のエアーニッポン(ANK)の路線として運航しています。
この頃はJALもANAも事故は起こしており、
また棲み分けもはっきりしていましたので、
現在のようにANAに偏った人気はありませんでした。
しかし、ある事故を機に例の45-47体制も変わります。
もともとこの体制、
言うまでもなく国内産業の保護政策であるため、
1978年に規制緩和に踏み切ったアメリカをはじめ、
外国からは強い批判に晒されていました。
そして1985年8月12日、羽田発伊丹行のJAL123便B747型機が
単独機として世界最悪の事故(死者520名)を起こします。
直接の原因はJAL側にあったとは言えないのですが、
(もとはボーイングの設計および修理ミスと言われています)
それでもJALの人気は急降下。
政府としてもJALを守りきれず、
1986年、ついに45-47体制は崩壊し、
ANAが念願の国際定期路線を持ちました。
東京−グアム線でした。(残念ながら現在は運休しています)
また1987年にはJALが完全民営化。
この頃には東亜国内航空(TDA)も日本エアシステム(JAS)となり、
再び航空会社同士の戦いが始まります。
特にここ10年は、
航空会社の設立に関しても規制緩和が図られたため、
スカイマークエアラインやエア・ドゥ、
スターフライヤーといった新興航空会社が
相次いで誕生しているのです。
そしてアメリカの同時多発テロ。
航空需要が一気に落ち込み、世界の名だたる航空会社も
一気に経営が傾きました。
そしてANAは徹底的な路線の合理化(非採算路線の撤退)、
JALとJASは相互の合併という道を選びます。
そして起きたJALの運航トラブル。
123便事故以後、マスコミを遮断してきたJALは
マスコミの敵とみなされており、
一連の運航トラブルでも、ANAと同じ内容のトラブルでも
ANAは報道されず、JALだけ報道されると言う事態になりました。
ANAは株主にマスコミがいることもあって、
マスコミも、持ち株の価値を上げるために
このような報道を繰り返したと言われています。
いずれにせよマスコミをうまく利用する形になったANAは
空前の高利益に沸いているわけです。
ただでさえ国のフラグシップ・キャリアとしての
プレッシャーがあり、非採算路線からなかなか撤退できず
もがいているJALをよそに、特需景気に沸くANA。
今後、世界的な航空会社同士の合併が本格化する中、
果たして「日本の翼」たりうる航空会社はどちらなのか?
このバトル、もう数十年は楽しめそうです。
次回は、成田空港の歴史についてです。
August 02, 2006
Runway34R?
今日は滑走路についている数字についてお話しましょう。
空港にある滑走路には、必ず2ケタの数字がついています。
成田ならば、16と34です。
読み方は英語で一文字ずつ、「ワンシックス」のように読みます。
この数字はいったい何なのでしょうか。
この数字は航空情報として発行される空港図等にも書かれるほか、
実際に滑走路に大きな文字で表示されます。
ご覧のとおり。(Google Earthより)

この数字、実はもともと3ケタなのです。
最後の1ケタを省略して、2ケタにしているのです。
「16」は元は、大体155〜164の間の数字だということです。
この数字、実は滑走路の向いている方位なんです。
その前にまずは方位を3ケタの数字で表す方法についてお話を。
私たちが日常生活で使う方位はせいぜい東西南北の4方位、
使う人でも8方位あれば十分です。
日常生活で16方位まで使う人は皆無でしょう。
しかし、航空の世界では、
航空機の飛ぶ方向を細かく指示しなければなりません。
16方位でもアバウトすぎるほどです。
しかも、16方位(東南東など)を英語で喋ってみてください。
「East-South-East」、とても長くなってしまいますね。
しかも聞き漏らしがあったら大変です。
そこで、航空の世界では
「方位角」という概念を使うことにしました。
真北をゼロ度とし、東に向かって角度を増やして、
真東で90度、南で180度、西で270度、
そして360度にあたる真北でまたゼロ度になります。
勘の良い方ならお気づきでしょうか。
そう、滑走路の数字とは実は方位角なのです!
ある滑走路に飛行機が入った時、その飛行機はどの方位を向くか。
そのときの方位角の数字を2ケタで示したのが先ほどの数字です。
だいたい、飛行機は滑走路のどちらかの端から離陸しますので、
その端の部分に数字を書いてあるのです。
そして、大事な復習。
飛行機が離着陸するとき、風は追い風ではなく、
向かい風が好ましいことは先日お話したとおりです。
そう考えると、滑走路は作るときの都合で
でたらめな方向に作ってはいけないことになりますね。
ちゃんと「この土地ではどの方向から風が吹くことが多いのか」を
分析してからでないと、いざ空港を作っても、
滑走路に対し横風ばかりが来るようでは、パイロットは大変です。
(事実、最近オープンした中部国際空港ですが、
周辺住民に配慮し、市街地上空を飛行しないように
滑走路を設定したため、鈴鹿山脈からの吹き降ろしの風が
モロに横風となり、このため欠航便がでるほどです。)
こういうわけで、空港を作る前には必ずその土地における
風の分布図を作っておきます。
成田の場合は以下のようになりました。

(縦軸は総観測個数262,968個の分布する個数)
(出典:成田航空地方気象台)
20度方向からの風が多いようですが、
この風はとても弱い風が多く、
それよりも冬の北西からの季節風にあたる320〜330度方向の風、
あと夏の季節風に当たる150〜160度方向からの風のほうが強く、
季節風の方向にあわせて滑走路を作るほうが
適当であると判断されました。
そして、この20度方向からの風にも対応できるよう、
横風滑走路も計画されたのです。
(この横風滑走路は用地取得が進まず未完成となっています)
さあ、この分析にしたがって滑走路を作りました!
両手を挙げて飛行機を迎えたい!
しかし、まだ大事な問題が残っています!
そう、飛行機は方位角をどうやって測るのか、です。
もちろん、飛行機は方位磁石を持っています。
一見何の問題もありません。
しかしこの方位磁石、なんとウソの方位を指し示しているのです!
実は、方位磁石はいつでも地図上の北を指してくれる…
というわけではないのです。
方位磁石が北の方角を指してくれるわけは皆さんご存知の通り、
地球それ自体が巨大な磁性を持っており、
一本の磁石のようにみなせるからです。
(地球内部の核における対流により電流が発生し、
それにより磁界が発生しているという学説が有力です)
そして、地球を一本の磁石としてみなすと、
当たり前ですが方位磁石はその磁石の極に向くわけです。
ここでこの図をご覧ください。

(出典:AOKIDS 偏差・自差)
地球の磁石は、すこし傾いているため、方位磁石の指す向きも、
ズレが生じます。このズレのことを偏差と言います。
とりあえず、方位磁石があれば偏差はともかくとして、
方位磁石の指す北の向き、「磁北(じほく)」がわかります。
この磁北に、地質学者さんが求めてくれた偏差を足し合わせれば、
真の北、「真北(しんぽく)」がわかるのです。
日本の東京近辺の場合、偏差は西へ7度ほどです。
普通に生活する分には方位磁石のさす北を真北と思って十分です。
さすがに北極圏に近いアラスカなどは、
偏差が20度以上にもなるそうです。日常生活にも支障が出ますね。
しかしパイロットが飛行中にいちいちこの計算をしていたのでは、
運航に支障が出かねません。
そこで、滑走路の向きを表す数字や、
パイロット向けの航空気象情報に示される方位には、
真の方位ではなく、方位磁石の指す向きを基準にした磁方位が
用いられるのです。
つまり、風の吹く向きを分析し、
風が多く吹く方向に滑走路を作ります。
あとは滑走路に、磁方位にもとづいた数字を振って、完成です。
ちなみに、「R」や「L」というのが
数字の後に入ることがありますが、
これは同じ向きの滑走路が複数あるときに、
その方向に向かって、右側の滑走路をR(=Right)、
左をL(=Left)としているのです。
たまにC(=Center)を使う空港もあります。
4本同じ向きにある場合には、
CL(=CenterLeft)やCR(=CenterRight)を使うのも
アリだそうですが、発音が面倒で、誤解を招きかねないので、
ほとんどの場合、2本2組として、数字をひとつずらすようです。
たとえば05L,05R,06L,06Rといった具合にです。
こんど空港で飛行機にお乗りの際に、
滑走路についている数字を見かけたら、
「この飛行機はいま磁方位で***度の方向に向いているんだなあ」
と思っていただければ幸いです。
空港にある滑走路には、必ず2ケタの数字がついています。
成田ならば、16と34です。
読み方は英語で一文字ずつ、「ワンシックス」のように読みます。
この数字はいったい何なのでしょうか。
この数字は航空情報として発行される空港図等にも書かれるほか、
実際に滑走路に大きな文字で表示されます。
ご覧のとおり。(Google Earthより)
この数字、実はもともと3ケタなのです。
最後の1ケタを省略して、2ケタにしているのです。
「16」は元は、大体155〜164の間の数字だということです。
この数字、実は滑走路の向いている方位なんです。
その前にまずは方位を3ケタの数字で表す方法についてお話を。
私たちが日常生活で使う方位はせいぜい東西南北の4方位、
使う人でも8方位あれば十分です。
日常生活で16方位まで使う人は皆無でしょう。
しかし、航空の世界では、
航空機の飛ぶ方向を細かく指示しなければなりません。
16方位でもアバウトすぎるほどです。
しかも、16方位(東南東など)を英語で喋ってみてください。
「East-South-East」、とても長くなってしまいますね。
しかも聞き漏らしがあったら大変です。
そこで、航空の世界では
「方位角」という概念を使うことにしました。
真北をゼロ度とし、東に向かって角度を増やして、
真東で90度、南で180度、西で270度、
そして360度にあたる真北でまたゼロ度になります。
勘の良い方ならお気づきでしょうか。
そう、滑走路の数字とは実は方位角なのです!
ある滑走路に飛行機が入った時、その飛行機はどの方位を向くか。
そのときの方位角の数字を2ケタで示したのが先ほどの数字です。
だいたい、飛行機は滑走路のどちらかの端から離陸しますので、
その端の部分に数字を書いてあるのです。
そして、大事な復習。
飛行機が離着陸するとき、風は追い風ではなく、
向かい風が好ましいことは先日お話したとおりです。
そう考えると、滑走路は作るときの都合で
でたらめな方向に作ってはいけないことになりますね。
ちゃんと「この土地ではどの方向から風が吹くことが多いのか」を
分析してからでないと、いざ空港を作っても、
滑走路に対し横風ばかりが来るようでは、パイロットは大変です。
(事実、最近オープンした中部国際空港ですが、
周辺住民に配慮し、市街地上空を飛行しないように
滑走路を設定したため、鈴鹿山脈からの吹き降ろしの風が
モロに横風となり、このため欠航便がでるほどです。)
こういうわけで、空港を作る前には必ずその土地における
風の分布図を作っておきます。
成田の場合は以下のようになりました。
(縦軸は総観測個数262,968個の分布する個数)
(出典:成田航空地方気象台)
20度方向からの風が多いようですが、
この風はとても弱い風が多く、
それよりも冬の北西からの季節風にあたる320〜330度方向の風、
あと夏の季節風に当たる150〜160度方向からの風のほうが強く、
季節風の方向にあわせて滑走路を作るほうが
適当であると判断されました。
そして、この20度方向からの風にも対応できるよう、
横風滑走路も計画されたのです。
(この横風滑走路は用地取得が進まず未完成となっています)
さあ、この分析にしたがって滑走路を作りました!
両手を挙げて飛行機を迎えたい!
しかし、まだ大事な問題が残っています!
そう、飛行機は方位角をどうやって測るのか、です。
もちろん、飛行機は方位磁石を持っています。
一見何の問題もありません。
しかしこの方位磁石、なんとウソの方位を指し示しているのです!
実は、方位磁石はいつでも地図上の北を指してくれる…
というわけではないのです。
方位磁石が北の方角を指してくれるわけは皆さんご存知の通り、
地球それ自体が巨大な磁性を持っており、
一本の磁石のようにみなせるからです。
(地球内部の核における対流により電流が発生し、
それにより磁界が発生しているという学説が有力です)
そして、地球を一本の磁石としてみなすと、
当たり前ですが方位磁石はその磁石の極に向くわけです。
ここでこの図をご覧ください。
(出典:AOKIDS 偏差・自差)
地球の磁石は、すこし傾いているため、方位磁石の指す向きも、
ズレが生じます。このズレのことを偏差と言います。
とりあえず、方位磁石があれば偏差はともかくとして、
方位磁石の指す北の向き、「磁北(じほく)」がわかります。
この磁北に、地質学者さんが求めてくれた偏差を足し合わせれば、
真の北、「真北(しんぽく)」がわかるのです。
日本の東京近辺の場合、偏差は西へ7度ほどです。
普通に生活する分には方位磁石のさす北を真北と思って十分です。
さすがに北極圏に近いアラスカなどは、
偏差が20度以上にもなるそうです。日常生活にも支障が出ますね。
しかしパイロットが飛行中にいちいちこの計算をしていたのでは、
運航に支障が出かねません。
そこで、滑走路の向きを表す数字や、
パイロット向けの航空気象情報に示される方位には、
真の方位ではなく、方位磁石の指す向きを基準にした磁方位が
用いられるのです。
つまり、風の吹く向きを分析し、
風が多く吹く方向に滑走路を作ります。
あとは滑走路に、磁方位にもとづいた数字を振って、完成です。
ちなみに、「R」や「L」というのが
数字の後に入ることがありますが、
これは同じ向きの滑走路が複数あるときに、
その方向に向かって、右側の滑走路をR(=Right)、
左をL(=Left)としているのです。
たまにC(=Center)を使う空港もあります。
4本同じ向きにある場合には、
CL(=CenterLeft)やCR(=CenterRight)を使うのも
アリだそうですが、発音が面倒で、誤解を招きかねないので、
ほとんどの場合、2本2組として、数字をひとつずらすようです。
たとえば05L,05R,06L,06Rといった具合にです。
こんど空港で飛行機にお乗りの際に、
滑走路についている数字を見かけたら、
「この飛行機はいま磁方位で***度の方向に向いているんだなあ」
と思っていただければ幸いです。