August 13, 2006
なつやすみ特別企画第一弾−日本の航空業界史−
さて、今回は日本の航空業界の歴史についてお話しましょう。
まずは戦前の航空業界。
まだ飛行機という乗り物が生まれたばかりの頃。
ライト兄弟が空へ向け初飛行したのが1903年、
それから10年ほどして、第一次世界大戦において兵器として
使用されるほどにまでになりました。
日本においても、新聞社が自社の知名度を上げたりするために、
不定期に飛行機を運航していました。
そして、当時の日本政府が航空の一元化を図るため、
1928年、「日本航空輸送株式会社」を設立し、
東京−大連間で運航を始めました。
当時東京の飛行場は羽田でなく立川の陸軍基地(現立川飛行場)、
大阪、福岡、蔚山(ウルサン)、京城(ソウル)、
そして平壌(ピョンヤン)を経由し、
大連まで二日がかりの旅でした。
機種もフォッカーというヨーロッパの会社のプロペラ機。
まだボーイングやエアバスなんていう旅客機はない時代です。
その後、満州事変に伴い満州にも路線を持ち、
そして1938年、「大日本航空株式会社」と改組され、
軍の輸送機がわりに、東南アジアのタイやインドネシア、
またパラオやサイパンといった南洋諸島にまで
定期路線を持っていました。
占領地の拡大に伴い、路線も拡大しました。
ニューギニアのラバウルにも路線を持ったこともあります。
しかし戦時中は、飛行中に敵軍に撃墜されてしまう、
という事態もあったようです。
そして終戦。
大日本航空はもちろん、日本において航空活動そのものが
GHQの指令により禁止となってしまいました。
運航はもちろん、製作・研究・教育にいたるまで徹底して
占領軍が接収してしまいました。
例えば戦前の日本の軍事航空機メーカー、中島飛行機でしょうか。
この会社は、戦争中は「隼」「月光」など
数々の軍用機を製作した会社です。
戦後すぐにGHQにより徹底的に解体され、
今は富士重工業(スバル)となっているのは有名な話です。
終戦から6年後、1951年、一部の航空活動が許可されました。
日本に乗り入れていたノースウエスト航空が運航・整備を行い、
日本人は営業活動でのみ採用するという条件でしたが、
大日本航空の母体を引き継ぐ形で、
「日本航空」が設立されるのです。
また、戦前戦後の航空において、大きく異なるものがありました。
航空管制の有無です。
戦前は、飛行機は重要な軍事施設の上空以外は
自由に飛行していました。
戦後は、アメリカ式の航空が持ち込まれ、夜間飛行や計器飛行が
できるようになった代わり、米軍による航空管制が行われました。
戦前からのパイロットは英語の勉強に苦心したそうですが、
「これでこそ航空機事故は防げるのだ」と感心したそうです。
そして1952年、サンフランシスコ平和条約の発効により、
日本は独立し、それに伴い、航空活動も解禁となりました。
すると、航空界は息を吹き返したかのように活気を帯びます。
青木航空、日本観光飛行協会(日東航空)、富士航空、
極東航空、日本ヘリコプター輸送、中日本航空、
北日本航空、東亜航空といった会社が相次いで設立されました。
戦前からそうでしたが、国営会社である
日本航空はあくまで国際線中心の路線網、
そうでない国内地方路線は他の民営会社に任せていたのです。
そして1954年、ついに日本航空は念願の国際線に就航しました。
機種はDC-6Bという4発のプロペラ機、
ウェーク島とハワイ(ホノルル)を経由して30時間かけて
サンフランシスコ行きの便でした。
今でも、サンフランシスコ路線がJAL1便の名を持っています。
しかしこの頃はまだ乗務員はほとんど外人でした。
また、1958年には相次いで出来た航空会社のうち、
日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、
日本の航空界の次男坊といわれた、
「全日本空輸」が設立されます。
両社とも、合言葉は「日航に追いつき、追い越せ」。
それが全日空にも引き継がれるのです。
ちなみに、全日空は3文字で表すと"ANA"ですが、2文字だと"NH"。
なぜかといえば…もとになった日本ヘリコプターにあるのです。
ちょっとしたトリビアでしょうか。
また、合併の流れは他社にも及びました。
全日空がその後、青木航空から社名変更した藤田航空を吸収合併。
また、日東航空、富士航空、北日本航空が合併し
「日本国内航空」が設立されます。
しかし、すでに国内幹線にはJALとANAがおり、
競争は熾烈を極めるものでした。
日本国内航空も、結局経営の悪化からやがて東亜航空と合併し
「東亜国内航空」、後の「日本エアシステム」となります。
このとき、政府主導による航空会社の棲み分けも行われました。
いわゆる45-47体制、航空憲法と言う異名すら持ちます。
(1)日本航空は従来どおり国内幹線と国際線を運営する。
(2)全日空は国内幹線と国内ローカル線ならびに
近距離国際チャーター輸送を運営する。
(3)東亜国内航空は国内ローカル線を従来どおり運営するほか
幹線への一部進出を認められる。
ところでこの頃、まだ日本は中国本土(中華人民共和国)とは
国交がありませんでした。
日本の航空会社は、
もっぱら台湾(中華民国)路線を運営していました。
しかし、中国との国交の回復に伴い、
台湾に対し日本の国営会社であるJALが乗り入れることに
中国が反発してきました。
このため、同じJALの系列の中に日本アジア航空(JAA)を設け、
台湾路線のために飛ばしたのです。
当時はヨーロッパの国営航空なども同じように別会社を
作ったのですが、ヨーロッパから台湾への需要が少なく、
すぐに廃れてしまいました。
ANAが国際線に進出してからは、ANAも台湾路線は遠慮して、
子会社のエアーニッポン(ANK)の路線として運航しています。
この頃はJALもANAも事故は起こしており、
また棲み分けもはっきりしていましたので、
現在のようにANAに偏った人気はありませんでした。
しかし、ある事故を機に例の45-47体制も変わります。
もともとこの体制、
言うまでもなく国内産業の保護政策であるため、
1978年に規制緩和に踏み切ったアメリカをはじめ、
外国からは強い批判に晒されていました。
そして1985年8月12日、羽田発伊丹行のJAL123便B747型機が
単独機として世界最悪の事故(死者520名)を起こします。
直接の原因はJAL側にあったとは言えないのですが、
(もとはボーイングの設計および修理ミスと言われています)
それでもJALの人気は急降下。
政府としてもJALを守りきれず、
1986年、ついに45-47体制は崩壊し、
ANAが念願の国際定期路線を持ちました。
東京−グアム線でした。(残念ながら現在は運休しています)
また1987年にはJALが完全民営化。
この頃には東亜国内航空(TDA)も日本エアシステム(JAS)となり、
再び航空会社同士の戦いが始まります。
特にここ10年は、
航空会社の設立に関しても規制緩和が図られたため、
スカイマークエアラインやエア・ドゥ、
スターフライヤーといった新興航空会社が
相次いで誕生しているのです。
そしてアメリカの同時多発テロ。
航空需要が一気に落ち込み、世界の名だたる航空会社も
一気に経営が傾きました。
そしてANAは徹底的な路線の合理化(非採算路線の撤退)、
JALとJASは相互の合併という道を選びます。
そして起きたJALの運航トラブル。
123便事故以後、マスコミを遮断してきたJALは
マスコミの敵とみなされており、
一連の運航トラブルでも、ANAと同じ内容のトラブルでも
ANAは報道されず、JALだけ報道されると言う事態になりました。
ANAは株主にマスコミがいることもあって、
マスコミも、持ち株の価値を上げるために
このような報道を繰り返したと言われています。
いずれにせよマスコミをうまく利用する形になったANAは
空前の高利益に沸いているわけです。
ただでさえ国のフラグシップ・キャリアとしての
プレッシャーがあり、非採算路線からなかなか撤退できず
もがいているJALをよそに、特需景気に沸くANA。
今後、世界的な航空会社同士の合併が本格化する中、
果たして「日本の翼」たりうる航空会社はどちらなのか?
このバトル、もう数十年は楽しめそうです。
次回は、成田空港の歴史についてです。
まずは戦前の航空業界。
まだ飛行機という乗り物が生まれたばかりの頃。
ライト兄弟が空へ向け初飛行したのが1903年、
それから10年ほどして、第一次世界大戦において兵器として
使用されるほどにまでになりました。
日本においても、新聞社が自社の知名度を上げたりするために、
不定期に飛行機を運航していました。
そして、当時の日本政府が航空の一元化を図るため、
1928年、「日本航空輸送株式会社」を設立し、
東京−大連間で運航を始めました。
当時東京の飛行場は羽田でなく立川の陸軍基地(現立川飛行場)、
大阪、福岡、蔚山(ウルサン)、京城(ソウル)、
そして平壌(ピョンヤン)を経由し、
大連まで二日がかりの旅でした。
機種もフォッカーというヨーロッパの会社のプロペラ機。
まだボーイングやエアバスなんていう旅客機はない時代です。
その後、満州事変に伴い満州にも路線を持ち、
そして1938年、「大日本航空株式会社」と改組され、
軍の輸送機がわりに、東南アジアのタイやインドネシア、
またパラオやサイパンといった南洋諸島にまで
定期路線を持っていました。
占領地の拡大に伴い、路線も拡大しました。
ニューギニアのラバウルにも路線を持ったこともあります。
しかし戦時中は、飛行中に敵軍に撃墜されてしまう、
という事態もあったようです。
そして終戦。
大日本航空はもちろん、日本において航空活動そのものが
GHQの指令により禁止となってしまいました。
運航はもちろん、製作・研究・教育にいたるまで徹底して
占領軍が接収してしまいました。
例えば戦前の日本の軍事航空機メーカー、中島飛行機でしょうか。
この会社は、戦争中は「隼」「月光」など
数々の軍用機を製作した会社です。
戦後すぐにGHQにより徹底的に解体され、
今は富士重工業(スバル)となっているのは有名な話です。
終戦から6年後、1951年、一部の航空活動が許可されました。
日本に乗り入れていたノースウエスト航空が運航・整備を行い、
日本人は営業活動でのみ採用するという条件でしたが、
大日本航空の母体を引き継ぐ形で、
「日本航空」が設立されるのです。
また、戦前戦後の航空において、大きく異なるものがありました。
航空管制の有無です。
戦前は、飛行機は重要な軍事施設の上空以外は
自由に飛行していました。
戦後は、アメリカ式の航空が持ち込まれ、夜間飛行や計器飛行が
できるようになった代わり、米軍による航空管制が行われました。
戦前からのパイロットは英語の勉強に苦心したそうですが、
「これでこそ航空機事故は防げるのだ」と感心したそうです。
そして1952年、サンフランシスコ平和条約の発効により、
日本は独立し、それに伴い、航空活動も解禁となりました。
すると、航空界は息を吹き返したかのように活気を帯びます。
青木航空、日本観光飛行協会(日東航空)、富士航空、
極東航空、日本ヘリコプター輸送、中日本航空、
北日本航空、東亜航空といった会社が相次いで設立されました。
戦前からそうでしたが、国営会社である
日本航空はあくまで国際線中心の路線網、
そうでない国内地方路線は他の民営会社に任せていたのです。
そして1954年、ついに日本航空は念願の国際線に就航しました。
機種はDC-6Bという4発のプロペラ機、
ウェーク島とハワイ(ホノルル)を経由して30時間かけて
サンフランシスコ行きの便でした。
今でも、サンフランシスコ路線がJAL1便の名を持っています。
しかしこの頃はまだ乗務員はほとんど外人でした。
また、1958年には相次いで出来た航空会社のうち、
日本ヘリコプター輸送と極東航空が合併し、
日本の航空界の次男坊といわれた、
「全日本空輸」が設立されます。
両社とも、合言葉は「日航に追いつき、追い越せ」。
それが全日空にも引き継がれるのです。
ちなみに、全日空は3文字で表すと"ANA"ですが、2文字だと"NH"。
なぜかといえば…もとになった日本ヘリコプターにあるのです。
ちょっとしたトリビアでしょうか。
また、合併の流れは他社にも及びました。
全日空がその後、青木航空から社名変更した藤田航空を吸収合併。
また、日東航空、富士航空、北日本航空が合併し
「日本国内航空」が設立されます。
しかし、すでに国内幹線にはJALとANAがおり、
競争は熾烈を極めるものでした。
日本国内航空も、結局経営の悪化からやがて東亜航空と合併し
「東亜国内航空」、後の「日本エアシステム」となります。
このとき、政府主導による航空会社の棲み分けも行われました。
いわゆる45-47体制、航空憲法と言う異名すら持ちます。
(1)日本航空は従来どおり国内幹線と国際線を運営する。
(2)全日空は国内幹線と国内ローカル線ならびに
近距離国際チャーター輸送を運営する。
(3)東亜国内航空は国内ローカル線を従来どおり運営するほか
幹線への一部進出を認められる。
ところでこの頃、まだ日本は中国本土(中華人民共和国)とは
国交がありませんでした。
日本の航空会社は、
もっぱら台湾(中華民国)路線を運営していました。
しかし、中国との国交の回復に伴い、
台湾に対し日本の国営会社であるJALが乗り入れることに
中国が反発してきました。
このため、同じJALの系列の中に日本アジア航空(JAA)を設け、
台湾路線のために飛ばしたのです。
当時はヨーロッパの国営航空なども同じように別会社を
作ったのですが、ヨーロッパから台湾への需要が少なく、
すぐに廃れてしまいました。
ANAが国際線に進出してからは、ANAも台湾路線は遠慮して、
子会社のエアーニッポン(ANK)の路線として運航しています。
この頃はJALもANAも事故は起こしており、
また棲み分けもはっきりしていましたので、
現在のようにANAに偏った人気はありませんでした。
しかし、ある事故を機に例の45-47体制も変わります。
もともとこの体制、
言うまでもなく国内産業の保護政策であるため、
1978年に規制緩和に踏み切ったアメリカをはじめ、
外国からは強い批判に晒されていました。
そして1985年8月12日、羽田発伊丹行のJAL123便B747型機が
単独機として世界最悪の事故(死者520名)を起こします。
直接の原因はJAL側にあったとは言えないのですが、
(もとはボーイングの設計および修理ミスと言われています)
それでもJALの人気は急降下。
政府としてもJALを守りきれず、
1986年、ついに45-47体制は崩壊し、
ANAが念願の国際定期路線を持ちました。
東京−グアム線でした。(残念ながら現在は運休しています)
また1987年にはJALが完全民営化。
この頃には東亜国内航空(TDA)も日本エアシステム(JAS)となり、
再び航空会社同士の戦いが始まります。
特にここ10年は、
航空会社の設立に関しても規制緩和が図られたため、
スカイマークエアラインやエア・ドゥ、
スターフライヤーといった新興航空会社が
相次いで誕生しているのです。
そしてアメリカの同時多発テロ。
航空需要が一気に落ち込み、世界の名だたる航空会社も
一気に経営が傾きました。
そしてANAは徹底的な路線の合理化(非採算路線の撤退)、
JALとJASは相互の合併という道を選びます。
そして起きたJALの運航トラブル。
123便事故以後、マスコミを遮断してきたJALは
マスコミの敵とみなされており、
一連の運航トラブルでも、ANAと同じ内容のトラブルでも
ANAは報道されず、JALだけ報道されると言う事態になりました。
ANAは株主にマスコミがいることもあって、
マスコミも、持ち株の価値を上げるために
このような報道を繰り返したと言われています。
いずれにせよマスコミをうまく利用する形になったANAは
空前の高利益に沸いているわけです。
ただでさえ国のフラグシップ・キャリアとしての
プレッシャーがあり、非採算路線からなかなか撤退できず
もがいているJALをよそに、特需景気に沸くANA。
今後、世界的な航空会社同士の合併が本格化する中、
果たして「日本の翼」たりうる航空会社はどちらなのか?
このバトル、もう数十年は楽しめそうです。
次回は、成田空港の歴史についてです。