August 27, 2006
成田空港の歴史(なつやすみ特別企画第二弾)
さて、今回は成田空港の歴史についてお話しましょう。
昭和30年代半ばごろ、そろそろジェット機が
旅客機の主役になってきた頃です。
羽田の東京国際空港だけでは、昭和45年ごろには
需要で満杯になってしまうとの報告がされました。
羽田空港の拡張は、当時の土木技術では難工事になること、
東京湾の船舶航路をふさぐ恐れなどが指摘され、
また拡張できたとしても、
今後さらに増加する需要には対応できないとされました。
そこで新空港を東京から100km圏内に建設することになりました。
新空港の規模は、滑走路を5本も有し、
当時最先端の航空機だったコンコルドが離発着できるよう
長さも4000m級が3本も予定されていました。
敷地面積は2300ヘクタール。
よく言う東京ドーム何個分、という表現だと、
500個は優に入ってしまう大きさになります。
現在の成田空港のほぼ倍の規模と言えばわかりやすいですね。
当時の運輸白書から、画像を拝借してみましょう。

…この規模はまるでアメリカ?とでも言いたくなります。
さて、候補地も絞られました。
管制空域や、敷地の関係で最終的に
千葉県浦安沖(当時まだディズニーリゾートのあたりは海)、
茨城県霞ヶ浦(今の阿見町〜美浦村近辺のようです)、
千葉県富里村周辺(現在の富里市。成田市の隣です)、
この3つが最後まで残りましたが、
富里案以外は羽田でも問題となった埋め立てを必要とし、
周辺の空港(浦安だと羽田、霞ヶ浦だと航空自衛隊百里基地)との
空域の干渉も問題となり、
富里案が現実的だとして動き始めました。
しかし住民に空港建設を打診したところ、猛反発。
まあそりゃ誰だって、「空港を作るから出て行け」と言われれば
怒って当然なのかもしれません。
しかもこの地域は戦後満州などからの引揚げ者が多く住んだ土地。
ようやく手に入れた安住の地を、脅かされてたまるかという
ごくごく当たり前の理由によるものでした。
仕方なく、当時皇室財産として持っていた、
「下総御料牧場」を中心とした、成田市三里塚近辺を予定地とし、
規模も当初の半分、1060ヘクタールで滑走路3本、
おおよそ現在の成田空港の原型がここに出来上がりました。
とにかく、大きさよりも空港の存在そして航空需要をさばくことが
最優先でしたから、仕方のない判断といえます。
昭和44年、用地買収が進む中での計画図です。

もう、ほとんど現在の成田空港の形になりました。
滑走路の話でお話したとおり、
成田の気象観測が行われ、滑走路の向きについては
風向きなどの気象条件を考慮して決められています。
季節風の方向にあわせた2本の滑走路と、
北東や南西の風にも対応できる横風滑走路から成り立ちます。
しかし、ここからがうまくいかなかったのです。
折りしも昭和40年代の日本は学生紛争に代表されるように、
保守的な考え方に反抗する左翼主義的なムードが漂っていました。
この成田空港建設もそんな運動家たちに目をつけられ、
やがて「非常時には米軍の基地となり、
日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」
「同じ地平を攻撃するための日本の軍事要塞化につながる」
「すなわち成田空港があると、日本は軍国主義化する」
根も葉もない彼らの言い分に農民も同調してしまいます。
土地買収に応じないのならば仕方ないのですが、
他の建設地の邪魔をしたり、
滑走路の延長上に鉄塔を作ってしまったりと、
実力行使に打って出てきたのです。
警備隊との衝突もたびたびで、
中には警備隊を待ち伏せして襲う事件も発生し、
さまざまな衝突の結果、警官3人、学生1人が亡くなっています。
結局、なんとか力ずくで1本目の滑走路を作るのが精一杯でした。
これでも、開港直前に反対派が管制塔に侵入、
機器を破壊するという騒ぎがあり、
開港が2ヶ月遅れ、世界にさらに恥をさらしてしまったのです。
開港は1978年(昭和53年)5月20日でした。
また、いくつかの問題も残っていました。
たとえば、航空燃料を輸送するパイプラインの問題です。
今は千葉港から伸びるパイプラインで燃料が運ばれていますが、
当時はJR(国鉄)を使い、千葉港や鹿島港から
成田市土屋の建設資材取卸し場まで運び、そこから空港までを
パイプラインで流すという無駄な方法がとられていました。
パイプラインを作る土地も確保できなかったのです。
ちなみに昭和58年にパイプラインは完成し、
土屋の取卸し場の広大な跡地には、
やがてイオンショッピングセンターが出来るなどしています。
そのほかに、旅客を運ぶ鉄道の問題がありました。
当時、空港への鉄道は京成鉄道のみ。
しかも駅は、現在の成田空港駅の位置ではなく、
現在「東成田駅」と呼ばれている、知る人ぞ知る駅です。
簡単に言うと、1期工事で完成した
第1ターミナルとは500m程度離れています。
不便でした。
「国鉄成田新幹線」を作る構想が別にありましたが、
千葉県内のみならず都内でも用地が買収できず、
計画が頓挫したのです。
この新幹線の名残が、現在のJR京葉線の東京駅地下ホームになり、
また、千葉ニュータウンへ伸びる北総鉄道になります。
現在も、北総鉄道の横には幅100m近く無駄な敷地があり、
新幹線が通るはずだったことを身近に感じさせます。

(写真は千葉ニュータウン中央駅周辺。
駅の北側の土地が空き地のままです。)
ちなみに、この新幹線のための線路を利用したのが、
今のJRや京成の空港第2ビル、および成田空港駅なのです。
1991年に利用開始となりましたが、開港からほぼ13年間、
京成の東成田を使わなければならなかったのです。
このとき、成田エクスプレスの運行も開始されました。
成田空港の不便さを見かねた当時運輸大臣の石原慎太郎氏の
鶴の一声で、成田新幹線は在来線に姿を変えました。
現在、成田新幹線の計画が完全に消滅したわけではなく、
北総線を延長して成田空港までつなぐ、
成田新高速鉄道線が予定されています。
2010年開業を目指し、現在工事が進んでいます。
完成すれば、京成スカイライナーがこちらを経由することになり、
最速で36分で上野から空港を結ぶとのことです。
さて、1期工事を完成した成田空港ですが、
その間にも航空需要はさらに増え、
2期工事を行い成田空港を完成させる必要がありました。
そこで2期工事が始まり、
現在の空港第2ターミナルや、B滑走路の建設を進めました。
ここでまた脱線になってしまいますが、
通常、このような公共施設の建設において、
土地の買収がうまくいかない場合、
土地収用法に基づいて、都道府県の収用委員会が、
適正な手続きで土地を収用します。
成田空港建設の際にもこれが機能していました。
しかし、1988(昭和63)年、左翼活動家たちが、
この収用委員会の会長を襲撃し、
会長が瀕死の重傷を負うという事件が発生。
収用委員会のメンバー全員が襲撃を恐れ辞めてしまい、
収用委員会が事実上機能しなくなってしまいました。
以後16年間、2004年12月まで千葉県には
収用委員会がない状態が続きました。
このため、成田空港の土地収用はもちろん、
高速道路や鉄道建設の際にも土地が収容できず、
千葉県の交通行政に大きな影を落としています。
一例としては東京外環道路の三郷〜市川間の未開通、
つくばエクスプレスなど鉄道建設の遅れがあります。
さて話を戻すと、
第2ターミナルは1992年に完成、開業し、
第1ターミナルは半分(北ウイング)を閉鎖して、
改良工事に入ります。
このため、ほとんどの航空会社は2タミを使うようになりました。
この時代、1タミを使ったことがない人がほとんどかと思います。
北ウイングの工事が終わると、
すぐに南ウイングが閉鎖、工事開始となりました。
また、二本目の滑走路建設も本格化します。
90年代には左翼活動も下火となり、
住民代表との円卓会議も成功。
買収できる土地が増えました。
おかげで二本目のB滑走路も、
2002年日韓ワールドカップにあわせようやく暫定的ですが完成。
第1ターミナルも、ショッピングモールを備えた中央ビルを
新たにオープンさせます。
2004年4月1日、新東京国際空港公団が民営化し、
成田空港株式会社に名称変更。
教科書で教える正式名称も、この日から
「成田国際空港」になりました。
(これ、以外に知られていない事実です)
そして皆さんご存知のとおり、
1タミの南ウイングも改良工事を終え、
2006年6月1日にオープン。
ANAをはじめとするスター・アライアンスの航空会社などは
いっせいに1タミへ移動しました。
今度は2タミが工事をする番というわけです。
(これは免税店のお話のときご紹介済みですね)
今後は、B滑走路の2500m化、そして横風用滑走路の完成を
目指すばかりとなりますが、
まだまだ未買収地は残っています。
また、今後更なる航空需要の拡大に対して、
成田空港の更なる拡張も必要となるかもしれませんし、
検討中の首都圏第三空港のこともあります。
今後成田空港はどういう方向へ向かうのか。
誰の目にもまだ見えないようです。
昭和30年代半ばごろ、そろそろジェット機が
旅客機の主役になってきた頃です。
羽田の東京国際空港だけでは、昭和45年ごろには
需要で満杯になってしまうとの報告がされました。
羽田空港の拡張は、当時の土木技術では難工事になること、
東京湾の船舶航路をふさぐ恐れなどが指摘され、
また拡張できたとしても、
今後さらに増加する需要には対応できないとされました。
そこで新空港を東京から100km圏内に建設することになりました。
新空港の規模は、滑走路を5本も有し、
当時最先端の航空機だったコンコルドが離発着できるよう
長さも4000m級が3本も予定されていました。
敷地面積は2300ヘクタール。
よく言う東京ドーム何個分、という表現だと、
500個は優に入ってしまう大きさになります。
現在の成田空港のほぼ倍の規模と言えばわかりやすいですね。
当時の運輸白書から、画像を拝借してみましょう。
…この規模はまるでアメリカ?とでも言いたくなります。
さて、候補地も絞られました。
管制空域や、敷地の関係で最終的に
千葉県浦安沖(当時まだディズニーリゾートのあたりは海)、
茨城県霞ヶ浦(今の阿見町〜美浦村近辺のようです)、
千葉県富里村周辺(現在の富里市。成田市の隣です)、
この3つが最後まで残りましたが、
富里案以外は羽田でも問題となった埋め立てを必要とし、
周辺の空港(浦安だと羽田、霞ヶ浦だと航空自衛隊百里基地)との
空域の干渉も問題となり、
富里案が現実的だとして動き始めました。
しかし住民に空港建設を打診したところ、猛反発。
まあそりゃ誰だって、「空港を作るから出て行け」と言われれば
怒って当然なのかもしれません。
しかもこの地域は戦後満州などからの引揚げ者が多く住んだ土地。
ようやく手に入れた安住の地を、脅かされてたまるかという
ごくごく当たり前の理由によるものでした。
仕方なく、当時皇室財産として持っていた、
「下総御料牧場」を中心とした、成田市三里塚近辺を予定地とし、
規模も当初の半分、1060ヘクタールで滑走路3本、
おおよそ現在の成田空港の原型がここに出来上がりました。
とにかく、大きさよりも空港の存在そして航空需要をさばくことが
最優先でしたから、仕方のない判断といえます。
昭和44年、用地買収が進む中での計画図です。
もう、ほとんど現在の成田空港の形になりました。
滑走路の話でお話したとおり、
成田の気象観測が行われ、滑走路の向きについては
風向きなどの気象条件を考慮して決められています。
季節風の方向にあわせた2本の滑走路と、
北東や南西の風にも対応できる横風滑走路から成り立ちます。
しかし、ここからがうまくいかなかったのです。
折りしも昭和40年代の日本は学生紛争に代表されるように、
保守的な考え方に反抗する左翼主義的なムードが漂っていました。
この成田空港建設もそんな運動家たちに目をつけられ、
やがて「非常時には米軍の基地となり、
日本はアメリカの戦争に巻き込まれる」
「同じ地平を攻撃するための日本の軍事要塞化につながる」
「すなわち成田空港があると、日本は軍国主義化する」
根も葉もない彼らの言い分に農民も同調してしまいます。
土地買収に応じないのならば仕方ないのですが、
他の建設地の邪魔をしたり、
滑走路の延長上に鉄塔を作ってしまったりと、
実力行使に打って出てきたのです。
警備隊との衝突もたびたびで、
中には警備隊を待ち伏せして襲う事件も発生し、
さまざまな衝突の結果、警官3人、学生1人が亡くなっています。
結局、なんとか力ずくで1本目の滑走路を作るのが精一杯でした。
これでも、開港直前に反対派が管制塔に侵入、
機器を破壊するという騒ぎがあり、
開港が2ヶ月遅れ、世界にさらに恥をさらしてしまったのです。
開港は1978年(昭和53年)5月20日でした。
また、いくつかの問題も残っていました。
たとえば、航空燃料を輸送するパイプラインの問題です。
今は千葉港から伸びるパイプラインで燃料が運ばれていますが、
当時はJR(国鉄)を使い、千葉港や鹿島港から
成田市土屋の建設資材取卸し場まで運び、そこから空港までを
パイプラインで流すという無駄な方法がとられていました。
パイプラインを作る土地も確保できなかったのです。
ちなみに昭和58年にパイプラインは完成し、
土屋の取卸し場の広大な跡地には、
やがてイオンショッピングセンターが出来るなどしています。
そのほかに、旅客を運ぶ鉄道の問題がありました。
当時、空港への鉄道は京成鉄道のみ。
しかも駅は、現在の成田空港駅の位置ではなく、
現在「東成田駅」と呼ばれている、知る人ぞ知る駅です。
簡単に言うと、1期工事で完成した
第1ターミナルとは500m程度離れています。
不便でした。
「国鉄成田新幹線」を作る構想が別にありましたが、
千葉県内のみならず都内でも用地が買収できず、
計画が頓挫したのです。
この新幹線の名残が、現在のJR京葉線の東京駅地下ホームになり、
また、千葉ニュータウンへ伸びる北総鉄道になります。
現在も、北総鉄道の横には幅100m近く無駄な敷地があり、
新幹線が通るはずだったことを身近に感じさせます。
(写真は千葉ニュータウン中央駅周辺。
駅の北側の土地が空き地のままです。)
ちなみに、この新幹線のための線路を利用したのが、
今のJRや京成の空港第2ビル、および成田空港駅なのです。
1991年に利用開始となりましたが、開港からほぼ13年間、
京成の東成田を使わなければならなかったのです。
このとき、成田エクスプレスの運行も開始されました。
成田空港の不便さを見かねた当時運輸大臣の石原慎太郎氏の
鶴の一声で、成田新幹線は在来線に姿を変えました。
現在、成田新幹線の計画が完全に消滅したわけではなく、
北総線を延長して成田空港までつなぐ、
成田新高速鉄道線が予定されています。
2010年開業を目指し、現在工事が進んでいます。
完成すれば、京成スカイライナーがこちらを経由することになり、
最速で36分で上野から空港を結ぶとのことです。
さて、1期工事を完成した成田空港ですが、
その間にも航空需要はさらに増え、
2期工事を行い成田空港を完成させる必要がありました。
そこで2期工事が始まり、
現在の空港第2ターミナルや、B滑走路の建設を進めました。
ここでまた脱線になってしまいますが、
通常、このような公共施設の建設において、
土地の買収がうまくいかない場合、
土地収用法に基づいて、都道府県の収用委員会が、
適正な手続きで土地を収用します。
成田空港建設の際にもこれが機能していました。
しかし、1988(昭和63)年、左翼活動家たちが、
この収用委員会の会長を襲撃し、
会長が瀕死の重傷を負うという事件が発生。
収用委員会のメンバー全員が襲撃を恐れ辞めてしまい、
収用委員会が事実上機能しなくなってしまいました。
以後16年間、2004年12月まで千葉県には
収用委員会がない状態が続きました。
このため、成田空港の土地収用はもちろん、
高速道路や鉄道建設の際にも土地が収容できず、
千葉県の交通行政に大きな影を落としています。
一例としては東京外環道路の三郷〜市川間の未開通、
つくばエクスプレスなど鉄道建設の遅れがあります。
さて話を戻すと、
第2ターミナルは1992年に完成、開業し、
第1ターミナルは半分(北ウイング)を閉鎖して、
改良工事に入ります。
このため、ほとんどの航空会社は2タミを使うようになりました。
この時代、1タミを使ったことがない人がほとんどかと思います。
北ウイングの工事が終わると、
すぐに南ウイングが閉鎖、工事開始となりました。
また、二本目の滑走路建設も本格化します。
90年代には左翼活動も下火となり、
住民代表との円卓会議も成功。
買収できる土地が増えました。
おかげで二本目のB滑走路も、
2002年日韓ワールドカップにあわせようやく暫定的ですが完成。
第1ターミナルも、ショッピングモールを備えた中央ビルを
新たにオープンさせます。
2004年4月1日、新東京国際空港公団が民営化し、
成田空港株式会社に名称変更。
教科書で教える正式名称も、この日から
「成田国際空港」になりました。
(これ、以外に知られていない事実です)
そして皆さんご存知のとおり、
1タミの南ウイングも改良工事を終え、
2006年6月1日にオープン。
ANAをはじめとするスター・アライアンスの航空会社などは
いっせいに1タミへ移動しました。
今度は2タミが工事をする番というわけです。
(これは免税店のお話のときご紹介済みですね)
今後は、B滑走路の2500m化、そして横風用滑走路の完成を
目指すばかりとなりますが、
まだまだ未買収地は残っています。
また、今後更なる航空需要の拡大に対して、
成田空港の更なる拡張も必要となるかもしれませんし、
検討中の首都圏第三空港のこともあります。
今後成田空港はどういう方向へ向かうのか。
誰の目にもまだ見えないようです。