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【社説】

週のはじめに考える “ネット社会”の孤独

2008年7月13日

 秋葉原の惨劇から一カ月がたちました。個人の責任を追及するのは当然ですが、再発防止のためには社会的背景にもっと目を向けなければなりません。

 コミュニケーションの道具が飛躍的に発達し、いまやパソコンや携帯電話があれば、世界中と瞬時につながることができます。知らない他人と自由に話せ、メッセージを交換できます。

 それなのに加藤智大容疑者の孤独感、孤立感、疎外感の深さはどうしたことでしょう。寂寥(せきりょう)感、劣等感、悲しみ、怒り…など、便利なコミュニケーションツールを駆使して彼が紡ぎ出した言語は負の感情を表すものばかりです。

 随所に格差社会への不満

 “ケータイ”の掲示板に残された書き込みからは、仲間がほしくて、周囲とつながりたくて、懸命にサインを送っても果たせず、自己嫌悪に陥っていった葛藤(かっとう)が浮かんできます。

 独善的で自分に甘く、内省しようとしない彼の姿勢が周りの人に愛想をつかされ、孤立をもたらした面もありますが、周囲の環境に由来する面もあります。

 書き込みには格差社会、不安定な雇用に対する不満や不安が随所に現れます。

 必要な時だけ低賃金で労働者を集め、不要になれば切り捨てる。それが当たり前になったいまの社会で、若者たちは訴えても訴えても為政者に声が届かないもどかしさに焦りを募らせています。

 昨年、「希望は戦争」と公言する若い論客が登場して注目を浴びました。若者がいくら努力しても普通の生活ができるようになる道筋が見えてこない、閉塞(へいそく)状態に対する絶望感の表明でした。

 「戦争が起きればすべての秩序が崩壊する。ならば浮かび上がるチャンスだ」という論理展開は挑戦的で刺激的ですが、少なからざる共感を呼んだようです。

 登場人物と自分を重ねて

 今年は若い人の間で「蟹(かに)工船」ブームだそうです。プロレタリア文学の最高傑作とされるこの小説を一九二九年に発表した小林多喜二は、四年後に特高警察に逮捕、虐殺されました。

 オホーツク海でカニを捕って高価な缶詰に加工する蟹工船「博光丸」の労働者は、低賃金で酷使され、劣悪な労働環境、暴力、過労などで次々倒れてゆきます。はじめはあきらめていたものの、やがて団結してストライキに踏み切ります。一時「帝国海軍」の介入で弾圧されますが再び立ち上がる、という筋書きです。

 文庫本が書店に平積みされ、若い人を中心によく売れているとのことです。読者は登場人物に自分を重ね合わせるのでしょう。

 職場が頻繁に変わる浮草のような派遣労働者の加藤容疑者にとって、“ケータイ”は自分と外部をつなぐ細い糸であり、秋葉原の街は自己の存在を確認できる象徴的な場所でした。

 ネットオタク、アキバ系などと称されるネット文化の担い手と、加藤容疑者のようなワーキングプアといわれる若者たちとは、重なっている部分が多いそうです。

 ただし、蟹工船の労働者と違って、彼らに対しては正面からのむき出しの弾圧はありません。目の前にあるのは、グローバル化、規制緩和という大義名分で勝ち組と負け組の格差を大きくし、弱者のセーフティーネットを狭める経済、雇用、福祉などの政策です。

 制度、政策は「帝国海軍」のようにはっきりとは見えませんから焦燥が深まるばかりで、怒りをぶつけるべき相手をつかみかね、閉塞感が募るのでしょう。

 加藤容疑者と同じ境遇の若手労働者の間には、博光丸で生まれた団結も連帯もありませんでした。“ケータイ”を操るだけでは、交わした言葉が結びついて力に転化することはないのです。

 真のつながりのないネット会話は、冗舌なだけで内省を誘うこともありません。心の中で自分と対話することがありませんから、直面する問題の核心がつかめず、不平、不満を並べるだけに終わったり、怒りをとんでもない方向へ向けたりすることにもなります。犯行はその結果でしょう。

 むろん刑事責任は厳正に問うべきです。計画的で残忍な犯行に同情の余地はありません。しかし、厳罰に処すべきだからといっても犯行の背景を無視していいことにはなりません。

 この社会をどう変えるか

 かつて不況などによる閉塞感からナショナリズムが高揚し軍部の暴走を後押ししました。最近「ネット右翼」と呼ばれる言論が飛び交い、容疑者を英雄視する書き込みもあることが懸念されます。

 犯行動機は種々の要素が絡んで複雑でしょうが、「日本社会はどうあるべきか」という核心を見失わないようにしたいものです。

 

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