9年前、JR下関駅で起きた通り魔事件で、最高裁が上告を棄却し、殺人罪などに問われた被告の死刑が確定する。
刑事責任能力が争点となり、心神耗弱とする精神鑑定もあったが、いずれの裁判所でも退けられた。被害の甚大さからは妥当な結論と言えようが、鑑定のあり方が改めて問われる格好となった。裁判員裁判のスタートを前に、評価などを市民に分かりやすくするため、鑑定制度の見直しを急がなければならない。
この事件は車ではねた後、刃物で襲った犯行の手口が、先月の秋葉原の無差別殺傷事件と酷似している。えん世的な気分に浸り、自分の惨めさを社会の責任と思い込んで犯行に及んだ、という経緯や動機も共通する。さらに、被告が触発されたという東京・池袋の通り魔殺傷事件の死刑確定囚とも、考え方が重なる。
下関、秋葉原、池袋の3事件の被告らは、名門校に進んだ優等生なのに挫折を味わった経歴や、友人に恵まれずに孤立したり、家族関係もうまくいっていなかった……といった境遇も似通っている。優秀だった分、期待も挫折感も大きかったともいわれている。
もちろん犯行は身勝手で、くむべき情状とはならない。だが、事件に共鳴して新たな事件を起こす、という不気味な連鎖を注視し、断ち切らねばならない。秋葉原の事件後1カ月に全国で33人が事件をまね、インターネットに犯行予告の書き込みをして摘発されたが、これらも単なるいたずらで片づけてよいものか。続発する若者の自殺も、絶望感や不満のはけ口を自分に求めるか他人かの違いがあるだけで、通り魔事件と通底するかもしれない。
こうした若者を追いつめている要因を探り、対策を講じる必要がある。秋葉原事件では派遣社員の問題が指摘されているが、就労構造や所得格差だけでは人を殺傷する理由にならない。
大衆運動や労働運動が衰退したため、抗議や異論を唱える道も閉ざされたと感じ、閉塞(へいそく)感が増幅されている、という声もある。各界のリーダーらのモラルを忘れた不行状が、まじめに働く人々の意欲をそいでいても不思議ではない。都市化や核家族化を背景に人間関係が希薄になり、相談相手に恵まれにくくもなっている。もちろん教育やしつけの影響も見逃せない。
秋葉原の容疑者がブログに「おれが必要じゃなくて、人が足りないから来いと言われた」などと書き込んでいたことも印象的だ。合理化やコスト削減が優先される一方で、人としての尊厳や人格が損なわれるケースが増えてはいないか。
被告の有罪確定で事足れりとしていては事件の再発防止は望むべくもない。悲惨な事件を繰り返させぬためにも、社会のあり方を多角的に点検すべきだ。
毎日新聞 2008年7月13日 東京朝刊