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読書日記バックナンバー(2006年)




就農ルート多様化と展開論理
 澤田守
 農林統計協会
 2006/12/29
日本ではこれまで主に直系家族のあとつぎによって農業継承が行われてきたが、本書ではそのような伝統が壊れて就農ルートの多様化が進行していることを精力的なデータ検証を通じて論証している。その多様化された就農ルートとして、筆者はUターン就農、定年帰農、非農家出身者の新規参入、農業法人への就職等を想定しているようであるが、本書では農業法人への就農以外のそれぞれに対して章を設けて論じている。特に筆者はこれまで主であった地域実態分析による研究に対して、大量な統計データを用いた分析を行っている点を本研究のオリジナリティとしている。実際にはそれには農業センサスの組み換え集計データが必要であるが、それが容易に得られる農水省の農業研究センターにいたから成し得たことであろう。本書は筆者の博士論文をそのまま一冊にまとめたもののようであり、始めから終わりまで読み通すとなかなかしっかりしたもので論理展開の一貫性と緻密性に感心させられる。特に農地流動化の阻害要因と見る見解と農業や地域の活性化要因と見る見解とに分かれる定年帰農に関しては、「現代農業」等の言説という形での扱いが多かったテーマに対してここまで学問的追究をしているものがあるとは驚きであった。しかし、定年帰農の定義に関しては少し違和感があり、「他産業に従事していた人が、定年退職後、農業に主として従事する現象」という定義は妥当で、定年後Uターンする「定年農業還流」や定年後新規参入する「定年農業参入」は分かるのであるが、農家に同居して他産業に従事していた労働力が定年を契機に農業従事を強化して専業従事する「定年農業専従」を定年帰農と呼んでよいものだろうかと思う。農業にほとんど従事していなかった人が退職などの理由に兼業従事がなくなることによって比較上「農業が主」になる見かけ上の定年帰農を除外しているとは言え、筆者のように「定年農業専従」に焦点を当てて定年帰農を分析することが果たして可能かどうか。とはいえ、本書の分析から、「定年帰農の増加傾向は、必ずしも経済的な要因だけではないこと、また、今後の傾向としても非経済的な理由である健康管理、家産維持を理由とした定年帰農が続くこと」も確かである反面、「定年帰農志向」と「離農志向」の二極化が進むことが予想されるのもまた確かであろう。また、新規参入についてだけは全国的な統計データがないせいか地域実態分析によって取りまとめているが、どれだけ支援しても地域によっては兼業農家主流の中で専業農家として成り立たせること自体が難しい点や「農村の地域社会と、新規参入者側との間を結びつける仲介的な役割を果たす人材、組織」の必要性が課題として結論付けられる論理展開が非常に分かりやすかった。なお、近年若年層を中心として希望する者が多い農業法人への就職という就農ルートに対する検討が本書の残された課題となっているが、そのテーマは現在私の所属する研究室の卒業生が卒論として取り組んでいるので彼に期待したいところである。



自由訳・養生訓
 貝原益軒著、工藤美代子訳・解説
 洋泉社新書
 2006/12/28
「養生訓」は江戸時代の儒学者である貝原益軒の書いた本である。益軒はこの本の中で飲食から性行動、医療、子育て等様々なことについて指南している。益軒は平均寿命が今よりもかなり短かった時代に83才まで生き、自らの体験を通じて健康・長寿を実践し、欲を抑えて身の丈にあった生き方が老年期の安寧をもたらすことを述べています。特に食欲に関しては、腹八分目を第一に、食べ合わせから食べてはいきないもの、食い合わせの悪いものなど事細かに書かれており、江戸時代でも現代社会と同じまでとは言わないまでも、かなりの飽食が実現されてそのことが健康を害することが言われ始めていたことがうかがえる。私としても耳が痛いことが多いのですが、「後悔先に立たず」と後で思わないようにしないと、という思いになり、この正月はめずらしく食べ過ぎることなく普通の食生活という感じであった。また、益軒は当時の京都でかなり女遊びに興じたようであり、性行為についてもかなりの禁欲を訴えていて、年齢ごとのセックスの回数まで書いているのは驚きである。有名な「接して漏らさず」という言葉はこの「養生訓」から来ているものであるが、いろんな意味で使われることが本来そういう言葉であったということすら知らなかった自分が情けない。とにかく、その他、子供の教育では「三分の飢え」、医療では「無闇に薬を飲まないこと」などが重視されている点等、納得がいく部分が多く、おおよそ益軒の言っていることは大筋ではあっているだろうというのが個人的な実感である。本来はかなり難解な本らしいが、このように読みやすく翻訳してくれた訳者には感謝したい。



憲法九条を世界遺産に
 太田光・中沢新一
 集英社新書
 2006/12/26
私は金曜夜のテレビ番組「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中」が好きで、この番組を見るようになってから太田光に対する見方が変わった。普段はお笑いでわけのわからないことを言っているようであるが、社会や政治のことをよく考えていて勉強もしているようである。この本もそんな太田光が出ていて、学者の中沢氏とほとんど対等に議論を行っている。日頃はあまり意識していなかったが憲法第九条は世界の中でも極めて貴重で、本来国民を守るべき国家が非戦を唱えているというのは奇跡的なことなのだ。著者らが「世界遺産に」と言ったのはそこであり、確かに一理ある主張である。しかし、宮沢賢治の思想が田中智学への傾倒で戦争を肯定してしまったように、極端な平和主義は矛盾をはらんでいることも確かである。太田は桜の木が死をイメージするものであることを取り上げて説明しているが、私も梶井基次郎から誰かの短編で桜の木の下に死体が埋まっていることを読んだ記憶がある。オーム事件で少し批判された中沢氏の考えの深さにも改めて関心させられるが、それ以上に藤原正彦「国家の品格」やジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」、坂口安吾「桜の森の満開の下」、司馬遼太郎「竜馬がゆく」、五木寛之「青年は荒野をめざす」など様々な本を読んでいる太田光にも関心させられた。テレビであれだけしゃべるにはそれだけの知識や雑学を兼ね備えていないといけないのだろう。



巨人伝
 津本陽
 文藝春秋
 2006/12/25
少し前に読んだ中沢新一「森のバロック」に魅せられて南方熊楠のことをもっと知りたくなった。歴史小説で有名な津本陽による本書なら最もよく書かれているだろうと、分厚い本を図書館で借りた。死んだ両親と話をしたり動植物に意志が通じたりと、どこまでが真実なのか分かりかねるが優れた記憶力など人間離れした能力の持ち主であったことは確かである。しかし、本書を読むとそのような偉人だからこそ様々な問題も抱えていたことがうかがえる。夏目漱石や正岡子規と同期で東大入学への道を歩んでいたが挫折し、アメリカ留学やロンドンでネイチャーへの投稿等にも関わらず大学卒業や学位取得を成しえなかった。一生をかけてかなりの隠花植物の同定を行うという膨大な作業を達成したにもかかわらず、型にはまったことが嫌いなようですぐに投げ出してしまうところがあったようである。その他、大酒のみで酒乱ぎみなところがあり、弟常楠や隣人とのいさかいが絶えず、終始お金に困るなど、安心した生活を送っていたとは言いがたい。土宜法竜や柳田國男と書簡をやり取りしていたことは中沢氏の本でも知っていたが、孫文と交流があったことや天皇の紀南行幸で神島を案内したことは本書で初めて知った。研究としては隠花植物が中心であったようであるが、論文としては神話に関するものが多く、この人には専門という言葉はふさわしくないようである。先日の中沢氏の本と読み比べて思ったことは、学者からの見地で書かれたものと小説家によって書かれたものの違いが大きいということであり、特に本書では神仏習合で神木伐採への反対運動は小説家ならではのリアリティーをもって書かれていた。しかし、最後は精神の病におかされた息子へ思いに終始苛まされたのは特殊な能力を持った熊楠の運命であったのだろうか。



鳥獣たちと人間−形成均衡の世界へ−(農文研ブックレット16)
 祖田修
 農耕文化研究振興会
 2006/12/19
本書の筆者は「農学原論」という農業哲学の大著を書かれた方でお会いしたいと思っていて、先月とある会合でやっとその機会を得た。このブックレットはそのときに筆者が携えてこられたものである。本書は非常にうすい冊子であるが、内容は濃いもので、「農学原論」のテーマの1つである「形成均衡の世界」というキーワードが鳥獣害問題をもとに展開されている。つまり、現代社会で大勢を占める成長・発展を第一とする考えと、ディープ・エコロジーを代表とする自然中心主義の止揚を目指す均衡点に対する筆者なりの考えを提示している。その際にダーウィンの「生存競争・自然選択」と今西錦司の「すみわけ」の考えを出している点が筆者の独特なところであり、こんなところで登場するなら生物学を勉強していた頃にもっとダーウィンや今西錦司の著書を読んでおくべきだったと今更ながら思われる。それにしても本書の初めで述べられる鳥獣害の被害のデータや例は極めて深刻であり、いわゆる有機農業や筆者も述べる「少欲知足」の倫理だけでは超えられないものだと改めて考えさせられた。



他人と深く関わらずに生きるには
 池田清彦
 新潮文庫
 2006/12/16
筆者は生物学の分野ではある程度有名な方であるので名前はよく知っていたが、本を読むのは初めてである。筆者専門の「構造主義生物学」の本は全く読んだことも無いのに、このようなエッセイ的な本を読むことになったのはたまたま母親から勧められたからであるが、最近読んでいる個人主義関係の本、山崎正和等との内容が関わりがあるのは偶然である。とはいえ、筆者の特徴かもしれないが、山崎氏の本に比べてかなり辛口というか極論的な意見が目立つ。「病院にはなるべく行かない」、「自力で生きて野垂れ死のう」というのは私の主義に合っているとしても、「車もこないのに赤信号で待っている人はバカである」、「心を込めないで働く」、「ボランティアしない方がカッコいい」というサブタイトルはちょっと言いすぎではないかと言いたくなる。そのうち読もうと思っている「環境問題のウソ」もそうだと思うが、筆者は少しタカ派的なところがあるようである。筆者がひどく嫌っているようであるパターナリズムに問題があるのは確かであるが、社会システム上の限界があるのも確かである。筆者がやればできると考えている自給自足や狩猟採集で生活していくことは、日本ではそうそうできることではない。つまりは、筆者が言いたいことは結果平等主義でなく原則平等に留めるべきということで、このことが後半部分で教育制度や税制等で様々な提案をする前提となっているようである。



コメを選んだ日本の歴史
 原田信男
 文春新書
 2006/12/3
農学系学部で学ぶ身にあるので日本農業における水田稲作の重要性については、何度か習ってきたはずであるが、タイトルにあるように日本人がコメを選んだ理由はと尋ねられると必ずしも明確な回答をする自身がない。おそらく気候風土が合っていたことと、単位面積あたりの収量効率が最も高かったことがはじめに思いつくのであるが、この本では少し視点が違う。もしそうであれば、もともとコメの適地ではなく、冷害や旱魃の多かった東北や北海道でわざわざコメを選ばなかったであろう。筆者の言うとおり、石高制への統一や集団作業の必要性ということで支配する側の便宜という観点も多分にあったことだろう。さて本書の最後では容易にコメから離れた食生活に向かう現代人の傾向とともに、「平成コメ騒動」で日本人の国産ジャポニカ米への執着が明るみになった日本人の嗜好が語られているが、このどちらを本質とするべきか。本書ではコメと日本人の関係が歴史的観点から詳細に分析されており、今までになかった視点を提起していておもしろい。最初のコメの伝播ルートや稲作起源が弥生時代か縄文時代かというところは、少し冗長ぎみで退屈であったが、後半の展開がドキュメントタッチで特に読みやすい。肉食の禁忌がコメへの偏重をもたらすための政治的意図であったなら、健康のことを考慮して肉食を強く否定する人々の論理はどのように捉えれば良いのか悩ましい。むしろ一般庶民が腹いっぱいコメを食べられるようになってまだ100年にも満たないとすれば、我々の遺伝子にそのような食生活が組み込まれているかどうか怪しいのではないか。本書はコメに関していろんなことを考えさせてくれる。作ることでも食べることでもコメに興味のある人には必読の書であろう。



森のバロック
 中沢新一
 講談社学術文庫
 2006/11/27
タイトルだけ読むと何のことやらわかりくにい本であるが、南方熊楠の残した考え方や学問的意義を通して新しい学問のあり方を提示したものといえる。南方熊楠については昔に生物学を勉強していた頃に生態学者のよく名前は聞いていたが、彼についての本は読んだことが無かった。この本は人物伝ではないが、最初に少し彼の生い立ちが書かれており、幼少の頃の大病を乗り越えて丈夫になるように「熊楠」という名前が付けられたこと、有名な「林中裸像」が田辺で撮られたこと、柳田國男と民俗学について異論を唱えたことなどが書かれていて非常に興味深かった。特に、名前については動物的象徴としての「熊」と植物的象徴としての「楠」の両方をつけられた彼が、ライフサイクルの中で動物と植物の両方の性質を表す粘菌の研究を行ったことは宿命的なものを感じる。その他、本書では燕の運ぶ石が安産を呼ぶという神話が現実の知識との関連から生まれていることや、南方マンダラが事実とことわりを超越した普遍的なものを表していること、粘菌類からオートポイエーシスとして生命システムを見る熊楠の生命観など、レヴィ・ストロースの「野生の思考」を援用した人類学者らしい考察が書かれている。アーラヤ識やマンダラに関する用語は私の理解をはるかに超えているが、アカデミックな世界からは離れたところに身を置いて学問を続けた熊楠が残した学問的意義がよく伝わってきた。私はすでに相対的にしか物を見ることができないほどに現在の分析的学問にどっぷりつかってしまっているが、彼の行ったような絶対知的なものを見出そうとする学問には目からうろこが落ちる部分が多々あり、自分の客観的な立場に身を置いて行う今の学問のやり方で本当に良いのだろうかと不安にさえなった。なお、南方熊楠については自然農実践者である鏡山悦子さんたちの書かれた「オピーピーカムーク」第6号にも詳しいのでそちらも必見である。



夢見る力 スピリチャリティと平和
 おおえまさのり
 作品社
 2006/11/20
本書の作家とは昨年の自然農の実践者の集いに来られていたときに出会っていた。その時はその人が山梨県の自然豊かなところで自然農をしながら執筆活動をされているとは全然知らなかった。10月に山梨へ調査に行った際にまたお会いしていろいろな話を聞いた。著者は若い頃アメリカに行って映画制作をしており、インドに旅した際に『チベットの死者の書』に出会って翻訳したという。最近はスピリチャリティという言葉はテレビなどでも興味本位に使われていることもあるように思うが、本書はそんな不純な意味でこの言葉を使っているのではない。この本では「ドリームタイム(いのちの夢見)」をキーワードに、霊性や魂の持つ力で9・11以降のいのちを見失った武力に訴える世界を乗り越えようとする、著者の平和への思いが語られている。著者が世界各国を撮影する中で出会った、オーストラリアのアボリジニやアメリカのネイティブ・インディアンたちの自然やいのちに対する眼差しを通じて、精神と物質を二元的に分離してしまった現代社会の問題点を案じられている。筆者はこの本が自分の本の中では一番読みやすいと言ったが、私にはやはり難しすぎるため、どうしても自分の興味のある自然農について書かれている部分を先に読んでしまった。筆者は福岡正信の自然農法や岩澤信夫の不耕起冬期湛水田、ビル・モリソンのパーマカルチャーのそれぞれの長所を示しつつも、その中で自然農を選び、地域通貨「湧湧(わくわく)」の仲間とともに取り組む。そして、最後は世界の平和活動を写真入りで生々しく紹介しつつ、憲法第9条の意義を改めて気づかせる。私のように論理で考える癖のある者にはとっつきにくいが、非常にリアリティのある本であった。



柔らかい個人主義の誕生
 山崎正和
 中央公論社
 2006/11/14
「個人主義」という言葉を冠した本を最近よく見るようになった気がするが、これは「間人主義」と言われた日本人において個人主義が育ってきたことの表れと言えるだろう。しかし、もともと西洋社会とは文化的・歴史的背景の異なる日本で全く同じ個人主義が発展することはないようで、この本もそのような意味で「柔らかい」という修飾語をつけているのだろう。筆者の文章は高校時代の現代文の教科書に出てきて難しいという記憶が残っているが、この本もそのとき以上に読んでいて難しいという印象を持った。これはおそらく筆者が劇作家という特殊な仕事に就いていたこともあるだろう。私が読んだ文献では技術や知の分野でも演技は独自の位置づけを与えられることが多いようで、芸術の中でも演技というものは少し異なる様相を呈していると思う。ということで、本書の要約は筆者によるあとがきにゆだねれば、第1章「おんりい・いえすたでい'70s−ある同時代史の試み−」の眼目は、「現代人が個別化を強めていく社会的な条件の成立、ならびに、生産と消費の行動の構造的な変質を記述することにあてられている」。第2章「「顔の見える大衆社会」の予兆」の中心的な主題は、「社会の中間的な組織の重要性と、それに関連する社交の意味を明らかにすることであり」、第3章「消費社会の「自我」形成」の主旨は、「社交が成立する必然性を消費の本質から説明することであった」。筆者の問題意識にあるように、高齢化によって一生に占める生産や賃労働の従事する期間がどんどん短くなっていく現代において、消費ということが極めて特別な意味を持ってくるのであって、今までのような生産至上主義における消費という行為を維持し続けていては自我の存続が危ぶまれることになってくると言える。また、職場としての企業という組織の意味も変化してくると思われ、このような筆者の考えは現代のニートや定年後の問題にも通じるものであると感じた。



新・環境倫理学のすすめ
 加藤尚武
 丸善ライブラリー
 2006/11/12
前著「環境倫理学のすすめ」を読んだとき、環境倫理学を扱う人の中でも一目置く存在であることを意識した。その後、14年経過して続編を書かれていたことは、環境問題において私が支持する内藤正明氏と農系社会と工系社会に関するちょっとした論争を行った安井至氏のホームページでも、この続編が紹介されていて知っていた。やっと読むことができたが、環境問題を扱う人や生態学者等の様々な文献を適宜引用して、論理的に持論を展開させている読み応えのある本である。最初にコンゴとルアンダの紛争地域で不法に採掘された携帯電話に使用されるタンタルという金属についての言及から始まるところからして、著書の知的情報の深さに圧倒される。ちゃんと新聞を読んでいれば知っていて当然のことかもしれなが、私は半年ほど前の「ゴルゴ13」のテーマとしてこのタンタルが出てきたことで初めて知ったことだ。前置きはさておき、本書で目からうろこなのが、第4章の「保全保存論争」のところでディープ・エコロジーの論理的矛盾をついて、これが趣味的な人間中心主義批判に過ぎないことを結論づけたところである。ピンショー対ミューアの「保全」対「保存」論争も始めて知ったが、このような論理の中で普遍的な理論として、カントやサルトルといった哲学者を登場させるのが著者の哲学者だからこその強みであろう。とはいえ、第5章や第6章では「社会生物学」のウィルソンや「進化論」のマイヤ等も登場させ、ガレット・ハーディンやハーマン・デイリー、アマルティア・セン、J・S・ミル等哲学以外の様々な人の理論を登場させて、それを自らの理論の中に位置づけるのは並大抵の情報整理能力ではできないことだ。アカデミックらしからぬ意見を言い始めた生物学者の池田清彦氏もその矛盾を指摘されては(P75)、手も足もでないであろう。本書は中盤からペンタゴン・レポートや自由主義、グローバリゼーション、サプライ・チェーン・マネジメントと拡散的になって行き、最後に「戦争による環境破壊」と少し寄せ集め的になるのが残念であるが、あとがきを読むと本書が連載物をまとめてできたものであるため、仕方ないのか。少なくとも、最後にまとめの文章がほしいと感じた。



マクロビオティックガイドブック
 日本CI協会・正食協会

 2006/10/31
熊野の山奥で1人で自然農による自給自足生活をしている女性がいるのであるが、この本はその方への調査の際に勧められて購入した本である。その方はマクロビオティックも実践しており、20年間動物性のものと砂糖は口にしていないという。なかなかできないことであるが、その方の高齢にも関わらず快活なところを見るとマクロビオティックは人間に健康的な生活、さらには生き生きした人生を与えるような気がした。前に読んだ本によれば、マクロビオティックの大家である桜沢如一氏もかなりアクティブな人であったようである。この本ではマクロビオティックの基本についてさらっと書かれているが、特に陰陽のことについて、人の体質の陰陽と、食べ物の陰陽について具体的にどういうものが陰でどういうものが陽であるかが書かれている。いま勉強中の漢方でも悩むことであるが、私はいまだに自分が陰性であるのか陽性であるのかわからない。体型や体質的には陽性のようであるが、性格的には陰性という感じだ。やはり中間ということなのだろうか。その他、この本にはマクロビオティック料理のレシピ等も書かれていて、ヒエコロッケや小豆カボチャがおいしそうだと思った。先日長野の「野風草」という自然農の農家民宿に行ったときも感じたことだが、マクロビオティック料理というのは決して質素な食事というものを感じさせない工夫がある。血液型ダイエットの本によれば私は狩猟採集民の体質を引き継いでおり、肉の消化に適した胃を持っているようであるが、環境問題という観点から言えば日本に住んでいる私がマクロビオティックを実践できれば、それは意義のあることであろう。



やまずめぐる −30年の農的生活を通して−
 町田武士
 ソニー・マガジンズ
 2006/10/10
学会での報告が間近に迫り本を読むペースが遅くなってきた。このような困難にも妥協せずに、自分のやりたいことを貫き通したいものだ。この本はNHK-BSの本を紹介する番組に出ていたのを母親に教えてもらったもので、本屋で立ち読みしてみてすぐ購入した。特に惹かれたのは、筆者が自給自足的な農的生活をするようになる前に自然農法で有名な福岡正信氏のところで修行をしていたことである。私が今年4月に行ったときには廃墟になりかけていた「小心庵」と「無窓庵」も筆者が行った当時は健在で、そこで寝泊りする人たちが数名みかん園や田んぼの作業に日々働いていたようである。そこで「不耕起直播栽培」の実際を見た筆者であったが、結局は発芽させることや雑草への対処の難しさのために断念してしまったようである。とはいえ、電気も車もないところで1年と数ヶ月も暮らしたことから福岡さんのところでの生活は筆者の生き方に影響を大きな影響を与えているようで、その後筆者は野菜の宅配や地粉のうどん屋をする際にも現金収入を目的としていなかった点に表れている。また、筆者は藤井平司氏からおいしい野菜を育てるためには生育期間を長くすることが重要であることや、肥料をやらずに野菜が自身の力で育つこと、葉脈に乱れの無いきれいな野菜を育てることを学んでいる。渡良瀬遊水池やコットンボール等の環境問題への取り組みの話も興味があったが、私には筆者の永続可能な農への取り組みや生き方の中での農の位置づけ方に考えさせられるところが多かった。なお、愛媛から栃木まで徒歩で帰った話も興味深く、このような筆者の強靭な精神には感服させられた。



人間性の解体
 コンラート・ローレンツ
 新思索社
 2006/9/21
動物行動学で有名な著者が哲学者としての本をこんなにたくさん書いているのを知ったのは最近のことだ。この本では筆者が後天的なものと先天的なものを適切に見分け、文明化してきた人間の過去と未来を分析する。まず、論理的思考から所有欲、教化されやすさ、美しいものに惹かれること、さらには嘘をついてしまうことまでが先天的に遺伝子にきざまれたものであり、テレオノミー的なもの、すなわち種維持的に有意義なものである。しかし、筆者はこれに甘んじて人類が滅亡の道を歩んでいくことを憂慮し、阻止する方法として後天的なものに可能性を見ている。その一つであるゲシュタルト知覚を身に付けるには、幼い時期に生きた自然と接することで多くのデータを供給することが必要であり、筆者はそのような教育の重要性を繰り返し述べている。このようなもの言いは、筆者が「刷り込み」という動物の行動を発見したことを考えれば納得がいく。そして、筆者の考えでは人間の機能は一見合理的に見えるが、絶滅した多くの種に見られるように進化の方向が必ずしも未来永劫合理的とは限らず、その意味で人間は様々な誤機能を抱え込んでしまったと振り返る。不快なものをすべて避けることもそうであろうし、技術主義システムや大規模論理への傾倒もそうであろう。筆者は特にこれらが正のフィードバックによって人間社会の中で加速的に拡大されてきたという。非常に難解な文章が多いが、様々な他の動物の行動を例に出して人間行動の特質を見抜く点は説得的であり、様々な危機に直面するこれからの人類にとって非常に意義のある言葉が多分に含まれているであろう。なお、筆者が引用するように、カール・ポパーやオルダス・ハクスリー、ダーウィン、チョムスキー、カントなど様々な先人も筆者の意見を支持しているといえる。



大学生の論文執筆法
 石原千秋
 ちくま新書
 2006/9/15
自分としてもかなり高い壁にぶち当たっているような気がする。なかなか論文がかけない。だからといってこのような本を読んでどうのこうのなるわけでもないのだが、気晴らしにビデオでも借りようと思ってレンタルビデオ屋に行ったら結局気になってこの本を買ってしまっていた。筆者は意図的にそのような書き方をしたのかもしれないが、この本は書いていることのレベル観が統一されていない。引用の書き方が書かれているかと思えば、批評と論文の違いが書かれていたり、大学生の勉強へのアドバイスが書かれていたりと、いかにも書き下ろしだ。でも興味深い内容や参考になるところも多く、ビデオを借りて後悔するよりは良かったのではないかと思う。筆者はカルチャラル・スタディーズにかなり批判的なところがあって、それに関したことが多く書かれているが、私はそのカルスタをあまり把握していないので、内容が十分把握できないところがあった。特に、「学会の道徳の時間」や「ストーリー系の論文とプロット系の論文」がピンとこない。そもそも筆者は文学部出身で現在も教育学部教授であるから、私が書くような論文とは方法論が異なるのかもしれない。とはいえ、論文中の文章の厳密性が問われるのは分野に関係ないであろうから、筆者のような一文一文じっくり真剣勝負をする姿勢は学ばなければならないだろうし、「線を引くこと」が論文のたった一つの方法であるというのは真理をついているのだろう。なお、細かい話であるが、私はこれまで「リアル」と「リアリティー」の違いをあまり意識しておらず、本書で初めてそのことを教えていただいた。



生きる場の哲学 −共感からの出発−
 花崎皋平
 岩波新書
 2006/9/7
図書館で内容をあまり吟味せずにタイトルだけで選んで借りた本である。筆者はもともと哲学者であったが、全共闘運動に参加したことをきっかけに大学を辞めたという経歴がある。この本の主題は非常につかみにくい。私には人間が生きるうえで幸せになるためには共感、つまり共に楽しみ、怒り、悲しむという体験を通じて人とわかりあうことが必要ということがいいたいように思えた。筆者の書いているように、この本ではあまりにも内容を欲張りすぎたという感があって、世界各地の人との交流を通じた共感から始まって、科学技術批判、そしてマルクス等の社会科学的思想の分析と拡散的な展開と言わざるを得ない。しかも、筆者は哲学者であるから個々の内容は非常に緻密で難解である。正直言って途中で読むのを辞めようかと思ったほどであるが、いくつか興味を引く部分もあった。1つは科学批判の部分で、トーマス・クーンの「パラダイム」を引き合いに出して、中山茂や柴谷篤弘、高木仁三郎などの科学批判の是非を解説している部分である。もう1つは「根拠地」という概念で、筆者によれば「たとえ規模は小さくても、政治、経済、生活、文化の諸次元を縦断する総合的な人と人との関係の場」で、そこに共同の経験を蓄積して共に生き共に死ぬ共同の理念を追求する場としている。「根拠地」という響きはあまりよくないような気がするが、共感や共鳴の重要性や実践の必要性を言ってきた筆者の思いが表されているようである。確かに筆者の主観でしかないというそしりを受けるかもしれないが、私も同様の経験をすることが多いので、筆者のスタンスには共感するところがある。



臨床の知とは何か
 中村雄二郎
 岩波新書
 2006/8/29
臨床の知とはもちろん医学的なところから来ているが、渡植氏の「技術が労働をこわす −技能の復権−」にもあったように、「暗黙知」や「生活知」等に通じる広い意味のものである。そしてこの本では、「科学と生活世界」や「経験・実践・技術」などの広い問題が扱われている。(ここでの生活世界とは現象学で使われる「Lebenswelt」のことであり、生や生命を含むものである。)そのような考えを見て私は自分の問題意識が筆者と相通じるところがあることを感じた。もちろん、筆者は哲学者であるからパスカルやデカルトから出発してソシュールやレヴィ・ストロースの構造主義まで緻密な論理分析を行っていて、十分に理解しきれないところがあるが、近代科学や医療の問題を捉えて現在起こっている種々の問題を普遍的に対応させようとするところは、私が現代農業に対してもの申したい部分と同じなのである。筆者が臨床の知へ至る過程で出てきた、情念や共通感覚、演劇的知、パトスの知、南型の知も同様のことで、特にそれについて述べた第3章と第4章が本書の核の部分である。あまりうかつなことは言えないが、おそらくこのような筆者の考えはゲシュタルト的な考えに統合できるものであろう。さらに、最後の章では「脳死と臓器移植」と「説明と同意」という医療における大きな問題を取り上げているが、後者の説明の過程で「パターナリズム」や「マターナリズム」という日本社会が持つ自己決定の不明確さを挙げている点が興味深かった。おそらくこのことは日本の農村社会の持っていた問題も内在していることだろう。なお、本著者は岩波新書の「術語集」という本が有名でこの本の中で「臨床の知」や「暗黙知」も出てきているのであるが、実は予備校時代に講師から現代文試験の対策として読むように指導されて買っていたのである。偶然というべきか必然というべきかわからないが、昔の本を探し出して我ながら驚いてしまった。



創造の方法学
 高根正昭
 講談社現代新書
 2006/8/13
筆者は社会学を専攻していたようであるが、社会科学では特に計量経済学など特定領域を除けば論文を書くにあたって決まった方法論というものがあまりないようで、それぞれの人が独自の方法で論文を書いているとしか思えない。しかし、アメリカではある程度の方法論というものがあり、アメリカの大学にいた経験の長い筆者はそのことについて自らの体験をもとに本書の出だしの部分で述べている。とはいっても、それは原因と結果にあたるものを仮説もしくは命題で明確にするということであり、それほどきっちりとしたものではない。しかし、論文を書くにあたってこのような因果関係を意識しているかどうかは論文がシャープに書けるかどうかに大きな影響を与えるだろう。本書で述べられているようにマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」においても、このような枠組みが成り立っており、科学的説明をするなら独立変数(プロテスタントかカトリックか)と従属変数(資本主義の精神の有無)にあたるものを明確にすることができる。実際には他の有力な独立変数がないことを証明するのが難しいので、単純なようでなかなかできないことであり、筆者はこれができれば「記述」でなくて「説明」になるという。その他、アンケート等の数量的調査を用いるサーヴェイ・リサーチについて書かれた章に加えて、特に現場体験として参加観察法(participant observation)や事例研究法(case study method)について述べた章は、私が行う方法としての可能性を表していて非常に興味深かったが、それが逸脱事例として正常事例と異なる場合があることを示すにとどまらざるを得ないのはなんとも言いがたい。ともあれ、「記述的」や「印象的」といった批判的評価を受けないためにはこのような方法論に基づいて論文を作成することが必要ということであろう。



文明化した人間の八つの大罪
 コンラート・ローレンツ
 新思索社
 2006/8/10
生物学を学んでいた頃に本筆者の「ソロモンの指輪」という本を読んですごい感動した記憶がある。その頃からこのような本があるのは知っていたが、まさか今頃になって読むことになるとは思いもよらなかった。筆者は動物行動学で有名であるが、実際には動物学のほかに医学と哲学も修めている。本書はそのような筆者が、すべての知識を注ぎ込んで書いた人類に対する啓蒙書である。タイトルにある八つの大罪とは、人口過剰、生活空間の荒廃、人間どうしの競争、感性の衰滅、遺伝的な頽廃、伝統の破壊、教化されやすさ、核兵器である。意外に思えるかもしれないのが、不可避と思える人口過剰で入っていることであり、これは過剰な増殖が種の滅亡に至るという生物のことわりを知る筆者ならではの問題意識であろう。そして、哲学や医学を修めた筆者ならではと思えるのが、感性の衰滅、伝統の破壊、教化されやすさであり、これらは何十年と経った現在でも有効な示唆を与えうるものである。特に、伝統の破壊のところでは、「合理的に理解できることだけが、あるいは科学的に証明できることだけが、人類の確実な知的財産であるという迷信は、有害である」との一文があり、ノーベル賞まで受賞している研究者がこのように喝破していることには感銘を受けざるを得ない。私もこのようなスタンスを持ち続けたいと思う。最後に本著者の著書「攻撃」のフランス語版が出せれたのを機会に行われたレクスプレス誌によるインタビューが付けられているが、ここでもパブロフ的条件反射を敷衍した議論、つまり人間は環境の産物でしかないのかという議論が行われているのはいかにも動物行動学者らしく、インタビューの中で述べられた「豊かな社会では、乗り越えるべき障害のないことが、一種のフラストレーションともなっています」という言葉も彼らしい含意に満ちたものである。



持続可能な福祉社会 −「もうひとつの日本」の構想−
 広井良典
 ちくま新書
 2006/8/2
本書の著者は「定常型社会」という本の著者でもあることを本文の中で知った。J・S・ミルの思想を引き継いだと思われるが、そのような本があるなら本来先に読んでおくべきであったと思う。筆者によれば「定常型社会」とは「経済成長ということを絶対的な目標としなくても十分な『豊かさ』が実現されていく社会」のことであり、本書でも1つの章がこのテーマのために割かれている。著者にはこれまで日本が「カイシャ」と「家族」という昔の共同体が提供してきた社会保障があったが、これは経済成長が続くという与件のもとでしか成り立たず、少子・高齢化や環境問題といういずれにしても飽和状態に達した社会の中で豊かさを実現するできるのは「定常型社会」でしかありえないという。特に、雇用や年金といった福祉問題に強い筆者は、ライフサイクルという視点からもっと教育や若年雇用に公的資金を投入すべきであり、それが持続可能な福祉の鍵になると考えているようである。核家族化や都市化の中で「家族」が、そして「会社」の終身雇用が崩れ、流動化している現在、「カイシャ」や「家族」が提供してきた社会保障の代わりを政府が行う必要があるということである。また、「働くこと」の意味が「生存のための労働」や「賃労働のための労働」から「自己実現のための労働」に変容してきたことを取り上げて、これを考慮に入れた失業対策が必要であるという。最後の方では、集団が内に向かって閉じるという日本型の「稲作の遺伝子」という集団社会を再編したコミュニティのあり方を考えることが必要で、個と個の関係性を重視したコミュニティの重要性について触れている。スピリチャリティまでにまで触れるとは思いもよらなかったが、個人主義的にはなっても人と人のつながりを求めざるを得ない日本人にとっては筆者のいうような人と人との関係性の組み換えが必要なのかもしれない。



技術が労働をこわす −技能の復権−
 渡植彦太郎
 農文協
 2006/7/25
現在、技術と技能についていろいろと調べているが、人によってそれぞれ意見が異なり、なかなか自分の中でも消化できないでいる。本書で著者はサブタイトルであるように技能と技術、特に科学技術の違いを認識し、意識された知を中心とする科学技術だけでは人間社会の健全な発展が望めないことを主張している。そこで、技術知と技能知の統合を主張しているのであるが、実際にこの技能について触れているのは第1章の「潜在的知能としての技能知」および第5章の「「仕事知」と「生活知」」の部分だけである。そして、その他の章はマルクスの資本論のような理論的な経済学に関する難解な文章で埋められており、私にはほとんど理解不可能であった。それらの章では、おおよそカール・ポランニーを中心とする経済学者の理論を支持しつつも、マルクスやジンメルの理論を援用しながら筆者との意見の違いを明確にすることで、貨幣や使用価値に対する独自の理論を打ち立ているようだ。内山節氏によるあとがきを読めば、なぜそのような一見技術や技能とは関係の無い経済の話をもってきたかが良く分かる。ともかく、私にとって筆者の技能についての認識は、これまで読んだ本の中で述べられているものの中では最もわかりやすかった。つまり、技能的技術を知的技術と分けて捉える渡辺兵力氏の認識や、労働主体の身体的な操作の巧緻(うまさ)にあたるものとする柏佑賢氏の認識と異なり、知的であれ身体的であれ職人的な技なような個人に無意識に身についたものを技能と捉えている。「技能知」を「仕事知」に対する「生活知」と全く同じだと言ってしまうことには抵抗があるが、中村雄二郎の「パトスの知」「臨床知」やカール・ユングの無意識の心理学、レヴィ・ストロースの「野生の思考」、カール・ポランニーの「暗黙知」と関連させることは非常に説得的であると感じた。筆者が農業技術に的を絞って論じている訳ではないのが残念であるが、「技能知」に関して福岡正信氏の「自然農法」を取り上げているのは驚きとともに納得させられるものがあった。



生命農法・新版
 高橋丈夫
 三五館
 2006/7/23
この本は本屋でいつも背表紙のタイトルを見て気にはなっていたのであるが、なかなか読めないでいた。しかし、手にとってぱらぱらとめくってみると、結構興味のあるようなことが書かれていたので、とうとう読むことになってしまった。興味を引かれたのはメインの部分ではなく、著者が有機農業を行うにあたって参考にしている様々な農法に関する部分で、栄養周期理論、内水理論、カトー菌、バクダモン農法、EM菌、自然農法といったところだ。本書で著者が無投薬養鶏を始めた経緯や仲間の生産者と共同販売していることなどを知ったが、実は何も知らぬまま著者が生産した卵で作られているマヨネーズを私は買ったことがある。このタイトルにもある生命農法というものは、簡単に言ってしまえば有機農業の1種であるが、著者独特のこだわりのようなものがある。竹炭を焼くときにできる木酢から作った活性水などを駆使し、その他農事歴等でルドルフ・シュタイナーのバイオダイナミック農法の影響を受けている。ルイ・ケルブランの原子転換や宇宙との一体をおりなすエネルギー理論、酸化還元電位や波動のデータを活かした農法などはなかなか理解しがたいところがあるが、植物や動物といった生命との共生という視点で自らの農法を捉える著者の考えは、一目に値するものがあると感じた。印象としては「ニンジンから宇宙へ」の赤峰勝人氏の考えに近いものがあると感じた。生命農法研究会やNGOでの炭焼きなど、いろいろ忙しい方のようであるが、一度著者のところに見学に行ってみたいものだ。



いま自然をどう見るか 増補新版
 高木仁三郎
 白水社
 2006/7/22
本書の最初の版が出されたのは1985年で、その頃はまだ地球環境問題やエコロジーという言葉もまだあまり広まっていなかった頃だったと思う。だからタイトルこそ環境という言葉は使わず直接的なものとなっているが、今でいえばまさに環境倫理と呼べるような類の本と言えるだろう。著者の問題意識は、私たちの自然観が「科学的・理性的なもの」と「感性的・身体的」なものの2つに引き裂かれており、特に前者がその領域を拡大していることにあり、後者を見直してこれら2つの自然観をもう一度統一的に捉えようとすることにある。著者はもともと理科系の出身であるが、反原発の市民運動に関わっていたからだろうか、本書では哲学的・観念的な話が中心になっている。序章で読みとばしてもよいと書かれていたので読みとばしてしまったが、第一部ではプラトンやヘシオドス、アリストテレス、ニュートンなどを取り上げて西洋的な自然観の時代的変遷が書かれている。そして、第二部で本論が述べられているのであるが、筆者は科学的・理性的な自然観である人間中心主義に対して自然を人間が利用するだけのものとして捉えることを批判するものの、感性的・身体的な自然観に関しても問題なしとはしていないようだ。つまり、後者についていもディープ・エコロジーのようにフェミニズムと同様のイデオロギー的な問題を持つ可能性があると指摘しており、自然との関係を相対化して捉えることの必要性を主張している。どっちつかずであいまいなところもあるが、筆者としての立場は明確にしており、どちらかといえば私もこのような筆者の立場に賛同したいと思う。増補の章ではチェルノブイリ原発事故に筆者が非常にショックを受けたことが強調されているが、あの頃中学生であった私にはなぜかそのような大きな事件についての記憶がない。ともあれ、筆者は人間も自然の一部であるという認識が重要であり、それが抜け落ちてしまった自然観が支配する社会を見直すべきとしている。そのような筆者の視点は今後ますます重要になってくるだろう。なお、引用されている文献は初めて見るものも多く、ブクチンなど重要なメッセージが書かれていることに気づかされた。



農の扉の開け方 自然環境は発見するもの
 宇根豊
 (社)全国農業改良普及支援協会
 2006/7/17
この本は昨年12月の日本有機農業学会で著者本人から買ったものだ。読書日記には書いていないかもしれないが、この著者の文章はいくつも読んでいて農業と環境の問題を捉える際の参考にしてきた。この著者の文章には思想的・理念的は記述が多いが、もともと普及員であり、今は自ら米作りを行っているので、具体的で納得させられる部分が多い。本書は昨年に出された新しいものであるが、「技術と普及」等に書かれたもの再掲等、今までの著者の考えがエッセイ風にまとめられている。とはいえ、第三章は1987年に書かれたものであり、特にその頃活発に展開されていた減農薬運動の考え方や経緯が詳しく書かれている。本書の中で最も興味を持ったのは技術論のところで、「収量に直結するテクニックとしての『上部技術』と、作物や環境を観察し、それを維持していくための『土台技術』」について、何度か引き合いに出されており、特にそれを農民の主体性に関連するものとして普及の観点から述べているところは自分の研究との関係から参考にするところが多い。これが第三章では「科学知」と「経験知」として述べられており、もともとはこのような考えが「土台技術」の原点になっているのかもしれない。また、子供たちの農業体験学習ではなぜほとんど田植えを手植えで行うのかといった疑問を解き明かしていおり、案外分かりそうで分からない問題を扱っていておもしろい。その他、筆者たちが最近よく主張している「ただの虫」や政府の農業環境政策、普及員による技術普及、農薬の話等、テーマとしては非常に興味深い内容が多い。しかし、エッセイ風で読みやすいものの、私としては学術性が薄くなっていて物足りない感じがしてしまった。特に、筆者は前書きで「有用性の扉」と「生産の扉」と「時間の扉」の3つの扉を閉じると言っているが、それを本論でももっと具体的に解説してほしかった。今後出る本でまたこの話が出てくることを期待したい。



「農」をどう捉えるか 市場原理主義と農業経済原論
 原洋之介
 書籍工房早山
 2006/7/7
非常に斬新なメインタイトルである。筆者はこの問題に対して、明治期から農業経済学や農政論に関する理論を展開してきた研究者などがどのように取り組んできたかを学説史として解説し、最後に比較農政論という筆者自身の考えを述べている。事例もしくは自論中心の本が多い分野で、このようなスタンスの本は珍しいのではないだろうか。挙げられている人々の中には、新渡戸稲造、横井時敬、柳田國男、東畑精一といった有名人物が多いが、高岡熊雄や那須皓といった知らない人もいた。マクロ経済学等の農業経済学の専門的考え方が使われている部分もあって読みこなすには高度な予備知識が必要な部分もあるが、小農論や過剰就業論などの誰でもわかる理論が書かれている部分が多いので、なんとか私でも読むことができた。筆者は農業経済学が専門なのであろうが、いわゆる市場原理主義にのっとった数量モデルによる分析では農業の問題を論じることはできないという立場を持っており、その国の社会条件等に依存される農業を貿易自由化やグローバル化によって一律にしてしまうことに強く反対しているようである。そして、柳田の中農論や新渡戸の地方学(じかたがく)の有効性を非常に評価し、アメリカやヨーロッパとは異なる日本独自の農業を展開させることが日本農業の維持・発展にとって最適であると考えているようだ。工業製品を海外に輸出する日本にとって簡単なことではないが、農業は特にその国ごとの状況を考慮した形での発展が望まれるものであるから、それを踏まえた国際ルールが必要であることをもっと強く世界に言うべきであろう。



科学でわかった 安全で健康な野菜はおいしい
 霜多増雄著 及川紀久雄監修
 丸善
 2006/7/4
お米の勉強会にて4月の講師として呼ばれていた方の書かれた本である。この方は小松菜や水菜などをベビーリーフとして有機栽培している農家で、勉強会では非常にえらそうな?、つまり自信に満ちたもの言いだったのが印象的である。さらに、日本の農業をダメにしたのが、農林水産省の役人と全国の農学部の先生であるという指摘をされて、旧農学部で学ぶ私は少し肩身の狭い思いで話を聞いていた。そのときの内容は、特に無農薬以上に硝酸態窒素を非常に小さく抑えることを可能にした施肥方法、栽培方法をマスターしたということを誇らしげに語っていたのであるが、結局そのからくりは一部たりとも明かしてくれなかった。本書ではそのような筆者の面影はなく、非常に低姿勢で差しさわりのないことが書かれている。しかし、本書がこれまでの農家が書いた本と特に異なるのは、新潟薬科大学の方が監修しているだけあって土壌や野菜の栄養成分等に関する科学的データが多数掲載されていて、単なる理念で書かれているのではないところである。農家の中には研究者以上ではないかと思わせるほど研究熱心な方が多いが、本著者もその一人である。もう少しじっくり読み返す必要があるが、本書には有機栽培や良質堆肥の優位性を立証する根拠となるような現場データがたくさん詰まっている。そのような根拠のもとで述べられた筆者の言葉は非常に力強いと思った。その他、不熟堆肥の問題点を述べているところも説得的であり、野菜の栄養成分とその効果等、囲み枠で雑学知識として書かれている内容も参考になる。



ワイルド・ソウル 上・下
 垣根涼介
 幻冬舎
 2006/6/30
ゴールデン・ウィークに気分転換のつもりで購入したものであるが、読み終わるまでに長々とひっぱってしまった。忙しかったのも確かであるが、途中の展開にあまりひきつけるものがなかったとも言える。前半のブラジルへの移民者が壮絶な移民生活を強いられるところやそこから活路を見出していくところは、非常におもしろいと思った。しかし、下巻に入って日本を舞台とした復讐劇の部分は少しおちゃらけやら恋愛やらが入って、深刻さが薄れ、感情移入ができなかった。しかし、ちょうど現在ドミニカ共和国への移民の訴訟問題が話題になっており、これまで自分があまり認識していなかった類の問題があることを改めて知ることができた。「北の零年」という映画でもそういう場面があったが、全く今まで未開の土地だったところで農業を始めるなんて開墾事態が相当大変なことだし、そこがどんな土壌条件で気候・風土であるかも知っていなければ博打に近いことである。政府の役人にしても、現地に行った人たちにしても、そういうことはわからなかったのかと疑問に思う。そういうことを考えることができたのは良かったかもしれないが、正直言って読み終わってから自分の中では時間を無駄にしてしまったという気持ちが強い。ラストが爽快な終わり方になってはいるのであるが。



生命のかがやき −農学者と4人の対話−
 中井弘和編
 野草社
 2006/6/28
自然農の実践者である川口由一氏との対話が掲載されている関係で、たまたま赤目自然農塾で販売されていたのを購入した。編者とは昨年5月に静岡大学で川口由一氏が非常勤講師を勤められた際に私も行ってお会いしたことがある。本書には川口氏のほか、マザーテレサをドキュメンタリー映画におさめた映画監督である千葉茂樹氏、全国各地で自主上映されうドキュメンタリー映画「地球交響曲」の監督である龍村仁氏、環境NGOネットワーク「地球村」の代表である高木善之氏との対話も収録されている。特に川口氏のところは一番に読んだが、これまで赤目塾等で聞いてきたことの総括という感じがした。自然農に行き着いた経緯、耕さないことの意味、まわりの農家との関係等について、中井先生がうまく聞き出されているという印象を受けた。改めて川口さんは真の意味で現実を生きるということを追求しているのだと思い、未だにそれができていない自分に恥ずかしい思いもする。また、本書には中井先生の最終講義の収録として、最後に中井先生の農学者としての研究の歴史や農業に対する思い等がまとめられている。当初はそれほど期待していなかったが、本書でもっともよかったのはこの部分だ。おそらく岡田茂吉の自然農法だと思うが、長野県の中村雄一さんという農家への調査によって自然農法の比較試験を行い、地温が高くて冷害に強かったことや姿の違い等、私の研究としても興味深いところが多かった。さらに、中井先生の農業や農学に対する考え方は非常に本質を見据えたもので、以前一度お会いしたときからすれば印象ががらりと変わってしまったかもしれない。現在は伊豆の大仁農場にて技術顧問をされているそうであるが、ぜひもう一度お会いしたい。



技術は地球を救えるか −環境問題とテクノロジー−
 長崎浩
 作品社
 2006/6/11
BMW技術の普及に尽力されている筆者によるもので、どちらかというとエッセイ的な記述の多い本である。とはいえ、筆者は技術について相当勉強されているようで、プラトンの「ゴルキアス」に出てくる「偽の技術」や武谷三男の定義「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」を引き合いに出して、現在の技術つまりは科学技術の行き過ぎが何故起こったのか、筆者なりの理論を展開している。筆者が技能を重視するのはBMW技術でも「生き物がらみの技術」として強調してところであるが、本書では岡田茂吉の自然農法や浄霊などに見る民間技術や宮沢賢治のグスコーブドリの伝記を例に出して説明しているのは非常に面白かった。もともとは理学部や医学部で研究していた筆者であるが、このような思想的な色彩の強い文章を書くのはおそらく筆者が昔安保闘争か何かで活動していたことと無関係ではないであろう。最後の章の環境問題や「病気」の問題と環境ホルモンとの関係を述べた部分は非常に難しいが、最初の方の章で物理学と生物学の違いを述べた部分は生物学を学んできた私にとって納得するところが多く、読んでいて心地よいものがあった。BMW技術についても少し書かれているが、他の微生物資材等の農業技術と絡めて述べている部分が分かりやすい。活性汚泥法については筆者が暗に批判しているように見えるのだが、その部分は少し曖昧で気になるところである。



EU条件不利地域における農政展開 −ドイツを中心に−
 市田知子
 農文協
 2006/6/3
ここのところ他の先進国の農業環境政策について勉強しており、その一貫として助手の先生に借りたものである。本書は条件不利地域に関する政策について書かれたものであるが、、それは農業環境政策とも密接に関係していて第4章では農業環境政策に特化されて書かれている。条件不利地域政策にしても農業環境政策にしてもドイツではかなり力が入れられており、CAP政策等のEUで統一された農業政策以上の様々な取り組みが国内で実施されていることがわかった。特に、ドイツでは農村の景観保全や農業者の維持に理解があるようで農村に対する補助や優遇が多く、特に条件不利地域政策に関しては小農の維持という様相すら帯びている。日本でも中山間地域に対する直接支払い制度が行われいるが、その対象の割合からすればドイツのそれとは比べ物にならない。また、驚いたのはドイツでは農家民宿(「農家で休暇を」)が100年以上も前からの農家の副業であり、いまだに盛んであることである。国民性や都市計画の違いもあるかもしれないが、先進国であってもこのような農村維持の政策に重点を置くドイツの農業政策は日本にとって参考にするところは多いだろう。なお、農業環境政策に関してはMEKAやKULAP等できめ細かな補助が行われており、そのせいか有機農業の認証制度BIOシーゲルはあまり目立っていないような気がした。全体的に参考になる部分は多かったが、基準等の政策の記述が多いため、読んでいておもしろいという感じの本ではないのは仕方がない。



現代文明論(上) 人間は進歩してきたのか 「西欧近代」再考
 佐伯啓思
 PHP新書
 2006/5/27
グローバリズムを押し進めるアメリカへの批判とともに、自由、平等、民主主義、市場経済等の近代思想がもたらしたとされる恩恵に疑問を感じる人々が増えつつある。本書はそのような視点に立った著者が歴史的に近代思想というものを捉えなおして、特に西欧的近代思想がどのような点で問題を抱えていたのか明らかにすることを試みている。筆者自身は社会学が専門であるようであるが、西欧の近代思想という観点から必然的に哲学的視点も取り入れられている。どちらにしろ私としては不得意分野であり読むのに苦労したが、筆者の目論見には非常に共感するところがあったので最後まで興味深く読むことができた。ホッブスやルソーを引き合いに出した部分は私が日本人だからであろうか、フランス革命やアメリカ独立革命が起こった思想的背景がピンとこなくて読むのに苦労したが、ウェーバーの個人主義を近代化と結びつけた点や、近代化の結果もたらされた現代の人間疎外がフロイトの超自我やニーチェのニヒリズムに遡ることができると述べている点はなんとなく納得がいく展開であった。最後にミッシェル・フーコーが『監獄の誕生』で取り上げた哲学者ベンサムの設計したパノプティコンという監獄が登場するが、この言葉はどこかで聞いた記憶があるような気がする。下巻の方に書かれているのかもしれないが、それでは近代化に対して今後どのような思想が出てくるべきなのか、筆者の考えを知りたいと思った。



生命を捉えなおす −生きている状態とは何か− 増補版
 清水博
 中公新書
 2006/5/23
かなり前にこの本の増補版でないバージョンを読んでいた。そのときの読書日記にも「この本は2回以上読まないと理解できない」と書いていたが、正直2回読んでもまだ理解できていない。本書は第一部で改訂前の部分が書かれており、第二部で新たに追加されたものとしてフィードバックとフィードフォワードや関係子のことなどが書かれている。生物学を学んだことがあるにも関わらず、「生きている状態」を規定しているのはどのような原理であるのかを説明できないことを改めて考えさせられる。筆者はそのことをエネルギーやエントロピーといった熱力学的観点から秩序や平衡にまで考えをめぐらして説明し、さらに筋肉収縮やアルコール発酵などの具体的な事例を出してミクロな視点から詳細に述べている。筋肉収縮ではアクチンとミオシンのすべり説というのが一般的であるが、現在の技術ではそれを観察することはできず、筆者はプリコジンの散逸構造を援用して別の理論を打ち出しているのはおもしろい。その他、理解できないところが多いながらも部分的に共感したり、おもしろいと感じたりする部分も多く、この筆者のバイオホロニクスや生命関係学に関する学習をもう少し深めてみたいと思った。なお、途中で「東洋と西洋」の人間像の違い等について触れられていたが、このような文章を読むとこの筆者が文系や理系の枠を超えた学問観を持っているということがわかる。



場の思想
 清水博
 東京大学出版会
 2006/5/19
先に読んだ「生命と場所」からわかるように自然科学系の研究者による本であるが、本書はもっぱら哲学的なことばかりが書かれており、やはり言わんとしているところを理解するのは大変難しい本であった。筆者は「場」という考えを通じて、様々な角度から現在の日本社会の問題点を指摘し、それを乗り越える方向を提案している。「自己の卵モデル」や「即興劇モデル」という具体的なものを何度も用いてロゴスとパトス、個人と場といった実世界の状態や原理を説明しているようであるが、ズバリ説明してもらった方がわかりやすいかもしれない。西洋に見られるブロック型文化と東洋に見られる箱庭型文化という例示は分かりやすいが、それではなぜ和魂洋才がダメなのか、なぜ昔の日本主義が危険なのかまではおさえることができなかった。ともあれ筆者は現在が日本にとって戦国時代以来の混乱の時代であると認識しており、その解決策として場の思想を取り入れた様々な考えをめぐらせている。筆者が言うように人間の体にとっても社会にとっても病気のときというのは根本的な回復への可能性を持つ時期でもあり、この時点で道を誤らなければよい未来社会への道が開けるのかもしれない。



環境保護とイギリス農業
 福士正博
 日本経済評論社
 2006/5/14
イギリスは過去50%以下に下がった食糧自給率を70%以上に引き上げた国であり、食糧自給率向上を課題とする日本が学ぶべき点は多い。しかし、そんなイギリスでは農業における環境問題はどうなっていたのか。そんな思いで読んでみた本書には1970年から1990年前半までのイギリス農業政策の展開が政府を含む農業関係団体と環境関連団体との対立の構図のもとで描かれている。イギリスの食糧自給率向上に貢献したのは生産刺激的な価格支持政策であり、それが近代的農業を助長して農産物過剰問題を引き起している。それを解決する方法として、農業保護と生産とを切り離すデカップリングや、環境要件の遵守を前提とした農業保護の実施であるクロス・コンプライアンスである。しかし、農業政策社会の中から環境保護団体が除外されていて、それまでの農業環境政策であった管理協定では農業者の自主性にまかされ、追加補助という形で補助金が支払われていた。筆者はこのような政策のあり方を任意的コーポラティズムであるとして、これが統制的コーポラティズム、任意的プルーラリズム、統制的プルーラリズムへと転換されていくべきであると考えている。また、環境保全地域事業や硝酸塩監視事業が行われているとはいえ、現状はまだ統制的コーポラティズムの入り口にさしかかった段階であり、クロス・コンプライアンスも最低限の規制としてのレッドチケットアプローチで、順次オレンジチケット・アプローチやグリーンチケット・アプローチに進化していくべきであるとしている。日本では消費者団体や有機農業団体は出てくるものの、環境保護団体が農業政策に口を差し挟むことはあまりないような気がするが、イギリスではそれが活発に行われ、それが逆に環境保護団体の農業政策からの疎外感を引き起こているようだ。有機農業の話は最後にソイル・アソシエーションの提案が少し書かれていただけで物足りない気がしたが、全体として農業政策に関するインタビュー等の様々な意見が引用されていて大変参考になった。また本書を読んで、食糧自給率を上げるために過度に耕地化や過放牧が行われて自然環境を破壊したことや硝酸塩による地下水汚染問題から見える日本との農業環境の相違を感じた。



生命と場所 −意味を創出する関係科学−
 清水博
 NTT出版
 2006/5/6
本書はつい先日読んだ伊丹敬之「場のマネジメント」でも触れられていたものであるが、経営学者の伊丹氏と異なり本著者は医学や生物学の分野から場というものを意識している。著者の思想は非常に非常にレベルの高いものであり、シュレーディンガーの「生命とは何か」を越えるという意味での生命の論理を解明したいというのが筆者の最終的な目標のようである。まがいなりにも過去に生物学を学んだ私であるが、さすがにこの本は専門性が高い上に筆者の思想が独創性に富んでいることから、内容の2割も理解できなかったといっても言いすぎではないであろう。ただし、なんとなくではあるが筆者がこれまでの科学に対して批判していることが感じ取れた。つまり、これまでの科学では個別の要素に分解していって物事を理解しようとするが、それではどうしても無視されてしまうものがあり、それぞれの関係というものが捉えられないのではないか。筆者が生命関係学を立ち上げたのは、そのようなこれまでの科学に捉え方を超えようとするものであろう。理解力不足のためうまく説明できないが、場のほかに散逸構造や自律システム、情報圧縮、意味創出、東洋的論理といったキーワードが筆者の構想の中で重要となっているようである。また、この生命関係学にはいわゆる自然科学だけでなく社会科学的要素も含まれているようで、本書ではヴィトケンシュタインやゲシュタルト心理学ものが何度も言及され、東洋的論理にも重きが置かれていた。生半可な理解で言えたものではないが、筆者の考えはサンタフェの複雑系に関する研究でも有名なスチュアート・カウフマンにも通じるものではないかと感じた。生命を動物や植物よりももっと大きな範疇としても捉えている点では、ガイア思想などとも共通する部分があるのではなかろうか。



社会学入門 −人間と社会の未来−
 見田宗介
 岩波新書
 2006/5/3
この本の筆者は日本の社会学者の中でも特に、実際社会への問題意識を持っている人だと思う。この本ではそのような立場で社会学に取り組んできた筆者のこれまでの集大成が熱い思いとともに述べられている。しかし、社会学の素養が不足している私には新書であっても少々難しいと感じた。第1章では社会学がどのような問題を対象とする学問なのかをわかりやすく書いているが、筆者の言うとおり「人間はどう生きたらいいか」が最も重要なテーマであり、哲学や倫理学でなく論理と実証による追求が必要であろう。途中で新聞の読者短歌を織り交ぜるなど文学的文章の中で社会を見ようとしたりしているが、高度経済成長期を@「理想」の時代:プレ高度成長期、A「夢」の時代:高度成長期、B「虚構」の時代:ポスト高度成長期と分けたり、現代人間の5層構造として、生命性、人間性、文明性、近代性、現代性を挙げているのは非常に論理的である。社会の形式の4象限として、交響体、共同体、連合体、集列体と分類しているのは少し分かりにくいが、個が大小の様々なネットワークを作って関係を持つモデルは他者の両義性を非常に分かりやすく表していると思う。筆者がこのような視点に立っているのは、調査で海外のいろんな国に訪問し、異文化と接触してきた経験があるからだろう。なお、6章で取り上げているように人口が生物学のS字曲線に見られる頭打ちを呈してきているが、このことを社会学者のリースマンが予言的に現代社会の理論の基礎としていたことは驚きである。



農林水産業の技術者倫理
 祖田修・太田猛彦編
 農文協
 2006/5/1
本書は自分の担当教授が1つの章を執筆しており、私はその際一部のグラフ作成を手伝った。様々な人が農林水産業の技術者について倫理という観点で触れているのは今までになかった取り組みであり、大学生向けとして書かれているせいか非常に読みやすかった。個人的には自分の担当教授が書いた第4章に興味があったのは当然のこととして、社会的責任について書かれた第3章、農業と環境の問題について書かれた第5章も非常に興味深い内容であった。食の安全や安心について書かれた第8章も最新情報が満載で面白かったが、特にこの章の担当者は科学的根拠なく食の安全性を訴える消費者に対して批判的である点が目立つようである。このような論点に対して各章の共通理解はどうなっているのであろうかという疑問が少しわいたが、この問題はなかなか難しいことであろう。倫理や道徳というのは標準化された通念というものがなく、その意味では各担当者が個々に解釈している点は否めないが、自然や環境を相手にする農林水産業では今後特に道徳や倫理が重要な問題となるので本書の取り組みはその点からも評価されるべきであろう。



「日本らしさ」の再発見
 浜口恵俊
 日本経済新聞社
 2006/4/29
私が読むことの多い農業経営学や農村社会学等でも本書の「間人主義」という言葉が引用されることは多く、以前から読んでみようとは思っていた。本書ではまず欧米人に典型的な「規範型行為」と日本人に典型的な「標準型行為」に分け、その背景に欧米人の普遍=論理主義に対して日本人が個別=状況主義を取ることがあるとしている。このことは、以前読んだ「暴走する科学技術文明 −知識拡大競争は制御できるか−」で取り上げられていたことと通じるところがあり、その本ではアメリカを代表とする「審判社会」に対して日本を「内部規範社会」としていた。本書では東洋と西洋の人間観等を様々な形で分類し、特によく引用される「個人主義」と「間人主義」に関する議論では「菊と刀」で有名なルース・ベネディクトの罪の文化と恥の文化の違いを援用しつつも若干の異議を唱える。その他にもヒエラルキーでもなく平等社会でもないイエモトとしての日本組織やアウトサイド・インとして他に基準を置く日本人の行動等、日本人の特質が様々な形で述べられている。筆者がこの本を書いたときからすれば日本もかなり西洋社会の個人主義に近づいたような気がするが、農村社会等はまだまだ昔の特質が強く残っており、基準というものがなじまないのではないかと思われる。



場のマネジメント −経営の新パラダイム
 伊丹敬之
 NTT出版
 2006/4/24
本書のプロローグではホンダの創業者の一人である藤沢武夫の逸話から始まる。筆者の当時の藤沢のやり方が不況にあえいでいた会社の中でよい状態を作り出し、従業員それぞれが自発的に同じ方向へ協働して向かっていくことに一役買ったと言う。このような経営の中では重視されつつあった場のマネジメントというものを取り上げて、その方法や効果を説得的に述べたのが本書である。筆者によれば、「場とは、人々が参加し、意識・無意識のうちに相互に観察し、コミュニケーションを行い、相互に理解し、相互に働きかけ合い、共通の体験をする、その状況の枠組みのこと」であり、場の中の「情報的相互作用」が「共通理解」と「心理的共振」をもたらすことで企業等の組織が並々ならぬ業績を成し遂げる可能性を示している。特におもしろいのは、筆者がこのような組織論を生命体と類推させて考えている点で、本書でも清水博氏のバイオホロニックスの考えを一部援用している。組織も生命体と同じように自律分散型ネットワークによって成り立っているのが最もよく機能するということであろう。だから経営者はこれを意識して、企業の中であらあらの理念のみを与えて個人の自主性に任せればよく、決定する部分は一部でもっぱら場の形成や運営の方に尽力すべきというのである。論理性や実証性がどこまで言えるかはわからないが、この理論は企業だけではなくあらゆる組織に当てはめることができるだろう。



共生社会の論理
 古沢広祐
 学陽書房
 2006/4/16
本著者については論文を読んだり学会等で講演を聞いたりしていたが、書籍を読むのははじめてである。著者は理学部を出ているようであるが、大学院は京大の坂本慶一先生の「農学原論」ゼミで学んだようで、科学者ながらも文章の中に思いの強さが見られる。タイトルは非常に抽象的な本であるが、内容としては環境問題や社会格差の問題、食糧問題、豊かさの問題等の現代社会が抱える問題を解決する方法としての農業のあり方に的が絞られて具体的に書かれている。農業生産のあり方としては「農業養鶏」という有畜複合的な平飼い養鶏やアグロフォレストリー以外についてはあまり書かれておらず、むしろ流通のあり方としての消費者と生産者が手を取り合って直接取引きを行う場である生活協同組合やワーカーズ・コレクティブについての記述が中心である。ワーカーズ・コレクティブという言葉は聞いたことはあるが、具体的に書かれた文章を見るのは初めてである。意味としては協同組合のように皆で出資して1つのことに取り組むのであるが、労働者が中心で民主主義的である点が特徴のようである。有機農業だと産消提携という言葉の方がよく使われると思うのであるが、筆者はワーカーズ・コレクティブという言葉でもう少し広い概念を述べたかったのだと思う。しかし、その効果としては産消提携と同じようで、生産者の販売価格が高く、消費者の買取価格が安くできるという点や消費者の生活が質素で精神的に豊かになったというアンケート結果等が挙げられている。もう15年以上も前に書かれた本であるが、これらのワーカーズ・コレクティブも産消提携と同様に低迷してしまっているのであろうか。



新装版 漢方医学
 大塚敬節
 創元社
 2006/4/13
昨年度は1年間川口由一氏の自然農を学んだが、この川口氏は漢方の学習会も行っているとのことで、3月から新たにこちらにも参加することにした。自分ではアトピーの治療で5年以上前から漢方薬を飲んでいるが、薬が変わって体調が悪くなった時に漢方薬が合わないのかと悩むことが多く、漢方のことをよく知りたいと前々から思っていた。川口氏の学習会では主に「傷寒論」や「金匱要略」という難しい本を使用するのであるが、いきなり読むのは難しいと思って入門書である本書を読んでみた。これまでは漢方というのは漢方薬のことばかりと考えていたが、実際には脈診や腹診、舌診といったあらゆる情報からその人に見合った漢方薬を選ぶことを知った。そして例えば脈診であっても、脈の速い遅いだけではなく、沈、浮、滑、弦、緊等の様々な状態があり、それを判断するのは非常に経験がいるだろう。また、陰陽の別や虚実の別でもやはり処方が異なる。本書ではそのような漢方の基礎的なこと全般から、各漢方の特徴と生薬の特徴まで書かれている。生薬にも補うものと瀉すものがあり、温めるものと冷やすものがある。川口氏もよくおっしゃられるがこんな治療法が2000年も前に出来上がっていたというのは驚きである。しかし、この程度を知ったとて生半可な知識で自分の治療に役立てようというのは非常に危険であり、自分で証を立てれるようになるまでには相当時間を要するだろう。



仏教vs.倫理
 末木文美士
 ちくま新書
 2006/3/30
タイトルはふざけているように見えるが、日本仏教史を専門とする学者によるまじめな本である。我々は何気なく仏教というのは人を倫理的に良い方向へ向かわせるものだと思いがちであるが、筆者は様々な観点からこの仏教に内在する倫理性の欠如に切り込んでいる。つまり、あるがままを肯定してしまう本覚思想を持つがゆえに、本来倫理的でないものをも認めてしまう危険性を持つのである。このようにさらっと書いてしまっているが、実際には様々な専門用語が飛び交うため、本書に述べられている仏教思想史に基づく論理を理解するのはかなりハードである。さらに、筆者は倫理の問題として、「他者」の問題に、そしてその他者のきわめつけとしての「死者」の問題にまで切り込んでいく。現在は葬式仏教というぐらいだから、「死者」は非常に身近に感じている我々であるが、これまで仏教はこの「死者」の問題をあいまいにしてきたと筆者は主張する。私はこの段になるとすでに「倫理」や「道徳」という問題は頭の中から消えうせ、文字を追うのが精一杯であったが、「葬式仏教」を捉えなおさなければ靖国問題は解決できないとする筆者の意見はなんとなくわかるような気がする。筆者もあとがきで述べているように、このような考えは一般にはなかなか理解してもらえないらしいが、それでも自分の考えを貫いて研究を続け、評価されている筆者はすごい人だ。



頭がいい人、悪い人の話し方
 樋口裕一
 PHP新書
 2006/3/24
よく書店で平積みされている本で、ダブルミリオンセラーも突破しているらしい。日頃いろんな人たちと話や議論をする中で、自分の話し方が相手に悪い印象を与えているのではないかと不安になることがある。本書はそういう人たちを対象としているようで、前々から1度読んでおかなければいけないと思っていた。読む前はもう少しシステマティックに書かれている本かと考えていたが、内容は単純で頭が悪い人の話し方を列挙して、その各々に対して「周囲の人の対策」と「自覚するためのワンポイント」が添えられているだけである。読みやすいといえば読みやすいかもしれないが、正直言って筆者が常日頃から思っていたことをだらだらと書きつられているだけのような気もした。しかし、それぞれの項目は的を得たものばかりで、私も「根拠を言わずに決め付ける」、「知ったかぶりをする」、「自分のことしか話さない」、「自慢話ばかりする」、「人の話を聞かない」、「スポーツ新聞などの知識を自分の意見のように話す」等が当てはまるところがあり、改めて気をつけなければいけないと感じた。今は大学院生と言えども学生だから許されるかもしれないが、また仕事をするようになればこんなことでは許されないと早めに自覚しておくことが必要であろう。ただ、本書ではタイトルに書かれているにも関わらず、頭がいい人の話し方については具体的なことが書かれていなかったのが少し残念だ。



人類滅亡の遅延策 競争と化石資源に敗れた辺境の再興
 福井正樹
 フーコー
 2006/3/23
前回に引き続き大学で行った研究会に来ていただいた方による著書であり、本人によればこちらの方が真剣に書いたということであった。著者は研究会で自然から得られるものだけで成り立っていた昔の農村社会、つまり現在なら廃棄物とされるものがほとんど資源として繰り返し利用されていた社会に再び戻ることはできない主張しているが、それは既に本書で述べられていた。さらに著者は研究会で農的暮しにあこがれる都会の人々や自然との共生を主張する研究者を批判しており、それもこの著書に書かれている。このうち後者については研究会のとき何故そんなに批判的なのかと感じていたが、徐々に著者がそのように主張する理由が分かってきた。つまり、この本にも書かれているように昔の農村の生活を経験している筆者からすれば、現在言われている農的暮しや自然との共生の実際があまりにもその理念とかけ離れていると感じているのであろう。筆者は文章や研究会での発言を通じてそれを口にしてくれるのであるが、実際にはそのことに触れない昔の農村出身者がほとんどであり、その意味で筆者はこれからの社会を模索する我々にとっては非常にありがたい存在である。本書でさらに筆者は「自給自足の自然村」を再生させることを提案しているが、その点は研究会ではもう述べるのを辞めてしまっているような気がする。ところで、本書では第1部で現代の社会の快適さをもたらしたものや自給自足の自然村の再生を概論として述べ、第2部では特にどのように資源構造や生活構造が変わったのかが詳細に述べられている。また、第3部では各論として筆者の経験から糞尿のこと、鶏のこと、草のこと、メタンガスのこと等が述べられている。本書は筆者が全国愛農会やガス会社で働いた経験をもとにして具体的で詳しい内容が豊富であり、また日本社会の変貌を見てきた筆者の素直な思いが非常によく伝わってくる一冊である。



運命の悲しさに泣け 死ぬこと、そして生きること
 福井正樹
 文芸社
 2006/3/12
本著者には大学での研究会にて先日発表していただいた。研究会では単純に現代の快適さを否定して昔が良かったとする意見を強く批判するところに驚いていたが、この本を読んでそのような著者の思想の背景が少し垣間見れたような気がする。本書ははっきりと自伝という形は取っていないものの、著者が小さい頃や青春時代に体験した出来事の一部を書き連ねたものであり、著者が幼い頃からいかに苦難に満ちた人生を歩んできたかを描いている。現在は農的暮しにあこがれる若者が多いが、著者が空襲で投げ出されて但馬の農村で祖父母と過ごした少年時代は、ただただ自作農の生活の大変さをその記憶に刻み込むだけだったのであろうか。冬でも夜は夜なべをして、朝は早くから春の農作業の準備で、もちろんその他の季節も季節ごとの農作業に日々の全てを費やすという現在のような余暇などない時代を著者は生きたのだ。たとえそれが環境問題などほとんどもたらすことがなかったとしても、著者にとってはあのような大変な時代に戻るとは軽々しく口にしてほしくないことであろう。とはいえ、著者の父親や親戚に関することといえ、農業団体でのある友人に関する壮絶な体験といえ、著者の人生にはあまりにも悲しいことが多すぎるではないか。自分の人生ではないが自分に身近な人がこんなに辛い思いで人生を送っていたということを知り、改めて自分の人生のことを考えさせられる。著者とは異なり私はまだ人生の折り返し地点も通過していないので、今からでも自分の人生を変えられると思う。また、最終的に自分の人生を振り返ったときに同じことを良い思いでと思えるような自分でありたい。そのためには今を大切に生きることがいかに重要であるか、この本を読んで改めて考えさせられたのはそのようなことである。



文章構成法
 樺島忠夫
 講談社現代新書
 2006/3/3
この読書日記もそうであるが、いつも自分本位の文章を書いてしまっているような気がする。特に論文を書くには読み手に自分の考えを理解させ、さらに納得させる文章を書かなければならない。ハウツーに走るのはよくないかもしれないが、このような本を読んでうまい文章を書く方法を身に付けることも重要であると思う。特にこの本は細かい注や文体の話ではなく、文章をどのように構成すれば読み手にとってわかりやすい文章になるかが書かれており、自分の考えを練り上げていく手順としても大変参考になった。文章を書くには第一に主題が重要であるが、それが決まってもどのような構成で書いていけばよいかはなかなかマスターしにくい。起承転結というのもあるが、この本にも書かれているように序言・陳述・論証・反語・結語というヨーロッパの五分法の方が問題解決型の文章を書く際には適しているかもしれない。言うだけなら簡単かもしれないが、確かにそのようなそれぞれの項目に対してトピックセンテンスが付けられれば、最終的に主題を明確に示すような文章が書けるだろう。これからはこの読書日記でも、内容に切れ目のないウナギのような文章は書かないように注意しなければならない。なお、本書にのっている「主題分析のためのチェックリスト」や「主題構成のチェックリスト」はためになるもので、文章を書く際には常に意識しておきたいものである。



続 知的生活の方法
 渡部昇一
 講談社現代新書
 2006/2/26
年末に読んだものの続編であり、前回の興奮がさめやらぬうちに続編を読んでしまいたいという気持ちから思わず手にとってしまった。前回は少しハウツー的な側面があって様々な内容について書かれていたが、続編ではもう少しテーマを絞って書かれているようで、特に蔵書を持つことの重要性と経済的な独立の重要性について書かれているようである。蔵書については前回も書かれていたが、続編では恒産を持っていることがいかに知的生活を実現するうえで重要かがヒュームやハマトンを例に出しつつ書かれている。以前は思想や言論に対する統制の関係から社会的意味で経済的独立が必要であったかもしれないが、現在ではそれはあまり関係ないので、ハングリー精神という点ではあまりに余裕があるのもよくないのではと思う。その他、知的生産のためには農夫のような機械的作業やとにかく書き始めることが重要であるとした点は常日頃感じるところで、これが簡単なようで難しい。また、留学するなどして孤独で内省的ムードになることも勧めているが、それが研究の妨げになると思っていた自分にとっては意外で、留学してなくても頻繁に孤独感にさいなまされる自分の環境はそういう意味で良い環境ということなのだろうか。とにかく、筆者が最後に書いているように希望を捨てずに根気良くやるしかないのは言うまでもあるまい。



夏の災厄
 篠田節子
 文春文庫
 2006/2/16
この作家にはパニック小説は似合わないと思って避けてきたものであるが、たまたま手に入ったので読んでみることにした。非常に致死率の高い日本脳炎ウイルスが鳥を介してヒトに感染するというには、当時としては非常に現実味のないことだったかもしれないが、鳥インフルエンザが日本でも発生し、新型インフルエンザの脅威が迫りつつある中で、この小説にあるような状況が起こることは全くないとは言えない状況になりつつある。むしろ、この作者はこういう状況を予期していたのではないかと考えてしまう。予防接種に対する拒否反応や効率的なワクチン開発というのも現実的にありそうな問題であり、そういう意味では非常に緻密でよく構成が練られた小説と言えるだろう。しかし、何か物足りない気がしたのは、この作家もそれが狙いであったようであるが主人公が不在であることに理由があるような気がする。小説にはいろいろな楽しみ方があるかもしれないが、私としてはやはり登場人物への感情移入に酔うというのが一番の楽しみである。そういう意味ではこの小説は楽しみにくいものであると思うのであるが、そう思うのは私だけであろうか。また、もう一つの楽しみ方としては現実逃避を楽しむ方法もあるかもしれないが、私が最近小説をあまり読めなくなったのは常に現実を相手にしているせいか、現実逃避をすること自体に違和感を感じるようになってしまったからであろう。この現実逃避という点ではまだこの小説も楽しめそうな気がするが、こういう理由で私は楽しめなかった。



「細菌」が地球を救う
 長崎浩
 東洋経済新報社
 2006/2/9
タイトルには出てこないが、本書もここ何冊か読んでいるBMW技術のことが書かれた本であり、BMW技術について知りたければこれまで読んだ中で本書が最も適した本であると思う。当初はわけもわからないままやらされ仕事的にこのBMW技術を調べることになったが、徐々に引き込まれるようになってしまった。微生物を溶かし込んだ液体によって環境浄化や有機農業を実現させるという点でEM菌に近いものと思っていたが、EM菌が良いか悪いかは別として、このBMW技術がEM菌とは全く異なるタイプの技術であることがわかった。まず、単に特定の菌を添加するのではなく、その土地に存在する菌を腐食や岩石を使って増殖させるという点での違いがあり、そのことがその技術を使う人の価値観や技術思想に対する影響という点で大きな違いとして表れる。本書には、その思想がよく表されており、特に著者は「物の技術とは違う生き物がらみの技術」としてBMW技術が自然や生態系を相手にする農業に適した技術であると述べている。本書で書かれているように、BMW技術もプラントの導入やいくつかのノウハウが必要であることは確かであるが、この技術でもっとも重要なのは使う人の経験や創意工夫であり、いったんコツをつかめばどんどん発展が可能な技術である。なお、私がいる研究室の3年生も本書を読んだことがきっかけでうちの大学に入ってきたそうで、それだけ人の心を動かす本であるといえるだろう。また、本書には私が昨年の調査で訪問した山形の米沢郷牧場やミニトマト農家の松田氏等の様々な導入事例に対するルポが収録されており、BMW技術の関係者の思いや普及の経緯が非常によくわかった。



自然の自浄作用を活かす BMW糞尿・廃水処理システム
 長崎浩
 農文協
 2006/2/6
前回と続いてBMW技術に関する本である。ただし、本書は農文協の民間農法シリーズとして書かれていて、技術的なことが詳しく書かれている。とはいえ、BMW技術というのはその土地の棲息する微生物という全貌が未知のものを利用する技術であるため、科学的根拠は明確にしにくく、観念的になっている部分が多々ある。というより、筆者はこのBMW技術によってこれまでの近代科学的な技術のあり方からの転換にこそ、環境問題の解決や持続的農業の普及の鍵があると考えているようだ。特に最後の章では、農業の「技術」と工業の「技術」の違いを述べ、生態系という自然を相手にする農業においては昔の篤農家が持っていた技能が重要であり、これを「民衆技術」としてとらえて普及させることが必要であるとしている。また、もともと筆者は東京大学地質学科の岩石学の研究室出身で、ミネラルに関しては専門的かつ分かりやすい記述がなされている。あまり意識されていないが、日本に多く見られる火山岩は単にミネラルを含むというだけではなく、それが微生物の活動を支え、農作物を健全に育てる土を作り出しているのではなかろうか。生物学科出身の私にとって、ミネラルの話を生命の起源までつなげているところは興味深く、本書の趣旨のBMW技術による糞尿・廃水処理のところよりも印象に残りすぎたぐらいだ。さらに、驚いたことに筆者は昨年に集中講義を受けさせていただいた槌田敦先生の後輩とのことで、最初のところでは槌田先生の言葉をいくつか引用している。



夫婦2人の農場を始めよう
 小野雅弘
 太田出版
 2006/2/5
自動車メーカーのホンダを55歳で早期退職した田中一作さんご夫婦は、茨城県鉾田町で自給自足の生活を営み5年間の月日が経過した。田中さんのように第2の人生を農的暮しの求める人は増えつつあるようで、それだけではそれほど目新しいものではない。しかし、移住後にBMW技術というものに出会ったことから自宅を「環境保全型のエコロジー住宅」に改造し、トイレの排水や家庭雑排水を浄化処理している点が田中さんの大きな特徴である。BMWとはバクテリア、ミネラル、ウォーターの略で、その土地の微生物と岩石によって家畜糞尿等を原料に様々な形で使える生物活性水を作り出す技術である。田中さんは足の指がとけてなくなってしまうほど弱っていた廃鶏が生物活性水を飲んでから再び卵を生むまでに回復したことをきっかけにこのBMW技術の虜になり、通常は畜産農家等が導入するような水の浄化プラントを自宅に作ってしまった。BMW技術は本書の主要な趣旨ではないのでそれほど詳しくは書かれていないが、生活廃水等の環境負荷を出さないこと、生物活性水で飼っている60羽の鶏の悪臭が出なくなったこと、生物活性水による堆肥で無農薬の野菜を栽培できること等が、田中さんの自給自足の生活にとっていかに満足感を与えてくれるものかよく表されている。学費の必要な子供や田畑つきの家を購入する元手のない人には少し難しいかもしれないが、田舎暮らしが都会にはない喜びに満ちた悠々自適の生活を提供してくれることを、その実践者で田中さんの日々の生活を通してリアルに表現されている。団塊の世代が定年を迎えることから2007年問題が様々な形で問題視されるが、田中さんのような夫婦が増えるなら日本の環境も社会も良い方向にシフトできるのではないだろうか。。



いまを生きる言葉「森のイスキア」より
 佐藤初女
 講談社
 2006/1/20
この著者のことは以前「地球交響曲 ガイアシンフォニー第五番」を見たときに知った。しかし、そのときは総集編として少し出ただけであった。1週間ほど前に私がよく参加する「お米の勉強会」で、本著者が出演する「地球交響曲 ガイアシンフォニー第二番」が上演され、佐藤初女さんが来ておむすびの握り方の実演までされた。佐藤さんは「森のイスキア」で心の病んだ人たちに心を込めて作った料理を無償で提供しており、そこを訪れて生きる望みを取り戻した人や自殺を思いとどまった人がたくさんいるという。本物の食べ物の力は非常に大きいと言えようが、そのためには著者のように生きた食べ物として料理する智恵が必要であろう。おむすびの握り方にしても、かなりのこだわりがあり、たなごころの部分でやさしく握り、ぴったりのサイズの海苔で包む。また、お米は1粒1粒が生きているため、ラップやアルミホイルで包んではダメだという。私はいつもお弁当におむすびを握っていたが、やり方もまずかったし全然心がこもっていなかったと思う。本の内容にほとんど触れることができなかったが、この本はこれまで様々な本の中で書かれた著者の言葉を拾い上げたものだ。生きることや人の心のこと、そして食事のことについての著者独自の考え方が書かれている。「森のイスキア」にも教会の鐘を付けているので、おそらく著者はキリスト教の精神の持ち主なのだろうが、筆者には奉仕の精神があらゆる言葉からみなぎっているようである。この本を読むと食べることと人の幸せの関係を考えさせられ、現代人の安易な食生活を改めて反省させられる。なお、巻末に書かれているイスキアという名の由来にも感動した。



貧乏クジ世代 −この時代に生まれて損をした!?−
 香山リカ
 PHP新書
 2006/1/19
本書で扱われている「貧乏クジ世代」とは主に第2次ベビーブーマーを中心とする1970年代生まれのことだそうで、現在20代後半から30代前半の世代である。私は第2次ベビーブーマーなので、まさにこの世代に該当するのであるが、本書を読んでいると確かに私がこの「貧乏クジ世代」に共通する特性を引き継いでいるような気がしてくる。つまり、定年を間近に控えつつ社会の中で重要なポストを占める団塊の世代に対して、バブル時代の華やかさを横目で見ながら厳しい受験競争を乗り越えてきた挙句、大学を卒業する頃にはバブルがはじけて就職難という報われない人生を歩んできた1970年代生まれ。著者はその人たちに、内向き、悲観的、無気力という共通の特性や、30代半ばして「人生やりつくした。これ以上よいことはない。」というあきらめ感を見る。そして、もっと自分を見つめて生きがいを感じる仕事を探すという「自分探し」の旅に出てしまう人も多いという。このような人たちに、昔話題になった土居健郎氏の『「甘え」の構造』を当てはめてしまう評価もあるかもしれないが、筆者は異なる評価をしており、もっと自分の勤勉さに誇りを持って、現実的に可能な目標に向かうことでまだまだ将来は開けると「貧乏クジ世代」にエールを送っているように見える。言われてみれば、私も少しだらけた生活をすると非常に罪悪感を感じたり、ふと将来への希望を見失いそうになることが多く、そういう「貧乏クジ世代」の置かれた社会的背景の影響を受けているのかと考えさせられた。今後は、この本に書かれているように、「内観」によって自分の過去を見つめ直したり、自分の気持ちをもっと人に話してコミュニケーションをとったりすることで、安心感や自信を強めていくことが必要だと思う。



蒼龍
 山本一力
 文春文庫
 2006/1/17
年末年始の帰省の際にどうしても何か小説を読みたいという気持ちが沸き起こって買ったものだ。以前本著者が直木賞を受賞した「あかね空」がテレビでやっていたのを見て、ストーリー展開におもしろさとほのぼのとしたものを感じさせる内容だったという記憶がある。また、よくNHKのテレビ番組にも出ていて意義深い話をする人だとも感じていた。本書のタイトルにもなっている「蒼龍」は著者がオール読物新人賞をとったもので、借金の返済のために始めた茶碗・湯呑の柄描きへの応募を行う主人公に、自らをなぞらえたものである。解説を読んで驚いたが、筆者も事業の失敗により抱えた2億円を小説家となって返済しようとして投稿していたが、最終選考には残るもののなかなか通らなかったそうである。そんな大博打はよほど筆力に自信がないと無理であろうが、売れっ子作家となった今の筆者の状況を見れば分かるように、筆者がそれをやってのけたことは驚きである。これまで宮尾登美子ぐらいしか時代小説は読んでいないが、本著者のものは私でも読めるような軽いタッチのものが多い。本書には5つの短編が収録されているが、特に「のぼりうなぎ」と「節分かれ」は先の展開がわくわくするようなストーリーで、読後感も非常に良かった。共に、江戸時代の商人の世界の性(さが)、つまり上下関係や排他的社会の厳しさが義理人情とともによく描かれている。そして、本書のテーマと思われるが、すべての短編で扱われているのがさりげない家族愛であり、直接は口にしないが家族を思う心はすべての登場人物にあって、それが辛いできごとに対する救いとなっている。著者が、直木賞を取るまで頑張れたのも家族のおかげということを強く言っていたと思うが、苦しいときこそ必要なのがこのような家族愛というものであろう。ところが、現代の日本社会ではこのような家族愛が崩壊してしまい、苦しいときに耐えられず自殺や犯罪に走ってしまうのではないだろうか。



農協
 立花隆
 朝日文庫
 2006/1/5
先日、大学の研究会にてJAグループについての話を聞いたことから、大学院に入る前に読んだものをもう一度読み直した。以前は系統や経済連、信連、農林議員といった言葉を良く理解せずに読んでいたこともあると思うが、今回読み直してみて本当に1度読んだのかと思うほどに、内容の濃さに驚き、統計データや聞き取り内容の緻密さに関心させられた。本書のもとになっている「農協 巨大な挑戦」が週間朝日に連載されたのは昭和54年10月から55年2月であるから、データ等は既に古くて現在の農協や農業の実態とはかけ離れたものとなっている部分も多々あろうが、この本を一通り読めば農協だけでなく日本農業の全体像がつかめると言っても過言ではないだろう。昨年末にある先生から農学の基礎がないと言われてショックを受けていたのであるが、この本はそのような状況を打開する取っ掛かりとなったと思う。とはいえ、地域としては北海道から東京都まで、作目としては稲作から酪農や和牛、ブロイラー、青果物まで、業務分野としては生産から流通に加えて信用事業や共済事業まで、その他農地転用問題や石油づけ農業の問題、農薬・肥料流通業者としての農協、農協の集票力と農林議員の関係といった具体的な内容が網羅されている。データマンによるあとがきからも読み取れるが、これだけの記事を書くのにはどれほどの書物や関係者への聞き取りを要するかを想像するだけでも気が遠くなるほどである。また、いたるところに的確な図表があり、特に農業所得や農業経営費等の詳細項目の見学データが載せられているは農業経営学を学ぶ私にとって非常に参考になった。20〜30年前のデータとは言え、その頃の日本農業の状況を学んでおくことは現在の農学生にとっても必須項目であろう。前回読んだときはほとんど内容を把握できていなかったと言ってよいほどだと思うが、そんな状態でこの本を読んだと言っていた自分が恥ずかしい。



世界が認めた和食の智恵 −マクロビオティック物語−
 持田鋼一郎
 新潮新書
 2006/1/4
赤目自然農塾に通うようになって、塾生との話の中で「マクロビオティック」という言葉を聞くことが多くなった。しかし、私は本書を読むまでその意味を正確に理解しておらず、単に動物性たんぱく質を取らないというぐらいに考えていた。本書によれば、「マクロビオティック」の「マクロ」は大きいを、「ビオス」は生命を意味する言葉で、このことから「マクロビオティック」とは「健康で長生き」という意味を表し、カタカナ表記であるが、もともとは日本で始まった「日本古来の食の智恵を活かした食養法」のことである。具体的には玄米、味噌汁、野菜の煮物、海藻等の「その土地に出来、その時節に産する伝統的な食物」をとることで健康と長寿を追求する。肉、卵、牛乳はもちろんであるが、上白糖や果物等の糖分をとることも制限され、個々の食べ物の陰陽を考慮して極端に陰性のものを食べるのを避けるようである。本書は「マクロビオティック」に関する基本事項を解説しながら、これまでマクロビオティックを築き上げてきた3人の日本人の生い立ち等を絡めて物語のような構成で記述されている。まず、明治時代の日本陸軍の薬剤監であった石塚左玄は「正食」と「食養」という言葉を世に広めたが、その中には「医食同源」や「身土不二」、「一物全体」という思想も含まれていた。そして、左玄の考えを実践しようとした桜沢如一は、独自の世界連邦構想による精力的な反戦運動とともに「マクロビオティック」を通じた世界平和を追求し、「マクロビオティック」を世界的に広めた第一人者と言える。そして、桜沢の弟子であった久司道夫は桜沢の理論をより学問的にし、特にアメリカでの「マクロビオティック」の普及に貢献した。本書では具体的な食の内容についてあまり書かれておらず、和食の智恵があまり明らかにされていないのは残念であるが、「マクロビオティック」の概要を知る入門書として非常に参考になる本であった。「マクロビオティック」によって癌が完治したという事例は信じがたいが、マクロビオティックが健康維持に貢献し精神病さえも治す力があるということは桜沢の類まれな行動力が証明しているような気がする。なお、ジョージ・オーサワが桜沢の別名であるということは本書を読んで初めて知った。

 
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