2008-07-05
個性は本当に獲得するものなのか?
「自分にはデフォルトで個性があると思っちゃっているんだね。アーティストにしろデザイナーにしろ、美術を志す者にとっては個性というのは獲得目標のはずなのだが、最初から自分に個性があるなどという戯れ言をガキのころから吹き込まれている」
「生まれつきそれぞれが持っている違いというのは、個性ではなくて【個体差】にすぎない。個体差は卑下するものでも称揚するものでもないはず。」
「個性というものは目標としてあるもの。もちろん、個性は個体差を生かしたものになるだろうことはわかる。しかし、生の資質を個性とはいわない。個性と個体差の違いがわからないのは文化とはいわない。」
これを読んで、知り合いのNくんのことを思い出した。
Nくんは、美術大学まで行って絵を勉強したオーソリティーなのだが、絵については一種の天才で、子供の頃にこんな経験をしたのだそうである。
それは通っていた保育園で写生をした時のことだった。クラスのみんなでクレヨンと画用紙を持って、保育園の近くにある田んぼのあぜ道で三々五々写生をしたらしいのだけれど、そこで周囲の級友たちとの圧倒的な断絶――今ふうの言葉で言うなら「キャズム」を感じたらしいのである。
それは空の描き方についてだった。
Nくんは、目の前に田んぼが広がって、その向こうに住宅が見えて、さらにその向こうに空が見えるという景観を描こうとしていたのだが、はたと困ってしまったと言うのだ。というのは、「空」というものが、どう考えても建物や住宅の屋根の端まで来ていて、考えていた構図だと、画面のほとんどを空の青で埋め尽くさなければならなくなるからだった。
それでも覚悟を決めて、写生が始まったら一生懸命青色でその画用紙を塗り潰していたのだが、30分も経った頃に、保母さんが「あと少しで終わりですよ」と告げてきた。それでNくんはびっくりして、「ああこのままでは到底終わらない」と思ったのだそうである。けれども、よくよく考えてみれば一生懸命脇目も振らず描いていた自分でさえこうなのだから、他のみんなも書き終わるわけはない。だからまあ、完成しないでも許されるだろうと思って、試しにひょいと隣の子の絵を見てみたのだが、そこで驚いたのだそうだ。
なんと、その子はもうほとんど絵を完成させていたのである。そして、その子だけではない、級友のほとんどが、授業終了までにはちゃんと絵を完成させていたのだった。
級友たちの描いた絵は、こんな絵だった。
クラスの子たちは、多少の差異はあったものの、概ね上記のような絵を描いていた。空は上辺に細いラインとして描かれ、残りの画面のほとんどは白い空白が覆っていた。そこにアクセントとして、太陽、家、車、そして人物が、判で押したように配置されている。地面は、空の青と呼応するように、茶色のラインで描かれていた。それで、彼らの写生は一丁あがりだった。
結局Nくんは、空の青だけを中途半端に塗りたくった状態でその写生を提出せざるを得なかったので、講評ではもちろん何の評価も得られなかった。しかし彼は、一応は完成を見た級友たちのその「子供の写生メソッド」に則った絵に、最後まで違和感をぬぐいきれなかったのだそうである。
Nくんが特に違和感を覚えたのは、その空の描き方についてだった。
Nくんは、級友の絵と実際の空を何度も見比べてみたのだが、何度見ても、空は屋根の端まで広がっていて、ただ上部に青いラインを引いただけのその絵では、今見たものを表しているようには思えなかった。そして級友たちが、その描き方に何の疑問も抱いていないことが、どうにも理解できなかったのだそうである。
Nくんはその後、描くことへのそうした執着が周囲に認められ、結局絵の道へ進むことになるのだが、子供の頃の写生に感じたその違和感は、決して誰に教えられたものではなく、自分がもともと持っていたものだと言った。
「むしろ後で気づいたのだけれど、級友たちのその『子供の写生メソッド』に則った描き方の方が、きっと誰かに教わった描き方だったのだろう。確かにそのメソッドは、今にして思えば、決められた時間内に絵を完成させることができるし、記号的に情報を伝えられるので、とても便利だった。しかしそれがゆえ、子供がもともと持っているはずの『対象をあるがままに見る』という『目』を損なってしまい、結果的に彼らの絵を描く才能、あるいは『個性』と言ったものを、損なってしまったのではないだろうか。ぼくにとって幸運だったのは、そうしたメソッドを教わる前に、空の描き方というものに自分なりに気付いたことだった」
Nくんは、そんなふうに当時のことを振り返った。
このエピソードは、最初はただ単にNくんに絵の才能があったゆえの特別な事例だろうと考えていたのだが、それからいくらか年月を経るうちに、Nくんが指摘したことは、実はとても重要だったのではないかと考えるようになった。
というのは、人間――取り分け子供というのは、独特の個性や才能を持っているのと同時に、「子供の写生メソッド」のような「上手な生き方」というものの習得能力にも長けていて、それがゆえに、もともと持っている「個性」や「感性」というものを、一瞬にして失っていくのではないかという考えに、思い至るようになったからだ。
そして、その失うスピードがあまりにも速いものだから、上記のエントリーの会話にあったように、「人間にはもともと個性などない」と思われてしまうのではないか――そんなふうに考えるようになったのである。
ぼくは、ピカソが「子供の絵を標榜した」というエピソードが、いつでも心の中に棘のように刺さっている。だから、人間の才能というものに関しては、獲得するものの大きさよりも、どうしても、失うものの大きさの方に目が行ってしまうのだ。
それゆえ、上に引用したエントリーで語られていたことは、局所的には真実かも知れないが、大局的に見た時には、やはり誤りと言わざるを得ないと思うのである。
- 結論
- 個性というのは、やはり人間それぞれがもともと持っているものである
- しかしそれは、とても早い時期に、本当に瞬時に失われてしまうので、あたかも最初から持っていなかったように見える
- だから、生意気な大学生が「個性」に囚われているのは一見間違っているようだけれども、バカの慧眼で、実は一周まわって真実である(但し、真実を言っているからといって、そのバカが真実に辿り着けるかというと、それは全く別の問題である)
- 個性というのは、大人になってから「獲得」するものではない、むしろ「取り返す」ものなのである
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