めったに報じられることのないアイルランドのニュースが新聞で大きく扱われたのは6月だった。EU(欧州連合)の新基本条約であるリスボン条約の批准を、国民投票で否決したとの記事だ。そのなかで、アイルランドの代名詞とされていたのが「ケルトの虎」。日本人にはなじみの薄い「ケルトの虎」の異名を持つアイルランドってどんな国?【西和久】
■U2、エンヤを輩出
アイルランドと聞いて、連想できることはそう多くないだろう。例えば、文学では、オスカー・ワイルドやジェームズ・ジョイスなど、音楽では、U2やエンヤ、あとはギネスビールくらいか。面積は約7万平方キロで、北海道より少し小さく、人口は約420万人、静岡県より少し多いという、欧州の小さな国だ。
その国が90年代半ばから、猛烈な経済成長を遂げていた。今年初め、「日本はもはや経済一流ではない」という大田弘子経済財政担当相の発言が話題になったとき、その例証の一つが、先進国が加盟するOECD(経済協力開発機構)内での、06年の1人当たり名目GDP(国内総生産)の順位だった。これは豊かさの指標でもある。日本は前年から三つ順位を下げた18位だったのに対して、アイルランドは4位に入っていた。
そもそも80年代初めには、アイルランドは、当時の加盟24カ国中21位。西欧ではもっとも貧しい国の一つだった。だからこそ、かつて80年代に急成長した「4匹の虎(小竜とも)」(韓国、台湾、香港、シンガポール)にちなんで、ケルト人の国・アイルランドが「ケルトの虎」と呼ばれるようになったのだ。
もう一つ、アイルランドのイメージと言えば、移民だ。英国による支配と貧しさゆえに、19世紀以降、移民の流出が絶えず、アイルランド系米国人だけで、本国の10倍にのぼるといわれる。戦後も失業率が15%を超す経済状態が続いたために、60年代には人口が280万人にまで減ってしまった。
ところが、経済成長の結果、逆に、ポーランドやバルト3国など中東欧からの移民が急増しているのが現在だ。流入移民は、実に人口の14%を占めるという。もはや「移民を送り出す国」ではなくなっているのだ。
■グローバル化に乗る
どうやって、高度成長をもたらしたのか?
アイルランド政府商務庁のアン・ラニガン日本代表は「グローバル経済に対して、国をオープンにしたことだ」という。その柱が、積極的な外資導入だった。「ソーシャルパートナーシップ」と呼ばれる政府・経済界・労働組合などによる合意で、賃金を抑制する一方で、外資に対する法人税を10%(その後、内外資一律12・5%に変更、日本は実効税率約40%)まで引き下げた。その他の優遇措置もあって、EU市場向けの輸出をねらう外資企業が多数、進出した。
この流れを支えたもう一つの要因が教育の重視だった。公立学校は、大学まで授業料が無料で、電子工学、機械工学や経営学などに重点を置いた教育が行われた。EUの域内で、英語を話す低賃金の優秀な労働者が確保できるとあって、IBMやインテルなど米国のハイテク企業のアイルランド進出が続いた。
こうして、95~2000年の実質GDP成長率は平均9・7%にのぼった。その後、多少減速してはいるが、それでも01~07年の平均成長率は5%を超えている。
もちろんいい話ばかりではない。成長を続けるうちに賃金が上昇、外資にとって低賃金の優位性がなくなっていく。最初の曲がり角だ。その曲がり角を、政府の巧みな誘導によって乗り越える。優遇策の変更などによって、製造業からソフトウエアやビジネスサービスなどの知識集約型産業へシフトさせたのだ。「小国だからできることだが、政府が時流を読みながら、タイムリーに政策を変えていくのがうまい」というのは、06年に半導体組み立て事業を撤退することになった山城建治・元NECセミコンダクターズ・アイルランド社長の実感だ。
また、政府が力を入れている分野の一つに金融がある。首都ダブリンに国際金融センターを設立、金融機関からコールセンターまで積極的に誘致した。ユニークなのは投資信託やヘッジファンドに対するサービス提供の事業が生まれたこと。とくにアドミニストレーターと呼ばれる、独立の立場でヘッジファンドの会計を管理する業務が、ヘッジファンドの急拡大とともに繁盛しているという。
■最大の曲がり角
しかし、アイルランド経済はいま、最大の曲がり角を迎えている。“住宅バブル”の崩壊である。「03年を境にアイルランド経済の中身が変わっていった」と分析するのは、三菱東京UFJ銀行経済調査室の武南奈緒美・調査役。製造業から金融やビジネスサービスへと産業構造のシフトが成功したように見えていたが、「現実に経済を牽引(けんいん)したのは住宅・建設ブームだった」と武南調査役は見る。そのころは、米国をはじめ世界中で“不動産バブル”の最盛期だった。
林景一・前駐アイルランド大使(現外務省官房長)が赴任した05年、あちこちにクレーンが林立し、建設ブームが一目瞭然(りょうぜん)だった。中央銀行総裁を表敬訪問した際にその話をすると、「日本のバブル崩壊は研究しました。同じ轍(てつ)は踏まないようにします」と言っていたのが印象に残ったと林前大使はいう。
アイルランドにとって、米国のサブプライム問題による世界の金融市場の混乱は想定外だったかもしれない。だが、間接的な影響は小さくない。住宅価格が下げ止まらない。そのうえにドル安・ユーロ高による輸出の減少、米国などによる投資引き揚げの増加などが痛手となっている。
その結果、今年1~3月の実質GDPはついにマイナス1・5%を記録した。グローバル化、外資頼みの経済が裏目に出たかっこうだ。
ただ、アイルランドは、日本や欧州の経済大国と決定的な違いがある。「国が若い」ことだ。25歳未満の人口比率が日本24・4%、EU平均28・4%に対して、アイルランドは35%。「2~3年は苦しいが、人とR&D(技術開発)に投資していけば、乗り切れる」とラニガン日本代表はひたすら楽観的だ。「ケルトの虎」の若々しいエネルギーはうらやましい限りではある。
同条約はEUの基本条約。欧州委員数の削減など機構の効率化のほか、大統領にあたる欧州理事会常任議長▽外相に相当する外交・安全保障上級代表▽上級代表を補佐する欧州対外活動庁の新設など機能強化が盛り込まれている。投票後の調査によると、アイルランド国民の多くは否決の理由について「条約の意味がわからなかった」と回答したが、「政策の独自性を縛られる不安があった」との見方が強い。
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毎日新聞 2008年7月9日 東京夕刊