2007年09月02日
ヘール・ボップ彗星
趣味ってーとありすぎて絞れないんですが、「星」だけは、いつも俺にとって一番ですね。
このヘール・ボップ彗星は、以前俺が愛用の天体望遠鏡「MT-130」で撮影したものです。クラスの子供たちに配ったりもしたんですが、みんなまだ持ってるかな?それとも、犯罪者の思い出なんかゴミ箱行きかね?
ま、前科者だって星を愛したりしますよ。神話に登場する星座に関しては、俺は夜空を見ながら星を繋いで、その物語を全て語れます。もちろん、基礎程度ですが天文学もかじりました。プラネタリウムの解説員にでも転職しようかな。あ、無理か、俺ほとんどの資格剥奪されちゃったし、県教委に。
2009年夏、屋久島・トカラ列島で皆既日食が観られます。
行きます。
今の飛鳥にとって、ポジティブで人間らしい「生きる理由」は、もうそれだけなので。
でも、やっぱり星は好きでいたいですね。
2007年09月02日
いつの間にやら1000アクセス?
まあ、総アクセス数にはあまり関心がないというか……。とにかく、この出来事を多くの人に届けたいということだけで、結果としてアクセスが多いのは嬉しいな、ということですかね。
なんか本館の方では、某超巨大スーパー店長の話に反応して下さっている読者さまが多いようです。こちらにもアップしておきますね。
今日は早起きしたので、朝こうして記事を書いています。でも、仕事はちょいきつい日なんですよね~
まもなく出勤ですが、いつのように朝6時前には全開です。で、今日は遅番もフォローしなくてはならないので、夜8時過ぎまでそのままです。途中、2時間ほど抜けますが、それも本社提出の書類整理。ま、その時になんかあげられるといいんですがね……。
でも、こちらでもトップページに名前置いて頂いて本当にありがとうございます。語りは時に過激ですが、それも飛鳥エイジの激烈な怒りゆえと勘弁ください。本館と併せて、日々一人でも多くの人に、この日本のM県で起こったとんでもない「事件」について知って頂くため、これからも語ります。
よろしくお願いします。
2007年09月01日
よさこい節の真実
よさこい節発祥の地が高知県であることは有名なのですが、その歌詞が僧と町娘の悲恋を描いたものだということは案外知られていないように思います。
土佐竹林寺の脇寺、妙高寺の僧純真は、お馬という女性と恋に落ちた。しかし、お馬があまりにも美しかったため、お馬と純真の恋をこころよく思わなかった人々が多くいた。やがて世間の人々から非難を受けるようになり、二人は関所をやぶって香川県まで逃げてきた。しかし、そこでつかまり、純真は川之江に追放されてしまった。
と、こんなお話です。純真がお馬にかんざしを買ってあげるエピソードなども有名らしいですね。
純真とお馬は年が二十も離れていたそうです。そして、舞台は高知県竹林寺。なんだか、あまりにも自分の人生とだぶって辛いです。
私が一回目の遍路で、ぼろぼろになりながらたどり着いたのが、五台山竹林寺だったのです。そして、その時竹林寺の本尊、文殊菩薩に祈ったのが、二十歳年下のある少女の幸せでした。文殊菩薩からおわかりになる方もいらっしゃるでしょうが、願いの一つは彼女の受験合格でした。そしてもう一つは、彼女が抱えていた恋愛の悩みが解決することだったのです。
憧れの男に学校内で体を許しながら、正式に彼女にしてもらえない苦しみ。
その迷いを断ち切ってほしいと彼女は私に願ったのです。
私は当時、心底彼女を信じていました。だからこそ、自分が懲戒免職になるかもしれない瀬戸際にあっても、彼女の秘密を、苦しみを、査問会で一切語らなかったのです。それが結局、「あの子の様子がおかしくなったのは飛鳥のせいだ」とされてしまい、とんでもない言いがかりで私は免職となったわけです。
よさこい節は、実は悲しく理不尽な恋の物語だということを、もっと知ってもらいたいですね。自分にとっても高知県は特別な場所になっています。いつか、曇り無い心でもう一度竹林寺を訪れ、愚かだった自分を恥じながら文殊さんにお詫びしてきたいものです。
今、本館ではその四国遍路編をアップ中です。よろしければ一度のぞいてみて下さい。
私が撮影した、竹林寺山門の写真です。このシャッターを切るとき、涙で前が見えませんでした。
あの思いはなんだったのか。あまりにも、寂しいです。
2007年09月01日
9月1日
飛鳥とマチがいた場所
R町T山公園
泣きながら俺の胸にしがみつくマチをなだめたあの日
あの日の約束を守り通したことで
飛鳥エイジはM県教育委員会から懲戒免職処分を受けた
全く事実無根……というか、存在さえしない不祥事により、クビだ
9月1日
殺意を抑え切れなくなりそうだ……
本館目次から「9月1日」を読んでほしい
五年前の今日
M県R町で起きた
セクハラ教師と女子中学生の物語
2007年09月01日
本編 1-7 俺は、どこでも俺
M県R町は、東北の中心都市と言われるS市のベッドタウンとして急激に人口が増加した町である。丘陵地が切り開かれ、次々と新しい団地が造成されていった。S台も、そんな造成ラッシュの中で生まれた新興住宅地である。
そして、新しい住宅地の学校にありがちな問題なのだが、とにかく親がうるさい。まあ、権利意識の塊とでも言えば理解し易かろう。学校に口を出し、自分の意見を通させることがステータスの一つでもあるかのように勘違いしているオバ様が多いのだ。
当時S台小学校は、M県内最悪の小学校とまで言われていた。もちろん、教師たちの間での評判である。実際俺も、転任が決まって以来同僚の教師たちから「大変なところに決まったね。気をつけてね。」とそりゃもう耳タコなほど聞かされた。
だが、俺はさして……いや、全く不安など無かった。新しい団地の学校だかなんだか知らんが、子供はどこでも同じである。「田舎の子供は」「都会の子供は」という言葉が、俺は大嫌いだ。子供は、どこでも同じなのだ。大人が勝手に違う生き物にしてしまっているだけなのだ。
そして、俺はそんな自分の信念が正しいことを、このR町立S台小学校で実感することになる。
H小学校は確かに田舎の小規模校だった。対してS台小学校は、(当時)M県最大級の児童数を抱える、街の学校だ。そんな二つの学校で、俺は全く同じやり方で子供たちにアプローチした。結果はもちろん俺の思い通りだった。H小学校でできたことは、そのままS台小学校でもできたのだ。
子供は、どこでも同じだ。
無邪気でもあるし、ずるがしこくもある。純粋かと思えば、平気で嘘もつく。優等生もいれば、やんちゃなヤツもいる。一生懸命な子もいれば、なんとかサボろうとする要領のイイ子もいる。
そんな子供たちの「本質」に直接アクセスするのが俺の「教育」だった。ま、具体的には後にちょっとだけ語る。
S台小学校については、俺の運命の転機に関連して詳しく語ることになるので、ここではたった一つだけエピソードを紹介する。
平成9年4月、S台小学校に赴任した俺は、5年生を担任することになった。余談だが、俺はS台小学校の年次教育計画(ま、一年間の予定&計画をまとめた本よ)をつぶさに調べて愕然としてしまった。「なんじゃこりゃ……」あまりにも古い。S市近辺の学校は、お茶濁し程度に目新しいものをつまみ食いして、その後全然発展しない。変えるのがめんどくさいという理由で、毎年の担任・担当が次々先送りするからなのだ。
ま、ぶっ壊し好きの俺は、S台小学校の旧態依然とした行事や活動を次々改革した。5年生は4クラスあったが、学年主任はじめ各担任が俺に全面的に協力してくれたおかげで、S台小学校改造計画は順調に進み、子供たちは新しい活動に生き生きと取り組んでいた。
そんな中、俺と5年3組の子供たちは絆を深めていった。
それが形となって現れた、ちょっとおバカなエピソード。
平成10年10月。俺は6年生を担任していた。もちろん、5年生からの持ち上がり担任で、2年続けてのお付き合いの最中だった。
10月の末頃は、学校が一番落ち着く時期だ。運動会や修学旅行、学芸会などの巨大行事が一通り終わり、2学期末の成績処理や通信簿記入までほっと一息つけるころなのだ。俺も、6年生たちとの怒濤の半年間を駆け抜け、ちょっと腰を下ろして一休みしているような時期だった。
6年生の子供たちは、そんな俺の隙をついてやらかしてくれた。
その日、俺はいつものように授業を終え、「帰りの会」で子供たちに明日の準備などを話し、一日を終えた。終えたと言っても子供たちが帰っただけで、教師の仕事はこれからが大変だ。
ただ、この日俺は小さな違和感を覚えていた。それは、子供たちがそそくさと全員素直に帰って行ったということだった。いつもなら、俺が「帰れ」と言っても、何人かの子供たちは教室で仕事をする俺の傍に残って、雑談していくのだが、この日はあっという間に子供たちが一人残らずいなくなり、俺は教室に一人ぽつんとなってしまった。「めずらしいな」と感じたが、まあ全くないことでもないので、さして気にしたわけではない。俺は、職員室に戻って事務整理を始めた。
夕方4時頃だった。くだらない雑務も一段落し、背伸びしかけた俺の元に、担任していたクラスの6年生女子が二人やってきた。二人は職員室に飛び込むようにして駆け込んできた。
「飛鳥先生!!」
「あ!?どうしたお前たち。帰ったんじゃなかったのか?」
「そんなことより先生!視聴覚室にスズメバチが入ってきたんです!入り口は閉めてきたから廊下には出てないはずだけど、どうしたらいいか分からなくて。」
『そんなことより』という台詞はちょっとひっかかったが、スズメバチが校舎に入ったとなるとヤバイことだし、当然俺の出番だ。S台小学校は山の学校で、授業中にスズメバチが教室に入ってくることも珍しくなかった。他のクラスがどうだったか知らないが、俺は教室内に入ってきたスズメバチを、よくハエでも落とすように叩き落とし、窓から放り投げた。そんなときの俺の台詞は、「ごめんなスズメバチ。恨みはないけど、お前に子供が刺されると大変なんだ。」
そんなわけで、俺は二人の子供たちを連れて視聴覚室に向かった。
入り口のドアはカーテンが閉められていた。
「お前たちはここにいろ。絶対中に入ってくるんじゃないぞ。」
二人は、不安そうに頷いてその場にとどまった。
スズメバチはどこにいるか分からない。ドアのすぐ向こうにいることだってある。俺は慎重にドアをスライドさせ、カーテンをめくって中の様子を確かめ…………おい、どういうことだコレは?
スズメバチなんていなかった。どこにも一匹もいなかった。代わりにそこには、帰ったはずの俺のクラスの6年生たちが全員、そろって居やがるじゃないか!
「お前たち!なんでここに?つーか、お前たちさっき確かに全員帰ったはず……。」
状況が飲み込めない俺に、子供たちが話し始めた。
「大成功だね。」
「うん!」
「先生、今日は何の日?」
いや、何の日って……10月27日……俺の誕生日だが。
「飛鳥先生!誕生日おめでとう!」
あぁ!?よく見るとこいつら、長机並べて、菓子やジュースまで持ち込んでいやがる。
「な!?あのなお前たち、勝手に視聴覚室使って、食い物まで持ち込んで……」
「大丈夫!とっくに教頭先生にも許可もらってます!」
なんだとおぉ!つまり教頭は知っていたということか。今朝俺と話したときはそんな様子なんぞ毛ほども見せなかったぞ……。ちくしょう、やられた……。
「ほら!いつまでもびっくりしてないで、席に着いて。」
俺は二人の女の子に手を引かれて席に座った。職員室に飛び込んできた二人だ。お前ら……さっきの不安そうな顔も演技か!
俺は完全にはめられてしまった。
「では、プレゼント贈呈~。」
ちょっと待て、プレゼント?お前たちどこまでやるつもりだ?
「全員で少しずつ出し合って買いました。高いものじゃないから心配いらないよ。」
中身は、ネクタイだった。俺は、平素学校内ではジャージ姿だが、出勤・退勤時は必ずスーツにネクタイだった。私服出勤の教師も実際多いのだが、俺はそんなだらしないマネはしたくなかった。子供たちは、それを知っていたのだ。
青地にアルファベットがちりばめられた、楽しいデザインのネクタイだった。この品は、俺にとって一生の宝になることだろう。
「ありがとう、みんな。しかし、お前たちいつからこんな計画を?」
「2週間くらい前からですよ。放課後に少しずつ飾り作ったりして、先生のいない時間にみんなで打ち合わせしたりしてね。」
若本舞という女子が、してやったりという顔で説明してくれた。(この子の名前を覚えておいてほしい。後々、俺の運命が大きく変わる中で、最終章まで関わることになる人物の一人である。)
2週間前……そういえば、ここ2週間ほど、子供たちの様子が変なのは感じていた。教室に向かうときに必ずクラスの誰かと出会ったり、帰ったはずの子が夕方遅くに校舎を出て行ったり……。今思えば、あれは俺に隠れてこの日の準備をしていたわけだ。
それからの時間は、まるで夢のようだった。
毎年誕生日には何かしてもらえる俺だったが、さすがにこれほどのことは初めてだった。6年3組……なんという実行力をもった子供たちだろう。もちろん、俺が育てた子供たちではあるが、いつのまにか俺をハメてくれるほどに成長しているとは。
菓子や飲み物の持ち込みも、教頭先生と直接交渉して許可をもらったそうだ。本当に、生きる力なんてものは特別な教育をしなくてもきちんと身に付くものなのだ。子供たちが数々の手続きをクリアして持ち込んだおやつは、味わい深いものだった。
次の日からも、俺は厳しかった。子供たちの贈り物に感謝してはいるが、日々の活動はそれとは別の話だ。だが、子供たちは俺がそんな教師だから信頼してくれているし、まあ、慕ってくれてもいるのだろう。
この6年生たちに関しても、本当は語りたいことが山ほどある。優秀な子供たちであったが、それ以上に計画力と行動力、そして発想力まで兼ね備えたすばらしい子供たちだった。運動会や修学旅行など、ビデオが残っているので紹介したいほどだ。俺は、他校の行事をよく見学に行った。やっていること自体は参考になったが、子供たちの力に関しては、見習いたいと感じることは残念ながらまず無かった。実際、友人数名に何校かの学芸会ビデオを続けて見てもらい、どの子供たちの演技や動きが一番良かったか尋ねると、全員がS台小学校をあげてくれた。もちろん、演技から学校名を知ることはできない。
どうして日本中の教師は、苦労ばかりしているのだ?
俺は、毎日楽しく充実しながら、子供たちを確実に育てた。そりゃ、苦労がなかったわけじゃない。だがそれは、子供が解らないとか、親が難しいとかいうわけの分からない無用な苦しみではなく、純粋に行事の準備が大変だったり、教材分析が大変だったりしただけだ。
俺は、子供より、能無しの教師の方がよほど「解らない」よ。
んー……そうだな、いつか、語りたいな。悩める教師たちに参考にしてもらえるかもしれないし。ただ、俺のやり方は極めて個性的だから、そのまま真似するのは不可能だろうけどね。それでも、もしかしたら、「教育の本質」というものに迫れるかもしれない事例だから、語っておきたい。
さて、俺の教師時代の下らん話はこれくらいにしておこう。
これから語るのは、俺が前科者にまで墜ちていく入り口となる話だ。そして、その中で「学校」という閉鎖された世界の「常識」を色々聞いてもらうことになるだろう。
では、M県R町S台小学校を舞台に、俺という教師の身に何が起こったのか聞いてもらおう。
「転落教師の独り言」
いよいよ本題に迫ることになる。
始まりは、平成12年度。俺が5年生を担任していた年からそれは展開する。
次回 転落教師の独り言 第2章 転落の始まり 2-1「腐れ校長 T田」に続く