■一世と日系市民の強制収容
1941年12月7日、日本軍がハワイのパール・ハーバーを攻撃すると、翌8日アメリカ政府は対日宣戦を布告した。ハワイとアメリカ本土の日系アメリカ人のうち、宗教者、教師、新聞編集者、団体指導者など1270人が直ちに刑務所に強制収容された。
年が明けて、ハースト系の新聞が反日系アメリカ人キャンペーンを開始すると、一般世論は日を追って悪化し、日系アメリカ人は危険だから即時隔離収容すべし、という強硬論に傾いていった。1942年2月19日、ルーズベルト大統領は大統領命令第9066号を制定し、西海岸在住の12万人にのぼる一世と日系アメリカ市民を強制収容する措置が、この大統領命令を根拠に実行された。全体の三分の二は日系アメリカ市民が占めていた。西海岸在住の日系人は、身辺整理のための一週間程度の猶予期間の後、まず、15か所の仮設収容所に移され、ついで強制収容所に移された。しかし、ハワイは本措置の対象とならなかった。10か所の主要な収容所は、いずれも内陸部の荒涼たる不毛の地に設けられた。戦後直ちに取り壊され、現在は記念碑のみ残されている。現在、人が住んでいる例は一つもない。大統領命令第9066号の理由付けは、国家をスパイ行為およびサボタージュから守るためというものだった。しかし、実行上は見分けがつかないという理由で、年齢、性別、市民権の有無に関係なく、日本人を祖先とするすべての人々が対象となり、乳幼児も身体障害者も老人も例外にはならなかった。十六分の一以上日本人の血を引く者が、その対象とされたが、これはナチ・ドイツにおけるユダヤ人の規定(八分の一以上)より厳しいものである。
■第二次大戦中の日系米兵
日米戦争が始まった時、米軍内に約5千人の日系アメリカ人がいたが、そのほとんどは直ちに除隊させられた。その後、1942年5月にハワイの日系二世だけの第100歩兵大隊が編成された。第100歩兵大隊は北アフリカ、イタリアを転戦し、幾多の華々しい戦果をあげ、パープル・ハート大隊と呼ばれた(パープル・ハートとは戦闘中の負傷に与えられるハート型の勲章のことである)。
1943年5月、新たに二世の志願兵で第442歩兵戦闘連隊が編成され、同年6月第100歩兵大隊と第442歩兵戦闘連隊は統合し、ヨーロッパ戦線に投入された。1944年10月、彼らがフランスで従事したいわゆる「失われた大隊救出作戦」は、ドウス昌代著『ブリエアの解放者たち』(文春文庫)に活写されている。ドイツ軍陣地の奥にとり残されたテキサス兵の大隊211人を救出するために、第442歩兵戦闘連隊は184人の戦死者を含む800人余の犠牲を払った。第二次大戦には、全部で3万3千人を越える二世が従軍した。うち6千人が戦った太平洋戦線では、日系二世だけの部隊は編成されなかった。彼らは各部隊に分散し、日本語や日本文化の知識を活用して、ミリタリー・インテリジェンス・サービス(MIS)として、日本軍の作戦命令の翻訳や暗号の解読、日本軍捕虜の訊問などに従事した。百万言よりも雄弁な数字がある。全アメリカ軍人に占める死傷者数の割合は、第一次大戦で5.3%、第二次大戦で5.8%、朝鮮戦争で2.4%、ベトナム戦争で4.0%である。これに対して、第二次大戦における日系アメリカ軍人に占める死傷者数の割合は28.5%であった。1951年9月、サンフランシスコ平和条約により日本は独立を回復し、同時に、日米安全保障条約を締結した。1952年4月、カリフォルニア州最高裁は、外国人土地法は人種による不当な差別であり、合衆国憲法修正14条に違反すると判示した。1952年6月、マッカラン・ウォルター移民帰化法が成立し、日系一世を含むアジア系移民に初めて市民権取得の門戸が開放された。
■戦時強制収容問題の決着
1976年2月、フォード大統領が、アメリカ建国二百年を記念して、「第二次大戦中の日系人強制収容は誤りだった。二度と繰り返してはならない」とする"The American Promise"に署名した。この文書のきわめて率直な文言は感動的である。
1980年7月にはカーター大統領が「アメリカ市民の戦時移住および強制収容に関する委員会」を設置する法律に署名した。同委員会は第二次大戦中、日系アメリカ人が受けた不当な取り扱いの被害の詳細を調査するため、81年7月以降に10回公聴会を開催し、750人以上の証人の証言を聴聞した。
1983年6月、同委員会は"Personal Justice Denied"と題された467ページから成る報告書を提出し、第二次大戦中の不当な処遇の被害者で生存している者約6万人に対し、一人2万ドルの補償金を支払い、国として謝罪すべしと米国議会に勧告した。
1988年8月、レーガン大統領が日系アメリカ人補償法に署名し、1990年9月には同法に基づく補償金の交付が始まった。
■終わりに
過去30年間にアジア系アメリカ人の人口は劇的に急増した。1960年に約90万人(全人口の0.5%)だったが、1990年には約700万人(同3%)に達している。その中で、日系アメリカ人は85万人で中国系165万人、フィリピン系140万人に次ぐ三番目に大きい人種グループである。アメリカ生まれの人の数だけで見れば、日系アメリカ人はアジア系アメリカ人中最大のグループである。現在アメリカ在住の日系アメリカ人10人中8人は、アメリカ生まれのアメリカ人である。これは、全アメリカ人の平均よりもやや高い(!)比率だ。すでに1990年で、カリフォルニア州におけるアジア系アメリカ人は州人口の10%に達し、アフリカ系の7.5%を抜いている。日系アメリカ人の歴史は、多様性の国アメリカが我々に向けて開いた「窓」である。日米関係を国家間の関係として捉えるだけでなく、アメリカに夢を求めて太平洋を渡った日本人移民一世たちのこと、そして、一世の期待を託された二世、三世たちのことを理解しなければ、我々は日米関係の正確な理解には到達できないのではなかろうか。歴史はあまりにも重要だから、歴史家まかせにしておくわけにはいかないのである。
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