太平洋戦争と日系人の苦悩   
                         岡本孝司(法学部 昭和30年卒業)

 日本人は戦前、戦中、軍閥政府に踊らされて大きな犠牲を強いられた。だが太平洋戦争により在米日系人は日本人と同等かまたはそれ以上の精神的及び物質的損害を受けた。日本人のアメリカ移住の歴史はずいぶん古い。最初は1868年(明治元年)、157人がハワイに移住した。彼らはいまでも尊敬の念をもって“元年組”と呼ばれている。日本人の本格的移民が始まったのは1900年(明治33年)頃であるが、日本人に対する排斥の機運が高まったのは日本がロシアに勝利した日露戦争以後である。
 1906年東洋人の公立学校への入学が禁止され、1907年紳士協定が締結されて日本は移民を自主的に規制することになった。ところが1924年(大正13年)排日移民法が制定されて日本人移民は全面的に禁止されてしまった。それより先の1920年カリフォル二アでは外国人土地法が公布され、日本人の土地所有が不可能になった。
 アメリカに来て多くの一世や二世から日系人に対する激しい差別待遇を聞いた。白人の子供から誕生日のパーティに招待されたのでプレゼントをもって出かけたところ、その母親からプレゼントをもってすぐ帰れと追い返されたという話。日系人は大学を卒業しても就職口は皆無であったため、多くの者は庭師か日系人所有のレストランで働くよりほかに方法がなかった。卒業式は失業式を意味した。アメリカ人経営のレストランへ行ってもサービスしてくれなかった。プールへ行くと水が黄色になるからとの理由で断られた。ダンスホールは入場禁止、映画館では日系人の座れる場所は限定されていて、そこには“Japs & Dogs only”の札が掛かっていた。戦争終結後、シカゴに住んでいたある日系人がアメリカ軍兵士として太平洋戦争に従軍した息子のピックアップのためカリフォル二アのロングビーチまで車で出かけたが途中彼にベッドを提供するモテルは一つもなかった。
 戦前、日系人の多くは農業に従事した。黄色人種の増加を恐れたカリフォル二アの白人たちが、“Keep California white.”と言い出した。これに対し、日系人が“Keep California green.”とやり返した。彼らの気骨を示していて面白い。
 日米関係が緊迫の度合いを強めていた1940年(昭和15年)冬、学生の主催でワシントンの或る大学で日本と中国の領事による公開討論会が開催された。ところが当日、日本の領事は突然欠席を通知し、代理人が書かれたものをただひたすら読み上げただけだった。これに対し、中国領事は堂々と自己の見解を披瀝し、多くのアメリカ人の同情を集めた。日本の外交官は日系人をローカルの人と呼んでバカにしていたが、日系人は日本外交官の権力を表面的には認めながらも彼らを頼りにはしていなかった。
 真珠湾攻撃の翌日は月曜日だった。その日の朝、ある学校での出来事。日系人の子供は皆びくびくしながら登校した。番長に殴られるものと全員が覚悟をしていた。ところがこの番長が授業の始まる前にクラスの全員に対し、“日本政府は憎むがこれら日系人の子供には罪はないから彼らに対し絶対に手出しをしてはならぬ”と宣言してくれた。たぶん番長の親が番長にそのように告げたのだろう。アメリカの底深い寛容な一面を見た思いがする。
 真珠湾攻撃後の興奮状態のとき、日系人はいたるところで悪意ある扱いを受けた。日系人は法律的には敵性外国人(enemy alien)とされた。街を歩いていると白人の若者がトラックから飛び降りてきて日系人と見れば誰何の別なく殴り倒した。またトラックに轢かれそうになるケースも多発した。コーヒーショップや床屋は堂々と“No Japs”の看板を掲げていた。日系人大量虐殺のデマも流れた。
 真珠湾攻撃の約1カ月後、日系人の母子が道を歩いていた。そこに白人の母子が現れ、白人の子供が石を拾い上げて日系人の子供に投げつけた。だが日系人の母親も白人の母親もそれを止めようとはしなかった。真珠湾の恨みは白人の子供にまで染み込んでいたのである。
 1942年2月ルーズベルト大統領が署名した行政命令9066でアメリカ西海岸の日系人は軍部の管轄下に置かれ直ちに強制収用所に入れられることとなった。全米で10の収容所があり、収容された日系人の数は12万人にも達した。収容の理由は潜在的に危険な敵性外国人を収容するということだった。だが同じ敵性外国人でもイタリヤ人やドイツ人はごく一部の例外を除いて収容所に入れられることはなかった。
 ルーズベルトの命令は48時間以内に立ち退けという極めて過酷なものだった。そのため日系社会には大混乱が発生した。その混乱に乗じてチャイニーズとユダヤ人が雲霞のごとく日系人の家や農園に押し寄せ、ただ同然の値段でそれらを攫取した。あるチャイニーズは10ドルで家を売れと迫った。ある日系人は貴重な骨董を1セントで売れとユダヤ人から言われたため、ユダヤ人の目の前でその骨董を叩き割った。
日系人は一定の場所に集合するよう命ぜられた後、汽車で収容所まで送られた。汽車のブラインドはすべて降ろされていた。これは行き先を秘密にするためではなくて、怒り狂ったアメリカ人が日系人に投石するのを防ぐためだった。移動する列車の食堂車の中で、てきぱきサービスする黒人のボーイに対し、皆で集めたチップを渡そうとしたが“かわいそうな日本人からチップをもらうわけにはいかない”と断られたというエピソードもある。
 収容所の冬は寒く、ストーブはあっても缶詰が寒さで割れることがあった。反対に夏は暑く眠れぬ夜が続いた。収容所の塔の上にはアメリカ兵が機関銃を日系人の方に向け24時間監視していた。だが収容所の中では自治の制度も認められ、日系人の主張に対してアメリカ軍は比較的寛容であった。
 ルーズベルトは西部諸州の知事に対し日系人の収容を命じたが、これに反抗する知事が一人だけいた。それはコロラド州の知事ラルフ・カー(Ralph Carr)である。カーは人道的見地から日系人の収容を一切認めなかった。コロラドの日系人が受けた拘束は自宅から2マイル以上離れるときは事前にFBIに報告するぐらいのことだった。年老いた一世の多くは今でもこのカーの勇気ある決断を覚えており、彼に対し深く感謝している。
 戦時中、日系人に対して忠誠登録がなされた。これは17歳以上の日系人男子に戦争への参加の意思と米国への忠誠を問うための踏み絵だった。用紙にサインするだけでなく、全員を講堂に集めて忠誠を誓う者は右のドアから、誓わない者は左のドアから出ろというようなケースもあった。
 日系人5千人以上が有名な442部隊に入隊して主にドイツ戦線で戦い大きな戦功を挙げた。ヨーロッパ戦線のアメリカ陸軍の平均死傷者率は5.8%だったが、日系兵士のそれは28.5%の高さにまで達した。700人が戦死した。日系兵士のモットーは、“Go for broke”(当たって砕けろ)だったが、彼らはアメリカ市民として米国への忠誠心を示すためには身を挺して戦うほかなかったと思われる。
 イタリヤ戦線ではアメリカ軍が2度まで救出に失敗したテキサスの141部隊を日系の442部隊が救出に成功した。救出された141部隊は全部で211名だったが、442部隊の死傷者はこのとき800名にも達した。戦後テキサス人はこれに感謝して442部隊の全員に名誉テキサス市民の称号を贈った。だがすべてに移ろい易いのは人の心である。テキサスに最近“Jap Road”とか“Jap Lane”という道路が建設された。これに対し日系社会から猛烈な抗議が寄せられたが、テキサス人はこれを黙殺し改めようとしない。
 大戦中、ルーズベルトがカンザス州、フォート・ライリーのキャンプにやって来た。このキャンプには日系兵士を含む多くのアメリカ兵が訓練を受けており、大統領の目的はこれら兵士を激励することにあった。だが同じアメリカ軍兵士でありながら、日系兵士は講堂の中に押し込められて大統領に会うことはできなかった。講堂のカーテンは下ろされ、入口には銃を構えた兵士が立っていた。
 日系人に対するすさまじい差別に新聞の果たした役割を忘れることはできない。新聞は発行部数を増すためその真意とは関係なく何らかの主義、主張を持つ。たとえば、朝日新聞は戦前、戦中、戦後を通じて反米、容共、中国・北朝鮮礼賛である。彼らはかくすることによって紙の数を伸ばしてきた。アメリカにも反日を助長した新聞がある。ハースト系の新聞である。
 ハースト家は現在でも西海岸で第2の発行部数を誇るサンフランシスコ・クロニクル紙のオーナーである。ハースト系の新聞の主張は排日、非日だった。たとえば、がにまた、低い鼻、知性のない顔、ど近眼、出っ歯、醜悪な女、卑屈な物腰、強者に対するへつらい、カメラをぶら下げた貧相な男、金歯をはめたドブねずみ、細いきつね目の陰険なJapなどはすべて彼らによって創作された。真珠湾攻撃の直後、すべての日系人を太平洋にぶち込めとまで主張した。
 真珠湾攻撃は国際法上の違法性はないが、いまだ交渉中の相手を最後通牒も発せずに突然撃つというだまし撃ち(sneak attack)になってしまった。今でも日系人の子供は学校の教室で真珠湾の話がでると頭を上げることができないという。わが家の子供たちも同じ思いをした。或る年の12月7日の朝、白人の男がわが家の長男に向かって“Happy Pearl Harbor Day!”と言ったそうだ。そのとき長男は背筋が凍てつく思いをしたという。
 真珠湾のだまし撃ちは日系人排斥の大合唱になってしまったが、これに反対するアメリカ人がコロラド州のカー知事以外にもいた。彼は元カリフォル二ア州下院議員のラルフ・ディル(Ralph Dill)氏である。氏は日系人の強制収用に強く反対し、理由なく諸権利と家それにビジネスを失った日系人に深い同情を示した。1988年の日系人一人あたり2万ドルの補償とアメリカ政府の日系人に対する公式謝罪の実現にも協力してくれた。氏は2002年5月16日老衰のため他界した。
 
2006年8月19日記す。
(岡本孝司(おかもとこうじ)
昭和30年神戸大法卒、昭和37年一橋大学大学院修了後、商社・食品会社に勤務。その間オレゴン州ウイラメット大学大学院、フロリダ州西フロリダ大学講師。現在は著述・翻訳業。著書に「日本敗れたりー過信から絶望までー」「アメリカ意外史」など。ロサンゼルス在住、在米歴34年。)
 
 
 

2006/09/09