遺体は、1DKの居間で布団に横たわっていた。目を開き、天井を見上げていた。孤独死だった。
部屋の主がいなくなって8カ月以上もたつのに、ペン書きで「イシマル」とある郵便受けには今もはがきや封書が届く。部屋のベランダでは洗濯物が風に揺れている。家賃の口座引き落としも続いている。
東京都足立区の花畑(はなはた)団地。福岡県出身の76歳の独居男性が昨年10月22日、4階の自室で死亡しているのが見つかった。同じ階段を使う住人が異変に気づき、管理事務所に連絡した。
管理事務所は孤独死が疑われる場合、親族を呼ぶ。いなければ警察官を立ち会わせ、錠前業者に開錠させる。イシマルさんは後者。死後1週間だった。
警察は孤独死を「変死」とみなす。イシマルさんを検視した結果、事件に巻き込まれた可能性はなかった。親族と連絡が付かないため区役所に連絡。イシマルさんは、区と契約する寺で無縁仏として眠っている。
花畑団地は、東京五輪のあった1964年に入居が始まった。総戸数2725。当時の日本住宅公団の大規模団地、いわゆる「公団住宅」の先駆けだ。
98年、転機が来る。老朽化による建て替え計画で入居募集が停止された。直後、公団は政府による整理・合理化の対象となった。翌年、都市基盤整備公団に再編されて建て替えは凍結。04年には独立行政法人都市再生機構(UR)となった。
民営化の流れが荒廃に拍車をかけた。建て替えどころか補修もない。若い世代の入居による新陳代謝もない。空き室は現在1000戸。URによると2月現在、65歳以上の世帯主が全体の64・9%を占める。
65歳以上の割合が人口の50%を超えると、地域のまとまりの維持が困難になるとされる。大都市の中の「限界集落」で、イシマルさんのような死はごくありふれた光景だ。
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イシマルさんが生きた痕跡を探し求めた。部屋は5階建て60戸の棟。入居は26世帯だけだ。
1階の老夫婦がようやくドアを開けてくれた。居間と狭い台所。その間の廊下に介護ベッドが置かれ、玄関をふさぐ。「狭くてごめんね。足が弱って買い物もヘルパーさん頼みなのよ」。81歳の女性がベッドで身を起こし、記憶をたぐる。
「気難しい人だったわ」。イシマルさんは足を引きずり、つえを手放さなかった。重い買い物袋を提げ階段を上がる途中、ヘルパーが近寄って声を掛けると、「構うな!」と叫んだ。あいさつしても返ってこない。だから素性も分からない。
取材の間、居間からテレビの「水戸黄門」が大音量で流れてくる。「だんなは大正14年、あたしは大正15年生まれ」。老夫は顔をブラウン管にくっつけ、時どき大声で何か話しかける。「気にしないでね。あの人、ちょっと耳が遠いのよ」
栃木県出身で、夫は車の修理工だった。足立区・北千住のアパートに住み、75年、家賃の安い花畑団地へ引っ越した。子供はなく、夫婦2人の年金で細々と食べている。
「お墓が心配。広告で見た永代供養を今年2人分予約したの」。栃木にはあるが生まれ育った故郷から遠く離れた寺だ。
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団地商店街の多くは日中もシャッターを閉めている。大手ストアは数年前に撤退した。代わりに100円ショップが進出し、銀行の支店はATMコーナーに変わった。
書店を開けている豊田実さん(70)が嘆く。「質素な身なりのお年寄りがテレビガイドを買うだけじゃ電気代も出ない」。2年前、家賃の督促に訪れたUR関係者から「家賃がご負担ならいつでも出て行ってください。いい時もあったんでしょうから」と言われた。
「確かに、いい時代もありましたよ」。団地誕生時から開店、最初は米を売った。「あのころ団地族と言えば世のあこがれです」。高度経済成長で止めどなく流入する地方出身者を団地が吸収し、活気にあふれた。子供4人を花畑で育てた。
団地の荒廃に業を煮やした足立区は2年前、URに対策を申し入れた。URは昨年12月「入居募集はせず、残す部分と再開発する部分に分けて再生させる」と決めた。しかし、具体的な事業計画はまだ先だ。
イシマルさんの棟が残るかどうかは不明だが、駐輪場にはイシマルさんの三輪自転車が残されている。ほこりをかぶり、左の後輪がパンクしていた。【井上英介】
毎日新聞 2008年7月6日 東京朝刊