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(10)“激戦地”に来た訳穏やかな岡山旭東病院の勤務医生活。溝渕雅之医師(48)と土井章弘院長(68)の話を聞きながら疑問がわいた。 溝渕医師はなぜ、元いたここの生活を離れて高知医療センターを選んだのか。 それは、つい先日まで、強力な権限を誇っていた大学医局人事の成せる業だった。平成十六年に新研修医制度が導入される前、医局に属する多くの医師は、大学の意向で動いていた。 ◇ ◇ 四年前、旭東にいた溝渕医師は、岡山大脳外科から、次の勤務先の打診を受けた。中国地方の五つの病院。しかし、どこを選んでも単身赴任となる。「それなら故郷の高知で頑張りたい」と思ったのだ。 「日本初のPFI病院でしょ。新しいもの好きの僕にはぴったりだった。瀬戸山先生の下でやってみたいというのもあったし。年齢的にも、救急をやれるラストチャンス。人生の中でチャレンジしたい時ってあるじゃないですか」 ―それは一種の怖いもの見たさ? 「そう。ヘリにも乗ったし、着陸現場で気管挿管もした。経験値はすごく上がりました。病気はいっぱい診させてもらったし」 十年ほど前、大阪の救急病院で約二年半勤めた経験もあり、違和感はなかった。「救急は都会も地方も変わらない。どこも大変やなと。リハーサルなしの本番が続くんです。こちらも命懸けでしたからね。テレビで見るのと現実は全く違う。時間をかけて準備する予定手術と違って、慌ただしい手術ばかり。突然、重篤な患者さんが、次から次へ」 寝る間もないほどだったのは、既に紹介した。溝渕医師はそれを、「激戦地の硫黄島はこんなものだったのかな」と振り返る。 医師は数年おきに職場を動き、さまざまな経験を重ねて成長するのが常である。その意味では、高知医療センターは症例と経験を積むには恵まれた場所だった。 「専門医資格を取る前後とか、実力を付けたい一時期ってあるでしょ。余暇や睡眠時間も考えずに。そういう時期の医師をたくさん集められる病院は意外と少ないんですよ。現場のスタッフも皆、優秀ですからね」 「僕は、そういう時期を過ぎたんです。間もなく五十歳。スタンダードな手術手技を二、三年でおさらいして、その間に他の専門医もいくつか取って。依頼されてる英語論文も書かないと」 さらに、自治体病院の経営も系統的に勉強したいという。オンリーワン好きの彼には、やりたいことが山ほどあるのだ。 この三年間で得たものと失ったもの、どちらが大きいのか。 「設備は最新だし、医師としてはプラスになったものがいっぱいあります。半面、子供の小さい時に長期間、単身赴任というのは、あまりいいものではないですね。まず、家族とのきずなを取り戻さないと」 医師には専門医資格、博士号の取得、留学など、実力を付けるためのハードルが多い。それゆえ、医師人生のピークの期間は、それほど長くない。「時期が来れば次へ進み、後進にチャンスを譲るのも務めです」 ◇ ◇ 彼が高知医療センターで過ごした事情はそういうことだ。では、“激戦の地”を振り返って今、思うことは何か。離れたからこそ見えてきたものがあった。 【写真】笑顔で来院者を迎える岡山旭東病院の「エスコート係」(岡山市倉田) (2008年07月04日付・夕刊)
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