寧々(ねね)は悲しくはなかった。
どうして自分が、こんな格子戸と板張りの狭い部屋に閉じ込められているのか、充分に心得ているからだ。
しかも今日は「初日」ということで、大好きな「兄」も側に付いていてくれることになっている。
ここ中国は雲南省の山奥―――。とある狭い盆地の小さな村に、寧々は家族と共に暮らしている。父と母、そして兄と弟の五人家族である。
およそ十人以上の大所帯が当たり前であるこの地方の農家にしては、実に小さな家庭ではある。が、近隣には親類縁者が実に多く、村に暮らしているすべての人が寧々の家族と同じ「朴(ぼく)」の名字なのだ。
「朴 寧々」 十三歳。
愛らしいパチリとした瞳に長い黒髪―――。透けるように白くて極め細かな素肌―――。既に十三歳にして、「あどけなさ」ゆえの「可憐さ」と、萌え始めた「乙女の息吹」を混在させ始めている彼女は、村でも評判の美少女であり、心優しく控えめな性格である。
そんな彼女に、村の男たちのほとんどが好意を寄せている。しかもそれは若者に限ったものではない。特に既婚男性たちの彼女を見る時の眼差しは、決まって「生々しい淫欲さ」に満ち溢れているのだ。
しかし、当の寧々はそれにまったく気付いていない。彼らのそんな邪悪な眼差しに対して、いつも屈託のない朗らかな笑顔と、礼儀正しい挨拶で応えるだけだ。そこには確かに彼女の「幼さ」を見ることも出来るが、それ以上に「ムラの掟」というものが、村に暮らす娘たちに、目上の者を敬い男性に臣従することを強制している事実がある。村娘たちに、村の男たちに対する「好き嫌い」は決して許されないのだ。
自然豊かな村の暮らしの中、寧々の心はどこまでも純粋であった。村の暮らししか知らず、学校にすら行ったことのない少女にとって、この村の暮らしこそがすべてであり、家族こそがかけがえのない宝物だったのである。
しかし、未だ電気の灯かりも電話もない前近代的な「閉ざされた農村」は、この十三歳の可憐な少女に、過酷な試練を宿命づけていた‥‥。
「美少女監禁凌辱の密室」シリーズ 第一弾
CHINESE TINYGIRLS “NEINEI”
斜陽の格子
岳瀬浩司 著
本作品の著作権は上記の著者に属します。よって無断転載及び本文からの引用は、これを固くお断りします。個人の家庭内での購読目的に限り、印刷及び仕様の変更を許可するものとします。
〈ジュピターインターノベルズ〉
寧々の生まれ育った村の名は「拓朴村(たくぼくそん)」。中国は雲南省の西端に位置している。その名から推測できる通り、朴氏が開拓した村である。
ここは未だ道路も整備されていない山奥の僻地で、電話はおろか電気さえ通っていない。古くからの慣習に従って村民たちは静かに暮らしている。先祖が同じであることを認識しているためであろう、隣人同士で争うことも決して無く、実に穏やかな暮らしぶりだ。
しかし、およそ現代人には理解し難い「ある風習」が、今もこの村には根強く残っている。正確に言えば、拓朴村だけではない。この地方全域のあらゆる集落が、中央政府との交流が疎遠な為、昔ながらの独自の「村(ムラ)の掟」に自縛されたまま、気の遠くなるような長い歳月を、何の進歩もなく送り続けているのである。
父権が絶大な「村(ムラ)社会」において、女性の地位が著しく低いのは、どこの国でも同じである。が、「男尊女卑」の観念が余りにエスカレートすると、女性にとっては考えるだけでもおぞましい風習すら生まれる。
中国の奇習として有名なものに、「纏足(てんそく)」という習慣がある。およそ足の小さな女性が好まれた古き時代、年端のゆかぬ少女たちは、足を布で強く縛られて、足の成長を無理やり抑制されてしまったのだ。好意的な見地からすればそれは、将来、娘が少しでも良き縁談に恵まれるようにとの、親たちの娘を案じる気持ちから始まった風習であったかもしれない。が、現実には、纏足された少女たちは実に不幸であった。まともに歩くことが出来ないのである。少しでも小走りになろうものなら、たちまちバランスを崩して転んでしまう。つまり、男尊女卑の社会で、男性からいくら過酷な仕打ちを受けようとも、纏足された女性は逃亡する自由が完全に奪われていたのだ。
しかも女性に対する人権無視の風習はこれだけに留まらない。
ある地方では、少女たちは幼児期から結婚するまでの長い間、一日の大半を暗くて天井の低い奥座敷で過ごすという「奇妙な風習」が存在していた。決して立って歩くことが出来ないほど低い天井の暗室に、何年間も閉じ込められるのだ。少女たちはその中で、身を横たえて延々と過ごすことを強要される。自然と少女たちの素肌の色素や脚力は衰えていく。が、その「真の目的」は実に恐ろしい。実は少女たちの日焼けを抑制し、しかも下半身に余分な筋肉を付けさせないことで、男性の性的衝動を煽る色白で柳腰(やなぎごし)の艶かしいボディーラインや、挿入すれば柔らかく絡み付いてくるような「ミミズ千匹」にも似た「名器」に少女たちの肉体を改造する為だったのだ。
これらの風習はすべて、「女性は必ず他家へ嫁いでいくもの」という観念に根ざしたものだ。器量の良い娘ほど、嫁ぎ先の家から多くの「結納金」や「支度金」が娘の親元に支払われることになる。人身売買とまでは言わないが、「財テク」の為に娘を育てている要素も否定できない。それでも育ててくれただけましなのだ。耕作地の乏しい山間部の貧しい農村社会などでは、男の子は将来の働き手として大事に育てられたが、女の子は誕生して産声を上げると同時に間引かれる(殺される)場合すらあった。実はこれは日本の過去にも見られる風習なのである。
しかし、間引かれることなく無事に成長し、やがて男性と結婚したからといって、女性たちに幸せが訪れることは決してない。嫁ぎ先でも女性たちは所詮「子供を産む為の道具」でしかなく、男性にとって扱い易い「下僕」や「性奴隷」と見なされた為だ。まさに「女性受難」の時代である。
ところで当時の女性たちの結婚年齢は、およそ十四歳前後である。年下男性との結婚は一切認められず、必ず年上の男性と結婚しなければならなかった。確かに「後妻」や「愛人」として、好色な中年男の手元に引き取られる少女たちも少なくはなかったが、多くの場合、結婚相手は若干年上の少年だった。まるで「ママゴト遊び」の夫婦が誕生するに過ぎないのだ。ところが必ず嫁ぎ先の家には、年若い夫の父親や兄、祖父などが同居している。そして、これが必ずと言っていい程、少女たちの身に禍いをもたらす結果となる。つまり、夫以外に、しかも夫を相手にするよりも先に、同居している夫よりも目上の親族の男たちに、肉体関係を強要されるのだ。
一旦嫁いでしまうと、少女たちとてその家の人間だ。いや、正確に言えば「家の所有物」なのだ。家長たる義父や義祖父、義兄たちの命令に、決して逆らうことは許されない。言わずもがな、まだ「子供」のまま、遥かに年上の「大人の男」たちに、無理やりその初々しい肉体を紐解かれてしまうのだ。ひどい場合、嫁いでからしばらくの間、夫となるはずの少年の顔すら知ることなく、「義理努め(ぎりづとめ)」と称して少年の父親や兄、祖父たちに延々と慰み物にされ続け、ようやく本当の結婚相手である少年と対面を果たす頃には、身も心もボロボロになっていたのである。しかも、夫となる少年と初めて閨(ねや)を共にする時には、既に義父や義兄たちの子を身籠ってしまっていたというケースも、決して稀なことではなかったのだ。
このように、女性の人権を無視した数々の風習は、必ずしも同一時代に存在した訳ではないし、何も中国史だけに限って見られる物でもない。たとえ史実に残っていなくても、過去の日本の社会の片隅でも、きっと同じような行為が存在していたはずである。「女性虐待・拷問・食人の習慣」等、好奇の目線のみで中国文化を捉える風潮が一部に存在しているが、それは決して正しいものではない。実は日本こそ、その礎として中国文化の恩恵を最大限に享受してきた国だからだ。
ところが、過去の中国の「悪習」として挙げられるそんな風習や観念が、雲南省の山奥、この地方の村々には今も確実に残っていた。高い山々が連なる大自然の要害が、他の地域からの文化や風俗の流入を頑なに拒んだ為、それはみずからの生活習慣が産み出した「独自の文化」と呼べる物なのかもしれない。が、とにかく、現代中国文化から少なくとも100年は遅れているであろう質素な暮らしが、外からの「人」も「文明」も決して寄せ付けることなく、延々と受け継がれているのである。日本に置き換えて言えば、およそ江戸末期から明治にかけて存在したような、山々に取り囲まれた狭い盆地の農村風景である。
「朴 寧々(ぽく ねね)」 十三歳。
村でも一番の美少女である。白磁のように極め細やかな素肌。細身ながらも顔が小さいせいか、しなやかなプロポーションである。およそ十三歳の少女には思えないような色香すら漂わせているのは、きっとその長くて美しい黒髪によるものなのだろう。が、その大きな瞳の愛らしい顔つきには、そこかしこにあどけなさが色濃く残り、彼女が「大人」と「子供」の中間の「微妙な年頃」であることを、見る者すべてに強く訴えかけていた。
若者に限らず、村の既婚男性たちすら、彼女の蒼くも萌え始めた「乙女の生命力」を眩しく捉えている。包み隠さずに言えば、皆が彼女の「乙女」として成長していく姿を、淫靡さを秘めた眼差しで見つめているのだ。そして驚くべきことに、そんな彼らは、寧々とまったくアカの他人というものでもない。つまり、すべての村民が「朴」姓を名乗る、彼女とは縁続きの間柄なのだ。
彼女の家も他の村人たちの家と同様に農家である。父親の朴徳(ぽく とく)は厳格で逞しい三十七歳の働き者である。母親は貞郁(てい いく)、三十五歳。
そして寧々には、両親の他に兄と弟がいる。兄 貞順(てい じゅん)二十一歳と、弟 朴涼(ぽく りょう)九歳である。
一見すればすぐに、彼女の母親と兄の姓だけが「朴」ではなく「貞」であることの不自然さに気付く。そして、それこそが、この地方の村々独特の「奇異な風習」の事実を如実に物語っているのだ。
広大な国土を保ち、悠久の歴史を綴ってきた中国には、日本には紹介されていない文化や風俗が無数に存在する。彼らの暮らす地方の村々の「ある風習」もその一つだ。おそらく前述したようないくつかの「中国史における女性虐待」の事例を熟知する者の中にも、この「奇異な風習」の事実を知らぬ者は多い。
実は寧々の兄である貞順は、彼女と半分しか血がつながっていない、母貞郁の「連れ子」なのだ。ところが、母「貞郁」は何と、寧々の実の父である「朴徳」とが「初婚」だったのである。しかも単純に逆算すれば、郁はわずか十四歳で順を産んだことになる。
およそ日本人には理解できぬ風習ゆえに、眉をひそめる者も多かろうが、現在の寧々の置かれた状況を知る為にも、まずはやはり、若かりし頃の彼女の母親の話から始めなければならない―――。
寧々の母「貞郁」は、拓朴村から南に50キロ程離れた「河背村(がせそん)」に生まれ育った。そこは「貞」一族だけが暮らす「貞氏」の村だ。そして彼女は十四歳の時、朴徳の元へ嫁いで来た。ところが、彼女は朴徳と祝言を挙げてからわずか二ヶ月後に、寧々の兄となる「順」を産み落した。つまり、彼女はまだ十四歳という幼さでありながら、既にお腹が大きく目立つ「妊婦姿」となって、朴徳の妻として迎えられたのである。
あどけなさの色濃く残る十四歳の少女が、妊婦腹(にんぷばら)で他家へ嫁ぐ姿は、余りにも痛々しい。しかし、それがこの地域の村々ではごく「当たり前」の光景だった。郁の実家がある河背村はおろか、嫁ぎ先の拓朴村においても、誰一人として彼女の身重の姿に、眉をひそめる者はいなかったのである。
今から二十一年前、十四歳で既に妊婦と化していた郁は、愛らしい白無垢の花嫁衣裳に身を包み、親類たちの担ぐ籠に揺られて、「貞」家から「朴」家へと輿入れしてきた。嫁入り道具の慣習がまったく存在しないこの地域の村々では、まさに「身体一つ」だけで他家に嫁ぐのが普通である。ところが、彼女には輿入れの際に、絶対に持っていかねばならない物が一つだけあった。一通の短冊のような「書状」である。
そして彼女も輿入れの際に決してそれを忘れなかった。いや、たとえその「書状」を実家に置き忘れようとも、郁はその書状に書いてある「事実」を、一生涯忘れることが出来ないであろう。
当時、身重となった十四歳の「郁」が、輿入れの際に携えたその書状には、たった一行だけ、こう書かれていたのである―――。
孕 娘
郁
種 主
該
|
読み慣れた漢字も多く混じってはいるが、やはり説明せねばなるまい。
「孕娘 郁」とはつまり、妊婦となっている郁自身を指し示している。「種主」を単純に和読みすれば「たねぬし」となる。そして「該(がい)」とは「郁」の父の兄―――つまり彼女とは「叔父」と「姪」の間柄になる男性の名だ。
実はこれこそ、当時十四歳でしかなかった彼女を妊娠させた叔父「該」の、姪「郁」に対する「種付け証明書」だったのである。何と彼女は叔父の子を身籠っていたのだ。しかもその当時、叔父の「該」は四十一歳。既に嫁に出し終えた後だったが、彼女よりも年上の娘が二人もいたというから驚きは増すばかりだ。
しかし、この書状が物語っているのは、「叔父と彼女の禁断の肉体関係」や「不覚にも姪を孕ませてしまったことに対する叔父から新郎側への謝罪」などでは決してない。確かに該は好色な中年男であったが、むしろ彼は郁の父親から頼まれて、その頃まだ十三歳だった彼女を犯し妊娠させたのだ。つまり、この小さな紙短冊に認(したた)められた、たった六文字こそ、郁をはじめとする村に暮らす多くの娘たちが経験した、余りにも陰惨すぎる「奇異な風習」そのものだったのである。
今から二十二年前、郁が十三歳で初潮を迎えて間もない頃、彼女と「朴家の三男」との縁談話が、両家の父親たちによって勝手に取りまとめられた。「朴家の三男」とは、現在の夫「徳」のことである。
この地域の村々では、「初潮」や「精通」は成人の証である。それは決して儀礼的なものに留まらない。郁にとっても、親に勝手に決められた縁談話とはいえ、まだ見ぬ結婚相手に思いを馳せ、嫁ぐ日のことを指折り数えて過ごす「幸福な毎日」となった。つまり、たとえ年齢は十三歳であっても、そういった村の慣習の中で少女は育ってきたのだ。初潮を迎えた時点で、自身の結婚が目前に迫っていることを、彼女も充分に認識していたのである。
ところが「ムラの掟」が少女の前に立ちはだかった。既に「朴」本家からの分家が決まっている「徳」と結婚する為には、「子供の産める身体」であることを証明しなければならないのである。これを証明出来ずに、相手の家へ「輿入れ」することは絶対に出来ないのだ。
たちまち郁は実家の座敷牢に押し込められた。農家の繁忙期も終わった旧暦の九月のことだ。しかも彼女は決して一人で座敷牢に放り込まれた訳ではない。彼女の父親よりも遥かに年上の叔父「該」と一緒だったのである。
それからが十三歳の少女にとって、言語に絶する試練の日々となった。何と言っても父親よりも年上の中年男に、狭い密室の中で延々と犯され続けたのである。まだあどけなさを色濃く残した童顔のまま、昼夜を問わず執拗なまでにその蒼い肉体を貪られ続け、遂に郁は三ヶ月と掛からずに叔父「該」の子を身籠ってしまった。
が、郁の両親は彼女の妊娠を大層喜び、該に謝礼を渡して、娘を孕ませた「労」をねぎらった。つまり彼は郁の両親の公認のもと、誰にも邪魔されない「座敷牢」という狭い密室において、当時十三歳でしかなかった郁の蒼い肉体が「妊娠」という名の「屈服」を示すまで、延々と犯し抜いたのである。
実は既に本妻に七人もの子供を産ませ、貞一族の間で最も「好き者」として評判だった彼は、他の親族の娘たちも数多く妊娠させた「実績」を持っていた。
(親類たちの娘を次々と犯し、自分の子を孕ませては「謝礼」を受け取る―――)
それこそが叔父「該」の「生業(なりわい)」だったのだ。十二〜三歳の姪たちのあどけない肉体を好き放題に貪り尽くし、挙句に無理やり自分の子を妊娠させることで、彼女らの両親から謝礼を受け取り暮らしていたのである。しかも、姪たちが妊娠するまで、ずっと彼女たちの実家で歓待され続ける。精力のつく御馳走や酒を用意され、欲情するがままに姪たちの初々しい肉体を貪り犯す―――。それ以外は昼間であろうともゴロゴロと寝て過ごすだけだ。少女たちの初々しい肉体が大好きだった彼にとって、まさに「趣味」と「実益」を兼ね備えた「天職」としか言いようがない。当時も、十三歳の郁の「蒼すぎるからだ」に、見事に自分の「種」を仕込み終えたことに満足する一方、彼女の初々しい肉体にかなり名残を惜しみつつ、多くの謝礼を手に彼女の実家を後にしていったのである。
しかし、当の郁にしてみれば堪ったものではない。まさに十三歳の少女にとっては、生き地獄で更に嵐に遭うような過酷な日々だった―――。
好きでも何ともない、むしろ嫌悪感すら覚える好色な四十歳の叔父によって、座敷牢に閉じ込められたその日のうちに、あれほど両親から「大切なもの」と教え諭されてきた「処女」を、無理やり奪われてしまった。しかも精力絶倫な「該」は、朝夕となく彼女に休む暇さえ与えずに果敢に挑みかかってくる。逃げ場のない密室において、「十三歳」と「四十歳」という年齢差は、誠にいかんともし難い。郁が泣き喚くのもお構いなく、叔父はわずかでも股間がムズムズと催せば、たちまち彼女を布団に引きずり込んで、愛撫もなしに彼女のあどけない秘裂を強引に貫通し、ダイナミックな抽送を延々と繰り返したのだ。
まだ「子供のからだ」だった郁にとって、叔父「該」の成熟した男性のシンボルは、まさに「肉の凶器」であり、何度挿入されようが従順に迎え入れることなど不可能である。とてもでないが「快感」を覚えるどころの話ではない。しかし、それでも叔父は容赦しない。ただ自身の欲望のままに、全力でもって郁の「蒼いからだ」を突き刺した。十三歳の可愛い姪の、涙混じりの必死の哀願にも決して耳を貸すことなく、ひたすら彼女の初々しい肉体を貪り犯し、そのあどけない胎奥に向かって濃厚な「子種汁(こだねじる)」を放出しまくったのである。
―――そんな「肉の儀式」が、密室の中で延々三ヶ月も彼女の肉体に施された‥‥。
精神状態もそうだったが、郁の十三歳の貧弱な蒼い肉体も、もはや限界だった。遂には叔父「該」のみなぎる「生命力」に屈服を示すかのように、不覚にもその汚れ無き胎内に叔父の「種」を根付かせてしまうこととなる―――つまり、「叔父の子」を妊娠してしまったのである。
郁にはもう、何が何なのか判らなかった。妊娠に対するショックも感動も何もない。ただ、これでようやく叔父の肉欲から開放されることを知り、その幼い胸にわずかな希望を見出すのが精一杯だった。
やがて名残惜しそうに、叔父「該」は座敷牢から去っていった。わずかに六文字だけが認(したた)められた「書状」一枚と、彼女のお腹の深奥に「命の種子(しゅし)」を残したままに‥‥。
こうして叔父「該」によって植え付けられた「新しい生命」は、つわりに苦しむ郁自身をよそに、十三歳の少女の胎内で順調に成長していった―――。そして、およそ彼女のお腹の膨らみが大きく目立ち始めた妊娠八ヶ月目あたりの頃、彼女は「朴家」へと嫁いでいった。その時、花嫁衣裳の彼女が、その袖の中で大切に携えていたのが、この「妊蹟(にんせき)」なる叔父「該」が作成したこの「種付け証明書」だったのである。
これこそが世界はおろか、中国の他の地域でも決して類を見ない「試し腹(ためしばら)」の奇習だ。つまり、村の少女たちは縁談話がまとまると、自分が子供を産める身体であることを証明する為に、過去に女性を妊娠させた実績を持つ親類の男と共同生活を送り、度重なる肉交行為を受け入れなければならない。そして、余りに幼い年齢のままに、叔父や大叔父たちの手に掛かって無理やり妊娠させられると、今度は身重のままに結婚相手の元へ嫁いでいかねばならないのだ。
この奇異な風習が意味するものは、「家系安泰」を第一とする余りにも潔癖な「同族主義」だ。御先祖を敬い、年長者が絶大な権限を持つ中国の「家族形態」は、身内同士の結束力が強い反面、他家の者を徹底的に排除する傾向も兼ね備えている。特のこの地域の村々では、他家から迎えた嫁に決して同族の姓を与えない。いつまでたっても他家の人間であり、「子孫繁栄の為にその腹を借りて、一族の子供を作る」という観念が強いのである。
よって「借りてきた腹(嫁いできた娘)」が「不良品(不妊)」であることは決して許されない。日本の古い慣習では、嫁は里(実家)で「お産」を済ませるものだが、この地方の村々では、「初産」は必ず嫁ぎ先でおこなわねばならない。何故なら、お腹が大きく膨らんだ妊婦としての姿を嫁ぎ先に披露し、尚且つ、実際に赤ん坊を出産するという行為を嫁ぎ先でおこなうことで、娘たちはようやく嫁ぎ先の家から「子供を産める一人前の身体である」ことを認めてもらえるのである。つまり、他人の産んだ赤ん坊と偽の「妊蹟」を用意したりしても無駄な訳だ。
勿論、少女たちには「貞淑さ」すらも要求される。既に妊婦となっている以上、夫以外の男性によって処女を散らされていることは確かだが、それは所詮、同族や親族の男を相手にした「試し腹」ゆえに許されているにすぎない。「試し腹」をおこなう際も、出来るだけ一人の男性によって成し遂げられるのが望ましいのだ。
こうして郁は朴家に嫁いでから、叔父「該」の子を出産した。生まれたのは男の子で、「順」と命名された。
しかし、順にも「朴」姓は与えられない。何故なら順は所詮、郁の「試し腹」の為に作られた単なる「試し子」だからだ。朴家の戸籍にも入れてもらえず、かといって本来の血筋たる貞家に引き取られることもない。生まれた時からその生涯を、「奴(ぬ)」として朴家の奴隷のように暮らすことが既に決められている。が、それは「無事に成長できれば」の話だ。
実は「試し腹」の風習において「試し子」を作る行為は、必ず親族の間柄でのみおこなわれた。郁と該の場合がそうであったように、もっぱら叔父と姪の間でおこなわれることが通例となっていたが、「実の父親と娘」や「実の兄と妹」の間柄でおこなわれることもさほど珍しくはなかった。実を言うと該の家に生まれた二人の娘たちも、父親である該によって「試し子」を妊娠させられて、他家へと嫁いでいったのだ。つまり、これらはれっきとした「近親相姦」なのである。
優生学的に見ても、近親婚によって生まれた子供が、成人するまでに病気にかかって死亡する割合というのは、血縁関係の薄い男女間に生まれた子供に比べて非常に高いとされている。しかし、そのような高度な学問に無縁であるはずのこの地方の村人たちも、長年に渡って営まれ続けた独自の暮らしの中で、実はそれを充分に理解していた。そして彼らは、長年の暮らしから学び取ったそんな「経験則」を持って、敢えて肉親同士の間で「試し腹」の風習を続けている。近親婚の有害性を熟知しながらも、「他族の男と交わる行為は、夫となる男性以外には決してあってはならない」という「ムラの掟」を「大義名分」として、今尚、娘や姪、そして妹たちのまだあどけない肉体の深奥に、一族の血筋も濃厚な「試し子」を芽吹かせ続けているのである。つまり、「試し子」は所詮「試し子」であり、「生まれる」ことのみに意味があり、その成長など誰一人として望んでいないのだ。少女たちが嫁ぎ先において産み落とした「試し腹」の為の「試し子」は、早々と病死してくれるにこしたことがないのである。
―――そして、そんな数奇な生い立ちの「試し子」が、この拓朴村にも大勢いる。幼少で病死することなく無事に成人したとしても、結婚も出来ずに、奴隷のような扱いを受けながら懸命に生き続けているのである。
ところが実を言うと、そんな「試し子」たちの暮らしぶりも、村人たちの「家」によって大きく異なる。結婚こそ決して許されないのだが、家族の一員として大事に育ててもらえる場合もある。父権が絶大なこの村では、「試し子」たちの「禍福」はまさに家長たる「義父」の考え方一つなのだ。
朴徳の家に生まれた郁の試し子「順」は、辛うじて家族並みの待遇を受けて育つことが出来た。義父「徳」にしてみれば、自分とはまったく血の繋がっていない子供の扶養は、最初は確かに複雑なものであったに違いあるまい。しかし、小さい頃から聞き分けも良く、幼いながらも家事や野良仕事を懸命に手伝う彼の素行をいたく気に入り、次第に彼を実の息子のように扱い始めたのである。
そして歳月は流れ、いつしか順も二十一歳の逞しい青年となっていた。父親は違えども母を同じにする妹「寧々」や弟「涼」も、彼をちゃんと「実兄」として慕ってくれている。しかし、早婚が普通の村社会の中で、順はいつまで経っても嫁を迎えることが出来ず、分家も許されず、ひたすら毎日を義父の畑仕事を手伝って過ごしていた。所詮、「試し子」はいつまでたっても「試し子」であり、村社会は決して彼を一人前とは見なしてくれないのである。しかもやがては朴家の家督を、弟の「涼」が受け継ぐことになる。そうなった時、たとえ弟にそんな意識はなかろうとも、彼は弟を主人として仰がねばならない。今は九歳の弟がこの先、嫁を迎え、子供を作り、幸せな家庭を築いていく姿を、彼は同じ家に暮らしながら、ただじっと見続けなければならないのである。
(母親を同じくして「同じ家」に生まれ育ちながら、父親が異なるだけで生じた身分の格差―――。「試し子」ゆえに背負わされた絶対的な宿命‥‥)
時として二十一歳の若者は、そんな自身の境遇を憂い、家族に隠れて涙することもあった。
しかし、そんな現在の自分の置かれた状況や、将来の自分の立場を心配することよりも、彼が今最も心配なのは、妹「寧々」のことだった。「試し子」として生まれながら比較的恵まれた環境に育った順にとって、実は「朴家の娘」として生まれた寧々の方が、余程気の毒に思えることが多々あったのだ。
(父親こそ異なるが、血を分けた大切な妹―――)
しかも、同じ母親から生まれたにも関わらず、単に「種(父)」が異なるだけで、妹はここまで自分とは似ても似つかぬ色白で可憐な少女へと成長を遂げている。のっぺりとした幼稚な「からだ」が、ここ半年の間で見違える程に柔らかさを増した「乙女の肉体」へと変貌を遂げつつあるのだ。
最近は胸元の膨らみやお尻の丸みも目立ち始め、一緒に風呂に入る時なども、自分の視線に多少の恥じらいを見せるようになってきている。彼女の日々めざましく発育を遂げていく初々しい肢体に、順も歳月の経過をことさら重く実感してしまう。まるで彼女の「育ての親」のような心境なのである。
が、そんな妹の身体を目にする彼の気持ちは複雑である。やがてはこんな愛らしい妹が、他家へ嫁ぐために「例の洗礼」を受けねばならないからだ。いや、それはもう決して遠い日のことではない。その為の「身体の準備」が、既に妹の中では始まっているのだ。
そのことを考えると、最近の彼は妙に平静ではいられない。しかし、それも無理からぬ事だ。何故なら妹は「何も知らない」のだから‥‥。
確かに「ムラの風習」として、妹も「試し腹」の「掟」そのものは心得ている。「試し子」たる自分の生い立ちを知っているのだから、別段それを「怪しげな儀式」とも捉えていない様子である。しかし、その為に「一体誰から一体どんなことをされるのか」までは、未だ性知識の皆無な妹自身には、決して教えてはいけない「習わし」なのだ。それはつまり「嫁ぐ前の娘」に、「性」に対する妙な関心を持たせない必要からなのであるが、ここまで純真無垢に育ってしまった妹を見るにつけ、兄の心はひどく痛んでならない。
勿論、そんな妹にとって悲劇的過ぎる「運命の日」が、まさかここまで目前にあったものとは、彼とて予期していなかったのであるが‥‥。
およそ男尊女卑の観念が定着している拓朴村の「ムラ社会」において、村娘ほど弱くて不幸な立場はない。父権が絶大な「家」の中、数々の「しきたり」が彼女たちの自由を奪い続ける。
寧々も例外ではない。他の村娘たちと同様、ずっとその両足を纏足されて育った。早朝の外出こそ許されてはいたが、陽が高くなると日焼けを防ぐ為に、家でじっとしていなければならないのである。そんな不自由な暮らしが五歳の頃からずっと続いていたのだ。勿論、学校になど行ったことがない。そもそも村に学校という存在がないからだ。
しかし、寧々はそんな村の暮らしに今まで一度も不満を持ったことはない。それがこの村に生まれた娘にとって、ごく当たり前の暮らしだからだ。
(家長である父の言葉は絶対である。何はともあれ「家」を大事にし、父や母の命令には決して逆らってはいけない。他家へ嫁いでは、ひたすら黙って夫に服従することこそが美徳とされている)
幼い頃からそんな「男尊女卑」の精神を徹底的に植え付けられて育った少女は、素直で従順な性格のまま、美しくも愛らしい少女へとすくすくと成長していったのである。ただ一つ、纏足されたその小さな足を除いて‥‥。
そんな少女にとって、幼い頃からの一番の遊び相手こそが、兄の順だった。退屈な日常において、八歳年上の兄に構ってもらっている時が、少女にとって最も幸福な時間だったのだ。そして何より、優しい兄の存在があったがゆえに、彼女はここまで素直で可憐な美少女に成長することが出来たと言っても、決して過言ではないだろう。
自然に包まれた静かな農村の暮らしは、まったく日々に疎い―――。
今日も日暮れと共に父の徳と兄の順が畑仕事から帰ってくる。二人の帰りを母と弟と共に家の玄関にひざまづいて迎えるのが、いつからか始まった彼女の日課である。そして、それまでの長過ぎる日中を、何もすることなくずっと暗い部屋に引き篭もっていた少女にとっては、この「眩しく思える夕映えの時間」こそが、「短い一日の始まり」のようなものでもある。
帰宅した父親はすぐに風呂に入り、畑仕事の汚れや疲れを、「一番湯」でしっかりと洗い流す。そしてその間に郁と寧々は夕食を準備する。体を休める暇もなく、順も台所を手伝ってくれる。
やがて父親が風呂から上がると、次は弟の涼が入浴する。何と母親や畑仕事に精を出した兄の「順」よりも、働いていない少年が先に風呂に入るのだ。些細なことかもしれないが、こんなところにも暮らしに根付いた「村のしきたり」というものを窺い知ることが出来る。つまり、「嫡男」は家の中で「家長」に次いで偉いとされているのである。
そして二人が入浴を終えると、「三番湯」は母の郁が急いで使うことになっていて、その間に寧々と順によって、出来あがったばかりの夕食が、父や弟が食事をする「居間」に運ばれる。が、「椀盛り」は二人の仕事とされない。何故なら寧々も順も、居間において父や弟たちと同席することを決して許されてはいないからである。よって母が急いで風呂から戻り、父たちの食事の世話をすることになっているのだ。
こうして寧々と順は、ようやく父と弟の夕食の準備から開放され、入浴の時間を迎える。但し、当然ながら兄と妹の間にも入浴の順番がある。「四番湯」は必ず兄の順に与えられるのだ。つまり、最後に入浴を許されるのが寧々なのである。
しかし、思春期も差し迫った少女にとって、そんな入浴はしないほうがマシかもしれない。風呂の湯も五番目になると、湯の量も少なく、余りにも汚れが目立つからだ。日焼けを避けて育てられた色白な寧々の繊細な素肌にとって、それはかえって素肌の清潔さを損ねかねないのである。特に野良仕事を終えた大の男が二人も入った後の湯は、土色に濁ってしまっていて、とても髪や身体を洗うのに使えそうもないのだ。
ところが、いつも兄の順は、妹の寧々に四番湯を譲ってやったのである。正確に言えば「しきたり」を守る必要から、浴室には順の方が先に入る。しかし、湯船につかることも身体を洗って湯を減らすようなこともしない。後から浴室に入ってくる寧々を先に入浴させるばかりか、彼女の髪や身体までも順が丁寧に洗ってやっていたのだ。
既にとっぷりと陽も暮れて、菜種油の灯りだけが浴室の中を映す―――。
妹の素肌は本当に白い。オレンジ色の灯りに板張りの浴室全体が彩られても、少女の白い裸体が一際眩しく輝いている。妹の余りに繊細なその素肌は、強い陽射しの中で十数年に渡って畑仕事を続けてきた彼の褐色の荒い肌とは、何もかもがまるで対照的である。
順は本当に寧々の心も身体も慈しんだ。湯はおろか彼自身に与えられている「泥石鹸」のすべてを、いつも寧々の為に使ってやる。畑仕事で分厚くなってしまった手のひらで、誤って妹の珠のような素肌を傷つけてしまわないように、優しく丁寧に少女の全身に泥石鹸を塗りつけていくのだ。
そんな兄の行為に寧々はいつもうっとりと身を任せる。それは既に日常と化した兄と妹のスキンシップなのである。互いに決して淫らな行為とは思ってもいない。身分に厳格な家の中、既に父「徳」と弟「涼」は、母「郁」に「飯盛り」されながら居間で夕食の最中である。優しい兄と素直で愛らしい妹の健気な「睦み合い」は、決して誰にも邪魔されることはないのだ。が、寧々はいつもそれを嬉しく思う反面、兄に対して申し訳なくも感じている。
と言うのも、少女のからだは小さかったが、髪はしなやかでとても長い。兄によって髪や身体を洗ってもらうと、兄が惜しみなく湯を使ってくれる為に、湯船にはほとんど湯が無くなってしまうのだ。そんな状態になってから、ようやく兄は湯船につかるのである。
足首あたりまでしか残っていない少ない湯につかる兄は、とてもでないが肉体労働の疲れを風呂で癒すことなど出来ない。そればかりか身体の汚れを落そうにも、自身の持ち分である泥石鹸をすべて妹に惜しみなく使ってやる為、そのまま湯船の中でゴシゴシと全身を擦って汚れを落すしかないのである。
そんな明らかに自分の犠牲となっている兄の姿を見ていると、寧々は時々涙ぐんでしまうことさえある。しかし、少女が四番湯の遠慮を口にしても、優しい兄はいつも「命令」として彼女を先に入浴させたのだ。目上の者の命令には絶対に逆らってはいけない村娘としての弱い妹の立場を、兄は今まで、そんな「思いやり」としてしか使ったことがない。そんな優しい兄だったからこそ、寧々は大好きだったのである。
こうして兄妹仲良く入浴を終えると、ようやく二人にも夕食の順番が回ってくる。母と兄妹の三人で、台所で質素な食事を取る。三人には決して居間や座敷での食事は許されていない。しかし、兄と一緒に食事が出来るだけで、寧々は充分に幸せだった。
こんな制約の多い家での暮らしも、寧々は既に慣れっこだ。それどころか、毎日が幸福で満たされていた。側にはいつまでも兄の順がいてくれるからだ。
(兄は家で長男でも「試し子」だから、分家されて家から出ていくこともないし、お嫁さんを貰うこともない。いつも自分一人だけを可愛がってくれる‥‥)
確かに兄にとっては気の毒なことだが、寧々にはそれが一番嬉しいことだ。何より夕食を終えると、彼女にとって短い一日の最後に訪れる「その日で最も幸福なひととき」がやって来る。兄と同じ布団で寝ることが出来るのである。
実は順と寧々は、既に幼い頃からずっと一緒の布団で休むのが習慣となってしまっている。そもそもは寂しがり屋の寧々の希望から始まったことだ。優しい兄は妹と同じ布団に枕を並べながら、ずっと少女の頭を優しく撫でてやり、やがて少女が穏やかな寝息を立てるまで見守ってやるのが、その日の最後の日課なのである。しかし、それは特に両親から咎められることではない。何故ならそもそも順と寧々は、ずっと同じ部屋で寝起きしているからだ。まだ「初潮」を迎えていない寧々が、両親たちから今もって「子供」と見なされているおかげでもある。しかし、言い方を変えれば、既に成人している順に、自分の部屋が与えられていないということでもあるのだ。
灯りを使うことを厳しく戒められ、兄と妹は今宵も早々と寝床(とこ)に就くことを余儀なくされる。が、一日の大半を薄暗い部屋に押し込められて孤独に過ごす寧々にとっては、最も心が休まる時間だ。兄のぬくもりに抱かれつつ、今宵も同じ布団で眠りに就くことが出来る。
家に兄がいなくては、きっとこの少女に笑顔は存在しないだろう。優しい兄の存在だけが、束縛の多い彼女の暮らしの中で、唯一の救いだったのだ。
毎日が同じようにただ平凡に過ぎていく―――。静かな農村の一角で営まれ続ける余りに穏やかな月日―――。
しかし、優しい兄の永遠の存在を信じて疑わない少女は、所詮、自分が他家へと嫁いでいかねばならぬ宿命にあることを忘れてしまっているに過ぎない。
そしてその日を迎えるべく、あどけない少女の「からだ」の中にも、変化は刻々と巻き起こっていた。
「朴 寧々」 十三歳―――。
この村に生きる少女にとって「初潮」は「大人の証し」であり、それまではたとえ肉体の発育がいくらめざましかろうとも「子供」として扱われるのが慣例だ。言い換えれば、いくら容姿にあどけなさが色濃く残っていようとも、初潮を迎えてしまえば、少女たちは「ムラ社会」から一人前になったと見なされてしまうのである。
が、今宵もそんな「子供」のままに、兄の布団の中で安らかな眠りについた少女に、月日は止まることを決して許さない。そして、幼い頃の母「郁」がそうであったように、奇しくも同じ十三歳の寧々の肉体にも、翌朝、それは突然に訪れたのである‥‥。
【終・・・・】
《注意》
この物語はすべてフィクションであり、登場する如何なる人物、団体、国家、人種、地名及び地域、文化、風習等、すべてが架空のものです。また、男性にとって有利とも受け取れる女性の心情に関する心理描写、及び身体機能の記述は、すべてが事実と異なる誤ったものです。
〈ジュピターインターノベルズ〉
「斜陽の格子」猥褻ドキュメント小説版 with 超インパクトCG集
究極の官能エロスが貴殿の股間を急襲する至極の一冊!
@年中無休 24時間いつでもダウンロードできます@