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2)中年ガッツマン 春日丘・竹井 一志2008年06月25日
■しびれた一瞬 仲間ともう一度 1枚の写真が残っている。 キャッチャーのミットをかいくぐり身をよじらせて滑り込んだ選手が、左手でしっかりとホームベースを触っている。アルファベットの「K」と書かれたヘルメットは顔にずり落ち、歯をぐっと食いしばった口元だけが見える。 82年7月30日、日生球場で開かれた第64回大阪大会の準々決勝は、府立の春日丘と、春の選抜で全国制覇したPL学園の対戦。試合を決めたのは9回表、春日丘の竹井一志が成功させた本盗だった。この年、春日丘は公立校として23年ぶりの優勝を果たす。 「滑り込んだ瞬間は全然覚えてないんです。でも、ピッチャーが二塁へ牽制(けんせい)球を投げるのと同時にスタートを切ったとき《遅れた!》と感じたのは覚えてます。本当はピッチャーがプレートを外して振り向いた瞬間にスタートするべきでした。あとは夢中で……。気がついたら、審判が両手を広げてました」 ◎ −−−−− ◎ −−−−− ◎ 富山県射水市。日本海にほど近い工業地帯にある自動車部品工場。44歳になった竹井は昨年から、吹田に家族を残して初めての単身生活を送っている。 「うちが造ってるのは自動車のアルミホイールです。型に流し込んで固める『鋳造』という製法が一般的ですが、うちのは『鍛造』。油圧でぐーっと押して形を整える。量産には向かないけど、軽くて強い。F1のチームもたくさん使ってくれてますよ」 自社製品の説明になると、語調が熱を帯びた。役職は総務部長だが、口調は熱血セールスマンそのものだ。 高校時代のチームメートや監督は皆、竹井のことを「ガッツマン」と呼んだ。 セカンドの竹井と二遊間を組んでいた当時2年生のショート、井上和男の話。「先輩にこんなこと言うと失礼ですが、正直、守備はそんなに上手とは思わないんです。でも、全部飛びついてた。絶対届かないだろうっていうボールにまで。《ユニホーム汚したいだけちゃうか》ってくらいにね。とにかくファイトがある。頼りになる人です」 準決勝の太成戦では、延長11回裏1死三塁、打席に入った竹井は2球続けてスクイズを外された。だが2球とも166センチの体でめいっぱい伸び上がって飛びつき、ファウルで逃れて直後に犠牲フライで決勝点を挙げている。 足も速かった。50メートル6秒0は、チームの中でエースの田宮実と主将で1番を打つ白木弘幸に次ぐ俊足だった。 だがPL学園との準々決勝で勝負を決めた本盗は、竹井のガッツと足の速さだけで成功したわけではない。 夏の大会を前に、春日丘は尼崎稲園(兵庫)と練習試合をしている。 再びショート井上の回想。「ランナー二、三塁で、二塁ランナーがするすると塁を離れたんです。僕はベースカバーに入ってピッチャーから牽制球を受けた。ランナーにタッチしようと思ったら、視界の片隅に三塁ランナーが本塁めざしてスタートを切っているのが見えたんです。全然予想してなくって。二塁ランナーをタッチしようとして体勢が崩れてるし、ホームへ投げることもできませんでした」 尼崎稲園の監督、西谷仁孝(よしたか)が「弱いチームなりの点の取り方を」と考え出した作戦だった。夏の大会前にライバルに手の内を知られないよう、県外のチーム相手に試したのだ。試合後、春日丘の神前(かみまえ)俊彦監督が西谷に頭を下げた。「あの作戦、うちも使わせてもろうていいですか?」 春日丘も飛び抜けた選手のいない公立校。2年前まで監督もいなかった。当時24歳のOB神前が見かねて、会社員のまま監督に就いた。非力な打線で点を取るのに、本盗は格好のアイデアだと考えた。 さっそく毎日の走塁練習に採り入れた。神前は強調した。「この作戦は相手が警戒していないときにやってこそ成功率が上がる。ここぞという場面でしか使わんぞ」 ◎ −−−−− ◎ −−−−− ◎ PL学園は、その年の春日丘にとって因縁の相手だった。秋の府大会、続く近畿大会、春の府大会。公式戦で3度対戦し、3度とも敗退。そして4度目の対戦となった夏の準々決勝で、春日丘は意外な長打で食い下がる。 2点を先取された後、エース田宮がバックスクリーンへ3点本塁打。いったん逆転されたが1点を追う8回、井上が人生初の本塁打を放って同点に追いつく。 そして9回表、竹井と田宮が出塁して1死一、二塁。2人の俊足ランナーを得て、神前は迷わず送りバントのサインを出す。《監督、いよいよアレをやるつもりやな》。竹井はピンと来て、田宮と視線を交わす。 2死二、三塁。サインは初球から出た。 二塁ランナーの田宮がリードを広げる。だが、ピッチャーはなかなか牽制球を投げない。打者の井上には「待て」の指示が出ている。簡単にカウント2―1と追い込まれる。続く4球目、ストライクゾーンに入った球に井上はかろうじて反応し、バックネットにファウルで逃れる。 もう後がない。田宮はリードの幅をさらに広げる。二塁と三塁の中間まで出る。 ここでようやく、ピッチャーがプレートを外し、後方を振り返った。 牽制球。 田宮が二塁と三塁の間で挟まれて時間を稼ぐ――はずだった。だが、ベースカバーに入った遊撃手・佐藤公宏は目の前の田宮には目もくれず、すぐさま本塁へ送球する。「お前らの考えてることは分かってたよ」。佐藤は後に、大学でチームメートとなった田宮に打ち明けている。 8回終了後に点灯したナイターの明かりに照らされて、竹井が本塁へ駆ける。佐藤からの送球が、わずかに一塁側にそれる。竹井は身をよじって本塁に滑り込んだ。 「セカンドからホームまで高校生がストライクを投げる確率は、PLの選手といえどもせいぜい5割でしょう。打たせるよりもよっぽど確実ですよ」。監督の神前が期待したとおりの展開になった。9回裏に2死二塁のピンチを迎えるが、センターの白木が大飛球を背走しながら好捕し、6―5でPL学園を下す。 殊勲の竹井は、自分の本盗より仲間の好プレーが勝因だったと強調する。 粘りの投球で完投した田宮。同点本塁打の井上。白木の好守。誰一人欠けてもPLには勝てなかった。「一人ひとりがエエ仕事して、バシっとかみ合った。チーム力で一つになるって最高。人生であんなにしびれた経験はない」 ◎ −−−−− ◎ −−−−− ◎ 春日丘は甲子園で長野代表の丸子実業から1勝を挙げた後、神奈川代表の法政二高に敗れて夏を終える。 「正直、終わったときはホッとしました」と竹井。「打倒PL」と「めざせ甲子園」にささげた高校生活は、十二分に報われた。「なんか、人生が終わったみたいな虚脱感でしたね。ホッとしたけど、これから何すればエエんやろうって」 春日丘の主力選手はそろって浪人した。竹井は1浪して関西大に進み、野球は辞めた。他人に負けないガッツがあった半面、けがも絶えなかった。肩と腰の痛み。「中途半端な状態でふがいない野球はできない」。甲子園球児のプライドが、遊びとして野球を続けることを拒否した。 エースだった田宮は早大に進み、硬式野球部に入部。肩を壊したが野手に転向し、大学4年の春には東京六大学の歴代最高打率を打ち立てた。活躍を知った竹井は、うれしくて大学の友人に自慢した。自分にとって野球は、過去のものになりつつあった。 就職先には、社名に「大阪」とついた自動車のディーラーを選んだ。実家を離れて転勤したくなかった。 営業の仕事は肌に合っていた。毎日、新しい人と話をするのが楽しかった。「へえ、春日丘で野球してたの? PLにホームスチールで勝って甲子園に行ったよね?」「それ、おれなんですよ」。球児の経験が営業に生きることも楽しかった。 95年、人事に移る。会社の中枢だが、ストレスのたまる部署でもあった。10年間がむしゃらに働いたが、景気は低迷期に入り、社員の不満をぶつけられる機会は増える一方。毎朝、通勤電車で会社に近づくと、気分が落ち込んだ。心療内科に通った。 心の中で「もういっかな」と言う自分がいた。「野球を辞めたときと同じような感じでした」。05年11月、退社。何もする気が起きず、1年ほど自宅に引きこもった。 ◎ −−−−− ◎ −−−−− ◎ そろそろ働かなきゃ。そう思って再就職活動を始めた矢先に背中を押してくれたのは、昔の仲間たちだった。 田宮や白木ら当時の仲間とは、今もときどき酒を飲む。面接の前日にも飲んだ。「無職の男から金はもらわれへんって、みんなでおごってくれてね。そういう仲間がいるのって、うれしいよね」 再就職後、資本関係のある今の会社に出向した。転勤を嫌がっていた男が、生まれて初めての一人暮らし。従業員100人程度の中小企業では、庶務、労務管理、採用……総務部長の仕事は多岐にわたる。 「いまだに野球に代わる、情熱を傾けられるものは見つからないんです。仲間と一体になって一つの目標をめざす……野球は最高でした。仕事となると、誰かと純粋に一つになるのは難しいでしょ。まあ、今の職場でどうやってみんなが一つになれるかを考えるのが、おれの役割かも分からんね」 一昨年から白木に誘われ、田宮らとともに「マスターズ甲子園」の予選に加わる。高校球児のOBが再び甲子園を目指す大会だ。今年も7月末に予選がある。 「楽しみやねん。何とかもう1回、あの球場に行ってみたい。やればできる。そういう自信をまた、もらいたいねん」 =敬称略 マイタウン大阪
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