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東京裁判が不十分に終わった理由は、当時、アメリカがその裁判に大きな力を発揮し、アジアの被害国がフィリピンを除いては、独立していないか、独立戦争をたたかっており、国際的な発言力がまだ弱かったことにあります。冷戦が始まると、アメリカは、きちんと戦争犯罪を裁くことより、日本を自分の側に取り込むことを優先しました。
たとえば、昭和天皇に戦争責任があることは、東京裁判が始まった頃、連合国側の圧倒的な意見でしたが、天皇を日本の統治に使う目的で、アメリカが不起訴にしました。
また多数のA級戦犯容疑者が釈放され、その人たちは戦後の日本社会で、高い地位や大きな影響力を保ち続けました。
逆に、BC級裁判で死刑判決を受けた991人には下級将校や下士官が多く、また朝鮮・台湾などの植民地から徴集され、日本の末端で働かされた下級兵士・軍属が49人も含まれているような状態でした。
岸信介(きし のぶすけ) 1896~1989 敗戦時 国務大臣としてA級戦犯容疑で逮捕 1948年 釈放 1955年 自民党幹事長 1957年 内閣総理大臣 1960年 日米新安保条約調印反対闘争で辞任 笹川良一(ささがわりょういち) 1899~現存 敗戦時 国粋同盟の総裁としてA級戦犯容疑で逮捕 1950年 公職追放解除後、国際勝共連合を指導 1959年 日本船舶振興会および全国モーターボート競争連合会会長、 他に日本消防協会会長を兼務 正力松太郎(しょうりきまつたろう) 1885~1969 敗戦時 読売新聞社の社長としてA級戦犯容疑で逮捕 1947年 釈放 1949年 日本野球連盟会長 1954年 読売新聞社主 1955年 自民党衆議院議員(当選5回) 1959年 野球殿堂入り
巣鴨拘置所から釈放される戦犯容疑者。(1949.12.26) 毎日新聞社提供。
多数の朝鮮・台湾の人々がBC級戦犯として連行された。写真はラングーン法廷での銃殺刑。(写真予定)