中国新聞 2008年7月3日付 文化(11面) ネット上のソースなし
現代の罪と罰 上
平野啓一郎さんに聞く
テロとしての無差別殺人
人は「離脱者」を許せるか
「死刑で排除」に違和感
現代の罪と罰 上
平野啓一郎さんに聞く
テロとしての無差別殺人
人は「離脱者」を許せるか
「死刑で排除」に違和感
「個人的恨みで事件を起こすのではなく、一種のテロとして社会そのものに恨みをぶつける人たちが出現している」。作家の平野啓一郎さん(33)がそんな問題意識を抱いて書き上げた新作長編小説「決壊」(新潮社)。無差別殺人事件を扱ったこの作品の出版が迫ったころ、東京・秋葉原の無差別殺傷事件が起きた。「皮肉なタイミングだった。事件に巻き込まれた人たちがどんなに悲惨な目に遭うかということも丁寧に書いたつもりだったので・・・。残念です」。世界は"決壊"し始めているのか。
平野さんは一九七五年、愛知県生まれ。京都大在学中の九八年、十五世紀フランスを舞台にした「日蝕」でデビュー、「三島由紀夫の再来」と評され、翌九九年に芥川賞を史上最年少で受賞した。
デビューから十年、平野さんが現代日本を舞台にした殺人事件を題材に選んだのはなぜか。
現代の階級社会
「死はずっとテーマとして持っていたので、人が人を殺すとはどういうことかを考えるのも必然でした。殺人者は地獄で永遠に罰せられるという世界観を共有できない現代社会で、人は殺人者を許せるのか。もう一つの大きなテーマが暴力。殺人は究極の暴力です」
「決壊」上巻。男が中学生の友哉にこんな言葉を吐く。「遺伝と環境の不公平はどうにもならない」「努力次第で人生は変わる。そんなのは、まったくのデタラメ」。男は、法や道徳から離脱して事件を起こし「悪魔」名の犯行声明で「殺せ」というメッセージを世に放つことを持つ掛ける。友哉は思う。「世界中で事件が勃発し、離脱者が続々と現れる! 世界は俺を認識し、歴史は俺を記憶するだろう!」。ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を思わせる場面だ。
そして会社員沢野良介の切断された遺体の一部が京都市で見つかり、悪魔の犯行声明に刺激された"離脱者たち"による第二、第三の事件が―。
主人公は被害者良介の兄、崇。平野さんと同世代に設定した。「僕らはポストモダンの時代に生きていると思っていたのに、実は古い階級社会みたいなところに押し込められ、勝ち組と負け組に引き裂かれている」。秋葉原の事件の加藤智大容疑者(25)も携帯サイト掲示板に「勝ち組はみんな死んでしまえ」「負け組は生まれながらにして負け組」と記していたとされる。
整合性取れない
共通の敵や権力が見えにくくなった今、「互いの悪意を監視し合っていないと誰がどこで何をするか分からないという感じ。だから互いに厳しい」と平野さん。「自分もぎりぎりで耐えているのに、勝手なことしやがって、というようなルサンチマンで犯罪者を見る人は多い。自己責任や自助努力が強調されている中で『殺人者は殺されて当然』『死刑によって排除する』という考え方が支持されている」
だが、平野さんは違和感を覚えている。「殺人は駄目だと言っている社会全体が『悪いことをしたら殺す』では整合性がない。究極のことがあれば殺してもいいということを容認している社会である限り、絶望の表現としての殺人が起こり続ける気がしてなりません」 (田村文=共同)
写真 「時代とシンクロしてしまった」と語る平野啓一郎さん
写真 秋葉原の無差別殺傷事件で、送検のため東京・万世橋署を出る加藤容疑者を乗せた車 (6月10日)
中国新聞 2008年7月4日付 文化(27面) ネット上のソースなし
現代の罪と罰 下
平野啓一郎さんに聞く
分かりあえない他者の出現
自傷するか人を襲うか
虚無生むネットの闇
作家平野啓一郎さん(33)の新作長編「決壊」は、現代の罪と罰を問う小説だ。二〇〇一年の米中枢同時テロ以降の世界状況やネット社会の陥穽をも描き出している。
「一九九〇年代半ばぐらいまでは他者を尊重せよなどと楽観的に語られていたが、『9・11』以降、どうしても分かりあえない他者が攻撃的な形で現れ、『他者性の尊重』の真価が問われている」と平野さんは語る。
そんな今だからこそ、ドストエフスキーが見直されているのだと平野さんはみる。「彼は、他者とどれほど議論しても最後まで分かりあえない世界を描いた。それに『罪と罰』の舞台となった十九世紀のペテルブルクの雰囲気は、今の日本に似ている。大きな価値観が崩れたとき、虚無的な人間が事件を起こすという構造がある」
「決壊」の中で犯人グループに入る中学生、友哉を取り巻く状況は、九七年に起きた神戸の連続児童殺傷事件と重なってみえる。「あの事件は個人的なテロの始まりだった」。当時、平野さんは大学生だった。
「負け組」を認識
「現代人は膨大な思想や情報に囲まれているが、世の中をどうみてどう行動するかは、世界を言葉でどう秩序付け、自分を位置付けるかによる。秋葉原で無差別殺傷事件を起こした人は、自分は負け組だというロジックから逃れられなくなったのではないか。そうしたロジックの影響を一番受けやすいのは中学生ぐらいの子どもだと思う」
平野さんはこれまでも「顔のない裸体たち」などの小説で、ネットの中で虚像が膨らみ、実像を浸食するさまを書いた。一方で、一度流れた汚名や不名誉な写真は消すことができない。「決壊」の登場人物は、そうしたネットの闇にはまって傷つき、壊れていく。
「さらに最近では、パソコンが人間の内面を検索できるようになった」。例えばグーグルなどを使えば、特定の思想について書いている人を探すことができる。作品では、こうしたウェブ検索の機能が犯罪に結び付く。
格差に若者絶望
ネットは他者の多様性を露呈させもする。「その中で、今のシステムに参加したくない、法律も倫理も関係ないという人たちとどう意思疎通するのかというのが現代の困難。今の世の中は嫌だという人は結構いて、自傷するか人を襲うか、二つのタイプで現れている」
固定化する格差に絶望する若者は多い。三十一歳のフリーターによる「希望は、戦争」という副題の論文(「論座」二〇〇七年一月号)が反響を呼んだが、平野さんは「靖国の思想の反復ではないか」という見方を示す。「戦死したら貧乏人も金持ちも靖国にまつってもらえるという"希望"がどれだけ人々を戦争に駆り立てたか・・・」
平野さんは、自分の中にも、破壊的衝動が存在すると認める。「社会と完全に融和的な人は小説家にならないと思う。僕はその衝動が自分に向かう方ですが、社会に対して否定的な思いが芽生えたとき、どれとどう付き合っていくか考えている。自分の問題として突き詰めたところからしか希望に向かう考え方は出てこないと信じ、この小説を書きました」 (田村文=共同)
写真 秋葉原の無差別殺傷事件の現場に設けられた献花台=6月11日
>殺人者は地獄で永遠に罰せられるという世界観を共有できない現代社会で、人は殺人者を許せるのか。
言ってることがよく分からんが、なんで殺人者を許さないといけないんだ。過失とか防衛の結果の上での殺人に関してならまだ分からんでもないが。
>自分もぎりぎりで耐えているのに、勝手なことしやがって、というようなルサンチマンで犯罪者を見る人は多い。
ルサンチマンの使い方を間違っているんじゃないかと思うが。
ルサンチマン(WIKIPEDIA)
>『殺人者は殺されて当然』『死刑によって排除する』という考え方が支持されている
死刑存置論者に対する印象操作が好きだな。
個人的には死刑存置論者だけど、伊藤一長前長崎市長を殺害した犯人に対して、死刑が相当だったかは疑問に思う。もちろんご家族の方が死刑を望むのは当然だと思うし、それを否定するつもりはない。
死刑存置論者であっても、死刑に対するハードルは個々人で違うだろうし。
>「殺人は駄目だと言っている社会全体が『悪いことをしたら殺す』では整合性がない。究極のことがあれば殺してもいいということを容認している社会である限り、絶望の表現としての殺人が起こり続ける気がしてなりません」
日本で死刑になる人間は、人を殺した人間だけなんだから、まさに罪と罰なんじゃないのか。
「絶望の表現としての殺人」ってアホかこいつ。
>「時代とシンクロしてしまった」と語る平野啓一郎さん
かなりの勘違い人間ですね。
>「あの事件は個人的なテロの始まりだった」
津山三十人殺しは違うのか?。
>「靖国の思想の反復ではないか」
>「戦死したら貧乏人も金持ちも靖国にまつってもらえるという"希望"がどれだけ人々を戦争に駆り立てたか・・・」
三十一歳フリーターに釣られて適当なこと言うなよ。
別に”希望”で戦争に行ったわけではあるまい。
平野啓一郎 オフィシャルサイト
平野啓一郎ブログ
平野啓一郎(WIKIPEDIA)
平野さんは一九七五年、愛知県生まれ。京都大在学中の九八年、十五世紀フランスを舞台にした「日蝕」でデビュー、「三島由紀夫の再来」と評され、翌九九年に芥川賞を史上最年少で受賞した。
デビューから十年、平野さんが現代日本を舞台にした殺人事件を題材に選んだのはなぜか。
現代の階級社会
「死はずっとテーマとして持っていたので、人が人を殺すとはどういうことかを考えるのも必然でした。殺人者は地獄で永遠に罰せられるという世界観を共有できない現代社会で、人は殺人者を許せるのか。もう一つの大きなテーマが暴力。殺人は究極の暴力です」
「決壊」上巻。男が中学生の友哉にこんな言葉を吐く。「遺伝と環境の不公平はどうにもならない」「努力次第で人生は変わる。そんなのは、まったくのデタラメ」。男は、法や道徳から離脱して事件を起こし「悪魔」名の犯行声明で「殺せ」というメッセージを世に放つことを持つ掛ける。友哉は思う。「世界中で事件が勃発し、離脱者が続々と現れる! 世界は俺を認識し、歴史は俺を記憶するだろう!」。ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」を思わせる場面だ。
そして会社員沢野良介の切断された遺体の一部が京都市で見つかり、悪魔の犯行声明に刺激された"離脱者たち"による第二、第三の事件が―。
主人公は被害者良介の兄、崇。平野さんと同世代に設定した。「僕らはポストモダンの時代に生きていると思っていたのに、実は古い階級社会みたいなところに押し込められ、勝ち組と負け組に引き裂かれている」。秋葉原の事件の加藤智大容疑者(25)も携帯サイト掲示板に「勝ち組はみんな死んでしまえ」「負け組は生まれながらにして負け組」と記していたとされる。
整合性取れない
共通の敵や権力が見えにくくなった今、「互いの悪意を監視し合っていないと誰がどこで何をするか分からないという感じ。だから互いに厳しい」と平野さん。「自分もぎりぎりで耐えているのに、勝手なことしやがって、というようなルサンチマンで犯罪者を見る人は多い。自己責任や自助努力が強調されている中で『殺人者は殺されて当然』『死刑によって排除する』という考え方が支持されている」
だが、平野さんは違和感を覚えている。「殺人は駄目だと言っている社会全体が『悪いことをしたら殺す』では整合性がない。究極のことがあれば殺してもいいということを容認している社会である限り、絶望の表現としての殺人が起こり続ける気がしてなりません」 (田村文=共同)
写真 「時代とシンクロしてしまった」と語る平野啓一郎さん
写真 秋葉原の無差別殺傷事件で、送検のため東京・万世橋署を出る加藤容疑者を乗せた車 (6月10日)
中国新聞 2008年7月4日付 文化(27面) ネット上のソースなし
現代の罪と罰 下
平野啓一郎さんに聞く
分かりあえない他者の出現
自傷するか人を襲うか
虚無生むネットの闇
作家平野啓一郎さん(33)の新作長編「決壊」は、現代の罪と罰を問う小説だ。二〇〇一年の米中枢同時テロ以降の世界状況やネット社会の陥穽をも描き出している。
「一九九〇年代半ばぐらいまでは他者を尊重せよなどと楽観的に語られていたが、『9・11』以降、どうしても分かりあえない他者が攻撃的な形で現れ、『他者性の尊重』の真価が問われている」と平野さんは語る。
そんな今だからこそ、ドストエフスキーが見直されているのだと平野さんはみる。「彼は、他者とどれほど議論しても最後まで分かりあえない世界を描いた。それに『罪と罰』の舞台となった十九世紀のペテルブルクの雰囲気は、今の日本に似ている。大きな価値観が崩れたとき、虚無的な人間が事件を起こすという構造がある」
「決壊」の中で犯人グループに入る中学生、友哉を取り巻く状況は、九七年に起きた神戸の連続児童殺傷事件と重なってみえる。「あの事件は個人的なテロの始まりだった」。当時、平野さんは大学生だった。
「負け組」を認識
「現代人は膨大な思想や情報に囲まれているが、世の中をどうみてどう行動するかは、世界を言葉でどう秩序付け、自分を位置付けるかによる。秋葉原で無差別殺傷事件を起こした人は、自分は負け組だというロジックから逃れられなくなったのではないか。そうしたロジックの影響を一番受けやすいのは中学生ぐらいの子どもだと思う」
平野さんはこれまでも「顔のない裸体たち」などの小説で、ネットの中で虚像が膨らみ、実像を浸食するさまを書いた。一方で、一度流れた汚名や不名誉な写真は消すことができない。「決壊」の登場人物は、そうしたネットの闇にはまって傷つき、壊れていく。
「さらに最近では、パソコンが人間の内面を検索できるようになった」。例えばグーグルなどを使えば、特定の思想について書いている人を探すことができる。作品では、こうしたウェブ検索の機能が犯罪に結び付く。
格差に若者絶望
ネットは他者の多様性を露呈させもする。「その中で、今のシステムに参加したくない、法律も倫理も関係ないという人たちとどう意思疎通するのかというのが現代の困難。今の世の中は嫌だという人は結構いて、自傷するか人を襲うか、二つのタイプで現れている」
固定化する格差に絶望する若者は多い。三十一歳のフリーターによる「希望は、戦争」という副題の論文(「論座」二〇〇七年一月号)が反響を呼んだが、平野さんは「靖国の思想の反復ではないか」という見方を示す。「戦死したら貧乏人も金持ちも靖国にまつってもらえるという"希望"がどれだけ人々を戦争に駆り立てたか・・・」
平野さんは、自分の中にも、破壊的衝動が存在すると認める。「社会と完全に融和的な人は小説家にならないと思う。僕はその衝動が自分に向かう方ですが、社会に対して否定的な思いが芽生えたとき、どれとどう付き合っていくか考えている。自分の問題として突き詰めたところからしか希望に向かう考え方は出てこないと信じ、この小説を書きました」 (田村文=共同)
写真 秋葉原の無差別殺傷事件の現場に設けられた献花台=6月11日
>殺人者は地獄で永遠に罰せられるという世界観を共有できない現代社会で、人は殺人者を許せるのか。
言ってることがよく分からんが、なんで殺人者を許さないといけないんだ。過失とか防衛の結果の上での殺人に関してならまだ分からんでもないが。
>自分もぎりぎりで耐えているのに、勝手なことしやがって、というようなルサンチマンで犯罪者を見る人は多い。
ルサンチマンの使い方を間違っているんじゃないかと思うが。
ルサンチマン(WIKIPEDIA)
>『殺人者は殺されて当然』『死刑によって排除する』という考え方が支持されている
死刑存置論者に対する印象操作が好きだな。
個人的には死刑存置論者だけど、伊藤一長前長崎市長を殺害した犯人に対して、死刑が相当だったかは疑問に思う。もちろんご家族の方が死刑を望むのは当然だと思うし、それを否定するつもりはない。
死刑存置論者であっても、死刑に対するハードルは個々人で違うだろうし。
>「殺人は駄目だと言っている社会全体が『悪いことをしたら殺す』では整合性がない。究極のことがあれば殺してもいいということを容認している社会である限り、絶望の表現としての殺人が起こり続ける気がしてなりません」
日本で死刑になる人間は、人を殺した人間だけなんだから、まさに罪と罰なんじゃないのか。
「絶望の表現としての殺人」ってアホかこいつ。
>「時代とシンクロしてしまった」と語る平野啓一郎さん
かなりの勘違い人間ですね。
>「あの事件は個人的なテロの始まりだった」
津山三十人殺しは違うのか?。
>「靖国の思想の反復ではないか」
>「戦死したら貧乏人も金持ちも靖国にまつってもらえるという"希望"がどれだけ人々を戦争に駆り立てたか・・・」
三十一歳フリーターに釣られて適当なこと言うなよ。
別に”希望”で戦争に行ったわけではあるまい。
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