よくある質問

館長はアスペルガーなのに、なぜ「自閉連邦」の職員を勤めるのか?――つまり、アスペルガーなのになぜ自閉という用語を使い続けるのか? 

このご質問は、三とおりの趣旨で寄せられているようです。ですから、お答えも三とおりに分けるのが適当と考えます。

一つは、お立場に関係なく、「アスペルガーは自閉症圏とは関係ない、広義の自閉症には含まれない」というもの。

二つめは、アスペルガーの子どもさんをお持ちの方々からで、「うちの子はアスペルガーという馴染みのないカタカナの名前のおかげで助かっている。それなのに、アスペルガーと自閉症が親戚だとか近縁だとかいうことを広く知られてしまっては、偏見を持たれることになり、迷惑だ」「アスペルガーは自閉症と似ているとか、親戚だなどとは思いたくないのに、不愉快だ」というものです。

もう一つは、「自閉性障害」「小児自閉症」と診断された子どもの親御さんたちから寄せられたもので、「あなたみたいなアスペルガーの人は、困難も軽く、普通の生活ができるではないか。そんな人たちにまで『自閉』を名乗られたのでは、自閉症児はみんなこんな優秀な大人になれるのかと誤解されて、必要な援助が受けられなくなるので迷惑だ」というもの、「うちの子と比べてしまい、辛くなる」というものです。


まず、お答えする前に、説明しておきたいことが三点あります。

一つは、私自身についてです。私は、言葉が発達していた点、道順や人の顔といった視覚情報の処理に困難がある点、そして動作の模倣や記憶に問題がある点などは、とてもとてもアスペルガー的だと思っています。でもその一方で、単語が絵と結びついていたこと、カレンダーや電話帳に熱中したこと、万国旗、ブロック、プラレールが好きだったこと、絵を見ずにジグソーパズルをすること、など、症状とはよべない「障害以外の部分で」自閉性障害の人たちと共通する部分があります。

二つめは、このページで翻訳・紹介している文章の著者・筆者たちのことです。筆者たちの中には、「小児自閉症」という名前を与えられている人もいれば、「非定型自閉症」と診断されている人も、「アスペルガー症候群」と呼ばれている人もいます。幼児期に診断された人もいれば、15歳で診断された人も、46歳で診断された人もいます。でも、私は彼らと、何の分け隔てもなくつき合っています。みんな少しずつ、私と似たところもあれば、私と似ていないところもあり、〈診断名が同じかどうか〉と、主観的な〈身近さ、親しみやすさ〉には何の相関もないからです。

もう一つは、このウェブページについてです。このページは、〈「アスペルガー症候群」であろうと「自閉性障害」であろうと「非定型自閉症」であろうと関係なく、誰もが、自分の脳の働き、自分のこだわり、趣味や嗜好に自信をもち、自分らしさを受け入れることができるように〉という趣旨で作ったものです。遠い外国にも仲間がいて、同じようなことを考えている――それを実感してほしくて作ったものです。


それでは、数多く寄せられるご意見に対して、一つずつ、お答えしていきます。

「アスペルガーは自閉症圏とは関係ない、広義の自閉症には含まれない」というご意見について。

そういう説があることは承知しています。でも私はこのページで、原因や発生機序、下位分類の規準などについての検証をする気は全くないのです。私自身、下位分類に関する専門家どうしの論争からは、距離を置きたいと思っています。専門家が私たちをどう分類しようと、仲間たちは仲間たちであり、友は友なのです。同じ名前で分類されていようと、親近感を感じない相手には感じないし、別の名前で分類されていようと、感じる相手には感じるのです。

私はアスペルガーと診断された当初、半信半疑でした。それが、診断を確信するに至ったのは、同じアスペルガーの人ではなく、狭義の自閉症の人の書いた文章と、非定型自閉症の人の書いた文章と、非言語性学習障害の人の言葉がきっかけでした。

また、私が、自閉というのは単に障害というだけではなく、趣味・嗜好・テイスト・ノリを左右する要素でもあり、文化の根拠でもあることを知ったのは、水頭症の人の言葉と、トゥレット症候群の人の文章がきっかけでした。

このページは、私たちが、違いを大切にしつつも、互いに共通のものを見いだし、確認するための場所です。

科学的・医学的な厳密さの価値は否定しません。でも、科学的・医学的分類がカバーしきれない分野というものもあるのです。このページでは、主にその部分を担当していきます。侵さず、侵されず、共存して、分業していこうではありませんか。



「うちの子はアスペルガーという馴染みのないカタカナの名前のおかげで助かっている。それなのに、アスペルガーと自閉症が親戚だとか近縁だとかいうことを広く知られてしまっては、偏見を持たれることになり、迷惑だ」というご意見に対して。

こういう風に考えることはできないでしょうか? アスペルガーの人々も、自閉性障害の人々と、必要とする配慮や措置の種類が(完全に同じでないにせよ、一部は)共通なのであれば、〈自閉性障害と類似・近縁の障害かもしれない〉と知ってもらった方が、必要な配慮が受けやすくなるかもしれない、と。

ただしこれは、学校の関係者など、サービスやケアに直接関わる人たちに関しての話であり、親戚や近所の人など、単に陰口を言う人たちについてはあてはまらないのでしょう。でも、「アスペルガーのことを世の中に広く知ってもらう」ということはできても、「サービスやケアに直接関わる人たちにだけ広く知られ、単に陰口を言う人たちには伝わらないように」というのは無理な話です。

「必要な配慮と、偏見はペアでワンセット」という状況が問題なのであって、〈類似・近縁の障害かもしれない〉ことを隠し続ければすむという問題ではないという気がしています。ご自分が隠すのは構わないのですが、他の人々にまで沈黙を強いるというのは、どうなんでしょう……。

でも、それ以前に何より、こういうご意見の陰には、「狭義の自閉症の子は偏見を持たれてもしかたがないが、うちの子はアスペルガーなのだから偏見を持たれたくない」というお気持ちが見え隠れするようで、私はとても辛いのです(自閉性障害の人々自身や、自閉性障害の子どもさんのいる親御さんも見るであろうこのページに、このお言葉を引用するのさえ、躊躇したくらいです)。



「アスペルガーが自閉症と近縁の類似障害であることは知っているが、思い出したくないのに、不愉快だ」とおっしゃる、(アスペルガーの子の)親御さんたちに対して。

これも、前項の最後の一節をくり返してお答えにしたいと思います。そのお言葉が、(たとえばこのページでも紹介しているジムのように)「自閉性障害」の人々、その友人たち、あるいは、自閉性障害の子どもさんをお持ちの親御さんたちの耳に、どう響くとお思いになりますか?

私自身、「自閉性障害」(「小児自閉症」)と診断されている友人が何人もいます。「非定型自閉症」という診断を受けている友人も、何人もいます。「自閉」という用語が不愉快だと言われると、私の耳には、大切な友であり、恩人でもある仲間たちへの侮辱と響きます。

「(アスペルガーである)うちの子は、自閉症とは関係ないと思いたい、言ってほしい」とおっしゃるお父さん、お母さん。お子さんが、〈自閉っぽい〉ふるまいをしたとき、無害なものであるにもかかわらず、険しい顔をしていませんか? 「自閉っぽくなく」見えるように、外見を繕うよう、子どもさんに強要していませんか?

お子さんが将来、狭義の「自閉症」とよばれる人々に出会ったとき、対等に接することができなくなるような価値観を、知らず知らずに植えつけることになる心配は感じませんか?



「うちの子はもっと困難が重いのに、症状の軽い人たちが発言したのでは、みんながこんなに優秀なのかと誤解されて、必要な援助が受けられなくなり、迷惑だ」「だから発表を控えてほしい、あるいはせめて、別の名前を使ってほしい」というご意見に対して。

一言で言ってしまえば、「悪いのは、誤解する社会の方だ」と思います。私たちの書いた文章が、「そんなに優秀な人ばかりなら、何も配慮してやらなくていいだろう」という意味に誤解・曲解されるなら、私たちだって同時に誤解されているわけでもあり、自分たちの声を悪用されていることになります。それは、「重度」と言われている人たちにとって有害であるだけでなく、著者である私たちにとっても、侮辱なのです。

誤解する人、あるいは誤解を装って悪用したい人々がいるということは、非自閉者社会の問題ではありませんか? なぜ、「軽度」とか「高機能」と呼ばれる人たちが、代わりに償わなければならないのでしょうか? 誤解を解く努力は、私だって、自分に無理のない範囲で(余暇の時間にしかできませんが。まず、自分の精神衛生、次に身辺自立、そして職業が優先なのです)していきます。

私たちが文章を書くのをやめることで、あるいは、私が仲間たちの書いた文章を翻訳・公開するのをやめることで、「重度」と呼ばれている人たち、知的障害が重複していると考えられている人たちの生活がよくなるのでしょうか? 

私たちは、感覚過敏について、常同行動について、こだわりについて、パニックについて、フラッシュバックについて、語り合うこともあります。それを参考に、言葉を持たない人たちに苦痛の少ない生活をデザインするのに役立てることだってできるはずです。

でも、ちょっと待ってください。私は今、もう少しでワナにはまってしまうところでした! 〈言葉の読み書きができる、「軽度」とよばれる人々が自己表現すること〉の善悪・価値は、本当に、〈「重度」とよばれる人々の幸福に貢献できるかできないか〉ということを規準に測られなければならないものなのでしょうか?

私は、「重度」と呼ばれている人たち、知的障害が重複していると考えられている人たちのことを、「同じ感覚過敏のある人たち」「同じこだわりのある人たち」として考えています。そして、「事情のわからない世界に一緒に飛ばされ、一緒に迷子になった人たち」と考えています。彼らがひどい目にあわされていたら、私だって腹を立てるし、余裕があれば(ときには、余裕がなくても)立ち上がるでしょう。

でも、「軽度」とよばれている人たち、「高機能」とよばれている人たちの自己表現をあきらめろというのは、あまりにも乱暴ではないでしょうか? 私たちの自己表現は、「重度」と呼ばれている人たち、知的障害が重複していると考えられている人たちの幸福に貢献できるかどうかと関係なく、私たち自身の自尊心の回復のために必要なのです。

「別の名前を使ってほしい」というお言葉に対して。私は訳者として、また編者として、筆者の意向をそのまま尊重しています。筆者たちの中には、アスペルガーの人もいますが、非定型自閉症の人も、自閉性障害の人もいます。

私自身は、アスペルガーと診断されているし、その診断を信用し、受け入れていますが、その下位分類にあまり実感を感じていません。広義の自閉、自閉圏のどこか、という感覚が私の実感です。



「症状の軽い人たちが発言しているのを見ると、自分の子とひきくらべてしまい、つらいので不愉快だ」「だから発表を控えてほしい、あるいはせめて別の名前を使ってほしい」というご意見に対して。

確かに、ご自分の愛するお子さんと同じ、あるいは類似・近縁の障害でありながら困難の軽い人がいるのを見せつけられるというのは、つらいことなのでしょう。障害のない健常者たちを見るよりもつらいのでしょう。難病や貧困といった別種の困難、あるいは肢体不自由や感覚器の障害、精神の障害など、まったく別の種類の障害を持っている人たちの文章は比較的平静に読めるのに、高機能の自閉者の文章を読むのは耐えがたい、とおっしゃる方もおられます。

でも、私たちは、文章や音楽、絵や写真を発表してもしなくても、どのみち、この世の中のどこかに、生きているのです。私たちは、みなさんを傷つけるために、みなさんを苦しめるために生まれてきたわけではありません。そして私たちは、みなさんを傷つけるために、文章を書き、楽器を弾き、歌を作り、絵を描き、写真を撮っているわけではないのです。

私たちが存在するというだけで、あるいは、私たちが自己表現をするということだけで、つらい思いをされる方がいる。それは、とても悲しいことです。でもそれは、あなたがたの責任でもなければ、私たちの責任でもないのです。私たちの存在は、私たちの姿は、私たちの作品は、あなたがたが最初から持っていた悲しさを、思い出させてしまうにすぎません。

ですから、冷たいようですが、〈「今は耐えられない」と思える間は、私たちの作品は読まない〉というのも一つの方法ではないでしょうか。私たちは私たちに必要なことをしているのです。平和に、共存させてください。


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