館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)
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10月10日。
朝は、週に一度の緊張日、生協の配達でした。届いた品物を集めて帰ってくるというだけで、こうだもんね。でも、これがなかったらスーパーで買い物しないといけない。生協さまさまです。
午後は、親に放送を見せないための帰省(爆)。家族に診断を告知していないと、こういう面倒があるのだ。
ところが、持ち物やら服装やら、何から整えていいかわからなくてしばしオロオロ。なぜかというと、「大事なものから順番にかばんに入れる」と思っていたら、先に入れるべき「大事なもの」が、「出発直前まで冷やしておくべきナマモノ」だったから(親に、姫鯛の白しょうゆ漬けの切り身を食べさせてやろうと思ったので)。この順番でつまずいてしまったため、2番目に大事なものも荷造りすることができず、服も着替えることができず、コーヒーを飲むこともできず、シャワーを浴びることもできなかったし、行き帰りの電車の中で気分を変えるための本を持つこともできなかった。
それでもかろうじて家を出ることができた。家では、けんかもせず、無事に裏番組をおねだりし、なごやかに過ごすことができました。
10月11日。
昼の再放送を親に見せないため、またしても裏番組のおねだり(っていうかテレビ独占)。めったに観ないテレビを、ふつかも続けて観てしまった。あーめずらし。
で、録画してあったビデオですが、なかなか観る気になれなかったですね。
自分のVTRの流れている間は、直接は観ていません。空き瓶を通して、ぐにょぐにょにして観ました。でも半分くらいは目をつぶっていたと思うけど(目なんかつぶらなくたって、十分、切れ切れな見かたしかできないのにね!)。それに、VTRの部分では、音声は消していました。結局、まっすぐ見たのは、スタジオ収録部分と、最後の男性のVTR部分だけでした。
いや単に、気持ち悪いんですよ、「自分を観る」って体験が。
10月11日続き。
それにしても、実家訪問裏番組作戦、大変な緊張だったようです、今ごろわかったけど(なんでリアルタイムで気がつかないかなー、自分の疲労や緊張に)。しかし両親が遠いほうの家に行ってるときでなくてよかった。
10月12日朝。
「にんげんゆうゆう」放送から、もう2日もたったんだよ。そう自分に言い聞かせながらも、なかなか平常心に戻れずにいます。結局、放送は録画したものの音声は聞いていないし、画像も半分くらいしか見ていない。だから私はまだ、感想言えません。
掲示板などでの感想も、ちょっと読むのを控えてたりします(読んだとこもあるけど)。これまでよくお邪魔させていただいていた掲示板の(というより、掲示板のあるサイトの)オーナーの皆様、そしてそこの常連の皆様、読んだものもあれば読んでないものもあります。返事がなくても、〈読んでいない〉か〈その件に触れたくない〉か、どっちかだと思っててください。あなただけを無視しているわけでもなく、あなたの書き込みが気に入らなかったわけでもないのです。
まあ、読んだ場合も、(万華鏡など)細部についての話や、杉山先生や竹田先生のうわさ話などになら、乗りやすいんですけどね〜(爆)。
そうそう、関係者の皆さんも、私から連絡が行かないのは、〈きちんと観られる状態ではないから〉であって、〈気に入らなかったから〉ではありません。
そうしている間にも、「女性自身」のほうが写真選び、データのチェックなど、あわただしくなってきた。なるべく、平常心で暮らそうと努力はしているのだけれど。
10月12日昼から夕方。
実家行きで帰省したばかりなのに、またきょうも外出。某学会の参加費を払うため、電車に乗って、銀行のある隣町まで行く。ところが、銀行に着いて順番を待ってカウンターで振替用紙を渡してしまってから、「これは郵便局用」と言われてしまった。えーーーーー? じゃあ、地元の町でもできたってこと? いや、なんで銀行と思いこんだかというと、同封されてきた説明の紙に、「振替」ではなく「振込」と書いてあったせいなのだ。そんなの、用紙見ればわかるだろうに・・・
とにかく、「ここで払う」と思って来たのにそこで払えないだなんて、連邦市民にとってこんな苦しいことがあるだろうか? それでも私は何とか、精いっぱい背伸びをして、何でもないようなふりをしながら、行員さんに最寄りの郵便局の場所をきいてみた。ところが、行員さんの教えてくれる道順の説明を聞いていると、とちゅうでなぜか反対方向になるのだ。なんでそんなジグザグに歩かなければいけないんだろう?
でも、今日は脳の働きが冴えていたのか体調が良かったのか、「はっ。これは、べつべつの郵便局を2軒教えてくれているんじゃないか?」と気づくことができた(ちょっとした奇跡)。あたまの中でモタモタと作文をして、質問をする。「すみません、いまのご説明ですけど、それもしかして、2軒べつべつ? いま、ふたつ教えて下さったんですか?」(ここまでできるとは、かなりの奇跡)
きいてみるとやはり思ったとおりで、親切のつもりなのだろうけど行員さんは近くの郵便局をふたつも教えてくれてたのだ。そして、悪気はなかったんだろうけど、「この近くにはふたつありまして、ひとつは、」といった前置きを言わなかったのだ。でも、なんでふたつ? どっちへ行けばいいのかわからないじゃない? どっちを覚えればいいのかわからないじゃない? それとも、2軒順番に行けってこと?
結局、この「ふたつ」がいけなかったんだろう、せっかく背伸びしていた私なのに、ここで限界を越えてしまったらしい。「らしい」というのは、自分ではせっかくおリコウに、上品に、しっかり者を装っていたつもりだったのに、べつの行員さんがどこからか現れて、物陰に誘導されそうになったものだから。
「べつの人が出てくる・物陰に誘導される・椅子を勧められる」といえば、「スーパーで万引きして捕まったとき」という公式が私のあたまの中にはあった(テレビで覚えたのだ)。銀行には品物はない。だから、万引きは不可能なので、それに準ずるものといえばきっと強盗だろう。私は強盗とまちがえられてしまったんだな〜。困ったなー。とにかく強盗じゃないことをわかってもらわなくちゃ。
「私、もう帰りたいんですけど。強盗じゃないんです」と言ってみたところ、「あ、いえ、大丈夫なのかなと思いまして」と行員さん2号は教えてくれた。ふうむ。強盗だと思われたわけじゃなかったのか。
「大丈夫かなと思って」椅子を勧めるということは、私が転びそうあるいは倒れそうに見えたということだろう。情報処理に手間どって、忙しく計算しているときの私の顔は、そんなに気分が悪そうに見えたのだろうか。それとも、腰痛のせいで姿勢がおかしかったんだろうか。せっかく取り乱しもせず、自傷もしなかったのに、私としては奇跡的に上出来だぞとうぬぼれていたのに、やっぱり知らない人が見たら、見た目は変だったってわけさ。
べつに、見栄を張ってどうしようってな動機があるわけでもないから、いーんだけどね。私が「大丈夫」と思ってても、外からはそう見えてないらしいって証拠だね。
気をとり直して、せっかく町まで出たんだし、本屋で立ち読みなどして、喫茶店でサンドイッチを食べてコーヒーを飲む。こんなの久しぶりだなー。洋服屋を見たり雑貨屋を見たり。何も買わなかったけどね。
10月13日。
どう考えても、身体の問題が大きい。胴体の支えかた、手脚の使いかた、目の使いかた、耳の使いかた、頭の使いかた。
親と電話で話したら、椅子から立つときに背中がおかしいと言われた。まあ、背中が痛いせいもあるんだけど、私はいま、「自分にもできる体重の移動法」を探っているんだ。
やっぱり、アシスティブテクノロジーは大事だな。むー。取り敢えずは、「座っているときに上体を支える」ってのが一番大きな問題になっているので、椅子にシートベルトつけられたらいいのになあー。それも、腹ではなく、胸に。リュックのヒモくらいの高さに。
私は仕事をしているとき、よく片ひざを立てて椅子の座面に乗せています。何をしてるかというと、ひざで鎖骨や脇の下、大胸筋などの部分を支えることで、顔面がキーボードに衝突してエンターキー押しまくりになるのを防いでいるのです。立てたひざにもたれていないときは、ひざの重さで二の腕を外向きに押すことでヒジを曲がらせ、腕全体がつっぱって上体がそりかえるのを防ぎ、椅子ごと後ろに転倒するのを防いでいます。ひざを下ろすと、上体を支えることに気を取られて、仕事どころじゃありませんから。
そのほかにも、視野の全面を覆うサングラスで度付きのはないんだろうか、意識しなくても握れるスプーンやフォークはないんだろうか、などなど、考えなくてはならないことがいっぱいだ。そしてもちろん、外出時の筆談用キーボードも。
それにしても時間がない。情報を集めるのも素人ひとりでは効率悪い。見つけてもショールームまで行くのが一苦労だし、店の人との折衝(つまり会話)が必要となると、やはり夫が暇なときに限られるよなあ。そして、こういう高価な品物(椅子にしろ、度付きサングラスにしろ、手押し車にしろ、筆談キーボードにしろ、音の出ない目覚ましにしろ、騒音キャンセル機能つきウォークマンにしろ)を自費で買おうと思ったら、その分、必死で働いて稼がなくてはならないんだ。だから時間がなくなるんだよね。はあ〜。
10月13日。
朝から「女性自身」のゲラチェックなど。
別口で仕事関係の電話も。
さらにべつの仕事関係のFAXも。
そのフォローの電話も。
やはり「女性自身」に関わっているべつの人からも電話。
母から宅配便も。
ちょっと多すぎだった。でも、重なる日は重なるもの。不平を言ってはいられない。いや、不平を言う気もない。でもとにかく、〈受信過多〉の1日だった。1日当たりの外部入力のキャパシティを越えている。
なのに、そんな日に、しばらくご無沙汰していた掲示板に復帰したりして、無茶だった。自分でも、神経過敏になっているのがわかる。いや、反応が大げさになっているわけではないけど、反応が素直すぎ(笑)。
10月13日続き。
ちょっと自分の毛色とはちがう本の仕事を請けることにしてしまった。ふだんは「グズグズ言い」の私にしては、相手も驚く即断即決(笑)。だって私、チャンス逃すの嫌いなのよね。
常にウジウジグズグズ言ってる私と、「はいやりますっ」と即決する私と、どっちが本物の私なのかっつーと、どっちも本物。しかも、どっちも自閉とは関係ない。ウジウジグズグズも即断即決も、どちらもADHDのなせる技だと私は信じている。平時のグズグズは、次々とべつの細かい情報に目移りする〈衝動〉であり、非常時の即断即決は大きなひとつの刺激に飛びつく〈衝動〉である。そこに、どちらの衝動が大きいなどという区別はない。衝動の大きさは変わらない。ただ、〈対象が瑣末か重大か〉のちがいがあるだけである(瑣末なことと重大なことで衝動の大きさを切りかえられるくらいなら、ADHD者はこんなに苦労せんわい)。
でもまあ、日ごろ、ウジウジグズグズ言ってあるおかげで、いざってときに即断即決ができるともいえる。ウジウジ言ってる間に、いろんな可能性を超高速でシミュレーションしてたりするからね。だから、「常日ごろの態度をイサギヨく改めよう、もうグズグズ言わないぞ」なんて試みたら、いざって時にウジウジ言いだして決断できなくなるにちがいない。人の性格なんて、「いいとこどり」はできないのだ。
そして。
ADHDの勢いで即断したあと、自閉連邦市民であるリンコ館長は、新しい状況に適応できずにしばらく苦しむ運命なのであった。だけど、私がある程度広い世の中を見ることができ、不器用ながら地球に関するデータを収集できたのは、ADHDが容赦なくあちこちへ連れ回してくれたおかげなんだよ。そういう意味で私は、「重複障害は時に恩恵になりうる」と信じているんだ。
10月14日。
やっと、NHKの番組、見られました。テレビに映った自分の姿が、ほんとの私と似てるか似てないか、近いか近くないかは、私にはわからん。だいたい、「ほんとの私」という概念は私には希薄なんだもの。
私と会ったことのある人たちの反応は2種類。「本物よりも、大変な境遇と闘ってきた人のように見えた」「本物にある、のんきさが消えて、しんどそうに見える」「悲劇性、努力、根性が強調されすぎ」っていうやつと、「えらくシッカリした人に見えた。見栄を張っていたのか?」「異様に元気そうだった。あれでは困難さが伝わらない」「あれではただ口がきけないだけの頭のいい人に見える。大変さがわかってもらえない」っていうのと。どっちやねん(笑)。
ちなみに、いちばん身近な人にきいたら、「あんなもんやろー」「それなりやったけどー」とのことでした。
私と直接会ったことのない人の感想はそれこそいろいろ。「しんどそうすぎ」と思う人もいれば「平気そうすぎ」と思う人もいるってこと。
このちがいは、実際に私が画面でどう見えたかってことだけじゃなく、番組に何を求めるかっていう願望に左右される部分もあるんでしょうね。「可能性を強調してほしい」「希望を見たい」と思う人と、「困難さを訴えてほしい」と思う人と、両方の願望を同時に満たすのはなかなか難しい。多数決でもとろうかな(爆)。サクセスストーリーとお涙ストーリー、どちらがお好きですか? 私の体型・顔立ち(サングラスのデザインも含む)、姿勢や動作には、どちらが合っていますか? なんてさ。
10月14日昼。
NHKの番組についてもそうだけど(そして、女性自身もきっとそうなんだろうけど)、「何を伝えるか」だけではなく、「誰に伝えるか」が大切なんだろう。そして、不満の多くは、想定した対象者以外の人たちから寄せられるか、あるいは、想定した対象者に内容が合っていなかったために寄せられるのだろう。
今回は、「脳に微細な障害がある成人」がテーマだった。一見ふつうに見えるために、症状を叱られて育つ苦しさ。相談に行く場所もなければ診断できる医師もいない現状。運よく診断されても、障害だと信じてもらえないもどかしさ。それがテーマということだった。だから、最初から、成人で軽度というのが条件だった。
でも、こういうテーマを設定しただけで、小さい子どもたちの親からは、「大人の話ばかりで役に立たない。子どもの参考にならない」という不満が出るだろうし、重度の人たちの保護者からは、「こんな軽度の人などが出たのでは、うちの子まで、この程度なら大丈夫だろうと思われてしまう」という不満は出るだろう(軽度の人、成人は、一部の人たちにとっては、存在自体が迷惑なのだ)。
もうひとつ、「にんげんゆうゆう」という番組が30分×4回シリーズであることについても、「時間が短い」という声はきっと上がると思うけど、それはNHKのもっと上に伝えるべきことであって、「にんげんゆうゆう」の担当者たちに伝えることではない。「にんげんゆうゆう」の担当者は、ふだんからいろんなテーマで「にんげんゆうゆう」を作っていて、その中で高機能自閉を扱おうとか、成人ADHDを扱おうと考えたのであって、NHKが自閉を扱おうと考えて、「では、にんげんゆうゆうなら短くて手ごろだから、ここでやろう」と考えたのではなかろう。
「にんげんゆうゆう」の担当者には、〈自閉を(あるいはADHDを)扱おうかやめようか〉という選択ができただけであって、〈「にんげんゆうゆう」で扱おうか、「NHK特集」で扱おうか、「人体」で扱おうか〉という選択ができたわけではない。その選択ができるのは、NHKのもっと上の人たちだろう。
もっと本格的な、長時間の番組で扱える素材かどうかをNHK側(いや、民放でもいいけど)が判断するためには、とりあえず教育テレビの福祉番組で短い作品を作ってみる必要があったんだろうと思う。だって成人の軽度発達障害なんて、未知の存在なのだから。そんな未知の素材を、いきなり長時間の枠で扱うほど、彼らだって無謀じゃないでしょう。
だから私はずっと、「これはパイロット版」というつもりでやってきた。NHK側に、「あれも使いたかったのに、これも入れたかったのに」という飢餓感が残ればいいなと。現場で作った人じゃなくて、もっと上の人にね。実際に編集の作業であれこれ切り捨てなければならなかった海老沢さんには切ない思いをさせることになって、気の毒なことをしたけども。
10月14日午後。
発達障害に関する情報のほとんどは子どもに関するものだ。成人は、「いないはずになっている」存在だといえる。そう。義務教育を終了したら、卒業式の翌日に、死亡届も出されずに空中へと消えて失せるか、いきなり〈完治〉してべつの人間にならなくてはならないのだ。「いないはず」なのだから、万一生き残ってしまったなら、隠れて暮らさなければならないというわけさ。
それでもどっこい、ワシは生きている。脚だってあるよん。見たでしょ。ビルケンシュトックのサイズ38。
そして、私たちには私たちの人生がある。よその子どもたちの感覚を解釈し、解説するために生まれてきたわけではないのだ。よその子どもたちの感覚を解説することができない人々も、解説する気がない人々も、生きている。自分の人生を送る権利がある。
10月14日夕方。
しばらく、「ゆうゆう」の感想が書きこまれる掲示板は(いくつかを除いて)、見に行かないことにした。反対意見が出ないのは、私が見ているせいではないかと疑いを持つ人がいてはいけないから。
10月14日夜。
そして、出演をOKする「当事者」たちが、どうしても現状の良い人に限られるという問題について。まずはっきりさせておきたいのは、登場する当事者は、プロじゃないってこと。みんな、素人なのだ。プロなら商売のために勝負に出なきゃいけない瞬間ってのはあるもんだ。でも、素人は、翌日からいつもの生活を続けていかなくてはならない。
ぎりぎりの生活を送っている人、虐待されている人、いつ解雇されるかとびくびくしている人は、そもそもTVで顔や名前を出して生活ぶりを見せることなどできない。
あるいは、認知の混乱やこだわりが激しい人、不安や鬱がひどい人は、取材班、撮影クルーと接することができない。あるいは、撮影によって規則正しい生活が乱されたが最後、元の生活ペースを取り戻すことができない。
事前打ち合わせや予備取材に耐えられ、撮影に耐えられ、その後もふだんの生活をとり戻せる。これだけの条件を満たせる人だけが、画面に登場することができる。現状の良い人や、周囲の理解のある人に偏ってしまうのは、どうしても避けられない。
もうひとつ。そういう〈ある程度、現状の良い人〉も、素人さんである。そして障害者である。日々、自分の体調をモニターし、綱渡りの日常生活をしている人たちである。TVに出るとなれば、支離滅裂なことをしゃべるわけには行かないし、カメラの前で暴れるわけにも、倒れるわけにもいかないと思ってしまうのは当然だろう。だいたい、撮影場所まで迷子にならず、遅れずにたどり着かなければならないし、打ち合わせの内容を理解しなくてはならない。終れば無事に家まで帰らなくてはならない。そうなれば、精いっぱい体調をととのえ、心の準備をしてしまうのはしかたのないことだろう。
まして、短い短い枠の中で目いっぱいのメッセージを伝えようと思えば、考えて考えて、集中して、明日のエネルギー、明後日のエネルギーを前借りして返答を組み立てるだろう。「貴重な時間を、ムダにするわけにはいかない」と思うもの。
問題はさ、見る側の人たちが、登場する「当事者」たちに何の役割を期待するのかがはっきりしていない点にあるんじゃないか? メッセンジャー(語り手)の役割を期待するのか、展示品(見せ物)としての役割を期待するのか。当事者たちは、語りたいことを山ほどかかえているから、語りたい。自分をメッセンジャーだと思っている(ときには、仲間の誇りを背負っている人もいるだろう)。視聴者の中にも、登場する当事者に、メッセンジャーの役割を期待している人もいれば、展示品としての役割を期待している人もいるってこと。だから、メッセンジャーを演じた当事者は、メッセンジャーを期待していた視聴者には感謝され、展示品を期待していた視聴者を失望させる。
私は、個人的には、視聴者や制作者が当事者に〈展示品役割〉を期待するのは搾取だと考えている。本人が自ら展示品に徹する、あるいは、ある程度の展示品風味をプラスすることを選択するならかまわないが(成功するかしないかは、芸風の問題だろう)。
そして、展示品を演じた当事者には、「同情をひこうとしている」「みすぼらしい」「みんながみんな、あんな危ない(情けない)人だと思われたら困る」「せっかく努力して隠しているのに」「うちの子はあんなにひどくない」という批判が集まることもあるだろう。それをかぶるのは、あくまでも演じた当事者だ。展示品役割を演じるようプレッシャーをかけた人々が、肩代わりしてくれるわけではない。
10月14日夜。
ステレオ放送を利用して、こんな番組ができないだろうか。視聴者は、登場する障害者に、「たくましくてかっこいい成功者、先駆者の成功物語」を期待するか、「同情を引く苦労話」を期待するか、手元のリモコンで選ぶってわけよ。2種類のセリフを録音する。いいアイディアだと思うのだがなあ!
10月14日深夜。
私は撮影前の1か月と、撮影後の1週間余りとで、さんざんNHKと交渉してきた(っていうより、気の毒なEディレクターをいじめまくってただけかも。申し訳ないことをしました(笑)。まあ、ここは読んでらっしゃらないだろうから、後でメールしとかなきゃ)。そんなわけだから、異論も反論も批判も苦情も提案も、放送前の段階で100人分くらい言ってあるんですよね。
言うだけのことは、もう言ってしまったと思うし、伝わることはかなり伝わったんじゃないかと思ってるし、あとは、「わかっていてもできないこと」ばかりだったと思ってる。言い尽くしてすっきりしてしまったのと、途中経過を見た(できなかった理由はいちいち、根掘り葉掘りきいた)のとで、ある程度、気が済んでしまっただけなのだ。それに、私はもう、次の仕事のことで頭がいっぱいになりかかっているので。べつに遠慮しているわけではない。
今回私は、自分から積極的にアイディア出しまくってた。あれやりましょーよ、これやりましょーよ、って。たった10分のビデオに、カメラ回すのは1日半。ほとんどは削られるはずというのは当然わかっていたけど、だからこそ、削るときに先方が「惜しい」と思うようなネタを出したい、捨てるのが惜しいという思いを味わわせたい、そう思っていた。「オイシイ場面」をたくさんボツにさせれば、上の人が「もっとやりたい」と思ってくれるだろう、そう思ったから。今回Eさんにいいものを作ってもらうことだけじゃなくて、上の人や回りの人に「物足りないと思わせる」ことも大事なんじゃないか、って思ってた。果たしてそれが成功したのかどうかは、私は知らない。でもやっぱり、作る側の人たちって、「おもしろい!」で動くんじゃないかと思ったから。
同じく深夜。届いた仕事の資料をイッキ読み。速さなら負けないぞ。急ぎ仕事は任せろ! という気分(笑)。
10月15日昼。
とにかくがむしゃらに仕事。忙しいけど幸せ。
10月15日夕方。
いま、はたと気がついた。14日深夜の「速さなら負けないぞ」の部分。私、うまく乗せられたのかもしれない(爆)。
そう。私はどうもこの「急いでいるそうなので、速い人を探しているんです」という一言にヨワイらしいのだ。ハッ?! こんな所にこんなことを書いていいのだろうか?(また使われる? でも、「また使われる=またお仕事がいただける」だから、使われた方がいいのか??? いやーん難しくなってきた)
心の理論は未熟かもしれませんが、「オダテ」が通用するようですよ、私にも(爆) 確かに、自分の成長過程をふり返ってみれば、「オダテ」や「脅し」の理解は遅れましたが、それはむしろ、心の理論よりも、言語理解(一部に注目しすぎて文全体を読まない)や因果関係の理解の問題のようです。いや、それどころか、私の場合、言語理解の歪みや因果関係の理解の問題こそが、心の理論の問題の原因だったんじゃないかと考えているんですが。
自分がオダテや脅しを使ってみようと思うと、ことは少々、複雑となります。でも、それは、「オダテ」や「脅し」という構造が理解できないからではなさそうです。オダテや脅しを使うには、相手が何を喜び、何を誇り、何を望み、何を惜しみ、何を怖れるかを知っていなくてはなりません。つまり、相手の趣味が理解できないと、効果的なオダテ文句や脅し文句を考えだすことができないってわけです。
だから私は、子ども自慢とか、容姿のこととか、お金のことなどでは、人をほめてもけなしても、きっと的外れな発言しかできないでしょうね。それは単に「センスが少数派だから」。でも、仕事や用事の「能力」のことは、ちょっとわかる。仕事をしてないときからずっとそうでした。「作業がスムーズにできると、気持ちがよくてうれしい」「じょうずにできると、おもしろくてうれしい」。これは昔から知っていたもの。だから私、仕事や用事の関係の分野であれば、人をオダテることはきっとできると思うんだ(ただし、相手がその作業を楽しんでいない場合はムリかもしれない。「うれしい」のモトは「たのしい」だから)。
私だって人をオダテることはできるはず。どうしてそれに気がつかなかったんだろう。きっと、オダテる必要のある場面そのものを、ほとんど経験したことがないからだな。長い間、人に物を頼むとか、交渉する、説得するなんていう状況がなかったから。それに、「要求」や「依頼」っていう発想はちょっと遅れていたから。
あ、でも、私が人をほめるときは、いつも本当に思ってることばかりだ。あれー? 本気でほめたら「オダテ」にならないの? それとも、「この用事を頼んじゃおう」という意図さえあったら、「ほめる」の方は本気でも本気じゃなくても関係なく、「オダテ」になるの? どっちなんだろ?
10月15日夜。
「オダテる」のつづき。こちらがオダテるつもりではなかったのに、相手は「オダテられた」と解釈した場面って、きっとこれまでにいっぱいあったと思う。状況はいちいち覚えていないが、相手をほめたら「オダテてもダメ」と言われたことならあるぞ。きっとその直前に、(私にしてはめずらしく)なにか依頼をしていたにちがいない。
ま、恥ずかしいが、昔のことだ。
10月15日夜、つづき。
この世界は難しい。難しいけど、仕事さえたくさんしていれば、私だって何とかなるはずだ。たいていの不利は、長時間労働で埋めてみせるさ。
できないことは、頭から追い出すのが本当なんだろう。でも私は、頭から追い出すことができない。だから、ほかのことをする。忘れられないからこそ、なおさら激しく働けば、結局は得じゃん。
10月16日朝。
私の無知と誤解と困惑ぶりを心配して、地球人の行動とその動機について、懇切丁寧な解説をしてくださった方がおられました。はー。当面の課題に対してはすごくすごく助かったけど、「これは応用きかないぞ」ってことも、同時にわかりました。つまり、自分の無力さをちょっと思い知った気分です。
結局、丸暗記では対応できそうにないってことです。
10月16日昼間。
ずっとはたらいていました。忙しいとは、ありがたいことです。特に、つかいかたの決まってない時間が苦手な私は、忙しいのがいちばん幸せです。
10月16日夕方。
どうしてこう自分は、掲示板での人付き合いで難儀な思いをするんだろう、などと考えてみる。たしかに、人のいやがることをわざわざ主張しているんだから、いやがる人が一定比率でいて当然ってこともあるけどね。「自閉は障害ではあるけれども疾患ではない」とか、「自閉は楽しい」とかいうのも、我が子の「治癒」「完治」を願う親にはおもしろくない言いぐさだろうし、音声言語が使えるくせに筆談でTV出演する姿も、とにかく音声でしゃべれるのが幸福と信じて子どもの訓練に励んでいる人々には贅沢と映ったかもしれない。中途半端に軽度であり、中途半端に重度なのも、人を刺激しがちだ。
でも、実際に攻撃に遭う回数が多いだけでなく、私自身のほうも、攻撃に遭うたびにうろたえやすいという問題をかかえているのかもしれない。「サイコドクターあばれ旅」の中の「読冊日記」の過去ログに、一対一のコミュニケーションが苦手な人にとってのネットの役割や危険性などを考察する文が載っていた(5月17日、18日分)のを思い出した。私の場合、「未熟で心が脆弱な人」というのに当てはまるのかどうか、種類はすこし違うような気もするけど、べつの意味で、掲示板遊びって向いてないのかもなあと思うことはある。
私はあんまり傷つかないし、怒ることもほとんどない。でも、しょっちゅうおびえる。それ以上に、しょっちゅう混乱する。まるで、むかしの子ども向けSFコメディに出てくる、できのわるいコンピュータを搭載されたロボットみたいだ。
愛されたいとか、嫌われたくないという願望は比較的薄いし、〈仲間〉との接触がないことにも長時間耐えられるから、「嫌われた」「馬鹿にされた」という思いに翻弄されることはあまりない。攻撃されたならばちゃんと不快に感じるけど、言語理解力が素朴すぎるために、あまり凝った表現だと攻撃されていることに気づかないこともある。
問題はたいていの場合、「世の中の暗黙のルールについての過剰な用心」だろう。〈自分は世の中のルールをよく知らないから、知らずに違反していることがある〉という意識(っていうより予備知識だな)が常にあるから、人に何か言われると、なんでもかんでも、「すわ、新しいルールを教わった、覚えなきゃ」と思ってしまうのである。だから、皮肉や言いがかりなんかを、まじめに信じて動揺したりすることになるってわけ。
さらに、相手の言うことが論理的に矛盾してたりすると、そこで「ヱ? どっちがほんと?」となってクラッシュする。そう、だから、内容的には善意の書き込みにおびえたり、ファンレターを怖がったりすることもある。
なんでこんなことになるんだろうって考えてみたんだが、どうも、私をおびやかす書き込みの共通点は、「〈情報〉と〈意見〉がぱっと見で区別できる体裁になっていないこと」であるらしい。つまり、その人の〈意見〉を、情報みたいなフォーマットで書いてあると、私は内容の如何を問わず、勝手に情報と解釈してしまうのだ。非自閉の「掲示板読み」たちは、意見なのか情報なのかわかりづらい表記に出会ったとき、内容で区別しているのだろうか。それとも、まだ私の知らない、微妙な形式の違い、微妙なサインがあるのだろうか。
10月16日夜。
だけど、私の過剰防衛(?)は、過去の「心の傷」に対する反応というのとはちょっと意味合いが違う。私はいまでも現役で暗黙のルールの観察・学習(というか要するに入力だな)を続けているのであり、統計的にいえばこの反応は適応的なことのほうが多いのだ。ときどき、相手側のデータに不備があった場合にだけ、過剰防衛になっているにすぎない。
そして、情報の切り分けができ、意識をほかのもので塗りつぶすことさえできれば、私はまた機能を回復する。忘れてしまうことはできないけれど。
けれど、この、「忘れない」ということが、かえって学習能力のなさにも結びついていないかなあ。だって、忘れないからなおさら、思い出さないように塗りつぶすことが適応方法になっているからなあ。あれ? ちがうか。経験からパターンを抽出する機能がヨワイから、生データのままで記憶されてしまうのか? とにかく。健常者向けに書かれた「こころの健康」の情報は、軽く細部を手直ししないと、そのままでは使えないことが多い。自作機にはマニュアルがついてないのと同じようなものか(笑)。
10月16日夜遅いが深夜というほどではない時間。
地球人にはなかなか信じてもらえないことかもしれないが、私にとっては、掲示板で攻撃されること(もちろん、「攻撃された」と自力で認識できた場合だけに限る)よりも、トップページのデザインが変更されることの方が、ダメージが大きいこともあるのだ。
人が相手だろうが、モノが相手だろうが、当惑、狼狽、恐怖に変わりはない。ただ、傾向にちがいはある。人の場合、先方のふるまいが複雑なので、当惑させられる回数は多い。モノが相手の場合は、当惑させられることは少ないが、こちらが相手を信用してナメてかかってるせいか、何か変化があれば簡単に狼狽する。いや、「人が相手」という表現も、本当はちがうかもしれないな。厳密には、人の言葉や行為に反応しているだけかもしれない。
「社会性の障害」なんて言われるけれど、社会性がそんなに重視されるってこと自体、地球人の価値観のバイアスが入ってるんじゃないのか? 人に攻撃を受けて狼狽していたら、地球人は心配してくれるけど、モノがなくなったり形が変わったりして狼狽していても、それが大変なショックだということはあまりわかってもらえないものだ。
10月16日今度は本当に深夜。
どうもおかしいと思っていたことがある。私は、「うらやましい」と言われるのが怖いらしいのだ。実は私、「うらやましい」という感覚は、あまり思いつかない。いや、経験したことがないわけではないんだけども(でも、それが本当に「うらやましい」とよばれる状態なのか、もうひとつ用法に自信がないのだが)。
どういうわけか、誰かに「うらやましい」と言われると、知らずに悪いことをしていたことに気づいたような感じになって、慌ててしまう。その人に叱られているとか、責められているとか感じるわけではない。その人とは特に関係ない、なにかの決まりに違反したような感じ。
「うらやむ」とはまた微妙にちがう概念だろうけど、一度、若い連邦市民がとてもきれいなイヤリングをしていたので、不用意にほめたら、彼女はひどくつらそうな顔になって、平謝りに謝りはじめたっけ。私はイヤリングみたいに「モノ」が話題だったら彼女のような反応はしないけど、抽象的な性質や状態、現状などをほめられたら、同じように居たたまれない感じになることがある。だから、彼女の苦しさはよくわかってしまった。かわいそうなことをした。
ぐあいの悪いことに、いまの私は、うらやましがられることが多い。私より軽度の人たちからは、「あなたくらい症状が重ければ、ぼくだって診断してもらえるのに」「私だって、困難を信じてもらえるのに」と言われるし、重度の子の親からは、「そんなに軽くてうらやましい」と言われる。そのたびに、「ごめんなさい。こんな私を、許してください」っていう気になってしまうのは、なぜなんだろうな。なんとかならないものかな。悪いことをしたわけではないのに。
ところで。
私は、人が動揺しないことで動揺することがある。そして、人が傷つくときに傷つかないことがある。人が動揺しないことで動揺するということは、人は私をおびやかさないように配慮してくれない(したくてもなにを配慮すればいいかわからない)ということであり、人が傷つくときに傷つかないということは、いつ、知らずに人を傷つけるかわからないということである。
10月17日朝。
昨日、私は他人の〈意見〉と〈情報〉を内容ではなく形式で判断していると書いたけど、そういえば、ひとつ問題になってるのは「未来形」の扱いだ。
日本語はアスペクトの言語で、テンス(時制)はない。アスペクトとしては、完了と未完了があるわけだけど、同じ未完了に属する〈現在〉と〈未来〉は区別できない。
ところが、推測や婉曲の意味で「〜でしょう」「〜だろう」が使われていると、私はそれを未来形かと思い、〈情報〉と分類してしまうことが多い。でも本当は、「〜でしょう」「〜だろう」は、〈意見〉を示すのに使うんだよね。ところが、未来形で(というより、未来形とまぎらわしい文型で)意見を述べられてしまうと、「この人はよく知っているんだな」と単純に計算してしまう。〈情報〉と〈情報〉は、どちらかが間違っていないかぎり矛盾することが少ないが、〈意見〉と〈意見〉はそりゃもう、しょっちゅう衝突するわけで、衝突したって矛盾ではない。だから、〈意見〉を〈情報〉と誤解してたのでは、まことにややこしいことになるのである。
でも、「ああ、この人はよく知っているんだな」と思うのは、私にとっては日常の延長なのだ。私は日々、自分でわからないことは他人を観察してしのいでいるわけだし、世の中のほとんどのことに関しては(特に、健常者の行動や心理に関しては)、健常者の方が私よりよく知っているというのは、現実なんだから。
通りすがりの任意の健常者を横目で見て参考にすることを常にくり返していないと、私は地球で生活していくことができない。そして、たいていの健常者は私よりもたいていのことをよく知っている。それは統計的事実であり、私はそれに基づいて、「まあまあ合理的」な選択をしてるはずなのだ。ただ、「任意の健常者」の中にも、たまに、あんまり当てにならない人がいる。それだけだ。
10月17日午前。
「切りかえがめんどくさい」「びっくりする」「おろおろする」「じらされる」「傷つく」。みなさんはこの五つの概念のうち、どれを「大ごと」と思い、どれを「ささいなこと」と思いますか?
こんなことがある。「傷ついたでしょう」と言われて、「いえ、全然、傷ついていません。ただ、驚いたので、あわてました」と言うと、「そう、よかった。心配してたの」などと言われる。「おいおい」と私は思う。そして、どうやらその人のあたまの中では、「あわてる」は、「傷つく」ほど大きなことではないとされているらしいことを知る。
そんなー。私にとっては、「あわてる」「驚く」「じらされる」「切りかえがめんどうくさい」などは、「傷つく」よりもよほど大きなダメージである。それなのに、地球人は、私が傷ついたかどうかは気にしても、あわてたかどうか、じれたかどうかは気にしないことが多い。
私はめったに傷つかないが、私にとって「傷つく」というのはあまり大したダメージではない。それよりも、驚いたり、慌てたりするたびに、私のシステムは壊れていく。そして、驚いたり、慌てたりという事態をさけようとして、私は注意深くハンドル操作を行なっているのだが、その「切りかえのめんどうくささ」によって、私のシステムはどんどん疲弊していくのだ。
「めんどうくさい」「じれったい」というのは、私にとってはかなり切実な悲鳴だが、これが悲鳴として解釈されることはあまりない。人々は代わりに、私が傷ついたかどうか、私が怒ったかどうかを気にする。私は傷つかないし、怒らないので、正直にそう答えると、人は安心して去って行く。「めんどうくさかったですか?」「じれったかったですか?」ときいてくれる人はあまりいないものだ。
(これは別に、人にきいてもらいたいという意味ではない。今まさに混乱しているときや、まちがった理由からおびえているときは、緊急介入として客観的な「情報」を突っ込んでもらうととても役に立つけれど、「めんどうくささ」「じれったさ」の嵐の後でぐったりしているときは、説明するエネルギーも倹約したかったりするから。ただ、「傷ついた」「腹が立った」は大ごとで、「めんどうくさい」や「驚いた」は大したことではないというのは、地球人の価値観、地球人のステレオタイプじゃないかと言いたいだけ。)
10月17日それよりあと。
「女性自身」見ました。
私の側には、「女性自身」は子どものいるお母さんたちが読むような本だろうから、軽度発達障害児の早期発見につながるような情報を、ひとつでも多くねじ込みたい(書かせたい)という願望があった。取材してくれた記者さんには記者さんの、「これを伝えたい」という思いが、記事にまとめたライターさんにはライターさんの「こういう記事にしたい」という考えが、そして編集部にも編集部の「うちの芸風は、これ」という方針があったことだろう。
私は、自分の主観的経験についてはよく知っているけれども、読者の大部分を占めるであろう健常者たちの嗜好や需要、予備知識のレベルを知らない。また、日ごろ「女性自身」というメディアを読んでいないので、毎週このコーナーを愛読している人たちが、何を期待してそのページをめくるかも、知らない(芸風のコンティニュイティってのは、大事だと思うしね)。だから私の願望は願望にとどめるのが妥当なんだろうと思う。ただ私は、自分が使ってほしいネタは、なるべくおもしろく、相手が「捨てたくなくなるように」語る。それを、心を鬼にして捨てるのが、向こうの仕事。私はそう考えている。そして、残ったものを、読者にそっぽを向かれないような形式に纏め上げるのも。
というわけで、私は、自分の分を越えない範囲で、やるだけのこたぁやりました。この記事の評価は、使用目的によって、それぞれちがってくるでしょう。
すでにアスペルガーなり小児自閉症なりの診断を受けている子どもたちの保護者が、その子の心のうちや、不可解な行動の理由を理解するために読むのか。あるいは、自分はすでに知っていることでも、親の口から言ったのではなかなか聞いてくれない人たち(子どもをとりまく人たち)に渡して、読ませるために使うのか。
あるいは、知らない人たちが大勢あちこちで読んでくれることで、世間一般に軽度発達障害についての知識が広まってくれて、回り回って我が子が将来生き易い世の中を作るための、ステップのひとつと考えるのか。
「うちの子は男の子だから」「うちの子は知的障害があるから」「これくらいのこと、私はもう知っているから」役に立たない、と思われるかたもいると思いますが、ほかの面では役に立つかもしれないし、ほかの人には役に立っているかもしれませんので、すべてをカバーしきれなかったことは、ご容赦くださいね。
物足りなかった人は、どんどん、「女性自身」に手紙を送りましょう。べつのコーナーでかもしれないし、べつの形でかもしれないけど、今度は男の人を取り上げてくれるかもしれない。知的障害のある人をとりあげてくれるかもしれない。就労できないでいる人をとりあげてくれるかもしれないから。
そう、もちろん、記事が気に入った人も。
10月18日。
私にとっては、「女性自身」の記事は、書かれたことを見るより、「書かれなかったこと」を見るほうがおもしろい。それともうひとつ、書き手の「解釈」を見るのが。何が削られ、何が加えられたかを見ると、「そうか、これが健常者の需要なんだ、好みなんだ」ということがよくわかるから。私にとっては、健常者心理についての、絶好の教材だ。
10月19日昼。
よその掲示板にも書いたことではあるけれど、「女性自身」の記事で、書き手の「解釈」が正反対だった部分を、ひとつ。
夫のことを話すときに目がまっすぐ記者の方へ向くとか、手の動きが止まるとかいうところの解釈です。雑誌では、「夫の存在が安らぎを与えている」と解釈されていました。でも本当は、あれは「夫の領域を守らせよう、守ろう」としていたんですよね(爆) あんまり彼が返答に困るような質問はさせないぞ、って思って、プレッシャーかけようとしてたっていうか(先方には全然伝わってなかったってことっすね)。
だって、インタビューを受けるのは私の〈仕事〉ですが、夫は私の仕事とはなんの関係もない〈私人〉です。それを私の〈仕事〉に巻き込むわけですからね。「これは私が持ちこんだ話なのだから」という責任意識から、私は頼りないながらも、「交渉窓口」として気を張っていたわけです(まあ、考えようによっては、おかげでシャキッとしたとも言えますが。「エイリアン」の生存者の少女の〈お人形〉と一緒でね)。
手の動きが止まったと言ったって、私にとっては、せかせかと手を動かし、きょろきょろとあちこち見ている方が、自然の状態、正常な状態なのです。動きを止めるのは、対・社会モードに切りかえるときですね。ところが、こうして緊張して社会人を「演じている」ときのほうが、人からは安らいでいるように見られるってわけですね。
これ、学校や職場でも、同じ誤解から叱られている人や、「見た目」を優先して実力を発揮できないでいる人が、どれほどたくさんいるだろうと思います。先生の話に熱中していたり、仕事に集中していたら、がさごそしたり、目がきょろきょろ動く。話がつまんなくて、聞く気になれなければ、ぴしっと座っていられる。あるいは逆に、行儀良く美しく立つことに集中していたら、来賓の訓示なんかは耳に入らないし、意味も理解できない。テンプルさんも、ドナさんも、言ってたでしょう。ふたつのことは同時にできないんだって。
10月19日午後。
このモニタ、ご臨終の日も近そう。とにかく、土日まで保ってくれーー! とりあえず、仕事はノートですることにしたが、このノートにしたってヒンジ部分の傷みがひどく、モニタの表示がおかしくなっている。
女性自身について、というより、女性自身の記事と実際の取材場面の比較から学んだことについて、まだまだ解説する価値のあることはあるのだけれど、こっちのモニタが見えなくなれば、更新はできなくなると思います。まあ、どっちにしても仕事忙しいんだし、ネット遊びできないくらいでかえってちょうどいいのかも(じゃ、せめてノートだけでも助かってくれ〜!)。
10月19日夕方。
まだ一応見えてます。色がめちゃくちゃですが。ここ数日の脳内BGMの記録、忘れないうちに書いときます。
15〜16日、「にんげんゆうゆう」のテーマ曲。この手のヨナヌキな曲、好きじゃないんだけどなあ。やめてくれよぉ。
17日、「ミッシェル」。西洋風の音階ではありますが、これも特に好きな曲ってわけでもないんですが。
18〜19日が、なぜか京都教育大学の学歌。「かいく〜の、せいき〜、はーためーくーとーこーろ。人材、雲と、群がるとーこーろー」っていう箇所だけなんですが。なんでこんなものが刷り込まれているのか、さっぱりわからない。「かいく」は何だかわかりませんが、「せいき」はきっとハタでしょう、後ろに「はためく」がきていますからね。旌旗だと思われます。謎の「かいく」も、教育大学なんで、「いく」は「育」じゃないかと思うんですが。
それにしても、人材が「雲と群がる」とは、ずいぶんすごそうです。そんなに人口密度の高い所とも思えないんですが。それとも、道路の舗装なんてなかったころの、土ぼこりのことでしょうか。
10月19日夜。
早く、自分の生活ペースをとり戻さなきゃ。
ああ、NHKの撮影から1か月たったのね。3か月くらい前のことのように思えます。それなのに、精神状態はなかなか平常に戻りません。ずっと非常時・臨戦態勢のまんま。常にパニック前状態。あーたこれじゃあ、もたないわよぉ、と自分に言ってみる。
理由のひとつは、TVにしても雑誌にしても、全員のプラスになるとはいかないせいだろう。誤解されたり、曲解されたりして、迷惑を受ける人が必ずどこかにいるんだろう、ってつい考えてしまうこと。
それともうひとつは、やはり信じてくれない人はいるだろうな、と思ってしまうこと。二度とも、竹田先生が出てくれたことは、その意味ではとても大きかった。竹田先生の診断を疑う人はいるにしても、「金儲けのために出てきたニセモノじゃない」ってことくらいは信じてもらえそうな気がして。いや、これまでにも、ニセモノ扱いをされることはしょっちゅうでしたが、訳した本が一緒に紹介されるとなると、金目当てかと勘繰る人が出てくるんじゃないかと怖かったので。
でも、いいかげんに、「普通学級で通用する子がいるはずがない」とか「話ができるなら違うだろう」とか言われないですむ世の中になってほしいですね。
10月20日早朝。
もうじき読書週間だからってわけじゃないけど、「本はどうしたら売れるんだろう」なんてことを考える。いや、自分の本ってことじゃなくて、本一般のこと。
とりあえず、自分のページのあちこちからbk1内のページへリンク貼ってみました。人名が出てきたら、その人の著作リストへ、書名が出てきたらその本のページへ。まあ、自分がぐうたらなタチだし、海外のサイトを回っていて、文中に登場する書名から、アマゾンのページに直接リンクを貼ってあると嬉しいものだから。わざわざコピペして検索まではしそうにないときでも、直リンク貼ってあれば飛んでみたりするものね。実際その場で買ってしまったこともある。さすがに、買物カゴに貼ってあったりするとちょっとヒクけど、私なら。
というわけで、皆さんも、人に紹介したい本をとり上げるときは、書名から直接、どっかの書店の、その本のページにリンク貼りませう。e-S! Books、丸善、bol.com、JBook、どこでもいいので自分の利用してるとこのページに(といってもあんまりマイナーなトコだったら、読んだ人が困るけど。何軒も何軒もオンラインブックストア利用する人はあまりいないものね)。
あと、たとえばbk1なんかのページで書評を書くのも、いい本への応援になりそう。と言いつつも、私も「いつか書かなきゃ」と思いつつ、忙しくて書いてない。ウィング先生の本にハウリン先生の本、杉山先生たちの本も、ハロウェル、レイティー両先生の本も。あ〜あ。だって忙しいんだもん。皆さんも、自分が読んで良かったと思った本は、(暇があったら)プッシュしませう。いまもどこかで、「うちの子、どこか遅れてるの? それとも、ちょっと幼いだけ?」と悩んでいるお母さんがいっぱいいるはず。そしてこの世には、テレビで自閉症になるだとか、ADDは心の黒死病だとか、平気で書いてる本がまだまだいっぱいあるのです。後輩ママさんが変な本にひっかからないように、いい本はプッシュしましょうね!
(のちに付記:リンクの貼りかたを間違えてたことに気づいたので、今度、時間のとれるときに貼り直します。今はめちゃくちゃ忙しいんで、とりあえずリンクはずすだけで勘弁してくだされ。一応、正しい貼りかたのページはチェックしてあるのだが、解読する気力がない)
10月20日昼。
サブとして使っていたノート、「はりねずみ号」のモニタ、とうとうなんにも表示されなくなりました。動かない砂嵐の状態です。でも、こいつとしてはおそらくふつうどおりになにか考えていて、ふつうどおりになにか表示しているつもりなんでしょう。ただモニタに裏切られているだけで。そして、タッチパッドやキーからの入力も、通じているようです。相手の言うことは聞こえる。わかる。自分はしゃべっているつもり。なのに、相手には通じない。これが人間だったら、どんなに切ないでしょうね。この子に意思がないのだけが救いでしょうか。
って、感傷にひたってる場合じゃないんですよね。メインで使ってる「しまうま号」のモニタがそろそろ怪しいから、週末までのツナギに「はりねずみ号」に切りかえていたのに。せめて明日まで、もちこたえてくれ>しまうまのモニタ
10月20日午後。
と、思っていたら、左側のワク(液晶のちょっと外側)を指でキツくつまんだら表示されました。でも放すと消えるんですけど。とりあえず、洗濯ばさみで圧迫して使っています。チョウツガイの部分が割れてしまって、中のケーブルも傷んでいるんでしょうが、外側の箱にもひずみが伝わって、あちこちスキ間があいてるんですね。何だか、不器用な子どもが組み立てたプラモデルのような状態(笑)。だから、圧迫してそこをくっつけてるんですが、これでいつまでもつやら。うるさい、重たいと文句を言いつつも酷使すること4年。最期の最期まで使ってやりましょう。
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