館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)
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11月25日から26日ごろ
私は怒らない。理由は、怒れないから。かんしゃくは起こすのだけれど、その場合、決まった対象はない。だから、私に怒られたという経験のある皆さん(主に秋生君かな)、あれはみな、八つ当たりだったのだよ。
怒れない理由は、なんのこたない、自分の体内の生理的反応を認識するのと、状況を認識するのと、ふたつ同時にできないからである。目の前でピスタチオナッツをとられても、「ピスタチオナッツがなくなったー!」と不機嫌になる、悲しくなる、かんしゃくを起こす、泣くことはできても、「こいつがピスタチオナッツをとったー!」という理解はなかなかナチュラルにはいかない。これはあくまでも、非常に人工的な知的操作であり、意識的努力が必要なのだ。練習によって所要時間を短くすることはできるが、これが自動的に行なわれることはないだろうと思う。それは「実感」とは別のものだ。現場を見ていないとなると、もうお手上げ。自転車を盗られても、「ない!」という切なさひとつに集中してしまって、誰かが乗って行った姿などイメージできないわけで、イメージできないものをどうしろというんだ?
つまり。私には、怒りの断片、怒りの素材は経験できる。不機嫌も、フラストレーションも、きちんと知っているし、攻撃性だって持っている(攻撃性がなければ八つ当たりはできないし、自傷もできないはずだ)。また、怒りと同じようなパターンは、人工的にならシミュレートすることができる。
でも、私はずっと、「怒りを実感できない自分」を肯定できないでいた。人間が怒りを感じないはずがない、感じないのは抑圧しているのだ、衝突を回避しようとするズルさがあるのだと思いこんでいた。そうやって、怒りを感じない自分を「ウソつきの八方美人」と責めてきた。
そんなこと、自分で思いついたことであるはずがない。自分が怒りを実感したこともないくせに、「人間は怒りを感じるのが当然だ」なんて考えつくはずがない。つまり、人から聞いたり、本を読んだりする中で植えつけられてきた思いだったというわけだよ。
「ずっと『普通』になりたかった。」のラスト近く、グニラがセラピストに的外れな解釈をされる場面があったけど、あれと同じことを、私は自分で自分にやってしまっていたのだ。
確かに私には、争いごとを避ける傾向もある。でもそれは、単に刺激に弱いからであり、入力過多になるのを防ごうとしているにすぎない。結果的に八方美人にはなっているが、八方美人として人に好かれようという計算があるわけではない。そして、そのことと、怒りを感じないのとは、まったく無関係なふたつのことだと、最近やっとわかってきた。
ところで、私は、個人に対しては怒りを感じることができないが、漠然とした「状況」に対して怒りを感じることはできる。「こんなことがまかり通る世の中はケシカラ〜ン!」と思うことはできる。なぜできるかというと、方向を特定するという作業が必要ないからである。注目すべきものが〈不快感〉ひとつしかないので、私にも操作が可能なのだ。
だから、それをたとえば「文部省」に向けてみたり、「放送局」に向けてみたり「○○○協会」に向けてみたりすることはできるが、「これはあくまでも、方便として行なう操作なんだ」という意識はなくならない。煉瓦の壁を崩すのに、アトランダムにいろんなところをたたいていても能率がわるいが、壁に仮想敵の似顔絵を描けば、同じ場所に力が集中するのでより早くそこに穴があくようなものである。そのことが頭から離れない。そういう意味では、そのときそのときの仮想敵に対しては、本気で怒っていないのかもしれない。
だからといって、そんな私が、現状を革めたいという意欲に欠けているわけでもない。ただ、そのドライブのスタイルが変わっているのだ。
11月26日(昼)
「君が教えてくれたこと」のビデオが出るとのこと。短いメッセージを書かせていただくことになった。制作発表のときに書いたメッセージが、これ以上どうしようもないくらいに凝縮したものだったので、あれと違うものが書けるかって考えると難しいんだが、何とかしなくては。当時はまだ誰も内容を知らないという想定で書いたものだが、今回は放映が終っているわけだし、買うのはほとんどが熱心なファン(番組にハマった人々)だろうから、それも考えに入れないとな。
11月26日(夕方)
ぬ〜。今回訳した本のあとがきを、やっぱり書かなくてはならないらしい。がんばろ。
11月26日(夜)
ひさびさにのんびり、買物に行った。歩いて片道30分近くかかる、でも少し華やかな雰囲気のスーパーまで、機内持ち込み最大サイズのかばんをガラゴロガラゴロひきずって。生クリームがなくなりそうだったものだから。その店は、輸入チーズなんかも置いているしね。
最近、コーヒーに、コーヒーフレッシュだとかクリーミーパウダーだとかいうものじゃなくて、生クリーム(乳製品)を入れるようになったのだが、これは生協でもe-shopでも扱っていないし、近くのスーパーには売ってないのだ。
閉店まぎわに行ったので、豚肉が半額になったりしていて、それも喜んで買ってきた。ほかにも、入れ替えのために半額になっている冷凍野菜(カット済みブロッコリ、カリフラワー、にんじんのミックス)や冷凍ピザ、へこんだ缶づめ(トマト水煮缶)なども仕入れてきたぞ。そのほか、モツァレラと、ハード・チェダーも買ってきた。いい運動になった。
11月27日(昼)
それにしても。まとまった仕事がひとつ終ると、優先順位が決められなくなって困ってしまう。その仕事のことしか考えられなかったときには、確か、「これがすんだらあれもしよう、これもしよう」と思っていたはずなのだが。断片的にしか思い出せない。思い出せても、どれから手をつけていいかわからない。
まだ、とりあえずは「後書き」を書かなくてはいけないのと、「君が教えてくれたこと」のビデオのメッセージの件が、締め切りが決まっているからかろうじてカオス状態は避けられているけれども、このふたつが仕上がってしまったら、どうするつもりだ?>ワシ
・買ったきり開封もせずに放置してある商品を開封する
・某書の企画書を書く
・某書(その2)の企画書を書く
・某書(その3)の企画書を書く
・机の回りを掃除する
・ベッドルームを掃除する
・いらない服、いらないカーテン、いらないシーツを処分する
・いらない本を処分する
・靴を買う
・もっといい椅子を探す
・仕事をしている間に痩せたので、細いズボンを買う
・このサイトに載せる文章を訳す
・洗濯機の傾きを直す
・メールの返事を書く(山ほどたまっている)
うげ〜。こう並べてたら、いやんなってきたー。こんなことでいいのか?
12月1日夕方。
トップに、近日刊行の本の案内を載せました。
こんなふうに、個人のサイトでまで仕事の宣伝をするのはカッコワルイとお感じのかたもおられるでしょうが、私はあんまり気にならない。図々しく宣伝しちゃう。だって、実績もあり、名もある人なら、自分で宣伝なんかしなくたって、勝手に人が探して本を買ってくれるかもしれないけど、私のように実績もなく名もない人間は、テレていられるご身分ではないのだ。
12月1日よる。
たったいま、Let's note CF-02EJ8Sが、届いた〜〜〜。憧れのトラックボールだー。
ただいま充電中。セットアップとかは、充電がすんでからねー。
12月1日よる。
いきなりだけど、ビールの話。サッポロ21世紀醸造〈生〉、おいしかった。つや消しの銀色の缶のやつです。でもなんで「21世紀醸造」って名前なんだろう。だって醸造したのは20世紀なのに。
似たような名前ので、キリン21世紀ビールってのもあったけど(デザイン違いの缶が3つパックだった)、夫の感想ではイマイチだったらしい。夫と私は、ビールやワインの好みについては意見が一致することがヒジョーに多いので、だいたい信用していい気がする。
でも、こういうのって個人の好みなので、逆の人もいるんだろうね。
12月2日になったばかり。
しかーし! 企業向けのせいか、取扱い説明書の薄いこと! 表紙裏表紙コミで36ページ。
関係ないけど、トラックボールなので名前は「コロちゃん」にした。今、あっち(これを書いてる真後ろの、ダイニングテーブルの上)で集合体とつながっています。
12月2日になったばかり続き。
今、書いたばかりで気がついた。「集合体とつながってる」んだったら、個人じゃないんだから名前はないはずじゃないのか? うーん、いや、この子は個人としてうちに来たんだよ(と、苦しい言いわけ)。
しかし、個体が名前を持たないボーグより、全員が互いを「Q!」と呼び合ってるQの方が、よっぽど地球の感覚からかけ離れてるね。だって地球人が、他人のこと、「地球人!」とか「ヒト!」とかよびますか? いや、個体名と種名が同じってことを言ってるんじゃなくてさ、Qという種族にとっての(連続体の中での)「呼びかける」という行為の位置づけが不思議だと思って。だって名前がなくたって区別がつくんなら、わざわざ呼びかけるかなあ?
12月2日になったばかりさらに続き。
最近、マスカルポーネ(デザート用のクリームチーズ)にハマっている私だが、今ちょっと思いついて抹茶で食べてみたらおいしかった。
元来めんどくさがりなので、ただ粉砂糖と純ココアの粉をぶっかけるか、夏の残りのキーコーヒーのコーヒーシロップ(冷水で薄めれば加糖アイスコーヒーに、牛乳で薄めればコーヒー牛乳になるってやつ)をどぼどぼかけるか、どっちかだったのだけど、抹茶味のお菓子はわりと何でも好きな方だから、これはいけるかもと思ってやってみた。粉砂糖と抹茶の粉をふりかけて練るだけ。おいしかった。極楽。
12月2日あさ。
「餅焼き網」と言おうとしたら、「もちあきやみ」か「もちやきあみ」かわからんようになる。「靴下」も、ときどきは「つくした」になる。頭の中で字幕を見れば大丈夫なんだが。
12月2日ひる。
今日は1日、どうも体調が悪くて、思うように動けなかった。それでも、年賀状の準備もしなきゃいけないし、もうじき本が出たら贈呈する先はあるしで、住所録のチェックなどしてすごした。
12月2日よる。
ページを開設したのが1999年の12月1日、カウンターを設置したのが翌日の2日。1年で35115ヒットになりました。ずっと1日70ヒット程度だったんですが、テレビで紹介されてしばらくは、日に2000ヒットくらいの日が続き、今は1日180前後で推移しているようです。掲示板なし、チャットなしの友人向け個人サイトとしてはまあ標準かな。
12月3日。
机のまわりを片づけついでに、有効期限の切れた通販カタログを捨てたり、新しいやつも関心のないページを引き裂いて減量したり。
夜、近所に少しだけ買物に出る。ギョウザとカワハギ、それにブタの薄切りを買って帰る。明日は神戸に行くんだし、足馴らしさ。
あさっての朝は生協の配達日だが、神戸のホテルから帰ってすぐなので、注文書を書く暇はないと思うから、注文書を書いてしまう。ついでに、忘れるところだった、お歳暮の注文書も。あさっての提出でぎりぎりセーフだな。えらいえらい>ワシ
12月4日。
きょうは夜だけ神大で障害学のセミナー。夜遅く電車に乗るのは苦手だし、慣れない相手との交流の後に慣れない場所での移動が続くのは負担が大きいから、三宮駅前の東急インに部屋を予約してある。
朝起きたときからずっと、「今日は神大で障害学」「今日は難しい話も胸を張って堂々とする日」「今日は知らない人と話す日」というモードに設定して、心の準備を盛り上げていく。なにしろ熱しにくく冷めにくい人間なので、こうやって気持ちをあっためないと出かけられないのだ。
ところが昼ごろ、とあるBBSを久しぶりに訪れたら気になる書き込み(テーマ的が私の関心領域にひっかかる書き込み)を見かけたので、ついつい、熱くなって長い長いレスポンスを返してしまう。「まじめな学生がいっぱいの、アカデミックな場所に出かけるんだ」っていう心の準備をしていたおかげで、作風がずいぶん影響されてしまったみたい。本の紹介なんかもいっぱい散りばめてしまったし、文体だってなんだかやたらと堂々としてしまった。よそのBBSで、何かというと「ゴメンナサイ」と謝ってばかりの私はどこへいった! こんなことだから強くてしっかり者みたいなイメージができあがってしまうのかなあ。
どたばたと神戸へ。駅前のホテルにチェックインして、タクシーで神大へ。神大ってすごい山の方にあるのね。特に発達科学部なんて。途中で夜景が見えました。
今日のお話は中途失明者の和田信也さん(関大)で、テーマは「受容」。みんなで「『受容』とは何ぞや」なんて話になる。まあ、受容の話は、いずれあらためて。
終ってから飲みに行ったりもしたので、対人エネルギーも音声言語エネルギーもかなり消耗。でも、あしたは生協の配達だし、その後はそのまま教育大で被検者なので、「体外モード」のスイッチはオフにしないことに。深夜、ホテルに帰って、寝るのみ。ツインの部屋のシングルユースだったのでせっかく広めだったのに、寝てしまえばわかんないんだよね。
12月5日。
あさ、7時に目覚ましが鳴って、その通りに素直に目をさます。相変わらず夢見が悪かった。何日か前からずっとそうなんだけど、自宅では、冬になって布団が重くなったのが悪いのかと思っていた(猫が胸に乗ってるとうなされるのと同じ)が、ホテルの毛布だけでも同じだったんだから、やっぱり体調の問題なのか。
いや、このごろ、両手の湿疹はひどいし、口の中はすぐ口内炎になるし、口の両端は切れてるし、唇も荒れまくりだし、目は痒いし、階段なんか休み休みしかのぼれないし、ときどき冷汗が出たり胸がどきどきしたりもするから、きっと体調は悪い方なんだろう。だけど、不思議と機嫌も気分も悪くない。腹八分目を心がけるようになって、食べすぎの苦しさがなくなるだけで、一日がこんなに有効に使えるとは。これまでの人生、損してきたような気がする。
手早く服を着て荷物をまとめて、さっさと1階の食堂へ。ほうれん草入りスクランブルエッグ、紫キャベツの千切り、筑前煮、納豆、オクラのゴマ和え、コーヒー。荷物は持ってきてたから部屋には戻らずそのままチェックアウト。
三宮から大阪までは混んでいたが、大阪からは逆コースなので空いていた。家に帰り、改めてコーヒーを入れて飲んで、生協の配達に間に合う。
あんまりほっとする暇もなく、教育大学へ。今日は被検者の日。ついでに、前回のテストの結果も教えてもらった。「ふう〜〜ん、」という感じ。でも、ほかの方がいつかどこかで何かの必要があって検査を受けたり、あるいは被験者になったりしたときに予備知識がじゃまになってはいけないので、ここでは書かない。
途中でポン酢を買って帰る。毎日、鍋してるもんね。
TBSのビデオ用のメッセージ、何度読み返しても、何だか毒がある気がして書き直す。別に差別を告発するつもりでもないし、怒りをぶつけるつもりでもないのだけれど、正直に書くとやっぱりキツい言葉になってしまうなあ。善意の相手の、意識してない先入観をぶっ壊そうという趣旨なんだから、強い言いかたになってしまうのも当然なんだけど。でも、あんまり生意気に聞こえると先方は引くかもしれないし、ムッとするかもしれない。私にムッとしてくれてもかまわないけど、仲間たちにそれを向けられては困るからなあ。葛藤。
今日は豚しゃぶ。もう、薄切りでさえなく、とうとうコマギレでやってしまう。それでも十分おいしかった。薄切りのようにはがしにくくて苦労することもなかったし。
12月6日。
何かまだ、「外行きモード」のスイッチがオフにならない。「音声言語バッテリー」はとうに切れているので、しゃべるのは無理ですが、外出気分は残ったまま。
とはいえ、次の仕事の作業には入っている。さっさとやらないと後が間に合わないのでね。
11月30日(夜)
今日で3日連続、鍋。何でこんなことになっているかというと、ハクサイのせいなんだわ。
私はハクサイが好きだし、ハクサイは洗うのが簡単なのでよく生協で注文するのだが、先週までは玉がけっこう小さかったのに、今週になっていきなり化けたように大きくなっていたんだわ。値段も変わってないのに。生協の野菜って、現物を見ないで注文するから、こういうことが起きる。小さかったら小さいで割高感があるけれども、大きかったら大きかったで、「傷ませないうちに食べなくちゃ」って気になるしね。
鍋っていったって、安い肉(あるいは魚)から出たダシでハクサイを食べるっていう感じで、肉代はさほどかかっていない。高いなと感じるのは白ネギや春菊、シイタケなどだ。特に、春菊って「え〜っ」というくらい小さくなってしまうしね。
11月29日(夕方)
しかし! こうして見ると、入稿以来の私、生産性低いな〜。この5日間、いったい何してたんだろう? ものすごく忙しかった覚えがあるのに、形になって残ったのは、後書き書いただけではないか? おかしいなあ。こんなに毎日、忙しかったのに。
11月29日(午後)
ふう。やっとあとがきを書き終わったぞ〜。次は、TBSのビデオのメッセージだあ。
11月28日(昼)
あとがきの構想に難儀しながら、久々に机の回りの掃除など。
あっそうそう、久しぶりに食卓も片づけたぞ。細々したモノをよけて、まず天板に掃除機をかけてから布巾で拭いた(というより、掃除機をかけなくては布巾で拭くことさえできなかったのだ)。テーブルを布巾で拭くには大変な力が必要で、拭き終わったらしばらく、息切れと腕の痛みで動くことができなかった。
でも、これも鍋のため。
12月6日夜。
ある掲示板で知って「創」の12月号(72ページ)をチェックしに書店へ。がく〜〜。どこ読んでるんだよ全く〜〜。あの前書きの、どこをどう読めばこうなるんだよぉ。
今日も鍋だったのだが、おかげで食が進まない。大好物の海老も、大好物の豚肉も、大好物の春菊も、大好物のハクサイも、どっさり残してしまった。はうー。
12月7日。「便乗組」が存在する(発生してしまう)ことの対価を、「本物」(特に軽度)の人たちに支払わせる構造が正当かどうかについて。
「創」の件でずっと悶々、鬱々としていたのは、自分の訳した本のことだからじゃなく、私たち、仲間たち全員にかかってくるものだからなのよ(仕事に対する批判は、こういう商売である以上、最初から覚悟してるもの)。
そりゃ、一般向けの情報を見て、安易に便乗する人がいるのはわかってます。それを戒めたい気持ちもわかります。でもその過程で、本物の人たちをソデでひっかけてすっ転ばすようなことをしちゃあ、マズイっしょ。
それにね、安易に便乗する人たちを戒めようという意図で発せられたメッセージは、えてして安易に便乗している人ではなく、本当に悩んでいる人に届いてしまうものなんだわ。本物の軽度の人たちや、本物の非定型(アティピカル)の人たちが、「あ、自分なんか資格ないかも」って思ってしまい、安易に便乗している人たちはあんまり気にとめなかったりね。
言っておくけど、《持って生まれてきた障害が、たまたま生物学的マーカーの見つかってない(検査で簡単に白黒つけられない)種類の障害であったこと》は、本人の責任じゃあないんだからね! 持って生まれてきた障害が、簡単な検査法が既に見つかっている障害であったか、まだ見つかってない障害であったかによって、社会的、心理的負担が違うってのはアンフェアよ。
そりゃあ人生はアンフェアよ。それくらい私だっていやっていうほど知っている。嘆いている暇があったら努力しろってのも、わかる。だけど、まさか「努力とは個人的な領域での努力のことだけを指す」なんて言う気じゃないでしょうね。>世の中一般さま アンフェアなものを少しでも「小まし」にしようという努力だって、努力のうちに入るんじゃないの?
12月7日夜。
ちと大阪脱出。といっても近場だけど。え? もちろん仕事は持ってくよ! コロちゃんは、はりねずみ号はもとより、ハリモグラ号よりさらに軽いもんね〜。
12月7日夜(もう出かけるんだけど)。
出かける前に、これだけは書いて行こう。「創」12月号の70〜73ページのコラムの筆者は、何も私たちを批判してるわけじゃないのだ。あくまでも、単に「こういう本が受けてしまう風潮」を批判しているだけで。そして、「こういう本」に該当する〈本来の当事者〉が小数ながらいることは、あんまり気にしてないようなのね。だから、当事者が抗議したところで、「へ? 思わぬところから抗議が」って感じになるでしょう。はた目にも、過剰反応のように見えるでしょう。で、自分でも、つい「大人げないよなあ」とブレーキがかかってしまう。
これまで、テレビなどで、悪質な揶揄はいろいろありました。でも、私はまだ我慢できた。ところが、今回ばかりは、攻撃されたわけでもないのに、その無邪気さがコタエました。無視された痛みってのに近いかな。なんでだろ。
でも私はタダで起きるもんか。抗議する、しないの話じゃないの。自分が駆け出しで実績がなく、発言力がないことをこれほど悔しく思ったことはない。早く、いい仕事を、たくさんやらなくちゃと思ったよ。自分が有名になりたいとか、そういう意識はさっぱりない方だが(だって有名なんてすげーめんどくさそうじゃない?)、信用はあった方が絶対、得だと思う。名誉欲で言ってるんじゃないわよ。効率の話よ。
というわけで、私は仕事します。
12月9日夜。
憂さ晴らし感傷旅行から帰ってきた。大阪脱出中の買物話、食べ物話、観光話はまた後で。とりあえず、出かける前の続きを。
「安易に便乗してしまう人たち」というのは、本当に安易に便乗する人たちのことです。軽いノリで話のネタにする人とか。
だけど、「私もこれかも」と言って実際に診察室に現れる人たちは、たとえ違っていたとしても、何らかの別の困難をかかえている人たちだと思うぞ。苦しくなければ病院になど行くか? そして、ユーザーってのはシロウトなんだから、予測がハズレていたからといって、恥ずかしいことではないはずじゃないのか?「違っていたら恥ずかしいから相談に行けない」という理由で、相談に行けない人が大勢いるって状況はやっぱり変だ。
あ、脱出中の話は、次の更新時にこの下に入れますね(後に付記。気が変わって、ページを変えることにした)。
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