館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)
1月3日
少し朝寝坊したが、普通に仕事。いろいろ考えることがないではないけど、言葉にするのが面倒。また気が向いたら書く。でも、書けないまま忘れてしまったら、それはそれで、それもありかなと思う。ウェブ日記のファイルがでかくなることより、生活できる方が優先なので。
正月の間は、お餅、小芋、頭芋など、デンプンを食べる機会が多かったので、何だか身体が重い。
1月3日夕方。
なぜか絶不調なり。帰省前に使い切れなかった野菜の残りなどをノルマ的に「消化」しようと、久しぶりに冷蔵庫整理料理を作っていたら、とちゅうで突然、ガタガタっときてしまった。以前は、ありあわせ料理、冷蔵庫整理料理、バーゲン品料理、使い回し料理が得意で、それを誇りにもしていたのに。久しぶりにやってみたら、自分は冷蔵庫整理料理が上手にできるだけであって、決して好きではなかったことに気がついてしまった。できれば二度と発揮したくない特技だと思う。
作り終わったところで糸が切れて、ため息をつくばかりでろくに食べられなかった(結局、後で食べたけど)。
泣いてみたいとも思ったのだが、泣くのもめんどくさい。泣けば顔の皮膚が濡れると知っているせいではなく(今は痛くない「保湿ティッシュ」があるので、流れる前に押しつけて吸いとればすむ)、泣くと体力を消耗するのを知っているからである。呼吸のコントロールもしっちゃかめっちゃかになるに決まっているし、筋肉だって酷使しなくてはならない。それだけの犠牲を払う価値があるだろうか。
ところで私は、泣きたいときは、まず、すててこのゴムがきつすぎないかどうか、確認してみることにしている。ゴムは大丈夫みたい。水も飲んでみるが、やはり違うと分かる。あちこち調べているうち、首のまわり(主に両脇)が、パーカのフードの繊維でこすれて、ひりひりしていることに気づく。あんまりこれは原因ではなさそうだが、ともあれ、異常に気づくことができたのは悦ばしいことである。このパーカは綿なのだが、繊維が固いのかもしれない。せっかく気づいたんだから着替えようと思うが、立ち上がる気力がないので、せいぜい首がパーカとこすれないよう、首を動かさないことに決める。トリ頭だからすぐ忘れるんだがな。
やっぱり忘れて、何回かイテテと言っているうちに気づく。肌寒いとどうしても首をちぢめるので、それで首の皮膚が傷ついたらしい。きっと、首の皮膚の表面についた細かな傷を拡大してみたなら、タテ方向の傷が多いにちがいない。しばらくホテルに泊まってると調子がいいのに、自宅に帰ったとたんに崩れるのは、単に布団が重いとか、部屋が散らかっているとかいうだけじゃなかったのか。まったく、私ってやつはどこまでお姫さま暮らしに向いた体質なんだろう……。
自分のお姫さま体質を自覚していなかった若いころは、ずいぶんこの体質に逆らったものだ。私は強烈に、「金のかからない体質」に憧れていた。金をかけずに生活できるようになりたかった。今思えばそれは、人並みに親から独立したいのに、人並みには金が稼げないからだったのかもしれない。金のかからない生活ができるようになれば、金が稼げなくても自立できそうな気がしたのだ。
とにかく、親の世話になりたくなかった。お金だけでなく、何につけても。でも私には、それだけの力がなかった。たぶん、力がなかったからこそ、よけいに世話になりたくなかったんだろう。生活力に自信があれば、かえってありがたく受けることもできたのかもしれない。でも私には、親が何をしてくれても「無能」「無能」と責められるように感じられた。親の方も、当時はまだ子離れ練習中の身だったし、私は早く生まれた子だったから親も若く、頼ってもらえるのが嬉しいという態度がありありだった。
私には、経済力もなければ、生活能力もなかった。でも私は独立したかった。誰かのやっかいにならないかぎり、生きることができなかったが、その「誰か」に指図され、監視されるのはいやだった。誰かのお金をもらわなければ生きられなかったが、ヒモつきのお金はどうしてもいやだった。
20をすぎた娘が、学校にも行かず、働きもせず、実家にも帰らず、仕送りをもらってごろごろして、かといって掃除も洗濯もせず、腐った野菜の臭いの中でくらしているその姿は、はた目には「ぜいたく」だと思えたかもしれない。それができた私は、恵まれていたとは思う。幸運だったとは思う。でも決して、幸福ではなかった。
「うらやましい。そんないい生活、自分だってしてみたいよ」と言う人がいる。だけど、本当にそんな生活をしてみたいんだろうか。うらやましいのは、「そんな生活でもとりあえず生きのびられる条件」であって、「そんな生活そのもの」ではないんじゃないですか?
「貧乏な時代だったら、そんなぜいたくな人はいなかった」とか「貧しい国では、そんなことでは生きて行けないはずだ」と言う人もいる。それは本当だろう。でも、私は貧しい国に生まれようが、貧しい時代に生まれようが、それでいきなりしゃきっとして堅実な生活ができたとは思えない。それよりも、犯罪の被害にあうか(貧しい国なら、周囲だって貧しいはずだ)、病気にかかるか、不注意ゆえの事故で大怪我をするかして早死にしていたはずだと思う。貧乏になったら、弱い人はたくましくなるのではなく、ただ消えていくのではないか? 国が豊かになったから仕送りをもらってごろごろする者が増えたのではなく、国が豊かになったら、死ぬはずだった者も生き残るようになっただけなんじゃないだろうか?
私は、貧しい時代だったら、死んでいたはずの人間なのだ。それ以前に、貧しい国だったら帝王切開はできなかっただろうし、それ以前に、母だって妊娠中に死んでいたかもしれないね。いや、豊かな日本の、一番金がうなっていたバブルのころにだって、自力で何とかしようとして果たせず、力尽きて倒れていく人を私は何人か見てきた。
あのころの私だって、障害者年金があって、介護者がいれば、もっと胸を張って生活できたのかもしれない。あんなに自分を追いつめることはなかったのかもしれない。でもあのころの私は、自分に障害があるとは知らなかった。10年たってから知ったが、それでも、自閉症もADHDもLDも、オフィシャルには障害ではないことになっているから、当時の私が診断を受けていたって、やはり、行政的にはただの「心がけの悪い健常者」でしかないことに変わりはなかったわけだけど。
1月4日。
引き続き絶不調。特に何が原因ということもなさそうである。あれが引き金かなと思いあたる文章がいくつかないわけではないが、単にもともとこういう状態だから何を見ても悪い意味にしか読みとれなかっただけだという気がする。明るい話、良い話は、自分には関係ないと思えて目がすどおりしてしまうし、暗い話とはいかなくても、ちょっとまじめな話は自分が悪うございましたっていう気になってしまうんでろくなことがない。しょうがないな、仕事でもするしかないよね。
でもこういうときって、頭が散らかってまとまらないので、能率悪いんだ。ノルマの枚数を果たせない日が続くと予定が遅れるのでそれだけは避けたい。
だいたい、私のように生活能力が低くて身辺自立のできていない人間は、仕事でもやらせておくくらいしか使いようがないのだ。これでサヴァン的能力でもあれば収支がトントンでちょうどいいし、話としてもおもしろいのだが、あいにく残された能力は「並み」。その上に10数年のブランクがある分だけキャリアが浅いときている。現実なんてこんなもんだ。
(ところで、サヴァンとか天才とかを妙にドラマチックに語る人がいるのって、どうしてでしょうね。そんなの、持っている本人にとっては、それがデフォルトの状態なのだから、きっと違和感なんて微塵もないんじゃないかと思うんだが。私は天才と言われる人たちを数人知っているけど、別に変な人たちだとは思わないしな。)
1月4日夕方。
2000年はずいぶん無理をしたと思う。いや、考えてみたらこれまでずっと無理はしてきているのだけれど、以前は無理をしているという自覚もないままに無理をしていた。今は、あーあー無理をしているのう、と思いながらも止められずに流されて無理をしているところがちがう。
仕事で無理をするのは結構。だって駆け出しなんだから、誰だって無理する時期だろう。ここで無理しなかったらきっと健常者だって一人前になれないにちがいないと思うので、それは構わない。無理をするのもゲーム感覚のうちなので。メリハリのない生活がどれほどつらいかは、ごろごろしていた10年ほどの間に、身にしみて感じていたことだしな。
無理をしたってのは、それ以外の部分。何で無理になったかっていうと、こっちから仕掛けるわけではないから。持ってこられた話を受けるか、起きたことを追いかけるしかできないから。(「こっちのペースで仕掛ける」っていうのは、仕事の世界でちゃんとやっている)。まわりを見て、他に誰もいないじゃん、と言ってあわてて受けるから、自分の中で準備が整って受けたという気がしないから。
このシンドさは、おう、知っているぞ。これは、「スケジュール闘争」のシンドさだ。
結局、そのときの動機はいつも、「無視してもっとヒドイのを流されるよりは」という守りの意識なので、たとえ自分から意欲を持って乗った場合であっても、後になってみたら「駆り出された」という気分になって残っていたりする。先方は対等な意識で交渉してくれていても、そもそもの出発点がマイナスからだったりするので、結果的には五分にならないのだ。
でも、先方はそんなことを知らないのだから、それを相手にぶつけるのはフェアではない気がする。だからといって、黙っているとこちらがマイナス地点から出発していることは伝わらないので、「情報」という形で伝える。「ところで、知ってますか」って感じで。それは伝わることもあれば伝わらないこともある。だけど、伝わったところで相手の人が一人で大状況をどうこうできるわけでもない。私は「言わんでもいいこと」を言っているにすぎない。だから、相手にいやな思いをさせてまで「言わんでもいいこと」をわざわざ言うのは、自分の責任でやってることだ。
向こうから持ってこられた話なのに、「わざわざイヤなことを言う」のはこちらの役目。何で気を使うのはこっちなんだろうとは思う。でも、だからといって向こうも気を使えよとは思わない。それより、こっちがあんまり気を使わなければいいんだろうなと考える。だいたい、イヤなこと言われても気にならない人か、気になっても比較的早く立ち直って気持ちを切り替えられる人がマスコミ系の仕事についているらしいから。万一、気になったらなかなか立ち直れない人がそういう仕事についているとしたら、その人はあえて無理のある仕事を選んでいるわけだから、よほどの覚悟があるはずだし、仕事でも、そのことを持ち味として差別化を図ってるかもしれない。切り替えの遅い人は本人が大変そうだけど、気にならない人と、気になっても切り替えのうまい人とは、どちらが良いってこともないんだろう。きっとそれぞれに向いてる題材が違い、向いてるペースや向いてるスタイルも違うんだろう。それぞれに、向いている仕事のしかたを見つけるのも、また、見つけてどうするのも(自分の適性に従うか逆らうか決めるのも)、それぞれの人たちがやることであって、私には関係ないのだ。
(ちょっと脱線。私はかれこれ36年間おくびょう者をやっているが、そのこと自体は、別に損でも得でもなかったと思っている。そして、おくびょう者に生まれたことが立派なことだとも恥ずかしいことだとも思わない。気の弱いおくびょう者は、ぶつかり合いになると先に転ぶことが多いかもしれないが、なかなか転ばない腰の座った人たちだって、別におくびょう者を転ばすことを目的に生きてるわけじゃなかろう。彼らだって普通に、欲しいものを取ろうと突進し、手を伸ばしているだけなんだろう。ただ自分がじょうぶで、転ばないから、人を転がしているように見えるだけでしょう。
そんなわけで私は、繊細であることを自慢する人たちを見ると、何だか居心地が悪くなる。私ももしかしたら繊細な部類に入るのかもしれないが(本当のところはわからない。おくびょうであることは確かなんだが)、それはただ勝手にそう生まれついただけであって、努力の結果ではないし。それに、私の隣に居合わせたじょうぶな人にしてみたら、ちょっとぶつかっただけで転ばれたんではさぞやりにくいことだろうと思う。)
ともあれ。根性なしでゼータク体質の私は、あの程度のコトで十分疲れている。それも、今ごろ疲れが出たりしている。遅すぎ(笑)。リアルタイムでわかることができたら、もっと早く休むことが可能になるだろうに(わかっても、衝動性に引きずられて、休まない可能性は大だけどね!)。
絶不調の原因は、別にこの種の疲れではないような気がするんだけど、それはまた別の話さ。
1月4日よる。
昼間、「サヴァンとか天才とかを妙にドラマチックに語る人がいるのって、どうしてでしょうね。そんなの、持っている本人にとっては、それがデフォルトの状態なのだから、きっと違和感なんて微塵もないんじゃないかと思うんだが」と書いたけど、もうちょっと補足しとく。その人にとって、持ってる才能が、やりたい分野・好きなことと一致してたら、そりゃあ楽しいでしょうね。私は、知っている人であれ知らない人であれ、人は楽しそうにしている方がいいと思っているので、何らかの才能があって、それを楽しんでいる人がいたら、うむうむ、善きことかなと思う。ただそれだけ。
1月4日夜中。
ところで。私は、おくびょうで馬鹿なのに、お人好しだ。なんでだろう。おくびょうで賢かったら慎重派になれそうだが、おくびょうで馬鹿だったら、無差別に警戒して狂暴になっててもよさそうなものだと思うのに。
おくびょうなくせに楽天家なのも、ずいぶんむちゃな話だと思う。いったい何がこのふたつを結んでいるんだろう? 短期記憶が悪いせいも絶対あるとは思うけど、本当にそれだけ? だいたい私は、この楽天性のせいでいつも見通しが甘くなり、同じ失敗を重ねているじゃないか。経験からもなかなか学べない。せっかくおくびょうなのに、意味ないじゃん! 何のための恐怖心なのさ? ちっとも警戒心の動機づけとして役立てられてないじゃないの。こういうのを、ムダな不安っていうんじゃないだろうか。あーもったいない、とケチな私は思うのであった。
1月5日未明。
お人好しついでに。
私は他人が幸せそうだと、単純に「うむ、いいことであるなあ」と喜んでしまう(もちろん、その人が幸せだということが、私にわかればの話。私なら嬉しいと思わないような状況だったら、本人が嬉しいと言ってくれないかぎり気づかない可能性はある)。
ところが、これまで何度もいろんな人に、人の幸せを喜ぶのは偽善だとか、本当はねたんでいるのに、それを抑圧しているんだとか言われてきた。私が喜んでいるときだけじゃなく、他の誰かを評する言葉としても、そういう話は聞いたし、本や雑誌でも読んだ。そして私は、それを信じてしまった。「ねたみを抑圧する、見栄っぱりで嘘つきの自分」は悪く、恥ずかしいのだと思ってきた。
でもやっぱりちがう気がする。私は本当に、他人は幸せそうな方が好きなようだ。幸せな人はストレス耐性が高く、少々の不快では怒りださないし、泣きださない。すると怒ったときの音声や泣いたときの音声を発することが少ない。人の怒っている声や泣いている声が苦手な私にとっては得になっているじゃないか。ってことは、私が、知らない人でも幸せそうな方がいいと感じるのは、利己主義と矛盾しないし、変ではないと思うんだが。
嘘についても。
私はわりと簡単にだまされるが、それは単に嘘を見抜く力という分野に関しては頭が悪いだけだと思う。だまされやすいからといって、善良だという証拠にはならない。いくら邪悪な人間だって(とはいえ、「邪悪」の定義って知らないし、知らずに語るのも無理があるけど)、頭が悪ければだまされるだろうさ。
そして。私をだました人たちは、べつだん、だますこと自体を楽しんでいるわけではなかったと思う。単に、その場をとりつくろおう、自分の身を守ろう、と苦し紛れに嘘をついただけだろう。で、聞き手である私が、たまたま、嘘に関しては頭の悪い人間だったので、無理のある嘘だったのに通ってしまった。それだけのことだと思う。相手はきっと、「ああ、助かった!」と思ってただけだろう。ときには、まさかと思うほど苦しい言い訳なのに私が信じちゃったもんだから、内心あわてていた人もいるかもしれない。引っ込みがつかなくなって困った人もいたかもしれない。
だます側も、だまされる側も、だまし損ねる側も、だまされない人も、そのほとんどは凡人だろうしね。
1月5日朝。
嘘について、補足。
私はあまり嘘をつかないが、それは多分に、「どうせうまくつけないから」だろうと思う。言い逃れをしようと出まかせを言っても、上手じゃないんで、得になったことが少なかったんだろう。うまくいった経験の回数が少なければ、そして、キープするためのコスト(不安)が高ければ、そんな損な習慣はあまり定着しなくても不思議はない。
「嘘は絶対にいけない」という規範意識の強い人や、単に何に対してであれ不安の強い人、記憶力が悪くて、嘘をキープするのに意識的努力を必要とする人、想像力が弱くて、嘘を考えだすのに労力の必要な人などは、嘘をつくためのコストが高く計算されるはずだ。規範意識の強い人は、「寝覚めが悪い」というコストを、不安の強い人は、「不安」というコストを、記憶力の悪い人、想像力の弱い人は「疲労」というコストを支払わなければならない。
そして、嘘がヘタだと、嘘をついたことによる利益は少ない。ある程度の学習能力があれば(衝動性が低く、記憶力が良ければ)、損なことはだんだんやらなくなっていくだろう。
私は、結果的には嘘をつく頻度が低くなっていると思うが、そのことを特に自慢すべきこととも誇るべきことだとも思っていない。私にとっては、嘘をつくことはコストが高い。ついでに、嘘をつきたくなるシチュエーションが少ない。それだけだ。
ただ、コストの高さの割には、嘘をつく頻度は高い方じゃないだろうか。衝動性のおかげで、損するぞとわかっていても、そのチェック能力を発揮する時間がないからだと思う。そして、そのことは、ただ単に「損だなあ」と思っている。汚いことだとも恥ずかしいことだとも思っていない。
そんなわけで、嘘をつく人に対しても、嘘がうまくて元が取れている人であれば、自分に合った方法でがんばっているんだなあと思うし、嘘がヘタなのにも関わらず学習能力がなくて衝動的に嘘をついてしまう人のことは、損だろうなあと思うだけなのだ。私は自分が嘘をつくのがヘタなだけに、かつては、他人が嘘をついていると自動的に「大変そうだなあ」と思ってしまうしかできなかったが、世の中には嘘をつくのがうまい人がいることがわかってきたので、その人たちの分は安心することに決めたのだ。
ただ、私自身は嘘を見抜く力が弱いので、私と交渉する場面で嘘をつかれたら、それは大変だと思う。できればやめてくれたらいいなと思う。でも、それだけなんだ。やめてくれた方が、私の有利になるから、私はそういう願望を持つだけ。みんなそれぞれに、強い部分、弱い部分があり、強い動機を感じる場面も違っていて、体質も違うからコスト計算の基準値も違っていて、それに合わせてそれなりに生きているんだろうから。
私は、だまされてもあまり人を恨まないが、そのことも別に誇りにも自慢にも思わない。そういう機能が弱いから、人を恨むには通常以上のコストがかかる。だから、その分をけちるようになっていくのは、合理的だと思う。別に、恨まなくても「用心しよう」という学習はできそうに思うし、逆に言えば恨んだからって学習はできないかもしれないと思う。それ以前に、だまされるまでの段階で、私は「用心する」というコストをけちったのかもしれないとも思う。だとすると、だまされなかった機会にも、同様に私は「用心する」というコストをけちり続けているってわけだし、それを全部平均したら、たまにだまされて損をしたって、合計すれば得になっていないとも限らないじゃないか。
だから、だまされてもあまり人を恨まない自分を、自慢にも思わない代わり、覚えもないのに「こんな自分は偽善者なのに違いない、本当は恨んでいるのに見栄を張って抑圧しているに違いない」と決めつけて自分を責めたり笑ったりする習慣も捨てていこうと思う。本当に人を恨まないことにも、それなりの理由の順列組み合わせがあるはずだし、不得意な分野から撤退して、別の機能でまかなうっていうのも一つの方針だよねと思うから。
1月5日昼。
外の世界から来た人は、その国の暗黙の規則を知らないからこそ、その国の規則の不合理さが見えたりする。でもそれは、単に、外国人だからにすぎない。優秀だから見えるわけではない(たまたま優秀でもあることとは両立しうるけれども)。高台の家やビルの高層階に住んでいる者が、位置のおかげで遠くが見渡せて、遠くの山火事を早く見つけられるのと変わらないと思う。それだけだ。
人気(ひとけ)のない場所での火事は、たまたま通りかかった人が最初に発見する。街で病人が倒れても、たまたま近くにいた人が最初に発見する。それは、能力とは何の関係もない。だから、消防車をよんだり、救急車をよんだりしても、その人は、自分の知識や能力を自慢することはないだろう。周囲の人だって、火事を通報する行為を見て、「知識を誇示している」「自慢している」と勘違いすることはないだろう。
それだけのことなのに。
1月5日夕方。
今朝、だまされてもあまり相手を恨まないことについて、『「こんな自分は偽善者なのに違いない、本当は恨んでいるのに見栄を張って抑圧しているに違いない」と決めつけて自分を責めたり笑ったりする習慣も捨てていこうと思う。』と書いた。
だけどよく考えたら、私は未だに、「偽善」という言葉の意味をよく理解していない。ほんとに、いまいちピンときていない。
ただ、意味は知らないのに、用法は知っている。そして、言われるままに「意味は知らないが、きっと自分のことに違いない」と思い、そのまま、「自分は偽善者だ」と思ってきたのだ。でも、これって母国語の単語の習得の順序としては全く普通のことだと思うぞ。子どもが母国語を覚えるとき、意味の定義から覚えたりはしない。用法から覚えていくんだ。状況と音の響きを突き合わせて覚えていくだろう。だから、そういう意味ではとてもオーソドックスな覚え方をしたはずだ。ただ、そのまま、いつまでたっても意味の方が追いついてこなかっただけであって。
唯一救いだったのは、気質が楽天的で横着であること。自分に対する悪口を覚え込んで信じていても、そうしょっちゅう自分をしつこく責めさいなむのに使ったりはしなかった。体調が普通の時はね! 今はちょっとダメなのでこの種の罪悪感はきつく刺さるけれども、ありがたいことに、頻度は大したことないからな。
1月5日夜。
本日の某所の人工無脳おみくじ結果。
巫女 > 大吉で〜す。計画は変更せずに実行するのがいいです。予定外の事には手出ししないよう。>Lingkoさん (1/5(金)20:40) 嬉しかったので貼りつけてみた。
そういや絶不調の原因として、思い当たることが一つあるよ。夫がいつ、どこに転勤になるかわからないって点だ。ただ、全国に支社のある会社なんかとちがって、近畿圏だけで候補は数か所なんだが。今の所に住むようになって3年半。この4月か7月に、その数か所のうちのどこか一つに異動になる可能性が高そうな感じ。
「元祖・片づけられない女」としては、引っ越しの実作業も恐怖ではある。でもまあ、金と時間をかければ何とかなりそうな気はする(金があるかどうか、時間があるかどうかはまた別の話だが)。
ただ、異動を言い渡されるのはだいたい2か月前。ところが、私の仕事はたいてい、1か月半か2か月単位で動いている。家探しとか引っ越しとかがあるのなら、半年前には言ってほしいって感じ。そしたらその前後の各1か月は休みにするからさぁ。今のところ、私は4月半ばくらいまでは仕事が詰まっている。そして、今、その後の仕事を取るために、企画を立てないといけない時期なのに、これじゃ身動きがとれやしない。
本当のこと言うと、去年の秋くらいから、一部屋だけでいいから、別の部屋がほしいなあと思っていたのだ。雑念から自分を切り離して仕事だけに専念するのに場所を変えたくて、遠くの町のホテルになんか逃避しなくたってすむようにさ。家の近所の、4万くらいのハイツとかでいいからさ。そしたら晩は帰ってこられるから(徹夜したっていいけどさ)。
でも、自分の家の中にさえ、既に開かずの間があるっていうのになあ。開かずの間を片づけて自分の机を置くだけでも良さそうな気はするんだけどね。パソコンはコロちゃん(レッツノート)を持って行けばいいんだし。
あーー! でも、今、めちゃくちゃ忙しいんだよぉ。開かずの間を片づける時間もなければ、アパート探す時間もないし、見つかったところで荷物を運ぶ時間もないだろう。全く。仕事が忙しいからそういう部屋がほしいんじゃないんだったっけ?
1月6日朝。
また寝られなかったな。これじゃ睡眠不足になると思うんだが。無理してでも眠らなくては(って、どうやって?)。
3日夕方の部分で、大学中退〜引きこもりの経験を書いたことについて、さる方からご批判を頂いた。その趣旨は、自閉症はまだまだ、単なる暗い性格や不登校、引きこもり、鬱などと混同されていることも多いのに、自閉症と関連する障害といわれるアスペルガーの人が引きこもり体験を語ったのでは、アスペルガーは(ひいては自閉症も)やっぱり不登校や鬱のことなのかと思われてしまうことになるのでは、というもの。
ううむ。気持ちはわからないでもないけれど、一般に流布されている誤ったイメージと同じ状態が、たまたま重なっているというだけで、それについて語らない方がいいなんて言ってたら、私たちはずいぶんいろんなことを語れなくなってしまいます。実際、未診断で放置されたまま成人した人には、鬱も多いと思うし。
では、いい機会だから、一般的な先入観に反することも書いておきましょう。テレビではパソコンで筆談する姿が映されたので、私は口がきけないのかと思われたかたがおられるかもしれませんが、口はきけます。あの番組の中で、竹田先生が「流暢だけれども多弁すぎる」と言ってたとおりです。はっきり言って私はおしゃべりです(疲れて、いきなり電源が切れるまでは)。ただ、それをコミュニケーションに使えない。話し言葉だと、「言葉は道具だ」ってことがわからなくなる。だからとりあえず頭の中にストックされている音声をとり出して乱射するようなことになってしまって、「流暢だけど会話になってない状態」になってしまう。インタビューに使えるシロモノではないのだ。
と、まあ、会話はなかなか成立しないし、話し言葉でコミュニケーションするのは非常に困難ですが、一応、しゃべれます。使えないだけで、猛烈にしゃべります。
あと、性格は明るいと思う。明るいというより、横着ですね。楽天的で無計画でツメが甘い。世の中の善意をあてにしているというか世の中をなめているというか、そんな感じもするけれど。
でも、引きこもりはやってましたよ。
1月6日昼〜夜。
昨日、仕事場借りたい借りたいと騒いでいた私だが、とりあえず、「開かずの間」になっている玄関横の6畳の洋間をちょっと片づけた。片づけたらけっこう広くなったんだけど、めちゃくちゃな寒さ。うちは南北に長いマンションの北の端部屋、東玄関・西ベランダ(スカパーのパラボラは南西に向けるからね)のウナギ間取りで、この部屋は北東にあたる。つまり、北側も東側も外壁。窓が北側。冷え方も結露も半端じゃない。午後の一番あたたかい時間にやってたのに、片づけをするだけで全身が冷えきって、腰が痛くなってしまった。本当にこんな所で仕事する気か? 電気ストーブでも買うべきかなあ。でも、夏はどうする? あ、夏はもうここにはいないのか(いたりして)。
夕方、夫とふたりで、国道の向こうの市場まで鶏肉を買いに行く。昨日、牛肉で鍋をしたんだけど、食欲がなくて野菜も豆腐もたくさん残ってしまったので、鶏だけ買い足して、残り物でもう一度鍋をすることにしたのだ。
帰りに、電柱に貼りつけてある不動産屋のパンフを集めてくる。この辺は大阪といっても南の方の田舎なので、そんなに高くはない。ワンルームのハイツよりも、築古の連棟貸家なんかの方がかえって安かったりするんだね。
まあ、パンフは見るだけってことで。いつ転勤になるかわからないので、いま借りたって、早ければ3か月で出なければならないかもしれないわけだから、敷引きがもったいないだけだ。
タダでもらってきたパンフを十分楽しんで捨ててから、鍋。ところが、食べ始めてしばらくすると、またしてもわけのわからん憂鬱が襲ってきた。ちっ。ちょっと人が油断してると、すぐこれかい全く。あれよあれよって感じで、あんまり急なので、おかしくなるくらいだ。ホント、気分の波っていうのは身体的なものだなあとつくづく思う。腰が痛みだすとか、膝が冷えるとか、そういうのと同じようなもんだってのがよく分かるよ。子どもだって、眠くなればぐずるし、疲れれば暴れるじゃないですか。使命感を感じられる仕事にも恵まれ、先の計画もあれば意欲もあり、生活に張りがあり、周囲に理解があったって関係なく、落ちこむときは落ちこむのだ。「それだけ恵まれてるのに、何を落ちこむ必要があるの?」なんて考えるの、考えてみたら変だよなあ。だって、これからの計画に意欲があったって、歯茎が腫れたら痛むし、牡蛎に中れば下痢するでしょう。「それだけ恵まれているのに、どうして腐った牡蛎で下痢する必要があるの?」とは、普通言わないもんなあ。ところで、やっぱり調子悪くなるのは食事中か、食後。ある程度おなかがふくれてきたころが危険。でも、共通の要因って何だろう? ビールやめるべきかな。今は350mlの缶入りを半分なんだけどね。でもビールは毎日飲んでるわけでもないんだよな。
某チャットについてる人工無脳おみくじ 本日の結果。
巫女 > 凶で〜す。わがまま通すと周囲は遠のきます。手違いのないよう自重して進みましょう。>Lingkoさん (1/6(土)23:21)
1月7日朝〜昼。
昨夜もなかなか寝つかれず、結局眠れたのは朝の7時ごろだったのに、9時半には目がさめてしまったのでおとなしく仕事を始める。ところが、何だかはかどらない。
不思議なことに、いつもはコーヒーが楽しみで起きる決意をする私なのに、今朝にかぎってコーヒーがほしくならない。身体が拒否してるのか、飲めそうにない。しかたがないんで「森半の泡立つ抹茶オーレ」を飲む。
全身のだるさ、筋肉痛で動く気にもなれない。夫に風呂をたいてもらって入り、オーシャンスプレーのクランベリージュースに山ほどビタミンC入れて飲む。喉も痛いし鼻水も出るぞー。これが風邪のひきはじめなのか、それとも単なる寝不足の結果なのか、わからない。私は寝不足でも喉が痛くなるし食欲もなくなるからな。
巫女 > 中吉で〜す。艦長や目上の人の引き立てがある日のようです。不言実行する行動力買われるわね..。>Lingkoさん (1/7(日)21:57) う〜〜ん、要するに、日記書いてないで仕事しろってことか。
1月8日
だるいけれどもかまわず、仕事をしたり、掃除をしたり。関係ないけど、カーテンを掛け替えたよ。でもカーテンの洗濯はしない。たぶんこのまま、洗わずにしまうのだろう。それもまたヨシ。洗濯機の横に放置するよりはいいだろうって。
腰とか、あちこち痛いんだけど、そうも言ってられないので黙って仕事。
1月9日
そういえば、ゆうべおみくじ引くの忘れた。
巫女 > 吉で〜す。カンが冴え活躍期待できる日のようです。但し秘密事は明るみに出やすいです。>Lingkoさん (1/9(火)9:20) ふーん。秘密って何だろうね。
またしばらく禁ネットして仕事するから、14日までさようなら。
1月22日
なんかこう、かなりダメダメ〜な感じではあるのだが、一応生きている。
しかし、元気がないと仕事がはかどらないのは困ったものだ。14日に終るつもりだったものを、まだやってる。一応、仕事を心の支えに生きているものだから、ダメダメ〜なときほど、仕事への精神的な依存度が高まるのに。まあ、体調が悪くて仕事がはかどらないのは、当たり前なんだけど。
でも、自分が駆け出しで実績もなく、修業中の身だっていうことが嬉しくなるのはこういうとき。一人前になるまでがんばらないと恥だよなあー、なんて思うと、先の約束ができたようで、その拘束される感じがありがたい。
ところで、前にも書いたけど私はお姫さま体質なので、ハングリーを売り物にしている人の日記とかをうっかり読んでしまうと、後が調子良くないのだ。たまたまその人の本業の内容が気に入っていたりすると、本業についての情報を求めて、うっかり見てしまったりするので危ない。
そう、私は、通販カタログで「額装済み湖の写真」だとか、「テラコッタ製の太陽の壁掛け」だとか「生花を固めたプラスティックの文ちん」だとかをながめて心の支えにしたりしている俗物なんだよ。はー。最近は、その手がそろそろ効かなくなってきたけど。