館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)館長はただ自閉連邦市民として生きているだけではありません。体内にADHD共生体を共生させている「ホスト生物」でもあり、二重国籍者として地球に生きる地球市民でもあり、地球人の男性と結婚生活を送る猫妻でもあります。また、連邦市民としては当館の館長を務めるかたわら、生まれ育った地球に恩返しをしながら地球での滞在費を稼ぐため、おもしろそうな原書を発掘しては日本の出版社に紹介し、翻訳することを生業としています。そして、おいしい食べ物とコーヒー、花と香水、レトロな建物、軌道のある乗り物(特にモノレールとトラム)が大好きです。この記録は、そんな館長の地球生活の記録です。一人の自閉者としてだけでなく、ADHD的特性をかかえて生きる者として、出版業界に生きる者として、一読書人として、ただの食いしん坊として、贅沢者としての毎日を記録していきます。
■4月10日〜12日■
何か疲れる、めんどくさい日々であった。
朝日新聞4月12日朝刊記事、「映画名に『アスペルガー症』、患者指摘で発売中止」より引用。
映画配給会社「ソニー・ピクチャーズエンタテインメント」が、米国制作のビデオ映画に、発達障害の一種「アスペルガー症候群」の病名からとった邦題をつけて発売する予定だったが、患者らから指摘をうけて発売中止を決めたことが分かった。(中略)映画は連続殺人事件を扱うサイコスリラーで、あらすじと同症候群との関連はない。
同社によると、映画の原題は「absence of the good」(良心の不在)。これに「アスペルガー 死の団欒(だんらん)」との邦題をつけ、5月から数千本、販売する予定だった。広告を同社のホームページで見た患者らから「適切ではない」と指摘を受けたという。(中略)
同社は「映画の内容と同症候群とは全く関係ない。マーケティング上、ゴロのいい邦題を考える過程で、社会で取りざたされていた病気の名前を使ってしまった。不注意だった」と話している。(以下略)
■あのとき、言わなかったこと、言えなかったこと、後回しにしたこと
何でもかんでも、その場ですぐにわかってもらう必要はない。たとえ誤解されたままでも、実害のないことだってあるもんだし、説明している時間の惜しいときもある。説明にエネルギーを費やすことで焦点がボケることもある。結局のところは、その場その場で、対比用効果など考えて、説明するか黙っとくか選んだっていいはずだ。
そんなわけで、私は、あえてめんどくさいことは語らなかった。「やることだけやればいい」と割り切って、害のなさそうな誤解は放置していた。積極的に嘘をつくことは、一度もしなかったけれども。
私は標題のビデオの発売予告を見て、怒ったり傷ついたりはしなかった。アスペルガーの人が犯人のビデオが出ても、個人的には、私はあんまり辛くないだろう。それでも私は、これは止めようと思ったし、行動も起こした。傷ついたからではなく、不都合だと思ったからだ。矛盾していると思う人もいるだろうけど、私はそうは思わない。私は嘘をついたわけではない。
行動が不純だとか、やることが無粋だとか、ダサいという批判は、事実なので甘んじて受ける。でも私は、自分なりに考えた優先順位にしたがって選択した。この選択がまちがっていたとは思っていない。
それから、私は今回、要所要所に情報を言わば「置いた」。知人に出したメールも、行きつけの掲示板での書きこみも、方々へ転載・転送されたはずだから、それを見て行動を起こした人たちのほとんどは、私の知らない人たちだと思う。群れなくても、まとまらなくても、つながらなくても、情報は「置いておいて」、持ち帰ってもらうことができる。
■
ことの発端は、日付が9日から10日に変わった直後、ソニーのレンタル用ビデオソフト発売予告ページで、「アスペルガー 死の団欒」という邦題のソフトの広告を見つけたことだった。
それを見た第一印象は、「団栗(どんぐり)?! あ、何だ団欒(だんらん)かぁ。そっかそっか、団栗と団欒って字づら似てるー。わあい、似てる字づらコレクションに加えておこうっと!」だった(注1)。
さて、団欒を団栗に見立ててしばらく遊んだ後、紹介文を読んでみた。なんでも連続殺人の話らしく、遺体が毎回必ず食卓に向かって椅子に座らせてあるのが特徴なんだそうで。
「レイプ、幼児虐待、校内殺人、崩壊する家族…病める現代社会が生み出した異常な犯罪心理を、バイオレンス&サスペンスの鬼才ジョン・フリン監督が描く! 」
ふう〜ん。で、何でタイトルがアスペルガーなんだろ? アスペルガーは昔からある先天障害だから、「病める現代社会が生み出した異常な犯罪心理」は何か違うしな。まあアスペルガーの人だってたまには犯罪くらいやるだろうけど、もしも犯人がアスペルガーなんだったら、そんなのタイトルにしちゃったらネタバレじゃないか! じゃあアレかな。刑事の名前がアスペルガーさんとか。事件の舞台がアスペルガー村とか(八つ墓村みたいだ)。
さらに読むと、紹介文の他に、注釈のようなモノもついていた。
「“アスペルガー症候群”とは医学用語――精神的発達障害の一種。他人の受けた痛みを共感できず、特定の物事に異常に執着することを特徴とする。」
ふーむ。嘘ではないけれど。だけど「精神的発達障害」なんて言い方あったっけ? 知的障害(発達遅滞)のことは、そういえば「精神遅滞」っていうけれど。だけどアスペルガーも含めて自閉圏の障害って、ただ単に「精神的」ではすまず、相当に身体的なものも濃い(注2)という印象があるんだが。
「他人の受けた痛みを共感できず」については、嘘じゃないけど不公平な省略だと思った。他人の嫉妬にも共感できなかったり、他人の優越感に共感できなかったり、他人の期待感に共感できなかったり、他人の高揚感に共感できなかったりすることもあるのに、なぜ他人の「苦しみ」だけを選ぶのだろう? たとえ嘘の情報は入っていなくても、情報の省略のしかたによっては、全体の印象では嘘を演出することができるという、あれだ(注3)。
この「注釈」の中で、唯一、私が「なにをーっ!」と感じたのが、次の一点だった。「特定の物事に異常に執着する」というくだりである。「異常に」というのは、非自閉者を規準にしているわけで、それが対等じゃなくて失礼だと考えたのだった(注4)。「執着」という用語も、あまり価値中立な用語とは言えず、その傲慢さに不快になる。「執着」という用語に不快になるのではなく(だって私、現に執着するもんなあー)、「執着」という用語を選ぶ自分の立場をおそらく疑ったことがないであろう書き手の無邪気さに不快になるのである。
さて、わざわざ「アスペルガー症候群とは、」なんて注釈がついてるってことは、この「アスペルガー」は地名でも人名でもなく、アスペルガー症候群のことなんだろう。私はそう考えた。そういう印象に飛びついたということではなく、自分が広告を書く立場だったら、むやみに無関係な用語は出さないだろうから。そして、「他人の受けた痛みに共感できない」が入っていることから、アスペルガーなのは刑事でも刑事の妻でも被害者でもなく、犯人なのだろう。ネタバレ疑惑はますます深まるばかり。
で、私自身の本心を言ってしまえば、犯人が本当にアスペルガーの設定だったんなら、それはそれで別に困らないし、構わない。私は傷つかない。健常者だって殺人するだろうし、双極性障害の人だって殺人するだろうし、痴呆老人だって殺人するかもしれないし。
それよりも気になるのは、アスペルガーが正しく描かれているかどうかの方かもしれない。そんなことを気にしないといけないのは、この世の人口の多くはNT(neurotypical 神経学的多数派、≒非自閉者)であり、かつ、NTの多くは自閉のことをあまり良く知らないからである。つまり、この世の人口の大多数がNTである以上、当のフィクションの作り手がNTである確率は相当に高いわけで、さらに、NTの多くが自閉のことをあまり良く知らない以上、任意に選ばれた作り手が自閉のことをあまり知らない確率はやはり高そうだと思うからである。
気にする理由も、主に実用的なものであって、情緒的なものではなかったりする。誤った描写が、見た人の知識、情報に影響すれば、その人がどこかで連邦市民に接した場合の遇し方に影響するだろうと計算するからである。そして、誤った情報に基づいた処遇の被害に遭う連邦市民が、私よりも余裕のない立場にいる可能性も大きいからである(私は、自分が環境に恵まれていること、情報強者であることを忘れてはいないから)。
さて、最初のうち、「いいじゃん犯人でも。ただ、広告に使われていた注釈の『異常に執着』等の表現の陰にある侮蔑の情は許せん」くらいに思っていた私だが、15分ほどいろいろ考えるうちに、「やっぱり放っておくのはやめよう」と考えた。私個人は、精神的には傷つかないが、暮らしやすい環境は手にしたい。そのための努力は正当だろー? そういう考えに傾いていったからだった。
実は、そんな考えに傾いて行った大きな理由は、「NTたちの中には、私の想像する以上に、イメージに躍らされる人たちがいるらしい」と最近知ったことだった。具体的に言うと、先日、大教大の竹田先生から、豊川事件の後、「アスペルガー」という障害名を実際以上に恐れる保護者が現れはじめたこと、そして、そういう恐怖を抱く親の心情を慮るあまり、(特に診断を確定しにくいケースで)告知をためらう臨床家が出始めたという問題を聞いたことがあったからである。
こんなの、私だったら逆立ちしたって出てこない発想だ。糖尿病の人が殺人を犯したからって、糖尿病と診断されるのを怖がったり、治療を受けなかったり、するか? 私だったら、たとえ豊川事件の報道をきっかけとしてアスペルガー症候群の存在を知り、その特徴を知ったとしても、心当たりがあれば診断されたいと思ったと思う。この場合、親の恐怖心や親戚・同級生の親・地域社会の偏見によって一番迷惑するのは子ども本人ではないか。親がそんなけったいな連想をしておびえたために、そして、臨床家が親のけったいな連想に由来する恐怖に気を使ったために、子どもが必要なフォローやアコモデーションを受けられないなんて、まったく迷惑な話である。
そういうことを最近聞いた覚えがあって少し予備知識があったから、傷つかなかった私も「やっぱり無視するのはやめておこう」という気になったのだった。けったいな連想をする可能性のあるNTたちを守ることは、間接的に、連邦市民の生活環境の整備につながるからである。
私は真空に生きているわけではない。他人のわさわさいる世界に生きている(退屈は避けつつも、直接の接触はなるべく少なくなるような生活様式を選んではいるけれども)。そして、わさわさいる他人の多くはNTである。私だけじゃなく、たくさんの自閉者が、やはり真空に住んでいるわけではなく、大量のNTたち(と、もしかしたらわずかな連邦市民)に囲まれて生きている。たとえ自閉者側からかかわりを持っていなくても、地球人(NTたち)にどんな扱いを受けるか、どんな処遇をされるかは、自閉者たちの生活の質を大きく左右する可能性がある。
だから、自分は傷つかなくても、腹が立たなくても、地球人の私たちに対する接し方を左右するために何らかの行動を起こすのは別に不純なことではないと思う。クーラーが強過ぎて寒ければ、リモコンのボタンを操作して、弱くするのと同じ。評判とか、名誉を気にしてるのではなく、私だって少しは楽に暮らしたいし、私以上に余裕のないどっかのまだ見ぬ(ずっと見ないであろう)お仲間には少しでもストレス少ない生活を送ってほしいのだ。
それと、もう一つ、何となく引っかかっている点があった。
英語圏の作品であれば、ほんとに主要登場人物として自閉者が登場している作品が公開されていれば、当事者のMLやBBSなどで「あの癖はぼくと一緒だ〜」とか、「あのセリフは、らしくないよねえ」とか、話のネタになり、サカナになっているはずだ。でもここ3年、この種の話が一度も話題にのぼった記憶はない。調べると原題には「アスペルガー」という言葉は使われておらず(Absence of the Good)、原題とアスペルガー、自閉、発達障害、障害等のキーワードでクロス検索しても、何一つひっかからないのだ。やっぱり、この作品の主要登場人物はそもそもアスペっぽい人物として設定されていない可能性が高くなってきた。
だとすると、この邦題のルーツは、時期的に考えて、豊川事件の報道かなー。担当者が豊川事件の報道を斜め読みしたときに早トチリしたのが頭のすみっこにでも残っていて、それをひょいと思い出したのだろう。「アスペルガー」という用語を知らないのは普通のことだからいいとして、耳慣れない言葉を使いたかったら、ウロオボエのまま使わず、調べればいいのに〜。
もちろん、こんな邦題がついちゃったのは、単にたまたまこの人が特別にソコツだっただけだろう。でも、「この担当者は、豊川事件の報道の受け止められ方の一つのサンプルだな」という気がした。この担当者が豊川事件の報道を斜め読みしたとき、「アスペルガー=凶悪犯罪者予備軍」という連想が頭の中に形成されたのだろう。つまり、私のように、「健常者だって殺人するだろうし、双極性障害の人だって殺人するだろうし、痴呆老人だって殺人するかもしれないし」とは考えない人がいるってことだ。もしかしたら、いっぱいいるかもしれないってことだ。だって上司も同僚もチェックしなかったんだから。素通りして広告まで出ちゃったんだから。ほら、1匹見つけたら30匹とか言うじゃないか(違うって)。
やっぱり、私の発想は標準じゃないかもしれないんだよ。自分の良心や本心だけに従って行動していたのでは、苦痛の少ない生活環境をゲットすることはできんぞ。NTの意識という生活環境に影響を与えようと思ったら、やはりNTの発想法を知り、それに基づいて考え、行動しなくては効果は上がらんだろう。
そんなわけで、私はあちこちにこの件を連絡した。私も先方に一応の意見は述べるけれども、まあ、後は見た人がそれぞれに、それぞれの感じたままに行動してくれるだろうから。私は9日深夜から10日の午前中にかけて、十数通のメールを送り、数か所の掲示板に書き込みをした。何も煽ったわけじゃない。ただ情報だけを書き込んだ。私は機会を提供したにすぎない。知りたくなかった人には申し訳ないけれど。
こうして、メールを読んだ人々、掲示板を見た人々が、ソニーに抗議のメールや電話をしてくれた他、自分でも他の掲示板やMLなどに転載してくれた。それを見た人たちも、それぞれの行動をしてくれた(その一例は、「ことばと発達の学習室」の掲示板)。こうして10日の夕刻には、電話で抗議をした人たちのところに、「発売は急遽中止にしました」との返事が届き始めた。
翌々日の12日、朝日新聞の朝刊でこの件が報道され、やはり元の作品はアスペルガーと無関係だったことがわかった。「映画の内容と同症候群とは全く関係ない。マーケティング上、ゴロのいい邦題を考える過程で、社会で取りざたされていた病気の名前を使ってしまった」という、恥ずかしいコメントが載った。
ほらー。やっぱり、この担当者のメディア・リテラシーって、その程度だったじゃないですかー。関係者は、アスペルガーっていうのが、かなりの頻度で発生するありふれた障害であることも知らなかったのでしょうし、ほとんどの子が一見普通に見えすぎて診断も援助も受けられないでいるくらいに目立たない障害であることも知らなかったのでしょう。つまり、(300人に一人ではなく)何十万人に一人現れる稀な病気で、連続殺人を物ともしないのが特徴だとでも思っていたんでしょう。そして、名前を使うに当たって、資料を当たって調べようという気もなかったんでしょうし、何十万人に一人の障害だったらてきとうに使ってもいいと思っていたんでしょう。
担当者は豊川事件の判決当時に、報道を斜め読みしたことがあって、そのときのウロオボエの印象が今になって発掘された。そんなとこだよね。
私はこの問題は、差別とか偏見の問題だとは思ってない。メディア読み取り能力、情報とのつき合い能力の問題だと思っている。みんな忙しいんだ。興味のない話は、斜め読みしているんだ。だから、「周囲はこの程度なんだ」って想定して、それに基づいて動くことだって、間違ってないはずだ。確かに、無粋だよ。差別だ偏見だと騒いだと見られる危険もある。恥ずかしいよ。私だってこんな無粋なこと、好きでやったわけじゃない。相手を見てやっただけなんだ。
私は、個人的には、別にアスペルガーの人が犯人の映画やドラマが作られたっていいよなと思っている。というより、最終的には、本当にお仲間の誰かが犯人として出てくる映画が気にせず作れるくらいの環境が実現するといいなあと思うんですけどね。
だって、サスペンスものの映画で、「犯人は左利きだった」とか、「犯人は子どもだった」とか、「犯人は痴呆の老人だった」とか「犯人は聴覚障害者だった」とか、そういう結末があったって、見た人は「そうか、左利きの人は殺人をする人が多いのか」とか「痴呆の老人は殺人を犯しやすく危険なのか」と短絡したりしそうにはないでしょ。それと同じくらいの社会的認知を得たいというだけのこと。
作品じゃなく、現実の世界の犯罪だったとしても、たとえばどっかの教団の教祖が弱視で、盲学校に通っていたことは広く報道されたけど、だからって「弱視の人は危ないのか」と思われることもなかっただろうし、盲学校に通う子を育ててる親が、親戚から「あんたのとこの子は大丈夫?」と言われることも(たぶんめったに)なかっただろうし、「例の教祖と結びつけられて偏見を受けたら可哀想だから」という理由で、視力検査を受けさせない親や結果の告知に慎重になる眼科医がいるとはあまり思えない。それと同じくらいの社会的認知を得たいというだけのこと。
あるいは腎不全で透析受けてる人が殺人や強盗やったって、そんなことを特に報道しないと思うし。その人が服役することになったときに、当局側が、最寄りの刑務所じゃなく、透析を受けさせるのにべんりな刑務所を選んだとしても、たぶん世間一般の人は「不公平だ」とは言わないと思う。それと同じくらいの社会的認知を得たいというだけのこと。
つまりそのー、現実の犯罪であれ、フィクション作品の犯人役であれ、「どんな層にだって、犯罪を犯す人くらいいる」という、ごくごく当たり前のことが当たり前として通用してない環境、こんな当たり前のことをわざわざ注意書をつけないといけない、短絡する人がいるであろうことをいちいち想定して、逆算して発言しないといけない、そういう環境ってのがうっとうしくてしょうがないわけです。私の暮らしやすい世の中ってのは、脚本家が誤解の心配などする必要もなく障害者を犯人にできる社会、障害者でも犯人役をゲットできる社会だと思うんですけどね。
私たちの中にだって、法に触れる行為をする人だっていておかしくはない。
それだけじゃない。法を犯すときにはそれなりに、私たちなりの作風っていうか芸風っていうのがあるはずだと思う。
だとすれば、その防ぎ方、教え方だって、フォローや後始末(処罰や再発防止教育)の方法だって、有効なやり方は、健常児・者とは違うと思う。つまり、予防法も後始末法も、私らのニーズに合わせて、せめてイージーオーダー程度にしてもらいたい。そうでないと、私らは、犯罪防止教育とか処罰とか再発防止教育とかいったサービス(処罰をサービスと呼ぶのは変だろうか?)の恩恵から漏れているようなもんですよ。
だとしたら、私たちなりの犯罪の「芸風」「作風」「傾向と対策」が、堂々と、ニュートラルに語れるくらいであってくれなくちゃ困るんです。なのに、「全員が危険人物かと勝手に結びつけられたら困るから」というので、ニュートラルに語れない。メディア・リテラシー障害者たちの理解度を慮って、必要な議論を積み重ねることさえできない。こんちくしょうー。と、思うわけだな。
私たちの大多数がとりあえず罪は犯さずに何とか済んでいるっていうのは、ごくフツウで当然のことであって、そんなことは、できればわざわざ言うまでもなくすっ飛ばせる方がありがたいんだけども、そこまで言ってあげなきゃわからないほど、メディア解釈力の低い健常者が圧倒的に多いっていう現状がある。この世はソニーの担当者みたいなソコツ者であふれてるかもしれないのだ。だからこそ、その現状に合わせて、しょうがなく言うんだけど、言いかたにはよっぽど気をつけたいし、よっぽど気をつけてもらいたい。
親御さんたちや療育関係者などに「この子たちは純真でウンヌン」という言いかたをされたりすると、私は非常に屈辱を感じる。「おう、そうかい、無能で世間知らずで実行力がないから安心だっていうのかよ。くそー、人が気にして直そうと努力してるのに、それをわざわざほめるか?」と思わずにはいられない。難病で寝たきりの子どもを指して、「この子はウロチョロ勝手に走り回らないし、よそ様の物を触って壊すこともないから助かります」なんて誰も言わないだろうに、なぜ私たちの無能さはこんな形で取り沙汰されるのだ? 気にしているんだから黙っていてもらいたい。
一方で、私たちの攻撃性とか残虐さだって、無視せんでほしいと思うし、実際に暴力をふるう人や法に触れる人もいるわけだから、彼らやその身内に肩身の狭い思いをさせるような言い方はしたくないし、してほしくない。「仲間じゃない」とか「イメージを悪くすることをしてくれて」とか言って排除するような言い方は許せない。診断名とはそんなご都合主義のものじゃない。うちの子だけ良ければいい、うちの担当の子どもたちだけ良ければいいって発想は許さない。
それでも、世の中の皆さんのメディア解釈能力には限りがあるという現状があるおかげで、こんな当たり前のことを、(しかも、言いたくもないのに)こちらは言わば「言わされている」わけですよ。
この件に関しては、よく「門眞 一郎先生」と誤読されることで有名な門 眞一郎先生の書き方が、一番ニュートラルで無害だと思ったので引用。
「ここで確認しておきたいことは,アスペルガー症候群の人の大部分が犯罪とは無縁だということである。それは健常者の大部分が犯罪とは無縁であるのと同様である。」(全文は、こちら)
これくらいで、私から見たらぎりぎりの線だな。
■付記。記事について。
文中にある「患者」ってのは私のことらしい。この用語は非常に不愉快だが、まあ黙っているメリットの方がデメリットを上回ると思うので、とりあえず放置することにした。
それに、「保護者や専門家の指摘で」という表現じゃなかったのはそれなりに評価できる。これまで私たちは「守られる対象」としてしか見られないことが多かったし、たとえ「本人」も入れてもらえたとしても、オマケのように扱われるのが普通だったから。
実際には、抗議した人数としては、もちろん保護者や専門家が多かっただろうが、言い出しっぺは当事者だったということで。
(注1)これはけっこう、私としてはごくごく正常な、通常の反応だと思う。文字とは意味以前に字づらであり、音声言語とは言語以前に音韻なのだから。これを、「ことの重大さがわからない」だとか、さらには逃避だとか防衛だとか解釈したのでは、自閉ってものを間違えると思うよ。
(注2)私が「自閉って多分に身体の障害でもある」と言いたがるのは、精神の障害より身体の障害の方が語りやすいからでもなければスティグマが軽いからでもない。「精神の」とだけ言われたのでは、自分の身体を扱いかねている日々の苦労を「ないこと」にされた気がするからにすぎない。膝掛け毛布をかぶせられてしまったが最後、組んだ両脚をほどくことができず、立ち上がることもできない私、体温の調節に苦しむ私、喉の渇きに気づきそこねて脱水に陥る私、嚥下にも嘔吐にも人一倍もたつく私はじゃあ何なんだよってことになるからである。
(注3)(まあ、「他人の受けた痛みを共感できない」という点については、情報としては別に異論はないのだけれど。だって、別に共感などできなくたって、要するに、共感したのと同じ効果を上げる行動が結果的にとれさえすれば文句はなかろう。私は、共感の代わりに、暗記という効率の悪い方法で間に合わせることのできている自分を誇りに思っている。だから情報としては異論はない。でも、「他人の受けた痛みを共感できない」というフレーズは、単に情報として流通するわけではなく、何らかの連想を背負わせる意図があって選ばれたものに違いない。この表現は非自閉者が非自閉者に向けて自閉者を誹謗するもののようだ。だから私は、感情はニュートラルだが、知的な操作の結果、不快に思う)。
(注4)私は「異常」とよばれること自体は、別に不快ではない。周囲を規準にとれば、確かに私は「異常」には違いないので。ただ、周囲を規準にして比較される構造が当然視されていること、対等に扱われていないことは失礼だと思い、その傲慢さを不快に思う