館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)館長はただ自閉連邦市民として生きているだけではありません。体内にADHD共生体を共生させている「ホスト生物」でもあり、二重国籍者として地球に生きる地球市民でもあり、地球人の男性と結婚生活を送る猫妻(犬や野菜と違って、猫や観葉植物と同様、実用の役には立たず、存在自体にしか意義がない妻)でもあります。また、連邦市民としては当館の館長を務めるかたわら、生まれ育った地球に恩返しをしながら地球での滞在費を稼ぐため、おもしろそうな原書を発掘しては日本の出版社に紹介し、翻訳することを生業としています。そして、おいしい食べ物とコーヒー、花と香水、レトロな建物、軌道のある乗り物(特にモノレールとトラム)が大好きです。この記録は、そんな館長の地球生活の記録です。一人の自閉者としてだけでなく、ADHD的特性をかかえて生きる者として、出版業界に生きる者として、一読書人として、ただの食いしん坊として、贅沢者としての毎日を記録していきます。

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1月17日
何を考えているんだか……(12月10日の記述)。

いや、このヒトの考え方のせいじゃなくて、出回っている情報の配分が偏っているせいなんだろう。それも、当事者じゃなく、ウォッチするだけの非当事者の所まで届く情報となれば、その比率はさらに偏ってるんだろう。

その、比率が(個々の内容が、ではない)偏った情報に基づいて想像したら、こういう発想になるのも無理はないわなとも思う。

っていう想像は、少なくとも日本の現状にはあてはまらない。人格障害はともかくとして、精神科には「アスペルガー」や「ADHD」といった品物はそうそう売ってません。この2つの診断名に関していうなら、診たてのできる先生が育ってないから、診断の機会はまだ圧倒的に需要過剰、供給不足の状態にある。新宿のさくらいクリニックの初診予約が2004年まで詰まってることなんかこの方はご存じないのだろう。

最近になって、自閉症を診た経験のない成人対象の精神科医がアスペルガーでないものをアスペルガーと誤診する例が出始めたと杉山先生がどっかに書いてたけど、これだって、診たてのできる人が過少だから起きる過剰診断であって、その本質は専門家の過少でしょうに。

診断どころか、まともに診察してもらう機会さえ、米騒動のごとくもぎとらなければならない現状が知られていないから、こんな空想が出てきてしまうんだな。

まあ、ここまではいいわさ。私だって行政サービスはほしくてほしくてたまらんのだから(はっきり言って療育手帳欲しいです)。ところが。

これも、原理、原則としてはわかるけど、「行政サービスが不在であること」と、「輸入カテゴリーが一人歩きすること」が、何で並べられないといかんのだ? 行政サービスが整うまでは、用語や概念を輸入するのを待てとでもおっしゃるか? 行政サービスは天から降って来たりはしないのだ。英国や米国の行政サービスだって、親の会が運動して運動してもぎとったんだぞ。

いったいこの言葉が誰に向けられてるのか、私にはよくわからん。行政サービス云々は行政に向けられているの? じゃあ輸入カテゴリー云々は? これも行政? 言いたいことはわかるけど、私らに向けて言ってるんじゃないことをもっとわかりやすく表示してほしいっす。私たちは現に、診断されても行き先がなくて困ってるけど、その一方、診断してもらえる所がなくて苦労してもいるし、診断を求めようとしたり、診断してもらえる所を探そうとしただけで「流行に踊らされて」と笑われる、「言い訳を求めているんだろう」と責められる、かといって診断してもらわなかったら「怠けている」「誠意がない」「わがまま」と責められる、そんな場所にいるんですけど。診断してもらえる場所、診断できる専門家の少なさを、私らのお仲間は、待たされるだけじゃなく「笑われる」という形で支払ってるのだ。この論者はその現状を知らないからこんなこと言えるんだろうけど(非当事者たちにはあんまり知られてないことだからそれも無理はないけど)、「輸入カテゴリーの一人歩き」という表現は、お仲間たちがそれでなくてもぶつけられている「流行に踊らされて」という嘲笑と偶然にも矢印の向きが似ているから迷惑なんですよ。そして、診断されてもサービスがあんまり受けられないことだってこっちの責任じゃないのに、この嘲笑の根拠に現に使われてしまってる。「どうせ何もしてもらえないのになぜ診断なんか受けたがるの?」「ナルシスティックな『自分探し』なんじゃないの?」という論法ですな。この論者はその現状を知らないからこんなこと言えるんだろうけど(非当事者たちにはあんまり知られてないことだからそれも無理はないけど)、「輸入カテゴリーの一人歩き」という表現は、お仲間たちがそれでなくてもぶつけられている「何のために?」という嘲笑と偶然にも矢印の向きが似ているから迷惑なんです。行政サービスが整うまでの間も私らは生きておるのだ。

まあ、この論者は現状を知らないだけで悪意はないと思うんで置いといて。何でこういう発想が出てくるのかと思ったら、問題点は3つ。

まず、「帰属処理の安心化機能」の主としては、「親」しか想定されていないこと。アスペルガーにしても、ADHDにしても、当人はしんどいんですよ。で、診断されてないと、本当は症状であるものを、「反抗」「怠け」「当てつけ」「甘え」等々、当人の故意として解釈されてしまうので、なおさらしんどいのです。診断がつくことで(必ずではないけれど)当人がどれほど楽になる(ことがある)か、この論者は知らない。あたかも当人が痛痒を感じていなかったものを、周囲の管理の都合でレッテルを貼られるかのように思われている。それも無理のないことだろう、まだまだ当人の声は非当事者の元に届くほどになっていないのだ。

2つ目は、これらの診断名が使われる文脈として、「子どもが事件の加害者になった場合」ばかりが異様に拡大されて扱われていること。事件の加害者の診断名としてこういった名称が現れることなどごくごく一部であって、事件なんか一生起こすこともないであろうたくさんの子どもたちや若者たちや大人たちの「養生」のために(たとえば、確かに不十分かもしれないが、その少ない行政サービスをもぎ取るための診断書の文言に)日常的に使われている診断名であることを無視して、事件が起きたときの「帰属処理」のことにばかり注目する。いや。無視してるわけじゃないんだよね。この種の診断名は、事件の起きたときくらいしか、非当事者、非関係者(こんな日本語ないかもしれんが、ないなら造語じゃ)の目には触れないのだ。その現状を反映しているにすぎない。

3つ目に、この人は診断名によって親が安心したときに何が起きるかがわかってないこと。診断名がつけば、それに合った接し方への道が開かれるのだ。「わかっていて、そのつもりで接する」ことができる。「わかっていて、そのつもりで接し」さえすれば、それだけで歪まずにすむ子だって多いのに、それが知られていない。少なくとも、アスペルガーなりADHDなり、多数派の人々とは生物学的な差異のある子には、それなりの接し方というものがあって、それは多数派の子に対する接し方とはちょっと違うのだ。ハリネズミにハムスター用の回し車を与えたら小さすぎるように、猫をドッグフードで飼えばタウリンが不足するように、トカゲやヘビやカメには種ごとにそれぞれの適温があるように、カーデシア人には連邦やベイジョーが入居した後のDS9の気温設定は寒すぎるように、私たちは私たちに合った扱いを受けたいのだ。そのことが知られていないから、こんな発想をする人が出てきちゃうんでしょう。「親が安心する」→「安心して手を抜く」という、一方が勝てば一方が負けるっていう構図しか思いつかない人は多いかもしれないが、「自分のせいではなかった」という安心が、親の余裕につながり、子育ての質の向上につながるという、win-win gameも視野に入れといてほしいもんです。

さて、ここまでは、こちら側の啓蒙不足ってことで、反省材料(&発奮材料)にさせていただきますって感じでしたが、どうしても気になる点が1つ。

私も「勝手に直されては私ら絶滅じゃ」と思ってるくらいだから、途中までは「うむ」、と思って見てました。でも、「そういうフレームになれば、『社会』を絶えず俎上に昇らせられる」というのを見て、何か違うって思ったぞ。私らの扱いは、「社会」を俎上に昇らせるための道具ですか?「社会」を俎上に昇らせるのはいいですけど、それは、当事者のサバイバルと楽と幸せのためにであってほしいです。「社会」を俎上に昇らせることが目的みたいな言い方をされるのは気持ち良くないです。私ら、社会を批判するためのコマじゃありません。

この文章の感想は、「気楽ですね」ってとこかしら。何か、先に結論というか、持論のようなものがあって、アスペルガーも行為障害もADHDも豊川事件も、「その前振りに使われた」みたいな気がするの。自分の中に引き出しがあって、それを、豊川事件の本をネタに引き出しただけ。今回、新たに調べ物をしたり、考えたりしたわけじゃない。そんな感じがした。藤井誠二氏の著作は私はまだ読んでないから保留するけど、宮台氏がこの文章の中で藤井氏が「アスペルガー症候群とは何かを明らかにするべく、英国の膨大な症例研究のデータベースを参照している」点を批判してるのを見ると、よけいにそんな気がしてつらい。もちろん宮台氏が藤井氏を批判してるのは膨大なデータベースを参照したことではなく、精神鑑定の結果を疑わなかったことなのだろうけど、それでも、少なくとも藤井氏は「知らないものは調べよう」としたじゃんョ、という気になってしまうから(私はこの点についての宮台氏の藤井氏批判が内容的に妥当かどうかはとりあえず問わない。向こうの論点は「社会」であるらしく、私の関心事の外にあるから、内容については、「知らないし、調べる時間もないから黙ってる」ことにする。でも、「見てて苦痛」です。自分ちの庭で喧嘩された者としては)。

にわか専門家として便乗するのもいいですけど、わかっていてください。あなたにとっては「ネタ」の一つかもしれませんが、私にとっては現実なのです。どうか、そっとしておいてください

1月17日補足
ほーー。香山リカ氏が先輩に叱られましたか。

ここで「(早すぎ?)」なんて先におちゃらけたポーズをとられたら、「早すぎるよ!」って言いにくいんですけど。「早すぎるよ!」って言った側がギャラリーから「無粋」っていうレッテルを貼られることになりそうで。

ああ、あれからもう1年もたったんですね。でも、ADHDやLDの当事者、関係者は忘れていませんよ。悪いこと言いませんから、臨床に復帰なさるのはお止めになってはいかがでしょう。あと、「創」の2000年12月号の部分、単行本に収録するときには削除なさることをお薦めいたします。まあ、そのまま置いといて、数年後に恥をかいてもらうってのでも私はかまわないんですけど。

1月18日
地球人ホストファミリーの部屋」に、ちびくまママさんの「12月が来るたびに」を追加しました。

1月18日補足
なんかこう、こういうことがあるたびに(17日、18日の日記参照)、意識の切り替えの遅さは論争には向かん脳ーと思う。もともと論争が好きじゃないんでいいのだが。要するに、時々刻々と状況が変わったり新しい発言が現れたりってのをウォッチし続けるのが負担なのだ。相手が何か言ってきたらその段階で反応を考えなきゃいけないってのはもっと負担。いっつもいっつも「対応する」ばっかりになりそうで。

そう、「対応」ってのはシンドイ。自閉っ子の親御さんとかで、「自閉『症』」という用語の間違った使い方を見つけるたびに訂正を迫るなんて努力を地道に続けてる人たちもいる。私にはああいうのができない。「対応」ができないんじゃなくて、「何かあったら対応できるような態勢を整えて何もない時期をすごす」ってのができないのだ。何もないときの生活が既に綱渡りだから。だから「アリバイ闘争」もできない(「対応」がアリバイ闘争だって言ってるわけじゃありませんよ)。

で、「対応できる態勢」のほかに、ペースの問題ってのもある。雑誌や新聞、テレビなんかで論争してるヒトたちって、いや、論争しなくたって週刊誌に連載持ってたり、週に1回テレビやラジオにレギュラー持ってる人って、すごいなあと思う。あ、もっとすごいのは新聞に記事書いてる人か。私は頭のペースが単行本か月刊誌に設定されてるみたいです。あははは。私がどっかに連載持つとしたら、絶対、月刊誌でしょう。週刊誌だったら、4〜5本まとめ渡ししそうだ(笑)。

ところで、「館長公室」ではがれっぱなしになってた大きい方のバナー、貼り直しました。欲しい方はどうか持ってってください。あと、直リンクしてた方、画像のファイル名変わってますんで、修正お願いしますね。

1月20日
仕事疲れでぼーっとしている。カラダは疲れているのだが(特に手首と手の甲と尻と目)、頭の中はいつまでもざわざわぴりぴり。

今日は妙に暖かかったせいか、またしてもカラダが季節を間違えたらしい。突然、「豆ご飯食べたいーっ」「イチゴ食べたいーっ」ってことになって、閉店まぎわのスーパーへ駆け込み、値引きになってもいないエンドウとイチゴを正価で買ってしまう。久々の大散財。それも、季節はずれのハウス栽培物。ナニやってんだか。

でも、ここのところ「自炊めんどくさいモード」に入ってるので、豆ご飯のほかは、チルド餃子を焼くだけ、厚揚げをゆでるだけ、キャベツの味噌汁でおしまい。あー簡単。

1月23日未明
20日の豆ご飯を最後に、どうやら自炊の神様はそのまま誰か次の人の所へ行ってしまったらしい。その後、作ったものといえばユデタマゴのみ(笑)。

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