館長私的記録(Chief Librarian's Personal Log)館長はただ自閉連邦市民として生きているだけではありません。体内にADHD共生体を共生させている「ホスト生物」でもあり、二重国籍者として地球に生きる地球市民でもあり、地球人の男性と結婚生活を送る猫妻(犬や野菜と違って、猫や観葉植物と同様、実用の役には立たず、存在自体にしか意義がない妻)でもあります。また、連邦市民としては当館の館長を務めるかたわら、生まれ育った地球に恩返しをしながら地球での滞在費を稼ぐため、おもしろそうな原書を発掘しては日本の出版社に紹介し、翻訳することを生業としています。そして、おいしい食べ物とコーヒー、花と香水、レトロな建物、軌道のある乗り物(特にモノレールとトラム)が大好きです。この記録は、そんな館長の地球生活の記録です。一人の自閉者としてだけでなく、ADHD的特性をかかえて生きる者として、出版業界に生きる者として、一読書人として、ただの食いしん坊として、贅沢者としての毎日を記録していきます。

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1月4日
正月らしい気分になることをあえて避けてた正月だった。

1年に1度正月らしいことをして節目を意識するってのは、毎日毎日の節目をきちんとキープできてる人か、逆に、毎日のリズムなんてない生活をしてるけど、リズムなんかなくたってやっていける人か、どっちかのためにあるんだと思う。日周リズムを切実に必要としてるのにリズムを作れずにジタバタしてる段階の人間がそこを飛び越して年周リズムなんてものに手を出すのは命取りだって気がする。

そんなわけで、起きて、薬を飲んで、仕事をして、散歩をして、薬を飲んで、食事をして、仕事をして、薬を飲んで、仕事をして、散歩をして、薬を飲んで、風呂に入って、食事をして、仕事をして、おやつを食べて、寝て、というくり返しを崩すまい、いや、崩さないという以前に、くり返しのパターンを作ろう作ろうとがんばり続けた年末だった。

それでも、30日に日帰りで私の実家に、1日夕方から3日昼まで夫の実家にと、一応帰省だけはする。テレビが点いていたり、音声による会話をいつ仕掛けられるかわからないから聴覚と音声言語のプログラムを常駐させていなければいけなかったりと、それだけでかなりの処理量。

私の実家は両親ともに新しい物好きの手抜き好きだけに、正月の決まりごとなんてないのだが、夫の実家はしだいに略式、略式になりながらも、一応、お屠蘇などの形を守っている。夫の実家の正月は結婚前に5回、結婚してからは11回なので16回目だが、年中行事だっていう理由で辛かったのは今回が一番だったかもしれない。結婚前の5回と、結婚してから最初の7回の計12回は、日周リズムのアリガタミに目ざめる前で、毎日気まぐれにしっちゃかめっちゃかな生活を楽しんでいた(しんどい面もあったけど、それしか知らないからそれを当然と思ってた)ので、年中行事ってのは物珍しいし、たまには気分が引き締まっていいかってな感じだった。その次の3回は仕事を始めていて、日周リズムが曲がりなりにもキープできていたから、年中行事はその中でほどよい変化として位置づけることができた(別の理由でお正月が辛いことはあったにしても)。今年は日周リズムのアリガタミは知ってしまったわ、かといってそのリズムは守れてないわ、何というかとにかく毎日毎日、日常生活を送ること自体が課題であり闘いであり、という状態で、正月行事は日周リズムを乱す外敵って感じ。

起きて、薬を飲んで、散歩をして、薬を飲んで、食事をして、薬を飲んで、風呂に入って、食事をして、おやつを食べて、寝て、という営みが、なぜこんなに難しいのだろう。仕事の方が、まだそれほどでもないのに。それなのに、世の中の側には、日常生活は易しく、仕事は難しいという思い込みがある(私だってかつてはそう信じていたくらいだもの)。

仕事を手すりにして、仕事を縄バシゴにして、どうにか生活にしがみつくことができている毎日だけれど、去年は何だか水硝子の中を歩いているような1年だった。どこまで行けるかわからないけど、とにかく、スヌーピーの科白を借りれば、配られたカードで勝負するしかないからね。私はまだまだ、自分で何とかできる部分はあるはずだ、何とかできる部分は何とかしてみせるぞという気はなくしておりません。薬を飲まないのが自力でがんばることだとは思わないし、それよりも私にとっては、薬を忘れないこと、薬を上手に切ること、上手に切れなくても途中で短気を起こさないこと、上手につまむこと、上手につまめなくても途中で短気を起こさないこと、上手に嚥下すること、飲んだ後で、飲んだかどうかを記憶するあるいは記録すること、いや、それ以前に、薬の時間に起きられるように寝ることが闘いなのだから。

……って、こんなことを書いている尻から気がついた。今日の夕方の薬、忘れてるし……。マッタク、日記にオチをつけるために無意識のうちに失敗をするとは、無意識のレベルでまでサービス精神がシミ込んでいますな。さっさと更新終わらせて、薬飲もうっと。

1月4日補足
更新をすませて画面を確認してみると……自分でカウンター10万を踏んでしまいました。あらま。私は8っていう数字が好きなので、88888をのがしたときはとてもさみしかったんだけど、今回は8も入ってないし、一所懸命チェックする態勢に入ってなくて、もうちょっとで見逃すトコでした。

本当のこというと、キリのいい数字とか、ゾロ目の数字とか、うれしいとか面白いとかいうよりも、気持ち悪い、怖いという感覚の方が先に立っちゃう人間なので(88888だって、大好きな8がいっぱい見られるのはうれしいけどやっぱり怖いし気持ち悪いの)、踏んだのは夫が在宅の時で良かったです。

心身ともに体の調子が良くない(ある人が使ってた表現です。気に入ったので愛用してます。心も体の一部分という感じがして、こういうときに合うので)日が続いているので、せめて安くておいしいものでも食べなくてはってことで、今日はおでん。ほとんどがもらいものと赤札商品でできてるおでんです。おでんの材料費2人で100円(笑)。こんにゃくとジャガイモと餅がもらい物だったからね。

1月5日昼
昨日、日記を更新したとき、リンクを貼り直すのを忘れていて、このページが浮きページになっていた。さっき、リンクミスは無事に修正したけれど、わざとじゃないことをわかってもらえるだろうか。

昨日、このページに入れなくて「おかしいな」と思ったかもしれない、私の知らない方々、全員へ。入れなかったのはあなただけではありません。あれはミスで、ほかの90人ほどの方も入れなかったのです。あなたへの個人的な攻撃ではありません。そもそも、私はあなたのことを知らないのです。あなたに嫉妬する材料を持ちません。

そして、昨日、このページに入れなくて「おかしいな」と思ったかもしれない、私の知っている方々、全員へ。入れなかったのはあなただけではありません。あれはミスで、ほかの90人ほどの方も入れなかったのです。あなたへの個人的な攻撃ではありません。私には今のところ、嫉妬している相手はいません。

さらに、昨日、このページに入れなくて「おかしいな」と思ったかもしれない、私があなたを知っているか私があなたを知らないかがわからない方々、全員へ。上の2つを足しあわせれば、どちらにせよ、あなたへの個人的な攻撃ではありません。

1月5日午後
今日は土曜日。あと3日。通院の日を、指折り数えて待つ。あと3日待てば、主治医に言える。

これさえも、恵まれていすぎて申し訳ないのかもしれない。まともに頼りにできる医者にかかることができていることも。

1月5日夕方。
お正月は病院が1回休みなので、ちとツライ。

というのが、主治医や夫との関係に求めているのが、「関心」や「注目」ではなく、「リアリティ・チェックの相手」だという解説でした。解説終わり。忘れないうちに本題に戻る。病院が休みでツライという話だった。

でも私はまだまだ、自分でできることはあるぞという気をなくしていない。仕事をする。病院にだって行く。薬を飲む。ブロッコリを食べる。チーズを食べる。ゆでたまごを食べる。ダウンベストも着る。シャツも重ね着する。お茶も飲む。マッサージ椅子にも乗る。楽しかった話を思い出す。パンを食べない。じゃがいもを食べない。リタリンを飲んでいるときはカフェインレス以外のコーヒーを飲まない。お正月なのにつらいが、お餅を食べない。お砂糖はほどほどにする。でも、クリームチーズたっぷりのチーズケーキは頼もう。それから、洗濯用の洗剤はもっと香りの残らないのを探すぞ(引っ越しでこれまでの店と縁が切れたので、同じ液体石けんが手に入らなくなったのだ)。その代わり、ほしかった香水をいくつか買ってやる。エイプリル・フォーエバーはあきらめたが、ソプラーニの「ソロローザ」と、「ローズ」と「フリージア」。順番に買ってやる。

私には底力がある。私はけっこうタクマシイと思う。そう、大阪女はタクマシイのだ。私は自分の底力を信じている。そして、タクマシく生まれついたことは私の罪じゃない。ただ、幸運だったにすぎない。ラッキーであることは、私の罪ではないと信じたい。タクマシさってのは汎用性があるので、タクマシさを利用して罪を犯すことは可能だとは思うけど、タクマシさを持っているだけでは罪じゃないと信じたい。いや、タクマシさに限らず、すべての属性、すべてのスキルは、持っているだけでは罪じゃないと信じたい。駆け引きだって、嘘だって、できないよりはできた方がいいよ。悪いことに使ってはいけないだけで。「できる」だけでは罪じゃない。ただ、上手にできないなら、良いことにも使わない方がいいけどね。

1年前、今の主治医を紹介してくれたのは言語の先生だが、その言語の先生は4年前、自分で必死で探した。人の紹介もあったけど、その人のことも、紹介してもらえる場所も、自分で検索して調べた。その3年後の1年前、医者にかかる必要があることが言語の先生に伝わったのも、たぶん当時としてはそれなりに必死で伝えたのだと思う。今の主治医に会ってからも、最初から話が通じたわけではなかった。何か月もかかって主治医に私の言葉づかい、私の話しぐせを覚えてもらわないといけなかったし、私の方から警戒心を解き、手の内を明かす決心もしなくてはならなかった。

私だって、自分で投資をしてきたのだ。投資できる程度に最初から底力があったこと、投資できる場所があったことは恵まれていたと思う。でもそれは、私の罪じゃない。ただ、幸運だったにすぎない。ラッキーであることは、罪ではないと信じたい。そして、ラッキーさを活かして先に逃げ切ることで、救援物資を持って戻ってくることができるかもしれない。

ところで、ここで打ち明け話を一つ。「ニキ」という字は、ふだんはカタカナ表記にしていますが、漢字では「新木」と書きます。漢字は2文字とも易しいにも関わらず、「シンボク」とも「シンキ」とも「ニイキ」とも「ニイギ」とも「ニキ」とも「アラキ」とも読める難読姓です。そして、「アラキ」という読みかたは、「あっ、ラッキー!」とも読めるので好きです。だから、「仁木」でも「二木」でもなく「新木」という漢字表記を選んでみました。

それに、そもそも、発音可能な地球名をつける必要に迫られたときに(私の連邦名は「F8」といって、正式な発音がありません。純粋文字言語だからね)「ニキ」という音を選んだこと自体、勝利の女神であるナイキにあやかろうとしたんだからさ。私は勝利したいんだ。誰かにじゃなく。ゼロサム・ゲームだと考えるから自分が勝利したら誰かを負かしてしまったと思わなきゃならなくなるんで、2人勝ちもできるゲームだと思えばいいわけで……。

ラッキーさを活かして先に逃げ切ることで、救援物資を持って戻ってくることができるかもしれない。そのことを、許してもらえるだろうか? 私より恵まれていない人たちにではなく、私の中の罪悪感に。

今、私がこんなに不安定な状態になっていることには、一応、それなりに即物的な理由がある。種明かししちゃったら、ナーンダっていうくらいあっけない理由。龍頭蛇尾のアンチクライマックスのトホホ風味たっぷりで私向きの物語だから、自分で後で読めるように書いてしまおう、忘れないうちに。

昨日の夕食がおでんだったことは昨日書いた通りだが、実は、他の具は煮上がって味もしみた後で、餅入り巾着も入れようと思って薄揚げを買いに行ったのだ。

巾着を作るには、薄揚げの内側を広げるわけだから、なるべくぽこぽこにふくれてる揚げの方が広げやすいわけで、私はふだん、「すし揚げ」という正方形の揚げを使うことにしている。稲荷を作るのに使うから「すし揚げ」っていう名前なんだと思う。こいつは最寄りの市場で4個入り88円。倍の大きさの長方形のが2枚入ってる商品と、グラム数は同じ。袋のデザインもそっくり。

さて、昨日、市場に行ってみたら、「半額」という赤札シールの貼られた揚げが目についた。ニキさんはアラキとも読める新木っていう字を使ってるくらいなので「あ、ラッキー!」と即、半額の袋に手をのばした。すし揚げだということを疑いもせず、持ち帰った。巾着を作ろうと、台所で袋を開けた。正方形の小さい揚げが4個、コロリンと出てくるはずだったのに、コロリンではなく、デロリンという感触が伝わった。出てきたのは、正方形の小さい揚げ4個ではなく、長方形の普通の揚げ2枚だった。

……死ぬかと思った。

自閉の方々、あるいは自閉児・者の療育や医療に関わっておられる方々、あるいは自閉児を育てておられる親御さん方なら、これが自閉者の身体にどれほどの負担をかけるできごとであるか、おわかりいただけると思う。

で、その余波が残ったままの状態でいろんなことを考えていたから、何でも悪い方にしか考えられなかったんだと思うのだ。

それに、その後、お餅は危ないと知っているのに、お餅を食べてしまったし。お餅、好きだからつい我慢できなかったのだ。お餅は、全部夫に食わす。その方が在庫も長持ちするしな。じゃがいもも食べてしまったしな、昨日は。じゃがいもも好きだから我慢できなかったのだ。

1月7日朝。
何だか抗うつ剤の効きが鈍ってきた気はずうっとしているんだけど、それでも一応、1年前の状態に比べたら、確実に効いてはいる。罪悪感はあっても死にたいとは思わないもん。ただ、「罪悪感だけがあってでも死にたくなんない」っていう状態がふしぎなので、知的なレベルですんげぇ戸惑いがあるみたいだ。そしてもう一つ、やっぱりこの罪悪感、どうも自分の内から発してる気がしない。ちゃんとしたルーツのある、外来の物って感じがしてならない。

で、知的なレベルでの戸惑いがいかんらしいと気づいたので、知的なレベルで納得させることにした。まっとうな対策だよねぃ。そして、罪悪感にルーツがあると気づいたんだから、ルーツも特定することにした。これまたまっとうな対策だと思うじょ(こういうのが自力でできてしまうところが私のタクマシイ所ですね)。

で、結果報告。やっぱりねー、この罪悪感とか死ななくちゃとかいう気分(こっちは今はないんだけどさ)って、私の場合、攻撃性の一種みたいです。攻撃性が、外じゃなくて自分に向いてるだけであって、これだって立派な攻撃性。他の人の場合はどうか知らないし、私自身も別のときは別だったりする可能性はあるけど、とりあえず今のこれは攻撃性だなって思いましたです。申し訳ないから死ななくちゃいけないはずなのに、っていうのは、外来の「殺してやりたい」をとり込んだ物にすぎないわけで、自分の内から出てきたものじゃないのよね。だから死にたくならないのも当然っちゃ当然なんだわ。

でもって、その攻撃性のルーツはっていうと、たぶん、他の人たちが他の誰かに対して感じているであろうと私が感じた「うらやましさ」なんだな。他の人たちが他の誰かに「うらやましさ」を感じた段階でそこに攻撃性が伴っていたかどうか、伴っていたとしてもそれが「恵まれている人たち」や「状態の良い人たち」に向けられていたかどうか、それはわからない。でも、そのうらやましさを私が感知した段階で、私は攻撃性に変換しちゃったらしくて。

私自身は、誰かのことをうらやましいと思っても、うらやましいなで終わっちゃって、攻撃性にはならないんですが、自分がうらやましがられているかもしれないとか、自分はうらやましがられる可能性のある立場にいると思ったときに、自分に攻撃性を向けてしまう傾向があるようです。

人によっては、そしてその人も場合によっては、誰かのことをうらやましいと思ったときにそれが攻撃性に結びつくことがあることは、知識として知ってます。嫉妬っていう現象。初めて知ったときはすごくすごく意外だったのを覚えています。意外だったから驚いた。驚いた物は印象に残る。

でもって、そういうことが人により場合により「ある」ってことまでは知ったものの、どんな人のどんなときになのかはまだ知らないし、人がうらやましい相手に攻撃性を秘めているかどうかを見分ける力はありません。現象として「ある」ってことだけ知ってて、見分けかたは知らない。これは、「必要ないときにまで仮想する」ことになりやすい条件が準備されたことになります。

まあ、それ以前に、誰か第三者が別の第三者にうらやましさを感じていると知ったからって、それが自分の中に入ってきてしまうってこと自体、自他の区別がついてなさすぎるじゃん、って思うんですが。いや、別に、私に向けられていると勘違いするわけではないので、自意識過剰とか妄想とか、そういうのではないんですよね。世の中に「うらやましさ」ってものがそういえばあるんだった! って思い出すことで自分の中の平衡が乱されるというか安寧が乱されるというか。フチまでぎりぎりいっぱい水の入った器をこわごわ運んでいるときに、知らない第三者と知らない第三者の間で波風が立っているのをニュースで見ちゃった、みたいな。そういう意味でなら、「皮膚が薄い」って言っても良い気はします。

仕事をしている間は、ニュースが見えないですむので、いいですね。

やっぱこー、「自分はうらやましがられる可能性のある立場にいると思ったときに、自分に攻撃性を向けてしまう傾向」ってのがネックになってるみたいで、だとしたら、5日の日記で書いたような、「ラッキーさを活かして先に逃げ切ることで、救援物資を持って戻ってくることができるかもしれない」っていう呪文は使えるかもしれません。まー、本当は逃げたり生き延びたりするのに「資格」とか「条件」とかがあっちゃいけないはずなんですけど。

やっぱり、こういうときは、ハクサイやカブとベーコンのコンソメ煮を食べるか、フリージアを一束買ってくるか、香水をつけるか、散歩に行ってサザンカが咲いてたら鼻をつっこんでニオイを嗅ぐか、その辺ですね。あうあう。香水っていえば、スルタンがほしい。モダンクォーツがほしい。212がほしい。ベビーローズジーンズがほしい。サンがほしい。ソニア・リキエルもほしいし、アムールドパトゥもほしい。たぶん買わないけど。テスターをしみ込ませた紙だけもらいに行きますかね。

「贅沢は素敵だ」と自分に言い聞かせるために。「贅沢は素敵だ」と納得させるには、体験させるのが一番でしょう。

あうー。しかし外出めんどくさい(爆)。

1月7日昼。
そうか。これって、何かに似ていると思ったら。「自分だけ生き残ってしまったことに対する罪悪感」ってやつに似てるよね。私だけ障害が軽かったから就労できてしまった。私だけ障害が重かったから診断が受けられた。

結局、私の障害、軽かったんか重かったんか、どっちやねん! と自己ツッコミを入れてみたりする。えー、診察を受けて信じてもらえないであしらわれた人のことを思うときは、「自分だけ重かったからずるい」、仕事ができなくて困っている人のことを思うときは、「自分だけ軽かったからずるい」。

じゃあ、診察を受けに行ったら信じてもらえなくて、仕事もできないで困ってる人のことを思うときは……? う。う。う。ちゅどーーーん!

今、「貢献」って何?「恵まれている」って何?「恩返し」って、何? っていうのをずっと考えているところです。もう一つ、「生き残る」「生き延びる」って何? ってことも。これからしばらく、そういう仕事をしていきます。

私って、結局のところ、幸せ者だと思うんですよ。とにかく毎日、幸せだもん。恵まれてるとも思うんです。人との出会いにも、物との出会いにも、情報との出会いにも。本当にすてきなめぐり合わせばかりで、マジで感謝してるんです。そして、そのアリガタミを感じる能力があることだって、恵まれていることだと思っているの。脳のどこかに何かが起きれば、恵まれていることのアリガタミも感じとることができなくなってしまいかねないわけだから。

これだけ恵まれてて、何の不満があんねん! と言われたら、「何も。」と答えるでしょう。

ただ、恵まれていることを感謝するだけじゃすまなくて、そこに罪悪感を持ってしまうメカニズムだけは何とかしたい。これは不満じゃないんです。私の中にある苦痛だから。「自分が先に助かったずるさを許せない」という病気が、私の中にある。で、これはすごい苦痛だけど、自分で何とかするしかないものだから、不満っていうのとはちょっと違う。

恵まれていることに対する感謝はなくさずに、罪悪感だけふり捨てることってデキマセンカネ。だって、恩返しへの動機は失いたくないから。そして、恵まれているとはいっても、自分からも一応チャンスをつかみに行ったことを、認めてやれるようにはナレマセンカネ。だって、手をのばしてチャンスをつかみに行くことをやめてしまったら、恩返しも何もできなくなっちゃうでしょ?

1月7日昼すぎ。
恩返し(誰に?)ってことで、雀のお風呂の水を換えてやった。

今から、新しい蛍光灯を持って仕事場行ってきます。そう。黄いろい電球色につけ替えるのだ!

1月7日夜。
……と言っておきながら、蛍光灯持って行くの忘れました。ナニヤッテンダカ。

もちろん、仕事はしてきましたです。

1月8日
館長、神経伝達物質の配合がどうも思わしくなく、気分がすぐれませんので、しばらく仕事と家事に逃避します。こんな私的な記録とはいえ、人さまの目に触れる場所に文章を置くんなら、楽しんでもらえる文章を置いときたいと思うのが人情ってモノですが、どうも楽しいことが書けそうにないんで、休みます(って、さんざんクライ文章撒き散らしちゃった後ですけどね)。

ただ、その代わりといってはナンですが、おかずの報告とお買い物の報告を載せることにします。無事においしいものを食べてるっていう証拠に。あと、雀のことも書くかも。

そう、ここんとこ、「私はこんなに人との出会いにも恵まれ、仕事にも恵まれているのに、何がいけないんだろう」って考えてて、「足りないのは、動物か、植物か、宗教か、3つに1つだ」と思ったんですよね。植物は枯らすの大の得意だし、動物飼うのも殺生することになりそうで自信ないし、でも外の雀に水をやるくらいなら大丈夫かなって思ったので、スープ皿に水張って雀の風呂屋を始めたのです。しかし、雀って、この寒いのによく水風呂なんて入る気になりますね。

今日の晩ご飯は、鮭アラの粕汁、筑前煮、三度豆の煮びたし、グリーンアスパラ塩ゆで、ししとうのジャコ煮、カリフラワー酢漬け。

あっ、そうだ。昨日忘れた蛍光灯。今日持って行って取り替えてきました。青白かった蛍光灯を、電球色に替えました。やっぱり電球色はいいよね。あと、100円均一で紙のゴミを縛るヒモも買ってきました。

1月9日
仕事が逃避になりうる理由。地味な作業だから(笑)。

効率が悪くて地味な作業っていいよね。棚ボタじゃないぞ、労働したんだぞ、って確認できて(宝くじみたいに最初から棚ボタとして位置づけられてる棚ボタならいいんだけどね)。思いつき、アイディア一発! で勝負の職種の人たちって、「これは不当な成果かも?」っていう落ちつかなさとどうやって折り合いつけてんだろ? 私だって本当はめんどくさがりだから、アイディア一発! ってもうけ方には憧れるんだけどなー。

私の場合、今の罪悪感は脳汁(「のうじる」と読みます(笑)。ちなみに掌にかく汗は「てじる」。キタナくもジューシーな呼称で気に入ったんで採用)の配合バランスがいかんのだとはわかっているんだけど、震災の後とかサリン事件の後などにも似たような罪悪感にかられた人たちはいっぱいいたんだ。たぶん戦争の後にもね。

朝はヨーグルトとゆでたまご(6分ゆで)を食べました。今からコピー行ってきます。

1月10日
今、大変なことを思い出した。そういえば私は「アイディア一発!」の部分を切り捨ててはサバイバルさえもかなわないハズなのであった……。いや、アイディアだけでもうかることはないんだけど、座って地道な作業にいそしんでるだけで「地道な作業」が向こうから転がり込んでくるのは、よほどの技量と評判と信用と名声のある人たちだけの話。技量も評判も信用も名声もまだスタート地点の私は、アイディアと情報でゲタを履くことでようやくこの世界のハシッコにつかまっているのに。謙虚な姿勢ってのは確かに優雅だが、技量と評判と信用と名声があり余ってる雲の上の大先輩たちだけにしか許されない特権なのだ。

ま、私は今、気分がヘコんでいるがゆえに、本当にあれもこれもダメダメに見えているのを正直に記述してるにすぎないんで、厳密にいうとこの現象は謙虚さとは別物なんだけど、結果的には謙虚さと変わんないものになるもんな(自己評価が入力の部分で低下するのが「ヘコんでるが故の疑似謙虚」で、出力の部分で低下するのが「謙虚」だという違いがあるにせよ、この区別は当人しか知り得ないことだし)。

そう。私はお勤めができないから、一人で静かに働くにはフリーになるしかなかった。フリーっていう就労形態と謙虚とは両立しないのだった。地味な作業と、「アイディア一発!」な作業とは車の両輪。どちらがなくても回っていかないはずではないか。しんどいけれど、「アイディア一発!」の部分にも少しずつ油を注してやらなくてはねぇ。

昨日(9日)の買い物は、白ネギ(見切り品ワゴンで)58円、低脂肪乳(部分脱脂乳)1リットル88円を2本。小計234円、税込み245円。別の店でロッテのお菓子クリスマス・迎春用ファミリーパック(チョコパイ、カスタードケーキ、ふんわりチョコケーキ各11個入り)の売れ残りを2袋よりどり500円(1袋だと278円)で叩き売りしてたので、チョコパイ2袋、カスタードケーキ1袋、ふんわりチョコケーキ1袋買いだめ。1050円。買い物、計1295円。大散財だけど、44個あれば、当分は寝しなのオヤツに不自由しない。

夕食は、ハクサイと端ハムのコンソメ煮、ピーマン入り炒り豆腐、焼きギョウザ。それに残り物(というより常備菜か)が筑前煮、三度豆のおかか煮、シシトウのジャコ煮の残り。

寝る前のおやつ、ミルクココア1人1杯とチョコクッキー(年末にもらった、到来物のお裾分け)1人1枚。

今日(10日)の朝はゆでたまご、カリフラワー酢漬け。夫の弁当は焼きギョウザ、端ハム炒め、三度豆のおかか煮、シシトウのジャコ煮、筑前煮、チョコクッキー1枚。

昼は押し麦とマンナン小町のブレンドご飯(まとめ炊きして冷凍してあったもの)、三度豆のおかか煮。

今日の買い物。果汁100%のミックスジュース、168円を見切り品で半額、84円。同じく見切り品ワゴンでブロッコリー2個入り1袋100円を2袋、200円。本日の特価品、木綿豆腐2丁88円。カタクチイワシ丸干し12匹(冷凍)1串100円を2串、200円(このまんま冷凍)。小計572円、税込み600円。

夜はシシャモ、水ギョウザ、豆腐のキムチ炒めの予定。その他、筑前煮、シシトウのジャコ煮、ブロッコリー塩ゆで、ニンジンの酢漬けなど。シシャモは年末に特売で買って冷凍してあったもの。現在、木綿豆腐に重石をして水切り中。ああ、ブロッコリゆでなくては。めんどくさい……。

明日の夕方までに急いで送らなければならない物があるので忙しい。

1月11日
昨夜の寝しなのおやつはロッテチョコパイ1人1個。飲み物は夫がミルクココア、私はカフェオレ。

今日の夫の昼の弁当は、焼きギョウザ、シシャモ、筑前煮、グリーンアスパラと端ハムの炒め物、ししとう。おやつにロッテのカスタードケーキ。

今夜は夫は職場全体の新年会だそうで、夕食はいらないとのこと。今日は忙しいのでありがたい。私はコブタ注意報か何かでささっと済ませようっと。明日は休みで弁当を持たせなくともよいので、おかずの心配をしなくてもいいし。

1月12日深夜
9日からパキシルを増量しているのだが(一番弱いやつ、前は4分の3錠だったのが1錠になった)、当然ながらまだ変化は見られない。ただ、切らなくていいのが幸せ(笑)。4分の3錠だったときは、まずリタリンを飲んで、15分くらい待って、リタリンが効いてきたところでパキシルを切り、指先でつまみ、飲むというルーティンが面倒でたまらなかったものだが(手先も嚥下も不器用な私には、「切る、つまむ、飲み込む」という作業の途中でミスが多く、リタリンで根気が強化されているときでないと、途中でうんざりして投げ出す危険があるため)、これでまとめて飲めることになったわけで、ものすごーーく楽。

早く増量の効果でないかなあ。何か辛いんですけど。

1月13日
館長多忙につき、コピペでお茶を濁す。日付は11月16日なので、いささか旧聞に属するものだけど。

基本的にはコピペですが、機種依存文字(丸に数字)は小文字のローマ数字に変えました。また、空白行を挿入してあります。

======以下転載======

重大な犯罪を犯した精神障害者に対する、与党PTの新立法制度(仮称治療措置)案に対する見解

(社) 日本精神神経学会
精神医療と法に関する委員会
委員長 富田三樹生

2001年11月16日

 本委員会は、大阪児童殺傷事件に関連して、重大な犯罪行為をおこなった精神障害者に対する政府等の動向にたいして6月24日づけの見解を出した。また本学会理事会は6月24日づけの理事会見解を公表した。それらは、保安処分等の新たな法律による特別対策に反対し、広く指摘されている司法、精神医療双方の問題の改革をすすめることを優先すべきであるというものであった。しかし、政府の特別立法の方針は変わらず、自由民主党プロジェクトチームは10月31日、「心神喪失者等の触法及び精神医療に関する施策の改革について」を明らかにした。そこでは現状についての一定の問題の認識を示し、それに対応する施策として「治療措置制度」の創設がうたわれている。この治療措置制度を、公明党、保守党の政策責任者が入って、11月12日に与党政策責任者会議として報告書(このなかには「治療措置制度」との名称は使われていない)の中に盛り込んだ。なお、この会議には法務省、厚生労働省、最高裁事務総局からの出席もあり、この与党報告書は政府としの方針に反映されることが予想される。この与党案に対して、本委員会は、6月以後の議論を踏まえ見解を明らかにする。

1)与党PT提案の考え方について。
(i)提案されようとしている新立法案の骨格、そのうちの収容処分は1981年12月のいわゆる刑事局案とその骨格において以下の点でほぼ同一である。対象である触法行為を重大犯罪とし、心神喪失または心神耗弱となった者を対象とし、入院、退院判断は裁判所判断(今回は判定機関が設けられる)とするということである。施設を国公立病院を予定しているのも同一である。この骨格は紛れも無く、すでに長年の経過において決着のついていた治療処分(保安処分)である。刑事局案は当時、本学会を含む厳しい反対にあい、日の目をみなかったものである。

(ii)新たな収容処分は、検察官が不起訴処分にしたときは地方裁判所に申し立てる、としている。これは我々や多くの提言が指摘していた、検察官の支配的裁量権限のもとで、司法処理が不透明かつ不公正なものとなっている、という現在の起訴便宜主義の問題として指摘されている事態を何ら改善するものではない。責任能力判断については現在の問題点をさらにあいまいにし、現在簡易鑑定すらうけずに司法判断されているなどの実情をむしろ温存拡大するおそれすらある。出された提案が裁判所判断によるいわゆる司法上の治療処分であるのは問題のすり替えである。裁判所判断であれば治療処分でもよい、という根拠がどこにあるのか、我々は示されていない。

(iii)与党案の第二に「精神障害者医療及び福祉の充実強化について」が位置付けられている。しかし、政策責任を負う与党の提案としてはあまりにも具体性に欠ける。精神科医療において、措置入院制度は行政処分として強制収容のもとにおける医療であるというのみならず、医療保護入院、任意入院も強制入院または行動制限をともなうことがあるものであることから、そこにおける医療は一般水準以上でなければその正当性は得られないとする法理にもとづくべきものである。しかるに我が国においては、ほぼ半世紀にわたって医療法特例のもとにおかれ、先の医療法改正においても精神科医療のみが特例に置き去りにされているのは重大な人権侵害であるとしなければならない。提案のなかに、現状に対するこのような認識が全くないことは深い失望を禁じ得ない。

2)提案の新立法制度について。
(i)新しい立法制度は、国公立病院に新設される専門治療施設への入院処分と保護観察官の監督のもとにおける、いわゆる従来の云い方での措置通院制度によってなる。入院(所)、退院(所)は地方裁判所判断によっている。専門施設は国公立病院の中に設けるとある。「処遇は、より確実な治療効果・病状の判断のもとで入退院や通院の要否が決定されるべきであるという視点から精神科治療を受けさせるものとする」として医療的視点を強調しているにも関わらず、裁判所判断が必要な根拠を示していない。医療判断であるならば、裁判所判断となる必然性がないからである。

(ii)判定機関は裁判官の補佐にとどまるであろうことが予想される。医療的視点が強調されているにも関わらず入院、退院は必然的に公安上の判断に従属するからである。

(iii)この新たな施設の性格(司法施設か医療施設か)は明確に述べられていないが、論理上司法施設ということになろう。あるいは、医療施設ということになれば、知事による行政処分としての現行の措置入院との関係が問題になり、裁判所の公安上の判断と矛盾することになろう。予算、設置基準、国公立病院との関係等、収容期間や刑務所からの移送の有無等詳細は一切不明である。この制度が出来れば、我々が指摘してきた現在の司法、医療の矛盾が集中するのは必然であろうことは容易に予測ができる。

(iv)最大の難点は退院判断の公安上の観点における再犯予測の問題である。予測の展望的研究はなされておらず、判断根拠になりうる予測研究は存在しない。たとえ、高度な確率で予測ができたとしても、間違えた過剰拘禁がまぬがれず、しかもその間違えた事実は誰にも気づかれないままとなる。退院したものに万が一でも事件をおこすものがあれば、過剰に退院判断の失敗が非難され、根拠の無い長期拘留が必然となる。このような人権抑圧が精神障害者であれば許される、と考えることこそが精神障害者に対す差別である。裁判官であればこのような問題のない再犯予測ができるとする根拠は無い。

(v)被害者、またはその遺族には判定機関の審議の傍聴を許すこととする、としているのは十分にその意味と現実的機能が考えられているのであろうか。与党案においては、応報感情から処分の重罰化、収容の長期化を意図しているのであろうか。そうであるとすれば、医療的観点を強調していることとどのような関連があるのであろうか。被害者の権利回復の問題は別途十分な吟味が必要である。

(vi)措置通院制度については十分な検討がなされているとは考えられない。十分な地域医療システムが無いところで、保護監察官に責任をおしつけて何か実効性が期待できるのであろうか。

3)具体的提案
(i)被疑者段階での、糾問主義的な権限を持った検察官による起訴便宜主義が被疑者の人権を軽んじ、精神障害者、精神科医療を司法に従属させ、司法と医療の境界の不明確な相互利用という事態を生んでいるのである。そのような実情を改革するためには適法手続きの考え方を、刑事訴訟の在り方に十分に取り入れることが不可欠である。必要なのは、法律扶助等の飛躍的な拡充や、必要な医療が被疑者、被告人、受刑段階でも保障される人権の向上である。

(ii)法を犯した精神障害者の司法処分を、誰からも検証されない検察官の判断で、一方向的に決定してから、25条通報等で医療に導くという過程に多くの問題がある。もともと起訴前簡易鑑定は責任能力判断を行うためにのみ導入されたものではないのであるから、それを医療判断としての機能を持たせることとする運用の改革を行うことは可能である。医療必要性、医療適応性において緊急性が高い者は医療処遇への転換を速やかに行い、刑事手続きが可能となった段階で刑事への移行を行うようにする。責任能力判断を厳格に行うべきものは正式鑑定を検証可能な形で行うことを追求すべきである。これらの改革のためには現在の鑑定のシステムにも改革(たとえば全国自体病院協議会の改革案がある)をおよばさなくてはならないであろう。現行法のもとでも可能な改革をぬきに、矛盾を特別施設のみに押し込むのは問題を複雑にするのみである。

(iii)現在、犯罪を犯した精神障害者は矯正施設での処遇または措置入院によって収容、入院処遇が行われている。
 矯正施設における精神科医療の実情調査と並行して、早急な医療改革のための整備が必要である。ここにおいても、公権力のもとに強制収容されたものに対する人権上の観点から、水準以上の医療が保障されなけらばならないとする考え方が不可欠である。
 行政処分としての措置入院のみならず、強制処遇を伴う医療が、一般医療の水準よりはるかに低い基準のもとにおかれているのは重大な人権侵害であるとの認識から、医療法改正を行い、地域精神医療体制の整備が具体化されるべきである。

(iv)実態調査について。
 現在早急にすべきことは、指摘されている現行制度における問題の実態把握とその改革の方向を示すことである。
 七者懇談会によって実態調査が提案されており法務省、厚生労働省等においてもそのような調査に積極的に協力、関与すべきである。調査項目はたとえば以下のようなものである。

 国公立病院精神科、措置指定病院の設備、構造、人員等の実情を含んだ措置入院制度の実態、各種通報制度、起訴前鑑定制度、起訴後鑑定等の実態調査を行うこと。矯正施設、医療刑務所等における受刑者、精神障害者の処遇、医療の実態調査を行うこと。
 犯罪を犯した精神障害者の処遇を中心に起訴前、起訴後の刑事訴訟における被疑者、被告人の人権、医療についての司法手続き過程の実情について調査を行うこと。
 それらを踏まえて改革の方向を出すこと。

1月14日
昨日の13日は何だかずいぶん暖かかった。そのせいか、マンションのバルコニーに出て仕事をしていたら、カラダが春と勘違いしたらしい。何だかイチゴとフキとホタルイカとアオヤギとカマスゴと絹さやが食べたくなったのだが、まあ、季節外れのイチゴは高いし、フキとかホタルイカに至っては売ってないし、ってことでガマンした。

ところが、今日になっても、ほかのものはともかく、イチゴと絹さやだけはどうにも忘れられなくて、仕事の最中に「おわーーっ」と大声を上げたかと思うと、財布をひっつかんで市場へ走って行ってしまった。

そしたら、いたみかけのイチゴが2パック、「ジュース用」とかいってえらく安くなっていたので、喜んで2つとも買い占め。傷んでる所をちょんちょんとナイフでほじり、よく洗ってお昼に食べました。マンゾク。

食べ終わってはっと気づく。そういや絹さや忘れてた……。

1月15日
今日はクール便でチーズケーキが届く予定なので出勤せずに自宅で仕事をしてたら、電話。宅配便業者かと思ったら、とある出版社から銀行の口座番号の問い合わせだった。そういえば、もうずいぶん前に、「通帳をどこにしまったか忘れちゃったので口座番号は通帳が見つかってから送ります」とか約束しておきながらそれっきり忘れていたのだった!

いっそ恥をしのんで他の出版社の編集者に電話して教えてもらおうかと覚悟を固めかかったところで、「送信済みメールのどっかにあるはずだ!」と思いたち、検索したらすぐに出てきたんで送りましたよ。その3分後、「何で通帳ないんだろ。ずっと前からさがしてるのに。困ったなあ」と思って、通帳入れてる引き出しを開けてみると……。今どっかで見たような数字が。今メールで送った口座番号と同じじゃない? 表紙には私の名前。でも、この表紙はどう見ても夫のオークション代金用口座の通帳じゃないの。

あうあうあう。そう、これは住友銀行とさくら銀行の合併が悪いのだあ! 私はデビュー当時から印税や原稿料の受取り用に住友銀行の口座を使ってて、マックナイトの表紙を選んでた。夫の給与振り込みと生活費の口座も住友だったんで、こっちは「くまのバンクー」の表紙にしてた。それが銀行の合併で三井住友銀行になったけど、しばらくは住友の通帳のままで使ってたのですよ。夫がヤフオクなんかやり出したのは最近のことで、銀行合併後だったんで、夫のオークション用通帳は最初から三井住友銀行のデザインの表紙だった。

最近、旧住友銀行の通帳のままでは、旧さくら銀行の支店では使えないと知って、三井住友の通帳に切り替えたら、私の印税の通帳も夫の給料の通帳も夫のヤフオク用通帳もみーんな同じ表紙になってしまったのだった。切り替えに持って行ったのは私なのに、そのことは当然覚えているのに、それなのにそれなのに、通帳を探す用事があるたびに旧住友のマックナイトの表紙ばかりを探していたのだった。そして、目の前に新しい表紙の通帳がありながら、ずっと「通帳がないない」「通帳なくしたあ」と思っていたのだった。

正直いって、通帳が見つかったのはありがたいけど、やっぱりこの表紙に私の名前が印刷されてるのはキモチワルイ。どうしても夫のオークション用の通帳に見えてしまう。気持ち悪くて触るのが苦痛。悲しいなあ。手でも洗ってこようかしら。銀行の勝手で銀行名変更したり店舗を統廃合したり、通帳のデザイン変更したりするの、やめてほしいわ、本当に。自閉者の経済的自立を妨げるおつもりか? 印字のフォントが変わるのも何だかなあー。

ついでに、K病院にもお願いします。今度からちゃんと古い薬袋を忘れずに持って行くから、白い袋が足りないからっていきなり茶色の袋に入れるのやめてください。それでなくても新しい保険証の色にまだ慣れてないんだから。

1月16日
昨日の説明じゃ、「そんなの普通じゃないの」と思われたかもしれない。

もちろん、通帳の表紙が変わったのを「つい忘れて」前の通帳を探してしまうってことは、誰にでもあることなのかもしれない。でも、私に起こったことは、そうではなかった。

「つい忘れた」わけではないのですよ。新しい通帳をもらった段階で、「今度から、探すときはこっちを探すんだな」って思いつかないのね。もちろん、「今度から、こっちを持ってくるんだな」とも思わない。「新しい通帳をもらった」ってことは、「新しい通帳をもらった」ってことだけで完結してしまって、次に通帳に関係した動作をするときには全部これが関わってくるんだってことに気がつかないのですよ。よっぽど落ちついて、深ーく考えこまないかぎりは。

だから、新しい表紙の通帳に自分の名前と、さっき編集の方にメールで送ったのと同じ口座番号が印刷されてるのを見たときは、しばらく考えこんだ後、「おわーーーーー! 大発見をしたー」と思いましたね。「そうだったのかぁ! 通帳を切り替えてもらったら、次から新しいのを使うんだから、次からは新しい表紙をさがさないといけないのかぁ!」って、初めて気がついたのです。でも、私にとっては「大発見」のつもりなのに、これが世間一般じゃ常識らしいこと、せっかく威張って見せても「ナニ言ってる」になってしまうんだろうということを思うと、何か切ないというか徒労感がある。いや、子どものときは、威張って見せなくとも、一人で感動しているだけで叱られるのが常だったからなおさら(おそらく、感動したときの動作か表情が異常で、見る人に恐怖か不快感を与えるものだったんでしょうね。今では覚えていないんで確認のしようもありませんが)。

この「よほど考えないと気がつかない」って意味からいうと、小学生のとき、「席がえ」が終わったら、元の座席に戻って着席してしまったのも、これと同じかも。まあ、先生が「今日は」席替えをしますなんて言ったのも悪いんだけどね(笑)。

前にね、玄関で帽子の置き場所を変えたときも似たようなことがありました。

最初、ロッカーをあけて、その中の一番上の段に入れるって決めたのはいいけど、扉を開けるのが面倒だからなかなか実行できなくて、つい床にほっぽって、どっかに見えなくなって、ってことがあんまり続いたから、ロッカーの横の床にカゴを置いて、「カゴの中に放り込む」って決めたのですね。

ところが、「帰ってきたらカゴに入れる」とだけ決めて、出すときのことを決めなかったから、前の通りロッカーを開けては「ないっ!」「ないっ!」と大騒ぎ。足元に見えているのに、目に入ってない。「帰ってきたらカゴに入れる」って決めただけじゃダメなんです。「出かけるときは、カゴから出す」っていうのまで同時に決めないと、そこで応用がきかないので破綻してしまうのです。

自動的には気がつかないのであれば、じっくり落ちついて考える習慣を身につければ学べるんだろうけど、そこが純粋な自閉じゃなく、ADHDが合併してることの不利な点じゃないかと思う。私はADHDゆえの新奇性探索傾向おかげで、周囲をたくさん見る機会には恵まれたと思ってきた。ADHDは退屈に対する耐性が低いから、それが自閉の同一性保持欲求に打ち克って周囲の情報を集めることができたんだと思ってきた。他者を他者として認識しないうちから「いろんな反応をするオモチャ」としていじることで、言語や対人交流の経験だけは(意味が伴わないままであれ)積むことができ、とりあえず技術だけは先に習得できたと思ってきた。つまり、ADHDが重複していたことは、私のASゆえの困難を埋め合わせる方向に働いたことが多かったと思ってきた。でも、見たものをまとめあげる機会は逆に奪われてきたのかもしれない。せっかく集めた情報も、そこから因果関係を引きだそうと思ったら、記憶を時間順に並べないといけない。次から次へと気がそれていては、その作業が行なえない。自閉っ子は「考えこむ」ことで集めた情報を後づけして物を学んでいく。不注意が重なっていると、そこが「場当たり」になってしまうことはないだろうか。

あともう一つ。不安の問題とこだわり(情報の書き換えの遅さ)の問題。普通だったら、「あ、新しい通帳はこれだったんだな」って納得したら「なぁんだ」で終わると思うんですけど、それがなかなかそうはいかない。夫のヤフオク用の通帳と同じ表紙となると、気持ち悪くて触るのが怖い。似ているから混乱するんじゃなくて、「この表紙はこれ」って印象が決まってしまってるから、受け入れられないのです。そこから世界がほころびていくような恐怖。だから、触ったら、そこから手が時空の歪みに吸い込まれてしまいそうな恐怖。

ま、とりあえず、裏返しに置いて、勝手に開かないよう(開くかいっ!)、ぶんちんを乗せてあるのですが、いつまでもそういうわけにもなあ〜。通帳や印鑑を管理できるって、経済的な自立のカナメじゃないですか。プライドっていうか、自尊心にも関わることだし。就労できて、お金が稼げることだけを「経済的自立」って考えるのは狭すぎるっす。計画性を持ってお金を使えないことも、先のガマンができないことも、「表紙が気持ち悪くて触れない」ために通帳を扱えないことも、印鑑をなくすことも、みんな「経済的自立」ができるかどうかに関わってくることだと思いマスデス。ふぅ。

1月16日補足。
ハリセンボンが大発生しているらしい。太平洋側の三重県の話だけど、去年は日本海側の島根県でもあったらしい。似たようなニュースだけど、記事のトーンはずいぶん違う。談話の主が水族館と漁協では無理もないけど。

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