「中央公論」平成20年7月号に,佐野眞一氏の「皇室の本当の危機はどこにあるのか」と題する記事がある。
皇太子妃殿下への批判と皇后陛下への賛美のセットという,よくあるパターンの記事であるが,冒頭にある以下の記載は興味深い。
----引用開始----
今回は危機が叫ばれる平成の皇室について考えてみたい。ある雑誌に美智子皇后の人物論を書くため,宮内庁の高官を取材して驚いた。
この幹部は,『文藝春秋』4月号の皇室についての座談会を引き合いに出し,そのなかで精神科医の斉藤環氏が雅子妃の「適応障害」の治療問題について,「やはり環境を雅子妃にとって過ごしやすいものにする以外,治療方法はないでしょう」と述べた発言を取り上げて,「この考え方を敷衍すれば,天皇制は雅子さま制に変わるということです。到底容認できません」と言ってのけた。
この思い切った発言を聞いて,いま皇室はただならぬ危機的状況にあることをあらためて痛感した。天皇・皇后両陛下と皇太子・雅子妃両殿下の関係は,いまやわれわれが想像している以上に深刻な事態に突入している。
----引用終了----
佐野氏の記事に登場する「宮内庁の高官」が何者であるかははっきりとしないが,「美智子皇后の人物論を書くため」の取材の相手方であるということは,皇后陛下の側近の一人ということになるであろうか。
それにしても,この「宮内庁の高官」が変えられてしまうことを懸念するところの「天皇制」とはどのようなものであるかであるが,佐野氏の記事においては,以下の記載がある。
----引用開始----
民間から皇室入りし口に出せない苦労を重ねてきた美智子皇后は,ある意味天皇以上の存在感を発揮している。いつも天皇を立てることを忘れず,天皇を誠心誠意支えてきた皇后は,津波や大地震の被災者や高齢者,障害者などの「見えない国民」に,文字通り跪いて心を寄せてきた。こうした天皇・皇后の姿が国民の共感を呼び,象徴天皇制という危うい制度を辛くも支えてきたのである。
----引用開始----
現在の天皇制の内容につき,佐野氏と「宮内庁の高官」とにおいて共通の理解の仕方があるのだとすれば,それは「美智子さま制」とでも言うべきものであろうか。
それにしても,これらの記載内容は,「Will」における西尾幹二氏の記事中の以下の記載を思い起こさせる。
(「Will」平成20年5月号「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」)
----引用開始----
しかし先の医師によると,殿下がそういうお言葉をお漏らしになるとそれが報道されて,妃殿下の病気が重くなる,だから何も言えない,そういう網にからめとられたような状況だ,というのだが,果たして本当だろうか。それほどの事態であるのなら,このまま時間が推移していくのはさらに恐ろしいことで,やがて日本の皇室がものの言えない沈黙の網にからめとられていくのをわれわれ国民は黙って看過してよいのか,という別の問題が発生する。
じつは私などが一番心配しているのはこのことで,妃殿下のご病状が不透明のままに第126代の天皇陛下が誕生し,皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい,という身勝手な,薄明に閉ざされた異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している。
----引用開始----
*上記中,「先の医師」とは斉藤環氏のこと。
(「Will」平成20年6月号「皇太子さまへの御忠言 第2弾!」)
----引用開始----
正田美智子という御名は皇統譜に輝かしい一ページを開いた。昭和天皇亡き後,「第二の敗戦」とも言われてきた平成の御代に,何とかご皇室を,そしてこの国を,ここまで持ちこたえさせてこれたのも,この方のおかげである。国の中心に魂のある存在がおられたからである。それを昔の人は「神」と呼んだ。
----引用終了----
内容的に,非常に似通っている。
一体,何故ここまで似通うことになるのかであるが,筆者としては,これらを媒介するものとして,「宮内庁の高官」の存在があるのではないかと想像する。
というのも,西尾氏の「Will」5月号の記事においても,以下のとおり宮内庁関係者のコメントが引用されており,西尾氏はそれに賛意を示しているからである。
----引用開始----
過日,宮内庁関係者から次のような言葉が飛び出したという。
「これはもう雅子妃のご両親がいけません。小和田家は,『皇室の仕事ができないなら,娘を引き取ります』と言うべきでしょう。皇后になったらそれこそ過密なご公務が待っている。勤めが果たせないのなら引き取るのが筋です。」(『週刊現代』3月12日号)
私も同じ考えである。しかしそれにはもう一つ別の理由もある。皇室が日本人の信仰のすみかでありつづける伝統の流れを小和田家によって突然中断される恐れを抱いているからである。異質のものの侵入と占拠が始まりはしないかという恐れである。
----引用終了----
筆者としては,あくまで想像であるが,上記,週刊現代の記事に登場する「宮内庁関係者」とは,中央公論の佐野氏の記事に登場する「宮内庁の高官」と同一人物なのではないかと考えているわけである。
筆者の妄想について,あまり説明をしても仕方がないかもしれないのだが,筆者としては,西尾氏の「Will」5月号の記事と6月号の記事を読み比べて,ある違和感を感じていたのである。
皇太子妃殿下への嫌悪ということではどちらも共通しているし,それは西尾氏の以前からのスタンスでもあったわけであるが,驚くべきは6月号における皇后陛下への賛美である。
筆者の記憶するところでは,「愚劣な評論家(3)」のコメントでも書いた通り,西尾氏は,つい数年前に,皇后陛下について,氏の敵方の黒幕であると仄めかすような発言をしていたわけなのである。
この手のひら返しは一体何なんだろうと思ってしまった。
ただ,ここで筆者としては,次のような妄想をしたわけである。
すなわち,「Will」5月号において,西尾氏は皇太子同妃両殿下を徹底的に批判をし,また,皇太子妃殿下について小和田家が「引き取るのが筋」とする「宮内庁関係者」のコメントを引用し,それに賛意を示す。
そして,その記事を読んだ「宮内庁関係者」は大いに感激し,西尾氏に連絡でもとって,賞賛なり激励なりをしたのであろう。
その際,その「宮内庁関係者」は,おそらく皇后陛下の側近の中でも高い地位にある者であったので,気を良くした西尾氏は,「Will」6月号において,皇后陛下を神と讃えるような賛美を行ったのではないか。
以上は,あくまで筆者の不謹慎な妄想であるのだが,何とも中央公論の佐野氏の記事により裏付けられてしまったかのような気がする。
ところで,この「宮内庁関係者」(=「宮内庁の高官」?)とは何者か。
西尾氏の記事では,「私の第二の提案は,宮内庁と東宮につとめる外務官僚の辞任を実施することである」などと述べているから,外務省出身者ではない誰かということになるのであろうか。
皇太子妃殿下への批判と皇后陛下への賛美のセットという,よくあるパターンの記事であるが,冒頭にある以下の記載は興味深い。
----引用開始----
今回は危機が叫ばれる平成の皇室について考えてみたい。ある雑誌に美智子皇后の人物論を書くため,宮内庁の高官を取材して驚いた。
この幹部は,『文藝春秋』4月号の皇室についての座談会を引き合いに出し,そのなかで精神科医の斉藤環氏が雅子妃の「適応障害」の治療問題について,「やはり環境を雅子妃にとって過ごしやすいものにする以外,治療方法はないでしょう」と述べた発言を取り上げて,「この考え方を敷衍すれば,天皇制は雅子さま制に変わるということです。到底容認できません」と言ってのけた。
この思い切った発言を聞いて,いま皇室はただならぬ危機的状況にあることをあらためて痛感した。天皇・皇后両陛下と皇太子・雅子妃両殿下の関係は,いまやわれわれが想像している以上に深刻な事態に突入している。
----引用終了----
佐野氏の記事に登場する「宮内庁の高官」が何者であるかははっきりとしないが,「美智子皇后の人物論を書くため」の取材の相手方であるということは,皇后陛下の側近の一人ということになるであろうか。
それにしても,この「宮内庁の高官」が変えられてしまうことを懸念するところの「天皇制」とはどのようなものであるかであるが,佐野氏の記事においては,以下の記載がある。
----引用開始----
民間から皇室入りし口に出せない苦労を重ねてきた美智子皇后は,ある意味天皇以上の存在感を発揮している。いつも天皇を立てることを忘れず,天皇を誠心誠意支えてきた皇后は,津波や大地震の被災者や高齢者,障害者などの「見えない国民」に,文字通り跪いて心を寄せてきた。こうした天皇・皇后の姿が国民の共感を呼び,象徴天皇制という危うい制度を辛くも支えてきたのである。
----引用開始----
現在の天皇制の内容につき,佐野氏と「宮内庁の高官」とにおいて共通の理解の仕方があるのだとすれば,それは「美智子さま制」とでも言うべきものであろうか。
それにしても,これらの記載内容は,「Will」における西尾幹二氏の記事中の以下の記載を思い起こさせる。
(「Will」平成20年5月号「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」)
----引用開始----
しかし先の医師によると,殿下がそういうお言葉をお漏らしになるとそれが報道されて,妃殿下の病気が重くなる,だから何も言えない,そういう網にからめとられたような状況だ,というのだが,果たして本当だろうか。それほどの事態であるのなら,このまま時間が推移していくのはさらに恐ろしいことで,やがて日本の皇室がものの言えない沈黙の網にからめとられていくのをわれわれ国民は黙って看過してよいのか,という別の問題が発生する。
じつは私などが一番心配しているのはこのことで,妃殿下のご病状が不透明のままに第126代の天皇陛下が誕生し,皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい,という身勝手な,薄明に閉ざされた異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している。
----引用開始----
*上記中,「先の医師」とは斉藤環氏のこと。
(「Will」平成20年6月号「皇太子さまへの御忠言 第2弾!」)
----引用開始----
正田美智子という御名は皇統譜に輝かしい一ページを開いた。昭和天皇亡き後,「第二の敗戦」とも言われてきた平成の御代に,何とかご皇室を,そしてこの国を,ここまで持ちこたえさせてこれたのも,この方のおかげである。国の中心に魂のある存在がおられたからである。それを昔の人は「神」と呼んだ。
----引用終了----
内容的に,非常に似通っている。
一体,何故ここまで似通うことになるのかであるが,筆者としては,これらを媒介するものとして,「宮内庁の高官」の存在があるのではないかと想像する。
というのも,西尾氏の「Will」5月号の記事においても,以下のとおり宮内庁関係者のコメントが引用されており,西尾氏はそれに賛意を示しているからである。
----引用開始----
過日,宮内庁関係者から次のような言葉が飛び出したという。
「これはもう雅子妃のご両親がいけません。小和田家は,『皇室の仕事ができないなら,娘を引き取ります』と言うべきでしょう。皇后になったらそれこそ過密なご公務が待っている。勤めが果たせないのなら引き取るのが筋です。」(『週刊現代』3月12日号)
私も同じ考えである。しかしそれにはもう一つ別の理由もある。皇室が日本人の信仰のすみかでありつづける伝統の流れを小和田家によって突然中断される恐れを抱いているからである。異質のものの侵入と占拠が始まりはしないかという恐れである。
----引用終了----
筆者としては,あくまで想像であるが,上記,週刊現代の記事に登場する「宮内庁関係者」とは,中央公論の佐野氏の記事に登場する「宮内庁の高官」と同一人物なのではないかと考えているわけである。
筆者の妄想について,あまり説明をしても仕方がないかもしれないのだが,筆者としては,西尾氏の「Will」5月号の記事と6月号の記事を読み比べて,ある違和感を感じていたのである。
皇太子妃殿下への嫌悪ということではどちらも共通しているし,それは西尾氏の以前からのスタンスでもあったわけであるが,驚くべきは6月号における皇后陛下への賛美である。
筆者の記憶するところでは,「愚劣な評論家(3)」のコメントでも書いた通り,西尾氏は,つい数年前に,皇后陛下について,氏の敵方の黒幕であると仄めかすような発言をしていたわけなのである。
この手のひら返しは一体何なんだろうと思ってしまった。
ただ,ここで筆者としては,次のような妄想をしたわけである。
すなわち,「Will」5月号において,西尾氏は皇太子同妃両殿下を徹底的に批判をし,また,皇太子妃殿下について小和田家が「引き取るのが筋」とする「宮内庁関係者」のコメントを引用し,それに賛意を示す。
そして,その記事を読んだ「宮内庁関係者」は大いに感激し,西尾氏に連絡でもとって,賞賛なり激励なりをしたのであろう。
その際,その「宮内庁関係者」は,おそらく皇后陛下の側近の中でも高い地位にある者であったので,気を良くした西尾氏は,「Will」6月号において,皇后陛下を神と讃えるような賛美を行ったのではないか。
以上は,あくまで筆者の不謹慎な妄想であるのだが,何とも中央公論の佐野氏の記事により裏付けられてしまったかのような気がする。
ところで,この「宮内庁関係者」(=「宮内庁の高官」?)とは何者か。
西尾氏の記事では,「私の第二の提案は,宮内庁と東宮につとめる外務官僚の辞任を実施することである」などと述べているから,外務省出身者ではない誰かということになるのであろうか。
本音では「美智子様至上主義が崩されることなどあってはならない」といいたいのが見え見えじゃないですか。
それはつまり、天皇陛下をないがしろにしているのと同じとも取れると思うのですが。
美智子様を持ち上げれば持ち上げるほど、本来の意味での天皇制など薄れに薄れていくということなのですがね…。そういうことまでは気が回らないのでしょうか、この方たちは。
美智子様を持ち上げると、良いことがあるのでしょうね。どんな良いことなのかまでは、私の想像を超えているのでわかりませんが。
あえて言えば、将来皇太子殿下が即位されても、この方たちが懸念する「雅子様制」などには決してならないと思います。
「何をしてもよく、何もしなくても良い」などと、皇太子ご夫妻がお考えになるとでも思っているのでしょうか。
なんと不敬な。
ただ、美智子様が死守してきた、トンチンカンな御公務とやらは、時代の流れに見合うよう、削減されていくかもしれませんがね…。
それが困るのですかね。
お加減お悪かったとのこと、過激なコメントを寄せてしまうことがご負担になってしまうのだろうといつも反省しています。
なるべく気をつけねばと思っているのですが。。。
本日の引用記事のうち
「いつも天皇を立てることを忘れず,天皇を誠心誠意支えてきた皇后は,津波や大地震の被災者や高齢者,障害者などの「見えない国民」に,文字通り跪いて心を寄せてきた。こうした天皇・皇后の姿が国民の共感を呼び,象徴天皇制という危うい制度を辛くも支えてきたのである」
の部分を読み、これを本気で信じている(狂信している?)以上、千代田の高官氏とやらが演出する皇室像に、私が全く共感できないのは仕方ないことと脱力しました。
「立てることを忘れず」「見えない国民に文字通り心を砕いてきた」。私などは、どちらも本当に言葉の上だけ、うわべだけ、形式だけが大事なの?という印象を受けます。
「立てる」という形(その結果猫背になる?)ではなく、一緒にいるお二人の姿からおのずと伝わる夫婦の間のお互いの敬愛のまなざし、信頼と愛情と尊敬の雰囲気の方がずっと良いのに。そうです、私が皇太子ご夫妻を敬愛してやまないのは、皇太子様が、雅子様が、互いに相手を信じ尊敬し合っておられる間柄だということが、ひしひしと伝わってくるからです。立てるという形が大切なのではありません。
また、「見えない」存在に砕く心なんて、本当にあり得るのでしょうか。むしろ嘘になってしまうのではないか、単なる自己満足なのではないかと畏れないのでしょうか。逆に言えば、そのような畏れと共にあるのでなかったら、それは傲慢な自己満足なのではないでしょうか。
結局のところ、両陛下というご存在は、県内の一部が地震の復旧作業に忙しい折に、警備やらに多くの人手を裂き、多額の費用を費やしつつ、予定通りお出ましになられるしかないご存在なのです。急な中止も迷惑をかけ、予定の施行もある種の迷惑とならざるを得ない。そのように難しいお立場からは、まさに「見えない」存在そのものなわけで、そこに本当の意味で心を砕くのは至難のわざ、それこそ、神や仏でもなければあり得ないのではないでしょうか。
まあ、私は今のところ困難を抱えた「見えない国民」ではありませんが、もし地震や思いもかけぬ障害などで「見えない国民」になったとしても、両陛下にお心を砕いて頂きたいとは思わないです。神仏ではない、ただの人間でしかなく、しかも厄介なことに象徴天皇という重荷まで背負われている方の「お心を砕く」の限界は、こちらにもよくわかっています(身軽にボランティアとして動くことすら難しいお立場、お察しします)
見えない国民に無理に心を砕いてくださらなくて良い。むしろ、お互いに愛し合い労り合うお人柄であることが伝わってくればそれで良い。男子を産まない皇太子妃は役立たずだとか、今の皇室になじめずに心を病んだ皇太子妃はあり得ないとか、そんな冷たい雰囲気のない御皇室であれば、別にお心を砕いてくださらなくて構わない。マスコミ報道によれば、両陛下は、今の雅子妃のふがいない姿に国民が不快感を抱いているのではないかと、再三ご心配だそうですが(それで雅子妃を叱責する?)、私などは、結局のところ、両陛下は国民を信じていないのだな、同じものとして心を通わせていないんだな、と感じてしまいます。
病に倒れられるまでの雅子妃が、どんなに努力し頑張って来られたのか、国民の方がよくわかっているのではないでしょうか。絶対に子供を、それも男子を儲けなくてはならないお立場で、なかなか御子の授からない苦しみ、焦り、哀しみ。両殿下が御子を儲けるのに前向きでなかったかのように報道する者もいますが、そんなことがあるはずがないことも、同じ人間ならよくわかります。また、とてもデリケートな問題であるだけに、周囲がああしろこうしろと言うべきではなく、ご当人達の納得とペースにまかせて、むしろそっと見守るべきことだということも。ともかく、あの皇太子ご夫妻なのだから、現状を一番つらく深刻に思われているのは想像に難くなく、だから「不快感」なんて微塵も抱いていないのに、どうして両陛下が先回りして「国民の不快感を心配」という形で両殿下にプレッシャーをかけ、一方で国民の間に「不快感」を誘発させようとなさるのでしょうか。少なくともそこから伝わってくるのは、見えない国民に砕く心はうわべだけ、と言う雰囲気です。身近な存在にすら心を寄り添わせず、国民の善意や知性を全く信じていない御皇室像が浮かんでくるだけです。
結局のところ、両陛下のごく身近にいて、両陛下とマスコミの媒介になっている「関係者」が考える皇室像が、全く私などの感覚からずれている、これにつきるんでしょうね。
ところで話変わって、今回の皇太子ご夫妻のご結婚十五周年を記念して出た写真集は、とても良かったですね(買うのは恥ずかしかったですが)。お写真を拝見するだけで、心が温かくなり、幸せになれる。そんな素晴らしいご家族のお姿でした。
ブログの再開を嬉しくも頼もしくも感じます。
でも、どうか無理はなさらず、ゆうるりとなさって下さい。
今回の宮内庁HPの反論も、開いた口が塞がらないと云うか…反論している宮内庁(反論させている人物)がブザマに回転している姿が目に見えるようです。
どうしてこうも一貫性が無く、矛盾だらけなのか不思議でなりません。
宮内庁というのは「どのように対処すれば皇室は国民の敬愛を受け続けられるか?」と考えて(悪い表現ですが)立ち回る集団だと思っていましたが、現在の宮内庁を見ていると、皇室(反論をさせている人物)のレベルを下げる事しかしていないように見えます。
「皇后を賞賛し、皇太子妃を叩く」と云うのは、非常に見苦しく情けない事ですが、民草レベルに置き換えてしまうと「嫁姑間のよくある話」になってしまうのです。
舅姑が知人に嫁についてネチネチ文句を言い、それを聞いた知人が、他の知人へ面白可笑しく伝える…と云う図式です。
でも、そのような記事も対処いかんによっては、つまりは宮内庁(天皇皇后)サイドからの情報の流し方によっては「さすが天皇皇后だ。民草のように下らない事はしない。病人をいたわり、嫁、孫を分け隔て無く愛おしんでいる。このような家族像こそ庶民は見習うべきだ」と云う事になり「やはり世界に誇れる天皇皇后両陛下だ」と、本音からの敬愛と賞賛に繋がると思うのです。
でも現在は…民草レベルで語るな、とお叱りを受けるでしょうが、とにかく民草レベル、もしかしたら、それ以下かもしれません。
そこらに転がっている下らない嫁姑話と大して変わりません。
(まだ私の舅姑の方が世間様に自慢できます。本当に優しくて尊敬する舅姑です)
確かに御苦労もあるでしょうが、たかだか在位20年の天皇皇后を「これぞ皇室の伝統」と言ってのける軽さも不思議です。
皇紀と云うのは二千数百年の長きにわたっています。歴代天皇の中には、もっと御苦労された天皇もおられます。
そこまで崇めて何が欲しいのでしょうか?
そこまで崇められて嬉しいのでしょうか?
さらに不思議なのは、皇后こそが神であるとか、皇太子妃殿下の治療を優先すれば天皇制が雅子制になるとか、小和田朝になると云う論理です。
あまり書きたくありませんが、それでも敢えて書かせて頂くと、
つまり天皇皇后は、東宮妃すら御せられないほどの無能なのか?
そこまで東宮妃を叩くのなら、何故、最初から徹底的に結婚を反対しなかったのか?
日本国の、皇室の危機だと云うのなら、昭和天皇がマッカーサーと会談した時の気概・器量が、今上には無いのか?
と云う事になります。
そのうちに宮内庁が、
「これ以上言うとさらに誤解を生むので、もう何も言わない」
と言う日が来るような気がするのは、私の考えすぎでしょうか…?
共感の輪さまのお言葉にびっくりしました。私は週刊誌をあまり読まないようにしているので知らなかったのですが、国民が雅子妃に不快感を持っていることを心配なさっているなんて、言葉もありません。
確かに、美智子皇后教の方などはそうかも知れませんが、多くの国民は「ふがいない雅子妃」などではなく病気の皇太子妃と小さな内親王への冷たい対応に不快感を持っているように思います。
美智子皇后も療養をなさったことがおありですが、回復に何年も掛かることはありませんでした。早くに男児を出産なさっていた事で雅子妃とは状況が違うとは思いますが、昭和天皇と当時の宮内庁は対応も早く的確だったということではないかと思います。
慈愛も祈りもあまり日本人にはなじみのない言葉ですが、そういった言葉を振りかざすことよりも、皇太子様のように家族を守り愛するお姿を拝見することの方が深く染み入るものがあります。
私が、皇太子御夫妻を敬愛しているのは言葉ではなく伝わってくるものがあるからです。昭和天皇ご夫妻もそうでした。和やかなお姿を拝見するだけで頑張ろうと思えたのです。どこを目指して行けばいいのか道を見つけた気がしました。
今上天皇御夫妻にも色々あろうかとは思いますが、いつの間にか何かを見失っているように思えてならないのですが仮面を被っていらっしゃるようでよく分かりません。
ブログのアップ、本当に嬉しいです。しかし、どうぞご自愛下さいませ。
私は近頃の皇后崇拝大キャンペーンを、もっとヤレヤレ、と思って居ります。
既にやり過ぎて居りますが、ある意味墓穴を掘り始めているのではないかと思って居ります。
はっきり申しまして、このキャンペーンは天皇無能論の様な形に成って参りました。まるで女帝ですよね。
皇后陛下は大変自我の強い人だと思います。
ご自分の思い通りに生きて来たのではないでしょうか。
その証拠に;
バッシングされれば失語症(?)に成りマスコミを黙らせ、気に入らない事を書かれれば直ぐに宮内庁のHPで訂正させる。
皇太后から苛めに有った、とレッテルを張り国民を味方につける(?)。
大変気の強い性格だとは聞いて居りましたが、ある意味恐ろしい人だと思いませんか。
「慈愛、慈愛、慈愛」皇后陛下の口から出ますと薄ら寒く感じ、東宮ご一家が出て来られますと、正しく「慈愛」です。
西尾幹二は前からご自分と意見が違う人や、好きではない人の事を徹底的にご自分のHPで糾弾して居りました。全く節操のない子供の様な人です。ニーチェでも研究してれば良いのに・・・・・。
小泉前首相の時も気が違ったのではないかと思う位、凄かったです。こう人には吠えさせて置けば良いのです。評論家という人には碌な人がいませんね。
東宮ご夫妻は決してぶれません。言い訳もせず、今の状況をじっと耐えるでしょう。
皇太子殿下のお誕生日の時のご会見が正にそうでした。
マスコミの方々、宮内庁の中の人達はギリギリ歯ぎしりをしたでしょう。
一大キャンペーンをすればする程、東宮家の美しさが浮き彫りに成って来ます。そう思いませんか。
この困難、神様がお与え下さった「立派な天皇に成って頂く」為の試練なのだ、と思う事に致しました。
しかし、全てが滑稽ですね。
ネットサーフィンをしていたら天皇の植樹祭の話題でビックリするような内容のブログをヒットしました。今回の植樹祭での宿泊先、料理がイマイチ評判の悪いホテルだったからなのでしょうか…「ホテルのスタッフは全員外にだされ宮内庁の担当者が全て料理を作った」とありそのブログ主様は「だからおなか壊さなかったんですね」とコメント。
地震により山は崩れ行方不明者の捜索が続く中仕方が無いとはいえ、私は植樹「祭」に出かけるこの人達に嫌悪感を覚えました。
ですが、この話を聞いて、「あ、なるほど」と思いました。千代田派にとって皇族の公務=自分達もいけるタダ旅行なんですよ、きっと。天皇皇后にお付に警備に食事係にきっと医者とかお抱え新聞記者とかすごい人数で移動するのでしょう。おそらく国内の宿泊を伴う公務は毎回そうなのではないのでしょうか?
また別のブログでは去年の植樹祭に参加した感想で「植樹祭というより天皇皇后お手植えショーのようだった」ともありました。これも「あ、なるほど」でした。今上夫妻にとって自分達が主役のイベントは欠かせないんですね。平時の時ならショーでもいいし、イベントを楽しんで構わないけど、隣で大災害が発生しているのにお手植えショーは休めませんって呆れ果てるのみです。
今上夫妻→自分達が主役は欠かせない。千代田派→タダ旅行は欠かせない。
皇太子ご一家に人気が集中するのが許せない人達と皇太子様に代替わりして既得権益がなくなる、もしくは悪事がばれるのが恐い人達が手を組んで皇太子様の一番の宝物である雅子様と愛子様を叩くという構図。
国民が分からんとでも思っているのでしょうかね。人を馬鹿にするにもいい加減にしてほしいです。
追伸。皇太子様をお見送りする愛子様の映像がとても微笑ましかったですね。お父様がいつもお母様を守っていることを良く理解されているのでしょうね。
TVで、健やかにご成長の愛子様を拝見し、東宮ご一家の愛情あふれたお姿に安堵しております。
西田さまのご推察は本当に、何と申しますか、前途多難を思わせるものですが、そうなんでしょうね。宮内庁、宮内庁高官・・・恐ろしいです。
それにしても、現在の天皇制=美智子皇后制なのですね、それが雅子妃制になることは絶対に許せないと。今までぼんやりと感じられていたものが、こうして活字になることで多くの人の目に触れるのは、よいことかもしれません。
雅子妃排除の黒幕が誰なのか。気付く人が増えることになりますから。
某宮内庁職員には困ったものです。
神=美智子さまというのに、美智子さまが抵抗や違和感を感じないわけでないことはわかってるでしょうにと思うと呆れるばかりです。
キリスト教では、人間を神として扱うことは戒められているだけでなく、嫌がられます。
なぜ、キリスト教のことを出したかというと、まず、今の皇室を知るためには、キリスト教をよく知らなければ難しいからです。
なぜなら、美智子さまのご両親や紀子さまの父方のお祖母さまが敬虔なクリスチャンだったことをあげておきます。
美智子さまにとって紀子さまを雅子さまより信頼する相手と思う理由や紀子さまが美智子さまの子育てを参考にされている理由もそういうものが作用しているのではないでしょうか?
キリスト教は、一見、開放的に見えますが、閉鎖的で排他的な部分もあり、無宗教の人、もしくは異教徒の人にとっては、分かりにくいのでその中に入り理解するのにはかなり勇気がいります。
もしくは孤立してしまう可能性もあります。
もしそれで、雅子さまのよさが発揮されず余所者扱いや中傷などが行われているのであれば、お気の毒と言うしかありません。
西田様。新しい記述、拝読致しました。ただ、どうか御身体だけはお大切なさって下さいませ。
晩年の過ごし方、これは難しいものです。いかに見苦しくなくフェイドアウトしていくか。本当に難しいものです。
英国のエリザベス1世。国の礎を築き、それを確かなものとした偉大な女王。この女王の晩年も、なかなか大変なものでした。後継者へと人々の関心が移り、自身の影響力が低下することを懸念し、後継者は最後の最後まで明確に指名しませんでした。また、老い衰えた容貌を隠し、若作りすべく、お面のような化粧を施してもいたということです。おやおやと思いながらも、お面のような化粧をしたなど、どこかユーモラスでもあるなあと、笑みも浮かびました。確かに、国民としては、仰ぎ見るお顔は、生気の失われたそれよりは、生気の見えるそれの方が、元気も出ようというものです。
さて一方、我が国、「お抱えマスコミの讃美」という材料で、ばりばりの化粧を試みているようです。が、こちらの化粧は失礼ながらおぞましい限り。隠すつもりが返って一層、その醜さを際立たせ、見る国民を脱力させてしまう。もう良い加減になされと思うのですが、ここまできたらもう遅い、というところにまで来てしまっているように思われる。残念なことでした。お面のような、本当の厚化粧ならまだ良かったのに。
そういえば、レン様、以前の、子供達が「淋しかったでしょうね」とのご感想を頂いた話のオチ、遅ればせながらお話させて頂きます。今上夫妻が駅前から去った後の子供達の言葉、次の様なものでした。「なあんだ、愛子ちゃんがくると思った。遊んでればよかった。」スウェーデンでもそうでしたが、これを耳にされたら、きっと、とっても面白くなかったでしょうね。
今上夫妻の皇太子時代と現皇太子御一家それぞれに対する、自分が接した子供達の反応、較べてみると何だかです。大昔、御陵参拝の途上あたりにいたことがあり、皇太子時代の今上夫妻、遭遇することがありました。車列が通り過ぎる時、車窓から物凄く元気良く、手をふってらした。それを見ていた子供達、どこのどなたと知ってか知らずか、「ナンかヘンなおばさんだなあ。」フォロー出来なかったことを思い出します。代わって、現東宮御一家。親しみをこめた「愛子ちゃんのパパ、ママ」「愛子ちゃん」という声が聞こえてきます。それでいて、子供の目から見ても、とてもご立派でお美しい御一家と思えるようです。そのような様子を目にするにつけ、小さいうちから、このような思いでお見上げ申し上げる存在を認識できることは、良いことであり、有難いことだと思わされます。親しみと、心からの敬愛の念を、理屈でなく、感じているように見受けられます。この違い、何処からくるものなのか・・・。
これまでにも多くの皆様がご指摘されていらっしゃいますが、国民の「象徴」としての存在であらせられるなら、押し付けがましく、正に「人の不幸は蜜の味」的な「慈愛」だの「祈り」だの、そして「公務、コウム」と喚きちらす、がつがつとした余裕の無い姿より、当たり前のことを当たり前に、日々を大切に、真面目に、自然に、仲睦まじく歩まれるお姿を拝見させて頂ければ、それで普通に良いのではと思われます。加えて、東宮御一家は、心からご尊敬申し上げられるものをお持ちでいらっしゃると私などは思います。
皇太子殿下がブラジルにむけて御発ちになった時のお見送りのお姿、本当に心温まるものでした。色々言う人、いるのでしょうね。覚悟が足りないとか、甘やかしているとか。Shut up!ですね。私にとっては、本当に本当にお可愛らしい、温かい思いに満たされるものでした。この御一家の中に、どれほどに深い、温かい愛情と労わりが満ちていることか。我が身をふりかえり、反省もさせられました。家族とはこのように、温かい、優しい、良いものなのだと。忘れかけていたものを、思い出させて頂きました。このような姫宮様、どれほど愛おしく、ご両親様は思っていらっしゃることでしょう。お母様にしっかりと腕を回され(母をかえりみず、ひたすら父に追いすがっているわけではないのです)、涙なさりながらも健気に手を振られてお見送りなさっていらっしゃいましたね。失礼を省みず、抱きしめたくなってしまいました。今のこの姫宮様に、大人の小型のような型通りのお辞儀をして、お見送りして頂きたい、またそうすべきだなどと、つゆほどにも思われません。
今上夫妻は面白くないでしょうが、この光景で、また、少なからぬの国民の心は鷲摑みにされたのでは。私などは、今から、お帰りになられる時の、お出迎えの光景が楽しみでなりません。そうなると、わざと放映されなくなるかもしれませんが・・・。
そして改めて言いたい。このように感受性豊かになられていらっしゃるのです。周りの下らない波風、少しでも抑えては貰えないものかと。
それにしても、ブラジルに旅立つ皇太子様、皇太子様を見送る雅子様と愛子様、本当にこのご家族は美しいと思います。このとき愛子様は雅子様に抱きついていましたが、まるで「パパがお留守の間は、私がママを守るからね」と言っているようにも見えました。
以前、東宮ご一家の団欒のお写真で、皇太子様と愛子様で雅子様を真ん中にはさんでお座りになっているものを拝見しましたが、このときも、「まるで皇太子様と愛子様で、雅子様をしっかりお守りしているように見える」と感じました。愛子様はまだ小学生になられたばかりなのに、お母様を必死に守ろうとしている…お見送りのときの涙は、ただ単に皇太子様がしばらくお留守になるのが寂しい、というだけの涙ではないように思います。「心細いけど、私がママを守る、ママを苛める人たちは許さない」という思いもこもった涙ではないかと個人的には思いました。
そのような切ない涙を目にして、それでも必死になって東宮ご一家を貶める愚かな大人たちの言動は万死に値します。
私の眼には、愛子様こそが女帝であり、“天照”の名を戴くのにふさわしい方のように映ります。それを認めたくなく、悔しがってキャンペーンを張っているお方が約一名いるようですが…
時々読ませて頂いてはいたのですが、コメントをさせて頂く機会がありませんでした。
遅ればせながらお見舞い申し上げます。少しお元気になられた様で安堵しております。
どうぞくれぐれもご無理など為さいません様にご自愛下さい。
実は私も先月、伊勢神宮にお参りさせて頂きました。子持ちの40代主婦さんの後だったかも知れませんね。私も東宮ご一家のご多幸と、雅子妃殿下と西田さんのご回復を祈願して参りました。大御神さまも西田さん?はて先日も誰かが同じような願い事をして行ったが・・・と不思議に思われたかも知れませんね。(笑)
一読者さんのコメントを読ませて頂いてうんうんと頷いている自分がいました。
西尾幹二氏という人は、とても評判が悪いですね。自分の考えに反している人を見ると、どうも他人の話を聞きかじっては妄想するのか、事実確認も取らずに人格攻撃をやる癖があるらしく、逆に自分が批判される側に立つと門戸を鎖して聞く耳を持たない、つまりは打たれ弱い体質らしい。何だかこの人の思考回路と同じで、支離滅裂なお方のようです。
まぁ評論家なんて他人の褌で相撲を取るような商売ですから、好き放題言いたい放題やっても何も責任は取らない、口先三寸資本金無しのお気楽な商売です。
最近この人のように強烈に中国批判をする人達をテレビで良く見掛けますが、若い人達を煽る傾向が目に余り、確かに中国は問題の多い国ではありますし、感情的になるのも理解出来る部分もありますが、程々にしておかないとと ある種の危惧を感じています。
皇后崇拝大キャンペーンをやればやるほど今上の影は薄くなる一方で、美智子女帝で行けるのなら皇太子殿下の次は愛子さんでも全然OKなのでは? と考える人を後押ししてくれているような気が致します。
だからもっとヤレもっとヤレと思う次第です。
不確かなDNAに固執して複雑化するよりも国民から愛される方・存在感のある方・尊敬出来る方 を重視した方が余程皇室にとっては未来があるのではないでしょうか。
一度成人以上を対象に国民投票の様な物をやるべきだと私は考えています。
その上で皇室典範改正を審議するのなら、国民も納得の上で皇室を支えて行けるのではないでしょうか?
かたやは声高に東宮ご夫妻ばかりを非難し、悪態のつき放題、皇后陛下には美辞麗句を並べ立て、おかしな事に「神」とまで祭り上げ、かたやは唯々黙って耐えておられる。皇太子殿下が泰然として居られるのだけが救いです。温和なご性格だからこそ皇室全体が救われているのです。
妃殿下側にも多少なりとも非はあったのでしょう、ですが、今のこのあり様は誰が見ても絶対フェアとは言えません。
皇太子殿下が口にされた「人格否定」が今堂々とお二人に向かって行われているのです、こんな状況下で雅子妃殿下のご病気が完治されるとは到底思えません。
やはり、ここは「神」である皇后陛下が周りを諌めるべきでは無いのかと思うのですが
何故か中々この「神」は重い腰をお上げにはならないようです・・・・
それにしても宮内庁の反論コーナーを読みますと
美智子さん(私の周囲では普段はこう言っておりますのでここからはお許しを)という女性は細かいなぁと思うのと同時に、非常にヒステリックな女性だと、この頃そう感じるようになりました。どんな時でも自分が一番、全てに置いて完璧主義者でそれが他の者にどう影響を及ぼそうがお構いなし、自分を模倣する者にだけは寛大。
このお方、どこか心を病んでおられるのではないでしょうか?
巷では評価がまちまちになりました。
美智子さん絶対主義者はまだまだ健在です。
功績は皆認めていますし感謝もしています、ですがそういう人達ですらあのお方を批判的な目で見る人も確実に増えて来ています(特に姑の立場である人達)
昔では考えられなかった事ですが。
自分はいつもお利口さんで常に御身大事に安全圏に身を置いて、決して息子を命懸けで守ってやろうとは露ほども考えない自愛に満ちた母親。
こんな巷の評価を美智子さんが耳にされたら眩暈どころか泡を吹いてお倒れ遊ばすかも・・・です。
でも賢いお方です。一度透明人間になって街を歩いて巷の声に耳を傾けられたら如何でしょう。古本屋へ行くよりは余程有益かと思いますが。時既に遅しでしょうか?
みゆうさまのお話を伺い、残念に思いました。
私の親戚で畳職人のおじいちゃんで、昔、宮内庁に初めて畳替えの仕事をしに上がったことがあるのですが、帰ってきたときおじいちゃんは、「もうあそこじゃ、仕事をしないよ」と息子であるおじさんに言ったそうです。
おじさんも、仕事が好きなおじいちゃんが疲れ果てこんなことを言う理由が分からず心配で思わず聞いてしまったそうです。
おじいちゃんは、「新しく替えた畳の上に絨毯をひいちゃうんだ。あれじゃ畳が可哀想だよ」と答えたそうです。
畳は、あの清々しい色や匂い、座り心地を楽しむものとおじいちゃんは、思っていたのです。
だから、新しい畳を大切に扱ってもらえないと思ってしまったのかもしれません。
それと同じように、植樹祭のおり外へ出されてしまった調理師さんたちは職人として辛い仕打ちをされたのではないでしょうか?
宮内庁は、調理師さんたちの気持ちを傷つけるだけでなく職人として相手を信頼することを怠りました。
国民とともに歩むという皇室は、宮内庁やその奥に住む人たちにとって都合のよい形のものに変わってしまったのかもしれませんね。
ご宿泊先に選ばれるほどのホテルですから、お命じになればいかようにも対応できたはずですよね。いつもの手慣れた職員でなければ作れないような不老長寿のメニューだったのか、陛下のご体調を物語る献立を伏せておきたかったのか、どうでしょう。
今に始まったことではありませんが、宮内庁は
肝心なことは言いませんのですね。余計なことはゆるゆるで漏らし放題なのに。実にアッカンベーな人々です。ちっとは誤解を与えないような気遣いをすればよいのにと思います。
この手の記事に思うのは、美智子様が雅子様と直接対決した場合、あらゆる点、ご本人の資質でも国民の支持でも当然勝っているというのが前提なのだなということです。
だから何なのだと思っていたのですが、要するに代替わり後も美智子様が実権を握っているべきなのだという主張であるわけですね。分かりやすくてよろしいのでは。
目下の主張は雅子様が皇后になるのは嫌だということに集約されそうですが、個人的には少々意外な感じもしました。東宮家にしてみれば、雅子様は療養に追い込まれても、愛子様の存在があり、ここ1〜2年はこれまで「象徴」であった美智子皇后と、新たに国民の象徴となりつつある愛子内親王の新旧女王の鍔迫り合いのような様相を感じておりましたが、それにもかかわらずターゲットは雅子妃なのか、と。
前にも書きましたが、バッシングでもなんでも、手元のカードをどんどん切っていってもらいたいと、そんな心境です。最後に残るカードは何なのか。
名も亡き者様のお話を伺って思い出したのは、皇太子様がどこかの施設で職員から「愛子さんのお父様ですよ」と紹介され、皇太子様は子どもたちに「愛ちゃんのパパです」と名乗ったという話です。このエピソードは大変好ましく思ったのですが、しかしながら、皇太子様のことを最初から愛子さまの父君と紹介するのは不思議なことと思っておりました。もしかしたら、その前に愛子ちゃん?愛子ちゃんなの?というやり取りがあったのかもしれませんね。
ただ私は、西尾某氏が批判していた「美智子王朝」には、当時はそれで何が悪いのかと思っておりました。平民出身で血の革命を起こした美智子様。お子様達の配偶者もみな平民で、言わば平民による新たな皇統を作ったようなものでした。キリスト教のことも、特に戦争体験者で皇室や国家神道に複雑な思いのある人たちには受け入れられた要因であり、祭祀ために男系であるべきと言われても、美智子様の言動はキリスト教のそれなのに何をいまさらというものだったでしょう。その意味では、今の賛美の方向は真の意味での美智子皇后の評価ではあり得ません。
「愛子ちゃんのおばあさま」というポジションで、愛子様の女帝への道を美智子様が拓いておけば、「皇祖」になれたかも知れませんのに。
>「愛子ちゃんのおばあさま」というポジショ
ンで愛子様の女帝への道を美智子様が拓いて
おけば、「皇祖」になれたかも知れませんの に。
ゆらり様のご指摘、その通りと思います。女帝どうのという話以前に、孫娘を愛し、労わる「おじいちゃま、おはあちゃま」である様子を見せる方が、よほど容易に国民の共感を得られると思うのですが。可愛いなどと思ってもいないでしょうから、こういうことになるのでしょう。愛子内親王殿下は、お誕生日の折などは、手作りのカードをお作りになり、「おめでとう」というお可愛らしいメッセ―ジを添えて贈られるとのこと。手作りのお菓子などを贈られることも、たびたびだとか。「愛子がなつかない」という愚かなことを言う前に、何故このような微笑ましいエピソードをご自身の口から披露なさらないのか。
思い出されるのは昭和帝。小さかった頃の黒田清子さんが手作りのクッキーを贈ってよこしたエピソードを披露、「味はともかくとして、その心根が嬉しい。」と鷹揚な笑顔と共に、お話下さった。今より権威を感じる会見ではあったが、楽しいエピソードも多かったように思う。自身のイメージを守る為、マスコミを味方につけて徹底的に貶めている、昭和帝・香淳皇后の足元にも及んでいないとは思わないのだろうか。思ってないのだろう。
私の中では、「神」と崇めさせた段階で、全てが終わりました。お得意の素早さで訂正を命じていないところをみると、ご満足なのだろう。人間宣言をしたのは、昭和帝だけというのだろうか。なんという傲慢な方であることか。レン様も仰られているように、長くキリスト教の教育を受けてきた人のすることとはとても信じられない。先の男子作成も含め。「慈愛」だの「祈り」だのという言葉、正にキリスト教的なのです。殊に、「祈り」に関する言及、大昔に私が修道女が自分達の役割として説明した話と違わない。修道女の役割を、皇室の役割になぞらえての言葉と常々思いながら聞いていました。それなのに。
結婚前だったか、「自分は人へ配慮に欠けているような気がするから、そのあたりを補ってくれる人を」と今上は口にされていました。しかし、今こうしてみると、他の誰よりも人への思いやりの判らない人を伴侶にしてしまっているのではと思われてならない。平民出身でありながら、他の誰よりも気取りや権威主義的で、庶民のことなど少しも判っていないような気がする。国民と共に、膝を交えてなどとは口ばかり、全く本心が感じられない。
清子さんが朝スーパーで野菜を買ってかごに入れていた時、前日のものだからと店員が新しいものに交換してくれた。その話を聞いて、すっかり庶民の生活に馴染まれたと美智子さんが目を細められたという話、ありましたね。私は、何故このことが庶民の生活に馴染むことになるのか、さっぱり理解できませんでした。庶民の店員からそのような配慮をしてもらったことなど、私などはこれまでに1度もありません。閉店間際の時間に行き、割引セールの品物を買っている、という話のほうがまだ判るが、と思っていました。が、今はこう思います。美智子さんは、かつて内親王だったことを庶民が忘れず、しかるべき配慮をしてくれたことが満足だったのだと。
国民と共に、なら、東宮御一家は非常に判りやすい形で見せて下さるように思います。訪問先では出迎える人々に近づき、お心のこもった温かいお言葉を下さる(私の知る限り、今上にそういうことはない、学校では、本当に一生徒として、一保護者としてお過ごしになろうとお心を砕く。「宮様」と呼ばせずに、「敬宮さん」と呼ばせることに、何の悪いことがあるのか。だそれでいて、愛子内親王殿下には、子供心にも敬愛、心服させる何かをお持ちと気づかせるものがおありです。私の周りにいる子供達は、ただ気安く「愛子ちゃん」「愛子ちゃま」とお呼びしているように見えないものを感じるのです。本当に、たいした存在感でいらっしゃいます。多分判っているからこそ、千代田派は恐れているのでしょう。
西田様、先刻うまく投稿出来てなかったように思います。先刻のものはお手数ですが、破棄して下さいますようお願い致します。
私は小さい頃から皇室アルバム等テレビで見るのが好きでした。昭和天皇がご存命の頃の暖かな雰囲気のご一家を、ただ単純にいいなあと思って見ていました。
今の両陛下にはそのような雰囲気は感じられません。秋篠宮家も同様です。何か作っているようなわざとらしいような違和感を覚えるのです。誕生日や他の会見でも然り、不自然で嫌な感じが致します。
東宮ご一家、常陸宮ご夫妻、故高円宮殿下・妃殿下だけは違います。ここが自分の皇室に持っていた感情を思い出させてくれる唯一の存在なのです。
テレビで見られるのは主に東宮ご一家ですが、どんな理不尽なバッシングにあっても変わらない堂々とした立ち居振る舞いや暖かな雰囲気にホッと致します。
そして、皇室とはそのような存在でいてくださることこそが大切ではないか、と思うようになりました。ここ数年の両陛下にはガッカリすることが続出です。かつては美智子様大好きだった伯母や60代の方たちにも同じような感想を持つ方が多くなりました。
陛下のよく使われる言葉ですが「速やか」に本来の素敵な皇室に戻られますよう、それこそ祈らずにはいられません。
名も亡き者さまのコメントを読み、皇太子夫妻が愛子ちゃんを優しい子に育ていることを嬉しく思ったことと、今上夫妻の雅子さま憎しによる当てつけのような孫への仕打ちにアタマを抱えているしだいです。
それから、慈善についてですが、雅子さまは、お忍びで、ある病院の小児病棟を慰問することもあるそうです。
それを聞いて、生前の香淳皇后さまのあるエピソードを思い出しました。
災害に遭われ被災した方たちに衣服を寄付されることになったそうですが、寄付された衣服の中には、お子さまたちのお洋服もありました。
しかし、香淳皇后さまは、周囲の方たちに気を使わせないようにと女官に指示されたそうです。
慈善は、見られないようにするから、素敵でかっこいいものなのではないでしょうか?
なんだか、今上夫妻は、「私たちはこうして施しをしているのですよ」と見せつけている感じがしてなりません。
美智子さまが聖書を読み知っている方なら、パリサイ人とレビ人のどちらを祝福されたかわかるはずなのですが…。
昨日の投稿、途中からとんでもない文章になっておりました。この週末、体調を崩して横になりながら投稿したためでしょうか。訂正させて頂きます。
大昔に私が修道女が自分達の役割として説明した話と違わない。
↓
大昔に聞いた、修道女が自分達の役割として説明した話と違わない。
「自分は人へ配慮に欠けている・・・」
↓
「自分は人への配慮に欠けている・・・」
他の誰よりも気取りや権威主義的で
↓
他の誰よりも気取り屋で権威主義的で
庶民の店員からそのような配慮をしてもらったことなど、私などはこれまでに一度もありません。
↓
店員からそのような配慮をしてもらったことなど、庶民の私などはこれまでに一度もありません。
(私の知る限り、今上にそういうことはない、学校では・・・
↓
(私の知る限り、今上にそういうことはない)、学校では・・・
だそれでいて
↓
がそれでいて
お嫁様、お孫様への仕打ち、みゆう様も仰られているように、隣で大災害があったにもかかわらず自分達が主役である植樹「祭」へと出かける感覚、本当に嫌悪を覚えます。この方々の「ご配慮」、訳判らないのです。清子さんの婚約発表は、新潟の地震に「配慮」して延期したのでしたよね。この方達、何に配慮をして、物事をしたりしなかったりするのか、本当に訳判りません。広辞苑などで示されている、日本語の定義づけまでも危うくしないで頂きたい。
どんなに騒がれ、もてはやされている頃でも、正直のところあまり信用していませんでした。本当のところ、人への愛情、思いやり、配慮など、これっぽっちも持ち合わせないということ、改めて確信します。お嫌でしょうが、東宮御一家との比較において、そのことは際立つように思われます。多くのマスコミの意見に反して。一度、実際にお姿を拝すればよいのです。東宮御一家からは、言葉を尽くす必要のない、真実の「真心」が、嘘偽りなく、伝わります。繕いや、誤魔化しがおありにならないこと、本当に良く判ります。一方は、嘘くさくて・・・。正直、失望させられます。本当はマスコミの中にも、判っている人はいるのでは。
しかし、本当に西尾某等々、酷いです。一読者様の仰るように、吠えさせておけばよいと思います。が、こんな無茶苦茶な輩が、公に、好きに吠える場を与えられている。本当に問題です。誰が、こんなごたいそうな場をくれてやっているのか。
こんな下らない輩に「神」と崇めさせねばもたないとは、本当に終わりましたね。
「和」を保つ為に、沈黙を守っていらっしゃる皇太子御一家に、感謝するがよい。皇太子御一家に口を開かせようとしている輩、御一家が沈黙して下さっていることで、どれほど救われているか、まさか判らないのか?
正田英三郎氏の言葉、とても含蓄があります。
残り20パーセントの余白で私たちは許し合い、互いに妥協点を見いだして行けるのでしょうね。
両陛下、宮内庁千代田派、男系護持派は120パーセントの酷薄さで突っ走ってしまわれたと思います。本当にひどい、ひどい、人でなしな出来事でした。
その両陛下は、さながら伝説のゴールへのラストスパートに入られたかのようで、失礼ながら痛々しくさえ感じられます。
今回の出来事ですが宮内庁も震災情報が定まらない中、官産や動員された人々への気遣いや両陛下のダーツの旅をお支えする想いなどから植樹祭行幸を決行したのでしょう。でも、でも提灯行列はあんまりでした。
生き埋めになっている人々、この上ない苦しみの現実に、伝説の添え物のようにバーチャルな礼賛イベントを持ち込まれてしまいました。その構図が露わになってしまいました。
あんまりだと思います。
でも一方でこんな気持ちも湧いてきます。
余白を奪われた私たちですが、ご皇室をめぐる一連のできごとに対して、20パーセントの余白は残しておきたい、というものです。
例えばその余白は両陛下のソフトランディングを願う気持ちでしょうか。そうすることが廻り廻って東宮ご一家をお守りすることに繋がるように思うのです。皇統はどうか皇太子殿下のお血筋から、そう願えばこそ余白を残して見つめたいと思うのです。
今日は途中までしか書けなかったのですが,続きはまた書きます。
それにしても,最近はいろんな情報が次から次へと出て来て,なかなかついていけないです。
皆様のコメントを読んで,世間には,これだけ手強い洞察力と思いやりの心を有している方々がおられるのだと実感し,救われた気持ちになります。
宮内庁関係者なども,少しは見習ったらどうかと思います。
ころんさんへ
今の皇室周辺には,「美智子様至上主義」のようなものを感じますね。
ヒシヒシと。
産経新聞のサイトにて,6月21日付けで「【集う】『皇后宮美智子さま 祈りの御歌』出版記念の集い(16日,東京都千代田区のグランドアーク半蔵門)」と題する記事が掲載されていますが,この記事を読んで,もう何ともという気分になりました。
http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080621/imp0806211835002-n1.htm
派手な出版記念パーティというのは,何とも品がないと思います。
極めて自己陶酔的に盛り上がっている雰囲気は伝わってくるのですが,私としては,いい年をした爺様たちのマザーコンプレックスのようなものを見せつけられたような感じで,あまり気持ちのいい記事ではありませんでした。
それも,本を出した側が勝手に盛り上がってやっているならともかく,前侍従長も駆けつけたとあり,もうなんだか,今の皇室周辺には,分別というものが無くなってしまったのかと,寂しくなりました。
共感の輪さんへ
過激なコメントとのことですが,私自身も,もう随分と踏み込んだことを書いてしまっており,それが負担というわけではないのです。
ただ,皆様のコメントで,非常に思い詰めたような様子を見かけたときに,あまり思い詰めさせることはよくないかなと思うことはあったりします。
>また,「見えない」存在に砕く心なんて,本当にあり得るのでしょうか。むしろ嘘になってしまうのではないか,単なる自己満足なのではないかと畏れないのでしょうか。逆に言えば,そのような畏れと共にあるのでなかったら,それは傲慢な自己満足なのではないでしょうか。
かなり核心を突いた指摘ですね。
公の立場にある者として,まさに常に有していなければならない自戒だと思います。
それを忘れれば,奢れる者は久しからずになると思いますし,また,「両陛下は、今の雅子妃のふがいない姿に国民が不快感を抱いているのではないかと、再三ご心配」というのが本当だとすれば,見えない存在への侮りのようにも思います。
ところで,ご結婚15周年の写真集があるのですね。
今度,本屋で探してみようと思います。
子持ちの40代主婦さんへ
基本的には,「嫁姑間のよくある話」という構図があって,そこに,強い者の側に立って弱い者を叩くのが好きな集団が取り囲むものだから,まさに民草レベルの遙か下の浅ましさを呈していますね。
それにしても,自分を神と讃えられて困惑することはないのだろうか,いくら自分の側に擦り寄る言動であっても自分の家族の一員をあまり非道く罵ることについては反感を有することは無いのだろうか,それとも,もしかしたら,むしろそれらが心地よいのだろうか,などと,そんな疑問が湧いてきます。
がっかり,というのが正直な気持ちです。
田舎の兼業主婦さんへ
薗部英一編「新天皇家の自画像」という本があって,現天皇家の皇太子時代の記者会見の記録などが収められているのですが,これを読むと,お互いを思いやる素敵な家族だったのだなとしみじみ感じます。
それが,一体どうしてこうなってしまったのか。
何とも寂しいことだなと思います。
一読者さんへ
象徴であることの適性と,自我の強さの強弱とは,どのような関係にあるのか。
いずれ考えてみようかと思います。
ところで,ご紹介のサイト,参考になりました。
一流大学の保守派先生のお粗末さをしみじみ感じるとともに,彼らが何やら立ち上げようとしている新興宗教の出来の悪さのようなものも感じました。
奢れる者は久しからず。
こんな言葉が,私の心に浮かんできました。
東宮家には,決してぶれず,じっと耐えておられ,そこに美しさを感じますね。
泥中の蓮だと思います。
明日は皇太子殿下がお帰りになられますね。
みゆうさんへ
こんばんは。
植樹祭での宿泊先のホテルでの出来事に関するブログですが,見つけることが出来ませんでした。
ですので,何とも言えないのですが,私が想像するに,おそらく,直前になって,ホテルのスタッフの誰かが感染症(またはその疑いのある症状)にでもなったのではないかと思います。
そこで,過剰反応であったかもしれませんが,ホテル側としても,万が一のことがあれば大変ですし,あまり表沙汰にならない形で対応するために,宮内庁と相談して,料理担当者の入れ替えをしたのではないかと思います。
ところで,お見送りをする愛子内親王殿下は,とても健気で可愛らしかったですね。
かつらさんへ
お久しぶりです。
黒幕が誰なのかは,さすがに多くの人が気づき始めているように思います。
それにもかかわらず,この傾向は加速していくのでしょうかね。
宮内庁関係者の言動も,ますます露骨になっていくようですし,長い目で見たとき,皇室の歴史における汚点となると思います。
レンさんへ
こんばんは。
宮中祭祀,宮中祭祀とうるさい評論家が,皇后陛下を神のように讃えるわけですけれども,その皇后陛下の精神性が基本的にキリスト教によって形成されていたとすれば,それは何とも皮肉な話ですね。
キリスト教精神の勝利,あるいは優位性を自ら認めているようなわけですから。
名も亡き者さんへ
こんばんは。
象徴としての在り方への一つの解釈として,国民の前に姿を現して賛美されることが務めなのだと考える場合,賛美されることへの依存症というものは,不可避であるのかもしれないですね。
果たして,国民の前に姿を積極的に現さなくとも,象徴としてあり得るのか。
皇太子妃殿下の今の状態は,その人気度の高さということにかんがみるとき,積極的に姿を現さなくとも象徴としてあり得るということを,思わぬ形で実証しつつあるのかもしれません。
もちろん,それが気に入らない人々からは,凄まじい非難攻撃がなされるわけですけれども,それでも人気はビクともしません。
ところで,お見送りのお姿には,私も,とても感銘を受けました。
愛子内親王殿下の可愛らしい健気さも印象的でしたが,父親が仕事に出かけるに際して,母と子が見送るという光景は,私には,微笑ましい日本の家庭の原風景であるように思われました。
今の皇室においては,常に夫婦がそろって仕事をし,また,子供が産まれても母親は直ぐに仕事に復帰しなければならないという,ある意味,ジェンダーフリー的なスタイルが伝統としてもてはやされているようですが,あまり過剰に強調されると,私としては,違和感を感じます。
ハルカさんへ
本当に,このキャンペーンは,いつまで続くのか。
墓穴も,もうだいぶ深くなったような気がしますね。
明日は,皇太子殿下がお帰りになりますね。
愛子内親王殿下も,楽しみにされているでしょうね。
主婦A子さんへ
お久しぶりです。
私の回復を祈っていただいて,ありがとうございます。
今の天皇家については,ごく周囲の世界の中での感覚,雰囲気のようなものを,そのまま広く一般の世界に当てようとしているかのような,危うい油断のようなものを感じます。
やはり,人間は,自分を賛美する者にばかり取り囲まれると,どうしても愚かになってしまうのかもしれません。
また,そのような賛美の空間は,価値観が一つの方向に向くようになりますので,それで突っ走ってしまうというか,一部の宮内庁関係者の暴走ぶりというのは,そこら辺に原因があるのかもしれません。
聖域というものがもたらす狂気のようなものを感じます。
レンさんへ
こんばんは。
新しい畳の上に絨毯というのは,何とも。
いろいろな意味で無粋だなと思います。
http://blog-search.yahoo.co.jp/
・植樹祭のホテル
http://blog.goo.ne.jp/itou-naika/e/c552e9db1306c7e6d70b815b98fcc619
・植樹祭の警備(今回神奈川県警とのことです)
http://edoya2503.blog81.fc2.com/blog-entry-239.html
・西尾氏の提案
>私の第二の提案は,宮内庁と東宮につとめる外務官僚の辞任を実施することである
宮内庁の外務官僚というと先ず陛下の側近である川嶋侍従長が最高位ですね
その記事を読み、違和感を感じました。
香淳皇后は、バラや日本画にも造形が深くていらっしゃり、お書きになられた日本画を出版されました。でも、そこまで仰々しい出版記念パーティーなどされていたのでしょうか?
そして記事の中で「フランスはカトリックの国だから、マリア様。“母性”がよく分かる」というコメントがありましたが、母性と云うのは宗教や人種など超越して、全ての母(動物をも含む)に存在するものだと思っていたのですが…。母性と云うのは、身分の貴賤を問わず持っているものではないでしょうか?
それにしても…美智子皇后がフランス語にも造形が深いと云うの初めて知りました。「英語に堪能だ」と云うのは知っていましたが、今頃になって「フランス語に造形が深い」と言うのは何と申しましょうか。宮内庁は「美智子皇后はフランス語も堪能」だとアピールするのを忘れていたようですね。
しかも渡邉允(前侍従長)も出席したようですが、彼の「プリンセス・マサコ」に対する抗議文を読んだ私は「つまりこのパーティーには、多少の矛盾点は全て無視し(若しくは理解できない)無条件に皇后を神と崇め奉る人達、利用する人達」が集合したのでは…と思いました。
私は小学生の時、天皇皇后が皇太子夫婦だった頃に、沿道で日の丸を振ったことがあります。
小学校へ登校すると、朝から全校児童で日の丸を2本作らされました。材料は全て、学校で用意されていました。
日の丸を作り終えると学校外のバイパスまで出て、何をするのか全く知らされていなかった私達は、バイパス沿いで巫山戯たりお喋りなどして、時間を潰していました。そのうち教師から「来たぞ! 皇太子と美智子さんだ! 黒い車に乗ってるぞ! みんなで日の丸を振るんだ!」と言われて、皆で日の丸を振ったのです。
当時は皇后もまだお若く、幼心に(綺麗! 光ってる! 優しそう!)と感動しました。
その日の感想を作文にしたところ、市から表彰されました。
あれから数十年…あの“皇太子と美智子さんだ!”が、孫娘の新しい生活(幼稚園生活)を心配するどころか批判するような老夫婦になろうとは…年月と云うのは寂しくもあり怖いものだと思います。
産経Web、教えて頂き、ありがとうございました。私も読みました。
この本が出たことは、新聞で宣伝されていましたね。「また始まった。」というのが正直な感想でしたが、Webを読み、もう・・・。兎に角、自分を褒め称えてくれるなら、何でもあり、というわけです。本当に品が悪い。でも西田様も楽しい方でいらっしゃる。「いい年をした爺様のマザーコンプレックスのようなもの」とのお言葉に、抱腹絶倒致しました。(以前、皇太子妃殿下が朝青龍に見えるなどと言った者に、「早めに眼科に行ったほうがいいと思う。」とコメントも、痛快でした。)
この本のタイトルに、「皇后宮(きさいのみや)・・・」とあったのを目にした時、静養先での出迎えで、「皇后様〜!」と呼びかけられた時の満面の笑顔と、ポーズをとって立ち止まった姿を思い出しました。やはり、皇后様、皇后宮、等等と呼ばれることが、大変に嬉しい方なのですね。こうは言いたくないのですが、こういうところ、やはり平民出身なのでしょうか。いや、御本人の性格と思います。失礼ながら、小さい子供がお姫様に憧れて、ごっこ遊びで「お姫様」と呼ばれてはしゃぐ、そんなレベルの感覚と感じました。いつまでもいつまでも、そういうところが抜けてないのですね。以前、瀬戸内寂聴さんが、「常乙女」と呼んでいました。正直、気色悪いと思って読んでいましたが、改めて考えるとなかなか的確だったのかも知れません。良い言葉をつかえば、その「常乙女」とやらなのでしょう。
フランス語に堪能、との話。故秩父宮妃殿下もお話をされていらっしゃいましたが、皇室ではフランス語が重んじられているそうです。きっと、遅ればせながら、いかに、この方が、皇室にふさわしい存在であらせられるか、ということを喧伝する意図でもあるのでしょうかね。このごろの例のキャンペーンの一端、といったところでしょうか。何も今更と思いますが。何方かをびんびんに意識なさってのことでしょうが。
このあまりの自己陶酔と自己愛ぶり、本当にキリスト教の素養がおありなのか。レン様も仰られたように、聖書を読み知っているなら、パリサイ人とレビ人のどちらが祝福されたか、お判りの筈。
チリあくた様、提灯行列をしたとは、本当ですか?言葉も出ません。あんまりです。すぐ隣で生き埋めになって苦しむ人が大勢いた、それなのに、ですか?秋田県も、かなりの被害があったとのこと。その中で、無理を押して迎えた筈。提灯行列ですか?少なくとも、私や私の周囲の感覚とはずれてずれてずれまくりです。
墓穴は深まるばかりです。