空中キャンプ

2008-06-27

「できること」の領域

あるスポーツの種目でひとりのアスリートが世界記録を大きく更新すると、それまで何年かかっても到達できなかったその近辺の記録を出すアスリートたちが、突然、次々に出るというふしぎな現象がある。これはなぜだろうか? かかる疑問を呈していたのは柄谷行人で、たとえば、あるランナーがマラソンで二時間四分台の記録を出すと、その後、短期間のあいだに同じ四分台で走るランナーたちが次々にあらわれる。大澤真幸も同様にこの現象について触れ、初めて二時間四分台を達成した選手と、後続する選手たちの意識の違いはどこにあるのかを論じている。

今までできなかったことができるようになる。なんか、急にできるようになる。実にふしぎである。なんだろうね、これは。なぜ、今までなかなか到達できなかったのか。それが今になって、わりとたやすく到達できてしまうのはどうしてなのか。理由は説明できないけれど、わたしたちは経験則として、そういったことは起こると感じる。考えてみれば、昔のマラソン選手は、途中で立ち止まって、洗面器でごしごし顔を洗ったり、のんびり水を飲んだりしながら走っていた。それがあたりまえだった。もし彼らに「今は42キロ止まらないで走るんですよ。しかも、二時間四分で」と説明したら、ずいぶんおどろくだろう。

昔のランナーたちは、42キロを止まらずに走るなどということを考えてもいなかった。オリンピックに出場するような選手にとってですら、42キロの完走は、端的に「ありそうにもないこと」だった。大澤は、「もし『天才』というものがありうるとするならば、それは、現実に何ものかが実現される前に、それを直知する能力だと言ってよいのではないか」と書いていて、なるほどとおもう。ほとんどの人にとっては「ありそうにもないこと」が、可能であるように直知できる──理屈ではなく直感でそう確信できる──ときに、到達の可能性が生まれる。

今までできなかったことができるようになるというのは、なんにせよおもしろくて、あるものごとがいったんできるようになると、過去の自分はなぜできなかったのかがうまく思い出せないくらいに、それはできてしまう。意識において、ものごとが「ありそうにもないこと」と「できること」の領域に区分されつつ存在しているとして、いったん「できること」の領域の側に登録されてしまえば、かつて「ありそうにもないこと」だったそれは、実現が可能になる。それはかならずしも、個人の意識においてとは限らない。初めて二時間四分台を走ったランナーは、誰よりも先に、四分台という記録の達成を直知し、それをマラソンの世界において「できること」の領域に登録してしまった。これをきっかけに、他のランナーたちが同じようなレベルの記録を出せるようになるのは、それが「ありそうにもないこと」から「できること」へと、公的に書き換えられたためではないかと大澤は論じている。

この「できること」の領域がひろがっていく感覚というのが、わたしはたまらなく好きで、もしこれをもっとシリアスに追求していったら、なにかすごいことが起こるのではないかとにらんでいるのだが、いったいどう追求していいのかがわからない。なにしろそれは、論理的にではなく、あくまで感覚的に直知されなくてはならず*1、つねに集中力のアンテナをきわきわに張っておかなくてはならない。なにかができるようになるとき、それはまさに、あらかじめ「できるようになる」と感じられたからこそできたのであり、なぜそう感じられたのかについては説明がつかないところがある。そこがむずかしい。

*1:この状態を大澤は、「青色を見たときにそれが青いと感じること」だと説明している。われわれはそれがなぜ青に見えるのかを説明することができない。