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「朝目新聞」●やるおと学ぶ零戦 (of 人生VIP職人ブログwww)
【珍説】
『丸』によると,武装,最高速度,防弾装備を含め総合性能を数字にした面白いデータがある.
総合能力零戦21型を100とすると,飛燕72,疾風80,紫電改110となっている.
攻撃力指数をあげても,零戦21型100に対し,飛燕118,疾風118,紫電改144.
疾風を優秀機とするのに,スタイルだけみてはいないだろうか.
【事実】
この数値……アレだね,空前絶後の迷著,三野正洋の『戦闘機対戦闘機』からか.
その表,零戦52型を総合力指数90で3位,P−51を指数77で5位にしてるだろ?
この人,日本兵器の点数を上げるためにあの手この手使うところが涙ぐましい.
性能を指数化するといって馬力で割るとか,重量だけから生産効果を測るとか.
で,指数だからあくまで万能度の目安であって強弱とは関係ないとか言うんだな.
わりと冷静にこういう操作を(ある意味楽しんで)やってるんじゃないかな.
ちなみにこの『攻撃力指数』とかいう大層なシロモノの正体は,
『各機体の装備する機銃,機関砲の口径x門数の合計毎の比』
でしかない.
銃の性能差や装弾数は考慮せず(敢えて考慮しないという姿勢).単なる破壊力の指標にすらなってないと思う.
こんなの真に受けて公の場で発言してたら名誉回復に一生かかるよ.
【質問】
一撃離脱戦法って何ですか?
【回答】
高度の優位から敵の死角に向かって降下,攻撃後はすぐ上昇に移るか,そのまま降下し速度で敵を振り切ってから上昇に移る.
上昇して高度の優位を回復した後,旋回して再び攻撃を繰り返す.
出来る限り高速を維持することが大切であり,敵と同高度で旋回してはならない.
また,編隊空戦では大きな威力を発揮する.
米空軍の場合,レーダーで敵編隊の距離方位高度数を先に探知して,優秀な電波艤装と空中電話で編隊空戦にもちこんで日本機に攻撃をしかけた.
機体性能以上にそれをサポートする運用や装備が優秀だったのが,一撃離脱にもちこめた要因.
日本機の場合,一撃されてからの反撃機動や上からかぶられた場合の回避において格闘戦能力が必要だった.
ろくに連携できない戦闘を余儀なくされた日本機の場合,一撃離脱したら空戦エリアに戻れなくなりそう.
もっとも,零戦でも岩本徹三みたいに一撃離脱でP38をばたばた落していた人もいたし,それにほれ,零戦には,世界最高の相手の上に舞い上がる「悪魔のような」上昇力があった(軽量化のお蔭)わけで,P51だろうがなんだろうが零戦の前で上昇したらおしまいだった.
……って書いてて思い出したけど,サムライ坂井がUSのベテランとの会話で,自分のダイブで逃亡するのを封じるやり方―――追いかける時に少しダイブ気味にしてスピードを稼ぎ相手よりも少し低い高度で追い詰める.相手がダイブに入ればそのまま目の前に来るのでオッケー.上昇して逃げようとすれば,これまた零戦の餌食――を説明したらその相手が絶句して,
「それをされたら自分はやられていた」
と言ったという話を書いていました.
わりと最近(4,5年まえかな?)の文章だったけど.
【質問】
なぜ日本軍戦闘機隊は挌闘戦にこだわったの?
【回答】
渡辺洋二によれば,
「数も無線機の性能も劣った日本機では,米側と同じ編隊による一撃離脱を真似しても不利は明白である.
とる戦法はロッテ式格闘戦であった.
運動性の良さで敵をとらえ,敵から逃げるのだ.
・・・
軽快性に乏しい4式戦にはこの戦法はむつかしい.
・・・
最適な機体がキ100だった」
その評価,明野で隼を使ってロッテ戦の研究やった時にも同じ結論が出たようですね.
ただ,それが出来るのってベテランだけなんですよ.
大多数の新米搭乗員には,運動性を武器に単機戦闘で生き残るのは難しいです.
結局はベテランなんかは隼三型は信頼性があるけどもう少し火力と速度のある機体が欲しい・・・・そこに5式戦が出てきてあれがベストに思えたんでしょうね.
新米はもうわけも分かんないうちに撃墜されて評価もへったくれもなかったでしょう.
疾風に関しては信頼性と出力低下で,後半は「ただ重いだけ」の戦闘機になってしまったか.
(素質がいい戦闘機なのは間違いないんだけど)
【質問】
WW2以前,日本軍機が挌闘戦をしかけて敗れるということはなかったの?
【回答】
昭和3年に日本3式艦戦3機(鳳翔搭載機)とアメリカの民間人ロバートショート操るボーイングとの空戦で,運動性に勝る3式戦は3機でかかって一発も相手に当てられなかった,という事例がありました.
そのときボーイングが勝っていたのは,速度と上昇力だけでした.
源田実等は,この戦闘から教訓を得ることができなかったのしょう.
【質問】
空戦フラップは手動で動かすの?
【回答】
錘馗の場合には手動操作ではなくてボタン操作.ボタンは操縦桿に在ります.
単に丈夫なフラップ,ではなくて,ちゃんと空戦で使える配慮があります.
隼,錘馗では,空戦フラップを使った場合のエネルギーの損失を嫌って,恐らく殆ど使われていないと思います.
疾風では操縦桿でのフラップ操作は廃止されました.
紫電の場合も「上げ」だけは操縦桿のボタンで操作できる様になっています.
ついでに.
空戦フラップは小回り性能を向上させるでしょうが,運動性のほうは逆に悪化しそうな気がします.
当時でもパワーの裏付けのない機動は通用しなかったと思います.
紫電の場合も失速防止装置として見たほうがよさそうです.
(普通なら失速する様な急旋回でも失速しない)
【質問】
坂井氏の著書によると,日本軍では空戦でロール系の技は使わないそうですが,では,日本軍戦闘機ではロールは考慮されなかったの?
【回答】
そうでもないですよ.
天雷の時に「この補助翼を烈風に付けたい」って言われたし,彗星の補助翼が小さ目でロール性能が悪いので夜戦化した時に問題になったり(違ったかな?,銀河の夜戦型の極光だったかもしれない),操縦者の好みもあると思います,
坂井氏に関しては空戦時に「横転操作での射弾回避は邪道」って考えの人だったと思いました.
日本機の中ではロール率が高かったと言われる2式単戦,雷電が日本のパイロットに不評だった事を考えると,ロール方向は安定指向,これが日本人パイロットのスタンダードだったのかもしれませんね.
疾風はなにかと隼と比較されるので,横転性能もその意味ではないかと思いますが.
【質問】
日本陸軍のキ12について教えてください.
【回答】
20mmモーター・キャノンをプロペラ軸内から発射できるイスパノスイザ12Xcrを搭載した試作戦闘機.ドボアチンD-512に似た機体.
中島飛行機がフランス人技師2名を招聘,森重信技師を設計主務者として,昭和11年開発.
低翼単葉,引き込み脚,スプリット・フラップを装備した直線テーパ翼など,進歩的な設計だったが,同時期のキ27,キ28,キ33に比べて旋回性悪く,エンジン国産化の目途も立たなかったことから,不採用に.
要目などは以下を参照されたし.
http://military.sakura.ne.jp/ac/ki12.htm
キ12
【質問】
本土上空では本来より優速のハズのアメリカ機を,隼のような日本機が振り切る事例には事欠きません.
これは何故ですか?
【回答】
敵は帰りの燃料を満載.さらに帰りの燃料を心配して深追いはできない.
全速で逃げる隼に追い付けなくても無理はありません.
しかも,逃げる側は制限を無視して(命がけだしね),とんでもない高ブーストで疾走した可能性もありそうです.
(速度制限を無視してM3で逃げたMiG25みたいに)
で,実戦では生き残ったほうが勝ち,
重かったから,なんて言い訳は一切通用しません.
だから
「P公よりも(オレの乗った)日本機のほうが速かった」
のも事実です.
もう一点,「最高速度」は空気密度の薄い高空のほうが有利な数字です.
高度7600mで700km/hと高度5500mで600km/hならば,実力の差は100km/hよりずっと小さいと考えるのが妥当と思います.
(こっちは機体の優劣の話)
「最高速度という数字」だけにこだわれば高々度性能重視のほうが有利だからです.※
速度性能についての考察
TAS=CAS/√(1.225/ρ)――多分合ってると思う(汗)――で換算すると
700km/h(7600m)ならばIAS=469km/h
同じIASを5400mで維持すると速度は618km/h(雷電わずかに届かず)
同じIASを5200mで維持すると速度は611km/h(錘馗わずかに届かず)
IASが同じならば,同じ抗力を受けていると考えられるので,700km/h(7600m)と,618km/h(5400m)の機体は速度性能に差がない,とも言えます.
雷電は過給機で2200m分楽をしている事になりますが,逆に速度性能には不利に働く(無理しても全開高度を上げたほうが有利)可能性も大きいので,ここは難しいです.
以上は戦闘機の場合に限ります.
旅客機ならばGSの速いほうが速い飛行機です.
あと,「機体」の評価(空力等々)であって,兵器として云々は別の話しです,念のため.
したがって,600km/h(5600m)と700km/h(7600m)でどっちがスゴイ?という問には簡単には答えられません.
高く飛べるほうが強い,とレギュレーションを決めれば別ですが.
(そうならP47やTa152が世界最強です)
あと,日本がB29相手でふがいなかったのは,高々度戦闘機の欠如であって別に日本の「中高度戦闘機」がだらしなかったワケではないです.
※
低高度の性能を犠牲にすれば全開高度は上げられる.
そして,そうしたほうが「最高速度」には有利.
でも,これは特性であって性能ではない.
フッカー博士の過給機,P47のターボを見ちゃうと負け惜しみかな.(笑)
【質問】
「カタログ値の最大速度が戦闘において余り意味を持たない」のは何故ですか?
【回答】
その理由として,戦闘中は常にカタログ値の最大速度で飛んでいるわけじゃないからです.
戦闘中の速度と高度は目まぐるしく変化します.
ビギナーの人が良く誤解するんですが
「零戦52型は最大速度565キロでP-51Dは703キロだから,零戦はP-51Dに追いつけない」
って単純に考える人がいますが間違いです.
実際には低空でP-47が隼に追いつけなかった例もあります.
P-47やP-38がゼロやオスカーと対戦する時に
「大事なのは高速の維持」
と指導されていますが,高度によって出せる最大速度は変化するし,上昇したり旋回すればやはり速度は変わります.
カタログ値の最大速度が低くても,余剰馬力が高く加速性の良い機体は,カタログ値での最大速度が大幅に勝る機体に対しても格闘戦では速度的にも有利だったりします.
ゲームの中と違って戦闘機ってのは,戦闘中でも常にカタログ値の最大速度で飛んでいるわけじゃない,って事は念頭に置いておくべきです.
(機体のポテンシャルを測る上では,最大速度は意味がないわけじゃないけど)
【質問】
九六艦戦の2号2型で,「密封式の風防の評判が悪くてじきに廃止された」と色んなところに書いてあります.それについて質問です.
(1) まるで風防がないのは寒くてやってられないと思うのですが,パイロットたちが風防を嫌った理由は何ですか?
(2) そのわりに,12試艦戦が出てきたときは風防に文句をつけた様子がほとんどないのですが,これはなぜでしょうか?
【回答】
1,視界が悪くなるから.当時の日本のキャノピーは枠が多い.
2,坂井三郎氏の本を読むと文句は出まくってたらしい.でも,開放式では速度が出ないので密閉式とされた.
軍事板
イタリアのG.50やソ連のI-16なんかでも,密閉式にしたのに,半密閉式に変更したりしています.
曰く,風を感じることが出来ない(速度を感覚的に把握していたのと,計器の信頼性が低かったので),また,視界が悪い(特に初期の頃はプレキシガラスの品質が悪く,中から外を見たら,湾曲して見えたりする.外界が見えないのは戦闘機としては致命的),開放式に慣れていたパイロットが多かった.
……と言うことで,風防は嫌われました.
12試艦戦の場合は,最大速度が上がっていましたから,風防を装備しないと,自分の身が危ないと言うことがあります.
後,風防をスライドさせて開けておく芸当も出来ましたし….
ちなみに,ソ連の高速戦闘機のLaGG-3なんか,出現当初,密閉式風防が嫌われて開放式に変更しましたが,50km/h速度が低下したそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
秋本実氏の『日本軍用機航空戦全史』第一巻(グリーンアロー出版社,1994.12),九六式艦上戦闘機の項を読んでいて,気になったことがあったので質問させてください.
昭和13年8月に九六艦戦二号二型が制式採用になっているらしいのですが,生産型は昭和12年8月には二号二型の第一号機が完成しているとなっています.
これはどう考えれば良いのでしょうか? 単なる誤植でしょうか?
それとも,二号二型はすでに昭和12年8月段階で生産開始されていて,制式採用が後追いになった,とみるべきなのでしょうか?
毛無し珍毛ボー&bow ◆nCOdVecG1w
【回答】
日本のお役所仕事というヤツではないかと思います.
量産75号機以降が2号2型となり,これは1937年8月から量産されました.
但し,正式採用は1938年8月19日です.
ちなみに,2号1型の場合も,正式採用は,2号2型が製造されていた1937年9月15日です.
海軍艦艇でも,沈没してから除籍されるまで1年くらいは掛かってますので,それくらいのtime-lagがあるので,多分,量産化と正式採用のtime-lagが発生したと言う意味で良いと思います.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
96式3号艦戦とは?
【回答】
エンジンを,20mmモーター・カノン付きのイスパノスイザ12Xcrs液冷V型12気筒エンジン(最大出力610馬力)を装備した実験機.
モーター・カノンのテストが目的.
プロペラはラチエ3翅固定ピッチ.
製作数2機.
日華事変勃発により,エンジンを寿3型に換装,部隊へ配属された.
なお,戦前にこの3号艦戦のソリッド模型が発売されたことがあったというが,戦後はもちろん,こんな弩マイナー機のプラモデルはガレージ・キット以外発売されていない.
【参考文献】
『図解・軍用機シリーズ16 九六艦戦/零観』(雑誌「丸」編集部編,光人社,2001.3)
written by 堀越二郎(うそ)
(画像掲示板より.原出典不明)
【質問】
日本海軍は海軍なのに,なんで局地戦闘機等を開発してるんですか?
【回答】
海軍は中国で,中国の空軍に痛い目に遭いました.
爆撃機の出撃準備中に,敵の航空機がやってきて,爆弾を散蒔いて逃走と言うケースが結構発生したため,強力な武装で,敵爆撃機を撃墜できる高速戦闘機を輸入したのが最初で,当初は,米国からセバスキー戦闘機,
ドイツからHe-112を装備しています.
但し,二機種とも性能が良くなかったので,要地防空用の局地戦闘機を国産で開発することになったわけで.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
日本の13ミリ機銃は悲惨だったと聞くけど,どう悲惨だったの?
【回答】
パワーが悲惨.
海軍の機載13×63mmは,Rheinmetall-BorsigのMG-131
電気発火雷管の打撃式雷管バージョンだが,13×99mmの6割程度のエネルギーしかない.
発射速度こそ900rds/minあるものの,初速も8割しかなく,弾重6割.直進性の悪い弾道で,当たっても効かない弾を撃ってたわけで.
13.2×99mm(ブローニング)機載は銃身長が短いし,13.2×99mm(ホチキス)対空は発射速度が遅い.
まあ,20×72mm(エリコン)の初速の悲惨さに比べられるものは少ないが.
で,「日本の13mm機銃」に当てはまりそうなものとして,私が知る範囲では,
13×63mm(海軍機,MG-131の雷管発火バージョン.13mm2式?)
13×99mm(海軍対空火器.ホッチキス製.93式?)
13×99mm(海軍機,ブローニング.13mm3式?)
があるわけで,それぞれ前述の通りです.
【質問】
日本軍はMG151/20をコピー生産できなかったのですか?
【回答】
MG151/20は精密プレス加工を多用した芸術品のような機関砲です.
当時の日本では,砲どころか弾丸さえも製造不可能.
捕獲したアメリカでコピー生産がされたのですが,作動不良が続発しています.
ましてや,日本では・・・
【質問】
日本海軍機の「斜め銃」と日本陸軍の「上向き砲」とは同じものなの?
【回答】
「斜め銃」というのは,あくまでも,日本海軍でのみ使われていた用語であり,陸軍では,これを「上向き砲」と呼んでいました.
どちらも20ミリだけど,海軍では20ミリは「機関"銃"」に分類されるのに対し,陸軍では「機関"砲"」に分類されるという違いもあるし,十三試陸上戦闘機(月光)は,機体の上部及び下部に20ミリ「機関"銃"」を2門ずつ装備していたのに対し,陸軍のキ45改は,機体上部にしか「機関"砲"」を装備していなかった.
上向き銃
【質問】
空対空爆撃戦って何ですか?
飛行機に飛行機から爆弾投げるのでしょうか?
【回答】
空対空爆弾を使った迎撃戦闘のこと。
日本陸海軍では、対飛行機用の攻撃兵器として空対空爆弾を保有していました。
海軍には昭和14年に完成した九九式三号爆弾がありました。
総重量30キロの爆弾の中に144個の弾子が詰められており、敵編隊上空でこれを投下すると,時限発火装置により爆発、弾子が散布される親子爆弾でした。
黄燐と鉄片でできた弾子は一発75グラム、傘上に広がって落下し、命中すれば防弾タンクを発火させることが可能でした。
一方陸軍では、ト二弾、ト三弾と言われる空対空爆弾がありましたが、実戦で使えるものではありませんでした。
のちに,「タ弾」と呼ばれる空対空爆弾が陸海軍共通で使用されました。
これは元々陸軍が地上の航空機攻撃用に開発したもので、700グラム(1キロ)の小型の成型炸薬弾をコンテナに仕込み、目標上空で投下、散布して目標を破壊するものでした。
これを対空用に用いるようにしたものです。
実戦では、投下位置の判断が難しく、また機体性能や爆弾の重量のせいで敵機の上方に占位する事が困難なため、戦果はさほど上げられなかったようです。
またドイツ空軍でも同様の戦法を採用しており、Wgr.21空対空ロケット弾を使った空対空戦闘に発展しています。
元ドイツ空軍のハインツ・クノーケによって書かれた戦記「空対空爆撃戦隊」によれば,第11戦闘航空団第U飛行隊第5中隊に所属していたクノーケ中尉は、戦死した同僚が構想していたBf109に爆弾を搭載して米軍機の密集編隊に投下するアイデアを実施すべく、自機に爆弾を搭載して出撃しました。1943年3月のことです。
彼は見事に爆弾でB-17を撃墜することに成功し、その戦果はゲーリングの耳に達しました。
第5中隊長に昇進した彼はさらに研究を続け、中隊は多数の戦果を上げました。
しかし、護衛戦闘機の増大などで爆撃戦法は危険を増し、8月には中隊はロケット弾を使用し始めています。
面白いことに、迎撃された米重爆の方では爆撃戦法に全く気がつかず、損害をロケット弾によるものと見ていたそうです。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
もともとは飛行場襲撃に開発されたものでしたが,B-17などの重爆の撃墜が機銃では困難であるため,空対空で使われていったようです.
構造は「タ弾(成型炸薬弾)」を数十個集束させたもので,投下後に投網のように広がります.
海軍では三号爆弾.爆煙の形から「タコ爆弾」とも呼ばれていました.
また陸軍では単に「タ弾」と呼ばれ2式,3式(共に40mm撒布弾),5式50mm撒布弾がありました.
空対空で使用した場合はほとんど命中が期待できないために,使用例は極僅かです.
本土防空戦では使用されなかったはず.
【質問】
零戦とスピットファイアは,どのような性能差があったか?
【回答】
零戦とスピットファイアとの性能の比較については、鈴木少佐が戦後次のように回想している(戦史叢書「南西方面海軍作戦、第二段作戦以降」)。
「スピットファイアは全くすばらしい飛行機だった。
零戦に比し最大速度、高々度性能で特に優れていた。
最大速度は零戦よりもはるかに速く、特に突っ込んでからのスピードは驚く程だった。
高度は一〇、〇〇〇メートル以上一一、〇〇〇メートルぐらいまで上がったと思う。
わが方は九、〇〇〇〜一〇、〇〇〇メートルがせいぜいで、高々度では空戦性能ががたっと落ちたが、幸い空戦が八、〇〇〇メートル以下であったのでやれた。
先方の戦史(「対日空戦」)には零戦の方が上昇が良いとあるが実際はあまり変わらなかった。
零戦が優れていたのは旋回性能だった。
したがって格闘戦に敵が入ってくれれば自信をもって撃墜できた。
しかし敵もこれは承知していたようで、一撃航過の邀撃が多かった。
当方としては豪州攻撃には飛行時間一、〇〇〇時間以上の者ばかり連れていった」
その後九月まで数回、零戦とスピットファイアの空中戦が展開され、その度に常に零戦が有利な戦いを進めている。
1942/4/5コロンボ上空戦
日本側戦果 イギリス側記録
スピットファイア19機 機種未公表:合計25機喪失
ハリケーン 11機
その他 11機
イギリス側記録
日本側被害
零戦 1機 日本機30機撃墜
99艦爆 6機
1942/4/9トリンコマリ上空戦
日本側戦果 イギリス側記録
スピットファイア39機撃墜 スピットファイア14機喪失
日本側被害 イギリス戦果
零戦4機 日本機25機撃墜
【質問】
よく零戦乗りの談話で、20mmは対戦闘機戦では何の役にも立たなかったとネタにされますが、20mmしか装備していない紫電や紫電改は,なぜ対戦闘機戦でまずまずの戦果を出せたんですか?
【回答】
おそらく、九九式一号と九九式二号の違いです。
九九式二号は重心が長く、弾道低進性が一号中よりも優れていました。
またベルト給弾を採用したことで装弾数も増加しており、一号の「弾が少ない、ションベン弾」という欠点をかなりの程度改善していました。
発射速度の問題は最後までついて回りましたが、防弾が強化された大戦後半の米軍機に対しては,有効な航空兵装だったんではないかと思われます。
また,零戦は7,7mm×2・20mm×2でうまく弾道を合わせられなかったと聞きます。
その点,紫電は長砲身の20ミリ×4で弾道がうまく合ったらしい。
装弾数も1号短砲身が60発だったのに対して、2号長砲身は200発でした。
事実、20o砲は7,7mm、12,7mmの貫通弾に対して炸裂弾でしたから、1発の弾丸で致命傷を負わせることができたようです。
操縦士に当たれば、被弾した部分が吹き飛ぶから即死だったらしいし・・・。怖い怖い・・・。
さらに,機関砲弾も異なりました。
99-1;口径20X72RBエリコンFFのライセンス生産
99-2:口径20X101RBエリコンFFLのライセンス生産
20は弾頭の直径,X以降の数字は薬莢の長さです.
ちなみにこれは,陸軍の20mm機関砲とは互換性がありません。
陸軍の20mm機関砲も数種類あり、20mm機関砲と言う括りなら世界中に100種類以上あります。
【質問】
再製「隼」の現状と行方は?
【回答】
1990年代中期,大戦機コレクター,ダグラス・チャンプリンが,千島列島方面から数機分の「隼」の残骸を収集,それを元にテキサス州フォートワースのテキサス・エアプレーン・ファクトリー(TAF)に再製を発注したもの.
その後,計画遅延,予算超過,再製1号機の事故やにより,アリゾナ州カサグランデのワークショップ,ゴスホーク・リミテッド社に依頼先は変更された.
再製機は,残骸を元に新造した部位と,若干のオリジナルで構成された機体,プラット&ホイットニーR-1830エンジン,ロッキード・ロードスターのプロペラ,DC-3のプロペラ・ハブ,T-33Aの前輪を転用した主脚タイヤなどから成る.
4機が再製の予定.
1号機はオレゴン州ティラモック航空博物館へ,
2号機はワシントン州シアトルのミュージアム・オブ・フライトへ引き渡される予定.
3号機,4号機の行く末は2006年現在,未定.
詳しくは「航空ファン」2006年7月号,p.27を参照されたし.
【質問】
鐘馗はなぜ不評だったの?
【回答】
安定性の問題です.
鐘馗は双発機用のエンジンをそのまま流用したため,トルク差の問題から著しく安定性が低下してしまったのです.
また,離着陸時の安定性の悪さが,97式戦に乗り慣れた搭乗員達に不評でした.
一方,射撃時のスワリは良いとされていました.
【質問】
陸軍機の2式単戦で、40mm装備機って本当にあったんですか?
また、発射速度は毎分何発くらい?
【回答】
鍾馗二型乙に搭載されたホ301ですね。
中央工業が製作したもので、初速240m/sec、携行弾数10発でした。
Palembang、本土防空戦で使用されています。
ホ301の40mm弾は,現代の感覚では40mmグレネードという感じの弾です。
通常の推進薬と薬莢はなく、弾体の後部に附属した推進薬室で発生した燃焼ガスで弾体を推進します。写真を見ると「ジャイロ・ジェットの大型」という言葉が浮かぶのは年寄り。
しかしロケット弾ではない証拠に、推薬は銃身内で焼尽し、反動で機関砲を作動させることができます。
引き換えに銃口初速はグレネード・ランチャー・クラスの246m/秒。
450発/秒の発射速度は悪くないものの、嵩張る弾のために弾倉は10発箱形。つまり、至近距離一航過での射撃しか意味がないというヤクザな武器で、実用的な意味はありませんでした。
ま、実際、普通の航空機関砲並みのサイズと反動に留めることができたという点ではすごい40mmホ301なわけですが、10発箱型弾倉が機関砲自体と同じぐらいのサイズという笑える光景が、これを機載させられたパイロットの悲劇を物語ると言うものです。
ちなみに、2型乙は翼内砲を廃止して、胴体砲のみとした仕様で、ホ301は特別装備(オプション?)だったようです。
(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板他)
【質問】
疾風ってP51と互角に戦える戦闘機ですか?
仮に戦えなかったとしたら、どんな日本軍機が互角にP51と戦えますか?
【回答】
元陸軍航空審査部員の荒蒔少佐によると、疾風とP51ではまずまず互角に戦えたものの、やや分が悪かったとのこと。
しかし五式戦なら十分互角に戦えたようです。
これは五式戦の上昇力がかなり良かったことが一因としています。
(ただし、疾風のエンジンがカタログ通りの出力が出ていなかったことや、P51が五式戦の戦いやすい低中高度で戦闘を行っていたことを考慮に入れていますが)
基本的に米軍は編隊空戦なので、1vs1はまず無い.
整備レベルで疾風が十分に整備されて熟練パイロットが搭乗すれば,機数が互角のP-51相手に対等に戦えるだろう。
しかし、ほとんどの疾風が整備不十分なまま戦場におもむいたのも史実。
本土上空あたりの戦いでは、常に損害が酷く,精鋭の343空でも損害比1:1がせいぜい.
その他の航空部隊は,「駆逐されていた」という表現が似合うほど。
米軍と日本軍の航空戦で互角だったのはガダルカナル初期〜中期あたりまで,それ以降は圧倒的敗北。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE他)
【質問】
五式戦はP51に相性が良かったと聞いたことがあるけど事実でしょうか?
事実だとしたらその理由も教えて下さい.
【回答】
当時の陸軍戦闘機としては,速度性能,上昇性能,空戦性能,実用性のバランスが良く取れていたので,太平洋戦争末期の本土防空戦に於て,結構活躍しました.
また,B-29が高々度精密爆撃から低高度無差別爆撃に方針を切り替え,自ずと護衛戦闘機も中高度域での護衛が為されるようになった為に,日本戦闘機としては性能が最も出る状態で戦闘が行えたことも大きいか,と.
当時の陸軍戦闘機の中にあって,隼は既に旧式化著しく,鍾馗は機数が足りず,飛燕,疾風は稼働率に問題を抱えている状況では,当時の敵戦闘機の性能に追随でき,尚かつ稼働率が良く,機数が揃えられた五式戦がP-51との空戦にそれなりに活動できたと言うことではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
一方,「Warbirds」によれば,5式戦が米軍に脅威を与えたという事実は全くないという.
以下引用.
また,三式戦二型にとってハ112II(金星六〇型系)がハ140に代わって大量供給を望める発動機だったかという点にも注意が必要です.五式戦の試作機が完成する前に三菱の名古屋発動機製作所は壊滅してしまっています.
静岡に移転したばかりの金星製造設備も十分なポテンシャルが無く,既に大規模な生産を続けている四式戦とハ45(誉二〇系)を代替することなど思いもよらない状況です.
発動機の供給に難があることに関してキ一〇〇と三式戦二型に極端な差は無く,程度の問題といったところです.
さらにハ112II(金星六〇型)には,誉や火星二〇型などの不調で有名な発動機と同じく,水噴射装置という,管制の難しい日本にとって未消化の技術が投入されています.
百式司偵三型などはこのお蔭で可動率を落していますし,キ一〇〇配備にあたっては新たにハ112II用の補用部品を供給せねばならず,その不足のために,陸軍戦闘機隊の中心的存在である明野飛行学校の機体までもが満足に飛行できていません.明野飛行学校の可動機/保有機数は記録が残されています.
しかも金星には,燃料噴射ポンプと言う生産上の隘路が存在します.燃料噴射式の金星六〇型を生産拡大するには大量の燃料噴射ポンプの手配が必要なのですが,それは終戦まで生産の隘路であり続けます.
そのために三菱も中島と同じく単体のポンプで済む低圧燃料噴射装置を試作しているのです.
という訳でキ一〇〇の投入は偶然でもなければ実用性と生産見通しの面から手放しで喜べるものではありませんし,米海軍機の空襲によって大損害を蒙り士気低下していた三式戦部隊の機材更新と士気回復――三式戦が対戦闘機戦であまりにも無力であったため――に役立った事は本当ですが,米軍に脅威を与えたという事実は全くありません.
「五式戦」という名称さえ,公式のものかどうか怪しいのですが,一般に伝えられる五式戦闘機に関する逸話の多くは根拠の無い創作に近いものです.
どちらが正しいと言えるだけの材料を持たないため,両論を併記しておきます.
【質問】
疾風が戦後アメリカでテストされて凄い性能を出した,という話を良く見るのですが,紫電改や五式戦はテストされなかったのですか?
【回答】
大戦中に捕獲された物と異なり,戦後捕獲された機体の扱いは,かなりぞんざいだったようです.
本国に運ばれた後も,二式大艇や連山など,米国の関心が高かった機体のみ,苦心して整備し,飛行可能状態までもっていったのですが,それも二〜三回飛んだだけでエンジンが不調と成り,飛行テストは断念され,大半の機体は放置され,射撃の的に成って破壊され,その後,大戦の終了後,軍の予算削減に伴い調査部門での調査が不可能と成り,大半がスクラップにされた様です.
(『囚われの日本機秘録』(野原茂著,光人社,2002.12))
紫電改も五式戦も,米国に運ばれた事は確かですが,途中の海上で嵐に遭った時に投棄された可能性も有り,詳細は霧の中です.
紫電改の前々身である強風には,米軍も高い関心を示していた様ですが,紫電改についてはそれ程でも無く,五式戦については前身であった三式戦の評価が芳しく無く(「イタリア戦闘機のデットコピー」)事も有り,あまり高い関心は持っていなかったようです.
真相は,アメリカの公文章館をあたってみるしかないと思います.
軍事板
【質問】
誉エンジンが駄目なら,なんで海軍は,零戦に代わる次期主力戦闘機を紫電改に決めたの?
【回答】
それは昭和19年の計画.
昭和20年度の,つまり最後の計画では,陸海共用で金星搭載の疾風(キ116)を採用することになってたよ.
言いかえるならば,日本の運用能力では誉搭載疾風も紫電改も駄目だったわけだ.
そういえば雷電の内示が三菱に出されたとき,火星か熱田のどちらを選択することになったとかいう話も.
液冷雷電,見てみたい.
やっぱ故障に泣くんだろうな・・・.
【質問】
烈風の最大航続距離は4000kmオーバーと聞いたことあるんですが,実際のところどうなんでしょうか?
【回答】
烈風の航続距離なら
http://www.warbirds.jp/ansq/11/A2002948.html
によれば
航続距離 2395km 巡航速度370km/h 燃料1116リットル ;紫電改(増槽400リットル使用時)
航続距離 1715km 巡航速度370km/h 燃料0716リットル ;紫電改
航続距離 4625km 巡航速度370km/h 燃料1560リットル ;烈風(増槽620リットル使用時)
航続距離 2960km 巡航速度370km/h 燃料0940リットル ;烈風
【質問】
三菱のキ83遠距離戦闘機は現存しないそうですが,いつ頃・どのような形で処分されたのか,どなたかご存知でしたら教えてください.
【回答】
1949年5月1日現在の空軍のリストにあったキ-83は,空軍技術情報部隊番号T2-151が1機のみでした.
しかし,NASMの博物館建設に当たったのは当初5名のみで,膨大な数の軍用機(元来は重要機種1機は残す予定だったのですが)を維持管理することが出来ず,小委員会を設けて取捨選択しました.
しかし,日本機に精通している人は入っておらず,キ-100とキ-61の見分けが付かなかったり,百式司偵とキ-46を別の機体としていたり,橘花を取るに足らない機体としていたり….
この流れの中で,キ-21,キ-67,キ-49と共に,キ-83も廃棄リストに入ってしまい,結果,破壊されてしまいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
「幻のB29迎撃機,45年8月完成…技術はカローラへ」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050716i506.htm
この記事で紹介されているキ94のことが知りたいです.
【回答】
とりあえず大まかなところだけ.
http://page.freett.com/zaj17637/11/94.html
http://military.sakura.ne.jp/ac/ki94.htm
なお,キ94は,不採用になった1型と新設計で試作にこぎつけた2型があり,記事に出てくるのは2型です.
キ94II型
【質問】
他の各国には殆ど見られない水上戦闘機を,日本だけが開発を続けたのは何故なのか?
【回答】
日中戦争での活躍の記憶から,水上機に過大な期待を抱いたためだという.
以下引用.
日本海軍が水上戦闘機に固執したのには,日中戦争で複葉の95式水上偵察機が中国軍の戦闘機を撃墜し,爆撃も行うなど,高い空戦能力と実用性を示したことが背景にあった.
これに喜んだ日本海軍は,水上観測機や偵察機に過大な期待を抱き,急降下爆撃も可能な水上偵察機の瑞雲や,投棄式フロートと二重反転プロペラで高速性能を追求した紫雲といった奇抜な,あるいは無茶な期待の開発が行われた.
いずれも実用性に乏しく,実際に完成したときには必要性も薄れていたため,開発に要した努力や資源は,実際には浪費されたとも言えるだろう.
「世界の艦船」2005年8月号,p.101(岡部いさく著述)
基地設営能力の低さを鑑み,飛行場設営までの繋ぎ役として,水上機を展開させておく意図もあったように記憶しているが.
【質問】
日本の試作戦闘機「震電」をジェット化する、というネタがよく架空戦記でありますが、これって本当に可能なのでしょうか?
いくら震電がレシプロ機離れしたスタイルだからといって、エンジンを積み替えてはいOK、なんて訳にはいかないと思うのですが・・・。
それとも、実際に開発段階でジェット化の計画でも、あったのでしょうか?
【回答】
あの機体のエンジンを積み替えてジェット推進にするのは無理。
震電の形を保ちつつジェットにする事は,不可能ではないが,再設計と同じになる。
とりあえず30mmは配置を変更しないとMiG-9のような有様になる。
また,終戦時のジェットエンジンの水準では、単発では推力不足.双発にしなければならないため,大幅な機体設計変更が必要
ただ,ネ130を積んでジェット化する震電改って計画はあった。
当然ながら、いろんなことがものすごく、奇跡的にうまく行ったら出来るかもしんない、ってレベルだけど。
ただサーブJ21Rなんてもんがあるから、出来たかもしれない感が強くなるってことだろ。
(もっとも,J21Rは同じような形態のバンパイアと比較する限り、ものすっげえ無理してインテークを増設してる。
J21Rが思ったより速度出なかったのって,あの空気取り入れ口が抵抗になってるんじゃないか?ってぐらいの無理矢理感。
だからスウェーデンはJ21Rの生産を少数で生産打ち切り、バンパイアを導入した)
震電
【質問】
友達が,秋水は宇宙へ行けると言ってたんですが本当ですか?
【回答】
不可能.
バート・ルータンのスペースシップワンは、成層圏で空中発進,マッハ3まで加速して急上昇して、宇宙の最下限である高度100kmになんとか到達する。
それに比べて秋水は、地上から発進して、成層圏まで上がるのが精一杯。音速も超えられない。
それでは絶対に宇宙空間までは飛び上がれない。
なお,この超「秋水」の出所は,天沼俊の漫画『戦空の魂』(集英社)らしい.
◆◆◆◆◆搭乗員
【質問】
日本軍航空部隊では,アドルフ・ガラントのような極端な戦時昇進はないよね?
【回答】
日本陸軍でも兵卒から佐官はいます.
日本海軍でも特務士官(戦争途中でこういう呼び方は止めたのね.でも制度は残ったようね)の制度こそあれ,他兵科では少佐とかなった人とかいるみたい.
で,海軍航空隊では坂井の先輩の磯崎千利,乙種予科錬1期の安倍安次郎ら数名が終戦を大尉(分隊長.飛行隊長はいないはず)で迎えたのが,水兵から昇級した最高.
ちなみにB29撃墜王の遠藤幸男(乙飛1期)は大尉で戦死後,2階級特進で中佐.
余談ですが,陸軍2位の撃墜数(39機)を挙げながら下士官止まりだった穴吹曹長は,戦後自衛隊のヘリ教官で2佐になりました.
【質問】
零戦パイロットは,零戦に乗るときも海軍軍刀を携行してたんですかね?
同じくヘルキャットの乗員も乗るときアーミーナイフを携行してたんですか?
【回答】
してない.
海軍機なのにアーミーナイフとは?などというネタはさておき,米海軍のサバイバル・キットにはナイフが入ってる.
チャンバラを想定してランボー・ナイフ持ってたか,という意味なら携行してない.
一方,日本海軍の戦闘機パイロットには,護身用としては十四年式拳銃が給付されていたはず.
実際に戦闘機パイロットが日本刀を持って搭乗したり,戦後返還された遺品に日本刀があったりしたケースもありますが.日本刀を持っているパイロットは,護身用というよりは,出生の時に父親などから渡された「伝来の刀」を武運長久のお守りとして持っていたケースが多かったのではないかと思います.
軍事板
+
【質問】
戦時中の戦闘機乗りはヒロポンとかやってたそうですが?
【回答】
使われていた.
この薬品は,明治41年に薬理学者長井義博博士が麻黄からエフェドリンを分離.その後エフェドリンからメタンフェタミンの合成に成功.昭和16年に大日本製薬から商品名「ヒロポン」として販売開始された.
同じく昭和16年,日本国第7陸軍研究所に1日100キロの行軍に耐える体力,夜間に周囲を見通す視力,3時間の睡眠で事足りる回復力,寒冷地においても防寒着を必要としない順応力を持たせうる薬品を開発せよ,との任務が授けられる.
研究の結果は「ヒロポンに勝る物無し」との事.
この薬は,単純作業や,余り認められては居ないが意外にも創作や学習などの効率を上げることができた.
「頭の回転が速くなる=スピード」,という俗称もこの辺りから来ている.
もっとも,本当に頭の回転が早くなるわけではなく,実際は「思考が速くなる」.面接で緊張してるコみたいになれる.唇をよく舐め,落ち着きが無く,手が震え,飯が食えない等.
坂口安吾など,戦後一時期の作家の作品には,(結果として)ヒロポンによって生み出されたと言えるものも少なくない.
副作用も主に,この思考が速くなる事から発生する.
減速機がうまく働かなくなってしまう場合も多い.
そしてヒロポンは,作用と副作用を比較すれば副作用が大きく,また,耐性の形成も非常に早い.
薬局で売っていたと言う話も,昭和20年の敗戦から昭和25年の覚せい剤取締法の施行まで,いわゆる「マトモ」な薬局で販売される事は余り無かった.
戦後の大日本製薬製でないヒロポンや,それ以外の覚せい剤は,ほぼ闇ルートで捌かれている.
(今に至るまで闇で流通する覚せい剤に半島製が多いのは,寒冷な気候が製造に向いている事に目を付けた,日本の製造者によってもたらされた遺産)
ただし,ヒロポンは当時副作用の危険性を認識されていなかった.今我々がコンビニで買うようなドリンク剤と同じ感覚で精力剤として使われていた.
これは軍に限ったことではない.
しかし,「普通」の人は何となくヒロポンのヤバさに気付いていた.
主に不眠から来る錯乱(薬自体の副作用ではない)などを知れば当然ですわな.
軍事板
なお,これとは別に,夜間戦闘機パイロットには,「暗視ホルモン」という薬が用いられた.夜目が利くようにするための注射だった.
海軍軍医少佐だった大島正光氏が『海鷲の航跡』に寄稿した「海軍の航空医学」に,夜間視力改善を目的としたホルモンの開発について触れられているが,それによれば,
夜間視力を良くするためにメラーフォーレン・ホルモンの研究も 行われ,H氏が主となってこの研究を進めた.
これは鮫の身体から採られるものであったが,その適用の方法等についての研究が進められた.
海空会編『海鷲の航跡』,原書房,1982/10,P403
そして同書によれば,同ホルモンは薄暮の訓練で有効性が確認されているという.
そして,『台湾沖航空戦―T攻撃部隊 陸海軍雷撃隊の死闘』によれば,同ホルモンは台湾沖航空戦の際に使用されているが,牛・豚・鮫から採取可能な量は限られているので,全パイロットに十分な量を注射するのは出来なかったという.
【質問】
源田実はヒーロー的な扱いを受けているとばっかり思ってたんだが,意外に評判悪いんだよな.
なんで評判悪いの?
【回答】
空技廠の戦闘機部員(で良かったかな)の時(少佐),戦闘機無用論をぶちあげ,多数の戦闘機パイロットが艦爆などに転科,戦闘機パイロットの養成が極度に減らされる.
ところが日華事変が始まると,護衛のない中攻隊はボロボロ.
それに気付いて戦闘機を増やすが,この時点からの戦闘機パイロット不足は結局敗戦まで響く.
零戦の開発時にも,速度より格闘性能を重視させる意見を発する.
源田氏を中心とする横須賀航空隊は戦技向上を旨とし,巴戦の習熟に熱中した(個人技を競い合う事を好む日本人にマッチした)ために,必要以上に低い翼面加重を要求.
それに対し源田氏と海兵同期である柴田少佐は,少々の運動性の低下は搭乗者の技量でカバーでき,それよも速度と航続距離が制空戦闘機として必要であると主張して激論に.
速度の劣勢は,搭乗員の技量ではカバーできないので.
そのため,堀越氏が両者の主張を加味して作ったら,名機になってしまった.
実際,ラバウル航空戦(がダルカナル撤退後)を生き抜いた搭乗員の回想を読むと,翼端を真赤にして射撃してしてくるグラマン,シコルスキーがうらやましかったという記述も複数.
零戦への防弾装甲の実装にも,異議を唱える.
そのため戦争後半では,多くの搭乗員を失う結果となる.
この辺りの三菱技術陣と現場のパイロット 対 源田のやり取りは,柳田邦男の『ゼロ戦燃ゆ』に詳しく書かれている.
たらればだが,アンダーパワーの零戦を防弾装甲ででぶでぶにしてたら,開戦初期の戦果はあげられなかったのでは?
という見方もできるが.
真珠湾をやると決まった時には,源田実さんは同僚と
「今までは幕末の志士が羨ましい,羨ましいと言っていたが,俺達ほど恵まれた男達がいるか? 俺達は世界の歴史を手作りするんだ」
「正に千載一遇だ.この時代に生まれてきた俺達は何てついてるんだ,なんて幸運なんだ」
と興奮していたそうです.
これを知った時は切れそうになりました.
あの大戦争の犠牲の先鞭を,自分たちの自己満足と栄華の為に軍人達が付けたと思うとやりきれないです.
軍人なら戦って見たいのも分かりますが,「国を守る」というのが本分でしょうに.
やっぱり統帥権が軍部にあるのが問題なのか,,,と深く思いました.
出典は石原慎太郎の『わが人生の時の会話』(幻冬舎文庫,2004.4)の「鳥人の遺言」です.
ミッドウェー後,「瑞鶴」飛行長をへて(2ヶ月くらいだと思う),343空創設前まで海軍軍令部の作戦部員.(のはず)
その間,神風特攻の具体的な作戦を立案.全軍で統制化された特攻が行われる.
半藤一利氏いわく「神風特攻の創始者は源田」と言われる所以.
戦後航空幕僚長となるが,F104導入をめぐってロッキード社から賄賂をもらい,内定していたF11からF104への逆転を決めたと言われる.
もっとも現在では,F104導入は正解だったとの意見多数だが.
源田の死後の話だが,343空で部下だった坂井三郎氏が,講談社から出した本の中で源田の批判をしてるのが目を引く.
源田についての本としては生出寿『海軍参謀・源田実』,碇義朗『鷹が征く』(ともに光人社),柴田武雄『源田実論』(思兼書房,絶版)がある.
ざっとこんなもん.
私の義父が「源田実」の息子さんと石油でのつき合いがあり,その息子さんというのがとても温和な人で,父親の源田氏と折り合いが合わず勘当されたそうです.
源田氏はかなり厳しい人だったようです.
その息子さんは勘当後,「大洋漁業=マルは」の当時,社長さんに拾われて現在に至るみたいです.
義父が言いうには
「あんないい人を勘当するなんて相当な堅物だぞ!」
と驚いていました.
【質問】
怠慢で申し訳ないですが,坂井三郎による源田実批判は,具体的にはどういうものですか?
【回答】
坂井三郎著『零戦の真実』と言う本の戦闘機無用論のくだりに書いてありました.
曰く,
「日本海軍の名戦闘機パイロットと言われるが,実は一回も実戦経験のないパイロット,
もちろん一機の敵機も撃墜した実績のない戦闘機パイロット」
「343空は 私から見ると 源田氏の成績上げ部隊≠ノ見える.
優秀な搭乗員をひっかき集め 紫電改をかき集め・・・
」
源田はアクロバット飛行隊率いてたくらいだから,スタントの腕前はあるとしても,空戦の腕はどうか.....
また,『零戦の最期』(「零戦の運命」だったかも)348ページより.
沖縄戦の頃坂井氏が所属する部隊の司令G大佐らと共に出張した時の話.略歴からGが源田なのは明白.
(前略)
G大佐の一声を聞いて,実は愕然とした.
「貴様,そんな気の弱いことでどうするか.囲碁にも捨て石,将棋にも捨て駒という手がある.
そんなことで貴様あ,一人前の戦争屋になれるか!」
人の良いN参謀は「ハッ!」と目を伏せたが,これが参謀畑の先輩であるG大佐の答えであった.
その時,特務士官であった私の存在などG大佐にとっては眼中になかっただろうが,少し離れたところでそっぽを向いて,ポーカーフェイスを装って聞かぬ振りしていた私の心は,カッと燃えた.
(中略)
その瞬間から,私のG大佐を尊敬する心は去ったのである.
「正体見たり」であった.
ちなみに旧海軍戦闘機隊員の間では,源田派と柴田(武雄)派があるみたいね.
坂井さんは,柴田さん派のほうらしい.
柴田は開戦時の3空飛行長,ラバウル末期の204空司令など節目節目で重要な職についてる.
それだけに下についた人間から慕われるのだろう.
エース級では他に岩本徹三も柴田派のはず.
小園安名は302空司令時代に赤松貞明を源田に引き抜かれるのを恐れ,赤松の所属を鎮守府付兼だかにして転勤しにくくしたらしい.
一方,小高登貫兵曹や,源田サ−カスの列機だった青木兵曹は,源田氏を優れた飛行指揮官と褒め称えている.
でも,柴田氏と源田氏は仲悪いよね? 海兵同期なのに.
◆◆◆◆◆◆坂井三郎
【質問】
坂井三郎著「大空のサムライ」を読もうと思ったんだが
大空のサムライ 完結篇
戦話・大空のサムライ 新装版
大空のサムライ 続
大空のサムライ 上
大空のサムライ 下
大空のサムライ 第1部
大空のサムライ 第2部
と色々あってワケワカメなんだがどれを買えばいいの?
【回答】
どれから読み始めても問題ありません.
どれがどんな内容か分からないなら,以下の通り。
・戦話・大空のサムライ=自身の体験をもとにした,教訓とも思い出話ともつかないような話。
・大空のサムライ完結編=思い出話の対談
・大空のサムライ上下・1部2部=大空のサムライ正編
・続・大空のサムライ=続編で書ききれなかったところが書いてあったり,少し重複だったり。
ついでに「坂井三郎空戦記録」も一緒に買って、各本毎にエピソードや登場人物を突き合わせていくと
,つじつま合わせでボケていくさまがリアルに感じられ,落涙できます。
507 :名無し三等兵 :2005/03/31(木) 02:24:35 ID:???
大宇宙のサムライ
508 :名無し三等兵 :2005/03/31(木) 02:32:46 ID:???
天空のサムライ
509 :名無し三等兵 :2005/03/31(木) 02:35:32 ID:???
大空のサムライ
III
めぐりあい・宇宙
「大空のサムライ・魔宮の伝説」
「大空のサムライ・ストーンオーシャン」
「大空のサムライおかわり」
「旧約・大空のサムライ」
「大空のサムライ・リローデッド」
……
軍事板・改
坂井三郎
【質問】
坂井三郎の撃墜数64という数字,信頼できる数字?
【回答】
坂井氏本人も撃墜数はこれよりもっと多いかもしれないし,逆に少ないかもしれないと言っている.
64機という数字は,あくまでも日本海軍の公式記録.
ただ,日米の公式記録を照らし合わせても,このくらいの数字が妥当だろうとの事.
それほど戦果判定は難しい.
【質問】
坂井三郎って本当に名パイロットだったの?
【回答】
坂井氏の空戦理論は,興味深い.
彼は,後下方攻撃を得意としたらしい.
感づかない内にまず,一撃を浴びせ,そこから回避しようとする敵機を徹底追尾して撃墜したらしい.
また,左旋回の巴戦が得意だったらしい.
ひねり込みは,半田亘飛曹長に伝授されたとの事.
さすが超撃墜王は貫禄あるね.
あの目つきでバタバタ落としていったのか....
どこで読んだか忘れたけど,大空のサムライ冒頭,硫黄島上空でフクロにされそこなった時の敵パイロットの一人と戦後だいぶ経ってから会って,
『空母に戻ってからみんなで,あのゼロは俺たちが100機掛かりでも落とせなかっただろうと言い合ったものですよ』
とか言われたらしい.
【余談】
坂井氏は終戦後,零戦による最後の迎撃でB32を小町定兵曹たちと協同撃墜してる.
とどめは坂井機がさしたらしい.
米軍の記録にも撃墜後着水が確認されている.
【余談2】
「敗戦後,日本は数々の美徳を失ったが,その最たるものは,大家族制度による年長者の知識や知恵を伝授していく機能だ」
とおっしゃった.
さすが隻眼〔原文ママ〕だね.
【余談3】
日航にジャンボが初めて就航した時の話.
坂井氏はゼロ戦で二百回以上出撃して「落ちなかった人」というわけですから,世界の飛行機乗りからは非常に尊敬されております.
もちろん日本航空がボーイング747型をはじめて就航させる時も,坂井氏を招待してファーストクラスに乗せてくれたみたいです.
その理由なんですが,それはもちろん坂井氏が乗った飛行機は落ちていないから,ということみたいです(笑)
ある意味,縁起かつぎで喜ばれていたような部分もあるみたいですね(笑
【余談4】
これは坂井氏がまだ現役でゼロ戦に乗っていたときの話なんですが,大きな飛行機(たぶんB−17?)※か何かに向けて機関砲を発射したらしいのです.
もちろんそのアメリカの飛行機は,銃弾を受けた側のほうの人がやられたとのこと.
ところが戦後かなりたってから聞いた話では,その坂井氏が撃った飛行機の反対側の席に,のちにアメリカ大統領となってベトナム戦争を始めてしまった,LBJことリンドン・ジョンソンが乗っていたらしいのですね.
のちにアメリカの元パイロットに,
「サブロー,お前が例の飛行機の反対側を撃っていたら,アメリカはベトナム戦争で失敗しないで済んだかも知れないんだぞ」
といわれたそうです(笑
※秦郁彦氏の『第二次大戦航空史話』(中公文庫,1996.9)によれば,ジョンソン下院議員(当時)が搭乗したのは,当時ポートモレスビーに展開していた第22爆撃グループ第19飛行中隊のB-26だそうです.
議員に最前線で何かあったら大変と,B-17とB-25を囮にして迎撃機をかく乱する作戦だったのですが,撤退経路の不徹底から,B-26隊は零戦隊と正面から遭遇してしまいました.
このとき坂井機は,ジョンソン議員と共に参加した陸軍のスチブンス中佐が同乗したB-26を撃墜しましたが,本来ならこのB-26にジョンソン議員が乗る手はずになっていたのを,手違いでスチブンス中佐が先に乗り込んでしまったため,議院は別のB-26に同乗し,穴だらけにされながらポートモレスビーに帰り着いたそうです.
B-17の件は,コーリン=ケリー機撃墜の件と混同しているのではないでしょうか?
【余談5】
戦後かなりたってから,戦争当時の世界のエースパイロットを集めて,ハワイでゴルフ大会があったらしいのですね.
戦争には負けたが戦闘では絶対に負けていないという確固たる自信のある坂井氏は,
「よ〜し,いっちょうやつらの鼻をあかしてやるか!」
ということで,大会前に猛練習.
結局は「強烈な意志の力で」,2打差をつけて堂々のトップで優勝したそうです.
いわく,他の世界のエースパイロットたちも,
「サブローには絶対に勝てない」
と脱帽したとのこと.
【余談6】
「坂井さん,もしゼロ戦にもう一度乗れるとした乗りますか?」
という質問に対して,坂井氏は,
「いや,もう充分乗ったからいいよ」
とのことでした.
たしかにあそこまで壮絶なことをやっているわけですから,「もういいよ」というのは分かる気がしますが.
【余談7】
坂井氏は,どこかの記者会見か何かで,「天皇制は日本に必要な制度だ」としながらも「天皇に戦争責任がないとは言い切れない」みたいなことを言ってしまったらしいのですね.
で,この発言からしばらくの間,家の周りに右翼団体のチンピラみたいなのがうろついていたり,無言電話や「あんた殺すぞ」みたいな脅迫状を受け取る日々が続いたとのこと.
もちろん警察のほうも坂井さんの身の安全を心配して,「見張りの番をつけましょう」と言ってきたらしいのです.
ところが坂井氏はこの申しでを断ったそうです.その時の坂井氏の言葉を借りるとこうなります.
「おれは警察にこう言ったんだよ.
な〜に,こちとら大日本帝国が,国家の威信をかけて作り上げて殺人マシーンなんだ.
戦後生まれの甘っちょろい,ヘナチョコ右翼どもなんかに,このオレを殺せるわけがなんですよ.
やれるもんならやって見ろってんですよ!」
もちろんそんな脅しに全く動じなかった坂井氏は,その後も落ち着いて普通に生活を続けたとのこと.
もちろん家の周りをうろついていた右翼もすぐに姿を消したとか.
私は坂井氏との会見で,上のコメントが一番印象に残っております.しびれました.
名人というより「名物」と言うべきかも.
【質問】
坂井三郎は挌闘戦重視だったの?
【回答】
坂井氏の著述を熟読されれば判ると思いますが,氏はくんずほぐれずのドッグファイトは決して推奨していませんよ.
逆に,「巴戦など旋回しながらの射撃は,Gがかかるために有効弾は難しい」としています.
【質問】
坂井三郎氏の空戦方法は一撃離脱ですよね?
【回答】
坂井氏の得意技は,目標の死角となる後ろ下方から上昇接近しながらの急所への近接射重点射撃で,米軍の一撃離脱とは区別したほうが良いと思います.
この辺は,『大空のサムライ』に記述されています.
純粋に一撃離脱を好んだのは,岩本少尉のほうです.
どちらにしろ,坂井氏の才能と努力には頭が下がりますが.
【珍説】
坂井三郎は,己の戦闘技術を後輩その他にフィードバックしなかった点が大いに罪深い.
てめぇだけ「成績よければ良し」ってことか?
「逝ってよし」だな.
【事実】
笹井中尉やオシブチ中尉には,かなり伝授したらしい.
あと,後輩達にも度々指導しているよ.
羽藤一志とか島川正明とかエ−スも列機から結構出てるし.
また,坂井中尉の343空時代,所属していた飛行隊(戦701?)の紫電の事故は他の飛行隊に比べて最も少なかったそうだが,これは坂井中尉の指導の成果らしい
(出典は,確か『最後の紫電改』だったか).
坂井氏は私のイメージではエースと言うよりエースメイカーのような気がする.
ものすごく研究熱心だったというし,台南航空隊がラバウルに行った時は,「先任搭乗員」という下士官・兵士たちのまとめ役(アメリカ軍等で言うところ鬼軍曹)であったし,自分の技術だけ高めれば良しとするような人間ではないと思うんだが,,,
まあ煽りたい人間にとっては,本当の事なんてどうでも良いんだろうが,,,
【質問】
ゼロ戦のパイロットとして活躍した坂井三郎さん,戦後,航空自衛隊に入らなかったのは何か事情があるのでしょうか?
【回答】
坂井は片目失明だし,手指もたしか4本失ってる.
頭には,取り出せなかった銃弾が2発ばかり残っていたらしい.
空自の基準では身長も不足だった.
たとえ本人が希望しても入隊できるわけがない.
軍事板
【質問】
ニュース速報板の坂井中尉追悼スレッド見たが,人が死んだ事が本当に嬉しい連中っているんだねぇ
.
【回答】
「第二次大戦の語り部」ゆえに,誰にも真似の出来ない重みある言葉を持つ人物ですから.
自称平和主義者にとっては,自分達がどうしても手に入れられない,戦争の実体験を持つ人物は,
「改悛の全く見られない犯罪人」
か,
「地獄を見て改心した『聖人』」
かのどちらかでないと,利用価値――彼らにとっての他人とは,これがあるかないかの存在でしかない――を見出せないのです.
それなのに,全てに対して距離を置く(=上記のいずれにも該当しない)坂井氏のあの姿勢は,彼らにとってはまさに,「目の上のたんこぶ」そのものだったのでしょう.
もっと生きて当時の事を語っていただきたかった.
今は只,冥福を祈るのみ.
いつかの「朝生」ではその説得力のある言葉に,左翼どもも返す言葉がなかったことがあった.
彼はただ過去を美化するのみでなく,旧軍の悪い部分も批判すべきところは批判した人だった.
それにしても
http://saki.2ch.net/test/read.cgi?bbs=news&key=969961921
のクソ左翼どもは人間らしい心というものが全く欠如しているとしか思えんね.
怒りを通り越して悲しくなってくる.
一方,かつての敵国の米国では,8日付の New
York Times にて,坂井氏の死去について大きく取り扱われております.
その扱いの大きさもさることながら,記事の内容についても坂井氏が戦後日米間の友好を取り持った功績のある人物の一人であることが容易に伺われます.
私は撃墜数よりも戦後の氏の功績をより評価すべきだと思いますし,当該記事も「戦後,米国人との深い友好という絆を結んだ(意訳)」と書かれております.
この記事の存在を知らせてくれた知人の退役海兵少佐は,同時に「これを読め」と「SAMURAI!」を貸してくれました.
1957年刊で,私の坂井氏といえば零戦というイメージに反して,表紙は雷電戦闘機のパーペーバッグです.
記事中,米空軍歴史局の歴史家Yvonne Kinkaid氏の言葉として(※意訳)
「撃墜数というものは,誰が誰を撃墜したかということを正確に記録することはとても困難である.
だがエース・パイロットを後方に教官として送った米軍や,貧弱な装備のロシア軍機を数百撃墜した※ドイツ軍エース達に比べ,日本軍の人的資源の不足から終始前線で戦い抜いた坂井氏の出撃記録は偉業である」
と紹介されております.
※この手のドイツ軍エース評価については,異論は出ているけどね.
◆◆◆◆◆日本機以外
【質問】
昭和12年に日本海軍はアメリカからセバスキー2PA-B3複座戦闘機を25機ほど購入していますけれど,これらは中国戦線に投入して敵機撃墜や基地破壊等の記録に残る戦果を出したのでしょうか?
最高速度500キロ,航続距離4000km前後,余裕のある機体設計は,当時の単発戦闘機としては上々かと思うのですが.
【回答】
その高速と長大な航続距離に期待して1937年に購入,装備して,S号戦闘機という名称で準制式機の扱いで,第12航空隊に配備されましたが,He-112よりも更に運動性が悪く――日本海軍の戦闘機乗りは一撃離脱より巴戦信奉者が多かったので当然ですが――,操縦性は最悪という判定を下され,援護用には全く使用されず,2機が2年後に朝日新聞社に,1機が東京日日新聞社に払い下げされています.
東京日日新聞の機体は,1941年に爆発して大破.
朝日の機体も,神風号の飯沼飛行士が操縦中に胴体着陸をするなどして,戦争前までに全て喪われました.
そして,残りの機材は仕方ないので,陸上偵察機として使われた後,内地に於て操縦学生の訓練機や,整備学生の整備機材として使われました.
ちなみに,こいつを購入して霞ヶ浦で試験をした時,大仰角の急激な運動をすると必ず猛烈な不意自転が生じたのですが,この機体に付いてきたセバスキー社のテストパイロットは,この現象は,高速機で必ず発生する『スナップロール』と言うものだ,と丁寧に「解説」されたそうです.
この頃までに,日本海軍の操縦安定性に関する研究は,世界に比肩するくらいまでに至っていたのですが….
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
太平洋戦争の初めにインドネシアのオランダ軍が使ったらしいCW-21という戦闘機(?)について教えて下さい.
【回答】
CW-21は,Curtiss-WrightのCW-21Demonと言う輸出用戦闘機で,この会社のSaintLouis部門が,CW-19R複座多用途機を基に製作した輸出用単座戦闘機です.
1939年1月に原型機が初飛行,同年に中国が完成機3機と部品状態の機体32機を購入しました.
オランダには,脚を内側引込式(原型は後方引込)とし,7.7mm機関銃と12.7mm機関銃各1丁の武装を各々2門ずつに強化したCW-21Bが24機輸出されましたが,1機が日本軍に鹵獲され,他は殆どが破壊されました.
日本に鹵獲された機体は,飛行隊長の愛機となっていたそうです.
ちなみに,中国に輸出された部品は,3機組み立てられましたが,1941年12月23日に,米軍によって運用中,山に激突して全機失われています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
日本にフォッケウルフが試験的に輸入されていたそうですが,何時ぐらいに来てどんな試験をやったか分かりますか?
【回答】
1943年1月に封鎖突破船によって輸入されました.
日本が輸入した最後のドイツ機です.
福生飛行場や所沢飛行場で試験飛行を行い,当時量産中の飛燕,鍾馗,隼,開発中のキ−84などと模擬空戦を行っています.
また,陸軍審査部,明野飛行学校の操縦士たちによって評価が行われ,加速性能と急降下性能が非常に優れているとされ,進歩的な操縦士達には非常に好評でした.
一方,技術的なものとしては,徹底的な量産構造,艤装,各システムの作動が確実な点が評価され,発動機関係の取り回しについては,飛燕を五式戦に変更する際の参考になりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
Fw190の日本での評価は?
【回答】
名パイロット荒蒔氏が「外国機ではベスト」の評価をしてます.
技術面では,捕獲機でもそうですが,見るべき目のある技術者は,構成部品の精度や内部艤装などで日本の遅れを痛感しています.
(開戦時に捕獲して英米の戦闘機でも「これはどえらい国と戦争する事になった」と感じた人は多いです)
ちなみに川崎の土井さんは,Fw190を参考に5式戦の首換えをやってます.
【質問】
日本が,鹵獲したムスタングを相手に模擬空戦をやったら,どうやっても勝てなかったというエピソードがありましたが,
1) 鹵獲機の燃料は米軍燃料のままでしたか?
2) エンジンをパクろうと試みなかったのですか?
【回答】
エンジンがすぐにパクれる様な物なら,最初から苦労はしてません.
ダイナモ(オルタネーターだったかな)が故障して修理できなくて飛ばせなくなったしねぇ.
もし何かのはずみでマーリンが数百台まとめて鹵獲できたら,そのまま使ったかもしれませんが,交換パーツの補充も出来ないのに,1台(1機)だけ入手したエンジン・敵機をどうしろと?
パッカードのようにロールスロイスから図面や製造資料一式を提供されたわけではないのです.十分な技術力があったとしても,パーツから製造公差を推測しながらインチ単位の図面をメートル法に換算しながら作成して,試作して試験して生産ラインを起こして資材確保して生産するすまでには,短くても数年はかかります.
生産に入る頃には間違いなく時代遅れになっていて,しかもそれまでの技術体系とは異質のものを導入する必要はどこにもありません.
逆の例で言えば,アリューシャンやその前に中国で零戦を鹵獲していた米軍は,零戦の特性を把握して対零戦の戦術を編み出すのに利用しましたが,栄エンジンや零戦をコピーしようとはしなかったでしょ?
光人社刊,押尾一彦・野原茂著の「日本軍捕獲機秘録」と言う本に書いてあるのですが,中国・漢口付近で飛行可能なP-51Cが捕獲されたのですが,性能調査後,その機体を使って国内の防空戦闘機部隊に対して巡回戦技指導を行ったのですが,その際に使用したのは,特別仕立ての希少な91オクタンガソリンで,あらかじめ巡回先に鉄道輸送で送っていたそうです.
最後は発電機が故障し,修理も試みたのですが適わず,そのまま放置されてしまったそうです.
つまり,補機類の修理やコピーも出来なかった訳で,それがエンジン本体のコピーなんて,とても出来ないでしょう.
この本には,他にもノルディン照準器やターボチャージャーをコピーしようとした話が出て来ますが,いずれも基礎的工業技術の格差が理由で,頓挫しています.
軍事板
燃料については,捕獲されたP-51Cを飛ばすために,特別に貯蔵してあったオクタン価100燃料を使用したそーです.
【質問】
フーファイターを今日はじめて知りました.
これって軍事板的には都市伝説みたいなもんですか?
【回答】
割と有名な話だと思いますが,日本本土夜間爆撃に参加したB-29のクルーの中で,どんなに振り払っても追尾してくるなぞの飛行物体を目撃したと言う証言が,相次いだことがあります.
陸軍航空隊上層部は徹底的な調査を行って,後日B-29のクルーに次のような通達をしました.
「諸君らが目撃したのは金星である.この時期,特に日本上空では,金星は通常より明るく輝いているのである」
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
雷電の赤松中尉は戦後どうなったの?
【回答】
赤松貞明は戦後,酒におぼれる毎日だったが,友人の勧めで高知漁協に雇われ,セスナで上空からカツオの群れを探しては通報していたらしい.
それも長続きせず,最後は喫茶店のマスターで悠悠自適.
◆◆◆◆◆雷電
【質問】
以前から渡辺洋二著の局地戦闘機『雷電』を読んでみたいと思っていたのですが,近くに軍オタに優しい規模の大きな本屋はないので,アマゾンで通販しようと検索してみたところ,同タイトルの書籍が幾つもあったのですが,内容は基本的に同じものなんでしょうか?
この中からどれを選べは良いのでしょうか?
【回答】
一番最近に出たのが文春文庫収録のもので,これが今のところ最新版です〔2005.7刊〕.
最初の第二次大戦ブックスのそれが250枚だったのから,朝日ソノラマ文庫に入る際に順次改訂,訂正し,文春文庫収録の際に更に更正,増補,改訂を行っていて,この段階で500枚に達しています.
作者の後書きではこの文春版が最終版としていますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
【質問】
実際のところ,雷電のカウリングと延長軸のおかげで,どれだけ抵抗減少になったか疑問なんですが.
【回答】
あれは空技廠の空力研究による「紡錘形理論」を採用した為で,胴体全体の形状を紡錘形にする事に意味があったのです.
延長軸と絞ったカウリングの採用はその為です.
ぶったぎったら,らぶん紫電のレザーバック版の様なイメージになったでしょう.
それと機首を絞っても正面面積自体は減りませんし,肝心の紡錘形理論はプロペラ後流の圧縮性を考慮すると意味がないそうです.
(雷電は機首にプロペラが無ければ抵抗減少に最適な形状だそうですから)
むしろFw190は,鍾馗の様に細く絞った方が良いそうです.
【質問】
雷電は視界が極めて不良であったという話はよく聞きますが,実はゼロより悪いだけで,実際は視界良好(除く離着陸)という説もありますね.
本当の所どうだったのでしょう?
飛行姿勢の関係もありますし,難しいです.
【回答】
前方・側方視界については疾風よりは良好だったようです.
(米軍レポートに依る)
問題なのは後方・下方についてでしょう.
下方視界不良については言うまでもないとして,後方視界不良は極めて不評でした.
当時の熟練搭乗員からも「零戦並に向上を」とのクレームがついていますね.
このため大型キャノピー搭載の31型が試作されています.極少数ですが.
空気抵抗減少のため紡錘型カウリングを採用したのが,この視界不良の原因です.
これは設計思想の混乱ゆえの問題だと思います.
速度重視の設計によって当初から視界の悪さはの余儀なくされていたのに,
「視界は多少悪くても良い」
のか
「速度優先ながら視界確保は重視」
なのか実は曖昧なまま開発が進めらていました.
で,前記のクレームが出るに及び,空力的に不利なキャノピーの拡大を強いられることになります.
【質問】
雷電の生産数が少なかったのは何故ですか?
【回答】
堀越技師の話より抜粋.
「生産に入ってから,視界問題のため生産を減らす命令が出されたり,反対に増す命令が出されたりして,本機の生産はしばしばぐらついた.
生産計画の変更のために,三菱の戦闘機生産線は大混乱に陥り,本機だけでなく零戦の生産にも能率低下を招いた.」
開発の遅れもあったでしょうが,現場の混乱が生産機数の減少を招いたと言えるでしょう.
また,軍部の酷使がたたって堀越技師を始め多くの技師が倒れ,完成が遅くなった点も否めません.
1939/9 試作要求,
1940夏 曽根技師倒れる,
1940秋 堀越技師倒れる
1942/2 高橋技師が引き継ぎ試作機完成,初飛行
1942/4 脚設計担当の加藤技師が肺炎で死亡
1942/9 馬力不足のため水メタノール噴射機を設置,仮制式化
1943/6 帆足大尉の試作機墜落,原因究明に3ヶ月かかる
1943/9 量産開始
1944/1 11型制式化
【質問】
父親が子供のときに工場で働かされて雷電とかいう飛行機作ってたらしいんですが,飛ばすときに10機中7機は離陸する時バランス悪くてすぐ落っこちたとか言ってたんですが,飛ばないなんてことあるんですか?
【回答】
雷電は三菱重工の他に座間にあった高座海軍工廠でも生産が行われていたのですが,台湾の少年工を動員して生産が行われていたため,とにかく出来上がりが悪かったとか.
雷電はもともと操縦が非常に難しい戦闘機と言われていたのでなおさらです.
名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
【質問】
302空の雷電が,敵戦闘機を見ると空中退避したのは何故ですか?
【回答】
対戦闘機:一式戦,四式戦,五式戦,零戦,紫電,紫電改
対爆撃機:二式単戦,二式複戦,三式戦,雷電,月光
という使い分けがあって,対爆撃機用の戦闘機が本命(爆撃機)を相手にするために,あえて敵戦闘機を避けるのはよくやったこと.無駄な消耗を避けられる.
30mm斜銃を積んだ雷電に空戦はやらせられない.
ただし完全に回避したわけじゃない,
一部のベテランは雷電で対戦闘機戦闘はやっている,ただし数例.
空中退避命令も完全な退避ではなくて,適当に高度をとってから引き返して優位であれば攻撃をしかける消極的迎撃方法をとったて話が,渡辺洋二氏の『雷電』の中にある.
もっとも,戦闘機とやりあった302空のパイロットは
「いっこうに引き返す気配がないので勝手に引き返した」
って渡辺氏の取材に対して答えてますけど.
◆◆◆◆◆零式艦上戦闘機(零戦)
【珍説】
「ゼロ戦はパイロットの間でも親しまれていた愛称」というのは誤り.
まず当時の日本人にゼロという言葉がなかった.
それにモロ敵性語,一応部隊番号に英字は使われていたけど,海軍であっても士官以下が外語を使う事はなかった.
軍事マニアなら,ゼロが戦後に始めて日本流布した事は誰でも知っている.
【事実】
公式の呼称は「レイセン」ですが,坂井三郎等パイロット達も,普通に「ゼロセン」と呼んでいたようです.
「まず当時の日本人にゼロという言葉がなかった」というところからして間違いで,大きな図書館で戦前の文芸誌など読めば「ゼロ」は楽に見つかります.
実際,昭和十九年十一月二十三日の朝日新聞にも,『荒鷲等からは零戦(ゼロセン)と呼び親しまれ』とあります.
ちなみに零式観測機も,ほとんどの搭乗員が「ゼロ観」と呼んでいたようです.
(True/False ◆ItgMVQehA6他)
以下引用.
●再刊に寄せて 坂井三郎
最後に,「零戦」の読みについてお断りしておきたい.文中「零戦」と表記しているが,言うまでもなく漢字としての「零」はレイ,であってゼロという読みはできない.
しかし,「零戦」はゼロセンなのである.
もちろん制式採用当初の名称は,「零式艦上戦闘機」(レイシキ・カンジョウ・セントウキ)であり,多くの場合「レイシキセン」あるいは「レイセン」と呼ばれていたのは間違いない.
しかし,空母や陸上部隊において「ゼロセン」の呼び方が使われていたことも事実であるので,ここでは一般的な呼び方として「ゼロセン」を採っている(原題もゼロ・ファイターであり,今や世界共通語でもある).
この呼び方にかんしては,ゼロかレイかと気にする向きもあるようだが,現実には
「両方とも使われていたので,あまり気にする必要はない」
というのが正解ということになるだろう.
http://namiki-shobo.co.jp/war2/tachiyomi/ww2001.htm
「海軍であっても,士官以下が外語を使う事はなかった」についても,例えば,阿川弘之氏はその著書の中で
「士官も下士官も使った日常語では,風呂がバス,ブリキ缶がチンケース,道具箱がギヤボックス,
色々あるけど,いずれにせよ,ことごとくが英語『みたいなもの』だから,戦争中世間に「敵性語廃止」の声が高くなっても,海軍は英語の全廃など到底出来なかった.(講談社刊『海軍こぼれ話』)」と書いておられます.
阿川氏の考え方が海軍のメインだったかどうかはわかりませんが,こういう考え方の人たちがいたことは間違いないでしょう.
軍事板
今から十数年前の夏,偶然にもS根K年氏とお話をする機会が御座いました.
ちょうど「零戦燃ゆ」あたりを読んでいたわたくしが,
「ところで,堀越さんとしてはれーせんの防弾に対して・・・」
とか
「れーせんの沈頭鋲の効果というのは実際のところ?」
とか,うじゃうじゃ質問しておりましたところ,S根氏が急にわたくしの話をさえぎって
「ゼロ戦でいいですよ,ゼロ戦で.私ら,当時からそう呼んでましたから」
と言われましたことを鮮明に覚えております.
ガキんちょが,さかしらぶって,ああだこうだ言うのにうんざりされたのかも知れません.
まあ,造った人の一人がどっちでもいい,と仰るんだからどっちでもいいんでしょう.
なお,海軍軍人の中で源田さんほど設計者の言うことを聞いてくれない人はいなかった,戦訓会議でも普通に喋ればいいのに,大声で威圧的に喋るからヤダった,と笑っておられました.
S根氏も亡くなって3年になりますか.
【質問】
下記のHP(旧日本軍弱小列伝)で,零戦はグロスターF.5/34のパクリと書かれていたのですが,これってほんとなのでしょうか?
by mailform
【回答】
これへの回答は
「堀越技師の書いた本読め」
という1行で済ませてもいいですよね?
消印所沢
日本軍弱小列伝の中の人は○○さんだと勝手に思っているのですが,それじゃあ敢えて以下の意見を紹介しておこうと思いました.
http://www.warbirds.jp/ansq/12/A2003079.html
http://www.warbirds.jp/ansqn/logs/A001/A0005121.html
これとかも使えますかね.
内部構造云々は,グロスターF5/34が鋼管構造だと言われている事を指しているのだと思います.
一方零戦は,セミモノコック構造ですよね.
構造面で零戦は,ヴォートV-143のカウリングから排気管周りにかけた処理方法と引き込み脚の構造を,陸軍の97式戦闘機から主翼と胴体の接合部の構造を取込んでいるので,パクリ云々を言うなら,グロスターF5/34よりも,上記の二機を挙げた方が適していたと思います.
デザイン面で言うと,機首から尾翼の方にかけてなだらかに機体を絞っていくのは,7試艦戦以来の伝統ですし,また旧日本軍弱小列伝に載っている3面図を見ると,主翼と水平尾翼の位置とサイズ比,垂直尾翼の位置やサイズ,主翼の取り付け角や捩じり下げの有無など,どうも零戦とグロスターF5/34とでは結構違っている様です.
ただ,上記三面図はプラモ用の図面っぽいので,どこまで確かな事なのかは定かではないですが.
零戦というか12試艦戦が,発動機を金星ではなく瑞星にした事を,F5/34のカウリングに合わせた為としていますが,同機に使用されたマーキュリー\は直径1.3mで,瑞星の1.1mよりも金星の1.2mの方が近い値です.
あとパクリの「状況証拠」として,計画説明書提出(昭和13年4月)してから試作一号機(昭和14年3月)がわずか11カ月という値を挙げていますが,計画説明書は,これは昭和12年9月の「十二試艦上戦闘機計画要求書」発行や,その数ヶ月前に行われた同計画要求書の内示を受け,三菱側が延々と行った設計検討の結果を受けて行われたもので,要するに概略設計を終えた後に行われたデザイン・レビューです.
11ヶ月で設計および試作1号機製作を終えたかの様な描写は,単なる印象操作に過ぎないと思います.
――日本近代史板
JSF
F.5/34はださくたんのイラスト見て描いたことあるけど,あれと零戦が似てるという時点で「目が腐ってるのでは」と言わざるを.
まぁ世の中には,見た目が似てるってだけで
「PS-1はP5Mのパクリ」
だとか言うやつも居りますが.
(挙句の果てに「PS-1はP5Mベース」)
この,スケビに載ってた例のださくたんの蛇の目コラムでは
「外国機の中では,見た目とスペックでもっとも十二試艦戦に似ている」
と表現していたもっさ.
十二試艦戦の化け物染みた航続距離には一応触れていたけど,15%にもなる空虚重量の差には気付いていなかったもっさりが.
まぁ見た目でギャーギャー言う半可通には,C-130とC-133とベルファストとAn-12を並べて見せてやれば良いもっさり.
メッサー=ハルゼー
プロペラが前についてて,エンジンがひとつで,主翼と尾翼がついてる!
わぁ,ホントにそっくりですね!!!11!!!1
極東の名無し三等兵
画像↓は,軍板で拾ってきました.
これだけ,水平尾翼容積が違うと空力特性も結構違うでしょうねえ.
後は,翼型の情報でもあれば面白いのですが.
同じだったらパクリ疑惑が濃くなりますけど.
ゆきかぜまる
水平尾翼の面積もそうですが,胴体が長く,取り付け位置がより後方,
ここまで違うと,操縦特性はまるで違う飛行機の筈です.
JSF
▼ ちなみに『あっと驚く飛行機の話 新しい視線で眺めるWWU』(飯山幸伸著,光人社NF文庫,2008.5)によると,ヴォートV-143は元々,ノースロップ社が米陸海軍向けに設計した戦闘機(いずれも不採用)を,ヴォート社が購入,米陸軍への採用や外国への輸出を目的としたもの.
結局はこれも米陸軍からは不採用になったものの,日本へ輸出された機体は主車輪の引き込み脚が参考になり,このことがヴォート社関係者による「ゼロはV-143のコピー」という主張の根拠になっているそうです.
(日本での採用は九六艦戦や九七戦との比較審査の結果,ボツ)
本書では,「平面図なら零戦よりも隼の方が似ている印象」としており,また隼の独特の主翼の形状(前進も後退もしていない前縁からなっており,翼弦の最厚部は前進している)は,中島飛行機の小山技師長が考案したものである,と指摘しています.
グロスターF.5/34は同社の複葉戦闘機グラディエーターからホーカー・ハリケーンやスーパーマリン・スピットファイヤの要求仕様にマッチさせたもの.
単葉になった主翼はテーパー翼で,引き込み脚は後方への半引き込み式.
また,開発・審査も零戦より先.
しかし,零戦21型とは外見は兎も角(細かいところは見なかった事にして),
搭載エンジンの差(零戦21型の方が百馬力ほど出力が高い)
空力処理の違い(零戦21型の方が翼面積が1u強大きく,全部重量は40s弱軽い)
能力差(零戦21型は6000mまで7分27秒で最高速度533km/h.F.5/34は6100mまで11分,最高速度508q/h)
など指摘しています.(F.5/34は試作二機のみ)
筆者の個人的な疑問なんだが,何でワザワザ外国の,それも「不採用機」をコピーせにゃならんのか.
不採用になるにはそれなりの問題を抱えてる訳で,そんなのを如何こうしてもリソースの無駄な気がする.
そもそも,V-143は兎も角,F.5/34は二機しか製作されていない訳で,そんな機体の情報を集める位なら,なぜ諸外国の航空エンジンの構造などの情報を集めないのだろうか.
そもそも「零戦はF.5/34のコピーだ」という話,なんで出てきたんだろう?
ていうか,本書の冒頭にこの三種類の飛行機の写真(零戦は32型だったが)があったけど,かすりもしてないほど似てないぞ.
〔略〕
この他に著者は零戦と「コンセプトが」似ている機体として十七試艦戦烈風とグラマンF8Fベアキャットを挙げています.
特にベアキャットについては,零戦が当時の米海軍の主力戦闘機F6Fヘルキャットに対し,低高度での運動性や上昇力で勝っている事から,それに対抗するため機体のスケールダウンや軽量化を行っています.
(F6F-5:全幅13.05m 全長10.24m 全高3.99m 主翼面積31.03u 自重重量4,190s 最大離陸重量6,991s
F8F-1:全幅10.92m 全長8.61m 全高4.22m 主翼面積22.67u 自重重量3,207s 最大離陸重量5,873s)
(この数字はディアゴスティーニ社のワールドウェポンから)
そして零戦と似ているベアキャットの特徴として,水滴型のキャノピーに覆われ胴体の一番高い所に置かれたコックピット,エンジンの大きさに合わせた極力小さな胴体,舵面の大きな尾翼,といった点を挙げています.
そう言われれば,そんな風に見えてきた気が…(笑).
グンジ in mixi,2008年05月11日16:52
▲
形状比較
軍事板
【質問】
〔上掲形状比較画像を見て,〕これむしろ「似てるなー」と思ったのは俺だけ?
パクリとは言わなくても,「参考にした」程度の類似性は感じられた.
特に飛行機や設計に詳しくない一般人なら,むしろその方が自然な印象じゃなかろうか…?
ぶり
【回答】
印象だけで断言するのは大問題ということです.並べている数値も全然足りないし.
>「参考にした」程度の類似性は感じられた.
それを言い出したら,全ての航空機は既存の機体を「参考にし」ています.よほどエポックメイキングな機体以外は.
ライトフライヤーでさえ「鳥を参考」にしています.
見た目だけでパクリが成立するなら,例えば最近の双発旅客機なんてほとんどの人には区別無理だと思いますけど.
330と767の写真を見せられてどっちって言われても,分かる人にはもちろんわかるでしょうけど,名前知ってるだけ程度の私には区別をつける自信はないです.
こちらのサイトさま
http://www.lnet.ne.jp/~aaa/
の航空機写真ギャラリーよりA330とB767の写真でも.
http://www.lnet.ne.jp/~aaa/TEI0619M.jpg
http://www.lnet.ne.jp/~aaa/TEI0406M.jpg
たいていの方には,零戦とF5/34より似てるように見えるのではないかと思いますが,でも私はこの両機がパクり関係にあるというようなお話は聞いたことがないのですよね.
要するに,構成要素が似通っていると,外見的にもある程度近くなるのは物理的にしょうがないわけで.でも,だからといってそれが即パクリの証拠にはなりません.
零式艦戦とF5/34では構造的な差のほうが顕著ですね,主翼の桁構造とか全然違います.
F5/34の正確な構造は知らないのですが,図を見る限り単桁−前縁でのD型トーションボックスか前桁−主桁トーションボックス構造で捩れ荷重を受け持ってます(主桁の後ろに大穴空けてタイヤ収納してるのがその証拠).
対して零戦のほうは,主桁−後桁でトーションボックスを形成して,タイヤは主桁の前に納める方式.
P-51の主桁構造と同じですね,
そのせいか,主桁はあの時期の飛行機としてはわりと後ろ目.
以上の差がありますから,主翼は同じように見えたとしても荷重分布とか,それに対応するための部材の配置やそのための計算はかなり違うと思います.
そこまで違うものにするなら,構造パクって手直しするより,自力で設計したほうが早いんじゃないかと.
それ以外に,主脚ですとか尾部構造もかなり違いますし(当然各部材の強度や接続方法も全然違う),性能的な面でもサイズはもちろん搭載量とか航続距離とかかなり違いますからねー.
あと,見た目だけなら多分イタリアの単葉空冷機のほうが似てると思います.
>よほどエポックメイキングな機体以外
リピッシュ博士のことかぁぁぁぁ?
【質問】
>名前知ってるだけ程度の私には区別をつける自信はないです.
この1文と後半の詳しい解説が全然一致してない気が…
前半では素人を装いながら,でも後半のパクリ否定ではいきなり専門家のような話を始めてるし…
別にパクリ説やそのサイトを全部肯定する気もないのですが,でも否定論者の言ってることも,まず否定有りきでバイアス掛かりすぎのような気がします.
【回答】
えくれあ氏が「名前を知っている程度」とした対象は,旅客機のエアバスA330とボーイングB767の筈でしょう.
後半のパクリ否定は零戦とF5/34,P-51の話です.
>でも否定論者の言ってることも,まず否定有りきでバイアス掛かりすぎのような気がします.
否定有りきも何も,実際に間違ってるのだからしょうがないのでは? また,航空機の構造について高い知見を有することと,個々の機種の特徴を覚えていることとを両立させる必要性も必然性も全く無いのであるが.
そもそも民間旅客機など興味の無い人間にとっては,その程度のものでしかない,としか当方は当該文章から読み取れない.
それと具体的に指摘できないのであれば
>まず否定有りきでバイアス掛かりすぎのような気がします.
などと印象操作と看做されても仕方の無いことを書くべきではないな.
妥当性を欠いた見解が根本から否定された,
ただそれだけ.
直上のえくれあ氏による書き込み含め,本項目に収録されている否定論は技術的見地から見たものであり,バイアスのかかる余地なぞ一切ありません.
むしろ,件のサイト管理人(とその記述を鵜呑みにする人々)こそ,客観的・技術的観点から論ずることを忘れていることからして酷いバイアスをかけた見方をしていると言えます.
いえいえ,自分もわかりにくい文章だったかもしれません.
前段のほうですが,ある二つの製品を「詳しくない人が似ていると感じること」自体と,その二つの製品の間の関係(この場合はパクリがあったかどうか)には,直接の関連性はなにもない,という意味合いのことを言いたかったのです.
エアバスA330とボーイング767を例に挙げたつもりでしたが,別に車でヴィッツとフィットが似てるとか,カメラのニコンとライカは似てるとか,日立と東芝のDVDレコーダーは似てるとか,そう感じる人がいても全然不思議ではないと思います.
でも,似てると感じる人がいても,その間に技術的な相関やパクリがあったかどうかは,まったく異なる問題であることはおわかりになろうかと思います.
私自身,いま例に挙げた3つはやはり区別つきません(笑).
でも,区別が付かないもの=パクりであると即断するのは間違いであると思います.
後段については余談に近いものです.
私自身は技術工学的な知識はほとんどありません.趣味誌や趣味本を眺めているだけです.
それでも数冊,丹念に読んでいくと,ああ当時こういう手法が知られていたんだな,こういう手法を試してみたんだなということはなんとなくわかりますし,そうした知識や理解を前提に眺めてみると,後段で書いたような違いも浮かんでくるよ,ということです.
似ていると思ったら,じゃあどこが似ていてどこが違うのか,なぜ似ていてなぜ違うのか,それを探ってみるのもこの趣味の一つの楽しみです.
似てるという印象をパクりと一言で言ってしまうのは楽ではあるし,一刀両断してしまえば気持ちよくもありますが,それは同時に思考停止を誘発する言葉でもあります.
思考停止は,技術とかその辺りの趣味を掘り下げる楽しみをスポイルする,それは残念なことですよ.
知る楽しみ,理解する楽しみというのは実にスリリングで楽しいものです.
なお,私自身は「F5/34を参考にした」説にも否定的です.
なぜなら,せいぜい写真くらいしか手に入らなかったF5/34よりも,手元に自由に扱える参考製品を当時の日本はいくつか持っているからです.
結果的にF5/34に似た何かが出来たとしても,最初からわざわざF5/34に似せなければいけない理由は何も見当たりませんし,
である以上,パクりが成立する必然性そのものがそもそも薄いと思います.
<他にもまだまだある日本軍パクリ疑惑!!>
戦艦長門は40cm砲を積んでるからコロラド級のパクリ!
日本の軍用犬はジャーマン・シェパードのパクリ!
「金曜カレー」は猫のパクリ!
【質問】
問題のグロスターF5/34って,どういう飛行機?
【回答】
グラディエーターの後継機として開発した戦闘機.
そう言われてみれば,グラディエーターを単葉に改めた感もなくはないね.
主脚は半引き込み式で,下の図を見ても分かるように,飛行中はタイヤがちょっとだけ顔を出している.
全長9.69m
全幅11.6m
全備重量1.2t
エンジンはブリストル・マーキュリーmk.9で825hpだから,初期の零戦よりさらに非力.
最大速度490km/h
実用上昇限度9800m
必殺技はF5攻撃(うそ)
採用されませんでしたとさ.
【質問】
零戦に関することなんですが,よく工場から出荷時に牛車で引いて飛行場まで運んだとの記述を見かけるのですが,これは三菱製,中島製をとわずなのでしょうか?
またそんな事をしなくても工場敷地内に滑走路を,用意しておけば,機体,エンジンの慣らしが終わった段階で部隊へそのまま納品できると思うのですがしなかったのは何か理由があるのでしょうか?
【回答】
牛車を用いたのは三菱の工場だけです.
中島の工場はクルップとかライトの工場を参考に造られています.
ドイツなどでは,防空上の理由で,工場を秘匿することを最優先として,隣接する場所に滑走路は無く,完成機は最終組立所まで鉄道で運ばれ,組立て,試験し,前線に送っています.
ゼロ戦のエンジンに用いられているボールベアリングの精度は, 現在の日本が作ったパチンコの玉以下
ttp://www.satotekkou.co.jp/technical/steel_jis.php
……なのですか?
【回答】
相手にすべきじゃないのは分かっているのだが…,かつてベアリング会社の禄を食んだ身としては,これは看過できない.
現代のパチンコ玉はJISの鋼球規格にしたがって作られているわけだが,1940年当時,真球度0.25(単位:μm
− 鋼球一個を地球直径にまで拡大した場合で富士山程度の凹凸に相当)のベアリングを量産出来ていた国がどこにあったのかと.
つか,パチンコ玉一個製造するのにどれだけ高度な技術が投入されていると思っておるのだ,
>「ゼロ戦のエンジンに用いられているボールベアリングの精度は,
>現在の日本が作ったパチンコの玉以下」
ってのは,技術史ってものを理解していない物言いだな.
そもそも計測機器が貧弱で,そんな精度のベアリングなんざ,もし作れても計測できんがな.
ただし,今のパチンコ球の精度はともかくとして,当時の日本のボールベアリングの品質はかなりひどかったと聞いています.
精度の点もありますが,強度や耐久性もいちじるしく問題があったそうです.
なにしろ戦闘機どころか,自転車部品のベアリングでさえ輸入にたよっていたという話もありますから.
東部戦線
質問内のリンク先で問題なのは,測定器具や生産後術といったインフラが比べ物にならないくらい発達した現在と,精々マイクロゲージ程度のものしかなかった当時とを比較している点でしょう.
これでは酷い印象操作でしかありません.
これが当時の米国のベアリングとでも比べていたら,まだ学問的にも価値がある比較でしたし,ここまで叩かれることも無かったでしょう.
ゆきかぜまる
ベアリングについてはこれが.
http://mltr.free100.tv/faq08n.html#06061
>欧州SKS製のそれに比べると凡そ10倍も精度が悪いものでした.
JSF
【質問】
うちのじいさんは昔,日本海軍のパイロットとして零戦に搭乗してたらしく,零戦は名機だったと話してくれますが,私はわかりません.
零戦はそんなにすごかったのでしょうか?
また,そんな名機を保持していた日本がなぜ戦争に敗けたのでしょうか?
【回答】
世界水準の戦闘機を一機種開発出来ただけで世界大戦に勝てる程,あの戦争は甘くはないのです.
あの時代の航空機の進歩は日進月歩ですが,零戦を生んだ日本には諸外国のその進歩についていけるだけの国力を持たなかったのです.
確かに零戦は登場時こそ「神秘的」と称されるほど,日本機を過小評価していた連合軍側を驚かせるだけの性能を持っていました.
当時の米空軍のパイロットの規定の中に自分の判断で逃げる際の判断の基準のなかに「ゼロと遭遇したときと」というのがあったそうです.
しかし非力なエンジンを極端な軽量化で補った機体は,性能向上の余地が少なく,また日本の国力では零戦のさらなる能力向上やその後継機の出現も果たせませんでした.
太平洋戦争がはじまって緒戦こそは性能的な優位に立てましたが(昭和17年中期ごろまで),連合軍側が緒戦のショック状態から立ち直って組織的な反撃をする頃になると,それまでの無敵神話(これもかなり怪しいのですが)は影を潜め,最初は量で,最後には量と質の両方で零戦は連合軍の戦闘機に圧倒されて,日本の敗北と共に姿を消しました.
性能では,海軍のF4Fで同じくらいの性能に追いつかれそうになって,F6Fで突き放されました.
太平洋戦争を始められたのは零戦があったから・・・とも言われますが,戦争を勝利で終わらせる程の力は,日本の国力と共にあの戦闘機にもありませんでした.
【質問】
熟練搭乗員の中には
「1対1なら,相手がF6Fでも零戦は負けん」
と豪語した人もいたそうだけど,実際はどうだったの?
【回答】
そう言った「名人芸」気質に頼る当たりが日本の弱点です.
陸軍も手動式の三八式歩兵銃を
「米軍の自動小銃に比べ連射性能が落ちるが,訓練の行き届いた兵ならそれ程の差はない」
なんて言って使っていました.
東郷さんの言った「一発必中の砲一門は100発1中の砲百門に勝る」と言うのと同じ思想です.
たとえ多少命中率,破壊力が落ちても新人を含め,誰もが簡単に扱って結果が得られる武器,これが理想です.
そう言った意味では22型以降の零戦は,米軍F6F等に劣っていたと言わざるを得ないでしょう.
延伸性の高い13mm機銃が付いていれば,少量の大口径弾を遠距離(無効弾)からばらまいてしまう愚は犯さなかった可能性があります.
しかし,日本は貧乏国だったので,そう言った発想はあっても実現は困難だったでしょう.
陸軍に100式機関短銃が最後まで実用的に行き渡らなかったのと同じです.
【質問】
零戦は,パイロットが乗りこなせるようになるまでに時間のかかる,職人芸を必要とする機体だったのですか?
【回答】
職人芸がどうのはともかく,零戦はその特性を生かせるようになるまでには時間がかかる機体であったのは事実でしょう.
単純に飛ばせるようになるという意味での習熟までの必要時間が短くても,あまり意味はない.戦闘機である限り戦力といえるまでに習熟する必要がある.
つまり,敵を撃墜できるほど上達しないといけない.
その点で格闘戦用機の場合,搭乗員は当然のことながら格闘戦において,自力で敵を撃墜できるレベルまで技術を上げないと戦力とはいえない.
それに対して,一撃離脱用機の場合戦場で「編隊として」戦えるのでベテランパイロットと組めば,そこそこの人でも戦力となりえる.
たしかに,どういう特性の機体であれエース級になるには才能と時間が必要でしょう.
ただ,格闘戦の場合,新米はエース級の人についていくことすらできない.
一撃離脱戦ならば新米はエースについていけばなんとかなる.
そういう意味で,「零戦は習熟するのに時間がかかる機体であった」というのは間違ってないと思いますよ.
一撃離脱専用零戦
(嘘)
【質問】
それは,零戦は操縦性が悪かったってこと?
【回答】
いいえ,むしろ練習機からの乗り換えも比較的楽な,操縦性に優れた飛行機でした.
零戦はどんなパイロットが乗ってもそれなりに動く機体だったそうです.
雷電や紫電改のように「恐ろしい,乗りにくい,操縦性が悪い」という評判がでなっかたそうですから,
詳しくは朝日ソノラマの文庫本に雷電について書かれた本がありますので参照にして下さい.
しかし,名パイロットであっても機体の能力以上のことはできません.
空戦方法に一番の問題があったのではないでしょうか.
しかしながら,操縦性がいいというのと格闘戦ができるというのは全くの別問題でしょう.
格闘戦の技能はどう考えても「職人芸」です.
つまり格闘戦に特化した零戦は,やはり職人芸ヒコーキと言わざるを得ないでしょう.
降下限界の低さから一撃離脱戦法に切り替えるのも無理があったでしょうし,やはりパイロットも込みで戦力になる戦闘用の航空機としては問題があると思います.
坂井三郎が言うには
「零戦は,非常に離着陸がやりやすく操縦しやすい機体なので,技量の低いパイロットでも飛ばせた」
これが,Me109 とかだと大変.
日本では非常に扱いにくかったという評判の雷電が,アメリカのテストでは扱いやすく飛ばしやすいと評価されているくらいから, 重くて操縦性の悪いアメリカの機体に比べれば,日本の機体は,とんでもなく操縦しやすかったということだね.
そもそも十二試艦戦の設計要項項目の中にも,「離着陸が容易のこと」と書いてあるし.
【質問】
零戦には弱点はなかったの?
【回答】
零戦の弱点としては……
*武装が貧弱
20mmは初速が遅く携行弾数が少なく,副武装の7.7mmは威力不足.
登場時点で並み,太平洋戦争がはじまった時点では並み以下.
*防弾無し
要求仕様になかったのと非力なエンジンのせいで実施する余裕なし.
*横転性能が悪い
旋回性能を重視して大面積の補助翼を採用した事,主翼の剛性不足により,零戦の最大速度付近では事実上,横転操作が不可能.
(従って零戦の優れた格闘戦能力は低中速域のみ)
*急降下性能が悪い
連合軍機の後ろについてもダイブで逃げられると零戦は追尾できない.
逆に零戦がダイブで不利な状況を脱しようとしてもそれが出来ない.
*無線機が使えない(これは零戦だけではない)
無線は積んでいただノイズばかりで役に立たず,重量軽減の為に降ろし,アンテナをノコギリで切った逸話があり.
単機格闘戦から編隊戦闘に移行した第二次大戦では,空中無線電話の果たす役割は大きい,
日本の場合はこれに逆行している.
上記弱点を補うべく改造型も作られたらが,エンジンの出力増加が伴わず,改造する毎に重くなるばかりで,初期の素晴らしい格闘性能は,後期型になる程失われていきます.
最後には,
「零戦もこんなになったか」
と,生き残りの熟練搭乗員に嘆かれる事になりました.
上記の弱点の他に,軍の格闘戦重視思考が足を引っ張っています.
高速を利して,遠距離から13mm機銃を束にして(6−8丁)弾を撃ち込んでくる米英軍に対し,我が国は格闘戦で相手の後ろについて,20mm機銃を名人芸的に撃ち込んで戦おうとしました.
これでは勝負になりません.
我が国は小回りの利き,小型のエンジンで,防弾,通信等の安全装備を犠牲にしました.
米英軍は高速安定性,大型のエンジン(我が国の倍),搭乗員保護生還性の確保を行いました.
この差に加え,生産性,定期的な休養を与える乗員管理,救難体制の充実などが大きな差となっています.
円錐状の尾部,
これでもかっちゅうくらいある軽め穴等.
軍部に量産コスト(主に人件費)という意識がどれほどあったのかも疑問です.
ちなみに,我が国とアメリカの乗用車の設計思想に似たところがあるような気がします.
最近はそうでもないけど<安全装備.
ただし,零戦の欠点と言われるモノはすべて「ないものねだり」です.
大馬力エンジンもないのに,高速高搭載量重防御は望めません.
陸攻を守るのには随伴する戦闘機が必要で,攻撃機に比べれば戦闘機の「防御」についての要求度は下がります.
高空性能が悪いのは,栄を作った中島のせいですが,オクタン価の低い燃料では圧縮比もブーストも上げられません.与圧室技術もなかったし重いです.
零戦のポイントは「1000馬力エンジンを搭載して極限までの運動生,航続距離,速度(F-4Fより速い),搭載量(20mmx2@`7.7mmx2は立派)」という点です.
2000馬力級の欧米機と比較するのは酷です.
非力なエンジンとそれをおいそれと向上出来ない日本の国力では,「零戦」は,当時の日本が得られる最良の戦闘機でした.
だからといって「それを世界」の戦闘機と比較すると,最良の戦闘機であったかは別問題です.
零戦は日本が生んだ名機ですが,同時に日本の限界を示した機体でもあります.
【質問】
零戦は軽量化のために防弾が皆無だったそうですが,開き直ってもっと重量を減らすことはできなかったのでしょうか?
そうすれば運動性は更に向上したのではないのでしょうか?
【回答】
もとからギリギリでした.
だって飛行テストで急降下したら,主翼もげて空中分解したんですよ.
あれ以上軽量化(それこそ肉抜きと言うべき)してたらまともに飛行できないでしょう.
急降下以前に普通に高速飛行してるだけで主翼がグワングワン歪んでますし.
軍事板
【質問】
零戦には大幅改良の余地がなかったの?
それとも日本の改良の度合いが足りないだけ?
ドイツだったら大戦末期には零戦85型丁とか平気で造ってたのかな?
【回答】
まず,零戦の仕様は海軍の要求から始まりました.
エンジンは現実的選択で栄に決定.
逆に機体は誉の性能をフルに引き出すべく,空気抵抗の低減と機体の軽量化を徹底的にやりました.
ちょっと大げさに褒めれば,当時の日本の工業力の限度以上とも言える性能を得たのです.
しかし徹底的な軽量化をされた機体なので,強度やバランスの問題から大型,大出力のエンジンは載せようがないのです.
そういったエンジンを載せるのなら,機体を強化したり改造するよりも,一から別の機体を作るのが普通な選択なのです.
そもそも,日本は小さく大出力で実用的なエンジンの開発ができませんでしたが.
一方Bf109は,強度等の余裕が大きく,エンジンもいいのが生産運用できたので,どんどん大出力化できました.
最初の零戦とBf109を比べると,零戦の航続距離は大雑把に3倍程度のはず.
(海軍がそう要求したから)
零戦は艦載機として設計されたというのも.艦載機だとどういったハンデを負わされるかはここでは略.
運用目的そのものが大違いというのも.
キルロイ ◆dtIofpVHHg in 軍事板
初期のBf109Bと後期のG型じゃ,エンジン出力が倍も違うし,武装も格段にグレードアップされている.
当初,680馬力7.92ミリ機銃×2の機体が,最後には13ミリ機銃×2 + 30ミリ×1
or 20ミリ×2(+状況に応じて手翼下にガンパック)加えて与圧コクピットと2000馬力エンジン積んでるんだ.
ほとんど別の機体と言っても過言じゃない.
でもゼロ戦は,エンジン出力も武装ほとんど変わっていない.最後まで1000級馬力エンジンだった.
機体の改良で重量増加してる割には,エンジン出力の増加がそれほどでもないので,出力重量比で見ると,ほとんど変わってない.
機体云々より,日本の技術でマトモな大出力エンジン作れなかったのが痛い.
雷電/紫電の開発・製造がもっとスムーズに行けば19年には交替できたかもしれないので,やむをえないのかもしれないが…….
軍事板
【質問】
零戦の性能向上としては,どんなことが試みられたの?
【回答】
零戦はわずか1000PSのエンジン出力であれもこれもと欲張りすぎたため,性能向上が難しかったともいわれています.
事実,初期の零戦2号戦(11型と21型)が一番航続距離も長く,離陸速度と着陸速度も一番低く操縦性も一番高かったそうです.
3号戦(32型と22型)の32型は横転速度の改善とスピード,急降下制限速度の改善をねらいましたが,航続距離が30%減ったため,ガタルカナルの作戦に有効に使用することができず,航続距離を伸ばすため22型ができました.
しかし32型の特長は無くなってしまいました.
5号戦(各種52型)は集合排気管をロケット排気管に改め速度と上昇性能は向上しましたが,運動性はさらに落ちました.丙型は重くなりすぎて最悪だったそうです.
64型はエンジンを金星に換装し性能も大幅に向上しましたが生産準備中に終戦になりました.
「零戦は,機体の防弾の要求が無かったので世界の一流機になれた」
と言っているパイロットも多くいます.
でも,1000PSクラスの戦闘機では最高の飛行機であると思います.2000PSクラスの戦闘機に充分対抗することができたのですから.
零戦は長く使用されすぎたのではないでしょうか.
後続機の烈風が後一年早くできていたら,雷電が一年早く実用になれば,紫電改が一年早く量産されれば,名機として引退できたのにと思います.
日本の航空エンジンの実力が低いため後続機ができるのが遅くなりすぎて残念だと思います.
零戦はつまるところレーサー的存在だったんだと思う.
それもフォーミュラカー.
商品化をまったく考えていないから,発展余裕も何も必要ない,
レギュレーション内で最大の性能を引き出すことに傾注されているフォーミュラカー.
絶対性能で零戦が劣った(当時として)存在だったとは思わないけど,何よりもまず工業製品である軍用装備ではやっちゃいけない設計手法だったとは思うね.
むろん,これは設計局の責ではなく,当時の日本の技術力を無視した軍側の要求にあったことは明白なんだけど.
2000psクラスエンジンにしても,まともに量産できなかったというよりも一切量産できなかった,というべきか...
例のハ45も,私としては2000psに届かなかった2000psエンジンというよりもむしろカリカリチューンでなんとか1800psを絞り出した1300psクラスエンジン,と見なしています.
そう考えると結局最後まで手なずけられなかったのも納得...
町工場でレース用のチューンド・エンジンを作って,それを乗用車に載せて日常利用,維持管理...悪夢です^^;
結局,零戦に限らず日本の軍用機はどこかレーシングカーのイメージがあるんですよね.先鋭化したチューンで無理矢理スペックだけ出す,っていう....
そうでもしない限り,工業先進国の「工業製品」に対抗するスペックを絞り出せなかった,というのがあるわけですが.というよりもスペックで並び,追い越すことだけに気を取られ,基礎となる技術についに無理解なままであった軍部..
それを象徴するのが零戦でありハ45であったように思う.
【余談】
凄いのは零戦100型(written by 志茂田景樹).
10番目の機体にエンジン無しという物凄さ!
……何も考えてないことが容易に想像できて悲しい…
【質問】
レーシングカーを戦場に送り出すような設計は,失敗と言えるんじゃないの?
【回答】
それは結局は軍中央の戦略・戦術思想の問題だから,どうしようもないと思います.
ドイツに影響されて総力戦思想を語る人は多かったけど,第一次大戦を体験してないので真の理解はしていなかったということでしょう.
そのため,戦略思想としては短期決戦,戦術思想としては格闘戦を念頭においていた.
根本が間違っていたのだから,現場の一技術者がいくら優秀でもどうしようもない.
ただ,戦略が短期決戦ならば戦争全体をそれにあわせて設計すべきであったのであり,それができなかったのが敗北の原因.
【質問】
零戦のエンジンを「金星」へ換装することは考えられなかったの?
【回答】
金星60系という1500馬力級の出現は18-19年だし,堀越チームは多忙でそれどころじゃなかったようだ.
実際,金星は直径1218mmで単座戦闘機用としては手頃――戦前はともかく,戦時中ならむしろ小さい部類――だったので,金星装備の打診は金星出現後すぐにあって堀越技師も賛成だったんだけれど断わったそうだ.
堀越氏の回想では1年以上早く出す事も可能だったとか.
エンジンを金星にして,武装を20mm×2に押さえれば,重量,出力ともにバランスが回復でき,結構有望だったとの事ですが・・・
三菱は戦闘機設計グループが堀越チームしかなかったので,零戦改造,雷電開発,17試艦戦開発で全く余裕がなかったらしい.
これが中島だったら設計をする余裕があったんだろうね.
また,昭和17年では航続距離の要求が高かったし,改造するにしても栄30系が有力候補だった.
さらに,上述のように各種戦闘機が開発中で,零戦の改造では中途半端だと思われていた.
栄が31型で打ち止めになったのに対し,金星が60型まで進化したことと,Bf109等の同時期に出現した戦闘機の搭載エンジンの出力推移を考えると,やはり金星を選ぶべきだったのだろう.
【質問】
金星エンジン搭載型の零戦の性能は良かったの?
【回答】
碇氏の『飛燕』に,金星搭載の零戦と5式戦の性能比較の記述があった.
エンジンは同じで全備重量は5式戦の方が重いのに,速度・上昇力・上昇限度とも5式戦が優り,格闘性でも劣らず,急降下では大きく差をつけられたと書いていた.
空力設計の点で5式戦が優ることを意味しているが,同時に陸軍機が海軍機ほどさまざまな制約(要求)を受けなかった点も大きいそうだ.
陸軍がともかくも1〜5式戦と毎年新しい戦闘機を登場させたのに,海軍はほとんど零戦の後継機を出せなかった,としめくくっていた.
また,”大いなる零戦の栄光と苦悩・第五巻”によると,五四丙型/六四型の性能は五式戦と比べ最高速度が7〜17Km/h劣ったが,上昇力,実用上昇限度,航続力は同等またはやや勝り,火力は同等,ということらしいです.
ちなみにこの本によると,誉発動機の不調で公称データより低い性能しか出せない紫電改より,金星発動機を載せた零戦のほうが性能が良かった可能性があるそうです.
【質問】
零戦四二型って実在したんですか?
【回答】
俺の聞いた話では
「別に『シニ』が縁起が悪いから避けて通った訳ではない」
みたいな事が書いてあったが,どっちにしろ「四二型」が存在したとする資料は今のところ見当たらない.
計画案として42型があったという説もあるらしい.
二一型の武装強化型として,四一型が存在していたとする説も最近はある.
【質問】
現在 エンジン載せ替え無しで飛べるゼロ戦って存在します?
アメリカにあるって聞いたんですけど.
【回答】
100%当時のままでフライアブルな機体は存在しない
「プレーンズ・オブ・フェイム」の零戦はオリジナル栄エンジンを謳っているが,米航空法に準拠させるためかなりの改造を受けている.
そもそも,セルモーター付きって・・・・
軍事板
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