浜歩き 第1日 第2日 第3日  第4日 第5日 
 
▲ 訪歩 ▲ 松浦武四郎追蹤・北海道の浜歩き ▲ 2007年8月 ▲

カモメを友としながら

波打ち際をひたすら歩く
行程
 8月6日、フェリーにて敦賀から苫小牧へ
 8月7日、苫小牧から紋別へ/紋別〜興部・雄武を単独で下見
 8月8日、雄武〜小向のコース下見
 8月9日、天候不良につき滞留/紋別〜サロマ湖を単独で下見
 8月10日、浜歩き第1日=雄武川口〜沙留川口〜思沙留川口
 8月11日、浜歩き第2日=思沙留川口〜渚滑川口〜シブノツナイ湖口
 8月12日、浜歩き第3日=シブノツナイ湖口〜湧別川口〜サロマ湖口
 8月13日、オムサロ遺跡を単独で見学/サロマ湖右岸〜能取湖下見
 8月14日、浜歩き第4日=サロマ湖左岸〜常呂川口〜能取湖口左岸
 8月15日、浜歩き第5日=美岬オンネナイ〜能取岬
 8月16日、滞留/渚滑・上古丹などで花観察
 8月17日、武四郎の渚滑川最終到達点などを調査
 8月18日、単独で紋別〜枝幸〜クッチャロ湖を回る
 8月19日、単独で浮島湿原見学・黒岳登山/平取まで移動
 8月20日、白老まで移動/ポロト自然休養林〜洞爺湖畔〜武四郎坂〜苫小牧
 8月21日、フェリーにて苫小牧から敦賀へ

雄武川から能取岬(写真)までの砂浜を歩いた
 本年2月松浦武四郎記念館に於いて「松浦武四郎追蹤/北海道の浜歩きU」と題する講演があった。講師は今回の相棒の良さん。良さんは過去2回北海道の浜歩きをされていてこの時は2回目の報告会であった。講演の終わりに彼は「どなたか次回一緒に歩きませんか」と呼びかけられた。かねて松浦武四郎追蹤の旅をしたいと思っていたので何の躊躇もなく「連れて行ってください」と名乗ったのであった。
 かくて2人の浜歩きは実行に移されることとなったが、宿泊所の手配や資料作りは良さんまかせとなり、私のしたことといえば行き帰りのフェリーの手配をしただけであった。飛行機ではなくフェリーで渡道したのは、浜歩きの「行きはよいよい、帰りは困る」ので、車2台を出発地と到着地に配し尺取り虫の要領で移動するためである。
 さて浜歩きの地誌学的な研究は研究は彼に委せて、私は武四郎の『扈従日誌』に記された安政3年の旅を追慕・検証しつつ歩くことにする。
 武四郎はオホーツク海岸を弘化3年(1846)、安政3年(1856)、安政5年(1858)の3回歩いている。その詳細はそれぞれ『再航蝦夷日誌』『扈従日誌』(『廻浦日誌』とも)『戊午日誌』に記されている。このうち安政3年(丙辰)の旅は、蝦夷地再直轄の幕命を受け松前藩からの蝦夷地請取に赴く向山源太夫に手付として付き従ったもので、その記録が丙辰の『扈従日誌』である。『扈従日誌』は『按西扈従』(箱館から宗谷)、『按北扈従』(樺太)、『按西(北海岸)按東扈従』の三部からなっている。それぞれ「扈従」の名が付いているのは向山源太夫に付き従ったからであるが、向山は樺太で病に倒れ宗谷まで 引き返したところで不帰の客となってしまった。厳密にいうと「扈従」ではないが、向山の死は秘されて請取の旅は続けられた。
 武四郎に与えられた用務は新道開拓の見込みをつけることであったから第1部、第2部は地理・地形調査が中心で探検的記述もあるが、第3部は それに加え、土地の人々の苦しい生活状況、強制労働の実態、老人・病者の状態と扶養の必要をルポルタージュの方法をもって念入りに書き取っている。特に集落ごとに人別を過去の調査と現在の状況をつきあわせているのは驚嘆に値する。人口の減損は何に 起因するのか、それを武四郎は為政者に問いかけている。当時武四郎は箱館奉行配下の一下吏に過ぎなかったが、蝦夷地政策は何を根幹とすべきかを持っていたのである。 

洞爺湖畔の武四郎坂
紋別の街

紋別山から紋別の街を見下ろす(良さん提供)

紋別港から紋別山を仰ぐ
 
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