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<民博の群像>次代を担う(4)映像人類学、新たな境地2008/06/25配信
梅棹に電話で呼び出されて文部省の食堂に出向いたのは1974年の春だった。民博はその年の6月に創設、77年11月に開館する。創設準備が大詰めを迎えていた。 「この食堂には、うまいもんがなくてなあ」と言いながら大森に昼食を勧めた。頼んだのが親子丼。味は忘れた。「新しい博物館をつくるんや。手伝ってほしい」。梅棹の勧誘に驚いたからだ。 梅棹は「世界に類例のない博物館」づくりに躍起だった。「ビデオテーク」もそのひとつ。ビデオ映像で民族の今を紹介する試みだ。「映像は金食い虫」との文部省の抵抗を押し切った。フランスで映像人類学を研究する大森は「ぜひ欲しい」人材だった。 立教を出て、明治の大学院で民族学を専攻。だが、大学紛争で研究どころではない。大森は70年、フランスに留学。民族学の博士号を取った。ヨーロッパの流浪の民「マヌーシュ」を追ううちに「映像の記録が不可欠」と気付き、民族誌映画学の泰斗、ジャン・ルーシュに師事した。梅棹に誘われたころは留学中。76年に民博の助手になった。 民族文化研究部長などを歴任して民博を「映像博物館」に育てるのに貢献する一方、映像作品は内外で評価されている。総合研究大学院大学(総研大)でも創設から映像を教え続け、多くの院生を指導したが、映像人類学を専門にする院生は現れなかった。 一番弟子が村尾静二だ。2000年4月に総研大に入学、大森が指導教官になった。同志社を出て早稲田で映画史と映画理論、千葉大で人類学の修士を取り、博士課程は民博の総研大へ。「映像人類学を学ぶには大森先生しかいなかった」と村尾は言う。 民博伝統のフィールドワークの場所はインドネシア・スマトラ島を選んだ。学生時代に放浪の旅で訪ね、惹(ひ)かれていた。西部の山中にあるイスラム教の村。神秘的な雰囲気の場所だった。村尾は約2年間、通い詰める。 スマトラ島西部は世界最大規模の母系社会だ。家の実権や財産は祖母から母へ、娘へと伝わるが、男には男の世界があり、自負や誇りを培う慣習や儀礼が息づいている。 男は大人も若者もイスラムの礼拝所に集まって教義を学び、「達人」と呼ぶ熟練者の指導で護身術を修行する。マレー文化圏で広く行われている身体技法で、村の周辺では「シレ」と呼んでいる。 「映像を撮らせてください」と頼むと、達人は「撮ってごらん」と言った。だが、撮影は難しかった。日常生活の所作そのものが修行なのだ。村尾は「内面を撮ろう」と思い、一緒に修行した。 身体の使い方を丹念に追っていくと、そこに独特の時間や空間の使い方があることが分かってくる。もちろん、宗教実践とも不可分一体だ。やがて、こうした所作を静かに続ける人々の姿に、伝統的な社会を形作る精神の伝承が見えてきたように感じた。 村尾は村での調査研究を民族誌映画と論文にまとめ、07年に日本で初めて映像人類学で博士号を取得、神奈川県葉山町の総研大の葉山高等研究センターで上級研究員になった。そこで今、映像を活用したユニークなプロジェクトが動き出している。=敬称略 (編集委員 中沢義則)
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