謎宮会 1998/8

『忍法相伝73』で驚け

ヘレン・ケラ一

チーズの肉トロ大好きな山田風太郎が書いた「風太郎忍法帖」の中で最も入手困難な作品と言えば、週刊誌連載のまま単行本化されていない『忍法創世記』を別にすると、『忍法相伝73』だというのは常識である。

この『忍法相伝73』は平成の現在、半ば伝説化した作品となっている。曰く、

こうした噂がまた噂を呼び、謎はまた謎を呼び、 俺の頭の中は『忍法相伝73』で一杯になり、来る日も来る日も『忍法相伝73』のことを考え、この幻の書をいつか読む日を夢見てこれまでの人生を生きてきた。

一度俺はこの『忍法相伝73』では痛い思いをしてる。 美しかった大学時代、美しかった俺は早稲田の古本市に行った。 俺が美しく古本を漁っていると、早稲田大学の知り合いに出会った。 「やは」「ども」てな感じで挨拶をした後にそいつの手にした本の束に目を走らせるや、そこにはあの幻の『忍法相伝73』があった。

その時の俺の態度が決して美しくなかったことは認める。 俺は『忍法相伝73』欲しさに、たまたま持っていたボアロー・ナルスジャックの『私のすべては一人の男』と交換しませんかとまで哀願したのである(実はその時既に俺は『私のすべては一人の男』は買って読んでた。たまたま見つけて何の気なしに持ってただけだった)。 無論相手が承知するものでもなく、そいつは俺の『忍法相伝73』(あれは絶対に俺が手にするべきものであった)を持っていってしまった。

そんな因縁の『忍法相伝73』である。 風太郎が最悪の評価をしてることなぞどうでもよかった。 山田風太郎の自作に対する評価が実に当てにならないことは有名である。 大傑作『風来忍法帖』に「B」をつけてるかと思えば、 大して面白くもない『笑い陰陽師』に「A」をつけてるし、 『妖異金瓶梅』の中でも異色の傑作『銭鬼』を何故かカットしてしまう。 全然信用が置けない。読んでみなけりゃ分からない。 この俺に『忍法相伝73』を読ませてくれ。俺は『忍法相伝73』が読みたいんだ。 読まなきゃ死ねない。読まなきゃ死んじゃう。

俺は事ある毎に人々にそう語った。この「事ある毎」というのはつまり 「酒飲む毎」ということなのだが、そんなある日の酒席でこの俺に 救いの手を差し延べてくれてひとがいた。S氏は豊富な読書量(原書で 海外のミステリをパカスカ読む)と博識(ミステリ以外の本もパカスカ 読む)を誇り、その上で山田風太郎をこよなく愛する(図書館にコピー代 をパカスカ注ぎ込んで『忍法創世記』を読んだ)強者である。

「ホントに読みたいかア」氏は思わせ振りにニタニタと笑いながら 念を押した、「あれはつまんねえぞオ」

読みたいッス。

「そんなら貸してやるよ」それから何日かして氏は『忍法相伝73』、 そしてそれに加え高木彬光との幻の合作長篇『悪霊の群』、 それと高木彬光が山田風太郎と一緒にヨーロッパを旅行した際の 下らないエピソードを綴ったイイカンゲンな旅行記(題名は忘れた) をニタニタしたまま貸してくれた。

憧れの『忍法相伝73』。読んで驚いた。面白くない。死ぬほどつまらん。 たまげた。腰が抜けた。山田風太郎がつまらん小説を書くとは。これまで 読んだ山田風太郎は全部が全部面白かった。出来がいいとは言えない作品 ですら決してつまらなくはなかった。しかしこの『忍法相伝73』。 何の取り柄もない。読んでて楽しくも何ともない。最初読み始めて 「つまらん」とか思ってたら、読み進むにつれて更に加速度をつけて つまらなくなっていく。退屈だ。いや退屈を通り越して苦痛だ。 そもそも作者にやる気がない。投げちょる。「早いトコこんな仕事片づけ てチーズの肉トロで一杯やりたい」というパッショネイトが行間から 迸ってくる。その癖して妙に長いのは何故だ。早く終われ。チーズの 肉トロ、食いたくないのか。

S氏も指摘してるとおり、確かに本作は風太郎が忍法帖を書くことに 倦んでいた時期に書かれたものだ。それにしたってこのグチョグチョ 振りは何ぞや。一貫したストーリーもなく、出てくる忍法は何の役 にも立たず(この忍法たるや、殆どヤケクソで思いついたような デタラメな代物ばかり)、一見意味ありげで実は何の意味もないエセ 哲学だけが延々と繰り返される。大島渚か。そういえば大島渚は 『棺の中の悦楽』を映画化してた。つまらん映画だったが。 おまけにラストなぞまるで落語である。いや落語と言っては 落語に申し訳ない。駄洒落だ。愚洒落だ。あんまり唐突過ぎて 最初は意味が分からなかったほどだ。 最後は駄洒落でオトすか。笑い声にも力が入らん。徒労感。

これは恥部だ。山田風太郎の隠された恥部だ。これでは再刊しない 筈だ。PどころかZだ。あの小説の天才、小説を書くために生まれて きたような山田風太郎がこんなスッポコピーを書いていたとは。 恥部。中山美穂にとっての『毎度おさわがせします』、常盤 貴子にとっての『悪魔のKISS』とも言うべきか。いや違うぞ。 中山美穂や常盤貴子の乳は見て楽しいが、 これは楽しくもなんともないもん。俺は感動にウチ震えた。あの 天才の恥部を見てしまったのだ。嬉しい。楽しくも何ともないが、 嬉しい。そして俺は思った、やはり俺はあの早稲田の古本市で、 何としてでもこれを手に入れるべきだったのだと。手に入れて、 読んで、そして何年後かに「『忍法相伝73』、読みたいっス」 などと口走るケツの青いバカに出会ったなら、その時はニタニタ しながら「ホントに読みたいかア。つまんねえぞオ」と言って 貸してやりたかった、それが俺の本来あるべき人生だったのだと。

え? 『悪霊の群』はどうだったかって? つまんないさ、当然。 結局三冊の中でいちばん面白かったのは高木彬光のイイカゲンな 旅行記だったもん。題名忘れたけど。

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