2008年6月28日 (土曜日)

同じ話をするということ

今夜もお通夜です。続きます。

  

お通夜の場では、お経のあと、ご遺族や参列の皆さんに「法話」をしなくてはならないのですが、限られた時間、色んな年齢層で価値観も宗教も違う皆様が集まっている前で、何をどんな言葉や表現でお伝えしたらいいのか……いつも悩みます。

  

人前でお伝えするために、常日頃から色んな本を読んだり、日常で出会う場面で感じたことを大切にしたり、友との語らいの中でヒントを見つけたり、色々とやってみるのですが、なかなか慣れません。本番前は焦ります(苦笑)

 

哀しみのどん底にいる遺族の方を前に、「したり顔」で話す袈裟姿の自分に「違和感」すら覚える時もあります。でも結局、いつも同じような話をしています。

  

ある先輩坊さんに

「話の内容は同じでも良いのだ、その内容を、話しをしている自分自身が聴くのだ」

と言われたことがあります。
その日、その時、その瞬間には、その時々の空気や場面があるわけで、聞く人も違う。だから、全く同じ話になるということはなく、話す自分自身も絶えず変化している。 その場面場面の中でお伝えしたいことを話し、その内容を自分にも味わい確認していく……

仏教の教えを語るのは「芸」じゃないから、同じ話であっても、そこで伝えようとしている「教え」の中味を、繰り返し巻き返し聴くのだ、ということ。

  

 

さ、30分前だ。行って来よう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月26日 (木曜日)

不安な漢字

  

意識しないと、「読み間違えてしまうかも?」

と一瞬不安になる「漢字」がある事に気づいた。それは、

・鞄(カバン)

・靴(クツ)

・・・・・いや、読めますよcoldsweats01

読めるんですけど、でも、な~~~~んか、不安。

  

さ、今度は、

読み仮名をつけないで読んでみよう。

  

・鞄

・靴

 

うぅぅ・・・やっぱりなんか不安だ。wobbly

| | コメント (3) | トラックバック (0)

葬式坊主の溜め息

ヒマになりたい。

以前は、「個人的な休み」が欲しくてそう思っていた。(いや、今もそうなのだけどさ(苦笑))

でも、今は、
お寺に繋がる人達と、じっくりゆっくりテイネイに向かい合う時間の為に、ヒマになりたい。

例えば、
法事に伺うご家庭とか、
大切な家族を失った人とか、
仏教を学ぶ為に集まってくださった皆さんとか、

そういう方達を前に、

「すみません、次の法事の時間が迫ってますんで、失礼します」

「すみません、お通夜に行かなきゃならないので、ここで失礼します」

「すみません、枕経が入ってしまいましたので、またゆっくり来ますね」


………仕方ないこととはいえ、坊さんが忙しそうにアクセクしてるのはカッチョ悪い。今までは、忙しくて時間に追われていても、そんな素振りを見せないように振る舞うようにしてきたが、最近、その余裕もない場面が増えてきた。

僕はその場を立ち去りたくない気持ちを抑えながら、「次の場」へと向かう。

「あらぁ、坊さんは忙しくて結構だねぇ…」
なんて皮肉を背中に受けてしまう場合も。


そんなスケジュールをひたすらこなす日々。


だから、
ヒマになりたい。
お寺に繋がる人達と、じっくりゆっくりテイネイに向かい合う為に……。


重なる葬儀の日々の中、あの方の死と、この方の死がゴッチャになった瞬間。

一つ一つの大切さや重さをゴッチャにしてしまった自分の甘さに溜め息が出た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年6月24日 (火曜日)

批判いろいろ

 ・「お寺との接点は、葬式・法事ばかり、実際、何をしてくれるのですか?」

 ・「シュウキョウなんかで救われるのですか?」

 ・「今まで親の世代のジジババは何となく因習に乗っかってやってたけど、俺らの世代になったら、お前ら坊主なんて相手にされないし、通用しないよ

 

 以上は、ここ最近会った人達からワタクシに投げかけられた言葉の内容の数々をまとめたものである。 

 批判も、皮肉も、僕や坊さんに対する「愛のムチ」と捕らえ、真摯に受け止めさせていただく。

  

 ところで、

 批判も皮肉も、

 (1)きちんと批判する相手を「取材」したり、「勉強」した上で出てくるもの

 と、

 (2)漠然としたイメージや、好みや、思いこみの世界から導き出されるもの

 がある。 

 意見を言う人が(1)なのか(2)なのかは、その人の話の内容を吟味すればすぐに分かる。

 そして、(2)の人とは、たぶんずっと分かり合えないだろうな・・・というアキラメを感じる。 なぜならば、(2)の人は、「自信満々」だし、「善人」だし、「常識人」であるし、「評論家」である場合が多いから。(だからこそ、きちんと勉強してなくても相手に意見を言えてしまうのだ。つまらん。)

 

 だから、僕は、(2)のような批判ならビビらないようになった。

 

  

 僕は、思う。

  「葬式でしか接点がない」からこそ、その「葬儀」という場で、僕は、仏教の中味を「表現」させていただく。亡き人の「死」を通じて、「生」を学ばせていただく。 そこから、やがてお寺への「ご縁」が生まれる方もいるのだ。だから、「葬儀」という接点を、その後のキッカケへなるように大切にする。

 

  「次世代には、相手にもされず、通用もしなくなる」というならば、変な言い方だけど、その相手にされなくなった時点でケツをまくればいい。「世襲制」は俺の代で終るつもりだ。「今」をキッチリ積み上げるしか考えられないから。寺の「未来」などどうでもいい。ホネのある「次世代人」が、やりたいなら、受けて立てばよい。

 

 そして、「救い」とは何なのか?

 単純に自分の都合(エゴ)が叶う事ではなく、釈尊の教えを学びながら、自分の都合を「基軸」にしてしかモノを見れていない自分に先ず気づくのだ。そして、そんな自分自身を確認しながら、成長させていただく、その歩みの中にあるのだ。 

 ある意味、苦しみなんてなくならない。悩みなんて消えない。

 喜び、哀しみ、山あり谷ありの人生を、今、現在、こうして、くじけずに、歩けていること、いや、歩かせていただいていること。歩いていく道がみつかること・・・そこを「救い」と言わずして、どこにそれがあるのか?

 自分の現状の不満を、占いやら、方角やら、日の良し悪しやら、オーラやら、前世やら、先祖やら、霊などの責任に押しつけて、右往左往してフラフラしなくてもいい歩みを、僕は仏教から学んできた。

 そんな自分の、頼りなくも一歩一歩の歩み、そのものが愛しい。

 そして、同じ道を往く「仲間」が愛しい。

 同じ道を往く仲間は、(1)の批判を真っ直ぐにくれる人。

 僕を、現状に座り込ませず、育ててくれる人。 

 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月23日 (月曜日)

完敗

食事の時間。


まず、父がむせた。激しく咳き込んでいる。「またか〜 いつも食事の時、そうなるよなぁ…」と僕は呆れる。


しばらくすると、
次に、母がむせた。激しく咳き込んでいる。「あぁ、賑やかだなぁ。むせるのは我が家の飯時恒例のセレモニーか!?」 と僕は呆れる。

しかし、
そのあと、
僕もむせた。激しく咳き込んでしまった。先ほど両親を呆れた自分が恥ずかしくて、なんとか態勢を立て直そうと頑張るが、一向に咳は止まらず、僕は涙目になりながら、咳き込み続ける。


でも、両親はそんな僕の姿を見ても呆れてはいない。むしろ、心配してくれる……

ハイ、
僕の完敗(^_^;)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年6月19日 (木曜日)

オールナイトニッポン40周年記念 ドリームコンサート

昨日(6月18日)は、札幌・厚生年金会館での

「オールナイトニッポン40周年記念 ドリームコンサート」

に行ってきた。

出演する9人のアーティストの中には、我が師匠・みのや雅彦の名前も。

行こうか行くまいか当日まで迷っていたが、午後のお参りの予定がキャンセルになり、「時間的にまだ間に合う!!」という事が判明。

「最近、師匠の歌うとこ見てないなぁ・・・」と思いながら、カーラジオで師匠のラジオ番組を聴いてたら「当日券あります」と言っているのを耳にしたら、

もう~~~、いてもたってもいられなくなり、

急遽、札幌に車を走らせていた!!!

師匠のCDを聴きながら運転をしていたら、あっという間に札幌に着いてた。

さっそく「当日券」を買おうとならんでいると、見知らぬご婦人が「主人が急に来れなくなったので……」と声をかけてくれたので、チケットをその人から買った。 だから幸運にも、当日券よりも前方の席に座ることができた。

20080619164059

あと、会場入口前にいたら、久しぶりに会うファン仲間の方と会えて、話せて嬉しかった。

このコンサートの9人の出演者は、宇崎竜童・山本潤子・尾崎亜美・ばんばひろふみ・中村中・原田真二・細坪基佳・クミコ、そしてみのや雅彦師匠。

  

午後6時半の開演時間。喜瀬ひろしアナの司会で、出演者が順番に登場。

師匠が現われた!会場からは「みのや!!」という声援が飛ぶ。みんなで師匠を盛り上げようという雰囲気。僕も周囲の目をはばからず、大きな拍手を贈った。

出演者全員で、「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌い、まずトップバッターに師匠が紹介される。  

やはり師匠がトップバッターか・・・。やはり「知名度」の問題か・・・。

僕の中に、室蘭で4月に行ったコンサートでの「前座」の場面が蘇る。《4月の当ブログ「オープニングアクト」を参照(http://minoyamakono.way-nifty.com/tomo/2008/04/post_5b7a.html)》

でも、今回のコンサートは、室蘭の時とは違った。師匠は「出演者の1人」だった。

  

たしかに、会場にはビックネーム目当てのお客さんが多数だっただろう。でも、師匠は、そんな予備知識のない観客も含めた会場を引き込んで、MCで笑わせ、「笑えないピエロ」と「夢しかなかった」をキッチリ歌い上げた。

この「オールナイトニッポンドリームコンサート」の為に編制されたバックバンドの演奏が、他の出演歌手にはサポートされていたけど、師匠はいつも通りの「ギター1本スタイル」だった。

そう、

ギター1本スタイル。

札幌ローグでの「マンスリーライブ」に通ってた頃。月に1度、師匠の歌を聴けることが楽しみだった。ギター1本でシンプルなのに、その剥き出しの声が、歌詞が、メロディーが、師匠の人生ドラマを伝えてくれた。バックバンドなんかなくたって、迫力・気迫が僕にビンビン伝わり、「人生を喰らう・噛み締める」というみのや雅彦の「生身の姿」を見せてくれた。

そんな師匠のライブをいつも「少人数」で独占していた。懐かしいなぁ・・。

  

今。

すっかりSTVラジオの「昼の顔」になった師匠は、北海道内でも「あの頃」のような位置にいなくなった。ライブも減って、ラジオ番組でもあまり歌わなくなったから、「生の歌声」を聴くことが貴重になった。

だからこそ、昨日のコンサートでの2曲は、ものすごく僕の胸に響いた。何度も聞き慣れた曲なのに、その時間の密度がものすごく濃かった。

小さなライブハウスも、

ウチのお寺でコンサートをしていただいたときも、

そして、

昨日の札幌厚生年金会館の大ホールも、

師匠の「姿勢」は「同じ」だった。

  

だから、 

やっぱり師匠は、すごい。

いつでも、「そのまま」の師匠で勝負しているから。

どんな場面でもゴマカシなく、ひたむきに歌うその姿は、

(お馴染みの大ヒット曲をチラッと歌い出せば、観衆みんながウットリ、納得するビックネームの出演者も、もちろんスゴイとは思うけど・・・・)

20年以上、師匠の「ストーリー」を見てきた僕にとって、昨日の出演者の中で、師匠は、一番カッチョよく、輝いていた。

 

 

  

「ドリームコンサート」という名の通り、9人の出演者が2曲ないし3曲を披露した豪華なコンサート・・・・。師匠のあとに8人を立て続けに、しかも「有名な曲」ばかりを聴いてたら、ちょっとお腹いっぱいって感じ(笑)。

宇崎竜堂さんが最後を閉め、その後、9人全員が再びステージに登場。山本潤子さんが中心になり「翼をください」を歌い終了。

最後に着ていた師匠のノースリーブの衣装・・・、俺、同じの持ってます(笑)

  

 

そういうわけで、

昨日、

札幌まで行って良かった。

次はいつ、師匠の歌に逢えるだろうか・・・・。

20080618180738

| | コメント (5) | トラックバック (0)

«仕切り直し