事件は時代を映す鏡といいます。映し出された二〇〇八年上半期の時代と社会はどんな姿を描いていますか。私たちはそこから何を学ぶべきでしょうか。
イタリア在住の作家塩野七生さんが、二十世紀末の日本の置かれた状況を司馬遼太郎さんの作品を引用してこう言っています。
「『坂の上の雲』を目標にひたすら登ってきて、いざたどりついて雲を見たら−」
敗戦からはい上がり、経済を旗印に突き進んできた日本は、どこに到達したのでしょうか。
「坂の上」に着いたが
「遠くからは白くてきれいに見えた雲はただの霧で、どこに着いたのかさえ見当がつかない。そんな時に不況が襲ってきた。霧の中でこの先どう歩んでいけばいいのか、まるで見えない」
指摘があってほぼ十年。霧は晴れるどころか、人々の困惑とともにますます深まっているように見えます。あるいは日本は、すでに「坂の上」からずり落ちてしまっているのかもしれません。
そんな社会を象徴するかのような事件事故や出来事が、この半年間に相次ぎました。
一月、千葉、兵庫両県の三家族十人が中国製冷凍ギョーザを食べて中毒症状を訴え、ギョーザなどから有機リン系農薬を検出。
二月、千葉県の房総半島沖で海上自衛隊のイージス艦と漁船が衝突し、漁船の親子二人が行方不明(死亡認定)。後に監視を怠ったとして当直士官二人を書類送検。
三月、茨城県土浦市のJR駅構内などで殺人の指名手配男(24)が刃物で通行人ら八人を殺傷。
四月、東京地検がインサイダー取引で野村証券社員らを逮捕。
五月、食品表示偽装に続き、客の食べ残しの使い回しが発覚した料亭「船場吉兆」が廃業。
六月、東京・秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込んだ派遣社員男(25)がナイフを振るい、七人を殺害、十人を負傷させて逮捕。
こうして月ごとに主なニュースを拾い上げていくうちに、気が付いたことが二つあります。
一つは、プロの堕落です。日本の安全を守るべき自衛官がずさんな安全管理をし、野村証券社員はあってはならぬ立場の悪用です。放送前に入手した外食産業の提携ニュースをもとに株を売買したNHKの記者もいました。老舗料亭はもてなしの心を忘れ、金もうけに走りました。
日本の社会を支えてきた職業人のプロ意識や責任感はどこへ行ったのでしょう。
「誰でもいい」の衝撃
もう一つは、何の落ち度もない人に危害を加える無差別事件が目立ったことです。土浦、秋葉原の両殺傷事件の容疑者は、いずれも「誰でもよかった」と供述しています。JR岡山駅ホームで県職員を突き落として殺した十八歳の少年も同じことを言いました。中国製ギョーザ事件も、不特定の消費者を狙った事件といえます。
秋葉原の事件では、携帯電話サイトに書き込まれた容疑者の殺人予告から犯行に至るまでの「実況中継」が活字メディアに公開され、各方面に波紋を広げました。
人はこれほど簡単に自らを破滅させ、他者の未来まで奪えるものなのでしょうか。この時代に何が起きているのでしょう。
事件の背景として過酷で不安定な派遣労働を指摘する見方があります。ある派遣社員は「人として扱われなければ、他人も人に見えなくなる」と語ったといいます。
容疑者の強い孤独感も見逃せません。家庭、地域、職場などの共同体が崩れ、人間関係の希薄化が進んでいます。容疑者が携帯サイトで殺人計画を予告しても返信はなく、ネット依存で心はますます乾き劣化していきました。
少し離れてみると、一連の事件には通底するものがあります。市場原理による競争社会がもたらした経済利益至上主義の負の側面とでも呼べばいいでしょうか。
グローバル化や自己責任という名の下に、ワーキングプア、新貧困層が増え、格差が拡大しています。年間自殺者が十年連続で三万人を超したのも生きづらい世の中の表れでしょう。投機資金の流入で原油や食料が高騰し、生活への影響も出始めています。
「美しき停滞」の道も
司馬遼太郎さんが戦後五十年(一九九五年)の対談でこう話しています。「日本のいわゆる発展は終わりで、あとはよき停滞、美しき停滞ができるかどうか」
今の日本を見たら、こんなふうに言うかもしれません。「停滞ではなく、後退ではないか」
行き過ぎの自由競争は社会不安をもたらします。今は足元を固めてこれから踏み出す道を見つける時ではありませんか。「美しき停滞」とは成熟のことだと信じて。
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